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大英帝国は「ローマの情報収集力」を学んでいた? ローマ史を考察する価値

2025年10月09日 公開

本村凌二(東京大学名誉教授)

「ローマは、なぜ帝国になり得たのか」。この問いは実に古く、すでに前2世紀の歴史家ポリュビオス(前204頃〜前125頃)が投げかけています。そして「ローマ帝国は、なぜ滅びたのか」という問いもまた、時代を超えて繰り返し議論されてきました。なぜ人々はこれほど長きにわたり、ローマ史を問い続けるのでしょうか。書籍『教養としての「世界史」の読み方』より解説します。

※本稿は、本村凌二著『教養としての「世界史」の読み方』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

ローマ史を考察する価値

18世紀のイギリスの歴史家、エドワード・ギボン(1737〜1794)は、ローマ史では必ず問われる1つのテーマに取り組んだ人です。

それは、あれほど隆盛を誇ったローマ帝国はなぜ滅びたのか、という問いです。そして、彼なりの考察を『ローマ帝国衰亡史』に著しました。

ギボンは『ローマ帝国衰亡史』を五賢帝の時代から書き出しています。五賢帝の時代はローマの黄金期です。ギボンは、頂点を極めた五賢帝から始めることで、なぜローマは帝国になり得たのかということを彼なりに考察した上で、頂点を極めたものは、いずれ衰退していくものなのだ、というスタンスで衰退の側面を考察したのです。

このように、ローマに関する大きな2つのテーマ「なぜ帝国になり得たのか」と「なぜ帝国は滅びたのか」は、ローマという帝国が存在していたときからずっと、繰り返し、繰り返し、人々によって論じられていたのです。

長く論じられてきたのは、歴史の考察には常にそれぞれの時代というフィルターがかかるため、同じ問いを繰り返しているようでも、時代によってまた新たな気づき方があるからです。

たとえば、ミハイル・ロストフツェフ(1870〜1952)という、20世紀前半のロシアの歴史家は、彼自身がロシア革命から逃れてイギリスやアメリカに渡った経験があったからなのでしょう、ローマの興亡についても都市のブルジョワジーがどのような動きをしたかというところに焦点を絞って論じています。

そして近年は、ローマの情報収集力に焦点を当てた考察がなされていたり、ローマの名誉を重んじるシステムや、自ら戦争を仕掛けていくことで国防を保つ帝国型の専守防衛についての考察など、さまざまな考察がなされています。そしてこうした考察は、やはりどれも今だからこそ気づくことができたものなのです。

歴史家は、いつの時代も客観的に史料を読んで、歴史の真実を見いだそうとはしているのですが、やはりその時代の抱えている問題や、歴史家自身の経験というものに、その考察が引きずられてしまうものなのです。

歴史というものは、すべてそれが考察された時代背景や、考察者の経験などのフィルターを通らざるを得ません。そういう意味で、私はすべての歴史は現代史だと考えています。

そうしたフィルターを排除して、何にも引きずられることなく考察するべきだと思われる方もいるかもしれませんが、人が考えるものである以上、歴史は常に「現代」を引きずった形での問い掛けしかできないということを知った上で、学ぶべきだと思います。

ここで、気づいていただきたいのは、時代が変わっても、常にローマ史に対する考察が繰り返されるのはなぜか、ということです。

それは、それぞれの時代の「現代人」が抱える課題、求めている答えが、ローマ史の中にあるからだと、私は思います。

 

世界を席巻した大英帝国もローマに学んだ

ローマ史は何年研究し続けても、常に新しい気づきが得られます。

実際、50年前には気づきもしなかった問題に、今だからこそ気づいた、ということもあります。

先ほど、近年はローマの情報収集力に焦点を当てた研究が見られると言いましたが、それは、今、情報収集力が国家の安全保障を大きく左右するものとなっているからです。ある意味、今は物理的な軍備より、情報収集力のほうが重要な時代です。よく「インテリジェンス」などと言ったりもします。

私は仕事柄、さまざまな国で図書館を利用しますが、イギリスの図書館ほど、膨大な情報を整然かつ合理的に管理しているところはありません。これは私見ですが、恐らくイギリス(大英帝国)は、自らがいくつもの植民地を持つ過程で、ローマ帝国の情報収集力をまじめに研究したのだと思います。

古代ローマと現代では情報を取り巻く環境は違いますが、その本質は同じです。ポイントは三点、いかに正確な情報を多く集めるか、集めた情報をいかにして速く伝えるか、そして、集めた情報を活用するための整理・管理方法です。

ローマでは、正確な情報を集めるために、今で言う諜報部員、つまりスパイを活用しています。陰謀事件が多いローマでは、皇帝だけでなく、有力貴族もそれぞれにお抱えのスパイを持っていました。

ローマで情報伝達のスピードアップに重要な役割を果たしたのは、アッピア街道に代表される数多くの街道でした。史料によれば、ローマの主要都市を結ぶ主な街道の総延長は、紀元117年の時点で約8万6000キロメートル。これらの街道は、当初は軍道としてつくられたものですが、情報伝達にも大きな役割を果たしていたのです。

ローマの情報収集力が実際にはどの程度のものだったかは、実は明言するのがとても難しいのです。なぜなら、先ほど言及したスパイのようなものは、秘密裏に活動することが求められるだけに、史料と言えるものがほとんど残っていないからです。

それでも、ローマの情報収集力の高さを推し量る手立てとなるものはあります。その1つがローマの充実した図書館です。

古代の図書館というと、エジプトのアレクサンドリア図書館が有名ですが、ローマにも立派な図書館がありました。紀元112年につくられたトラヤヌス帝のフォルム(公共広場)には、ラテン語とギリシア語の蔵書を収めるための、2棟の立派な図書館があったことがわかっています。

ローマの図書館は、フォルム以外の場所にもたくさんありました。たとえば、ヤマザキマリさんの漫画『テルマエ・ロマエ』のお陰ですっかり有名になったローマの公衆浴場にも、図書館を併設するものがたくさんありました。

さらに、ローマの図書館は、帝国の各地にもありました。ナポリ近郊の遺跡、ポンペイでも図書館の遺構が見つかっています。

かつて、イギリス南部もローマの支配下にありました。ローマの図書館とイギリスの図書館、両者が直接結びついている証拠はありませんが、イギリス人がさまざまな面でローマに学んでいることは確かなので、あの素晴らしい図書館もローマの図書館の情報処理システムに学んでいたのかもしれないと思うと楽しくなります。

 

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