帰雲城址碑(岐阜県大野郡白川村)
戦国時代、白川郷の豊富な鉱物資源、そして鉄炮火薬に不可欠の塩硝を、天下人や武将たちが虎視眈々と狙っていた……。
舞台として取り上げられることが少ない飛彈国の戦国史を、いま話題の『天離(あまさか)り果つる国』(PHP研究所)の著者が解説する。
高き山々が重畳と連なる飛驒国と、平野部が広くて木曽三川に代表される水系の地の美濃国を、対比して「飛山濃水」という。現在は岐阜県の北部と南部だが、近代以前に遡れば気候風土も生活も人気もまったく異なる。
わけても飛驒国は魔境だった。二つの顔と四本の手を持つ両面宿儺という怪物が飛驒国にいて、ヤマト朝廷より派遣された和珥武振熊がこれを退治するという話が、『日本書紀』に出てくる。
律令時代、日本の国々は戸口や田地などを基準に大・上・中・下の四等級に分けられ、『延喜式』によれば、最下級の下国は、離島の淡路・隠岐・壱岐・対馬に和泉・伊賀・志摩・伊豆、そして飛驒の九ケ国。中央政府からの政治犯の配流地でもあった飛驒は、下国の中でもさらに下位の下々国とされた。
「天離る」という枕詞がある。「日」や「鄙」にかかり、中央から遠く離れた辺土へ不本意ながら赴任する官人が、都暮らしを懐かしむ歌を詠むときによく用いた。だから「天」は、そのまま「天」や「空」を表すだけでなく、「都」の譬喩でもあるという。
また、「鄙」は「日無」の意で、日の御子すなわち天子がおわさぬところである、と。万葉の歌人として有名な大伴家持が、等級としては中国の越中国へ守として赴任したときも、「天離る」と嘆いている。下々国の飛驒国ともなれば、都人にとって絶望の地だったのかもしれない。
すべては、地勢に起因する。
3,000メートル級の岳々の屹立する飛驒山脈と、2,700メートル超えの白山を主峰とする両白山地に、東西から挟まれた600〜1,000メートルの高地というのが、飛驒国なのだ。
全土が険岨な上、寒冷期が長くて豪雪に見舞われるので、他国との交流に難儀する。道路整備のされていない時代では、なおさらのことだった。
南の隣国の美濃が、日本の東西をつなぐ要衝で、壬申の乱以来、美濃を制する者は天下を制するといわれた大国であったのと、雲泥の差というほかあるまい。
戦国時代においても、後世に知られる人物や事象は、国境を接する周辺国では枚挙に暇がない。美濃は、斎藤道三亡きあと、織田信長が天下布武への最初の拠点とした。
東の信濃は武田信玄と上杉謙信の激突の地で、北の越中では国人・土豪衆が上杉との攻防に明け暮れて、最後は織田の介入を余儀なくされた。
西の加賀は、一向一揆による「百姓の持ちたる国」がおよそ百年続き、越前も信長に侵略されるまでは、朝倉氏五代にわたる盤石の重みを誇った。
飛驒にそうした特筆すべき戦国史がないのも、軍馬の容易な往来を阻む厳しい地勢ゆえだったといえよう。
といって、争乱と無縁だったわけではない。南飛では、守護の京極氏を滅亡へ追いやった被官の三木氏が擡頭し、飛驒国司家の姉小路氏を僭称する。北飛でも、国人の江馬氏が勢力を伸ばした。
両雄は、時に従って武田・上杉・斎藤・織田ら周囲の大勢力に通じ、和戦を繰り返しながら互いを討滅する機会を窺いつづけて、戦国末期を迎える。他の飛驒衆もいずれかについた。
そういう状況下で、三木にも江馬にも属さず、ひとり超然としていた武家がいる。
氏を内ケ嶋という。
飛驒の地生えではない。武蔵国内ケ嶋(埼玉県深谷市)の出身で、武蔵七党の豪族猪俣氏の流れを汲む者であるらしい。内ケ嶋為氏が飛驒白川郷へ入ったのは、応仁の乱以前のことで、兄弟間の争いに敗れて流されたともいわれる。
照蓮寺(はじめは正蓮寺)を中心とする浄土真宗の教えが浸透し、武家勢力の下風に立つことを拒む白川郷で、為氏は当初、門徒衆と干戈を交えたが、やがて当時の本願寺法主蓮如と和睦する。内ケ嶋と照蓮寺は姻戚となり、以後は武門と仏門が争いを起こすこともなく、信長から上洛を促す書状が届くまで80年余り、ほぼ平穏な日々を送った。
超然としていられたのは、白川郷が山国の飛驒の中でも、さらに深山幽谷の秘境だったからだ。合掌造りの観光地として有名になる以前、昭和の敗戦後、随分と経っても通交に危険を伴う土地だったという事実をみれば、戦国期では地の涯と思われていたに違いない。
では、白川郷は貧しかったのか。米の収穫の多寡のみで量れば、極貧だったろう。ところが、足利八代将軍義政の銀閣寺造営にさいし、内ケ嶋が多額の献金をしたという話が伝わっている。信長に服するときも同様に黄金を持参した、とも。
実は、飛驒国は鉱山の国でもあり、内ケ嶋領内にも六つの金山とひとつの銀山が存在したらしいのだ。これらを採掘していたとすれば、白川郷は貧しいどころか、むしろ豊かだったのではないか。
また、白川郷と同じ真宗の文化圏だった越中五箇山は、火薬の原料となる塩硝を製造し、江戸時代を通じて加賀藩に納めつづけ、質、量ともに天下随一といわれた。五箇山ほどの規模ではないが、白川郷でも塩硝造りは盛んだった。
両地の塩硝製造は、戦国時代の末から行われていたとみるのが自然だ。織田に対抗しうる大量の鉄炮を保有した本願寺が、五箇山と白川郷を火薬原料の供給源としたであろうことは、想像に難くない。製造は敵対勢力に実態を知られぬよう、できる限り秘密裏に行われたはずで、それには天離る五箇山と白川郷は好適地だったのだ。
山津波の跡が残る帰雲山
金銀と塩硝を手に入れることのできる白川郷に、近隣の戦国武将が食指を動かさなかったとは考えにくい。むろん周辺国の戦乱がおさまらないうちは、遥けし地の白川郷の奪取は難しかったろう。信長の死後、織田政権を簒奪してのし上がった豊臣秀吉は、それを実現可能にする環境を整えた。
当時の内ケ嶋当主の氏理は、織田に服して以来、越中支配の佐々成政の麾下であり、成政が秀吉に敵対しても立場を変えずにいた。
また、本能寺の変後に江馬を滅ぼして、白川郷を除く飛驒国を平定した三木も、成政に従った。そして、成政が降伏し、三木も秀吉の命を奉じた金森長近に攻略されてから、氏理は長近の本陣へ謝罪に赴いて軍門に降る。
三木は滅亡の憂き目に遭い、当主の自綱は死罪を免れたものの、追放されて京で虚しく没した。ところが、氏理は、敗軍の将にもかかわらず、お咎めなしで、領地も安堵される。庄川に架かる岩瀬橋や、向牧戸城の戦いでは、内ケ嶋勢が金森勢の名のある将を討ち取るなど、激しく抵抗したにもかかわらずだ。
家老の川尻備中守が、早くから氏理を諫めて、心ならずも金森勢の飛驒進軍の道案内に立ったといわれる。これが事実なら、内ケ嶋に対する秀吉の寛大な計らいも理解できないことはない。
しかし、覇者からみれば、吹けば飛ぶようなちっぽけな家だ。一瞬で殲滅してしまうくらい、たやすかったろう。秀吉が内ケ嶋を領民共々そのまま残したのは、白川郷の金銀山の採掘と塩硝造りに慣れた者たちだったからとは考えられないか。
あるいは、氏理のほうが、備中守の言動も含めて、そういう駆け引きをしたのだとすれば、田舎武士に似合わず、存外、強かな男だったといえよう。内ケ嶋がその後も存続したなら、歴史上、面白い存在になりえたと思われる。
天正13年11月29日、西暦では1586年1月18日の夜、内ケ嶋一族・家臣と城下の領民は城と町もろともに失せた。そこに人間の営みがあった微かな痕跡すら留めないほどの巨大な山津波に呑み込まれてしまい、何もかも大地の一部と化したのだ。マグニチュード8.1とされる大地震だった。
内ケ嶋の居城を、帰雲城という。雲が山に当たって帰される。それほどの高地に築かれていたらしい。遺っていれば、日本一の天空の城として話題になり、観光客が押し寄せたことだろう。白川郷の合掌造りの里より少し南へ下った保木脇という地に、戦国のロマンがひっそりと眠っている。
更新:11月22日 00:05