2025年10月21日 公開

昨今、巷に増えている「スイーツ男子」。しかし、幕末維新に活躍した男たちの中にも、甘い物が大好きな者たちがいた。政争や暗殺などが頻発した時代であっても、スイーツをこよなく愛した男たちを紹介しよう。
一般的に甘い物、いわゆるスイーツは、男性よりも女性に好まれることが多いようです。理由や統計を調べたわけではありませんが、その傾向は現代でも、江戸時代でも変わりがありません。
しかしそんな中で、幕末維新期には、実は甘い物が好き、という男性が一定数存在しています。彼らが残した記録から、「幕末スイーツ男子」の実態を探ってみましょう。長州藩の志士・吉田松陰には、禁欲的で堅物というイメージがあります。その印象はあながち間違っておらず、松陰が主宰した松下村塾の門人たちも、自らを厳しく律する師の姿を見て、みな立派な志士に成長しました。
そんな松陰が若い頃、嘉永4年(1851)4月に江戸へ遊学したことがありました。江戸では西洋兵学者の佐久間象山に入門して学ぶなど、研鑽に励んだ松陰でしたが、この遊学中の金銭出入りを記録した、「費用録」という簿冊が現存しています。
ストイックな松陰らしく、毎日の買い物は、「塩」「梅の実」「きゅうり漬け」などといった素朴な食材が多く、それらが「費用録」に細かに書き付けられていました。
しかし、そんな食材の中でひときわ目立っているものがあり、それは「もち」という記述でした。松陰は江戸遊学中に、「もち」を幾度となく購入し、食べているのです。
餅といっても普通の搗いた餅ではなく、現在でいう「大福餅」のことをさしています。そう、松陰は大福餅が好物だったのでした。
たとえば5月には、「二十二日 八文 もち」 「二十五日 二十文 もち」 「二十八日 二十八文 もち」 などと記され、1カ月で合計6回も大福餅を購入しています。一個の単価は4文(約60円)でしたから現代とそれほど変わりませんが、28日には7個も買っていることになります。
この大福餅は現代と同じように、白い餅の中に餡を入れたものでした。味は美味しい上に値段も手頃であったので、当時の人々の間でも広く食べられていた「おやつ」です。ただ求肥を使う現代のものと違い、餅が堅くなるのが早かったので、軽く焼いたものが売られているというようなこともありました。
ともあれ、堅物の松陰が学問の合間の息抜きに、甘くて柔らかい大福餅をほおばっていたというのは、なんとも微笑ましい話ですね。
幕末有数の甘い物好きとして最近評判になったのが、幕臣の伊庭八郎です。旧幕府遊撃隊の隊長として戊辰戦争で激しく戦った伊庭が、戦争が始まる前までは呑気な「グルメ日記」を書いていたというのは、これまた驚きといわざるをえません(詳しくは拙著『幕末武士の京都グルメ日記』〈幻冬舎〉をご参照ください)。
元治元年(1864)1月、将軍徳川家茂の警護のために京都へ上った伊庭は、「征西日記」と称する日記に、もっぱら任務のことよりも、今日は何を見物に行ったとか、何を食べたというような、きわめて日常的な出来事を書いています。
特に目立つのが、武士には似つかわしくない甘い物をよく食べていることです。特に好物であったのが「お汁粉」でした。
「(四月十五日)八つ時過ぎから湊氏の所へ参り、しるこを馳走になった」
この記述を皮切りに、半年の滞京期間のうちに合計5回、伊庭は汁粉を食べています。湊信八郎は同僚で、この日の昼間は二人とも非番だったので、のんびり汁粉を食べたりする余裕があったようです。
汁粉は江戸時代から現在に至るまで、人々に愛されているスイーツ。あずきを砂糖で甘く煮た汁の中に、餅や白玉などを入れる製法は、当時からほとんど変わっていません。伊庭も任務を忘れて、甘ーい汁粉にひたっていたのでしょう。
そのほか、日記の中で注目したいのが、「(三月十六日)三枝氏から菓子鮎をいただいた」とあるところです。同僚の三枝鎌太郎が持参した「菓子鮎」というのは、鮎の形をした菓子のこと。求肥と餡を小麦粉生地で焼いた皮に包み、鮎のような見た目に整えたもので、現在でも「若鮎」などの名で銘菓として愛されています。 魚の鮎は夏の風物詩であり、現代の鮎菓子は鮎漁の解禁に合わせて初夏の菓子として売られることが多いようです。
伊庭がこの鮎菓子を好きであったかまではわからないのですが、求肥と薄皮の絶妙な食感に、ひと足早く夏を感じていたかもしれません。
土佐藩士の坂本龍馬にも、スイーツにまつわる話が伝わっています。龍馬が食べたのは、西洋発祥の甘味である「カステラ」です。
慶応2年(1866)1月、薩長同盟の大仕事をやってのけた龍馬は、薩摩藩から招待されて薩摩国へ旅行することになりました。ちょうど恋人のお龍と結婚を決意した時期のことであったため、この時の二人の旅は、「日本最初の新婚旅行」といわれています。
3月10日に薩摩に着いた龍馬らは、28日には霧島温泉に到着。そこで薩摩藩家老の小松帯刀と再会、翌日、龍馬らが霧島山に登ろうとした際に、小松は弁当代わりにと二人にカステラを渡したのでした。
お龍の回想録「千里駒後日譚」には、このように記されています。
「山は御飯は禁物だからコレを弁当にと小松さんがカステイラの切ったのを呉れました」
山では御飯は禁物というのは、薩摩方面でそんな山岳信仰のようなものが信じられていたのでしょう。龍馬らは小松にいわれるままに、カステラを持って霧島山に登り、キリシマツツジが咲き誇る絶景を満喫したのでした。
おもしろいのは、登山中に食べたカステラの味が忘れられなかったのでしょうか、龍馬はなんと自分の手帳「雄魂姓名録」にカステラ作りのレシピをメモしているのです。
「カステイラ仕様 正味 玉子 百目 うどん 七十目 さとふ 百目 此ヲ合テヤク也」
つまり、玉子100、うどん粉70、砂糖100の割合で材料を混ぜて焼けば、カステラの出来上がりというわけです。この製法では現代の感覚ではややパサつく感じがあるのですが、当時はこういうレシピだったのでしょう。
龍馬がそれを小松に聞いたのか、ほかの詳しい者に聞いたのかはわかりませんが、西洋菓子カステラが気に入った龍馬は、あとで自分でも作ってみようと思ったに違いありません。もしかしたら龍馬の場合は、「甘い物好き」というよりも、「珍しい物好き」というほうが正しかったかもしれませんね。
【山村竜也】
歴史作家。昭和36年(1961)、東京都生まれ。中央大学卒業。歴史作家、時代考証家。NHK大河ドラマ『新選組!』『八重の桜』、NHKBS時代劇『広重ぶるう』『雲霧仁左衛門』などの時代考証を担当。著書に『世界一よくわかる幕末維新』『幕末維新 解剖図鑑』など多数。
更新:10月23日 00:05