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山口多聞とミッドウェー海戦~稀代の提督が示した「勝利の要諦」とは

2020年06月17日 公開
2023年04月13日 更新

山内昌之(歴史学者/東京大学名誉教授)


 

「稀代の提督」を生んだもの

ミッドウェー海戦での活躍で知られる山口多聞は、極めてバラエティに富んだ魅力を持つ男でした。胆力や決断力、頭脳の冴え、そしてリーダーシップなどを、絶妙のバランスで兼ね備えていたのです。

再び、淵田の言葉を引用しましょう。

「山口少将は勝負度胸も太く、見識も優れ、判断行動ともに機敏であった。私は緒戦の当初から、南雲部隊はこの人が長官となって指揮したら――とひそかに思っていた」

おそらく山口は、官僚や政治家、はたまた学者といった他の職業に就いても成功を収めたはずです。

レオナルド・ダ・ヴィンチを称する際に「ユニバーサルマン(=万能人)」という賛辞がしばしば贈られますが、私は山口にも似たような魅力を感じずにはいられません。

そうした魅力は、天性の資質もさることながら、家庭環境が大きいように思えます。明治25年(1892)、山口は典型的なアッパー・ミドル(中流上層)の家庭に生まれました。父・宗義は日本銀行の理事、2人の叔父はそれぞれ学習院院長と工学博士となっています。

宗義は旧松江藩士として明治維新を体験した人物で、読書家で武道にも通じ、実に教育熱心な父親でした。「昭和の古武士」のような多聞の風格と典雅 <てんが> さは、宗義の影響によるものでしょう。

加えて「稀代の提督」を生んだものとして、経済的に余裕があり、家庭が円満であったことも大きかったように思えます。そうした一家団欒のなかで伸び伸びと育ったからこそ、真摯に仕事に取り組む父の姿に、素直に尊敬心や感謝の念を抱くことができたのです。現代では遺憾にも忘れられがちですが、山口家のように父が範を垂れる家庭で子どもが育つことは非常に大切です。このように、日本の伝統を大切にする素晴らしい家庭の中で育ったからこそ、秀才でありながら明朗闊達に成長し、自然と将器を身につけていったのです。

さて、山口は日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎に憧れ、海軍兵学校、さらに少佐時代に海軍大学校へと進みます。ここで山口が身につけたものが、合理的な物の見方でした。 海軍は現在の海上自衛隊もそうですが、徹底的な理工系の世界と言えます。コンパスや分度器、羅針盤を用いて巨大な艦を動かすのですから、力学はじめ物理学、数学、幾何学は必須です。山口もまた、合理主義と理数系の常識を備えた海軍軍人となっていきます。

ただし、スマートな海軍の教育は、反面で荒々しく闘争心に満ちた提督を消し去ってしまったようにも思えます。実際に昭和の海軍軍人を見渡すと、平時では優れたリーダーであっても、ミッドウェー海戦のような修羅場で、胆力のある判断を下せない人物が多かった印象があります。

その点、山口は彼らとは一線を画す存在でした。もって生まれた胆力と、絶え間なき自己鍛錬で、冒頭の司令部への意見具申のように、勇敢かつ想像力に富んだ作戦を可能にしたのです。特に山口は、心身の鍛錬を怠らなかったといいます。中国の古典からカント、デカルトにまで及ぶ読書は格好の知的訓練でした。一方で、ステーキ2枚を豪快に平らげるほどの健啖家でもありました。日々、知力体力ともに鍛え上げていたからこそ、土壇場で迷いなく決断を下すことができたのです。

海軍大学校を卒業した山口は、第一次世界大戦での地中海遠征をはじめ艦隊勤務に励む一方で、プリンストン大学への留学やワシントンの駐在武官、そしてロンドン軍縮会議の随員を務めるなど、着実にキャリアを積んでいきました。
 

身をもって示した「勝利の要諦」

水雷畑にいた山口が航空畑へと転じるのは昭和15年(1940)のことです。翌年、第二航空戦隊司令官として大戦に突入。そして昭和17年6月4日、運命のミッドウェー海戦を迎えました。

冒頭で紹介した通り、山口の鋭い意見具申も空しく、南雲機動部隊は瞬く間に3空母を失い、山口は飛龍1隻で敵空母3隻と相対するという、絶体絶命の状況に陥ります。

しかし、山口はこの修羅場において、即座に次のように言ってのけます。

「我、今より航空戦の指揮を執る」

通常の序列では、先任の第八戦隊司令官・阿部弘毅が南雲忠一から指揮を引き継ぐはずでした。しかし山口は、それをあえて顧慮せず、航空戦の指揮は自らが最適だと瞬時に判断し、弔い合戦を決断したのです。

この時、山口は飛龍飛行隊長・友永丈市ら整列した航空隊員の盃に御神酒を注いで「一段とご苦労だが、全機激突の決意をもって、攻撃へ向かってくれ」という象徴的な訓示を述べています。そして山口の胸中を痛いほどに解っていた友永は、「手前ら、死んでも編隊を崩すんじゃねえぞ」という部下への言葉を残し、まさしく「決死の覚悟」で飛び立ち、見事敵空母ヨークタウンを大破し撃沈に導いたのです。

山口はこうした勝負の局面において、あえて犠牲を伴うことを厭いませんでした。その姿勢は、南雲ら司令部と対照的です。司令部は山口から「即時発進」の意見具申を受けた際も、援護に付けるはずの零戦がミッドゥエー島攻撃に出払っているために、味方の艦攻・艦爆隊を単独で出撃させて、多大な被害に遭うことを恐れました。しかし、結果的には小の犠牲を恐れて逡巡したがために、決定的な大の敗北を喫したのです。

実際には、犠牲を伴わない勝利などありえません。将棋を指す際に、駒を取られないで勝つことが不可能なのと同じで、シビアな命のやり取りの中で、ぎりぎりの計算をして勝利に導くことが指導者の責務なのです。もちろん人一倍に部下を想い、また部下からも慕われていた山口は、人道主義的感覚を十二分に持ち合わせていました。しかしいざ戦いとなれば、それらを封印しなければ勝利や目標に到達できない――山口は同時に、厳しい現実もしっかりと見据えていたのです。この透徹した覚悟こそが、淵田が称した「兵は拙速を尊ぶ」とともに、山口が身をもって示した「勝利の要諦」ではなかったでしょうか。

さらに、山口はただ部下に死地に赴いてくれという、非情な訓示をしたわけではありません。同時に、次のようにも述べています。

「司令官も、あとからいくぞ!」

山口の心は、常に現場の部下たちとともにありました。部下に難題を押し付けるだけでなく、自らも厳しい現実を引き受ける指揮官だったのです。もちろん、訓練に次ぐ訓練で、指揮官の強烈な闘志は、末端にまで浸透していたでしょう。それにしても、山口がこの究極の場面において、決死の攻撃を命じることができ、部下たちも勇躍してそれに臨んだのは、山口自身が「自分も続く」という鮮烈な覚悟と責任感を、持ち合わせていたからに他なりません。

結果、山口は攻撃隊がヨークタウンを撃破した後に、敵の攻撃を受けて大破した飛龍と運命をともにすることとなります。日本海軍にとって大きな不幸であったのは言うまでもありませんが、しかし、その潔い責任の取り方に、もはや語るべき言葉はありません。

振り返れば、山口は実に「眩しい」人生を歩んだ男でした。屈託のない豪快な青年時代から、古武士の如き見事な最期まで、山口の人生は、どの部分を切り取っても眩しく見えます。その眩しさは、成長過程のなかで鍛錬を重ね、冷静な決断力や現実主義、敢闘精神を培い、そうして身につけた「勝利の要諦」を、時を過 <あやま> たずに見事に最大限発揮しえたからだと言えるでしょう。まさしく、「輝ける人生」を自らの力で実現させてみせたのです。翻って現代に目を向けると、時局は混迷を極めています。そんな時代だからこそ、いかにすればこの困難な歴史の局面を突破できるのか、眩しき提督が己の命と引き換えに示した「勝つための教訓」に、いま一度目を向けるべきではないでしょうか。

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