2025年10月23日 公開

「白眉」「泣いて馬謖を斬る」。この2つの故事成語は、「三国志」に登場する馬良と馬謖という兄弟に由来するものである。ともに劉備に仕えた2人だが、主君からの評価は差があったようで......。それぞれの実像に迫ってみよう。
※本稿は、『歴史街道』2025年8月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。
三国志で人材を愛した英雄と言えば、真っ先に思い浮かぶのは曹操だろう。
旗揚げした初期段階で人口密度の高い地域に拠点を構え、後漢の献帝を保護下に置いたことで大義名分を得た。
それに加え、真の人材かどうか見抜く力に優れ、能力至上主義で人格を一切問わない広い度量を備えていたのだから、有為の人材が吸い寄せられるように集まってきたのも無理はない。
だが、人材集めは曹操の専売特許ではなく、孫権や劉備も熱心で、江東・江南(長江の下流域)を根拠地とした孫権のもとには、黄河の下流域や徐州一帯から戦乱を逃れてきた賢者たちが集った。
それに対して劉備は、なかなか安定した経済基盤を獲得するに至らなかったが、荊州の劉表に客将として迎えられてようやく、人材集めを本格化させることができた。
荊州で新たに加わった人材としては、武将では魏延と黄忠、文官では三顧の礼で迎えた「臥龍」こと諸葛亮と、「鳳雛」の異名を取った龐統、および馬良と馬謖の馬氏兄弟が挙げられる。
西晋の陳寿によって著わされ、南北朝時代の裴松之により詳細な注釈の付された歴史書の『三国志』によれば、馬良は字(名乗り名)を季常と言い、襄陽郡宜城県の人。5人兄弟がのきなみ優秀の誉れ高く、郷里ではこれを諺にして、「馬氏五常、白眉最良(馬氏の5人兄弟はみな優秀だが、なかでも白い眉が最優秀)」と言った。
ここにある「五常」は兄弟全員、字に「常」がついたからで、白眉とは若くして真っ白な眉毛を有していた4男の馬良を指し、幼常を字とする馬謖は末弟だった。
馬良は、劉備軍団でどのような働きをしたのか。それについて語る前にどうしても言及しておかなければならない問題がある。馬良の3人の兄についてである。
5兄弟がみな優秀と言われたからは夭逝した者はなかったはずだが、『三国志』には3人の兄の肩書はおろか、名前さえ出てこない。
また、馬氏5兄弟の優秀さは「郷里」に知れ渡っていたというが、この郷里は襄陽郡を指しているのか、それとも宜城県を指しているのかもわからない。つまり、郡レベルの名家であったか県レベルの名家であったかによっても違いが生じるわけで、劉表政権下の襄陽城では、名家の人間の去就は以下の4パターンに分かれた。
①劉表政権に参画して何らかの官職につく。
②劉表の賓客として過ごす。
③劉表は仕えるに値しないとして襄陽を去る。
④出仕も退去もせず、仕えるに値する人物の出現を待つ。
諸葛亮と馬良は④の立場にあったわけだが、馬良の兄3人はどうだったのか。長男は家名と土地を相続して、祖霊の祭祀を絶やさず、両親の老後の世話をする責務がついてまわるが、次男と3男はその限りでない。
馬氏が郡レベルの名家ならともかく、県レベルの名家であれば、複数の御曹司を抱え続ける余裕があったかどうか微妙なところ。5兄弟の何代前から襄陽に住み始めたかわからず、父の名も不明な点を考慮するなら、県レベルであった可能性が高い。
自活の道を探る必要があったとするなら、次男と3男は劉表政権に参画しながら大した役職にありつけなかったか、劉表の後継者の劉琮が曹操に降り、青州刺史に任命された際、任地に同行したか、曹操軍の南進に伴う混乱時に死亡または行方知れずになったか、さまざまな理由が考えられる。
何にせよ名前さえ残らなかった理由は定かでなく、現状では謎のままと言う他ない。
話を馬良当人に戻そう。『三国志』の「馬良伝」には、「劉備は荊州を支配すると、召し出して従事とした」とあるから、馬良が劉備に臣従したのは赤壁の戦いの後のこと。馬良が進んで出仕したのではなく、馬良の名声が劉備の耳に届いていたか、推薦する者がいたと読み取ることができる。
最初に与えられた従事という役職は、州の刺史・牧(長官)の属官で、これだけでは極めて優秀ゆえに推薦されたか、絶対的な人手不足ゆえに声を掛けられたのか判断しかねる。
だが、陳寿の本文に詳細な注を付けた裴松之が馬良と諸葛亮の手紙のやり取りから、「馬良はたぶん諸葛亮と義兄弟の契りを結んでいた。あるいは共通の親類があった」と推測しているところから見れば、諸葛亮が馬良を高く評価していたことがうかがえる。
劉備の益州平定後、成都に呼ばれ、左将軍掾に任じられているが、掾は各役所の部局の長。その肩書のもと使者として呉へ赴き、孫権から敬意をもって遇されているから、実務能力に優れ、文筆と弁舌の才能にも秀でていたことは間違いない。
劉備が帝位についた際には皇帝の側に仕え、諮問に答える侍中の職に任じられるなど、劉備からの信頼も篤く、劉備政権を支える重鎮として押しも押されもしない存在となった。
劉備は旗揚げ以来の家来だった関羽の仇討のため呉への親征を開始してまもなく、馬良を深く信頼するがゆえに、五渓蛮のもとに派遣した。五渓蛮とは、現在の湖北省西部から湖南省西部一帯に居住した異民族で、武陵蛮とも呼ばれた。
『三国志』の「先主伝」には、呉軍を恐れる五渓蛮からの要請に応じるべく馬良を派遣したとあるが、実際には五渓蛮からの要請はなく、五渓蛮にも友軍として出兵を促すために派遣されたのかもしれない。
どちらにせよ馬良は任務を全うしているが、情報量の絶対的な少なさから、この成功が侍中という肩書の賜物なのか馬良個人の手腕によるのかは判別の仕様がない。後者の場合、馬良にはかねて五渓蛮にコネクションがあり、それゆえ劉備から指名されたとも考えられる。
だが、せっかくの工作も空しく、劉備軍は馬良が合流する前に大敗を喫し(夷陵の戦い)、馬良は途中で遭遇した呉軍を打ち負かしながら、不運にも命を落とした。劉備は子息の馬秉を騎都尉(近衛騎兵の隊長)に任じている。敗戦のショックから立ち直れず、命の火が燃え尽きようとしていた劉備にできるせめてもの手向けだった。
兄の馬良には及ばずとも、末弟の馬謖も優秀な人材だった。郷里での評判通りであればそのはずなのだが、実務に携わる以前の評判なので、鵜呑みにはできない。
兄の馬良は評判通りの逸材だったが、果たして馬謖はどうか。馬謖は馬良と同時に従事に取り立てられた後、県令や郡太守を歴任。『三国志』には特別な事績は伝えられていないが、「人並外れた才能を持ち、好んで軍事戦略を論じ」、諸葛亮から「たいそう高い評価を受けた」とある。
ただ劉備は、馬謖の能力に疑問を抱き、諸葛亮を臨終の床に招き寄せた時、馬謖について「理論や言葉が先走る傾向が強いから、重要な任務を任せてはならない」と厳重に注意していた。
ところが、なぜか諸葛亮はこの警告を軽んじ、馬謖を参軍(幕僚)に取り立てたうえ、「頻繁に招いては談論を交わし、昼から夜に及ぶこともあった」というから、よほど馬が合ったのだろう。
もっとも、馬謖の献策の中に優れたものがあったことも事実で、西南夷と総称された異民族に対する南征は、馬謖の策を全面的に採用することで円滑に進めることができた。幸か不幸か、この1件で諸葛亮は、馬謖を前線でも使える人材と判断してしまったようである。
228年春3月、曹魏を討つために第1次北伐の軍を起こした諸葛亮は、経験豊富な魏延か呉壱を適任とする大方の予想に反し、戦闘指揮の経験が皆無といっていい馬謖を先鋒に任じた。
馬謖は意気揚々と出陣するが、戦術の初歩的な選択ミスで大敗北を喫し(街亭の戦い)、北伐軍を全面撤退のやむなきに追い込んでしまう。
馬謖が失敗せず、涼州(現在の甘粛省)を征服できれば、最大の懸案である兵粮の補給問題が解決するうえ、常に南と西の2方面から曹魏陣営に圧力をかけることが可能となったはずなのに、馬謖の失態ですべてが水泡に帰してしまった。
事が事だけに、実質上の初陣だからと言って温情をかけるわけにはいかず、諸葛亮は軍法に照らして馬謖を斬首の刑に処し、自身も任命責任を取るべく、後主(劉禅)に3階級の降格を願い出た。
諸葛亮の軍総司令としての才覚に疑問を呈する声は当時からあったが、第1次北伐の失敗はあまりにひどすぎた。議論の争点は、実戦を経験したことのない馬謖にどうして先鋒という一番大事な役目を任せたかの1点に尽きる。
馬謖を過大評価していたせいなのか、それとも魔が差したのか、私情に流されたのか。いろいろな説が提示されてきたが、中には荊州人材と益州人材のバランスを取るためと、合理的に説明しようとする向きもある。
劉備が荊州にいた時に臣従した人物としては、魏延、黄忠、諸葛亮、龐統、馬兄弟以外では、馬兄弟と親しかった向朗、非常に気位の高い廖立、のちに呉に降る潘濬などがいた。
また、劉備が益州を獲得してから臣従した荊州出身者では、その才を劉備と諸葛亮の両名から認められた李厳、質素な生活を貫いた董和、諸葛亮亡き後の第2の後継者に指名された費禕、清潔高尚な生き方を貫いた劉巴などが挙げられる。
このうち龐統は、益州入りの途中で戦死、高齢の黄忠は劉備が呉への親征を開始するより前に死去。文官はともかく、荊州出身の武将は明らかに頭数が足りず、益州出身者と荊州出身者のバランスが大きく崩れることは、劉備から後事を託された諸葛亮にとって実に悩ましい問題だった。
ただ地方に割拠するだけなら問題ないが、漢帝室の後裔を称し、国号を「漢(蜀漢)」として後漢の復興を唱える以上、割拠はあくまで1過程にすぎず、天下統一の姿勢を崩すわけにはいかない。劉氏の政権を維持するには、専守防衛に甘んじることは許されなかった。
しかし、政権の中枢が益州出身者ばかりで固められれば、無理に外で戦おうとせず、天然の要害を頼りに守りに徹する恐れがある。大義名分をかなぐり捨てれば士気の低下は避けられず、荊州出身者の排斥や粛清が行なわれれば内部崩壊の危険も高まるため、やはり正統性を訴えながら、荊州人材と益州人材のバランスを上手く取るのが最善の道と言えた。
馬謖も決して無能であったわけではない。大きな戦略に関する話は諸葛亮を唸らせるほどのレベルで、南征に関する献策も的を射ていた。
惜しむらくは、命のやり取りが行なわれる現場で適切な判断ができないことだった。馬謖は絶対的な経験不足でそれでいながら、自分の否を認めたくない頑固な部分があったのだろう。上役に意見をすることはあっても、部下の意見に従うことはない。自分より学の少ない人間が自分より優れた案を思いつくはずがない、といった具合に、馬謖はプライドの高い人間にありがちな陥穽にまんまとはまり、身の破滅を招いたのだろう。
劉備はその性質を見抜いていたが、諸葛亮は劉備の思い過ごしとして、せっかくの忠告を右から左へ聞き流してしまった。
諸葛亮の目算では、馬謖が失態を犯すはずはなく、デビュー戦を無難にこなさせることによって、異例の人事が周到な配慮の結果であることを強く印象付けようとしたのではないか。親心とも言うべき配慮がすべて裏目に出たのだから、「泣いて馬謖を斬る」のはやむをえない判断だった。
ちなみに、唐代に編纂された歴史書『晋書』の「陳寿伝」には、陳寿の父は馬謖の参軍で、連座して髠刑(髪の毛を切られる刑罰)に処されたとあるから、『三国志』の著者である陳寿にとって、馬謖の失態と最期については、特別な思い入れがあったはずである。
更新:10月23日 00:05