2017年09月17日 公開
2020年09月18日 更新
慶長5年(1600年)9月18日、石田三成の居城、佐和山城が落城しました。三成の兄・正澄や、父・正継、息子・重家、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死または自害して果てました。
関ケ原合戦の翌日9月16日、家康は西軍の中心人物であった石田三成の居城・佐和山城の攻撃を命じます。三成本人はこの時、関ケ原の戦場を脱出し、伊吹山方面に逃亡していました。家康が攻撃を命じた武将は、小早川秀秋をはじめ、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保と、いずれも西軍から寝返った者たちです。寝返った以上、武功を立てて見せろという意味合いでしょうが、皮肉なものです。
攻城軍およそ2万。一方、佐和山城には、三成の兄である石田正澄を主将として、父の正継、三成の息子・重家、そして大坂からの援兵として長谷川宇兵衛守知ら2800が籠もっていましたが、その多くは老兵か若兵でした。 9月17日より佐和山城攻めが始まり、御家安泰のかかる寝返り組は、小早川を筆頭に猛攻をかけます。守備する石田勢の中で一際気を吐いたのが、福島次郎作という老兵でした。弓の名手の福島は、攻め寄せる大軍に次々と矢を命中させ、自分の矢が尽きると、山田嘉十郎の名が刻印された矢を用いて、攻撃を続けました。このため東軍では、城に山田嘉十郎という恐ろしい弓の名手がいると話題になりますが、当の山田はすでに逃亡しており、すべて福島のなせるわざでした。
しかし援兵の長谷川が東軍に寝返るなどしたため、佐和山城の曲輪は本丸を残してすべて陥落し、落城は時間の問題となります。ここに至り、家康は関ケ原で捕らえていた石田家の者を城内に送り、石田隊がすでに壊滅していることを知らせて、降伏勧告しました。三成の父・正継もこれを了解し、石田一族の自刃と引き換えに、城内の者を助命することを条件に、翌日の開城を約束します。
ところが翌日、開城する段になって突如、田中吉政軍が城内に乱入しました。城の将兵は開城を決めていたため戦意に乏しく、田中勢の約束違反の狼藉に呆然とするばかりです。正継は「内府(家康)も念の入ったことよ」とだけつぶやき、一族ともども天守内で自刃を遂げました。この時、土田東雲斎という家臣が、蔵から宝物を敵に投げつけて、敵勢がそれを奪い合う間に、石田一族の自刃の時間を稼いだと伝わります。
また女性たちは、敵の辱めを受けるよりはと、次々に谷から身を投げました。その谷は今も佐和山城内に女郎谷の名で残り、合戦後も谷から、苦しそうな声が聞こえていたといもいわれます。なお三成の息子・重家は捕らえられて、その後、出家して妙心寺に入りました。
東軍の将兵は、豊臣家の五奉行筆頭だった三成の城はさぞ贅をつくし、金銀も豊富にあるだろうと予想していましたが、実際の佐和山城内が極めて質素で、蓄財らしきものもほとんどないことに驚いたといわれます。三成と石田一族の人となりを窺わせます。
更新:11月22日 00:05