歴史街道 » 本誌関連記事 » 評価が180度変わった? 福井で見えた、隠れた名将「朝倉義景」の手腕

評価が180度変わった? 福井で見えた、隠れた名将「朝倉義景」の手腕

2024年03月04日 公開

歴史街道編集部

一乗谷川
↑一乗谷を流れる一乗谷川

いまから450年ほど前の天正元年(1573)、越前の戦国大名・朝倉義景は織田信長によって攻め滅ぼされ、その本拠の一乗谷も灰燼に帰した。だが研究の進展により、義景と一乗谷については、知られざる側面が次々と明らかとなってきている。

その一端に触れるべく、2022年オープンした福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館を編集部が訪ねた。(写真撮影:近戸秀夫)

 

天下に一番近い三人

朝倉館跡の唐門
↑一乗谷朝倉氏遺跡にある朝倉館跡の唐門

朝倉義景が滅び、その本拠である一乗谷が焼き討ちされてから、450年の月日が流れた。「織田信長に敗れた武将」との印象が強い義景だが、そのイメージに隠された歴史の真実があるのではないか......。

2022年、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館が開館したこともあり、最新研究から見える朝倉義景と一乗谷の姿に触れてみたいと、編集部が現地へと向かった。

今回は、一乗谷朝倉氏遺跡博物館の学芸員・石川美咲さんが、朝倉義景と一乗谷について解説してくださるとのことで、何とも心強い。失礼な質問かもしれないと悩みつつも、思い切って「義景って、凡将のように見られがちですが、実際はどうだったんでしょうか」と投げかけてみる。

すると石川さんから、「最近の研究では、評価は180度、変わりつつあります」と、力強い答えが返ってきた。

 「そもそも、朝倉氏5代100年の歴史を切り開いた初代・朝倉孝景は、応仁の乱で活躍し、越前国から敵対する守護勢力を追い出し、自らが国主となった人物でした。そんな彼は、京都の人々から『天下一の極悪人』と呼ばれていたんです」

ところが、5代目の義景の時代となると、真逆の評価が浮かび上がってくるそうだ。

「『多聞院日記』という当時の史料によると、義景が亡くなる年の正月に、三河のある僧侶の夢に聖徳太子が出てきて、次のようなことを言ったそうです。

『今、天下を治めるに足る人物は三人いる。朝倉義景はこれを望むも、その器用がなく、成し遂げられない。武田信玄は無慈悲なので、成し遂げられない。残るは織田信長ただひとりである』

つまり、天下に一番近い三人のうちのひとりとして、義景は認識されていたわけです」

当時の「天下」といえば、日本列島全体というよりも、京都を中心とする日本を指したが、「天下一の極悪人」と呼ばれた先祖から一転して、義景は「天下を治めるに足る人物」として期待を寄せられる存在となったわけだ。

「義景が凡将とみられがちな要因として、武田信玄から非難されたことも挙げられますよね」と石川さんは語る。

武田信玄は元亀3年(1572)12月、三方ケ原の戦いで、徳川・織田連合軍に勝利するが、連携して信長の本拠・美濃を攻めることになっていた義景が越前に帰国したと知り、痛烈に難じた。たしかに、その事実からは、時局を見る目に欠けているようにみられてもおかしくはない。

「けれども、戦国最強軍団を率いた信玄が共闘相手として選んだのは、信長でも家康でもなく、義景だったという事実は、注目すべきではないでしょうか」

石川さんの言う通り、信玄が組もうとした相手だったと考えると、義景の存在は大きいと考えねばならないだろう。

 

列島を俯瞰する外交

しかしなぜ、義景はそれほどまでに、戦国時代において存在感を発揮できたのだろうか。石川さんは義景の「外交戦略家」としての面に注目しているそうだ。

「義景の外交は、『列島を俯瞰する外交』というべきものでした。

たとえば、武田信玄と上杉謙信が川中島で激しく戦った永禄4年(1561)、義景はそれと時を同じくして、一万の大軍を率いて、越前海岸で犬追物という馬上から犬を射る催しをしています。

従来、この犬追物については、義景の文化的な趣味が高じて行なわれたと捉えられていました。ところが研究の進展によって、別の側面が浮かび上がってきています。

義景は当時、上杉謙信と同盟関係にありました。そのため、信玄と結ぶ加賀の一向一揆が上杉領を攻撃しようものなら、朝倉がただでは置かないぞ、という軍事的アピールとして、犬追物を挙行したと考えられるようになってきているのです。実際に義景は、川中島に陣僧を派遣して、戦局を把握しようともしています」

武田信玄と上杉謙信の名勝負の裏で、義景が軍事的な行動をとっていたとは驚きだが、仮に義景が犬追物を行なっていなければ、謙信は加賀の一向一揆に備えなければならず、川中島合戦は信玄有利に進んでいたかもしれない......そんな考えも浮かんでくる。

しかし、義景の外交戦略はそれにとどまらない。

「義景は、北は出羽の安東氏、南は薩摩の島津氏とも通好し、国を富ませようと考えていました。安東氏との交流は、日本海交易の拡大を目指したものでしょうし、島津氏に対しては、『琉球貿易に参入したいので、便宜を図ってほしい』と交渉をもちかけています」

しかも、義景の書状には、交渉を円滑に運ぼうという意図がうかがえるという。それを示すのが、常陸江戸崎城の領主・土岐治英にあてた書状だ。

「この書状は、本紙の上下に折り目をつける『横内折』と呼ばれる独特な折り方がなされています」

石川さんによると、この折り方は東国で流行した、いわば東国限定のものだという。ところが義景は、わざわざこの折り方を採用して、土岐氏とやり取りをしようとしたのである。

北から南へと視野の広い外交を展開する一方で、気配りも怠らない。たしかにその視野の広さは、「列島を俯瞰する外交」と称するにふさわしい。

「義景には、海外への志向性も見て取れます」

そう言って、石川さんはある展示資料について教えてくれた。それは、ガラスの破片だ。朝倉館の庭園近くの井戸から出土したもので、表面に突起帯のある特徴的な形状と成分組成から、イタリアのベネチアで生産されたゴブレット(脚付酒杯)の一部だと判明したという。

「義景の海外への眼差しが感じられ、彼が求め続けた夢の欠片のように思えるのです」

ゴブレットに注がれた酒をたしなみながら、交易で国を富ませることに想いを馳せる......。織田信長を描いた映像作品に登場しそうなシーンだが、実は義景も、交易による繁栄を目指していたのだ。

 

義景が実現した一乗谷の栄華

朝倉館
↑博物館内に原寸再現された朝倉館

ところで、基本展示室に展示されたゴブレットの近くに、貝殻の塊のようなものがある。これは何だろうか。

「朝倉館の南側から出土した、サザエの貝殻です。サザエは、将軍を目指す足利義昭が越前に訪れた際にも、そのもてなし料理の一品として献じられています」

驚くべきことに、足利義昭をもてなした際の献立が、記録として残っているそうだ。しかも十七献といって、17回にわたって、異なる料理が出されるという豪勢ぶりだ。

では、義昭をもてなしたのはどんな場所だったのかと気になるが、博物館では義昭を迎えた当時の義景の館が、原寸大で再現されている。

会所、花壇、主殿、泉殿、平庭、小座敷、池庭からなるその空間は、厳かでありつつも開放感があって、客人をもてなすには絶好の場所だと感じられる。

実際、もてなしをうけた客人たちは、都に優るとも劣らぬ一乗谷の繁栄ぶりを歌に詠んだそうだ。そうした栄華を実現したという点で、やはり義景の手腕は見直されるべきだろう。

また、一乗谷の繁栄を語るうえで欠かせないのが、「阿波賀」という地区だ。

「博物館が立つ一帯の地区は、かつて阿波賀とよばれ、足羽川の水運を利用した川湊があったと考えられているんです」

船着場の周りには倉庫や商店が立ち並んで市場も開かれるなど、大いににぎわい、京都からやってきた公家も、阿波賀に見物に訪れるほどだったという。

博物館には、その一端とみられる遺構も展示されている。石敷遺構といって、博物館建設当時の発掘調査で見つかった戦国時代の遺構を、掘り出したままの姿で公開しているのだ。

石敷遺構
↑石敷遺構

この石敷遺構は、長さ38メートル、幅5.6メートルという大規模なもので、川を横断するように土が盛られ、その上に川原石が敷き詰められている。

ここは、阿波賀の船着場として使われていたとする説や、川を横断してお寺参りをするための参道だったとする見方があるそうだ。

博物館建設のタイミングで発掘されたというのも驚きだが、戦国時代にここを人が歩いて渡っていたかと思うと、当時の一乗谷の活気が目に浮かんでくるようだ。

ほかにも館内には、石川さんが「特に好きです」とおすすめする一乗谷の街並みを再現したジオラマもある。商人や職人たちも交えた城下町の活気あふれる空気感が伝わってくる。

一乗谷の城下町のジオラマ
↑一乗谷の城下町のジオラマ

そのジオラマをじっくりと見ていると、何やら銭束を埋めようとする人の姿が見える。不測の事態に備えて、目につかないところに保管しようとしたのだろうか。

一乗谷からは、朝倉氏滅亡時に埋められたとみられる備蓄銭が発掘されているそうだ。

繁栄の最中にあった一乗谷の人々は、信長と戦うために出陣した義景が敗れ、一乗谷が灰燼に帰するとは思いもよらなかっただろう。乱世でなければ、一乗谷は義景のもとで、より一層、繁栄を謳歌していたのかもしれない。

さて、博物館を実際に訪ねようという方は、ぜひあわせて、一乗谷朝倉氏遺跡も歩いてみてほしい。それも、先に博物館を見学してから、遺跡をめぐるといいだろう。

というのも、博物館のジオラマや遺跡からの発掘品などを先に見ておくと、遺跡を歩きながら、より一層、戦国時代の一乗谷がイメージしやすいからだ。

たとえば、遺跡の中央にある朝倉館跡に足を運び、そこで博物館で再現された朝倉館を思い浮かべると、この場所で政を行なっていた義景の姿が、人それぞれに想起されることだろう。

またそれ以外の場所でも、職人が物をつくる姿や、行き交う人々でにぎわう街並みが、脳裏に浮かんでくるに違いない。

石川さんは、「戦国時代は、現代人と直接繫がる最初の『過去』だと思います。戦国時代に最も近い場所、それが一乗谷なのです」と語る。その言葉に大きく頷きながら、一乗谷を後にしたのであった。

一乗谷朝倉氏遺跡の復原町並↑一乗谷朝倉氏遺跡の復原町並 

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館へのアクセス
【電車】●JR福井駅から越美北線で15分。「一乗谷駅」で下車し、徒歩 3分
【バス】●京福バス「福井駅西口」⑤番のりばから62系統(一乗谷東郷線)で25分
   ●朝倉・永平寺ダイレクトバスで、「福井駅東口」②番乗り場から16分、
    永平寺「一休前」3番乗り場から24分
    ※所要時間は道路の混雑状況により変動します
【自動車】●北陸自動車道「福井IC」から国道158号線を大野方面へ。約10分
   ●東海北陸自動車道「白鳥西IC」から国道158号線を
    福井方面へ。約60分
※詳しい情報やアクセスは、「一乗谷朝倉氏遺跡ポータル」をご参照ください

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館

歴史街道 購入

2024年5月号

歴史街道 2024年5月号

発売日:2024年04月06日
価格(税込):840円

関連記事

編集部のおすすめ

蘆名義広~伊達政宗に敗れた男、 流転の末に角館に小京都を築く

鷹橋忍(作家)

信長を追い詰めた“戦国の雄”朝倉五代と一乗谷の真実

吉川永青(作家)

巨大城郭に大天守…結城秀康ゆかりの地・福井市にみる「高度な防衛構想」

歴史街道編集部
×