2013年11月27日 公開
2022年12月19日 更新
《『歴史街道』2013年12月号[総力特集]千利休 より》
千利休は大永2年、堺の商人・田中与兵衛の子(幼名・与四郎)として生まれました。祖父は、足利将軍家に近侍する同朋で千阿弥といい、その名をとって千姓を名乗ります。
利休の生家は塩魚を商う魚問屋であったといわれます。しかし千家は、武野紹鴎やその娘婿の今井宗久、あるいは津田宗達・宗及父子などの豪商と比べれば、規模の小さな商人でした。有力商人である「会合衆」でもありません。いまの感覚でいえば、中小企業といったところでしょうか。ですから利休は、「名物」茶道具をごくわずかしか持っていませんでした。
当時の堺で茶の湯は、社交の手段としても、愉しみとしても、富の1つの表現としても、色々な意味で最高級の文化でした。
利休がどのようにお茶を学んだのか、確かなところはわかりません。17歳の頃に北向道陳から書院の茶を学び、19歳の頃から武野紹鴎に師事したといわれますが、それも史料で確認することはできません。
ただ、紹鴎が利休だけは特別扱いした、などという伝説は数多く残っています。
利休は、19歳で父親を亡くしますから、家業もそんなに楽ではなかったはずですが、若い頃から茶の湯の才能で名を上げていきます。若くして目利きで、道具の使い方で人をあっと驚かせるような、独創的で才気の燦めきが感じられる人物だったのでしょう。
利休は3人の茶頭の1人として織田信長に取り立てられました。他の2人は今井宗久、津田宗及という堺の大商人であり、茶の湯プラス経済力で取り立てられたといっていいでしょう。これに対して利休は、やはり茶の湯の才能で取り立てられたのだと思います。
利休が信長の茶頭になるのは、50歳を過ぎてからです。40代のある時期は、堺の町で逼塞していたという話も伝わります。利休は、才気溢れ、激しさも持ち合わせた天才的な人物だったと思われますから、何らかのトラブルに巻き込まれることもあったのでしょう。しかし、40代の終わりまでには、堺屈指の茶人という評価が定着していたと思われます。そして利休は、50歳を過ぎて信長の茶頭になった後も、その地位に甘んじることなく、茶の湯の道を深めてゆきます。
じつは、いま残っている利休の茶の湯のほとんどは、利休が60歳を超えてからの10年間に創り出したものです。天才とは年齢と関係なく独創的な人のことでしょう。とくに60歳を過ぎて自己否定して新たなスタイルを創り出せる利休のような人は、本当の天才ではないでしょうか。
信長時代から、利休と豊臣秀吉が親しい関係だったことは、当時の手紙からもわかっています。秀吉もお茶に興味がありましたし、秀吉から見て、一介の町人から権力の中枢に入ってきた利休は自分の境遇と似ており、面白い存在だったのだと思います。
利休から見れば、秀吉はよきパトロンでした。ただし、パトロンでありながら利休は秀吉の言いなりにはなっていません。アーティストとパトロンの間にある種の緊張感がありてこそ、素晴らしい芸術は生まれます。そういう意味では、利休と秀吉とは、いい関係だったといっていいでしょう。
秀吉を補佐した弟・秀長が「内々の儀は宗易(利休)、公儀のことは宰相(秀長)存じ候」と述べたといわれるほどの地位を、秀吉の政権の中で利休は占めていました。各々も自らの家臣団を率いている武将たちとは違って、茶頭は常に主君の側近くに仕える立場です。今のイメージでいえば、一種の側近秘書のような役割をも果たしたのでしょう。そして秀吉も、利休の言うことにはちゃんと耳を傾けたのです。
それほど利休を信頼していたにもかかわらず、秀吉は天正19年(1591)2月、利休に切腹を命じます。それは下剋上を凍結しなければならなかったからだと、私は思います。
最初は秀吉も、己の才覚一つで茶の湯の世界を変えていく利休を面白がりましたが、自分が頂点に立ったとたんに、その危うさに気づいたのではないでしょうか。下剋上を終わらせなければ自分がひっくり返ってしまう、と。しかし、利休は妥協しようとはしません。遂に秀吉は、利休の切腹によって「文化の下剋上はこれで終わり」だということを示したのです。
天正19年1月に、秀吉を支えていた秀長が死んだことも大きかったと思います。これが秀吉自身を孤独にし、また裸の王様にしてしまったのでしょう。
若いときにはやりたいことがたくさんあるけれども、実力が伴わないから実現できない。ある程度実現できる歳になると、今度は気力が落ちていて保守的になってしまう…。それが凡人の常ですが、利休は守りに入らずに、常に高みを目指した人でした。芸術家として、実に見事な生き方だと思います。
常に高みを目指しているが故に、利休はとても厳しく、怖い存在でもあったようです。
弟子であった高山右近は利休のお茶に行くとなると、緊張のあまり顔つきが変わったといわれています。また、福島正則も、「自分はこれまでどんな強敵にも怯むことはなかったが、利休を前にすると、どうも臆したように覚えた]と言ったといいます。
秀吉と馬が合うぐらいですから、利休は秀吉以上に鋭い、それこそカミソリのような切れ味の頭脳と感性を持った人でもあったでしょう。一方で、クライアントがコロッと参ってしまうような人蕩しの魅力がなければ芸術家は大成しませんが、利休はそのカも兼ね備えていました。しかし、利休は自分の芸術を犠牲にしてまでクライアントに阿ることはしませんでした。卓越した才能をすべて自分の芸術に注ぎ込み、自らの信じる茶の湯の道を突き進んだのです。
<掲載誌紹介>
<読みどころ>「おもてなし」――。オリンピック招致活動でこの言葉が使われたこともあり、今、日本人が伝統の中で育んできた心に、改めて注目が集まっています。その時に忘れてはならない人物こそが、千利休でしょう。もし利休が茶の湯を大成していなければ、日本の「おもてなし」はよほど違っていたのかもしれません。茶の湯というと現代人は細かい作法を連想しがちですが、お茶の要諦はそれではありません。亭主は客に対して精一杯の心を込めて接し、客もまた亭主の心づくしを感じて喜ぶ。そんな互いが相手を思いやるところから、本物の「おもてなし」が生まれてきます。利休は茶の湯で何を目指したのか、そして私たちが見直すべき日本人の心とは何かを探ります。第二特集はQ&A日本海軍艦艇入門です。
更新:11月23日 00:05