2024年01月23日 公開
写真:傳通院の山門
徳川家康を祖父にもち、数えにして僅か7歳で豊臣秀頼のもとに輿入れした千姫。大坂の陣後、彼女は江戸にもどるが、一人の武将との出会いを機に、人生を再び強く歩み始める。桑名市、姫路市、常総市、文京区、岡山市といったゆかりの地から、そのドラマチックな生涯をたどってみよう。今回は、文京区に向かった。
写真:於大の方の墓
文豪・永井荷風は、随筆にこう書いている。
「巴里(パリー)にノオトル・ダアムがある。浅草に観音堂がある。......あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院である」
傳通院(でんづういん)は、そんな郷愁を思わせる町にある。戦災で焼けたものの、墓域は無事で、のちに本堂などが再建された。
東京メトロ・丸の内線の後楽園駅で下車し、春日通りを西へ進む。富坂警察署先の角を右に折れると、伝通院前通りとなり、正面に傳通院の山門が見える。左右に練塀(ねりべい)が広がる、堂々たる総檜(ひのき)造りの門は、都内の喧騒を忘れさせてくれる光景だ。
ここは、徳川家康の母・於大(おだい)の方(法名・傳通院)の菩提寺である。
「浄土宗の有力檀林であった弘経寺(ぐぎょうじ)の僧らが、三河へ赴き、浄土宗を広めました。そのときから、松平家は浄土宗を信仰するようになったといいます。家康公以前からの繫がりがあったのですね」
そう教えてくれたのは、傳通院教化部の小笠原正和さんだ。
「家康公の母堂・傳通院様は、京都の伏見で亡くなりました。葬儀は浄土宗の総本山である知恩院で行なっています。一説に、傳通院様は江戸に葬ってほしいとご遺言されたそうで、そこで家康公は、ご自身の菩提寺である増上寺の観智(かんち)国師に相談しました」
当時、増上寺開山の師僧であった聖冏(しょうげい)上人の遺跡寺院が見る影もなく荒廃しており、その再興に尽力すれば浄土宗に大きな徳を積むことになろう、という国師の助言を受けて、家康は再建を決意、於大の方の菩提寺とした。
寺は台地にある。家康は江戸城から眺め、母を思って手を合わせることもあったのではないだろうか。
「岡崎城から徳川家の菩提寺である大樹寺(だいじゅじ)が見えることは有名ですが、江戸城と傳通院も同じような位置関係にあります」
小笠原さんもそう頷く。
徳川家にとって傳通院は大事な寺で、江戸時代には10万坪の敷地面積をほこったという。江戸切絵図を見ても、寺で学ぶ僧侶たちの学寮が参道に立ち並び、その広さに驚く。
「傳通院が再興されてから、増上寺は徳川家の男寺、傳通院は女寺、と称されました。そのため千姫様が亡くなったときもこちらに墓が建てられたのでしょう」
千姫が亡くなったとき、葬儀は傳通院で営まれ、知恩院の住職が導師を担った。その関係で、知恩院、弘経寺、傳通院の三カ所に墓があるのだ。
「弘経寺さんの墓は調査でお骨が入っていましたから、傳通院の墓は一周忌などの年忌のために造られたのではないかと思われます」
本堂向かって左に於大の方の墓があり、そこからまっすぐ行くと、ひときわ大きい千姫の墓がある。まわりは徳川家ゆかりの墓所となっており、かつては千姫が母親がわりをつとめた甲府藩主・綱重の墓もあったそうだが、のちに増上寺に改葬されたそうだ。
写真:千姫の墓
千姫は浄土宗と深い繫がりがあるという。
徳川家が信仰していたのはもちろんだが、千姫が再婚した本多家もまたそうであった。徳川四天王として誉れ高い本多忠勝が浄土宗の信徒で、千姫の夫・忠刻にとって祖父にあたる。
「千姫様は、多くの困難があった人生でした。幼いころに豊臣方に送られ、戦(いくさ)を経験し、再婚したあとも子どもや夫と死別。そんな波乱のなかでもまっすぐに人生を歩まれたのは、信仰心があったからだと思います。なにかしらのよりどころにしたかったのでしょう」
小笠原さんの言葉を受け、信心深く、情けある千姫の姿が思い浮かぶ。
戦乱の世に生まれ、歴史に翻弄されながらも、自身の道をひたすらに進む千姫の本当の姿を知っていてほしい。
更新:11月21日 00:05