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ローマ帝国が「市民に寛容だった」理由とは? 長く帝国を維持するための条件

2025年10月20日 公開

本村凌二(東京大学名誉教授)

フォロロマーノ

「ローマは、なぜ偉大になったのか」――東京大学名誉教授・本村凌二氏は、その答えは「寛容さ」にあると語ります。本稿では、ローマ帝国を支えた「寛容さ」の実像を、書籍『教養としての「世界史」の読み方』より解説します。

※本稿は、本村凌二著『教養としての「世界史」の読み方』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

ローマ帝国はどうして偉大になったのか

先日、とある飲み屋で近くにいた人とローマの話になりました。

その人はローマ史に関心があるらしく、私が専門家だとわかると、「ローマ帝国は、どうして偉大になったのでしょう?」と質問されました。

簡単に答えられる問題ではないけれど、と前置きして、「もし、一言で言うなら寛容さだと思います」と答えました。

これはローマにかぎった話ではありませんが、世界の大帝国と言われる国を見ていくと、最初から寛容な国などほとんどありません。やはり最初は軍事的制圧からスタートするので、最初の何年かは、ある程度、力で抑えつけざるを得ないのです。

しかし、ずっと抑えつけたままだと、不満から反政府運動へと流れるので、ある程度の期間が過ぎたら少し緩め、「これくらいのことは、おまえたちに任せよう」という形で、ある程度の自治を認めることが必要になります。

実際、最初の厳しさをずっと続けてしまった帝国というのは、長く続いた例がありません。最も典型的なのが、古代アッシリア帝国です。

アッシリアは前2000年紀初頭に、北メソポタミアに興った王国に始まります。その後アッシリアは武力でその版図を広げ、アッシリア帝国へと成長します。ちなみに、アッシリア帝国という場合は、新アッシリア王国のティグラト・ピレセル3世(在位前745〜前727)の即位から、アッシュールバニパル(在位前668〜前627)の治世までの約120年間を指します。

アッシリア帝国は「強圧の帝国」でした。

属州に対しては、重い税金を課すなど、常に強圧的な政策で臨みました。中でも最も属州民を苦しめたのは、人々を強制的に移住させる大量捕囚でした。強制的な捕囚は、当時のオリエント世界ではよくある政策でしたが、アッシリア帝国のそれは、組織性と規模において類を見ない大規模なものでした。

こうした強圧的な支配は、属州民の反感を強め、反乱を招く結果となったのです。そして、相次ぐ反乱に国力を奪われたアッシリア帝国は、紀元前612年にメディア人とカルデア人(新バビロニア)の連合軍に首都ニネヴェを占領されたことを機にあっさりと滅亡してしまいます。

強圧的な方法だけでは、長く帝国を維持することはできません。しかし、あまり寛容にしすぎてしまうと収拾がつかなくなってしまうので、異質な価値観をどこまで許容するかという寛容さと厳しさのバランスが実はとても難しいのです。

 

「寛容」の使い方が上手だったローマ

そういう意味で、ローマは「寛容」の使い方がとても上手かったと言えるでしょう。

たとえば、属州にラテン語を強要しなかったのもその一つです。

「使え」と強要すれば相手は反発しますが、自由な環境の中で、長く生活していくならラテン語が使えたほうが有利だとわかると、人は自ずとラテン語を覚えて使うようになっていきます。

これは今の英語と同じです。英語を強要されると「日本人なんだから日本語ができればいいんだ」と意固地になりますが、仕事や海外旅行で「英語ができたら得だな」と思うと、自らお金を払ってでも英語を学ぶようになります。

ローマ帝国で、この寛容さの使い方が飛び抜けて上手かったのが、カエサルでした。

ローマに「クレメンティア・カエサリス(Clementia Caesaris)」という言葉がありますが、これは直訳すると「カエサルの慈愛」ということです。

ですからカエサルはよく寛容な人物と評されるのですが、本質的には彼は残忍な行為も辞さない男でした。つまり、カエサルが寛容さを示すのはローマ市民と、服従する人々に対してだけで、徹底してレジスタンスを行う者は容赦なく叩きつぶしています。

特に刃向かうガリア人に対するカエサルの姿勢は有名ですが、容赦なく軍事的制圧を行い、残酷な処刑も行っています。しかし、その後ガリア人が恭順の意を示すと、一転して寛容さを見せるのです。

そんなカエサルも、ローマ市民に対してだけは、終始寛容さを示し続けました。その典型がブルートゥス(マルクス・ユニウス・ブルートゥス/前85〜前42)です。

カエサルは、ブルートゥスがどれほど自分に敵対して戦っても、同じローマ市民だからという理由で、何度も寛容な態度で許してきました。許しただけではありません。ブルートゥスを新しい役職に就けたりもしています。

カエサルは、こうした慈悲の使い分けを、かなり意識してやっていたと考えられます。

ですから、カエサルが議場で刺されたときの「ブルートゥス、おまえもか/Et tu,Brute?(ラテン語)」というあのセリフには、いろんな意味合いが込められているのですが、一つには、「俺はおまえをこんなにも許してきたのに、なぜおまえはここまでやるんだ」というカエサルの気持ちが込められていたと私は思います。

 

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