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		<title>WEB歴史街道</title>
		<link>https://rekishikaido.php.co.jp/</link>
		<description>歴史に学び、未来を拓く！「WEB歴史街道」は、月刊誌『歴史街道』編集部がお届けするWebメディアです。戦国、幕末、古代史、近現代史など、歴史と人物を現代の視点から読み、楽しむためのコンテンツが満載です。</description>
		<dc:language>ja</dc:language>
				<copyright>Copyright PHP研究所　All rights reserved.</copyright>
		
				<pubDate>Thu, 24 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
						
				<item>
			<title>【豊臣秀吉の弱点】実は鎌倉以来の最弱政権？「領地分散」が招いた家康との兵力差  大村大次郎（元国税調査官）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/15100</link>
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			<description><![CDATA[豊臣秀吉による天下統一の裏にあった弱点を解説。生まれついてのバックボーンを持たないがゆえの「大盤振る舞い」が招いた脆さとは？財政豊かに見えて「鎌倉以降で最弱」とされる豊臣政権の実態に迫る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="豊臣秀吉" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/pixta_hideyoshi2019.jpg" width="1200" /></p>

<p>農民から天下人にまで登り詰め、絢爛豪華な文化を築いた豊臣秀吉。その資金は潤沢で、政権は盤石であったかのように見えるが、実は「脆弱な財政・軍事基盤」の上に成り立っていた。意外にも直轄領は少なく、徳川家康以下であったという。秀吉が持つ直轄領の盲点とは？経済的観点から、豊臣政権が抱えていた弱点について解説する。</p>

<p>※本稿は、大村大次郎著『お金の流れで読み解く戦国武将』（三笠書房）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉も悩まされた「主君のジレンマ」とは？</h2>

<p>戦国武将は「主君のジレンマ」とも言える土地問題を抱えていた。武家社会は、主君が家臣に土地を与えることで成立している。</p>

<p>しかし土地には限りがあるので、主君が家臣に土地をたびたび与えていると自分の領地が減ってしまう。鎌倉幕府や室町幕府の財政基盤が弱かったのも、この「主君のジレンマ」があったからだ。信長は、このジレンマを解消するために、武家社会そのものをぶち壊そうとしたが、それを受け入れられない光秀に討たれてしまった。</p>

<p>秀吉にとって、この「主君のジレンマ」は、信長以上に深刻な問題だった。</p>

<p>というのも、秀吉は信長よりもはるかに多くの土地を家臣に対して与え続けなくてはならなかったのだ。それには、秀吉特有の事情があった。</p>

<p>秀吉が天下獲りに乗り出したのは、本能寺の変で信長が斃れてからだ。このとき秀吉は、中国地方で毛利と戦っていたが、すぐさま毛利と和睦を結び、近畿へと急行。山崎の合戦において光秀を討ち、天下獲りレースの最右翼に躍り出たのである。</p>

<p>が、この山崎合戦において、秀吉が率いた軍勢は、ほとんどが信長の家臣だった。<br />
「与力」という形で、一時的に秀吉の指揮下に置かれていただけである。つまり秀吉は、同僚たちを指揮して戦ったのである。秀吉の直属の家臣は、ごく少数だったのだ。</p>

<p>信長のほかの家臣たちから見れば、秀吉は同僚に過ぎない。しかし、秀吉はこの同僚たちをうまく丸め込んで、いつの間にか家臣的な位置にしていった。</p>

<p>大名や豪族の家に生まれたわけでもない秀吉は、仲間を上手に使って勢力を拡大した人物である。裸一貫から這い上がった秀吉は、自分を大きく見せるためには、他人を利用するしかなかった。</p>

<p>自分自身のバックボーンがまったくなかった秀吉は、自分の上司、同僚、部下、仲間を上手に利用することで這い上がっていった。だから仲間の使い方が巧妙なのだ。</p>

<p>が、そのためには仲間に対し、過度な褒美を与え続けなくてはならなかった。秀吉は、かつての同僚たちに大盤振る舞いすることで、臣下の礼を取らせたのだ。版図を広げるたびに、拡大した領土の大半を部下（かつての同僚）たちに与えたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>天下統一を可能にした秀吉の「大盤振る舞い」</h2>

<p>たとえば、四国征伐を見てみたい。秀吉が天下を掌握しつつあった天正13（1585）年、四国では長宗我部元親が伊予（愛媛県）、讃岐（香川県）、土佐（高知県）、阿波（徳島県）の四国全土を制覇しようとしていた。</p>

<p>もちろん秀吉は、元親が強大な力を持つことをよしとせず、伊予と讃岐を返上するように迫った。が、元親がそれを拒否したため同年6月、征伐軍を四国に派遣した。</p>

<p>この四国征伐軍は、弟の秀長を総大将として秀長軍3万、甥の秀次軍3万、宇喜多秀家、蜂須賀正勝、黒田官兵衛ら2万3000、毛利軍3万～4万という総勢10万以上の大軍だった。</p>

<p>兵数を見れば、四国征伐軍の主力は秀長軍・秀次軍であり、それは「秀吉直属軍」だ。つまり四国征伐は、秀吉の直属軍が中心になって行われたものだとわかる。</p>

<p>四国の覇者・元親も、10万の秀吉軍には太刀打ちできず、8月には降伏した。これにより、元親には土佐一国だけが残され、伊予、讃岐、阿波の三国は秀吉に取り上げられることになった。<br />
では、伊予、讃岐、阿波は、どういう分配をされたのだろうか？</p>

<p>阿波は蜂須賀正勝の子・家政に、讃岐は仙石秀久に、伊予は小早川隆景に与えられたのである（それぞれ内訳については、さらに細かい分割がある）。<br />
正勝は秀吉の盟友とはいえ他人である。秀久も秀吉の家臣ではあるが、これまた他人だ。隆景にいたっては毛利家の人間である。</p>

<p>四国征伐における主力は、先述したように秀吉家の直属軍であるにもかかわらず、秀吉は四国では領土をほとんど得ていない。<br />
のちの九州征伐や、小田原攻め、奥州征伐などにも同様のことが見られる。</p>

<p>このような「大盤振る舞い」が、秀吉の特徴だ。そうすることにより、多くの武将たちが秀吉の元に集まってくる。このため、天下統一の事業は迅速に行われた。</p>

<p>しかしその結果、秀吉は天下を統一したにもかかわらず、自分の直轄領はあまり多くないという大きなジレンマを抱えることになったのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉のジレンマが関ヶ原の勝敗のカギに</h2>

<p>この秀吉のジレンマが如実に表れているのが、家康との関係である。実は秀吉の生存中、家康の直轄領は秀吉よりも広かったのだ。それが秀吉の死去2年後に、関ヶ原の戦いが生じた遠因でもある。そして関ヶ原の勝敗のカギともなった。</p>

<p>秀吉には巨大な大坂城、豪華絢爛な聚楽第など、どこか「豪勢」「瀟洒」なイメージがある。だから豊臣政権の財力は、相当に大きかった印象を持たれがちだ。<br />
が、実は豊臣政権は、非常に財政基盤が弱かった。鎌倉以来の武家政権の中では、もっとも弱かったのではないか。</p>

<p>何といっても直轄領が狭すぎた。慶長3（1598）年の時点で、豊臣家の直轄領は220万石程度であった。<br />
一方、家康はこのとき250万石近くを持っていた。家康の方が大きい版図を持っていたのである。慶長3年は秀吉が死んだ年である。この年は、秀吉の財がもっとも大きかったときだと見られるが、それでも領土は家康よりも狭かったのだ。</p>

<p>もちろん大名の経済力は、領土の広さだけでは測れない。秀吉は、全国の主な金山銀山を手中に収めていた。慶長3年、豊臣氏の蔵納目録によると、金4399枚、銀93365枚とあり。これは石高に換算すると約300万石。つまり秀吉は、領地からの収入220万石と合わせて、520万石の収入があった。</p>

<p>また秀吉は、堺や博多など、日本の主な国際貿易港も押さえており、京都、大坂という大商業地も直轄していた。それらの港、都市から上がる税収も相当なものだった。<br />
だから、単純な経済力だけを見れば、秀吉の方が家康よりもはるかに大きかった。</p>

<p>しかし当時の領地は、単なる経済力だけでは測れない潜在的な価値があった。領地には、そこから取れる農産物だけではなく、人も付随している。広い領地を持つということは、そこに住んでいる人々をも治めているということだ。</p>

<p>それは軍事的な動員力となって表れる。当時の兵の供給場所というのは、圧倒的に郷村だった。また軍役なども、何石あたり何人という決め方をされていた。</p>

<p>たとえば、秀吉の小田原攻めや朝鮮の役のときには、100石あたり5人という基準があった。さらに兵糧などを輸送する役も、農民から徴発されるのが常だった。だから領地の広さは、軍の動員力と直結していた。</p>

<p>当時の兵や軍役の動員は、主に農村から行われていた。大坂の陣のころには、町中にいる浪人をかき集めて「傭兵」とするようなことも行われるようになっていたが、それは関ヶ原以降のこと。それ以前、兵の供給先は、ほとんどが郷村だったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉の兵動員力は家康の半分以下</h2>

<p>しかも秀吉の直轄領は、その場所や実態も家康に比べると大きなハンディがあった。秀吉の直轄領はどこか1か所に固まるわけではなく、全国各地に点在していたのだ。</p>

<p>これについて「秀吉は直轄領を全国に点在させることで、諸大名に睨みを利かせた」というように評されることが多い。確かにそういう面もあっただろう。</p>

<p>しかし、それは一面的な見方である。見方を変えれば、秀吉は一塊に広大な領土を持つことができず、全国各地の領土を少しずつ削って直轄領を増やすしかなかった、つまり秀吉は、家康やほかの大大名のように「一まとめに大きな国を領有すること」ができなかったのである。これは統治や軍の動員などの面で、非常に不利だった。</p>

<p>豊臣の直轄領は222万石あり、豊臣政権時代の軍役の基準から見れば、数値の上では10万人以上の兵を動員することができる。しかし戦争というのは、いかに大きな軍勢を素早く動員できるかが、勝敗のカギとなる。</p>

<p>豊臣の直轄領は全国に点在しているので、兵を集結させるためにはかなりの時間と手間がかかる。また小さな直轄地からは、事実上、兵を動員することは難しかった。</p>

<p>秀吉が死んだ慶長3年時点で、豊臣家の直轄領は全国に40ほどあった。しかし同年の「豊臣家蔵入目録」によると、この中で10万石以上の領地は11か所しかない。</p>

<p>しかも、この11か所についても、一つの国の直轄領を全部合わせて10万石以上あるというだけであり、10万石以上の領地が一か所に固まっているとは限らない。</p>

<p>逆に1万石以下の小領地が14か所もあった。小さい領地のほとんどは豊臣家からは代官も置かれずに、隣接する大名が管理し、年貢米などの租税だけを納入していた。そういう場所から500人、1000人単位で兵を動員させることは不可能であり、もしできたとしても、少人数で戦場にバラバラにやってきたところで役に立たない。</p>

<p>豊臣家の直轄領の軍役というのは、特に共通した決まりがあるわけではなかった。10万石以下の直轄領では、軍役が免除されているところも多かった。<br />
そのため、真に豊臣家の直轄軍と言えるのは、関西地域にまとまって存在する直轄領60～70万石の武士団くらいのものである。せいぜい多くても5万人程度だろう。</p>

<p>一方、家康の版図は250万石であり、その領地は一つに固まっている。家康の指揮下で、10万人以上は優に動員できる。その差は倍だ。</p>

<p>もちろん、豊臣恩顧の大名も多々いたので、彼らの動員力をすべて合わせれば、家康を大きく凌駕することはできる。</p>

<p>しかし、それは「豊臣恩顧大名が結束している」ということが前提条件だ。つまり、その結束が崩れ、単純な豊臣家対徳川家康の構図になれば、兵力で劣るのだ。そういう欠点を残したまま、秀吉は死去してしまったのである。</p>
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						<pubDate>Thu, 24 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[大村大次郎（元国税調査官）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【武田信玄の誤算】なぜ鉄砲を使えなかった？「港」への執念と信長の経済封鎖  大村大次郎（元国税調査官）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/15097</link>
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			<description><![CDATA[武田軍が鉄砲戦で遅れをとったのはなぜか。甲斐武田領が抱えていた内陸国ゆえの「経済的ハンディ」とは？経済封鎖、織田信長による物流網の掌握など、武田信玄が戦っていた「経済戦」の真相に迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="武田信玄像" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/takedashingen.jpg" width="1200" /></p>

<p>戦国最強と謳われた武田騎馬軍団。長篠の戦いでは、いち早く鉄砲を導入した織田軍に対し、旧来の戦い方にこだわったために敗北した、というイメージを持っている方も多いだろう。しかし実は、信玄自身は誰よりも早く「鉄砲」の有用性に着目していた。では、なぜ長篠の戦いで織田軍に敗れることになったのか。そこには武田領が抱えていた内陸国ゆえの「致命的なハンディ」があった。本記事では、信玄が実子をも犠牲にして戦った「経済戦」の真相に迫る。</p>

<p>※本稿は、大村大次郎著『お金の流れで読み解く戦国武将』（三笠書房）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>最初から抱えていた巨大なハンディ</h2>

<p>最盛期には甲斐（山梨県）、信濃（長野県）、三河（愛知県東部）、上野（群馬県）に100万石近い版図を持っていた戦国時代を代表する大名である武田信玄。</p>

<p>武田家は、そもそも甲斐の守護家であり、甲斐源氏の統領という地位にあった。守護大名の家臣から成り上がった信長の織田家や、守護代に過ぎなかった上杉謙信と違い、スタートラインにおいてかなり有利な立場だった。にもかかわらず、信玄は謙信との対決には手こずり、信長には大きく出遅れてしまった。</p>

<p>その最大の要因は、経済力であろう。信玄の出発点である甲斐武田領には、経済的に大きな不安要素が二つあった。一つは「農地」としての貧弱さ。甲斐は水害も多く、豊穣とは言い難かった。もう一つは、武田領が「陸の孤島」だったということである。</p>

<p>信玄の（当初の）領地は山間部であり、海に面していないので、交易や商業はあまり栄えていなかった。<br />
他国から生活に必要な物資を輸入するとき、船舶などで直接搬入できず、必ず陸路を通らなければならない。だから周辺の大名と敵対すれば、物資の流通を止められてしまう。<br />
信玄は、この二つのハンディを抱えていたため、なかなか経済成長ができなかった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「致命的な欠点」簡単に経済封鎖をされる</h2>

<p>当時の戦国大名たちは、交戦相手や仮想敵国の国力を弱めるために、経済封鎖をよく行った。自国領から、敵国への物流を制限するのである。そのハンディが如実に表れたのが「鉄砲」だった。</p>

<p>武田軍は、鉄砲を効果的に使っていたという証拠は少なく、また信玄亡き後の長篠の戦いでは、信長軍の圧倒的な鉄砲攻撃によって壊滅的な打撃を受けた。</p>

<p>そのため、鉄砲を採り入れた先見的な信長に対して、旧来の戦い方にこだわった信玄というイメージがある。しかし、信玄は決して鉄砲を軽んじていたわけではない。むしろ、ほかの武将に先駆けて鉄砲を導入しようとしていたのだ。</p>

<p>『甲陽軍鑑』には、天文17（1548）年、信玄と信濃の村上義清が上田原で戦った際に「信玄軍は50人の足軽に鉄砲を持たせていた」と記されている。</p>

<p>天文17年というと、信長はまだ14歳であり、家督も相続していない。信玄はそのとき、すでに戦場に鉄砲を持ち込んでいるのだ。種子島に南蛮船がたどりつき、鉄砲がもたらされたのが天文12（1543）年なので、それからわずか5年後である。</p>

<p>鉄砲が日本に到来してわずか5年後に、戦場で使用していたとなると、信憑性を疑われるかもしれない。ただ、これにはちょっとした経緯がある。</p>

<p>一般に、鉄砲は種子島からもたらされたと思われているが、実はそれ以前に、中国・朝鮮経由で永正7（1510）年に銅製の火縄銃がもたらされているのだ。そこから換算すれば40年近くが経っていることになり、そう不自然なことではない。</p>

<p>また信玄は、弘治元（1555）年の第二次川中島の戦いにおいても、300挺の鉄砲を投入している（甲陽軍鑑）。信玄は鉄砲の導入に非常に積極的だったのである。</p>

<p>では、なぜ信玄は、信長ほど鉄砲を大々的に効果的に使わなかったのか？<br />
使いたくても使えなかったのである。本当は鉄砲が欲しくて仕方がなかったが、経済封鎖によって、鉄砲や弾薬などの調達が絶望的に難しかったのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>鉄砲も弾薬も買いたいのに買えなかった</h2>

<p>もともと流通にハンディを抱えていた信玄に、後年、さらなる不利な状況が生まれてしまった。信長が、近畿の主な港を制圧し、物流ルートを押さえたのである。</p>

<p>永禄11（1568）年、信長は将軍・足利義昭を警護して上洛したとき、堺、大津、草津に代官を置く許可を得た。信長が堺と大津、草津を押さえたことは、実は東国の大名にとって非常に大きな意味を持つものだった。「西日本から東国への交易ルートを信長に完全に押さえられた」ということである。</p>

<p>西日本から東国への交易ルートは、当時、主に二つあった。伊勢湾から海で入るルートと、琵琶湖を上って日本海側から入るルートである。</p>

<p>信長は、すでに尾張（愛知県西部）、美濃（岐阜県南部）を平定していたが、その時点で伊勢湾はほぼ押さえている。さらに上洛後に草津、大津を手に入れたわけだ。</p>

<p>草津、大津というのは、琵琶湖に沿った地域である。大津は京都から琵琶湖への玄関口であり、草津は京都から北陸へ行くときの通過点である。この二つを押さえれば、日本海側のルートも押さえられたことになる。</p>

<p>しかも、海外や西日本の物産が集積する堺をも押さえている。堺は瀬戸内海に通じる海路であり、当時、日本最大の国際港であった。つまり信長は、日本の物流の主なルートを掌握したことになったのだ。</p>

<p>これが、武田方にとってどういう影響が出るかは、火を見るより明らかだ。鉄砲や硝煙（弾薬の材料となる）、鉄などの重要な軍需物資は、途端に入りにくくなる。山国で、もともと物資が入りにくい上に、元栓まで締められたという感じである。</p>

<p>信長が堺の鉄砲製造業者をほぼ丸抱えしていたので、ほかの大名が鉄砲を入手しにくくなったのは間違いない。たとえば、長篠の戦いの少し前ごろ、信玄の甥で、武田軍の重要武将の一人でもある穴山梅雪が、配下の商人にこういう命令を下している。</p>

<p>「敵方の手下のようなふりをして、敵の商人と取引せよ。うまく鉄や鉄砲を購入できれば、輸送のための馬は200頭でも300頭でも用意する」</p>

<p>武田方が、なんとしても鉄や鉄砲の不足を解消しようとしている様子が見て取れる。</p>

<p>また、これは年未詳ながら、信玄は富士御室の神主へ、鉄砲玉にするために悪銭（質の粗悪な銭）があったら納めよと伝えている。鉄砲や弾薬を調達するためには、なりふり構わぬという感じだ。武田軍の鉄砲、弾薬の欠乏は、かなり深刻だった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ようやく港を得るも「時すでに遅し」</h2>

<p>経済封鎖に弱かった信玄は、とにかく「港」が欲しかった。そのため関東地方、特に駿河を執拗に侵攻する。当初、信玄は、関東の北条氏（相模）、今川氏（駿河）とのあいだで同盟関係を結んでいた。上杉謙信に対抗するためである。</p>

<p>しかし、永禄3年、今川義元が桶狭間で信長に討たれると、信玄は露骨に今川領への侵攻の意図を見せ始めた。今川領の駿河・三河は海に面している。信玄が切望していた港があるのだ。</p>

<p>だが、今川領を侵攻するには、大きなネックがあった。信玄の長男義信は、今川義元の娘を正室としており、今川家を擁護する立場にあったのだ。</p>

<p>当然、義信は関東進出に反対し、信玄と対立した。信玄としては、今川との同盟のために、義信に政略結婚をさせたのが仇となったのだ。</p>

<p>この事態に信玄は、どういう態度を取ったか？<br />
なんと、跡取りの義信を自害させたのである。</p>

<p>義信が自死した経緯については諸説あるが、謀反の企ての罪を着せ、自害に追い込んだとされている。信玄は、それほどまでに港を欲していたのだ。</p>

<p>義信亡き後、信玄は今川氏の領地を侵攻し、今川との関係は壊れた。義元の後を継いだ今川氏真は、信玄の裏切りを見て謙信に接近したため、信玄は家康、信長と同盟関係を結ぶ。元亀元（1570）年には、ついに駿河を制圧した。氏真を攻め、これを伊豆に追い払ってようやく駿河一国を手にしたのだ。</p>

<p>ここでようやく信玄は、「海岸」「港」を持つ領地を手に入れることができた。信玄はすぐさま水軍をつくっている。</p>

<p>しかし、それですぐに日本各地との交易や対外貿易を行えたわけではない。当時の航海技術では、西日本から駿河まで無寄港で船を動かすことは不可能だった。日本各地との交易や明（中国）、ヨーロッパ各国と貿易をするためには、どうしても信長の勢力圏の港を避けることができなかった。当時の東日本の大名の宿命である。</p>

<p>信玄への経済封鎖は、これで解消されたわけではなかったのだ。そして、この経済封鎖は解かれぬまま、武田家は滅亡してしまうのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 22 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[大村大次郎（元国税調査官）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>世界で唯一！「モネの庭」の名を許された地・高知県北川村で美しき世界を体感する  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/15082</link>
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			<description><![CDATA[2026年は印象派の画家モネの没後100年にあたる。そして高知県北川村には、世界で唯一「モネの庭」の名を許された施設「北川村『モネの庭』マルモッタンがある。編集部がその魅力と紀行文として伝える。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p align="left"><img alt="水の庭の太鼓橋（提供：北川村「モネの庭」マルモッタン）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa1n.jpg" width="1200" />写真：水の庭の太鼓橋（提供：北川村「モネの庭」マルモッタン）</p>

<p align="left">モネは1883年、フランス北部のジヴェルニーに移住し、理想の家と庭を築こうとした。モネの終の棲家となったその地では今もなお、彼が愛した景色を見ることができる。しかし実は日本にも、世界で唯一、「モネの庭」の名を掲げることを許された場所がある。高知県安芸郡北川村の「北川村『モネの庭』マルモッタン」だ。編集部がその地を訪ねると、美しい情景だけでなく、モネの精神を、庭に映し出そうとする人々の姿も見えてきた──。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2026年10月号から一部抜粋・編集したものです。</p>

<p align="left">&nbsp;</p>

<h2 align="left">「モネの庭」ができた理由</h2>

<p>フランスのジヴェルニーの「モネの庭」は、モネの愛した美しい景色が見られる場所として、今も多くの観光客が訪れている。</p>

<p>モネが情熱を注いだ庭は、彼の死後、荒廃していたが、支持者の尽力によって、蘇ったという。</p>

<p>そして日本には、ジヴェルニー以外で、世界で唯一「モネの庭」と名乗ることを認められた場所がある。「北川村『モネの庭』マルモッタン」だ。なぜ日本に「モネの庭」があるのか──その答えを求めて、高知県に向かった。</p>

<p>「北川村『モネの庭』マルモッタン」は、奈半利駅よりバスで10分、高知空港からは車で60分ほど。</p>

<p>早速、施設の代表取締役社長・和田昌敏さんに、この地に「モネの庭」がある理由を尋ねると、ドラマのような経緯を教えてくれた。</p>

<p>「北川村では1990年代に村おこしとして、日本屈指の収穫量と質を誇る柚子を軸に、柚子のワイナリー事業を展開しようとしたのですが、紆余曲折の末、別の新たな事業を起こすべく、プロジェクトチームを立ち上げたんです」</p>

<p>方向性を模索するなか、プロジェクトの関係者が飛行機で手にした機内誌で偶然、ジヴェルニーのモネの庭の写真を見つけたという。</p>

<p>「美しい景色に心惹かれると同時に、自然豊かで、農業も盛んな北川村なら、フラワーガーデンができるのではないか、という着想にいたったのです」</p>

<p>そして、当時のプロジェクトの担当者──今の北川村の村長は、何の伝手もないまま、モネの庭を北川村でもやらせてほしいと、フランスへと交渉に赴いたそうだ。</p>

<p>あまりに大胆だが、「果敢に行動するのが、高知県民らしいチャレンジ精神なんです」と和田さん。</p>

<p>日本人が急にやってきて、ジヴェルニーのモネの庭の責任者も驚いたことだろう。</p>

<p>「ですよね。しかし、熱意が先方の琴線に触れたようで、当時のクロード・モネ財団理事長のヴァン=デル=ケンプ氏（故人）から、『小さな村の頑張りに協力しましょう』との言葉と支援をいただき、2000年に、開園のはこびとなったのです」</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>オリジナルの庭も</h2>

<p><img alt="水の庭のスイレン" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa2n.jpg" width="1200" />写真：水の庭のスイレン</p>

<p>北川村のプロジェクトチームの熱意と行動力に驚きつつ、園内を見せてもらうことに。園内は「水の庭」「花の庭」「ボルディゲラの庭」のエリアに分かれている。</p>

<p>最初に向かった水の庭では、モネの代表作「睡蓮」が描かれたジヴェルニーのモネの庭が再現され、太鼓橋や藤棚など、モネの絵に描かれた風景を楽しむことができる。</p>

<p>水に浮かぶスイレンと、水面に映し出されるその姿も美しい。</p>

<p>編集部が訪ねたのは7月だが、青いスイレンも咲いており、多くの人がその美しさを愛でていた。</p>

<p>「熱帯性の青いスイレンは、フランス北部のジヴェルニーでは育てることが難しく、モネは温室を建ててまで栽培に挑戦しましたが、開花させることができませんでした。そんなモネが夢見た青いスイレンが見られるのも、ここならではでしょう」と、和田さん。</p>

<p><img alt="モネが夢見た青いスイレン" height="1600" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa3n_1.jpg" width="1200" />写真：モネが夢見た青いスイレン</p>

<p>次に寄った花の庭は、色鮮やかな花壇が印象的だ。チーフガーデナーの町田結香さんにうかがうと、ジヴェルニーと北川村では気候も、育つ植物も違うなかで、北川村の気候にあった植物を植えているとのこと。</p>

<p>「ここでは、水の庭も含めてモネの絵を再現し、『モネの庭の精神』を保つことが何よりも大切です。モネの庭の精神が保たれているかを確認するために、今でもジヴェルニーの庭園責任者が北川村に来ますし、私たちも、ジヴェルニーに行き、実際に本家の庭師と、朝から晩まで一緒に庭仕事をしているんです」</p>

<p>町田さんの言葉からは、この庭を保つことの責任の重さが伝わってくる。</p>

<p>「本家の方々と作業をするなかで、私自身改めて、モネの庭の精神がどのようなものかを考え、日本に持ち帰るようにしています」</p>

<p>そう語る町田さんは、モネの本物の絵を見ることも大切にし、筆のタッチや全体の印象からインスピレーションを受け、庭づくりに活かすよう心掛けているそうだ。</p>

<p><img alt="写真：花の庭" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa4n.jpg" width="1200" />写真：花の庭</p>

<p><img alt="花の庭（提供：北川村「モネの庭」マルモッタン）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa5n.jpg" width="1200" />写真：花の庭（提供：北川村「モネの庭」マルモッタン）</p>

<p>ところで、水の庭と花の庭は、本家ジヴェルニーにもあるが、北川村のモネの庭には、オリジナルとして、モネが描いた地中海の絵の世界観をモチーフにした、ボルディゲラの庭があるとのこと。</p>

<p>ボルディゲラの庭に足を運ぶと、ヤシやオリーブの木など、地中海を思わせる植栽がなされていて、他の2つの庭とは異なる趣を味わえた。</p>

<p><img alt="ボルディゲラの庭" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa6n.jpg" width="1200" />写真：ボルディゲラの庭</p>

<p><img alt="園内には色とりどりの花が咲き誇る" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa7n.jpg" width="1200" />写真：園内には色とりどりの花が咲き誇る</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>食事で楽しむモネの世界</h2>

<p><img alt="「土佐沖獲れ白身魚のブイヤベース 〜モネレシピ〜」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa8n.jpg" width="1200" />写真：「土佐沖獲れ白身魚のブイヤベース 〜モネレシピ〜」</p>

<p>園内を歩いていると、「カフェ モネの家」が目に入ってきた。</p>

<p>「実はモネは、庭づくりだけではなく、料理にも造詣が深くて、様々な創作料理を作っていたんです」と和田さんが教えてくれる。</p>

<p>カフェでは、北川村の地元食材を使った料理や青いスイレンをイメージしたデザートだけでなく、モネが遺したレシピを基にした食事もあり、ここでしか食べられないメニューを味わえるそうだ。</p>

<p>モネのレシピを参考にした「土佐沖獲れ白身魚のブイヤベース〜モネレシピ〜」をいただくと、香り高くて、味に深みがあり、自然と顔がほころんでくる。</p>

<p><img alt="「〜北川村産『柚子』ドレッシングを使用した〜モネのサラダプレート」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa9n.jpg" width="1200" />写真：「〜北川村産『柚子』ドレッシングを使用した〜モネのサラダプレート」</p>

<p><img alt="青いスイレンをイメージしたデザート" height="989" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa10n.jpg" width="1200" />写真：青いスイレンをイメージしたデザート</p>

<p><img alt="ゆずジュースとゆずかけソフト" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa12n.jpg" width="1200" />写真：ゆずジュースとゆずかけソフト</p>

<p>園内には「手づくり工房」もあり、そこで焼かれるパンも、スイレンをイメージしたものや、地元食材を使ったものなど、バリエーションが豊富だ。</p>

<p><img alt="手づくり工房のパンはテイクアウトもできる" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa11n.jpg" width="1200" />写真：手づくり工房のパンはテイクアウトもできる</p>

<p>こうした料理を手掛ける人たちも、ガーデナーの町田さんと同じく、本家「モネの庭」の精神を大切にしつつ、北川村ならではの色どりを加えようと、日々、奮闘しているのだろう。</p>

<p>「なぜ、日本にモネの庭が？」との疑問から北川村を訪ねたが、美しい景色だけでなく、庭に懸ける人々の想いにも触れ、清々しい気持ちで庭を後にしたのだった。</p>

<p><img alt="ギャラリーショップ。モネ関連のグッズを購入できる" height="1600" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa13n.jpg" width="1200" />写真：ギャラリーショップ。モネ関連のグッズを購入できる</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>コラム　「モネの庭」から足を延ばして&hellip;北川村で感じる歴史の息吹</h2>

<p><img alt="木積星神社" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa14n.jpg" width="1200" />写真：木積星神社</p>

<p>「北川村『モネの庭』マルモッタン」の周辺には、歴史を感じられるスポットが数多くある。</p>

<p>モネの庭から車で18分ほどのところに鎮座する木積星神社は、木々に囲まれた閑静な場所に佇んでいる。鳥居をくぐり、趣のある階段を登ると、広い境内へとたどり着く。境内には樹齢数百年の杉が聳え、厳かな空気に包まれている。豊かな自然に、思わず深呼吸したくなる。</p>

<p>木積星神社では、悪魔退治、五穀豊穣を願い、1100年以上前から、2年に1度、「お弓祭り」が開催されている。</p>

<p>祭りは、12人の射手が1008筋の矢を放つという木積星神社ならではのもので、高知県無形民俗文化財にも登録されている。</p>

<p>北川村といえば、幕末の志士・中岡慎太郎の故郷としても知られている。</p>

<p>モネの庭から車で7分ほどの中岡慎太郎館では、慎太郎の生涯に触れることができる。</p>

<p>慎太郎館の目の前には、ゆずをはじめとした、北川村の食材を使用した料理が味わえる、慎太郎食堂もある。</p>

<p>また近くには、慎太郎の生家や、遺髪墓地などもあるのであわせて訪ねたい。</p>

<p>ちなみに、モネは1840年生まれで、慎太郎は天保9年（1838）生まれ。つまり同時代人で、それぞれの地で激動の時代を生きた彼らに、思いを馳せてみるのもよいだろう。</p>

<p><img alt="中岡慎太郎館" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa15n.jpg" width="1200" />写真：中岡慎太郎館</p>

<p>北川村を含む中芸地域は林業が盛んで、明治時代には伐採木の運搬用の魚梁瀬森林鉄道が敷かれており、その鉄道跡も見学することができる。</p>

<p>森林鉄道施設として初めて国指定重要文化財となっており、北川村では、犬吠橋、井ノ谷橋、堀ケ生橋、二股橋、小島橋の5ケ所が指定されている。</p>

<p><img alt="森林鉄道の小島橋" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa16n.jpg" width="1200" />写真：森林鉄道の小島橋</p>

<p><img alt="森林鉄道の堀ケ生橋" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa17n.jpg" width="1200" />写真：森林鉄道の堀ケ生橋</p>

<p>北川村にはさらに、北川村温泉ゆずの宿という温泉宿もある。</p>

<p>源泉は、地域で80年以上前から親しまれ、手触りがよく、肌にしっとりとなじむ美肌の湯として長く愛されてきたそうだ。</p>

<p>温泉宿はモネの庭から車で20分ほどの自然に囲まれた場所にあり、昼は森林浴、夜は星を眺めながら温泉を楽しむことができるだろう。</p>

<p>モネの庭から足を延ばして、あわせて巡ってみてはいかがだろうか。</p>

<p><img alt="北川村温泉ゆずの宿（写真提供：北川村温泉ゆずの宿）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa18n.jpg" width="1200" />写真：北川村温泉ゆずの宿（写真提供：北川村温泉ゆずの宿）</p>

<p><img alt="北川村周辺地図" height="844" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa19n.jpg" width="1200" />北川村周辺地図</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【インフォメーション】</p>

<p>北川村「モネの庭」マルモッタン</p>

<p>開園時間︰9時～17時（最終入園16時半）</p>

<p>休園日︰6月～10月の第1・第3水曜日、冬期休園12月1日～2月末日</p>

<p>※2027年は「水の庭」工事のため、3月12日まで休園。春の開園は3月13日予定。</p>

<p>T E L︰0887-32-1233</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>中岡慎太郎館</p>

<p>TEL︰0887-38-8600</p>

<p>北川村温泉ゆずの宿</p>

<p>TEL︰0887-30-1526</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260910kitagawa1n.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 18 Sep 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ織田信長は副将軍より「堺」を欲したのか？天下統一を支えた経済戦略  大村大次郎（元国税調査官）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/15094</link>
						<guid isPermaLink="false">0000015094</guid>
			<description><![CDATA[織田信長の強さの源は「経済力」にあった。織田家が治めていた「津島」とはどんな土地だったのか。なぜ信長は「副将軍」の地位よりも自治都市「堺」の支配を求めたのか。信長の緻密な経済戦略について解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="織田信長像" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_odanobunaga.jpg" width="1200" /></p>

<p>強力な軍勢を有し、戦国の覇者となった織田信長。その強さを支えていたのは「抜きん出た経済力」にあった。信長はなぜ莫大な富を得ることができたのか。そして、なぜ「副将軍」という地位を断り、自治都市「堺」の支配にこだわったのか。本記事では、経済力の源となった港町・津島の存在や、日本最大の商業都市・堺を無傷で手に入れた信長の緻密な経済戦略を解説する。</p>

<p>※本稿は、大村大次郎著『お金の流れで読み解く戦国武将』（三笠書房）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>莫大な富を得ていた秘密は「港」にあった</h2>

<p>織田信長は経済力によって直属軍を充実させ、桶狭間の戦いで2万の大軍を抱える今川義元に勝利した。では信長の経済力の源とは何だったのか？<br />
その大きな一つは「港」だった。</p>

<p>信長は、戦国時代が中盤に差し掛かる天文3（1534）年、尾張半国の領主である織田信秀の嫡男として勝幡城で生まれたとされている（違う説もある）。勝幡城は当時、尾張の物流拠点だった津島という港のすぐそばにあった。</p>

<p>津島は、尾張と伊勢を結ぶ地点にあり、西日本と東日本の中間に位置していた。木曽川の支流・大川と天王川の合流点であり、尾張、美濃地方の玄関口でもあり、また牛頭天王社（津島社）の門前町でもあった。そのため津島は中世以降、急速に発展した。</p>

<p>織田家が津島を支配するようになったのは、祖父・信定の代である。信定は大永年間（1521～1528年）ごろに、津島を支配するようになったと見られている。</p>

<p>父・信秀の代になると、さらに津島との関係は深まる。信秀は本拠地を勝幡城に置いたのだ。津島地域の発展が目覚ましいため、ここを拠点にしたのである。<br />
このことからも、当時の津島がかなりにぎわっていた様子が窺える。当時の織田家は、版図自体はそれほど大きくはないが、経済力はかなりのものを持っていた。</p>

<p>一例を挙げると、信秀は禁裏修理料として、朝廷に4000貫目を寄付している。4000貫目とは米にすれば1万6000石にあたり、4万石の大名の1年分の年貢収入に相当する。それをポンと寄付できるのだから、信秀の経済力は相当なものだ。</p>

<p>当時のほかの大名と比べても抜きん出ており、たとえば永禄2（1559）年、上杉謙信が上洛した際に将軍へ献上したのは、黄金30枚である。この黄金30枚というのは、銭にすると1200貫目になる。信秀が朝廷へ献上した4000貫目の3分の1以下だ。つまり津島からの収益は、それほどまでに大きいものだったのだ。</p>

<p>信秀を支えていた津島は、当然、信長に受け継がれた。信長が強力な常備軍を持てたのは、この津島の収益のおかげだったと言える。信長は、ほかの戦国大名に先駆けて強力な常備軍を保持し、この常備軍を使って義元を桶狭間に葬り、次々に周辺国を制圧。最速で天下を狙える位置に上り詰めたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>副将軍よりも「堺」を欲しがった理由</h2>

<p>津島の豊かさを肌で知っている信長は、常に「港」と「流通」を重要視してきた。</p>

<p>永禄11（1568）年、信長は将軍・足利義昭を警護して上洛し、たちまち畿内を制圧した。義昭は、その労に報いるために、副将軍か畿内5か国を治める管領職に就くように要請する。しかし信長はこれを断り、代わりに堺、大津、草津に代官を置く許可を願い出た。信長が経済観念に優れていたとして、よく語られるエピソードだ。</p>

<p>堺、大津、草津は当時、日本有数の港である。信長は、そこに商業的価値を見出していたのだ。</p>

<p>しかし、信長が堺、大津、草津を押さえたのは、商業的価値ばかりが目的ではない。この三都市は、いずれも信長の戦略にとって最重要拠点だった。特に堺は、当時の日本経済の一大拠点で、しかも日本最大の軍需都市でもあった。</p>

<p>当時、堺は日本最大の国際港だった。そもそも堺は、山口や北九州へ続く瀬戸内航路であり、土佐や南九州への南海航路の起点で、海上交通の要衝だった。平安時代には塩湯浴（しおゆあみ）の地として知られ、紀伊の外港として古くから発展してきた。摂津と和泉（大阪府南西部）の国境にあったことから「堺」と呼ばれ、そのまま地名となった。</p>

<p>堺は、応仁の乱で畿内が荒廃したのをきっかけに、遣明船の母港ともなり、さらに大きく発展した。戦国時代には、日本で最大の物流拠点となっていたのだ。</p>

<p>戦国時代の一時期、室町幕府の実権を握った細川晴元は、堺を根拠地にしていたことがあった。それも堺の巨大な経済力を見てのことだった。晴元は、堺から幕府の行政文書を発給したこともあり、つまり堺が事実上の首都だったこともあったのだ。</p>

<p>この当時、堺を訪れたことのあるイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、マラッカの司令官にあてた手紙の中で次のようなことを書いている。<br />
「日本のほとんどの富がここに集まっている」<br />
「堺は日本でもっとも栄えた港なので、ここに商館を建てるべし」</p>

<p>また宣教師たちはその書簡で「堺は広大で執政官による自治が行われている。多くの商人たちがいる繁華なところで、まるでベネチアのようだ」とも述べている。</p>

<p>堺では、問屋などの商人が数多く集まり、両替商などの金融システムも発達した。<br />
つまり「堺を手中にする」ということは、当時の日本の商業を手中にするようなものだった。信長が目をつけたのは、まずこの豊かさがあったからである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>当初は信長に反抗的だった堺の商人たち</h2>

<p>このように堺は、日本最大の貿易港であり商業都市だったわけだが、この堺という土地は戦国武将にとっては御しがたいところでもあった。というのも、当時の堺は、商人などによる自治都市となっていたのだ。</p>

<p>室町時代後半の応永26（1419）年、堺の住民たちは領主から「地下請（じげうけ）」を勝ち取っていた。地下請とは、その地域の住民が年貢をひとまとめで請け負う代わり、自治権を認めさせるというものである。以来、堺は住民による自治が確立し、戦国の世になってもそれを守り通してきた。強固な警察組織も持っていたので「堺より安全なところはない」と言われるほどだった。</p>

<p>堺では、有力な商人が浪人を雇い、傭兵軍をつくっていたし、市街には門があり、夜になると閉じられた。周辺の大名たちにとって、堺は魅力のある地域ではあったが、なかなか手が出せない地域でもあったのだ。</p>

<p>日明貿易などで栄えた堺は、周辺の武将から軍資金の財源として、目をつけられることがたびたびあった。9代将軍・義尚も2000貫の軍資金を要求している。堺はそれらの要求に時に応えながらも、自治権は決して手放さなかった。だから堺に代官を置いたからといって、堺という街自体がすぐに信長になびいたわけではなかった。というより、むしろ当初は信長に強く反発していた。</p>

<p>信長は上洛するとすぐに、将軍家再興のためとして、畿内の各都市や寺社などへ矢銭（臨時税）の差し出しを命じた。堺には2万貫目、石山本願寺には5000貫目である。石山本願寺は応じたが、堺はこれを拒否。堺は三好三人衆（三好長逸、政康、岩成友通）に頼んで、信長を追い払おうとした。堺の商人たちは信長よりも、長年、京都で勢力を誇っていた三好に分があると見たのだ。</p>

<p>これに対して信長は、堺を攻撃すると脅しつつも、すぐには実行しなかった。堺を敵にして灰にしてしまうより、味方にしてその経済力・工業力を利用したかったからだ。信長は1年の間、堺を攻撃せずに我慢した。</p>

<p>三好三人衆は、信長が上洛すると、すぐに一旦は帰順した。が、信長が岐阜に戻ると堺で軍備を整え、京に攻め込んで将軍・義昭のいる本圀寺を包囲した。これを見た信長は、すぐさま取って返し、三好勢を撃退した。</p>

<p>その勢いで、信長は堺に対して次の2点を強硬に迫った。<br />
・今後、一切浪人を抱えないこと<br />
・三好方への味方はしないこと<br />
ここに至って堺は観念し、信長に証文を出して、2万貫目の矢銭にも応じた。<br />
こうして信長は、堺を無傷で手に入れたのである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_odanobunaga.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 17 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[大村大次郎（元国税調査官）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>藤堂高虎の傑作 宇和島城は「五角形」の罠？今治城は城内に港！【名城の謎】  真山知幸（伝記作家、偉人研究家、芸術修士（MFA））</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/15030</link>
						<guid isPermaLink="false">0000015030</guid>
			<description><![CDATA[築城の名手・藤堂高虎が手がけた愛媛の2つの名城を解説。幕府の隠密を騙した宇和島城の「五角形の罠」と、城内に港を設けた日本三大水城・今治城の画期的な構造など、知られざる築城術の秘密に迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="今治城と藤堂高虎像" height="750" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/todotakatora_pixta.jpg" width="1200" />今治城と藤堂高虎像</p>

<p>「築城の名手」として歴史に名を刻む戦国武将・藤堂高虎。彼が愛媛の地に築いた宇和島城と今治城には、従来の城郭の常識を覆す驚きの仕掛けが施されていました。<br />
一見すると四角形に見え、幕府の隠密さえも見抜けなかった宇和島城の「五角形の縄張」、堀に海水を引き込み、船が海から直接入ることのできる今治城の「船入」――本記事では、築城家・高虎の才能が光る2つの名城の秘密と、今も残るその足跡を解説します。</p>

<p>※本稿は、真山知幸著『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』（彩図社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>［宇和島城］幕府の隠密をだました五角形の縄張</h2>

<p><img alt="日本古城絵図 豫州宇和嶋城図（国立国会図書館蔵）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260903uwajimajyo.jpg" width="1200" />日本古城絵図 豫州宇和嶋城図（国立国会図書館蔵）</p>

<p>【◎所在地：愛媛県宇和島市／◎主な城主：藤堂高虎／◎へんな城度：星4つ】</p>

<p>城の縄張り（設計）は、一般的に四角形を基本とする。ところが愛媛県宇和島市にある宇和島城を上空から見ると、外郭がいびつな五角形をしている。</p>

<p>しかもこれは単なる地形の都合ではない。わざといびつな五角形にすることで、敵に四角形の城だと思い込ませようとしたのだ。</p>

<p>この仕掛けを考案したのは、「築城の名手」と呼ばれた藤堂高虎である。文禄4（1595）年に伊予南部の領主となった高虎は、慶長元（1596）年から中世以来の城を大改修し、慶長6（1601）年に新たな城に生まれ変わらせた。のちの宇和島城である。大名として初めて自ら手がけた居城であり、高虎の築城家としての出発点とも言える城だった。</p>

<p>「空角（あきかく）の経始（なわ）」と呼ばれるこの仕組みはこうだ。城を攻める側は、ふつう四角形の縄張を前提として攻め方を考える。</p>

<p>しかし、宇和島城の場合は五角形なので、一辺が完全な死角になる。敵の攻撃はその一辺に集中しにくくなり、守る側には有利だ。さらにこの空角は、物資の搬入口にも、いざとなれば城から脱出する抜け道にもなる。当時の築城術でこれほどのからくりを用いた城は、ほかに例がなかったという。</p>

<p>この設計がどれほど巧みだったかは、ある記録が証明している。徳川幕府が四国の城を調べさせた際、隠密の報告書には、宇和島城は「四方の間、合（あわせて）十四町三反七間」であると記されていた。「四方」とあるため、高虎が意図した通りに、幕府の調査員さえも見事に「四角形」だと、だまされてしまったのである。</p>

<p>宇和島城は海城でもあった。現在は市街地に囲まれた内陸の丘陵に見えるが、築城当時は城の東側に海水を引き込んだ水堀があり、西側の半分が宇和海に直接面していた。山・海・堀が一体となった立地は、難攻不落の要害をつくり出していた。本丸天守からは隠し通路が数本延び、西海岸の舟小屋や隠し水軍の基地へとつながっていたとも伝わる。</p>

<p>慶長20（1615）年、伊達政宗の庶長子（正妻以外から生まれた第一子）・秀宗が10万石で入封し、宇和島伊達家が9代にわたって城主を務めた。現在残る天守は、2代藩主の伊達宗利が寛文6（1666）年頃に建て替えたものだ。「修理」の名目で幕府に届け出ながら、天守台の石垣ごと全面的に建て直したというから、なかなか大胆な工事だった。縄張そのものは高虎のものをほぼ引き継いだため、五角形の仕掛けは今も健在である。</p>

<p>現在の宇和島城の天守は、全国にわずか12棟しかない現存天守の一つであり、国の重要文化財に指定されている。かつての堀は明治以降にすべて埋め立てられてしまったが、五角形の縄張の名残は、城山を取り囲む現在の道路の形に今も読み取ることができる。</p>

<p>幕府の隠密をだました「からくり」は、形を変えながら、400年以上を経た現代の街並みにひっそりと刻まれている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>［今治城］城中から直接船が出入りする海の城</h2>

<p>【◎所在地：愛媛県今治市／◎主な城主：松平定房／◎へんな城度：星3つ】</p>

<p>今治城は愛媛県今治市に位置する、日本でも珍しい「城内に港を持つ城」だ。海水が引き込まれて、魚が泳ぎ、潮の満ち引きで水位が変わる。</p>

<p>手がけたのは、築城の名手・藤堂高虎。郡山城、宇和島城、大坂城、江戸城、二条城などで築城や普請（工事）を行っている。</p>

<p>高虎は浅井長政、豊臣秀長、豊臣秀吉、豊臣秀頼、そして徳川家康とさまざまな主君に仕えながら、出世を重ねた。関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を拝領すると、慶長7（1602）年、この地に城を築き始める。</p>

<p>かつては、唐子山山頂にある国府城に今治の拠点が置かれたが、瀬戸内海交通の要衝である来島海峡を押さえながら城下町を展開するには、瀬戸内海に面した海岸が適していると考えたようだ。政治・経済の拠点にするべく、慶長13（1608）年頃に今治城が完成したとみられている。築城に際して「今張」の「張」を「治」にして、「今治」に改めている。「治める」という意味を込めたのだろう。統治に意気込む高虎の息遣いが伝わってくる。</p>

<p>今治城最大の特徴は、三重の堀に海水を引き入れた構造である。堀の北隅に石垣が四角く口を開けた水路があり、そこから海水が出入りする。潮の満ち引きによって水位が変わり、堀にはチヌ・マダイ・フグをはじめ、ボラやスズキ、ヒラメ、ナマコなども泳いでいる。</p>

<p>当時は海から堀へ直接船で入り、船が停泊できるほどの池（船入）が敷地内にあった。この船入は国内最大級の規模を誇った。現在の今治港は、城内の中堀の端につくられた城内港の跡に造られたものである。</p>

<p>今治城の縄張は、正方形を基本とした四角形のシンプルな構造。直線的な城壁で囲まれた三重の曲輪、主要な虎口（入口）には枡形門、高石垣には多聞櫓などを配置している。また、砂地という軟弱な地盤に高石垣を築くため、石垣と堀の間に「犬走（通路）」を設けることで、脆弱な地盤を安定させた。</p>

<p>さらに、従来の望楼型天守は構造が複雑で建設に時間がかかったが、今治城では各階を規則的に積み上げていく「層塔（そうとう）型」を採用。部材を規格化することで、工期を短縮し移築を容易にするなど、工夫が随所に見られるあたりに、高虎の手腕を感じさせる。</p>

<p>高虎が今治城で考案した二重構えの門と多門櫓による「枡形虎口」と、「層塔型天守」はその後、さまざまな城で取り入れられることになる。</p>

<p>慶長13（1608）年、高虎は伊勢国津城に移封となるが、今治領2万石は飛び地として残ったため、養子の高吉が居城としている。寛永12（1635）年、高吉が伊勢に移ると、松平（久松）定房が入城。以降、明治を迎えるまで久松松平家が治めることとなった。</p>

<p>明治維新後、廃城令和施行前の明治2（1869）年に廃城となり、ほとんどの建築物が破却されたが、昭和55（1980）年に5重6階の模擬天守が鉄筋コンクリートで建てられた。その後も天守閣・多聞櫓・武具櫓・御金櫓・山里櫓・鉄（くろがね）御門などの再建が進められている。</p>

<p>現在も町の中に今治城の名残を見ることができる。今治商店街の「ドンドビ交差点」には「どんどびの由来」を記す石碑があり、「呑吐樋（どんどび）」という水の出入りを調整する装置があったことが記されている。「水を飲んだり吐いたりするように見える」ことから、その名がついたらしい。</p>

<p>堀に海水を引き込み、城内に港を設ける――。そんな突飛な発想が生んだ奇妙な城は「日本三大水城」の一つに数えられ、高虎の最高傑作とも評されることとなった。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 16 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[真山知幸（伝記作家、偉人研究家、芸術修士（MFA））]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>国宝・彦根城は「寄せ集め」？会津若松城（鶴ヶ城）赤瓦の理由【名城の謎】  真山知幸（伝記作家、偉人研究家、芸術修士（MFA））</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/15024</link>
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			<description><![CDATA[他城の建材をかき集めた「リサイクル城」でありながら国宝となった彦根城と、豪雪対策で生まれた「赤瓦」や遊女石伝説が残る会津若松城。数々の逸話を持つ２つの名城の知られざる構造とドラマに迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="会津若松城" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2016/02/aizuwakamatsujyo.jpg" width="1200" /><br />
会津若松城</p>

<p>滋賀県が誇る国宝「彦根城」と、福島県のシンボルである「会津若松城（鶴ヶ城）」。誰もが知る名城ですが、実はその構造や歴史には、知られざる「へんな」ポイントがありました。<br />
彦根城は他のお城の建材を徹底的にかき集めて作られた「リサイクル城」であり、会津若松城は複数の時代の工法が混在した石垣を有していました。本記事では、突貫工事ながら国宝となった彦根城の秘密と、赤瓦や遊女石伝説が残る会津若松城の魅力を解説します。</p>

<p>※本稿は、真山知幸著『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』（彩図社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>［彦根城］石垣や建材は廃城から集めたリサイクル品</h2>

<p>【◎所在地：滋賀県彦根市／◎主な城主：井伊直政／◎へんな城度：星1つ】</p>

<p>琵琶湖を背にそびえ立つ彦根城は、国宝に指定された天守を持つ名城として知られる。しかし、その優美さからは想像しにくいが、実は彦根城は、近隣の廃城から石垣や建材をかき集めて建てられた「リサイクル城」だというから、驚くばかりだ。</p>

<p>天守は大津城から移築、天秤櫓は長浜城から、石垣や資材は佐和山城から、西の丸三重櫓は小谷城から――と、主要な建造物のほとんどが他の城からの転用品で組み立てられたと伝えられている。</p>

<p>なぜこれほど大規模なリサイクルが行われたのか。その背景には、慶長5（1600）年の関ヶ原の戦いが関係している。</p>

<p>徳川家康が率いる東軍が勝利すると、重臣の井伊直政は、石田三成の居城だった佐和山城に入封した。直政は「領民が前の城主・三成を慕い続けるのではないか」と考えたのかもしれない。すぐさま新たな城の築城を計画している。</p>

<p>ところが、戦傷が癒えぬまま慶長7（1602）年に、直政は死去してしまう。計画は息子の直継と直孝の兄弟に引き継がれた。</p>

<p>家康としても亡き直政の計画を果たしたいという思いはあったに違いないが、そんな感情を抜きにしても、彦根城の築城を最重要課題だと位置づけていたようだ。豊臣方の大坂城を監視する西国の要衝として、一刻も早く強固な城が必要だったからである。</p>

<p>尾張・越前など7カ国12（15とも）の大名に工事への参加を命じる「天下普請」が発令された。そこで、工期を短縮するために、近隣の廃城の建材を徹底的にリサイクルする方針が採られることとなった。その結果、彦根城は慶長9（1604）年に築城をスタートさせて、天守などの主要部は慶長11（1606）年には、ほぼ完成したという。</p>

<p>天守については、井伊家の歴史書『井伊年譜』には「京極家の大津城の殿手（てんしゅ）だ」と記されている。大津城はもともと5重の天守を持つ城だったが、彦根城へ移築する際に3重に造り直されたとみられる。</p>

<p>昭和32（1957）年の解体修理の際、建材に前身の城での位置を示す番付や符号が刻まれているのが発見されたことからも、大津城から移築された可能性が高まった。家康が「関ヶ原でも落城しなかった縁起の良い天守」として移築を命じたという話も伝わっている。</p>

<p>しかし、いくらコスパもタイパも良いとしても、いかにも寄せ集めの城となれば、徳川の威厳が損なわれてしまう。</p>

<p>だが、完成した彦根城は、そんな心配を吹き飛ばすものだった。切妻破風、入母屋破風、唐破風を巧みに組み合わせた変化に富む外観を持ちながらも、複数の城から集めた部材であることを感じさせない優美な姿に仕上がった。また、天守内部の梁には大津城時代のものと伝わる曲がりくねった木材がそのまま使われており、400年以上を経た今も現役で城を支えている。</p>

<p>明治時代には廃城令によって、彦根城にも解体の危機が迫った。しかし明治11（1878）年、明治天皇が巡幸（天皇が各地をまわること）の際に彦根に立ち寄ったときに、彦根城の保存が決まったという。随行した大隈重信の力添えがあったとも言われる。</p>

<p>無事に生き残った彦根城は、一部の施設は解体されたものの、昭和27（1952）年にその天守が附櫓・多聞櫓とともに正式に国宝の指定を受けた。<br />
廃城から材料をかき集めて急造された城が、400年後に国宝へ。リサイクル城は思いがけない最高の評価を手にすることとなった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>［会津若松城］複数の時代の工法が混在した「へんな」石垣</h2>

<p>【◎所在地：福島県会津若松市／◎主な城主：保科正之／◎へんな城度：星4つ】</p>

<p>福島県会津若松市のシンボルである会津若松城（別名・鶴ヶ城）は、白い壁と赤い屋根瓦の組み合わせが目を引く。城の天守に赤瓦が使われているのは、現存する天守閣のなかで全国唯一。また、城の石垣には、遊女にまつわる伝説の岩まであるという、何かと逸話の多い城だ。</p>

<p>会津若松城の起源は室町時代初期にさかのぼる。至徳元（1384）年、葦名直盛が「東黒川館」として築いたのが始まりとされる。その後、天正18（1590）年に豊臣秀吉の命で入封した蒲生氏郷が城を大改修し、文禄2（1593）年、東日本初の本格的な7重の天守を建てた。「鶴ヶ城」の名も、氏郷が故郷・近江の若松にちなんで地名を「若松」と改めたのと同時期に定めたものだという。</p>

<p>赤瓦が誕生した背景には、気候との戦いがあった。もともと城には西日本で発達した黒瓦（いぶし瓦）が使われていたが、会津のような豪雪地帯では、瓦に水分が染み込んで凍結し、割れてしまう。そこで寛永20（1643）年に入封した保科正之が新たな瓦を開発。瓦の表面に鉄分を多く含む釉薬を施して焼き上げることで、水分の浸透を防ぎ、凍結に強い赤い瓦が完成した。全国唯一の赤瓦天守は、雪国ならではの知恵の産物だったのだ。</p>

<p>一方、石垣にも「へんな」見どころがある。会津若松城の石垣は、自然石をほぼ加工せずに積む野面積みから、整えた石を隙間なく積む打込接（うちこみはぎ）まで、複数の時代の工法が混在している。これほど多様な石垣技法が一つの城に揃うのは珍しく、石垣の歴史を一望できる城として知られる。</p>

<p>石材の一部は城から約3キロ離れた東山町石山（慶山）から切り出され、木製のそりに載せて人力で運ばれた。その際、人足たちのやる気を出すために遊女を石の上に乗せて運んだという伝説が残る岩が「遊女石」と呼ばれ、今も城内に鎮座している。</p>

<p>慶応4（1868）年、戊辰戦争が勃発すると、会津藩は新政府軍と激突。8月23日から約1カ月にわたる籠城戦が繰り広げられ、城内には砲撃が降り注ぎ、食糧も弾薬も底をついていった。</p>

<p>白虎隊の少年たちが城下の黒煙を見て落城と誤解し自刃するなど、悲劇が相次いだ。それでも城は落ちることなく、9月22日に前藩主の松平容保は降伏を決意し開城した。</p>

<p>明治7（1874）年までに、政府の命令によって天守をはじめとする建物はすべて取り壊された。現在の天守は昭和40（1965）年に再建されたものである。再建当初は黒瓦だったが、平成23（2011）年、保科正之の時代の姿を再現するために屋根が赤瓦に葺き替えられることになった。</p>

<p>赤瓦、遊女石、多様な石垣――。歴史的背景を踏まえれば、そんな一風変わった城の見どころもまた、より深く楽しめそうだ。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 14 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[真山知幸（伝記作家、偉人研究家、芸術修士（MFA））]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>五稜郭はなぜ星形？西洋要塞の弱点と、軍事マニアが造った龍岡城【名城の謎】  真山知幸（伝記作家、偉人研究家、芸術修士（MFA））</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/15019</link>
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			<description><![CDATA[「五稜郭」はなぜ星形なのか？見落とされていた構造的弱点や落城の真相、日本に2つしか存在しないもう一つの星形の城「龍岡城」の歴史と魅力を解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="五稜郭" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/pixta_goryokaku.jpg" width="1200" /></p>

<p>日本有数の観光地として知られる北海道函館の「五稜郭」。その特徴的な星形の構造は、黒船来航に備えられた「西洋式要塞」の姿でした。「死角がない完璧な城」として誕生した五稜郭ですが、実は意外すぎる弱点と、予算不足による未完成な部分を抱えていました。<br />
また、日本にはもう一つ「小さな五稜郭」が存在します。本記事では、戊辰戦争の舞台となった五稜郭と、軍事マニアの殿様が建てた龍岡城、ふたつの城の意外な側面を解説します。</p>

<p>※本稿は、真山知幸著『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』（彩図社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>［五稜郭］防御力に重きを置いた西洋式の要塞</h2>

<p>【◎所在地：北海道函館市／◎主な関係者：榎本武揚／◎へんな城度：★★★★☆】</p>

<p>日本有数の夜景スポットとして有名な北海道の函館山では、かつてその麓に、江戸幕府の箱館奉行所が置かれていた。開庁したのは安政元（1854）年6月のこと。奉行に着任した堀利煕（としひろ）の胸には、こんな不安が広がっていたらしい。</p>

<p>「こんなに海の近くでは、外国軍艦から砲撃を受けやすいのではないだろうか...」</p>

<p>心配になるのも当然だろう。3カ月前に幕府はアメリカとの間に日米和親条約を締結。条約によって開くことになった二つの港が下田と、この箱館である。外交事務も生じるため、箱館に奉行所が開かれることになった。</p>

<p>外国からの攻撃を恐れた堀は、奉行所を内陸部の亀田に移転させてほしい、と幕府に申し出ている。あわせて防御力を高めるために台場の建設も提案。ともに幕府に受け入れられて、安政3（1856）年に築造を開始したのが、星形の城郭を持つ五稜郭である。</p>

<p>城といえば、高くそびえ立つ立派な建物をイメージするのが一般的だろう。平面的な五稜郭は、そもそも城だという認識が持たれにくい。なぜ、そんな形にしたのか。</p>

<p>なにしろ、国内でひたすら戦闘を繰り広げた戦国時代とは異なり、幕末に江戸幕府が警戒したのは、外国船である。西洋式の大砲を持つ相手からすれば、高くそびえる城は格好の的であり、「ここを狙ってください」と言うようなもの...。</p>

<p>五稜郭を設計した伊予大洲藩出身の洋学者・武田斐三郎も、おそらくそんなふうに堀に説明したのだろう。</p>

<p>武田は箱館に来ていたフランスの軍人から、ヨーロッパ式の築城を学んだ。ヨーロッパでは、銃や大砲から守るため、土を盛り上げて土塁を築き、その外側に「稜堡（りょうほ）」と呼ばれる陣地を造って大砲を配備するのが、主流となっていた。</p>

<p>武田はそんな事情を踏まえて、見た目の壮大さではなく、防御力に重きを置いた。西洋式の要塞として平坦な五稜郭をつくり上げている。五角形が形づくられたのは、死角が生まれないように稜堡を配置した結果だった。</p>

<p>慶応2（1866）年に五稜郭が完成したときには「これでもう外国から攻められても、ある程度は対抗できる」と関係者は胸をなでおろしたことだろう。</p>

<p>だが、五稜郭で幕府が対峙した相手は、外国の軍ではなかった。第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い、天皇を頂点とする朝廷に政権を返上。戊辰戦争が勃発すると、幕府は薩摩や長州らの倒幕派と戦うも敗北。江戸幕府は滅亡して、明治の世となった。</p>

<p>ちなみに、大将の慶喜はあろうことか敵前逃亡をはかり、明治時代には、写真や絵画、書など趣味に走っているのだから、呑気なものである。だが、まだ諦めていない旧幕臣たちもいた。榎本武揚が率いる旧幕府軍は、箱館に上陸。五稜郭を占拠して、明治新政府軍への抵抗を続けたのである。</p>

<p>ここにきて思わぬかたちで、外国からの攻撃に備えてつくった五稜郭が、役立つことになった。明治新政府軍は最新兵器を備えている。だが、砲弾に備えた五稜郭ならば攻撃に耐えきれるはず...だったが、総攻撃を受けると、あれよあれよという間に五稜郭は陥落。明治新政府軍の艦砲射撃の前に、なす術もなかった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「死角なし」のはずだったが...</h2>

<p>実は、五稜郭には構造的な弱点があった。五稜郭の構造を平面的にしたのは、敵の大砲から狙われにくくするためだったはず。ところが、奉行所の屋根には見張りのための太鼓櫓が置かれており、それが敵からすれば絶好のターゲットとなってしまっていたのだ。</p>

<p>しかも、本来ならば、外郭代わりに水堀外部に土塁を築いたり、V字型の石積を入口に築いたりする予定だったが、いずれも予算不足で叶わなかった。さらに、全方位に配する予定の半月堡も1カ所のみと、理想通りにはなかなかいかなかったようだ。</p>

<p>防御力が売りだったのに、無残な結果に終わった五稜郭。あまりにざんねんだが、五稜郭も将軍・慶喜ばりに「第二の人生」を謳歌する。</p>

<p>大正3（1914）年から公園として、五稜郭は一般開放されて、市民の憩いの場となった。さらに、令和6（2024）年に劇場版『名探偵コナン 100万ドルの五稜星』が放映されてからは、観光客が殺到。大人気スポットとなっている。</p>

<p>映画でコナン君は、五稜郭の形を利用した大規模な地理トリックに挑んでいる。特徴的な五角形に設計したことが、意外すぎるかたちで活かされることになった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>［龍岡城］軍事マニアが五稜郭そっくりの小要塞を建造</h2>

<p><img alt="上空から見た龍岡城（出典：地理院地図）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260903tatsuokajyo.jpg" width="1200" /><br />
上空から見た龍岡城（出典：地理院地図）</p>

<p>【◎所在地：長野県佐久市／◎主な城主：松平乗謨／◎へんな城度：★★★☆☆】</p>

<p>紛争や災害、病気などで苦しむ人を救うことを目的に設立された日本赤十字社には、生みの親とされる人物が二人いる。日本赤十字社の前身となる博愛社を設立した佐野常民と大給恒（おぎゅうゆずる）である。佐野は「日赤の父」、恒は「日赤の母」と呼ばれた。</p>

<p>さぞ平和主義的な人物だったのかと思いきや、大給恒は軍事マニアでもあった。江戸時代には松平乗謨（のりかた）と名乗り、その西洋兵器の知識を注いで築城も行っている。その城こそが、長野県佐久市田口に建てられていた龍岡城である。</p>

<p>ここまで読んだ読者ならば「西洋兵器の知識」と聞いて、ピンときた人もいるかもしれない。そう、北海道箱館で築かれた星形の城「五稜郭」と同じだ。</p>

<p>欧米列強から攻め込まれたときを想定して築城された五稜郭は、西洋兵学に基づいてつくられたもの。では、この龍岡城にはどんな特徴があるのだろうか。写真を見てみれば、なんと五稜郭と同じ五角形である。</p>

<p>ただ、悲しいかな、サイズは小さめで本家の4分の1程度。しかも、星型の2カ所の堀は造られていない。予算不足で断念したらしい。切ない。</p>

<p>五稜郭ですら防御的な欠点がいろいろとあったというのに大丈夫か、という気にもなるが、よく考えれば長野県は海に面していない。箱館の五稜郭は海から近いからこそ、外国の砲撃に備えて築城された。敵から攻められるとは思えないこの龍岡城は、そもそも築城する意味があったのだろうか？</p>

<p>戦とは関係なく、松平乗謨が趣味的につくったのではないか、とも言われる龍岡城。廃藩置県によって、築城後たった数年で廃城へ。実戦を体験することなく、城としての一生を終えている。</p>

<p>最後の最後まで、戊辰戦争での最後の戦場となった本家の五稜郭には及ばなかった。だが、日本に現存する稜堡式城郭はこの二つだけで希少性は高い。春になると星形の輪郭に沿って桜が咲き誇り、お堀に映る「逆さ桜」はまさに絶景だ。未完成のまま廃城になった儚さもまた味わい深く、訪れる価値は十分にあると言えそうだ。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/pixta_goryokaku.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 11 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[真山知幸（伝記作家、偉人研究家、芸術修士（MFA））]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>大久保利通はなぜ暗殺された？殺害予告を笑って無視した痛恨の油断  河合敦（歴史作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14990</link>
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			<description><![CDATA[明治の元勲・大久保利通はなぜ暗殺されてしまったのか。岩倉具視らの警告や殺害予告、警察の通報があったにもかかわらず、油断が招いてしまった大事件の真相に迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="大久保利通" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/ohkuboyoshimichi.jpg" width="1200" /></p>

<p>明治維新の「三傑」のひとりとして、近代日本の礎を築いた大久保利通。彼は明治11年5月、白昼堂々6人の刺客によって惨殺されてしまいました。実はこの事件、事前に忠告があり、殺害予告も届いていたため、「防げたはずの事件」だったのです。なぜ大久保は警備もつけず、丸腰同然で出勤してしまったのでしょうか。&nbsp;岩倉具視の警告や殺害予告を「笑ってスルー」した背景と、警察トップの油断、そして日本にとってあまりにも大きすぎた損失の真相に迫ります。</p>

<p>※本稿は、河合敦著『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』（三笠書房）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>藩閥や血統にこだわらず人材を抜擢</h2>

<p>大久保利通は、西郷隆盛、木戸孝允と並んで維新三傑といわれ、明治維新最大の功労者とされた。岩倉使節団に加わって欧米を見た後は、殖産興業による富国強兵を第一と考え、征韓論をとなえる盟友の西郷と対立、これを下野させた。</p>

<p>以後、内務省という巨大な組織を立ち上げると、そのトップに立って己に権力を集め、日本の近代化に邁進していった。</p>

<p>大久保は、薩摩出身であるにもかかわらず、同郷人をえこひいきせず、有能な人材を抜擢していった。大久保の偉さは、藩閥や血統にこだわらず、国家を担うべき人材を各所から集め、これを育てたことにある。</p>

<p>「人はいないか」が大久保の口癖になっていて、実際、彼が長官をしていた大蔵省や内務省には、しがらみを超えた英才たちが集まり、大久保の薫陶を受けて、国家を背負って立つ政治家や官僚、実業家へと成長していった。</p>

<p>だが、そんな大久保は、明治11年（1878）5月14日、あっけなく暗殺される。この日は、朝から湿気を含んだ冷たい北風が吹いていた。大久保は、早朝に自宅に訪ねてきた福島県令（県知事）山吉盛典に熱弁をふるっていた。無口な大久保にしてはめずらしく、帰ろうとした山吉を引き留めてまで話を続けた。</p>

<p>そして「日本を近代国家にするためには、30年の歳月が必要だと思っている。これまでの10年は戦乱の連続だった。これを第一期、すなわち創業の時期とすれば、これからの10年は第二期である。ここで国内制度を整え産業を育成し、富国強兵を達成したい。第三期はこの政策を続け、国家を完成させる時期。私は不肖ながら第二期を担い、第三期は後輩たちに任せようと考えている」と力説した。</p>

<p>前年、西南戦争という最大の不平士族の乱を平らげ、近代国家づくりに意欲を燃やしていたのだろう。だが、運命は皮肉である。天は大久保が第二期を担うことを許さず、このわずか数十分後にその命を奪った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>花を持ってたわむれている2人の男</h2>

<p>山吉が帰ってからすぐ、大久保は2頭立ての馬車に乗り、赤坂仮御所へと向かった。連れは、馬丁（ばてい）の芳松と馭者（ぎょしゃ）の中村太郎の2人だけ。</p>

<p>大久保の屋敷は、当時の三年町3番地にあり、屋敷を出た馬車は紀尾井町を抜ける道を使っていた。当時の紀尾井坂は、片方に桑畑が広がり、もう一方に夏草が茂る高台の細道だった。</p>

<p>いつものように、馬車が細道に入ると、行く手に2人の若い男が花を持ってたわむれていた。馬車に気づくと、男たちはこちらに向かって歩いてきた。</p>

<p>馭者の中村は馬車をとめ、馬丁の芳松が利通の隣から降り、脇によって道をあけるよう注意した。とたん、男たちは急に刀や短刀を取り出し、馬の前足を薙いだのだ。馬は膝を折って激しく嘶（いなな）いた。</p>

<p>この襲撃を合図に、身を潜めていた4人の男たちが一斉に飛び出してきた。刺客は全部で6人。彼らはたちまち馬車に殺到。芳松は背中から刺客に斬りつけられたが、それをかわして助けを呼びに走った。馭者の中村は馬車から飛び降りたところを斬り殺された。大久保は書類に目を通していたが、刺客はいきなり斬りつけてきた。大久保は「待て！」と制止したが、かまわず刺客たちは馬車から引きずり降ろそうとした。</p>

<p>が、大久保は「無礼者！」と叫んで抵抗したので、1人が短刀で眉間から目にかけて斬り、別の1人が腰を深々と刺した。さらに、動きが鈍った大久保の頭部に何度も刃をふるった。</p>

<p>大久保は馬車から転げ落ちたが、驚いたことに立ち上がって数歩ヨロヨロと歩いた。刺客たちは、瀕死の重傷を負った大久保を、その後も執拗に斬り、倒れた大久保の首に短刀を刺し貫いてとどめをさした。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>駆けつけた前島密が驚愕した理由</h2>

<p>馬丁・芳松の知らせに、政府の役人や警官がかけつけたが、現場は血や肉が飛び散り、凄惨な状況だった。遺体には16カ所もの傷があり、その多くが頭部に集中していたため、頭はすでに人の形をしていなかった。</p>

<p>いち早く現場に駆けつけた宮内省の香川敬三が、遺体を毛布に包んで自分の馬車に乗せ、西郷従道とともに利通の自宅に届けたという。</p>

<p>現場に駆けつけた1人に、郵便制度をつくった前島密がいる。彼は、大久保の頭蓋骨が割れて、なかの脳味噌がピクピクと微動しているのを見て驚愕した。その光景に驚いたのではない。大久保の夢が現実になったことに驚いたのだ。</p>

<p>数日前、前島が大久保に会ったとき、「じつは嫌な夢を見たよ。自分の頭が割れて、脳が動いているんだ」と語っていたのだ。そのとおりの光景が、いま前島の前に展開していた。つまり、大久保は正夢を見たのである。</p>

<p>まもなく犯人が出頭した。石川県士族の島田一郎、長連豪（ちょうつらひで）、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、島根県士族の浅井寿篤の6名だった。主犯格は島田と長の2人である。</p>

<p>彼らは赤坂仮御所の宮門に現れ、守衛に向かい「いま俺たちは大久保利通を殺害した。よろしく処置をしてくれ」と言って、斬奸状（ざんかんじょう）を差し出した。</p>

<p>そこには、藩閥政治家による独裁や汚職に対する不満、外交政策の批判、民権運動の弾圧政策への怒り、西郷を自害に追い込んだことへの抗議などが、長々と書きこまれていた。その巨悪の根元が、大久保利通であると断定、まずこれを除いたと記されてあった。すなわち、民権思想を信奉する不平士族による犯行だった。</p>

<p>だがこの凶行は、確実に防ぐことができた事件だったのである。</p>

<p>大久保は、事前に自分が狙われていることを知っていた。すでに危害を加えようとする者たちがいるとの風評が流れており、伊藤博文や岩倉具視も大いに憂え、大久保に手紙を送って身辺警護を強化するように注意を促したほどだった。</p>

<p>じつは明治7年（1874）、岩倉具視は赤坂喰違（くいちがい）坂で刺客（不平士族）9人に襲われ、濠に転落したことで九死に一生を得ていたので、ことさら大久保を心配した。</p>

<p>さらに、である。石川県令の桐山純孝（じゅんこう）が、本県の士族に怪しい動きがあることを、電報で内務省に伝えていた。このため、内務官僚の千坂高雅や松平正直らが大いに危惧し、警察を統轄する大警視・川路利良に警備の強化を依頼していた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>大警視・川路利良さえも通報を黙殺</h2>

<p>一説には、刺客の島田らは利通に「あなたを暗殺します」という殺害予告書を送りつけていたともいわれる。</p>

<p>島田らは、自分たちの行為は個人的な遺恨ではなく、天下国家のためだと信じていたので、前ぶれもせずに殺害し、卑怯なふるまいだと世間にそしられたくなかったのだ。実際、彼らは犯行直後、仲間を通じて斬奸状を新聞社に郵送した。</p>

<p>だが、殺害予告書を受けとった大久保は「こんな馬鹿なものが来た」といって、笑っていたという。つまり、大久保自身もただの脅しとしか思わず、本気にしなかったのだ。これはもう、うかつとしかいいようがない。もし、しっかり警戒して警固の者をつけていたなら、この暗殺は確実に未遂に終わっていたはずだ。</p>

<p>大久保は、明治政府のトップである。江戸時代でいえば、老中や大老だ。井伊直弼でさえ家臣60名を連れていても暗殺されているのに、全く警備の者をつけず、馬車1台で出勤するというのは驚くべき呑気さである。</p>

<p>一方、刺客の島田ら6人は上京すると、旅館に滞在し徹底的に大久保の日常動向を探った。何曜日の何時にどこに行くのかを、数週間にわたり執拗に追い続けた。また絶対に大久保の顔を見間違えないよう、その特徴を頭に叩き込んだ。一説には200メートル先の人混みの中からでも、大久保を見分けられるようになったという。</p>

<p>いずれにせよ、大久保が嫌がっても、警察がしっかり警備をつけていたら、状況は変わっただろう。そういった意味では、大警視・川路利良の責任は大きい。川路は「石川県士族に何ができるか」と、石川県令からの通報を無視していたからだ。</p>

<p>石川県（旧加賀藩）は百万石の大藩であったにもかかわらず、時勢にうとく、ほとんど何も成すことなく維新を迎え、廃藩置県においても政府の命令に黙々と従った。</p>

<p>不平士族も多かったが、乱を起こすわけでもなく、西南戦争への呼応者も現れなかった。だからまさか、政府トップの暗殺といった大胆な行動がとれるとは予想しなかったのである。</p>

<p>大久保暗殺後、大久保の部下・千坂高雅などは悲憤の念にたえず「大久保内務卿は島田ら不平士族に殺されたが、ある意味では彼らをして内務卿を殺させたのは川路だ」と放言したという。</p>

<p>川路にとっても大久保は大恩人だったので、さすがにショックを覚え、以後、参議などの政府の閣僚級の人間については、騎兵を護衛としてつけるようになった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ロンドンタイムズでも報じられる</h2>

<p>大久保の死により、明治政府は打撃を受けたものの、すでに不平士族の乱は西南戦争で撲滅され、富国強兵という国家の進むべき道もでき上がっていた。</p>

<p>とはいえ、もし大久保政権が続いていれば、この3年後に起きる明治十四年の政変のような政府内での混乱は起きなかったろうし、日本の近代化はもっとスムーズに達成できた可能性は否めない。</p>

<p>同年7月27日、島田ら6名に死刑が宣告され、即日、刑は執行された。これに先立つ5月17日、明治天皇は大久保利通に対し、次のような追悼の詔を賜わった。</p>

<p>「剛毅撓（たゆ）まず、外に殊勲を樹（た）て、英明善く断じ、内に偉功を奏す。まことにこれ股肱（ここう）の良、実に柱石の臣たり。ここに溘亡（こうぼう）を聞く、いずくんぞ痛悼（つうとう）に勝らんや」<br />
いかにその死を残念に思っているかがよくわかるだろう。</p>

<p>大久保の暗殺は「ロンドンタイムズ」でも報じられた。</p>

<p>「昨日は日本の首相大久保氏が参朝の途上、六名の刺客に暗殺されりと聞けり、氏は日本維新の業に与りて力あり、殊に平生改進を主張して旧弊を洗除し、又客歳の内乱を鎮定せし功臣の一人なれば、其旧習家の憎みを受くること甚しく、封建党は皆その旧敵の首長を斃すは、氏を殺すにありと思へり（略）大久保氏は一八七三年欧州に来れり、其豪邁正直にして、度量の大なる、見識の高き、今に至るまで人猶其風采を追想せざるものなし、氏の死は日本全国の不幸と謂ふへし」（勝田孫彌著『大久保利通伝 下巻』同文館／明治44年）</p>

<p>このように大久保利通という政治家は、海外でも高く評価されていたのである。<br />
本人も周囲も危険を察知できず、みすみす殺されてしまったことは、かえすがえすも日本のために惜しいといえる。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 11 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[河合敦（歴史作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>南北朝動乱は足利尊氏のせい？後醍醐天皇をうっかり逃がす痛すぎる失態  河合敦（歴史作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14970</link>
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			<description><![CDATA[室町幕府を開いた足利尊氏だが、彼のうかつさが「南北朝の動乱」を招くことに。幽閉していた後醍醐天皇の脱出を放置した結果、南朝の成立を許し泥沼の戦乱へ。初代将軍の致命的なうっかり失態を解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="足利尊氏像" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/ashikagatakauji.jpg" width="1200" /></p>

<p>室町幕府を開いた足利尊氏ですが、その後迎えることとなる「南北朝の動乱」は、彼の「うかつさ」と「甘さ」が、引き起こしていました。幽閉していた後醍醐天皇に脱出を許し、「勝手に出ていってくれたのは吉事」と呑気に構えた結果、幕府は60年もの泥沼の戦乱に突入することになります。初代将軍のあまりに手痛い失態を解説します。</p>

<p>※本稿は、河合敦著『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』（三笠書房）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>初代将軍だが、全国的な武家政権を確立できず</h2>

<p>足利尊氏は室町幕府の初代将軍だが、生きている間は全国的な武家政権を確立できず、社会も安定しなかった。それは、後醍醐天皇が吉野に南朝をつくり、長年にわたって南朝勢力が幕府に抵抗したからだ。こうした状況を生み出したのは、尊氏のうかつさと考えの甘さにあった。</p>

<p>足利氏は代々、鎌倉幕府の重臣として重んじられてきたので、後醍醐天皇が叛旗をひるがえしたさい、幕府の大将として討伐に派遣された。ところが途中で変心し、鎌倉幕府の重要機関・六波羅探題を攻め滅ぼしたのである。</p>

<p>その後、後醍醐天皇が京都に政権（建武政府）を打ち立て政治を始めたが、独裁的だったこともあり武士の不満がつのり、東国地方で北条時行（鎌倉幕府最後の執権・高時の遺児）が反乱を起こし、足利直義（尊氏の弟）が守る鎌倉が陥落した。</p>

<p>直義は三河（愛知県中・東部）に逃亡し、京都にいる兄の尊氏に助けを求めた。そこで尊氏は「自分を征夷大将軍に任じ、時行征伐に派遣してほしい」と願うが、後醍醐はこれを許さなかった。</p>

<p>すると尊氏は、勝手に東下して乱を鎮め、その後、鎌倉を拠点にする。後醍醐から帰還を命じられるが応じない。そこで後醍醐は尊氏を逆賊と見なし、新田義貞らの軍勢を送った。</p>

<p>尊氏はこれに怒り、義貞らを破った勢いでそのまま大軍を率いて上洛。いったん天皇軍に敗北して九州に逃れたものの、力をたくわえて再挙し、延元元年（1336）5月25日、摂津の国湊川（兵庫県神戸市）で楠木正成や新田義貞を撃破。敗走する天皇軍を追って29日、足利軍は京都に乱入した。このとき後醍醐天皇は比叡山に遷幸し、そこに立て籠もった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>後醍醐天皇に和睦を受け入れさせるも...</h2>

<p>以後、数カ月が経過したが、比叡山はなかなか落ちない。尊氏は、数度の密使を後醍醐天皇に遣わし、天皇の延臣の命の保証、天皇の皇子を光明天皇の皇太子とし両統迭立を復活させることを約束、後醍醐天皇に光明天皇への正式な譲位と京都への遷幸を求めた。そこで後醍醐も和睦を受け入れることにした。</p>

<p>ただ、比叡山を出て京都に向かう直前、新田義貞に対し「天運はいまだ到らずして兵は疲れ、勢いが止まってしまった。だから尊氏といったん和を結び、しばらく時を待つ。とはいえ、もし私が京に戻れば、お前は朝敵の汚名をこうむることになろう。だから恒良親王（後醍醐天皇の第六皇子）に、この場で皇位を譲る。お前は恒良を奉じて北国へ向かい、その地を従え、大軍を起こして天下の藩屛となれ」と命じたのである。</p>

<p>翌朝、後醍醐天皇は山を下り京都に入った。そして11月2日、三種の神器（じつは偽物）を光明天皇に渡した。ここに光明が名実ともに正当な天皇となった。後醍醐には太上天皇（上皇）の尊号が贈られた。</p>

<p>さらに12日には、後醍醐の第7皇子・成良親王が皇太子に就いた。鎌倉時代に天皇家は大覚寺統と持明院統に分裂し、交代で皇位に就いてきた。これを両統迭立と呼ぶが、後醍醐が大覚寺統、光明が持明院統、そして成良が大覚寺統であり、ここに再び皇位継承の在り方がもとに戻ったわけだ。</p>

<p>その5日前、尊氏は建武式目を発布した。これは尊氏の施政方針を示したもので、京都に政権を置き、延喜・天暦の治（平安時代における醍醐・村上天皇の治世）に加え、鎌倉幕府の北条義時・泰時の時代を理想とする政治をおこなうとある。</p>

<p>こうして、武家政権としての室町幕府が形づくられようとしていた矢先、にわかに後醍醐が幽閉先の花山院（花山院家が所持する邸宅）から逃亡したのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>天皇が三種の神器を持って幽閉先から逃亡</h2>

<p>一次史料は存在しないため、そのときの様子は軍記物語『太平記』でしかわからない。</p>

<p>同書によれば、花山院に押し込められた後醍醐天皇のもとには、刑部大輔景繁がただ一人伺候していた。彼は、後醍醐の愛妾である勾当内侍を通じ、密かに新田義貞らが金ケ崎（福井県敦賀市）で奮戦していることなどを告げ、「皆己が国々へ逃げ下つて、義兵を挙げ、国中を打ち順（したが）へて候なる間、天下の反覆遠からじ」と激励した。</p>

<p>そのうえで、「急ぎ近日の間に、夜に紛ぎれて大和のほうへ臨幸なり候て、吉野十津川の辺に皇居を定められ、諸国へ綸旨を成し下され」（『太平記』）と、花山院から脱出して吉野に拠点を置き、再び立ち上がることを進言したのである。</p>

<p>これを聞いた後醍醐は、「天下の武士の多くが、なお私を慕ってくれているのか。きっと今の進言は、天照大神が景繁の身体を借りて私に伝えたのだろう」と喜び、「明夜、必ず馬を用意して東の小門のほとりで待っておれ」と返答した。</p>

<p>翌日、後醍醐は三種の神器を勾当内侍に持たせ、自分は女房の姿に変じ、築地（塀）が崩れた穴から屋敷の外に出た。景繁は後醍醐天皇を馬に乗せ、自分は三種の神器を背中にかついで真夜中に大和路をくだり、梨間宿までやってきた。</p>

<p>ただ、白昼に南都（奈良）を、こんな格好で通過したら人びとが怪しむと考え、天皇を蓆張りにした張輿に乗せ、供奉する武士たちを駕籠かきに変装させて、日暮れまでに内山（奈良県天理市）に到達した。</p>

<p>追っ手が来たら万事休すゆえ、さらに景繁は夜中に吉野近くまで行こうと決め、真っ暗な中、輿を進めた。ただ、暗すぎて足元すらおぼつかない。</p>

<p>それでもどうにか一行は、大和国賀名生（あのう／奈良県五條市）にまでたどり着いた。景繁は、吉野の地に後醍醐天皇を入れてもらおうと、そこから一人で吉野へ向かい、金峯山の実力者の吉水法印を訪ねた。</p>

<p>吉野には金峯山寺、栄山寺、大澤寺など、修験関係の寺院がいくつも存在し、山岳仏教の聖地で、多数の修験者たちが修行に励んでいた。吉野の大衆（修験者）たちは、天皇をお迎えすることに一決し、甲冑を身につけて賀名生まで迎えに出向いたという。</p>

<p>吉野の地は、山々に囲まれた天険の地であり、かつて大海人皇子（天武天皇）や源義経が匿われた場所でもある。しかも、近くを流れる吉野川を利用して紀伊（和歌山県、三重県南部）や伊勢（三重県）に出ることができ、奈良盆地や河内の国（大阪府東部）にも近い交通の要衝地で、後醍醐方の武士たちが周囲に多かった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>しっかり幽閉していたら南朝は成立しなかった</h2>

<p>後醍醐が花山院にいないことに気づいた警固の武士たちは大騒ぎした。尊氏の弟で政務を担っていた直義は、配下に対し、ただちに行き先の探索を厳命した。</p>

<p>尊氏のもとにも、続々と武士たちが武装してはせ参じた。すると、この状況において尊氏は、部下に向かって全く動揺する様子を見せなかった。南北朝時代の歴史書『梅松論』によると、尊氏は次のような言葉を吐いたという。</p>

<p>「後醍醐天皇が花山院にいるので、永久に警備をしなくてはならず、非常に迷惑していた。鎌倉幕府の北条氏がやったように、天皇を遠国に配流するのも恐れ多い。だから、勝手に出ていってくれたのは吉事である。きっと、畿内のどこかに隠れているのだろう。ご自由にされたらよい。自然と落ち着くところに落ち着くだろうし、運は天が定めるところで、人智によって変えることはできない」</p>

<p>これを聞いた家臣たちは、尊氏の度量に感激したというが、単に事態の大きさを把握できていないだけであろう。事実、その後尊氏は、大いに苦しむことになる。</p>

<p>吉野には、たちまち多くの武士たちが集まり、なおかつ後醍醐天皇は「光明天皇に渡した神器は偽物であり、私こそ真の天子だ」と公言した。これによって南朝が成立し、簡単に尊氏が平らげることのできない大勢力となってしまった。</p>

<p>後醍醐はそれから数年後に亡くなり、南朝も衰退して消滅するかに見えたが、今度は尊氏と弟の直義との間で、幕府内での内乱（観応の擾乱）が勃発。なんと、直義が南朝に降伏し、正統性を得て尊氏と対立するようになったのである。</p>

<p>すると驚くべきことに尊氏は、自分がつくった北朝を見捨て、自らも南朝に降伏したのである。この結果、南朝は元気づき、何度も京都を奪還するなど勢力を強め、結局、60年間も動乱が続いていくことになる。</p>

<p>もし尊氏が、花山院にしっかり後醍醐天皇を幽閉していたら、それから3年後に天皇は死去したわけだから、後醍醐方の勢力は自然に衰退したはずだ。</p>

<p>また光明から皇位を譲られた成良親王が即位して両統迭立が実現し、朝廷は安定したことだろう。そもそも、動乱によって多くの命も失われずに済んだろう。かえすがえすも尊氏はうかつであったといえよう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 08 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[河合敦（歴史作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「大阪浪華錫器」に宿る歴史と職人技　酒器に人気の理由とは？  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/15009</link>
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			<description><![CDATA[江戸時代以来、大阪で職人たちによって作られてきた錫器。伝統的工芸品として今も受け継がれる錫器の製造現場を訪ねて大阪を訪れました。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="大阪浪華錫器の製品〔写真提供：大阪錫器株式会社〕" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260831OosakaSuzu01.jpg" width="1200" />写真：大阪浪華錫器の製品〔写真提供：大阪錫器株式会社〕。昔ながらの形の一方で、現在のニーズに応える新たなデザインも開発されている</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>錫（すず）は、もっとも古くから器の素材として利用されてきた金属である。大阪においては、江戸時代以来、職人たちによって錫の器の製造が進められ、一般の生活に錫器（すずき）を普及する拠点となってきた。特に、杯や徳利などの錫の酒器は、手触りがよいうえに、酒を一段と美味にするといわれる。また、密閉性に優れ、湿気を通さない茶壺（ちゃつぼ）・茶筒は、茶葉に最適な保管容器として重宝されてきた。</p>

<p>手工業による錫器の製造は現代へも受け継がれ、昭和58年（1983）には、「大阪浪華（なにわ）錫器」として経済産業大臣が指定する伝統的工芸品にもなっている。現在の国内錫器生産の多くを占めるという大阪市の事業所を訪ねて、錫器の歴史とともに大阪のものづくりの系譜をたどった。</p>

<p>【兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【（編者）歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>錫──人類の文明創生とともにあった金属</h2>

<p><img alt="大阪御堂筋・三津寺あたり" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260831OosakaSuzu02.jpg" width="1200" />写真：大阪御堂筋・三津寺（みつてら）あたり。現在はブランドショップやホテルが建ち並ぶショッピングと観光の中心地だが、かつてはこの周辺も錫細工などの職人たちが住む、ものづくりの町であった</p>

<p>人類が石器の時代を経て、最初に多様な道具の素材とした金属が青銅であった。その青銅とは、銅に錫を加えた合金である。紀元前3000年ごろ、中東・メソポタミア地域で使用されるようになったという。鉄器の製造が可能になるまで、その時期は青銅器時代と呼ばれる。</p>

<p>日本には弥生時代の紀元前4世紀ごろに青銅器が伝わり、紀元前1世紀ごろには国内でも生産されるようになる。伝来が鉄器と同時期であったことから、日本では青銅は主に祭器の素材として用いられ、遺跡発掘で見出される銅鐸（どうたく）・銅矛・銅剣・銅鏡などはこれを鋳造して製作したものである。この国の黎明（れいめい）においても、錫は欠くことができないものであったといえよう。</p>

<p>錫を主素材とする錫器としては、紀元前1500年ごろのエジプトの都市遺跡から発見された錫製の水壺が最古という。日本には飛鳥・奈良時代の7世紀から9世紀に、遣隋使・遣唐使によって錫器が輸入されたと見られ、奈良東大寺の正倉院に丸い形の錫製の薬壺（やっこ）3点が現存するほか、錫成分が多く金色を呈する青銅「佐波理（さはり）」の水瓶（すいびょう）などが伝えられている。</p>

<p>『続日本紀』には、文武天皇4年（700）2月のこととして「丹波の国に錫を献ぜせしむ」と記す。これが錫に関する国内で最初の文書記録と見られる。</p>

<p>錫の融点は摂氏230度ほどと低く、薪の火や炭火で容易に溶かすことができる。また、柔らかく、加工しやすい。大阪浪華錫器の場合は、製品ごとにおおまかに鋳造したうえ、これを轆轤（ろくろ）に取り付けて回転させながら、削り出して制作する。</p>

<p>この轆轤による製造方法は、一説に、鎌倉時代初期に禅を伝えた栄西が、茶の普及を図って茶壺作りの職人を中国より招いたことが始まりといわれる。</p>

<p>錫は腐食しにくい安定した金属であり、飲食物の容器に使用しても毒性がない。この特性を踏まえて、古来、錫器は水や茶などの器として用いられてきたことがわかる。中世に入ると、特に酒を入れる瓶子（へいし）や徳利として公家や武家の間に普及し、「すず」が徳利の代名詞、さらには酒の隠語として使われるようにもなる。</p>

<p>京都御所に仕えた女官たちの当番日記『御湯殿上日記（おゆどののうえのにっき）』の文明16年（1484）七夕の日の記録には「お銚子（ちょうし）ともにて、御局（つぼね）々へすずつかわさるる」という記述がある。イエズス会が編纂（へんさん）し、慶長8年（1603）に長崎で発刊した日本語辞書『日葡（にっぽ）辞書』では、「すず」を酒を入れる錫製の徳利・瓶と解説している。</p>

<p>神前に酒を備えるための一対の瓶子・御神酒（おみき）徳利も錫で作られて奉納され、各地の神社に江戸時代の古い製品が残り、現在においても錫器の代表的製品の一つである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>近世に京都から移転。発展する大阪の錫器産業</h2>

<p><img alt="大阪錫器の工房で「錫挽き」作業をする職人さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260831OosakaSuzu03.jpg" width="1200" />写真：大阪錫器の工房で「錫挽き」作業をする職人さん。轆轤で回転する錫素材を「かんな」と呼ぶ道具で削って形にしていく</p>

<p>日本での当初の錫器の生産地は京都であった。貴重な素材であった錫の器を利用できるのは、公家などの限られた人々だけだったからである。しかし、近世になり、大阪が商都として繁栄するのにあわせて、次第に錫器の生産者が大阪に集まるようになっていく。</p>

<p>錫器の素材である錫は、海外から輸入されていたとみられるが、江戸時代前期の17世紀中ごろ、九州薩摩の谷山で国内有数となる錫鉱山が発見され、元禄14年（1701）には、薩摩藩が幕府の採掘許可を得て錫山の開発を進め、以来、採掘された錫は上方に盛んに出荷されるようになる。大阪での錫器の生産も増大し、一般に広く普及する契機となった。</p>

<p>ちなみに現在の鹿児島県において、伝統的工芸品として薩摩錫器が製造されているが、これは地元産の錫を活用して殖産を図ることを目的に、京都から職人を招いて開始した錫器作りを引き継ぐものである。</p>

<p>延宝7年（1679）に刊行された、大阪の情報をまとめた冊子『難波雀（なにわすずめ）』に、諸商人・職人の所在地として「錫引、堺すぢ」という記載がある。「錫引」とは「錫挽（ひ）き」のことで、錫材から器を削り出す職人をいい、このころの大阪ですでに錫器の製造が行なわれていたことがわかる。</p>

<p>正徳4年（1714）には、のちに「錫半（すずはん）」の名で知られた老舗の初代、錫屋半兵衛が心斎橋北で創業。錫半は平成8年（1996）に廃業してしまったが、戦後、大阪の錫器工房の製品を扱う商社として名高い存在であった。</p>

<p>近世中期以降も大阪市中に錫器業者は増加し、当時の買物案内や商工業者を紹介する古書には、心斎橋筋や御堂筋を主な所在地とした「錫屋」「錫挽き」「錫道具」「錫細工所」を称する数々の店舗が掲載されている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦時の金属供出時代の困難を越えて</h2>

<p><img alt="「たんぽ」の口部と取っ手の「ろう付け」作業" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260831OosakaSuzu04.jpg" width="1200" />写真：「たんぽ」の口部と取っ手の「ろう付け」作業。全国的には「ちろり」と呼ぶことが多いようだが、関西では「たんぽ」という。居酒屋やおでん店などで親しまれてきた酒器である</p>

<p>「戦前の最盛期には、都心部を中心に大阪市内に錫器を製造する事業所が50ほどあり、およそ300人の職人が従事していました」と、教えてくれたのは、大阪市東住吉区田辺に工房を構える大阪錫器株式会社の代表取締役社長・今井達昌さん。大阪浪華錫器の伝統工芸士で、卓越した技術者として国の表彰を受けた「現代の名工」の一人でもある。</p>

<p>同社の起源も遡ると、京都の錫器につながるという。江戸時代の後期、京錫の流れを汲む錫屋伊兵衛こと芝伊兵衛が、大阪心斎橋、三津寺の近くに錫屋を創業。その二代目、伊助のもとに、明治中期、今井栄吉が弟子入りし、明治43年（1910）に独立して今井錫器工場を設立する。</p>

<p>その栄吉のもとで修業し、娘婿となったのが今井彌一郎（やいちろう）で、達昌さんの祖父にあたる。大正時代に彌一郎は独立し、大阪工芸協会会員となって活動する。独立当初に事業所を置いたのは、大阪市内の高津だったという。</p>

<p>錫器産業にとって苦難の時期となったのが、戦時であった。昭和13年（1938）に成立した国家総動員法、同16年（1941）に公布された金属類回収令によって、「はんだ」などの原料である錫は、軍需物資として官民の供出の対象となった。素材である錫の入手が不可能となり、錫器の生産は停止することになる。また、職人たちは兵士として招集され、多くの事業所があった大阪中心部は、空襲で焼失することにもなった。</p>

<p>そうしたなか、彌一郎は軍需工場に動員されたが、兵役年齢を超えて徴兵されなかったほかの職人たちと、当時の商工省から技術保存のために提供された少量の錫素材をもとに、技術を失うことがないよう、夜間に錫器の製造を続けたという。</p>

<p>こうした努力があって戦後いち早く、昭和24年（1949）に彌一郎が北田辺に設立したのが、大阪錫器株式会社であった。もともと戦前の錫器製造所が個人や少人数の事業所であったこともあり、同社は復員した職人たちの受け皿ともなり、事業を広げることになる。</p>

<p>昭和55年（1980）に彌一郎を継いで二代目社長となったのが、娘婿の今井潔氏で、達昌さんの父である。潔氏は轆轤挽きの名人といわれ、大阪浪華錫器の伝統的工芸品指定においても尽力されたことで知られる。</p>

<p>「伝統的工芸品の指定を受けた際、大阪の錫器の事業所は9社でしたが、今は2社のみになりました。ただし、事業所は減少しながらも、錫器の生産数は減少していません」と達昌さん。というのも、現在の国内で製造される錫器の7割を大阪錫器社が作り、生産を支えてきたからである。</p>

<p>「技術の継承といっても、一人の職人が一代で次の代につなぐのは難しい。複数の人間が複数の者に順番に伝えていくことが必要です」。大阪錫器社には、大阪浪華錫器の伝統工芸士のすべてにあたる、達昌さんを含めた5人の伝統工芸士が在籍。働く職人は20名ほどで、20歳代も幾人か就業している。「皆、頑張って工芸士になれるよう、育てていければと思っています」。祖父・父の抱いた錫器作りの発展への思いもまた、達昌さんに受け継がれている。</p>

<p>錫器の表面には、滑らかな「磨き」のほか、細かい凹凸加工を施して風合いを加えた製品があり、そのなかには「さざなみ」模様もあって、これは達昌さんの職人としてのオリジナルである。大阪錫器社では、このほかにも新たな製品の開発に意欲的に取り組んでいる。「よくいうのは、伝統工芸品は止まったら終わり。昔からの製品がなくなるわけではありませんが、生活スタイルの変化に応えて需要を生み出していかないといけない。それができないと使ってもらえず、売れません。そうなると、作る人がいなくなり、昔はこんなのがあったけどということになってしまう。そうならないためには、今の生活様式のなかに入っていく必要があるのです」。</p>

<p>錫器が熱伝導にも優れることから、燗（かん）をする酒器として、徳利や「たんぽ」が昔から愛用されてきた。近年はそれらと並んで、ビールなどの冷たい飲料に最適というタンブラーが売れ筋という。その手触り、口当たりはいかばかりか。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 07 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日露戦争で「調子に乗っている」？日本が米英から孤立した痛恨の外交ミス  伊藤賀一（社会科講師）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14962</link>
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			<description><![CDATA[日露戦争でロシアに勝利し列強入りを果たした日本。しかし、米英からの警戒や「黄禍論」の高まりで孤立。戦後の振る舞いが、日本の近代史における大きなターニングポイントとなった背景をわかりやすく解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="戦艦三笠の船首甲板と主砲" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_mikasa.jpg" width="1200" /></p>

<p>日露戦争で大国ロシアを下し、ついに「欧米列強の仲間入り」を果たした日本。しかしその勝利の裏で、日本は国際社会から急速に警戒され、孤立への道を歩み始めていました。なぜ親日的だったアメリカや同盟国のイギリスまでもが、日本を煙たがるようになったのか？ 人気講師の伊藤賀一氏が、日露戦争後こそが日本のターニングポイントだった理由を解説します。</p>

<p>※本稿は、伊藤賀一著『史上最強にわかりやすくて面白い ぶっ続け日本史講義10時間』（WORDS／フォレスト出版）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ローズヴェルト大統領がうまく裁いてくれた</h2>

<p>日露戦争において、国力が日本の10倍はあるといわれていたロシアとぶつかった日本は、第1ラウンドで、なんとかロシアから2回ダウンを奪いました。1回目は奉天会戦、2回目は日本海海戦です。</p>

<p>その状況で活躍したのが、金子堅太郎という日本の高官です。彼はアメリカ大統領のセオドア・ローズヴェルトのところに行って「根回し」をしたんです。金子はハーバード大学に留学時、ローズヴェルトと面識があったんですよね。慶應でいうと三田会、早稲田でいうと稲門（とうもん）会みたいな感じです。ハーバードの「学閥」を利用したわけですね。</p>

<p>それでセオドア・ローズヴェルトがいいタイミングで「やめろよ！」と日本とロシアの間に入ってくれた。レフェリーをやってくれたわけです。そのおかげで、日本にとっていちばんいいタイミングで戦争が終わりました。</p>

<p>日本も当時は、それ以上戦争を長引かせるのは無理だったわけですよ。長期戦は無理。だって、当時の国家予算は2億5000万ですよ。なのに、戦争予算に18億も用意してたんです。そしてそのうちの15億を、第1ラウンドで使ってしまっていました。しかもその18億だって、日本銀行副総裁の高橋是清が走り回って、アメリカ、イギリス、そしてユダヤ人のシフにも国債を買ってもらい、かろうじて集めたものでした。だから日本はもう、これ以上もたないわけです。<br />
そこでローズヴェルトに根回しをしたわけですね。</p>

<p>セオドア・ローズヴェルトは親日的でした。新渡戸稲造が英語で書いた『武士道』を読んで、感激して親戚一同に買わせたりするくらいの人です。それもあって、彼がうまいこと間に入ってくれて、いい感じのタイミングで戦争が終わりました。</p>

<p>あと、このときはロシアも早く戦争をやめたかったんですよね。なぜかというと「第一次ロシア革命」が起きてる最中で、国内がグチャグチャと混乱していたからです。ロシアにとっても、アメリカの仲裁は「ありがてえ」という感じでした。</p>

<p>それで結ばれたのが「ポーツマス条約」という講和条約です。<br />
日本が欧米列強に入門する戦いは、世界中が注目していました。そしてレフェリーとしてアメリカが日露戦争をうまく裁いた。のちにセオドア・ローズヴェルト大統領はノーベル平和賞を受賞することになりました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日清戦争までは面白がって見ていたが...</h2>

<p>このポーツマス条約で、日本は新たな植民地をもらいます。北緯50度以南の樺太、すなわち「南樺太」と呼ばれる地域です。</p>

<p>それから遼東半島南部の旅順、大連のあたりも得ます。これは日清戦争でもらうはずだった土地の、先っちょの半分だけですけど。この旅順、大連はのちに「関東州」と呼ばれる地域になります。ここは正確にいうと「植民地」じゃなくて「占領地」なんですが。</p>

<p>とにかく、こうして新たに領土を獲得した日本は、名実ともに「欧米列強の一員と言っていいだろう」という帝国主義国家になっていきます。日英同盟を結んだときに、名目上は列強の一員になってるんですけど。でも今回、世界No.2のロシアから第1ラウンドで2回ダウンを奪ってるわけですから、これでもう完全に仲間入りです。世界中がビックリしたという感じでした。</p>

<p>ここはすごく大事なポイントなんですが、こうなってくると、白人たちは日本を脅威に感じてくるわけですね。</p>

<p>白人からすると、当時の日本は「半文明国」であり「半人間」でした。だから日清戦争の「アジアNo.1決定戦」なんかは、彼らも面白がって見ていたわけです。日本が&quot;眠れる獅子&quot;清に楽勝だった。ところが、いざロシアにまで勝ってしまうと、みんなイヤになってくるんですよ。「調子に乗ってんな」「いけ好かねえな」って言われるようになっていきます。</p>

<p>それを象徴するのが、ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世が出した「黄禍（こうか）論」です。<br />
「このままイエローをのさばらせておくと、ホワイトである我らの災いになるだろう」という内容ですね。白人の多くは深層心理でそう思っていたので、この「黄禍論」はすごく反響があったんです。</p>

<p>それまでは日本に対してけっこう優しかったはずのアメリカも、西海岸で日本人の移民をいじめたりするようになります。「サンフランシスコ学童排斥事件」といって、何の罪もない子どもたちがいじめられたりするんです。「公立学校にお前らは入ってくるな」とか「アメリカへの移民はもうやめてもらっていいかな？」みたいな。</p>

<p>それで、日本からの移民は、ブラジルやペルーに行くようになるんですね。</p>

<p>これは同盟を結んでるイギリスも同じです。最初は面白がって日本と同盟を結んでいたわけです。日英同盟は、途中で第二次日英同盟協約に改定されて「攻守同盟」になってはいたんですけど。そのあたりで「いや、日本とそこまでの関係になっていいのかな？」とイギリスも思うようになる。「ちょっとうざくない？」「日本、イキってるんじゃないか」「自分の紹介で白人クラブに入ったのに、なんでそのパーティの主役みたいになっての？」みたいな。<br />
同盟を結んでくれていたイギリスすら、そういうムードになっていくんですよね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日露協約にアメリカとイギリスが激怒</h2>

<p>ここからポイントになってくるのは、アメリカとの関係性です。</p>

<p>日英同盟を結び、日本はイギリスに紹介されるかたちで白人クラブに入りました。日露戦争でロシアをぶん殴りました。そうなると、アメリカがどう思うかが問題です。アメリカは日本に対して、西海岸に「もう来るな」と言い出しました。さっきも話したように、アメリカは日本のことを「気に入らない」と露骨に言うようになったわけですね。</p>

<p>ただ、アメリカがそう言うようになったことにも、いちおう理由はあるんです。</p>

<p>ポーツマス条約で、アメリカは日本とロシアの間に割って入ってやったわけです。それで戦争を終えることができた。だから日本は、本来ならアメリカにお礼をしないといけないわけです。それも「ありがとうございました」と口だけじゃなくて、何か形のあるお礼をするのが礼儀です。</p>

<p>で、アメリカが何をしてほしかったのかというと、中国市場を開けてほしかったんです。</p>

<p>当時はロシア、イギリス、フランス、ドイツとか、いろんな国が中国に進出してました。日本もそうです。でも、アメリカだけ進出してなかったんですね。本当はアメリカだって、中国に進出したいわけですよ。だから日露戦争を仲裁したんです。仲裁をすれば、日本やロシアからのお礼として、中国東北部満洲の市場を開放してくれるだろう、と。そう思っていた。</p>

<p>ところが、ですよ。日本とロシアは戦った後になぜか「男の友情」的なものが芽生えてしまった。よくわからないですが、戦争の後に仲良くなるんです。仲良くなって「中国東北部のマーケットは俺らで独占して、アメリカのことは絶対に入れてやらない」と言い出した。</p>

<p>それが、1907年の「（第一次）日露協約」です。日本とロシアが仲良くなってしまい「南満洲は日本、北満洲はロシアがもらう」などと言うようになる。内蒙古、いまでいう中国の内モンゴル自治区は日本。外蒙古、いまのモンゴルはロシアの領土、みたいな。そうやって日本とロシアは仲良くなってしまいました。<br />
それを見て、アメリカが激怒したわけです。</p>

<p>同時に、この日露協約はイギリスの反感も買いました。<br />
日本に対して「お前、誰の紹介でこの白人クラブに入ったの？」と思うわけです。国際社会は一夫多妻制みたいなものですから、誰とどんな条約を結ぼうが本来はかまわないはずなんですけど。「イギリスと同盟を結んでいたら、ロシアとは同盟を結んじゃいけない」みたいなルールはないので。とはいえ天下の大英帝国からすると、思いっきり目線を下げて「日本と同盟を結んでやっている」つもりなんです。それなのに、ロシアとも同盟を結ぶとなると「なんやねん」とやっぱり思うわけですよ。</p>

<p>たとえば僕はいま、ありがたいことに佐藤優さんと共著を出させてもらっているわけですけど。これでもし、僕がこっそり黙って池上彰さんと共著の準備をしていたら、違和感ありません？ もちろん、そんなことしてないですけど。別に僕が池上さんと共著を出したって、ルール上はいいんですよ。でも普通に考えたらそれはできないです。共著の相手は次も「佐藤先生、お願いします」というのが礼儀です。</p>

<p>それと同じことで、日本は明らかに格上のイギリスに対して「操を立てなかった」わけ。それで「なんなの？」とイギリスからの反感を買うことになります。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>近代史のターニングポイント</h2>

<p>日本は日清戦争と日露戦争で連勝することによって、条約改正を達成できました。不平等条約を改正して、欧米列強に入ることはできた。その過程で1910年に日韓併合条約を結び、朝鮮半島を植民地化しています。台湾・澎湖諸島、南樺太、朝鮮。これだけの植民地を得て、欧米列強の一員として帝国主義国家になっているんです。</p>

<p>でも「どうも気に入らねえな」と思われてる。アメリカとイギリスに嫌われて。一方で、このあいだ戦ったばかりのロシアとは仲良くしてるわけです。</p>

<p>こうなると、日本は微妙な立場になってきます。ここでどう振る舞うか、軌道修正するか、というのが本当なら大事だったわけですね。</p>

<p>ところがこの微妙な状況から、日本はさらに調子に乗ってしまいます。それが第一次世界大戦です。</p>

<p>対岸の火事、ヨーロッパで戦争が起きたとき、同盟を結んでいるイギリスを助けてあげるなり、ロシアの動きをサポートしてやるなり、うまいことやればよかったはずです。でも、そんなことはまったくせずに、日本は勝手に中国に進出したり、シベリアに出兵したりしたんです。しかも、そこから撤退しなかったりするものですから「火事場泥棒」の扱いをされてしまうわけです。</p>

<p>日本の近代における大きなターニングポイントの1つは、おそらくここです。</p>

<p>司馬遼太郎さん的に言うと、ここで『坂の上の雲』まで行きました。坂を上がっていって「やった！ 日本も世界の一流国だ」となるところまで行った。でも実は、ここからの態度が大事だったんです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 07 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[伊藤賀一（社会科講師）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>ソ連の台頭を恐れてポツダム宣言から締め出すも...対日参戦を求めた連合国の駆け引き  千々和泰明（防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12787</link>
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			<description><![CDATA[米国がポツダム宣言の発出からソ連を締め出した背景とは? 防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長の千々和泰明氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250825chidiwayasuaki03.jpg" width="1200" /><br />
1945年7月、ポツダム会談。左からウィンストン・チャーチル英首相、ハリー・トルーマン米大統領、ソ連最高指導者ヨシフ・スターリン（写真：U.S. Army Signal Corps / Harry S. Truman Library &amp; Museum）</p>

<p>ソ連の急速な台頭を警戒し、連合国はポツダム宣言の発出からソ連を締め出した。しかし同時に、対日参戦を強く望む複雑な思惑も存在していたという。日本の降伏をめぐる連合国の攻防について、戦争終結論を研究する千々和泰明氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、千々和泰明著『誰が日本を降伏させたか　原爆投下、ソ連参戦、そして聖断』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ソ連締め出しにモロトフ激怒</h2>

<p>もともとポツダム宣言には、初めからソ連が参加することが想定されていた。実際に草案には、「今や巨大なるソ連の軍事力の参加を得て」との表現があった（U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States〈FRUS〉）。</p>

<p>だが、ソ連参戦は米軍の犠牲を軽減する効果を期待できる半面、戦後の東アジアにおけるソ連の影響力増大を認めることを意味する。</p>

<p>たとえばジェームズ・バーンズ国務長官はもともと、「ソ連が対日参戦をしないことに決心してくれればかえって仕合わせだと思っていた。日本は無条件降伏を拒否しているが、原爆は成功するだろうし、それで日本は米国の提案するとおりの条件で降伏するにちがいない。ソ連軍が満州〔日本の事実上の支配下にある中国東北部〕に侵入したらどんなことが起こるか心配にたえない」との考えだった（毎日新聞社図書編集部訳・編『太平洋戦争秘史』）。</p>

<p>そこで米国は何をしたかと言うと、対日降伏勧告の発出から、ソ連を締め出したのである。</p>

<p>7月26日、ハリー・トルーマン大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蔣介石総統の名で、対日降伏勧告であるポツダム宣言が発表された。</p>

<p>だが、ポツダム会談に参加していない蔣介石の署名がある（トルーマンが同意を得て代筆した）のに対し、れっきとした参加者であるソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンの署名がここには含まれていなかった。</p>

<p>いや、れっきとした参加者どころではない。ここポツダムは、ソ連軍の占領地域である。そしてソ連はドイツ占領に至るまで、戦死者約2700万人という信じがたいような犠牲を引き受けて、連合国側の勝利に貢献してきた。スターリンは言わば、ポツダム会談のホストなのである。ところがそこでの会談でとりまとめられた首脳の共同宣言に、ホスト役の署名がないのだ。</p>

<p>ポツダム宣言が記者会見で発表されたのち、バーンズ国務長官はようやく同宣言の本文をソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相に渡した。</p>

<p>モロトフは激怒した。ソ連は、日ソ中立条約締結の相手方である日本に宣戦することが国際法違反になるのは百も承知だった。そこで、ポツダム宣言に名を連ねることで、連合国からの、ひいては国際社会からの要望にもとづいてソ連は対日参戦するのである、との理屈を繰り出し、自らの行動を正当化するつもりだった。スターリンやモロトフにしてみれば、そうした計画を米国によって一方的にご破算にされたわけである。</p>

<p>これまでソ連参戦に期待を寄せていたトルーマンは、核開発成功後の7月18日付の日記に、「ロシアが参戦する前に日本は参ってしまうものと思う。マンハッタン〔核〕が日本の本土上空に登場すれば、日本は参ってしまうと確信する」と書いている。</p>

<p>また7月23日にジョージ・マーシャル陸軍参謀総長と会話したヘンリー・スティムソン陸軍長官は、トルーマンと同じくソ連の参戦を希望していたマーシャルが、「今やわれわれの新兵器をもってすれば、日本を征服するのにロシアの支援を必要としないであろうと考えている」と確信したと日記に記している。</p>

<p>もし日本がスターリンの署名入りのポツダム宣言を受諾することになれば、ソ連は対日戦争の勝利に貢献したと言い張って、戦わずして戦利品を横取りしていくことは間違いない。歴史家のデイヴィッド・ホロウェイはこう言っている。</p>

<p>「スターリンはこのような計算もしただろう。もし日本が他の連合国首脳同様スターリンが署名した最後通牒を受けて降伏しても、ソ連はヤルタ協定で約束された戦利品が得られるし、日本占領でも役割を果たすことになる。その場合ソ連は、戦わずして、戦略目標を達成できるだろう」。</p>

<p>従うべき見解と言える。</p>

<p>しかし核開発成功によって、事態は変化した。日本本土侵攻を避けつつ無条件降伏を押しつけられる可能性のある手段を、米国は自分だけで用意することができるようになった。米国はソ連の対日戦争への関与を完全に排除するために、核の力だけで日本を降伏させようとしたかにも見える。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>核使用とソ連参戦の不確実性</h2>

<p>しかし実際には、米国は核開発成功後もソ連の完全排除を決意していたとまでは言えない。</p>

<p>核の実戦使用にはまだ確実ではないことが多すぎた。核はこれまで実戦で使われたことはなく、戦争でどのくらい決定的であるのかや、そもそも航空機からの投下という方法で本当に爆発するのかどうかさえ不確かだった。トルーマン大統領は、核実験成功後の7月18日にポツダムから妻に宛てた手紙のなかで、引き続きソ連参戦を望む心境を吐露していた。</p>

<p>同じようにソ連参戦にも不確実性が残った。所詮は他人頼みの話である。米国にはソ連の参戦の正確な日時、攻撃の烈度や範囲、期間を知りようがなく、また本当に参戦するのかすら、最終的には米国自身が決められるものではなかった。</p>

<p>ソ連参戦の直後でさえ、スティムソン陸軍長官は8月9日付の日記で、「原爆とロシアの参戦が勝利を早めるのに効果をもたらすのは間違いなかろう」としながらも、「しかし、その効果がどの程度のもので、どのくらい長く持続するのか、また、その勝利を達成するにはどれくらいの数の将兵を維持しておかなければならないのかは、依然として確定できない」と記している。　</p>

<p>核使用もソ連参戦もそれぞれ不確実性のあるオプションなので、米国としては、日本がポツダム宣言を即時受諾するのがもっとも望ましいものの、「ダメなら核もソ連参戦も両方使う」ということでなければならなかっただろう。</p>

<p>ポツダム宣言からのソ連の排除については、「米国がソ連参戦前に日本を降伏させるために急いで核を使用したことの傍証」と見るより、「米国は核の力のみで日本を無条件降伏に追い込むことができるならばそれに越したことはないと考えた」程度に解釈しておくのが妥当ではないだろうか。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250825chidiwayasuaki03.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 04 Sep 2026 11:50:10 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[千々和泰明（防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ北条時宗はフビライを無視した？元寇を招いた若き執権の無知  河合敦（歴史作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14991</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014991</guid>
			<description><![CDATA[元寇を防いだ英雄として知られる北条時宗。しかし事件の発端は幕府の国際情勢への無知にありました。時宗が犯してしまっていたミスとは？幕府滅亡の遠因となった大事件の背景に迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="元寇防塁" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/genko.jpg" width="1200" /></p>

<p>元軍の侵攻を跳ね返した英雄として知られる鎌倉幕府の8代執権・北条時宗。しかし、そもそも「元寇」を引き起こした要因は、当時18歳だった時宗や幕府が、世界情勢に対しあまりにも無知だったことにありました。結果的に「鎌倉幕府滅亡の遠因」となった重大事件の真相に迫ります。</p>

<p>※本稿は、河合敦著『日本史人物 死ぬほど痛いかすり傷』（三笠書房）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>フビライの国書に書かれていたものは</h2>

<p>突然、高麗（朝鮮の国家）の使者が、文永4年（1267）11月に博多にやってきた。彼らは、モンゴル帝国（元）の皇帝・フビライの国書を携えていた。当時、高麗は元の属国で、フビライから厳命を受けて来日したのである。</p>

<p>翌年正月、鎮西奉行（鎌倉幕府の九州の統率機関）の少弐資能（しょうにすけよし）は、大宰府で高麗の使者たちと対面し、国書を受け取って鎌倉幕府へ届けた。</p>

<p>幕府は、それを京都の朝廷に送達した。当時、外交は朝廷が担っていたらしい。これを受け取って貴族たちは閉口した。まずは国書の内容から、相手の意図を探らなくてはならない。フビライの国書には、こんなことが書かれていた。</p>

<p>「元の属国である高麗と隣接する日本は、昔から中国に使いを遣わしてきた。しかし、私の時代になってから一度も音沙汰がない。きっと元という国家を知らないのだと思い、私は使いを派遣した。ぜひ今後は互いに訪問し合い、親睦を深めよう」</p>

<p>要するに、修好を求める内容だった。ただし、問題だったのがその文末だ。「兵を用ふるに至るは、夫（そ）れ孰（いず）れか好む所ならん。王其れを図れ」と認められていたのである。</p>

<p>現代語にすると「私は兵力を用いたくはない。どうかそのことをよく考えてくれ」という意味だ。交際しないなら武力で服属させるぞ、という脅しにも取れる。</p>

<p>貴族たちが、どのような議論をしたかは不明だが、最終的には無礼なので返事をしないことに決めた。使者は5カ月も大宰府で待たされた挙句、追い返された。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>当初は日本を侵略する意図はなかった</h2>

<p>ところが、翌文永6年（1269）にも、高麗の使いがやってきた。今度はさすがに、礼儀として返事を出さないとまずいだろうと考えた朝廷は、元に対する返書を作成した。そこには、次のように書かれていた。</p>

<p>「天照大神が、天皇家の血統を輝かしてから、今の天皇に継承されるまで、天皇の徳のおよぶところは、いずれも属さないことはなく、祖霊・神霊、絶対の盟約、百王の鎮護がはなはだ整っていて、四周の夷狄（いてき）の統治も乱れることはない。そのため皇土をもって、長い間にわたって神国と名づけている」（千田稔著『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』中公新書）</p>

<p>このように、日本はアマテラスが守る神国であり、その血統を有する天皇がいることを誇り、国交を拒否したのである。だが、朝廷が返書を送ると知った鎌倉幕府が、これを差しとめた。やはり最終的な外交権は、幕府が握っていたことがわかる。</p>

<p>しかし、懲りずにフビライは、文永8年（1271）にも高麗の使いを送ってきた。元の国書には、「これまで何度も使者を送ったのに返事がない。同年11月になっても返書をよこさないなら、兵船を送る」と書かれてあった。</p>

<p>驚いた朝廷や幕府は、各寺社に怨敵退散の祈祷を命じるとともに、各国の武士たちにも警戒をするよう通達した。元は強大な国家である。モンゴル平原を制したチンギス・ハンがモンゴル帝国を築き、西夏、西遼、ホラズム・シャー帝国、金を滅ぼして、その子供の代にユーラシア大陸にまたがる広大な領土を征服し、孫フビライの時代に北京に首都を移して、南宋（中国）への侵略を始めた。</p>

<p>フビライが日本に遣いを送ったのは、そんな南宋と親しくしている日本を引き離し、南宋の経済力などを削いでしまおうと考えたからだ。</p>

<p>この時点で、日本を征服する意図はなかったという。なのに、度重なる使節を鎌倉幕府が黙殺したことから、ついにフビライは、日本の征伐を決めたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>国際情勢をまったくわかっていなかった</h2>

<p>それにしてもなぜ幕府は、こんな強大な国家からの国交要求を黙殺し続けたのだろうか。南宋に対する配慮なのか、それとも無礼な国書に対し、戦争覚悟で毅然とした態度を見せたのか。</p>

<p>じつは、そうではなく、単に無知だったのである。</p>

<p>1259年に高麗は元に服属したが、高麗の精鋭部隊である三別抄が珍島や済州島を拠点に長年元に抵抗し続けていた。1271年には、日本に援軍を求める使者を派遣している。だが、当時の幕府や朝廷は、隣国であったにもかかわらず、全く半島の情勢を知らず、三別抄の意図を理解できなかったことがわかっている。</p>

<p>幕府の最大実力者は、執権の北条時宗だった。初めて元の国書がもたらされた文永5年（1268）に執権となったが、このときまだ18歳。この若き執権を指導者とする鎌倉幕府が、世界情勢に無知ゆえに元との通交を拒絶し続けたのである。</p>

<p>こうした外交音痴については、研究者の新井孝重氏も「この時代の為政者はまったく国際情勢にうとく、また諸国間の接触経験については、なきに均しい状態であった。いわば無知と外交の未経験が国書を前にして、かれらを硬直させてしまったのである。なにしろ、これまでの外交の経験がないのであるから、仕方のないことであるが、外交上の技術にも暗かった」（『戦争の日本史7 蒙古襲来』吉川弘文館）と述べており、これが学界の定説になっている。</p>

<p>もし当時、現在のような世界地図があって、時宗ら幕府の要人たちに日本と元の国土の大きさの違いを提示したら、さすがに馬鹿ではなかろうから、巨大帝国である元からの使者を無視することはしなかったろう。</p>

<p>素直に国交に応じていれば、フビライもあえて危険を冒して2度も大軍を派遣することもなかったはず。遣唐使のように、定期的に日本が朝貢すれば満足したはず。</p>

<p>ただ、一説によれば、時宗らは意図的に情報を操作されたともいわれる。</p>

<p>鎌倉時代に栄西が宋から臨済禅をもたらすと、北条政子など幕府の要人の保護により、臨済禅は大いに繁栄し、宋からも続々と外国僧が鎌倉に入ってきた。</p>

<p>こうした禅僧たちを、幕府はブレーンとして重用した。ゆえに、元に侵略されつつある祖国のため、宋の僧侶たちが怪しい情報を流し、日本を元と対立させようとした可能性も考えられているのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>元寇が幕府滅亡の遠因に</h2>

<p>つれない日本に対し、激怒したフビライは文永11年（1274）、3万を超える大軍を渡海させた。元軍はモンゴル人と高麗人の混合軍だったが、対馬、壱岐（いずれも長崎県）の人びとを虐殺しながら突然、博多（福岡市）に上陸してきた。</p>

<p>ある程度、準備を整えていたものの、元軍の戦闘能力など一切知らない御家人たちは、ひどい苦戦を強いられた。そもそも戦いのルールが全く違うのだ。</p>

<p>周知のように日本の武士は、一対一の騎馬戦が基本形だった。武士たちは敵陣に近づき、よき敵を見つけると、相手に名乗りを上げて近づいていく。</p>

<p>しかし、元の兵士たちは、その武士を取り囲んで馬から引きずり降ろして殺したり、集団で矢を射かけたりした。しかも、元軍の矢には毒が塗ってあり、皮膚が傷ついただけで毒が回って戦えなくなった。それだけではない。陶器に火薬を詰めて爆発させる「てつはう」が武士や馬を驚かせた。当時の日本には火薬がなかったからだ。</p>

<p>さらに銅鑼（どら）の音、これも人馬を仰天させた。結局、ほとんど戦いにならず、日本軍は博多湾から大宰府へと撤退することになった。</p>

<p>元軍も夜は船へと戻っていったが、翌朝、そのまま姿を消した。この撤退については諸説あるが、日本側は命拾いしたわけだ。これを文永の役と呼ぶ。</p>

<p>翌年、再びフビライは使者として杜世忠（とせいちゅう）らを送り、鎌倉幕府に服属を要求した。だが時宗は、杜世忠らを鎌倉に連行し、ことごとく処刑した。断固抗戦する姿勢を明らかにしたわけだ。その後もフビライは使者を送ったが、皆殺しにしている。</p>

<p>1279年、フビライはついに南宋を滅ぼし、2年後の弘安4年（1281）、準備を整えたうえで再び博多へ大軍を送った。弘安の役である。しかも今度は14万人という想像を絶する数だった。朝鮮半島からは、高麗軍を中核とする東路軍3万。寧波（中国東部）からは、旧南宋軍を従えた江南軍10万が押し寄せてきた。</p>

<p>ただ、このときは相手の戦法を研究していた幕府軍が善戦し、上陸を阻止しているうち大型台風が襲来、元軍は壊滅的な打撃をこうむって退却していった。</p>

<p>「なんだ。結局、元に侵略されなかったから、使者を無視してよかったじゃないか」<br />
そう思うのは誤りだ。この元寇が、鎌倉幕府滅亡の遠因となったからである。</p>

<p>元寇では、警備や戦の費用は全部自分持ちで、死傷した御家人も少なくなかった。<br />
なのに、外国軍が侵攻してきたのを防戦しただけなので、幕府から新たな土地など十分な恩賞が与えられることはなかった。そのうえ、3度目の元軍襲来にそなえ、御家人たちは交替で博多周辺など北九州沿岸の防備にあたらせられた。</p>

<p>一方、北条氏は、有事を利用して権力を強め、多くの守護職や幕府の要職などを独占するようになった。このため御家人たちの幕府に対する忠誠心が薄れ、結果として鎌倉幕府滅亡の遠因となったのである。</p>
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						<pubDate>Thu, 03 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[河合敦（歴史作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>豊臣秀吉の朝鮮出兵は天下統一の副作用？「せざるを得なかった」大人の事情  伊藤賀一（社会科講師）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14961</link>
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			<description><![CDATA[社会科講師の伊藤賀一氏が「大人のための日本史講義」を開講。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉について、「太閤検地」と「朝鮮出兵」をキーワードに、わかりやすく解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="豊臣秀吉" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_toyotomihideyoshi.jpg" width="1200" /></p>

<p>歴史を学ぶことは、社会人として、日本人として身につけておきたい「教養」です。本稿は、社会科講師としてオンライン授業を数多く手掛けてきた伊藤賀一氏が「大人のための日本史講義」を開講。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉について、「太閤検地」と「朝鮮出兵」をキーワードとして解説します。</p>

<p>※本稿は、伊藤賀一著『史上最強にわかりやすくて面白い ぶっ続け日本史講義10時間』（WORDS／フォレスト出版）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「信長の安土」と「秀吉の桃山」の時代</h2>

<p>じゃあ、続きをやりますね。<br />
ついに近世に入ってまいりました。原始・古代・中世・近世ということですね。近世は「安土桃山時代」と「江戸時代」に分かれます。江戸時代のペリー来航の1日前までが、近世だと思ってください。幕末は除きます。</p>

<p>まず、安土桃山時代の「安土」というのが何かというと、織田信長の安土城のことなんです。「桃山」というのは豊臣秀吉の伏見城のこと。伏見城は取り壊されましたが、その城があった場所のことを「桃山」といいます。</p>

<p>ちなみになんで桃山というかといえば、桃の木が植えられてたからです。いまは明治天皇がその近くに眠ってらっしゃいます。「桃山御陵」というお墓があります。</p>

<p>ようするに安土桃山時代というのは「織豊政権」のことです。織田信長と豊臣秀吉の時代を指すわけです。</p>

<p>ただ、織田信長は天下を統一したわけではないですね。天下統一に指をかけた、という感じ。指をかけたところで、本能寺の変で足元をすくわれる。なので信長がやったのは「中部地方と近畿の大半を統一した」ということです。日本最大の激戦区ですね。</p>

<p>越後の上杉や越前の朝倉や甲斐・信濃の武田、それから駿河・遠江の今川や美濃の斎藤などがいる、めっちゃくちゃの激戦区。そんな中部地方を信長は獲ったわけです。</p>

<p>さらに、室町幕府の将軍を追放する形で、近畿地方もだいたい獲ります。しかし、根来・雑賀衆のいた和歌山県だけは獲れてなかったんですね。</p>

<p>じゃあ誰が和歌山県を獲ったかというと、それが豊臣秀吉です。<br />
そのあと四国の長宗我部を破り、中国地方の毛利も従わせています。それから九州の島津も破り、関東の北条を屈服させます。さらにそのころ東北の伊達と最上が謝りに来たという、そういう状態です。これで天下統一になります。</p>

<p>豊臣秀吉は「関白」になります。関白というのは、天皇の補佐役として代わりに政治する役職のこと。めっちゃ強いポジションです。藤原摂関家の「五摂家」のトップの、近衛家の養子に入って、関白になる。そんなやり方をしたんですね。</p>

<p>そのあと天皇から名前をもらって、豊臣というスーパーブランドの氏をつけてもらい、豊臣羽柴秀吉となります。元関白のことを「太閤」というふうにいうので、「太閤秀吉」なんて呼ばれ方をするわけです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>① 太閤検地で「秀吉ルール」を全国に広める</h2>

<p>豊臣秀吉に関して大事なのは大きく2つです。</p>

<p>みなさんよく「太閤検地」と「刀狩」が大事だ、と勘違いされるんですが。これらは2つで1つみたいなもんです。実態としては「太閤検地の中に刀狩がある」くらいのものだからです。</p>

<p>なので、大事なのは「太閤検地」と「朝鮮出兵」。この2つです。</p>

<p>まずは太閤検地。これが何かといえば、いってみれば全国画一の「秀吉ルール」を広めるためのものです。</p>

<p>全国に戦国大名がいました。室町幕府も朝廷も大寺社もありました。なんやかんや、いろんな勢力があるわけでしょ。それらは全部、徴税の基準がバラバラだったんですよ。「徴税をして国防をする」っていうのが、国の最低限の仕事だったんです。だから「徴税の仕方」というのはめっちゃくちゃ大事なポイントになるわけですね。</p>

<p>もし徴税の仕方がバラバラだったら、全国各地で米の量枡の大きさすら違ったわけです。それをちゃんと「京枡（きょうます）」という、京都周辺で使っていた枡の大きさに統一した。また、長さを測って、田んぼや畑を評価する基準もすべて一緒にします。そういう秀吉ルールを全国一律で広める。これが太閤検地なんです。</p>

<p>でもそうすると、利権を失うということで、それに反対する人間がいっぱいいるわけです。そういった人たちに一揆を起こされると困る。だから「刀狩令」を出しただけなんですね。</p>

<p>結局、刀狩というのは、太閤検地の過程での話。太閤検地の下にあるものであって、横に並ぶものではないんですよね。まずそれが、国内的には重要なひとつの出来事です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>② 朝鮮出兵で高まるナショナリズム</h2>

<p>それから国外的には、日本国として朝鮮を侵略します。これで、ものすごいナショナリズムが高まるんですよ。蒙古襲来のときも「日本国民だな」っていう意識は芽生えましたが、それはたぶん支配者層だけだと思います。でも、朝鮮侵略のときは違うんですよね。</p>

<p>2回合わせると、30万人近くの人間が出兵しました。しかも、各地の大名が動員をかけるわけです。「太閤秀吉様が言ってるから、徴兵して戦争に行くんだ」ということです。</p>

<p>海を実際に渡る人間もいれば、渡らないで、いまの佐賀県の名護屋っていうところに留まる場合もありました。とにかく全国民が、そういう意識を持つようになって、ナショナリズムがめちゃくちゃに巻き起こるわけですね。国家意識が最高潮になります。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ユニクロやセブン-イレブンと一緒</h2>

<p>では、なぜ秀吉は朝鮮侵略をしようとしたのか。これは大人っぽいビジネスの話とまったく一緒です。</p>

<p>ユニクロさんでもセブン-イレブンさんでもニトリさんでも、なんでもいいですが。たとえば、山口県の宇部で紳士服の店「小郡商事」を継ぎました。そこから「全国統一するぞ」とかって言って、どんどんどんどん店を広げていく。名前も「ユニクロ」っていう名前に変える。最初はそうやって、柳井さんがワーッと頑張って全国に広げていくわけです。</p>

<p>セブン-イレブンでもいいですよ。最初は、日本のイトーヨーカドーの中でやっている会社だったわけですよね。アメリカから導入したとはいえ、イトーヨーカドーの下じゃないですか。四国に1店舗もないから「四国に進出するぞ！」とか言って。最初の頃は九州にもない、沖縄にもない。「セブン-イレブン？ 何それ？」みたいな感じだったわけですよね。それで「行け行け！」って、ワーッと全国展開を進めていった。</p>

<p>最初はそれで楽しいんですよ。元からいた人間たちも出世していって、各ブロックのエリア長になって「カリスマ店長だ」とかなんとかって言われていれば、それでいいわけですから。</p>

<p>ところが、全国制覇しちゃうと「ん？」という話になります。それ以上の夢がなくなってしまう。それはカレーのココイチもそうだし、ラーメンの一風堂もそうですよ。全国統一しちゃうと、夢がなくなるんです。次の夢を見つけないといけない。<br />
だから海外に進出するわけです。</p>

<p>秀吉の朝鮮侵略もこれと同じです。<br />
つまり「御恩と奉公」の、「テイクアンドギブ」の関係で成り立っているのが武家社会なわけです。</p>

<p>いま僕は、わざと「逆」で言ってるんですよ、「ギブアンドテイク」じゃないんですよ。「テイクアンドギブ」です。テイクするからギブするわけであって、御恩と奉公というのは、まず「御恩」なんですよ。</p>

<p>聞いたことないでしょ？「奉公と御恩」なんて言葉。御恩と奉公、つまり「テイクさせてもらったから、命懸けで働きます」っていうものなんです。なので、まずは家臣にテイクさせてやるような、何かがないといけないわけです。それが武家の主従関係なので。御恩がなかったら、誰も頑張れません。</p>

<p>豊臣秀吉と全国の大名の主従関係も、まずはテイクから始まります。でももう天下統一しちゃったので、何もないわけです。だからこそ朝鮮半島を経て、中国大陸の明の皇帝を打ち倒すことを目標にする。「半島から大陸に世界は広がる」みたいなビジョナリーなことを言うわけですよ。</p>

<p>そういうことをやらないと、武家社会の主従関係を維持できない。なので朝鮮に「行かざるを得なかった」ということだったんですね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>世界最強の陸軍大将だった。しかし...</h2>

<p>陸軍としては自信があったんですけどね。豊臣秀吉って、当時は世界最強の陸軍大将でした。陸だけでいえば、たぶん当時は日本が世界一だったから。兵の動員力や、火縄銃がいっぱいあったことを考えると、おそらく日本がいちばんです。和泉国の堺や近江国の国友が、自ら鉄砲を生産できましたからね。そして大坂城は世界最大。陸軍国としてはめちゃくちゃ強かったんですよ。</p>

<p>ところが、しんどいっすね。日本は海洋国家なので、外に出ていくときに必ず海を渡らないといけないわけですよ。</p>

<p>どうせ海を渡るわけなので、いきなり中国を攻めてもよかったんです。実際、秀吉の真の目的は「中国を攻めよう」ということでした。でもそこで「補給はどうするんですか？」という話になります。兵を送り込んだあと「水は？武器は？馬は？食糧は？」という話になってくるんですよ。</p>

<p>なので、朝鮮半島だったら玄界灘を渡ればいいだけだから、そこを兵站として使おう、と考えた。それでのび太の日本は朝鮮半島に「従え」って言ったんですが、当然、スネ夫（＝朝鮮）に断られました。なので、まずは朝鮮侵略になっちゃった、というだけです。</p>

<p>ようは、通り道を確保するためだけに朝鮮を攻めたんですね。本当の目標は、朝鮮自体ではなく、ジャイアンたる中国の北京だったんです。</p>

<p>いやあ、それでも、玄界灘を渡るだけでもダメなんですよ。朝鮮には名将李舜臣（りしゅんしん）がいらっしゃいますから。ダメですよ、朝鮮水軍はやっぱり強いです。亀甲船という凶器みたいな船を使って、兵站をカットしてくるわけですからね。</p>

<p>あと、中国も朝鮮を助けてくれますからね。朝鮮を突破されたら、中国の明に突っ込んでくるわけだから。明も援軍を送るわけです。日本は朝鮮と明の両方と戦うことになってしまったんです。</p>

<p>これで負けちゃいました。結果的には「諦めて帰る」という形になりました。</p>

<p>これで豊臣政権は大ダメージを喰らうわけです。海外進出に失敗したわけですよね。しかも、その最中にカリスマであるトップの秀吉が死んでしまいました。残されたのは、幼い秀頼くんということになっちゃった。</p>

<p>これではしんどいですね。このダメージが尾を引き、豊臣家は滅亡してしまいます。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 02 Sep 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[伊藤賀一（社会科講師）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>古代日本は「のび太」？伊藤賀一がドラえもんで語る東アジア史と地政学  伊藤賀一（社会科講師）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14958</link>
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			<description><![CDATA[社会科講師の伊藤賀一氏が古代の東アジア世界を『ドラえもん』にたとえてユニークに解説。中国を理解するための「冊封関係」を、のび太やジャイアンなど『ドラえもん』の登場人物で整理します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="伊藤賀一氏が描いた、東アジアにおける日本" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260824ItoGaichi01.jpg" width="1200" /></p>

<p>「学校で古代史を習ったが、よく憶えていない」――そんな人は多いのではないでしょうか。しかし歴史を学ぶことは、現代を理解するうえでのヒントにもなり得るもの。社会人として、日本人として持っておくべき「教養」です。本稿は、社会科講師としてオンライン授業を数多く手掛けてきた伊藤賀一氏が「大人のための日本史講義」を開講。古代において日本という国がどのようなポジションに置かれていたか解説します。</p>

<p>※本稿は、伊藤賀一著『史上最強にわかりやすくて面白い ぶっ続け日本史講義10時間』（WORDS／フォレスト出版）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>中国がジャイアンで朝鮮がスネ夫</h2>

<p>古代の東アジア世界のことは『ドラえもん』みたいなもんだと思ってください。<br />
すごく簡単な図を書きますね。<br />
まずは中国。「中国」って書くぐらいだから、自分たちを世界の中心だと思っていますね。中国王朝があります。それから朝鮮。それから沿海州、または中国の東北部。これは同じぐらいのくくりだと思っておいてください。そして、日本があります。<br />
この4人の登場人物で展開されるアニメです。</p>

<p>中国はこの中で王朝交代をしています。たとえば隋・唐・宋・元・明・清と変わっていくわけです。朝鮮も新羅・高麗・朝鮮などというふうに王朝交代していく。この中国東北部の世界も、高句麗がいて渤海がいて、その後も金というのが出てきて...というように、いろいろと変わっていきます。日本だけ、ずっと王朝が変わりません。</p>

<p>『ドラえもん』でいうと、中国はジャイアンになります。いちばん強い。<br />
朝鮮は、たとえるならスネ夫です。いつもコンビを組んでいて、中国とは主従関係がある。だから中国の皇帝が、朝鮮の王の任命をしているわけです。</p>

<p>で、そういう関係を「冊封」という言葉で表します。「冊封されている」などというふうに言うわけ。中国皇帝により朝鮮王は任命されているという、冊封関係にあるわけですね。</p>

<p>5世紀までは、日本王も中国の皇帝によって任命されていました。「倭の五王」と呼ばれるときくらいまではそうだった。ところが7世紀の遣隋使・遣唐使以降は、そうじゃなくなります。途中でちょっとだけ変わってくるんですけど、基本はそのままです。日本は独立するんですね。</p>

<p>中国がジャイアンでしょ、朝鮮がスネ夫でしょ、日本はのび太なんです。ただ、いちおう独立してはいるわけです。ジャイアンとのび太って、別に親分子分じゃないですよね。基本的には仲良くないです。でも仲いいときもありますよね。映画のときだけ仲いいじゃないですか。わかんないけど、そういった感じです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「自分はジャイアンの子分じゃない」というプライド</h2>

<p>朝鮮と日本がライバル関係なんですよね。<br />
スネ夫って、自分はジャイアンよりは下だとは思っているんだけど、のび太に対しては「のび太のくせに」と思っているわけ。それと同じですね。位置関係からいっても、中国の優れた制度や文化がいち早く入ってくるから、朝鮮のほうが先進国でした。なんだけど、のび太にもプライドがあるわけです。「自分はジャイアンの子分じゃない」という、プライドがある。スネ夫はそれが気に入らないんですね。だから朝鮮も日本も、お互いのことを「何だよ」と思っているわけです。</p>

<p>じゃあ、それ以外の沿海州の近隣国は誰なのか？ というと、しずかちゃんです。<br />
あのアニメには、自分磨きにいそしんでいる、バイオリンの下手な女の子がいますよね。「いつも風呂入ってるやないか、お前は」って言う人がいますが、4つ目の近隣国はそんな感じです。そういう、中立的な感じだと思ってください。</p>

<p>ところがここも、ときどきバグるんです。しずかちゃんがたまに怒ったりする。<br />
11世紀の「刀伊（とい）の入寇（にゅうこう）」のように、いきなり攻めてきたりしたこともあります。</p>

<p>当時の東アジアというのは、こういう世界です。そして当時の日本が考えている「世界」というのは、これだけです。インドとかギリシャとかローマとか、考えたこともないんです。一度も考えたことがない。西のどのあたりにあるんだろう？ くらいに思ってます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ヤバいのは、ランドパワーの国が海に目を向けたとき</h2>

<p>日本はこの地図を見てもわかるように、島国なんですよね。だから、のんきなんですよ。島国って地政学的にめっちゃのんきです。「海を隔てているから、それがシールドになっている」と完全に思っているんですね。油断しまくっている。「あんまり油断してると、エーゲ海のクレタ島みたいにやられるで」と思うんですけども。とにかく油断しがちで、それはもう、都市の様子を見たらすぐにわかります。</p>

<p>たとえばアテネとかって、城壁がありますよね。あと『キングダム』の漫画を見ようが『三国志』を見ようが、中国の町には絶対に城壁があるじゃないですか。イギリスも同じです。イギリスはスコットランドだの、イングランドだの、ウェールズだのいろいろあって、中で揉めまくっている。だからそれぞれ城壁があって、城塞都市になっていますよね。</p>

<p>一方で日本には、首都にすら城壁がありません。<br />
藤原京にもない。次の平城京もそう。長岡京もないし、平安京にもありません。なんか飾りだけ。羅城門のところだけですよね。ちゃんとした羅城がないんですよね。</p>

<p>で、豊臣秀吉のときだけ「御土居（おどい）」っていうのがありました。その当時は朝鮮との関係が微妙だったり、スペインのフェリペ2世との関係もあったりするからですね。城塞都市みたいにしないといけないというので「御土居」という土の堤防を造りました。で、そこにいくつか出入口を開けていた。それはいまだに「鞍馬口」とか「丹波口」みたいに、駅の名前として残っていますよ。でも、基本的に日本の都市には城壁がありません。</p>

<p>地政学的にいうと、ランドパワーの国とシーパワーの国では、ぜんぜんテンションが違うんです。</p>

<p>ランドパワーの国、ようは陸中心の国というのは、すっごい好戦的。つねに「隣に進出してやろうか」っていうテンションなんですね。国防にしても「隣から攻められるんじゃないか」っていう緊張感がすっごいあるんですよ。たとえばロシアとか中国とか、ヨーロッパの大陸諸国、ドイツとかですね。</p>

<p>それに比べてシーパワーの国って、ほんとにのんきです。日本なんか、モロにそうですけどね。世界がいちばんヤバいときというのは、ランドパワーの国である彼らが「海に目を向けたとき」です。そう、中国ね。中国が海、つまり台湾に目を向けているのはヤバいです。「一帯一路」構想とか言い出したし。「一路」っていったって、アフリカとかまで含めちゃうわけでしょ。そんななかで「台湾のシーレーン（海上交通路）があるだろう」って言ってるわけであって。これはほんまにヤバいで、っていう感じなんです。</p>

<p>でも日本は、島国だからすっとぼけてます。「まあ大丈夫やろ」みたいな絵を描いている。その「すっとぼけな感じ」が、島国のものの見方ですね。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 28 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[伊藤賀一（社会科講師）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>織田信長からの協力要請を拒否? 何度負けても「信長に抗った」六角義賢・義治父子の生涯   鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12815</link>
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			<description><![CDATA[南近江の戦国大名、六角義賢・義治父子は、織田信長と戦わずして敗れたと言われるが、その実態はどうだったのか？作家の鷹橋忍氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="六角父子の生涯" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/kiyosujyo_pixta.jpg" width="1200" /></p>

<p>織田信長と戦わずして敗れた......。南近江の戦国大名、六角義賢（ろっかくよしかた）・義治（よしはる）父子は、そのように見られがちだ。だが、それは違う。敗れはしたものの、そのたびに再起し、信長に抗い続けたのだ。父子の生涯を辿ったとき、彼らを「敗者」と言い切れるだろうか。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年8月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>六角氏の嫡流は、近江守護の名門だった</h2>

<p>南近江の戦国大名・六角義賢は大永元年（1521）、六角氏当主・定頼の長男として生まれた。母は、美濃土岐家出身の慈寿院である。義賢はのちに戦うことになる織田信長より、13歳年上となる。</p>

<p>六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流である。佐々木氏は、近江国蒲生郡佐々木庄（滋賀県近江八幡市）を名字の地とし、約400年もの長きにわたり近江守護を務めた名門だ。</p>

<p>鎌倉時代初期の惣領・佐々木信綱の息子の代に四家に分かれ、三男の泰綱が惣領となり、近江守護を引き継ぎ、六角氏を名乗った。ちなみに「六角」の名は、京都の邸宅が六角東洞院（ひがしのとういん）にあったことに由来する。</p>

<p>六角氏はほぼ一貫して近江守護の立場にあったが、支配領域は近江一国ではなく、南近江のみである。北近江は、佐々木氏庶子家の京極氏（佐々木信綱の四男・氏信より興った一族）の勢力下にあった。</p>

<p>だが、力がなかったわけではない。義賢の祖父・六角高頼は室町幕府と敵対し、長享元年（1487）に9代将軍・足利義尚から第一次六角征伐、延徳3年（1491）に10代将軍・足利義稙から第二次六角征伐と、二度の親征を受けているが、どちらも退けている。六角氏は、追討軍にも負けない軍事力を持っていたのだ。</p>

<p>家督を継いだ高頼の嫡子・六角氏綱が早世すると、義賢の父・定頼が当主になり、六角氏は全盛期を迎える。</p>

<p>定頼は、政情不安定になった京都から近江に逃れた12代将軍・足利義晴を、居城である観音寺（かんのんじ）城が築かれた繖山（きぬがさやま）の西麓にある桑実寺（くわのみでら）に迎え入れるなどして庇護し、政治的な地位を向上させた。義晴政権の諮問役として幕政にも関わっている。</p>

<p>義賢は天文2年（1533）、数えで13歳のときに元服しているが、その祝いには桑実寺に滞在中の足利義晴が御成している。義賢の「義」の字も、義晴からの偏諱である。</p>

<p>天文15年（1546）12月、義晴の子で、のちに13代将軍となる足利義輝の元服加冠の際には、父・定頼が加冠役を務め、義賢が護衛にあたっている。このように、義賢は早くより父と行動を共にし、政治や軍事、外交などに関わってきた。</p>

<p>天文21年（1552）正月2日、定頼が死去すると、義賢は32歳で家督を相続する。敵対していた三好長慶と和睦し、北近江の京極・浅井方との対決に備えるなど、義賢は当主として充分な役割を果たしていった。幕府や社寺権門からも頼られていたという。だが、義賢が当主でいたのは、僅か6年のことであった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>義賢と義治の親子関係は&nbsp;</h2>

<p>義賢は38歳の永禄元年（1558）頃に出家し、抜関斎承禎（ばっかんさいじょうてい）と称した。このとき、嫡男・六角義治（当時は義弼〈よしすけ〉）に家督を譲ったようである。義治は、天文13年（1544）生まれとされ（村井祐樹『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』）、このとき15歳であった。</p>

<p>だが、義賢は家督移譲後も文書を発給するなど、政治的な活動を継続しており、実権を握り続けていた。そのため、前当主と現当主が並立する二重権力の状態が発生し、義賢と義治の関係は、政治路線や考え方の違いなどから次第に悪化。</p>

<p>永禄3年（1560）7月には、義治が相談なく美濃の斎藤義龍の娘と婚姻関係を結ぼうとしたことを、義賢に叱責され、永源寺（滋賀県東近江市）に逼塞してしまうという事件も起きている。</p>

<p>さらに3年後の永禄6年（1563）10月、六角氏を揺るがす「観音寺騒動」が勃発。</p>

<p>騒動は、義治が重臣筆頭の後藤賢豊・又三郎父子を、観音寺城で誅殺したことに端を発する。誅殺におよんだ理由は不明だが、義治が後藤氏の勢力拡大を恐れたからともいわれる。</p>

<p>義治の非道な行ないに、永田、三上、進藤、平井らの六角氏重臣たちは怒りを爆発させた。重臣たちは観音寺城に在住していたが、城内の自らの屋敷を焼き払うと本拠に退いて、叛意をあらわにする。離反した家臣たちは北近江の浅井氏を頼り、浅井氏が騒動に乗じて、愛知（えち）郡の四十九院（しじゅうくいん。滋賀県豊郷町）まで進軍してきた。</p>

<p>この情勢を受け、義賢は甲賀郡の三雲氏のもとへ、義治は蒲生氏を頼って蒲生郡日野（滋賀県日野町）へ、それぞれ逃避する。</p>

<p>その後、六角氏重臣・蒲生定秀らのとりなしで、義賢・義治父子は観音寺城に戻り、家臣たちも帰参した。だが、義治の当主としての威信は地に落ち、六角氏は衰退の道を辿っていくことになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>粘り強く信長に抗い続けたが...</h2>

<p>永禄10年（1567）4月には、観音寺騒動以来の領国の混乱を収拾するため、分国法「六角氏式目」が制定される。分国法とは、自身の領国内のみで通用する法典のことであり、20名の六角氏重臣が起草し、それを義賢・義治父子が承認する形で成立した。</p>

<p>だが、六角氏式目が長く使われることはなかった。翌年、義賢・義治父子は、足利義昭を奉じた織田信長により、観音寺城を追われるからだ。</p>

<p>永禄11年（1568）8月、義賢のもとに、織田信長から足利義昭の上洛への協力を要請する書状が届いた。</p>

<p>しかし、義賢がこれを拒否したため、信長は六角氏制圧に踏み切る。上洛の途上で、信長は義賢・義治父子が籠もる観音寺城と箕作（みつくり）城（滋賀県東近江市）を攻めることとした。</p>

<p>同年9月12日、申の刻（午後4時前後）から攻撃された箕作城が夜に陥落すると、義賢・義治父子は観音寺城を後にし、甲賀方面へと落去した。このとき、主だった六角氏家臣たちは信長に降っている。これをもって、戦国大名としての六角氏の滅亡とされることが多い。</p>

<p>六角氏は戦わずして信長に敗れたといわれるが、このとき義賢は落去先の甲賀郡などで勢力を蓄えて、観音寺城に返り咲くつもりだったとみられている。その証拠に、観音寺城を追われてからも、義賢・義治父子は、信長と戦い続けているのだ。</p>

<p>元亀元年（1570）4月、義賢・義治父子は信長に反旗を翻した浅井長政に呼応し、反信長の軍事行動をはじめた。</p>

<p>6月には南近江で一揆を扇動し、北進して野洲河原（やすがわら。滋賀県野洲市）で、信長から南近江を任された柴田勝家と佐久間信盛らの軍勢と一戦を交えた。</p>

<p>だが、六角勢は2、3千人が討死する大敗を喫してしまう（『言継卿記』）。10月には家臣の三雲氏の居城である菩提寺城（滋賀県湖南市）に入り、11月には近江志賀で、正式に信長と和睦した。事実上の降伏だという。しかし、義賢・義治父子は、まだ諦めてはいなかった。</p>

<p>元亀3年（1572）、六角氏は再び信長と敵対し、翌元亀4年（1573）4月、義治が愛知郡の鯰江（なまずえ）城（滋賀県東近江市）に立て籠もった。</p>

<p>信長は義治を支援していた百済寺を焼き討ちにし、9月4日、柴田勝家に命じて鯰江城を攻めさせた。義治は父・義賢の籠もる石部城（滋賀県湖南市）へ逃れたという。</p>

<p>その後も義賢・義治父子はゲリラ戦を繰り返し、一向一揆と手を組み、天正2年（1574）ごろまで信長に抵抗し続けた。</p>

<p>しかし、石部城は天正2年4月に織田方の手に落ち、六角氏の近江国における拠点は消滅した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>六角父子の最期</h2>

<p>本能寺の変で信長が世を去った後、義賢は豊臣秀吉に召し抱えられ、慶長3年（1598）3月14日、宇治にて、78歳で、この世を去った。</p>

<p>一方、義治は足利義昭に近侍した。信長に京を追われた義昭は、毛利氏を頼り、鞆（とも。広島県福山市）に滞在していたが、義堯（よしたか）と名を改めた義治も、重要なメンバーの一人として、付き従ったという。</p>

<p>のちに、義治は豊臣秀次の弓の師範に任じられた。秀次亡き後は、秀吉とその息子の秀頼に仕え、慶長17年（1612）に、京師賀茂にて69歳で、没している。</p>

<p>義賢も義治も、秀吉には御伽衆として仕えたという。御伽衆は主君に近侍し、話し相手を務める役目で、特殊な経験や豊富な知識を持ち、話術が巧みな者が選ばれた。父子にはそれに応えうる資質があったのだろう。</p>

<p>最後に、六角氏の子孫を、紹介したい。</p>

<p>義治には、男子がいなかった。そのため、大原氏の名跡を継いだ弟の大原高定の息子・定治が、義治の娘と結婚して養子となる。</p>

<p>定治は寛永7年（1630）に加賀藩に仕え、その家は江戸時代を通じて、加賀藩士であったという（村井祐樹『六角定頼　武門の棟梁、天下を平定す』）。</p>

<p>戦国時代を生き延び、天下人の御伽衆にも選ばれ、その子孫も存続した。名門大名から一介の武士になったとはいえ、義賢と義治は勝者といっていいのではないか。戦いには敗れても、諦めず抗い続けた者は勝者になれるのだと、義賢・義治父子の生き様は教えてくれる。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 27 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「石油が高騰すれば統治できる」プーチンを皮肉るロシアの小話「アネクドート」の切れ味  名越健郎 (拓殖大学客員教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14814</link>
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			<description><![CDATA[KGBでは凡庸なスパイだったと言われるプーチン大統領。「権力に野心はない」としながら、四半世紀も独裁政権を維持し続ける彼について、さまざまな皮肉を込めたロシアの風刺小話「アネクドート」を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ロシア国旗" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_russia_flag.jpg" width="1200" /></p>

<p>ロシアには「アネクドート」の文化がある。社会や政治を揶揄するような、風刺を込めた小話のことだ。元KGBのスパイであり、謎多きイメージのあるプーチン大統領に対し、ロシア国民はどのようなアネクドートを語っているのか。2度のモスクワ滞在経験があるジャーナリストの名越健郎氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、名越健郎著『ジョークで読み解く「ロシア近現代史」』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>権力に野心はない</h2>

<p>「現代の著名人のなかで、プーチンは最も謎多き人物だと言っても過言ではない。彼に関するあらゆることがミステリアスであり、謎に包まれている」</p>

<p>トランプ米政権一期目にNSC（国家安全保障会議）に勤務した米国の著名なロシア専門家、フィオナ・ヒル米ブルッキングス研究所主任研究員は共著『プーチンの世界』（新潮社）でこう書いた。確かに、四半世紀にわたってロシアの独裁権力を握るウラジーミル・ウラジーミロビッチ・プーチンには依然として謎が多い。</p>

<p>1952年、ペテルブルクの労働者の家庭に生まれ、KGBでは「凡庸なスパイ」で、中佐止まりだった人物が、なぜ長期政権の維持に成功したのか。ペテルブルク副市長時代の1996年、サプチャク市長の落選で失業しながら、クレムリンに就職後、とんとん拍子に出世し、4年で大統領に上り詰めたのはなぜか。その背後で、実力組織である旧KGB勢力がどのような役割を果たしたのか。</p>

<p>もともと権力志向が希薄だったのに、恒久政権にこだわる理由も謎だ。プーチンは首相時代の1999年秋、エリツィンから後継指名を受けた時、「自分には荷が重い」としていったん断った経緯がある。</p>

<p>2000年に就任した当初は、「私は大統領職を民主的にするために全力を挙げる」「権力に野心はなく、任期が切れたら退陣するつもりだ」と欧米の専門家らに公言していた。</p>

<p>終身体制へ舵を切る転機の年は2004年だったと思われる。この年はチェチェン共和国独立派の凄惨なテロが頻発し、9月には南部のベスランで死者330人を出す学校占拠人質事件が起きた。プーチンは直後の演説で「国家の統一が脅かされている」とし、知事の公選中止や下院選挙改革など大統領の一元支配を強化した。</p>

<p>2004年には、NATOの東方拡大があり、バルト三国など中・東欧7か国がNATOに新規加盟し、ロシア包囲が強まった。この年の秋には、ウクライナで「オレンジ革命」が発生。大統領選での不正選挙に改革派市民が決起して大規模な抗議運動を行い、翌年のやり直し選挙で、親米派候補ビクトル・ユーシェンコが当選した。</p>

<p>民主化運動「カラー革命」が旧ソ連各地に広がり、プーチン政権は米国が背後で暗躍していると決めつけた。</p>

<p>2004年12月の深夜、タス通信が「安保会議は来年5月9日の対独戦勝60周年記念日を盛大に祝賀し、毎年軍事パレードを行うことを決めた」とする記事を流したことを覚えている。ソ連崩壊後、国家のアイデンティティーを喪失していたロシアが、愛国主義と戦勝神話を新たな国家イデオロギーに据えた形だ。</p>

<p>翌年から、戦勝記念日の軍事パレードがモスクワなど全土で行われ、戦勝への狂信的な信仰が始まった。国家機能や政権体質は変わり、それがやがて対外膨張につながった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>プーチンと国民の対話は毎回4時間</h2>

<p>英国人女性ジャーナリスト、キャサリン・ベルトンも著書『プーチン ロシアを乗っ取ったKGBたち』（上・下、日本経済新聞出版）で、当初はリーダーの役目に乗り気でなかったプーチンは「1期目の4年が過ぎる中で、辞めるに辞められなくなるような事態が発生したことを理解した」と指摘。やはり2004年に「国の運営の仕方を消極的に変化させた」と書いている。</p>

<p>ベルトンによれば、1970年代後半にKGBレニングラード支部でプーチンの同僚だった旧KGB勢力が結集し、権威主義と長期政権につなげたとの見立てだ。プーチンは、憲法が定めた2期8年の大統領任期に沿って2008年にいったん辞任。後継者にサンクトペテルブルク時代の部下で、政権内リベラル派だったドミトリー・メドベージェフを指名し、当選させた。自らは首相に就任し、2人が実権を持つ「タンデム」（二頭立て馬車）といわれた。</p>

<p>プーチンは強運の指導者であり、ゴルバチョフ、エリツィン時代に低迷していた原油価格が就任後、中国など新興国の経済成長で高騰し、ロシアは高度成長時代に入った。政治的、社会的安定も回復し、プーチンの支持率は終始高かった。</p>

<p>48歳で大統領に就任したプーチンは、柔道や水泳、アイスホッケーなど得意のスポーツやアウトドアのパフォーマンスを披露し、病弱だったエリツィンとの差別化を図った。</p>

<p>プーチンは秘密主義のイメージがあるが、実際は違い、むしろ会見好きだ。政権が最も重視するテレビを通じた国民対話「プーチンと直通回線」は毎回4時間以上続き、立て板に水でてきぱき答える。毎回、幹部や知事らがやり玉に挙がるだけに、国民対話を皮肉るジョークも多い。</p>

<p>ある記者会見では、1990年代に白タク運転手のアルバイトをしていたことも明かし、庶民の目線をアピールしていた。政権前半のアネクドートは、強面（こわもて）のプーチンに是々非々で臨む作品が多い。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「極秘」の封筒をこっそり開けると...</h2>

<p>プーチン大統領が閣僚候補を数人執務室に呼び、「極秘」印の押された封筒を首相に届けるよう指示した。<br />
一人の候補がトイレに寄り、こっそり封筒を開けると、中にはこう書かれていた。<br />
「合格だ。わたしの部屋に戻ってくれ」</p>

<p>ロシア大統領選の投票所で、年配のロシア人が出口調査の質問を受けた。<br />
「誰に投票しましたか？」<br />
「共産党の候補だ」<br />
「なぜですか？」<br />
「昼間に共産党委員会に出頭する方が、夜中にルビャンカ（KGB本部）に連行されるよりましだ」</p>

<p>ロシア大統領選の投票所で、年配のロシア人が出口調査の質問を受けた。<br />
「好きな作家は誰ですか？」<br />
「ウラジーミル・ウラジーミロビッチ・ナボコフだ」<br />
「好きな詩人は誰ですか？」<br />
「ウラジーミル・ウラジーミロビッチ・マヤコフスキーだ」<br />
「誰に投票しましたか？」<br />
「ウラジーミル・ウラジーミロビッチ...。一体同じことを何度言わせるのだ」</p>

<p>注：ウラジーミル・ナボコフ（1899-1977）＝欧米で活躍した亡命作家。少女への性愛を描いた『ロリータ』が有名。<br />
注：ウラジーミル・マヤコフスキー（1893-1930）＝1920年代のアバンギャルド（前衛芸術）を代表する詩人。</p>

<p>深夜、プーチン大統領が台所に入り、冷蔵庫を開けた。<br />
すると、プリンがぶるぶる震え始めた。プーチン大統領が言った。<br />
「心配するな。ビールを取りに来ただけだ」</p>

<p>政府高官の自宅にプーチン大統領から電話がかかってきた。夫人が取り次いで言った。<br />
「あんた、大統領から電話よ」<br />
「なぜ自宅の番号を知っているんだ」<br />
「それよりも、この時間にあんたが家にいることを知っていることの方に驚きだわ」</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>サンクトペテルブルク人脈</h2>

<p>モスクワ郊外の検問所で、交通警察がクルマを検問していた。<br />
「お前はどこから来た」<br />
「チェチェンからです」<br />
「通すわけにはいかない。とっとと帰れ」<br />
「お前はどこから来た」<br />
「サンクトペテルブルクです」<br />
「...どうぞお通りください」</p>

<p>プーチン大統領の記者会見で記者が質問した。<br />
「サンクトペテルブルクをプーチンブルクと改名する噂があります」<br />
「プーチングラードの方が語感がいい」</p>

<p>プーチン大統領が人気取りのため、狩猟、潜水、水泳、柔道のパフォーマンスを披露した。これを見た有権者が言った。<br />
「彼にできないことは、護衛なしに町を歩くことだけだ」</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>レーニンは地下鉄、スターリンはバス、ではプーチン時代は？</h2>

<p>スターリンは、いかにしてこの国を統治すべきかを示した。<br />
フルシチョフは、能力がなくても統治のそぶりができることを示した。<br />
ブレジネフは、能力のない者が統治できるわけではないことを示した。<br />
ゴルバチョフは、この国の統治がいかに難しいかを示した。<br />
エリツィンは、結局この国は統治できないことを示した。<br />
プーチンは、石油価格高騰があれば統治はできることを示した。</p>

<p>レーニン時代は地下鉄。周囲は暗闇だが、前方に明かりが見える。<br />
スターリン時代はバス。半分は（監獄に）座り、残りは立って震えている。<br />
ブレジネフ時代は飛行機。一人が操縦し、残りは退屈でうんざりしている。<br />
ゴルバチョフ時代は観光バス。一人がしゃべりまくり、残りは上の空。<br />
エリツィン時代はタクシー。行けば行くほど高くなる。<br />
プーチン時代は馬車。ニンジン（賄賂）を与えながら進む。</p>

<p>問＝ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフ、エリツィン、プーチンとは誰のことか？<br />
答＝大歌手アラ・プガチョワ時代の取るに足らない政治家だ。</p>

<p>注：アラ・プガチョワ（1949-）＝1965年にデビューし、活躍を続ける女性歌手。「百万本のバラ」などヒット曲を量産した。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 21 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[名越健郎 (拓殖大学客員教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>実は柴田勝家VS秀吉の最前線！福井の城から見える賤ケ岳合戦の舞台裏  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14907</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014907</guid>
			<description><![CDATA[福井県内の賤ケ岳合戦に関する城跡を紹介する歴史紀行文。玄蕃尾城跡、国吉城跡、後瀬山城という3つの城を訪ね、それらの城と賤ケ岳合戦の関係性に触れつつ、賤ケ岳合戦の知られざる側面を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="玄蕃尾城跡の主郭入口" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui5n.jpg" width="1200" /><br />
写真：玄蕃尾城跡の主郭入口</p>

<p>柴田勝家と羽柴秀吉が賤ケ岳で決戦におよぶ前、両陣営は各地で防備を固めていた。それは賤ケ岳周辺にとどまらず、越前、若狭という現在の福井県の城にも影響をおよぼしていた。歴史街道編集部がそれらの城を訪ねると、賤ケ岳合戦の意外な側面が見えてきた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>柴田勝家が築城し、本陣とした玄蕃尾城</h2>

<p><img alt="玄蕃尾城跡の登城口" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui1n.jpg" width="1200" />写真：玄蕃尾城跡の登城口</p>

<p>柴田勝家と羽柴秀吉が対峙した賤ケ岳の戦いといえば、勝家の勢力圏である越前と、秀吉の勢力圏である近江の国境で生じたというイメージがあるだろう。</p>

<p>事実、賤ケ岳周辺における決戦そのものだけを見ると、それは間違いない。</p>

<p>だが当時、柴田勝家軍が近江ではなく、越前から若狭に攻め入る可能性はなかったのだろうか。そんな素朴な疑問から、越前と若狭における賤ケ岳合戦関連の城を訪ねてみることにした。</p>

<p>まず向かったのは、賤ケ岳の戦いで、柴田勝家が本陣を置いた玄蕃尾城跡（福井県敦賀市）だ。</p>

<p>ＪＲ敦賀駅からは、車でおよそ25分。登城口には駐車場や仮設トイレ、パンフレットもあるので、登る際にはパンフレットを手にしてからがいいだろう。</p>

<p>今回は、敦賀市文化交流部の学芸員・中野拓郎さんにご案内いただくことに。</p>

<p>ところで、車の道中で思ったことだが、かなり山道を進んできたようにみえるこの地に、なぜ、柴田勝家は本陣を築いたのだろうか。</p>

<p>「この道は刀根坂といって、明治時代以前は多くの人や物が行き交うメインルートだったんです」</p>

<p>中野さんによると、敦賀から近江の長浜方面に向かう際、このルートだと高低差が少なく、物資を運ぶうえでも最適だそうだ。</p>

<p>ちなみに、朝倉氏の滅亡を運命づけた刀根坂の戦いはまさにこのルート沿いで行われ、近江から撤退する朝倉勢は、追いすがる織田勢に一方的に攻撃され大部分が討ち死にしたという。</p>

<p>玄蕃尾城の築城時期は定かではないが、勝家はそうした朝倉氏の潰走を知っているからこそ、この地に、敵を食い止められる城を築いたとも考えられるそうだ。</p>

<p>さて、実際に城跡を目指して歩くが、20分ほど登ると、明らかに山城とわかる遺構が見えてくる。</p>

<p>最初に姿を現わすのは郭1で、入口部分の虎口を抜けると、右手側が高くなっていて、側面から攻撃ができるつくりとなっている。</p>

<p>さらに虎口郭にかけては緩やかな登りとなっている。</p>

<p><img alt="玄蕃尾城跡の郭1の虎口で、ここを抜けると右手が高くなっている" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui2n.jpg" width="1200" />写真：郭1の虎口で、ここを抜けると右手が高くなっている</p>

<p>「この城は郭が上がるごとに高さをつけ、高所から銃撃できるつくりになっているんです。高低差をうまく生かした城といえます」</p>

<p>中野さんがいうように、虎口郭や馬出郭方面に目を向けると高くなっていて、銃撃を浴びそうだ。</p>

<p><img alt="玄蕃尾城跡の郭１から虎口郭を見上げる" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui3n.jpg" width="1200" />写真：郭１から虎口郭を見上げる</p>

<p>さらに主郭部分も周囲に土塁が巡らされていて、侵入しようにも、相当苦戦を強いられるだろう。</p>

<p>実際に主郭部分に入るとそこは広く、北東部には櫓が立っていたという。勝家も櫓に上り、その目で、対峙する羽柴軍を見つめたのだろうか。</p>

<p><img alt="玄蕃尾城跡の主郭。右手の白い碑周辺が櫓台" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui4n.jpg" width="1200" />写真：主郭。右手の白い碑周辺が櫓台</p>

<p>主郭を抜けた後も、馬出郭と郭2と続き、勝家が企図したように、敵を食い止めるのに十分な構造になっている。</p>

<p>残念ながら、賤ケ岳合戦において柴田軍は総崩れとなったために、この城に留まることなく撤退。玄蕃尾城はその後、手付かずのまま廃城となった。</p>

<p>だがそれゆえに、いまでも遺構が良好な状態のまま残されている。それらの遺構は、賤ケ岳合戦当時の勝家の心情を現代に伝えてくれているようだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>柴田軍来襲に備えた国吉城</h2>

<p><img alt="国吉城本丸跡から若狭湾と敦賀方面を望む" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui8n.jpg" width="1200" />写真：国吉城本丸跡から若狭湾と敦賀方面を望む</p>

<p>次に向かうのは、若狭国の東側の要衝であった国吉城跡（福井県美浜町）だ。</p>

<p>玄蕃尾城跡からは車で約35分、城の麓にある若狭国吉城歴史資料館に車を停められる。最寄りの美浜駅からは徒歩30〜40分ほどで、駅内の若狭美浜観光協会にはレンタサイクルもある。</p>

<p>さて、資料館内には、城の立体模型や解説板があるので、まずはそちらを観賞してから城に向かうと歩きやすいだろう。</p>

<p><img alt="若狭国吉城歴史資料館内の国吉城址地形模型" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui9n.jpg" width="1200" />写真：若狭国吉城歴史資料館内の国吉城址地形模型</p>

<p>今回は、資料館の館長を務める大野康弘さんにご案内いただくことに。</p>

<p>そもそも国吉城は、弘治2年（1556）に若狭の大名・武田氏の家臣である粟屋氏によって築かれた。城は、朝倉氏の侵攻を10年にわたって退け続けたことから、「難攻不落の城」といわれる。</p>

<p>「織田信長が永禄13年（1570）に朝倉攻めをした際には、織田信長、羽柴秀吉、徳川家康の三英傑が揃った城でもあります」</p>

<p>そう語る大野さんとともに、城を登ることに。まずは資料館北西に歩いていくと、城主居館跡があり、石垣を見ることができる。</p>

<p>国吉城は賤ケ岳合戦後、秀吉家臣の木村常陸介が城主となり、関ケ原合戦後は、京極氏の支配下に置かれたが、通路手前には木村氏時代の石垣が、その奥には京極氏時代の石垣が見える。</p>

<p>明らかに積み方が異なり、この城の変遷を感じさせる。その居館跡を左手に見ながら登っていく。</p>

<p><img alt="国吉城跡の木村常陸介時代に築かれた石垣" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui6n.jpg" width="1200" />写真：木村常陸介時代に築かれた石垣</p>

<p><img alt="国吉城跡の京極氏時代に築かれた石垣" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui7n.jpg" width="1200" />写真：京極氏時代に築かれた石垣</p>

<p>道のりは整備されていて歩きやすいが、つづら折りの道が続き、攻め手がかなり苦戦するだろうことがわかる。また急な堀切部分もあり、通路以外のところから攻めるのは容易ではないだろう。</p>

<p>さて、30分ほどかけて本丸跡に至ると、若狭湾や敦賀方面を眼下に望むことができ、かつ東側斜面がかなり急だと見て取れる。</p>

<p>「この城は、越前国方面から攻められることを意識して、つくられているんです」と大野さんがいうように、越前国方面に対して鉄壁の守備を誇り、だからこそ、朝倉氏の侵攻を防げたのだろう。</p>

<p><img alt="国吉城の本丸跡" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui10n.jpg" width="1200" />写真：国吉城の本丸跡</p>

<p>では、この城は賤ケ岳合戦とどんな関係があるのだろうか。</p>

<p>「賤ケ岳合戦当時、若狭は秀吉方の丹羽長秀が治めていて、国吉城は対柴田の最前線でした。そのため、長秀が城主・粟屋勝久に城の修築を急がせた書状も残されています」</p>

<p>大野さんによると、本丸周辺の石垣には、そのころに築かれたとみられるものもあるという。</p>

<p>やはり当時、柴田勝家が若狭に攻め入ることも、想定されていたのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>丹羽長秀も居城とした後瀬山城</h2>

<p><img alt="後瀬山城跡の登城口" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui11n.jpg" width="1200" />写真：後瀬山城跡の登城口</p>

<p>最後に訪ねるのは、若狭の小浜に築かれた後瀬山城だ。</p>

<p>登城口のある愛宕神社は、国吉城跡から車で約35分、小浜駅からは歩いて10分ほどだ。</p>

<p>こちらの城は、小浜市経済産業部の西島伸彦さんにお話をうかがってから登ることに。</p>

<p>そもそも後瀬山城は、大永2年（1522）、若狭国守護の武田元光によって築かれた。その後、天正元年（1573）頃に丹羽長秀が若狭を支配し、後瀬山城の城主となっている。</p>

<p>「上洛後の信長は、若狭や近江に重要な家臣を配置しており、それは京都を安定させるためだったのでしょう。また後瀬山城のある小浜は、京都に最も近い港湾都市で、その点でも、重要でした」と西島さん。そうした地勢を踏まえると、若狭は想像以上に要衝といえる。</p>

<p>さて、実際に後瀬山城跡を登っていくが、こちらも歩道が整備されていて、歩きやすい。ただ、歩道の左手を見ると、急な斜面になっていて、容易に攻め上れないつくりになっていることがわかる。</p>

<p>さらに中腹は、右手が段々状の郭となっていて、連郭群を形成している。つまり、左手は斜面、右手は連郭群で、攻め手を寄せ付けない構造となっているのだ。</p>

<p><img alt="右手が後瀬山城跡の連郭群" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui12n.jpg" width="1200" />写真：右手が後瀬山城跡の連郭群</p>

<p>ちなみに、西島さんによると、この城は西側に畝状空堀群などが配されていて、西への防備を意識したつくりになっているそうだ。</p>

<p>連郭群を右手に見ながら進むと、開けた場所に至るが、その先には、左右が堀切となっている細い土橋がある。攻める場合には、この細い道を通るため、攻め手はここでも損害を被ることだろう。</p>

<p><img alt="後瀬山城跡。中央が土橋で左右が堀切" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui13n.jpg" width="1200" />写真：中央が土橋で左右が堀切</p>

<p>土橋を上がっていくと、石垣のある主郭へと至る。主郭周辺には、野面積みに近い石垣があり、これは丹羽長秀が柴田勝家との戦いに備えたものとする見方もあるが、正確にはわからないそうだ。</p>

<p><img alt="後瀬山城跡の主郭を望む" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui14n.jpg" width="1200" />写真：主郭を望む</p>

<p>主郭周辺からは、若狭湾を望むことができ、この城がやはり、若狭を守るうえで重要な拠点であることが実感できる。</p>

<p>ここで、ひとつの想像がうかんできた。仮に、丹羽長秀が秀吉ではなく、柴田勝家に与することを選んでいたら&hellip;&hellip;。</p>

<p>そうなれば、柴田方は越前だけでなく、若狭から秀吉を牽制する形となり、日本海側の物流も押さえられる。きっと、秀吉にとっては苦しい展開となっただろう。</p>

<p>それは仮説だが、若狭は、柴田勝家と秀吉の戦いを考えるうえで、重要な意味を持っていたのだ。</p>

<p>今回は、玄蕃尾城跡、国吉城跡、後瀬山城跡と、福井県の城跡を巡ってみたが、それらの城跡は、柴田勝家と秀吉の戦いにおける最前線といってよく、なおかつ、賤ケ岳合戦にまつわる様々な視点を提供してくれるのであった。</p>

<p><img alt="後瀬山城跡主郭周辺から若狭湾を望む" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui15n.jpg" width="1200" />写真：後瀬山城跡主郭周辺から若狭湾を望む</p>

<p><img alt="福井県内の賤ケ岳合戦ゆかりの城跡" height="999" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui16n.jpg" width="1200" />地図：福井県内の賤ケ岳合戦ゆかりの城跡</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260819fukui5n.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 19 Aug 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「閣僚を全員処刑せよ」プーチンが天国のスターリンに相談？ロシアの風刺小話「アネクドート」が鋭すぎる  名越健郎 (拓殖大学客員教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14813</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014813</guid>
			<description><![CDATA[ロシアの民衆が社会や政治に対し、強い皮肉とブラックユーモアを込め、ストレス解消に一役買ってきた風刺小話「アネクドート」。そのなかからスターリン時代の傑作集を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="クレムリン" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_russia.jpg" width="1200" /></p>

<p>ロシアには「アネクドート」の文化がある。社会や政治を揶揄するような、風刺を込めた小話のことだ。ソ連のスターリン時代にはどんなアネクドートが編まれたのか。2度のモスクワ滞在経験があるジャーナリストの名越健郎氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、名越健郎著『ジョークで読み解く「ロシア近現代史」』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>スターリンがチャーチルに唯一「イエス」と言ったのは...</h2>

<p>第二次世界大戦中、スターリンが同じ連合国のチャーチル英首相と電話で話していた。<br />
「ニエット（ノー）、ニエット、ニエット、ダー（イエス）、ニエット、ニエット...」<br />
電話の終了後、側近が尋ねた。<br />
「スターリン閣下、なぜ一度だけ『ダー』と答えたのですか？」<br />
「チャーチルが、声はよく聞こえるか尋ねたのだ」</p>

<p>注：ウィンストン・チャーチル（1874-1965）＝英保守党政治家。首相としてナチス・ドイツとの戦争を指揮し、戦後体制構築に努めた。スターリンへの警戒感が強かった。</p>

<p>1941年秋、独ソ戦で苦境に立つスターリンはジューコフ将軍を執務室に呼び、作戦や戦術について厳しく叱責した。<br />
ジューコフは顔を紅潮させ、「あの口ヒゲ野郎め」とののしりながら部屋を出た。<br />
これを見ていた秘密警察長官のベリヤがスターリンに密告すると、ジューコフは再びスターリンの部屋に呼び戻された。<br />
「口ヒゲ野郎とは誰のことなんだ。ジューコフ同志」<br />
「誰って...もちろんヒトラーのことです」<br />
「そうか。では、ベリヤは誰のことを念頭に置いていたんだ」</p>

<p>注：ゲオルギー・ジューコフ（1896-1974）＝ソ連軍元帥。日本とのノモンハン事件を指揮して評価され、独ソ戦のほとんどの重要作戦に加わった。</p>

<p>第二次世界大戦末期、クリミア半島のヤルタで、米英ソの三巨頭首脳会談が行われた。<br />
会談後、三首脳がクルマに同乗して晩餐会会場に向かっていると、道路の真ん中に牛が寝転び、動こうとしなかった。<br />
チャーチル英首相が牛に「そこをどかないとひき殺すぞ」と脅したが、牛は動かなかった。<br />
ルーズベルト米大統領が牛に「そこをどいたら100ドルやるぞ」と言っても牛は動かなかった。しかし、スターリン首相が牛に何かささやくと、牛は驚いて逃げ出した。<br />
チャーチルとルーズベルトは驚いてスターリンに尋ねた。<br />
「一体、なんと言ったのです」<br />
「なあに、どかないとコルホーズへ入れるぞと言っただけです」</p>

<p>注：フランクリン・ルーズベルト（1882-1945）＝米民主党の大統領。大恐慌後のニューディール政策を進めた。大戦を通じ、スターリンに甘く、ソ連に肩入れした。<br />
注：コルホーズ＝スターリンが1930年代初期、農業集団化のため推進した集団農場。ソホーズは国営農場。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>プーチンの祖父が犯した罪</h2>

<p>スターリン時代の革命記念日──。<br />
赤の広場のレーニン廟の上で軍事パレードを見守っていたスターリンは、あまりに寒いのでウオツカを持ってこさせ、ちびりちびり飲んでいた。<br />
そこへ、ピオネール（共産主義少年団）の少年、少女が指導者に花束を渡しにひな壇に駆け上がってきた。<br />
しかし、ある少年はスターリンのそばで怖さのあまり震えだし、ウオツカの瓶を割ってしまった。スターリンは激怒して言った。<br />
「誰だ、お前は。名を名乗れ！」<br />
「...」<br />
少年が怯えて黙っていると、そばからピオネールの少女が言った。<br />
「この子はスタブロポリのミーシャ（ミハイル）・ゴルバチョフです」<br />
「や、やめてくれ、ラーヤ（ライサ）」<br />
それ以来、少年はウオツカとスターリンが大嫌いになった。</p>

<p>注：ミハイル・ゴルバチョフ（1931-2022）＝ソ連共産党書記長として改革政策に着手。ソ連最後の指導者となった。<br />
注：ライサ・ゴルバチョワ（1932-1999）＝ゴルバチョフ書記長と学生結婚したソ連のファーストレディー。<br />
注：ピオネール＝将来の共産党員への一歩とされ、およそ10歳から15歳の少年少女が参加した。15歳以上の組織はコムソモール（共産主義青年同盟）。</p>

<p>赤の広場のレーニン廟の上で軍事パレードを見守っていたスターリンは、あまりに寒いのでウオツカを持ってこさせ、ちびりちびり飲んでいた。<br />
そこへ、ピオネールの少年、少女が指導者に花束を渡しにひな壇に駆け上がってきた。<br />
しかし、ある少年はあまりに寒いので、スターリンのウオツカを飲んでしまった。スターリンは激怒して言った。<br />
「誰だ、お前は。名を名乗れ！」<br />
「...ボ、ボリス・エリツィンです」</p>

<p>注：ボリス・エリツィン（1931-2007）＝ロシアの初代大統領。ソ連を崩壊させた立役者で、市場経済改革を進めた。アルコール依存症に苦しむ。</p>

<p>問＝ペテルブルクやモスクワで料理人をしていたスピリドン・プーチン（プーチンの祖父）の罪は何か？<br />
答＝ラスプーチンやレーニン、スターリンを毒殺せず、ウラジーミル・プーチンの誕生に関与したことだ。</p>

<p>注：グリゴリー・ラスプーチン（1865ごろ-1916）＝シベリア出身の僧侶で祈禱師。皇帝の長男の病気を祈禱で治すとされ、皇帝一家に影響力を行使した。</p>

<p>プーチン大統領が天国のスターリンに電話し、「どうしたら、この国をうまく治めることができますか？」と尋ねた。<br />
スターリンが言った。<br />
「第一に、閣僚を全員処刑すること。第二に、クレムリンの壁を緑に塗り替えることだ」<br />
「どうして壁を緑にする必要があるのですか？」<br />
「やはりわしの思った通りだ。第一の点に関して、われわれの間に意見の相違はなかった」</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>スターリンが死んだらどう言うの？</h2>

<p>満員のバスで立っていた老婦人は、席が空いて座りながら、「神に感謝します」とつぶやいた。<br />
これを見ていた共産党員が老婦人に言った。<br />
「同志、ソ連は無神論の国だ。あなたは『同志スターリンに栄光あれ』と言わねばならない」<br />
老婦人が反論した。<br />
「では、同志スターリンが死んだら、私たちはどう言うの？」<br />
「その時は、『神に感謝します』でいい」</p>

<p>1953年、独裁者スターリンがついに死んだ。側近のマレンコフ、ブルガーニン、フルシチョフ、ベリヤらは茫然とし、遺体の前で沈黙を続けていた。<br />
やがて、誰かがポツリとつぶやいた。<br />
「一体、誰がこのニュースをスターリン同志に知らせに行くんだ」</p>

<p>注：ゲオルギー・マレンコフ（1902-1988）＝スターリンの死後、首相に就任したが、1957年失脚。<br />
注：ニコライ・ブルガーニン（1895-1975）＝国防相などを経てマレンコフの後任の首相に。1958年失脚。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_russia.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 18 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[名越健郎 (拓殖大学客員教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【2027大河『逆賊の幕臣』】小栗忠順（上野介）はなぜ嫌われた？財政破綻に断行したリストラと新規課税  安藤優一郎（歴史家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14758</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014758</guid>
			<description><![CDATA[2027大河の主人公・小栗忠順の財政再建策に迫る。軍事費等で破綻寸前の幕府を救うため、新規課税やコストカット・リストラを断行。役人や農民から恨まれつつも信念を貫いた姿に迫る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="江戸城" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/edocastle2017.jpg" width="1200" /></p>

<p>2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順（おぐりただまさ／上野介）。彼はアメリカに使節団として渡った後、幕府の要職を務めるのだが、その頃、軍事費の増大や生麦事件などの賠償金が重なり、幕府は財政破綻が進行していた。窮地を救うべく勘定奉行として手腕を奮う忠順。それによって農民だけでなく、幕府内部からも恨まれることとなる――彼が断行した改革とは？その裏側と、不屈の生き様に迫る。</p>

<p>※本稿は、安藤優一郎著『幕臣・小栗忠順の真実』（PHP文庫）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>財政を破綻させた莫大な出費</h2>

<p>幕府の外交使節として渡米した小栗忠順は帰国後、外国奉行に抜擢されたのを皮切りに、勘定奉行、町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行並、軍艦奉行と奉行職を歴任した。なかでも、幕府財政を主管した勝手方勘定奉行を4度にわたって務めたことは特筆される。</p>

<p>内憂外患の高まりを受けて莫大な出費が相次ぎ、財政破綻は進行中であった。その最大の要因は軍事費の増大である。</p>

<p>三兵の創設や軍艦の購入といった軍備拡張費はもちろん、特に長州征伐に要した軍費が巨額にのぼった。長州再征（第二次長州征伐）に要した軍費などは437万両余にも達する（大山敷太郎「幕末の財政紊乱」『幕末経済史研究』有斐閣）。</p>

<p>攘夷運動の高まりを背景に外国人殺傷事件が起きるたびに、幕府が当該国に賠償金を支払っていたことも見逃せない。生麦事件ではイギリスに10万ポンドの賠償金を支払うが、イギリスは事件を起こした薩摩藩には賠償金2万5千ポンドの支払いなどを要求していた。薩摩藩との交渉は決裂し、文久3年（1863）7月には鹿児島で薩英戦争が勃発。その後の和平交渉を経て、薩摩藩はイギリスの要求を呑むも、賠償金は幕府が立て替えることになった。だが、立て替え分が返却されることはないまま、幕府は終焉の時を迎える。</p>

<p>同年5月には長州藩が下関で外国船に砲撃を加えたことで、翌元治元年（1864）8月に英仏蘭米4カ国連合艦隊が来襲し、下関戦争が勃発した。戦いは4カ国側の一方的な勝利に終わり、敗北した長州藩は300万ドルの賠償金の支払いを約束する。しかし、実際に支払ったのは幕府だった。下関戦争の発端となった砲撃は幕府が朝廷に約束した攘夷実行の期日を守っただけとして、長州藩がその責任を転嫁したからである。</p>

<p>3度にわたる将軍家茂の上洛に要した費用も、幕府に重くのしかかった。忠順が最初に勘定奉行を務めた時、将軍の上洛には約150万両ほどの出費が見込まれるとして、その延期を政事総裁職の松平春嶽に具申している。</p>

<p>江戸城の火事も外せない。安政6年（1859）10月に本丸御殿、文久3年6月に西の丸御殿が焼失し、同年11月には再建成った本丸御殿が再び焼失する。元治元年7月に西丸御殿は再建されたものの、本丸御殿は再建できないまま、慶応4年（1868）4月に江戸開城となった。巨額の再建費を捻出することなど、もはや不可能だったからである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>生糸・蚕種紙の取引に課税する</h2>

<p>莫大な出費が重なったことで幕府財政は破綻していくが、その費用を捻出するため奮闘したのが忠順である。福地源一郎は明治に入ってから次のように回顧した。</p>

<p>いかにして、幕府がその財源を得たのかは有司たちが怪訝に思ったところだった。一連の出費に応じられたのは、忠順一人の手腕に拠る。財源を諸税に求めるとともに、冗費を厳しくカットすることで出費にあてた（『幕末政治家』）。</p>

<p>年貢米をはじめとする徴税の強化と徹底的なコストカットでやり繰りしたことがわかる。そして、4度目の勘定奉行の時は生糸や蚕種紙（蚕卵紙）への新規課税を断行している。開港以来、輸出品の主力は生糸で、次いで茶、蚕種紙、海産物の順だった。開港前、養蚕業が盛んな東北、関東、甲信地方の山方では絹織物の生産地に原料の生糸を盛んに送っていた。</p>

<p>ところが、開港後に生糸が輸出品として注目されると、開港場の横浜へ大量に送られる。生糸の大量輸出は深刻な品不足、そして高騰を招いただけでなく、他の物価まで高騰する引き金となる。忠順はそんな需要の大きさに目を付けた。生糸や蚕種紙を新たな財源にしようと目論む。</p>

<p>慶応元年（1865）12月21日、幕府は生糸と蚕種紙について、会所による改印のない売買は一切禁じる方針を打ち出す。翌2年2月8日、忠順は「諸国蚕種生産元方御取締御仕法」を定め、武蔵・上野・相模・信濃4カ国をその対象とした。3月6日には、対象を13カ国に拡大する。<br />
そして、会所で改印を受ける際には、改料として国内用の生糸は1貫目につき銀15匁、輸出用は30匁、国内用の蚕種紙は100枚につき銭30文、輸出用は1枚につき100文の納入を義務付ける。改印に名を借りた新規課税に他ならない。</p>

<p>養蚕業を営む農民たちは猛反発し、反対運動が巻き起こった。だが、幕府の新たな財源にするため、忠順は改料の徴収を断行するのである（高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新─『小栗日記』を読む』岩波書店、群馬県史編さん委員会編『群馬県史』通史編4 近世1（政治）』。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>徹底的なコストカットとリストラで恨みを買う</h2>

<p>徴税の強化だけでなく、生糸や蚕種紙に課税して歳入の増加をはかったため、養蚕を営む農民の猛反発を買った忠順だが、冗費を厳しくカットして出費にあてたことでは、同僚の幕府役人たちの恨みを買う。<br />
忠順が冗費のカットに加えて冗員を淘汰したため、役人の怨みが集中したとも福地は証言する。莫大な出費にあてるため、徹底的なコストカットだけでなく、リストラも断行したのである。</p>

<p>財政難に苦しむ幕府からすれば、莫大な出費を賄うには不可欠な手法であったものの、コストカットやリストラの対象となる役人たちの怨みを買うことを考えると、その実行はためらわれた。勝手方勘定奉行を務めるとは、憎まれ役を引き受けることを意味した。</p>

<p>しかし、忠順はそんなことなど眼中になく、コストカットとリストラを断行する。臆せずに自己の信じる道を突き進む強靭な精神力の成せる業だったが、その言動が兼ねてより嫌悪感を持たれていたのは見逃せない。</p>

<p>勘定奉行は、歳出の精算書を老中や若年寄が列座する前で読み上げるのが慣例であったが、その際、忠順は次のように放言した。「今、これを朗読してもおわかりにならないだろうが、忠順が勘定奉行を務めているからには、幕府に不利益になるようには絶対に取り計らいません。そう思っていただきたい」。まさに、自信家たる面目躍如の放言だった。</p>

<p>幕閣としては、忠順が有用な人材であることはわかっていたが、その物の言い方には嫌悪感を隠せなかった。よって、能力を買われて役職に何度となく起用されながらも、忠順は御役御免を繰り返し、その経綸の才を発揮できなかったと田辺太一は指摘する（『幕末外交談2』）。</p>

<p>人を嘲ったり罵ってしまう言動が俗吏はおろか、老中・若年寄にまで及んだことで幕府内からは睨まれ、常に誹謗されたことで、忠順は十分な地位にのぼれなかったという福地の指摘は興味深い（『幕末政治家』）。慶喜が将軍になると、勘定奉行として同僚だった浅野氏祐、川勝広運、塚原昌義たちは大名役の若年寄に引き上げられ、老中とともに幕閣を構成している。旗本であったため若年寄並という形だったが、忠順は奉行職にとどめられた。幕閣の一員としてその手腕を発揮できなかったことは、幕府にとって不幸なことだったのかもしれない。</p>

<p>小栗が進めた横須賀製鉄所の建設では莫大な出費が予想された。その交渉にあたった栗本は費用の捻出を危ぶむが、忠順は笑って以下のように答えたという。</p>

<p>幕府の財政はやり繰り身上の状態である。たとえ製鉄所を建設せずとも、その費用などもともとない以上、他の用途に回すわけではない。必要な製鉄所を建設するとなれば、かえって他の冗費をカットできる良い理由になる（栗本鋤雲「横須賀造船所経営の事」）。</p>

<p>何とかやり繰りすることで必要な出費を確保していた実情が浮かび上がる。だが、いくらコストカットやリストラしたところでおのずと限界があった。<br />
結局のところ、忠順は新たな手法を検討せざるを得なくなる。一つは、横須賀製鉄所建設や軍事顧問団の派遣で関係を強めていたフランスから600万ドルもの借款を受けることであり、もう一つは紙幣の発行だった。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 17 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎（歴史家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>山名豊国と細川忠興、文化人として名を馳せた武将の晩年とは？  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12699</link>
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			<description><![CDATA[山名豊国と細川忠興、文化人として名を馳せた武将の晩年とは？作家の鷹橋忍氏が語る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="細川忠興・ガラシア" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/pixta_hosokawatadaoki.jpg" width="1200" /></p>

<p>人生とは何が起こるかわからないもので、それは戦国時代も変わらない。才知をもって家を守り抜いたかと思えば、晩年に思わぬ辛さを味わう者もいれば、城から追われる悲運を味わいながら、悪くはない最期を迎えた者もいる。ここでは、山名豊国と細川忠興という名族に生まれ、文化人として知られた二人の晩年を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>教養と話術をもって道を拓く――山名豊国</h2>

<p>山名豊国は因幡守護・山名豊定の子で、天文17年（1548）に生まれた。応仁の乱の西軍の将・山名宗全の子孫にあたる。</p>

<p>山名氏は南北朝時代において、一族の分国が、日本60余国の6分の1にあたる11カ国にもおよぶことから、「六分一殿」と称されるほどの権勢を誇っていた。だが、豊国が登場したころの山名氏の勢力圏は、但馬・因幡の二国にまで減少していた。</p>

<p>やがて、豊国は因幡守護となり、鳥取城に本拠を置いた。</p>

<p>天正8年（1580）5月、因幡国に侵攻してきた秀吉に、鳥取城を包囲され、豊国は降伏し、織田権力に服属。鳥取城を安堵された。</p>

<p>ところが、同年7月に毛利家の吉川元春が侵攻してくると、同年9月21日、家臣の中村春続や森下道誉らは毛利家への服属を選び、豊国を鳥取城から追放した。</p>

<p>その後、豊国は禅高と名を改め、秀吉の御伽衆に召されたとされる（小坂博之『山名豊国』）。御伽衆は、主君に近侍し話し相手を務める役で、特殊な経験や豊富な知識を持ち、話術が巧みな者が選ばれた。多くの戦国大名は御伽衆を召し抱えており、その話によって、見聞を広げたという。</p>

<p>名族に生まれ、故実典礼に明るく、和歌、茶の湯、連歌などに造詣が深い豊国は、優れた御伽衆だったのだろう。のちに、徳川家康にも御伽衆の一人として仕えた。</p>

<p>慶長5年（1600）、53歳のとき、豊国は、会津の上杉景勝征伐へ向かう家康に従った。翌慶長6年（1601）には、家康から村岡（但馬国七美郡）6700石を与えられている。</p>

<p>豊国は茶会や連歌会に参加し、慶長17年（1612）、65歳のときには、駿府城で家康の将棋の相手もつとめている。67歳のときには、大坂冬の陣にも参戦した。</p>

<p>家康の死後は、家康の子・徳川秀忠の御伽衆の一人となっている。家康、秀忠の二代にわたる、御伽衆の地位を手に入れたのだ。</p>

<p>豊国は79歳の長寿を保ち、寛永3年（1626）10月7日、京都で没したと伝わる。　豊国の系統は山名氏嫡流とされ、子孫も江戸時代を通じて、村岡を治めた。維新後は村岡県知事、さらに男爵となっている（鳥取市教育委員会発行『城下町鳥取誕生四百年』）。豊国は知性や教養、話術で激動の時代を生き延び、子孫を存続させたのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>乱世を生き抜いた武将の最期――細川忠興</h2>

<p>細川忠興は、永禄6年（1563）11月13日、京都一条にある細川邸で生まれた。</p>

<p>父は、当代一流の文化人・細川藤孝（幽斎）で、父子ともに、織田家に仕えた。　忠興は千利休の高弟で名茶人として知られるが、勇猛な武将でもあった。15歳のときの片岡城（奈良県）攻めで一番乗りを果たし、信長から自筆の感状を与えられている。</p>

<p>本能寺の変後、忠興は父から家督を譲られ、秀吉に仕えた。</p>

<p>関ケ原の戦いでは徳川方に与し、その功績により、豊前・豊後に約39万石を拝領。はじめ中津城、次いで小倉城を本拠とした。</p>

<p>元和6年（1620）、忠興は病のせいか、隠居を願った。同年閏12月には剃髪して、三斎宗立と号し、家督を三男の忠利に譲っている。忠興は58歳になっていた。</p>

<p>幸い病は快復し、忠興は83歳まで長寿を保つことになる。隠居後は茶会に招いたり招かれたりなど風流を楽しむ一方で、忠利に藩政や軍事などを指導した。小姓たちに行なわせた剣術の試合を見物するなど、武芸への興味も失っていなかったようである。　だが、忠興の晩年は辛いことも少なくなかった。</p>

<p>次男の細川興秋は、大坂の陣に豊臣方として参戦。忠興の忠義に免じて興秋は赦されたものの、忠興は切腹を命じている。</p>

<p>また、寛永18年（1641）3月に三男の忠利、正保2年（1645）閨5月に四男の立孝と、息子二人に先立たれてしまった。</p>

<p>53歳で授かった愛息・立孝の死去は、堪えたようである。忠興も病に伏し、同年の12月2日に、長い人生に幕を下ろした。</p>

<p>息絶える前に、忠興は「皆共が忠義、戦場が恋しきぞ」と口にしたという。　天下泰平となろうとも、忠興は最期の瞬間まで、戦場を駆け回る武将だったのだろうか。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 17 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>勝敗を決めた小早川秀秋はいつ動いたのか？　関ヶ原合戦にまつわる諸説  河合敦（歴史研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12599</link>
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			<description><![CDATA[関ヶ原合戦にまつわる「問鉄砲」をはじめとする諸説を歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="関ヶ原合戦" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sekigaharasasaoyama.jpg" width="1200" /></p>

<p>徳川家康は戦国乱世を収拾し、江戸時代という平和な世の中をつくりあげた。ただ、彼の人生はまさに波瀾万丈であり、苦難や危機の連続だった。</p>

<p>本稿では、関ヶ原合戦にまつわる「問鉄砲」をはじめとする諸説を歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』（PHP新書）の内容を、一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>徳川の面目を施した関ヶ原の一番槍</h2>

<p>合戦の火蓋を切ったのは、東軍の井伊直政である。直政は、徳川四天王と呼ばれた家康の側近中の側近。天正3年（1575）より家康に臣従した新参者だが、華々しい戦功を立て続けにあげて大身に成り上がった。</p>

<p>合戦での先手一番は、福島正則と決められていた。さらに藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政といった豊臣系大名が最前列に並んでいた。その一群に唯一加わっていた徳川直臣が、井伊直政だった。</p>

<p>東西両軍が布陣を終えたのは、9月15日午前6時から7時の間だったと思われる。すでに雨はやんだが、深い霧が立ちこめていたという。両軍は、対陣したままにらみ合っている。そんななか、福島正則隊の脇を真っ赤な甲冑を身につけた50ほどの騎馬隊がすり抜けようとした。言うまでもなく、井伊直政勢である。</p>

<p>これを見とがめた福島隊の猛将・可児才蔵は「今日の先陣は我々。ここから先は通すわけにはいかない」と怒鳴った。対して直政は「ここに居られるのは松平忠吉（家康の四男）様だ。今日が初陣なので、合戦を学んでいただくため、ともに斥候に来た」。そう答えて、するすると福島隊の前に出、そのまま先へ進んでいった。その直後に、合戦が勃発したのだ。</p>

<p>驚くべきことに、直政らは対峙する宇喜多秀家1万7千へ突撃を敢行したのである。</p>

<p>家康は、同年7月に会津征伐へ赴くおり、「たとえ軍で功名しても軍法に背く者は成敗する」と抜け駆けを厳禁していた。つまり、明らかに直政の行為は抜け駆けだった。</p>

<p>しかし戦後、福島正則からは苦情が出なかった。正則は、こうしたことには非常にうるさい男で、関ヶ原の前哨戦では、池田輝政の違法行為に激怒して一触即発の状態になっている。そんな正則が文句を言わなかったのは、直政の行為を抜け駆けと認識していなかったからにほかならない。</p>

<p>直政は3千を率いていたが、本隊は置いたまま物見と称して、わずか50騎しか連れていなかった。この人数の少なさが、正則をして抜け駆けではないと判断させたのだろう。もしかしたら直政は、濃い霧を理由に、偶発的に敵と遭遇し、やむを得ず戦闘行為に至ったと弁明したのかもしれない。</p>

<p>いずれにしても、家康の息子と直臣が天下分け目の合戦で一番槍を入れたというのは、徳川方にとって大いに面目を施したわけで、家康は上機嫌だったといわれる。ちなみに直政は、この合戦で受けた傷から敗血症にかかり、1年半後に死去した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>事前工作により、西軍の戦闘参加は半数以下に</h2>

<p>なお、家康の政治工作や家康に味方した黒田長政の離間工作が功を奏し、西軍大名の多くが戦いに参加せず、西軍8万（諸説あり）のうち戦闘に参加したのは半数以下だった。</p>

<p>南宮山に布陣した毛利軍1万6千も傍観した部隊の一つだ。だが、毛利輝元は西軍の総大将だったが、関ヶ原合戦当日は大坂城におり、毛利軍を率いていたのは輝元の養子秀元だった。実は秀元は、戦いに参加しようとしたのだが、先陣の吉川広家（輝元の従弟）が、いくら催促しても動かなかったのである。</p>

<p>当然、石田三成からは至急援来せよとの矢のような催促が来る。閉口した秀元は「いま兵に飯を食わせている最中だ」と三成の使者に苦しい弁明をしたという。もちろん後の作話だろうが...。</p>

<p>なお、近くに陣を敷いた長束正家や長宗我部盛親も、秀元の言動に疑心暗鬼となって動かなかった。ために、南宮山にある3万以上の兵が、用をなさなかった。</p>

<p>広家が出撃しなかったのは、家康に内通していたからである。</p>

<p>広家は安国寺恵瓊から、三成が輝元を大将に担いで挙兵することを知り、輝元に同意しないよう伝えるつもりだったが、輝元はもう大坂へ出向いてしまった。</p>

<p>そこで広家は、親しい黒田長政を通じ、家康に「これは恵瓊の謀略であり、輝元は関知していない」と釈明、その後は徳川方と連絡を保ちながら主家と行動を共にし、関ヶ原合戦の前日になっていきなり主将の秀元や毛利家の重臣たちに事実を打ち明けたのである。</p>

<p>軍議の結果、輝元の許可なく家康方に人質を出し、「毛利氏の忠節が明らかになれば、家康様は本領を安堵する」という血判付きの起請文を徳川方から獲得。こうして広家は、一兵たりとも参戦させないという行動で家康に忠節を示したのだ。</p>

<p>ただ、少数ながら西軍はすさまじい戦いぶりを見せ、戦線は膠着状態になった。もし傍観している西軍諸将が東軍に攻撃を仕掛けてきたら、絶体絶命である。</p>

<p>そこで裏切りを約束していたのに動かない松尾山の小早川秀秋に対し、気を揉もんだ家康は「せがれ（秀秋）めに計られた（だまされたか）」（『朝野旧聞裒藁』）と怒り、松尾山に鉄砲を撃ち込むよう命じた。</p>

<p>俗にいう問鉄砲である。</p>

<p>このため秀秋は松尾山を駆け下り、眼下の大谷吉継の陣へ攻め入り、つられて赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治も味方に攻めかかり、大谷隊が壊滅したのを機に、西軍は瓦解したのである。</p>

<p>以上がこれまで言われてきた関ヶ原合戦の経緯である。</p>

<p>が、近年、多くの研究者が一次史料にもとづいて新たな解釈をおこない、通説が大きく揺らいでいる。</p>

<p>意外なのは、合戦の勝敗を決めた小早川秀秋の裏切りだが、黒田基樹氏（『シリーズ 実像に迫る005　小早川秀秋』戒光祥出版）は、8月28日に秀秋のもとに東軍への寝返りをうながす書状が送られているので8月後半から家康の調略が始まっていたと推測し、9月14日に家康から起請文が出されているので、この段階で秀秋は「大坂方から江戸方に転じる意向があった」（前掲書）と論じる。</p>

<p>また、吉川広家が合戦の2日後に出した「書状案」などを分析。結果、三成は、秀秋の裏切りがはっきりしたので、関ヶ原の山中（地名）に陣取っている大谷吉継が危険になったため、これを守るため関ヶ原に移動してきたという。</p>

<p>さらに、合戦中に「決断をうながすために、家康が秀秋の陣に向けて問鉄砲をおこなった」のも「すべて後世の創作」で、「当時の史料からは、開戦とほぼ同時に、秀秋は江戸方の立場をとって、大坂方を攻撃したことが明らか」（前掲書）と論じる。</p>

<p>さらに乃至政彦・高橋陽介著『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』（河出書房新社）では、秀秋はもっと早くに東軍に転じており、石田三成も9月12日の時点でこの事実を認識し、「秀秋の裏切りを知った三成は、秀家・小西行長・惟新（島津義弘・引用者注）の諸隊を率いて、秀秋を討つべく、雨の降るなか、山中方面へ向かった」（前掲書）というのだ。　</p>

<p>通説では家康が偽情報を流し三成らを大垣城から誘い出し、関ヶ原におびき寄せたことになっているので、その説が根本的に崩れるわけだ。</p>

<p>ただ、秀秋の行動が西軍を壊滅に追い込んだのは確かで、この功績により秀秋は備前・美作二国、50万石を与えられ岡山城主となった。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 14 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[河合敦（歴史研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ命がけでジョークを語るのか？ロシアで「アネクドート」が途絶えない理由  名越健郎 (拓殖大学客員教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14809</link>
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			<description><![CDATA[ロシアで昔から作られてきた「アネクドート」は政治を風刺する小話のこと。スターリン時代には口にするだけで収容所送りになった例も。彼らはなぜ命がけでジョークを語るのか。ジャーナリストの名越健郎氏が解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ロシアには「アネクドート」という政治を風刺する小話を語る文化がある" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_notebook.jpg" width="1200" /></p>

<p>ロシアには「アネクドート」の文化がある。社会や政治を揶揄するような、風刺を込めた小話のことだ。彼らがアネクドートを必要とした理由とは。長い歴史のなかで、どのようなアネクドートが編まれてきたのか。2度のモスクワ滞在経験があるジャーナリストの名越健郎氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、名越健郎著『ジョークで読み解く「ロシア近現代史」』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>短いフレーズで本質を衝き、世相を斬る</h2>

<p>ロシア人とエストニア人が議論していた。<br />
エストニア人が言った。<br />
「プーチン政権がこれだけ長期化すると、あんたの孫もプーチンに投票することになるだろう」<br />
ロシア人が答えた。<br />
「あんたの孫もな」</p>

<p>2025年、ロシアのアネクドート（小話）サイトに投稿されたこの作品は、ギクリとさせるブラックジョークだ。ウクライナを攻撃するロシアが、次はバルト三国のエストニアに侵攻し、再びバルトを併合しかねないという地政学リスクを揶揄している。</p>

<p>冷戦終結から30数年を経て、欧州は再びロシアとの戦争の影に怯え、その脅威は冷戦期よりも高まった。</p>

<p>ウクライナ侵攻後、ロシアでは刑法に「軍侮辱罪」なる条項が追加された。反戦運動は御法度となり、庶民はジョークサイトへの投稿を自己規制している。しかし、刑法に抵触しないぎりぎりのところでアネクドートが作られており、特にトランプ米大統領登場後の米ロ関係を扱ったネタには力作が少なくない。</p>

<p>トランプ政権1期目のスローガンは、「Make America Great Again!」<br />
トランプ政権2期目のスローガンは、「Make Russia Great Again!」</p>

<p>問＝プーチン大統領が最も美しく奏でる楽器は何か？<br />
答＝TRUMPet（トランペット）</p>

<p>トランプ大統領の2期目の就任式後、プーチン大統領が大統領令に署名した。「ドナルド・トランプをロシアの北米連邦管区大統領全権代表に任命する」</p>

<p>以上は、トランプ政権2期目が親ロ外交に舵を切ったことを皮肉るジョークだ。短いフレーズで本質を衝き、世相を斬るのが、アネクドートの神髄である。</p>

<p>ロシアの世論調査では、侵略戦争を進めるプーチン大統領の支持率は80％を超えているが、アネクドートの世界ではそれとは異なる醒めた批判精神が宿っている。</p>

<p>プーチン大統領の国民とのテレビ対話で、シングルマザーが質問に立った。<br />
「私には2人の息子がいます。子育てで国に何を期待すればいいでしょう」<br />
「2通の招集令状だ」</p>

<p>一方、戦火に苦しむウクライナでも、侵略者のロシアを皮肉る作品がスマホなどで飛び交っている。</p>

<p>夜中の3時、ロシア大統領公邸で執事がプーチン大統領を起こした。<br />
「夜分に失礼します。ウクライナ側が降伏について大統領と交渉したいそうです」<br />
「ついに来たな。電話を回してくれ」<br />
「それには及びません。武装したウクライナ兵がドアの外で待っています」</p>

<p>アネクドートはスラブ文化の至宝であり、ロシアだけでなく、ウクライナ、ベラルーシでも語り継がれる。「ウクライナは兄弟国であり、家族の一員」というプーチンの持論は、小話制作の巧みさでも共通する。</p>

<p>ロシアの国民がアネクドート作りに熱中し、醒めた諦観が広がるなら、無駄な戦争は終結に向かうかもしれない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ソ連邦を崩壊させた陰の原動力</h2>

<p>思えば、20世紀以降、ロシアの民衆ほど政治の激動に翻弄された国民はいないかもしれない。</p>

<p>レーニンによる世界初の社会主義革命、赤軍と白軍の内戦、スターリン時代の大粛清、史上最大の戦争となった独ソ戦、戦後の社会主義建設、そして社会主義の解体と国家の崩壊――。まさに「戦争と革命の世紀」となった20世紀の激動をロシア・ソ連がもろにかぶる形となった。</p>

<p>ソ連邦崩壊後も、1990年代の新生ロシアは経済・社会混乱に見舞われ、カオスに陥った。2000年にプーチン大統領ら旧KGB（ソ連国家保安委員会）勢力が政権を掌握すると、政治、経済は安定したが、強権体制に逆戻りし、22年には兄弟国・ウクライナに全面侵攻する衝撃的な展開となった。</p>

<p>このような激動を横目に、ロシアの民衆はアネクドートによって憂さを晴らし、事態を諦観してきた。ソ連時代、民衆は秘密警察の監視や密告を恐れ、従順に振る舞いながら、裏では政府や指導者を小話で痛烈に批判していた。</p>

<p>かつて旧共産圏の政治ジョークには、「部分的な真理が必ず込められている」という格言があった。庶民の不満や憂さを晴らし、現実を直視する醒めた批判精神が、やがてソ連邦を崩壊させる陰の原動力になった。</p>

<p>ソ連崩壊後の市場経済もいびつな展開を遂げ、急激な民営化や利権闘争の結果、貧富の格差が天文学的に広がった。億万長者のエリートは内外に不動産を持ち、地中海に豪華ヨットを浮かべて豪奢な生活を謳歌するのに対し、多くの庶民は生活苦にあえいでいる。</p>

<p>近年の小話は、オリガルヒといわれる新興財閥を揶揄する作品が多いが、アネクドートは昔も今も、欲求不満の解消材なのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>現実をパロディー化する能力に長けた国</h2>

<p>ロシア人が気のおけない集まりで、アネクドートを披露し合うことはよく知られている。ロシア人の生活の中で、アネクドートは重要な位置を占めてきた。リラックスした会話では、気の利いた一口小話を披露し合うことが習慣であり、「こういうアネクドートを聞いたか」「新しいネタはないか」が挨拶代わりだった。筆者は時事通信社の記者として、1991年のソ連邦崩壊前後とプーチン時代初期の2度モスクワに駐在したが、モスクワ生活の楽しみの一つが、新作のアネクドートを仕入れることだった。</p>

<p>ロシア人の自宅に招かれ、興が乗れば、たいてい小話のオンパレードとなった。強くないので閉口したが、ウオツカを3、4杯流し込み、体が温まると、「こんなの知ってる？」と披露が始まる。</p>

<p>アネクドートには、ロシア語の韻を踏んだ難解なものが多く、そのような場では私だけが笑えず、何度も説明を頼んで座をしらけさせたものだ。</p>

<p>2度目の赴任の時は、飲み会の前に小話を4つ、5つ用意し、ロシア人の助手に文法などを直してもらい、スマートな表現で臨むようにしていた。</p>

<p>ジョークのセンスや現実をパロディー化する能力にかけては、ロシアは先進国で、日本人はなかなか対抗できない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>現代のフォークロア</h2>

<p>現実を皮肉るアネクドートの語源は、ギリシャ語の「アネクドトス」（非公開情報）から来ており、帝政時代の18世紀からロシアに定着した。</p>

<p>アネクドートには、政治風刺以外にも、経済、社会、歴史、民族、軍隊、生活、エロティシズムなど多くのジャンルがある。それは百科事典のように幅が広く、ロシア社会のあらゆる断面を網羅している。</p>

<p>政治風刺のジョークは、統制の厳しいソ連時代に異様な発展を遂げた。民衆は秘密警察の監視や密告を恐れ、従順に振る舞いながら、本音では政府や指導者、生活苦を小話で痛烈に批判してきた。</p>

<p>スターリン時代には、政治小話を口にしただけで、反ソ宣伝・扇動罪で収容所送りになった例もあり、命がけだった。</p>

<p>1970年代にフランスに亡命した反体制作家、アンドレイ・シニャフスキーは「われわれは親しい友人の間で、まるで最新のニュースのように一口小話をすることにすっかり慣れているので、自分たちがこの巨大な口承文学の繁栄の時代に生きているという幸福に気づかないほどだ」と書いた。アネクドートこそ「現代のフォークロア」（ロシア文学者の沼野充義氏）と言えよう。</p>

<p>日本では、世相を風刺して笑いを取る川柳が江戸時代から親しまれてきたが、五.七.五の17音という形式や制約がある。ロシアのアネクドートは定式もルールもなく、自由な発想で底が深いのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 13 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[名越健郎 (拓殖大学客員教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【2027大河『逆賊の幕臣』】小栗忠順（上野介）はなぜ出世できた？幕府が「目付」に抜擢した本当の理由  安藤優一郎（歴史家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14755</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014755</guid>
			<description><![CDATA[2027大河の主人公・小栗忠順が頭角を現すまでを解説。若くして書院番を務め、29歳で目付へ昇進。数字に明るく開国論を支持する彼が幕府の要職「目付」に抜擢された意外な理由をひも解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="小栗忠順" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260723OguriTadamasa.jpg" width="1200" />小栗忠順（出典：国立国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/)</p>

<p>2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公として注目を集める小栗忠順（おぐりただまさ／上野介）。若くして格式の高い「書院番」となり、29歳で家督を継ぐと、幕臣たちが羨望する「目付」に抜擢される。青年期から数字に強い関心を示し、開国論を支持していた忠順。彼はいかにして頭角を現したのか？その出世の軌跡と「目付」抜擢の真相に迫る。</p>

<p>※本稿は、安藤優一郎著『幕臣・小栗忠順の真実』（PHP文庫）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「入るを量りて出ずるを制す」と記された家計簿</h2>

<p>天保14年（1843）3月23日、小栗忠順は江戸城に登城し、将軍徳川家慶に初めて拝謁した。初御目見である。これにより、正式に小栗家の嫡男として認められた。</p>

<p>弘化4年（1847）4月16日、忠順は西丸書院番として御番入りを果たし、父忠高の家禄2500石とは別に300俵を賜わる。21歳の時であった。20代に入ったばかりで、その上、家督相続前の御番入りでもあり、順調なスタートを切る。</p>

<p>御番入りでも、五番方のうち書院番と小姓組は両番と称されて格式が高く、小栗家の歴代当主も、書院番か小姓組のどちらかに入るのが慣例だった。幕臣のなかでは毛並みの良い三河譜代の旗本といえども、役職に就けず一生を終える者が多かったのが現状であり、忠順は非常に恵まれていた。</p>

<p>忠順の日記と家計簿が残されている。日記は慶応3年（1867）と4年だけだが、家計簿は3冊残され、1冊目は嘉永3年（1850）1月から安政2年（1855）5月までのものであった。</p>

<p>書院番として300俵を支給された頃から、数字に強い関心を持っていたことが窺える。『量入制出簿』という表紙が家計簿に付けられているのも非常に興味深い。「入るを量りて出ずるを制す」、収入の額を計算して支出の計画を立てるという意味であり、幕府財政を預かる勘定奉行を4度も務め、その手腕を発揮した将来の姿が見えてくる。</p>

<p>書院番（10組ほど）各組は番頭1人、組頭1人、番士50人、与力10騎、同心20人で構成され、江戸城本丸御殿の白書院前の紅葉之間（後に虎之間）に詰めた。書院番は将軍世子の居所である西丸御殿にも置かれ、西丸書院番の番士となった忠順は13代将軍となる世子家定の警護にあたった。</p>

<p>この頃、同じく砲術の田付主計の門下に、開港論を唱える結城啓之助という与力がいた。青年期から開港論者であった忠順にとり、儒学者の安積艮斎（あさかごんさい）はもちろん結城の存在も大きかったとされる。2人の影響を受け、日本からも3本マストの商船で中国大陸に進出して貿易することを唱えた。貿易を通じた富国強兵を目指したのである（戸川残花「史伝 小栗上野介」）。</p>

<p>西丸書院番士の時代から開港つまり開国論者であった忠順は、ペリー来航の翌月にあたる嘉永6年（1853）7月には進物番を兼ねる。進物番は、大名や旗本からの献上品及び将軍からの下賜品を取り扱うため、将軍との距離が近くなる役職だった。同9月には西丸から本丸書院番に移る。11月には家定が将軍の座に就いて本丸に入った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>エリートコースが約束された役職</h2>

<p>ペリー来航にはじまる国難を受け、幕府は外交や海防に忙殺されるが、小栗家もその渦に巻き込まれる。</p>

<p>嘉永7年（1854）1月にペリーは再来航し、3月に日米和親条約（神奈川条約）が武蔵国久良岐郡横浜村（現神奈川県横浜市）で調印された。再来航の折、忠順は江戸湾岸の浜御殿（現浜離宮恩賜庭園）で警備にあたっている。浜御殿は江戸城外に置かれた将軍の庭園であった。</p>

<p>同年閏7月、持筒組（将軍の鉄砲を管理する部隊）の頭を務めていた忠高は新潟奉行に任命された。番方の持筒頭から役方の新潟奉行に抜擢され、海防強化の最前線に立ったのである。10月には、新潟に着任した。</p>

<p>ところが、翌安政2年（1855）7月18日、忠順は幕府の許可を得て、急遽新潟に向かった。忠高病気の知らせが入ったのである。24日に新潟に到着するが、忠高の病いは重く、28日に病死した。</p>

<p>10月22日、忠順は家督相続を許され、小栗家12代目当主となる。29歳の時であった。</p>

<p>同4年1月11日には、書院番の番士から使番に転じた。12月16日には、儀式の際に布衣を着用することが許され、従六位に相当する格式となった。6年9月12日には目付に抜擢される。</p>

<p>目付は旗本の間で唾涎の的になっていた役職だった。目付に選ばれ、その仕事ぶりが将軍や幕閣に評価されれば、幕府のエリート官僚となることが約束されたからである。</p>

<p>目付をこなした後は、京都町奉行、大坂町奉行、長崎奉行、忠高も任命された新潟奉行などの遠国奉行として幕府直轄地に派遣される。現地での実績が評価されると、江戸に戻った際には、大名役の寺社奉行とともに三奉行に数えられる勘定奉行や町奉行に抜擢されることも夢ではない。</p>

<p>旗本が就ける行政部門の役職のなかで、町奉行と勘定奉行はそのトップと位置付けられていた。それだけ、幕政に強い影響力を行使できる役職なのであり、忠順も後に両奉行職を務めている。</p>

<h2>目付という仕事</h2>

<p>目付は奉行のような行政職ではなく、幕臣の行状や幕府役人の勤務状況の監察が主たる任務であった。だが、綱紀粛正のみならず政務の監察にもあたったことで、幕府内部では隠然とした影響力を誇る。そのほか、江戸城中での礼法を指揮し、三奉行を構成員とする評定所での吟味に立ち合うなど、幕府有司のなかで指折りの激職だった。</p>

<p>定員は10人で、城内の執務室（御目付部屋）には本番1人と加番2人の目付が昼夜問わず常駐した。執務室の2階や目付方御用所には部下の徒目付が詰め、目付が上申する意見書の起草などにあたった。</p>

<p>監察職たる目付は、幕閣を構成する老中や若年寄に諸事意見を述べることが許された。仮に老中に問題がある場合は、将軍その人に言上しても構わない。相手が老中であっても弾劾できた。</p>

<p>目付の正式名称は「御目付」である。「御」には、将軍に代わって幕政や役人の行状に目を光らせるという意味が込められていた。</p>

<p>目付は人事にも深く関与する。諸役人の人事に関わったのは老中と若年寄だが、その指示を受けて密かに候補者を調査し、探索結果を報告した。旗本や御家人の行状を絶えず監察する仕事柄、人事の参考になる情報は豊富に持っていたが、配下の徒目付や小人目付をして、さらなる情報を収集した。</p>

<p>徒目付と小人目付はともに御家人で、その数は各50人ほどである。目付指揮のもと城内の宿直、大名登城時の玄関の取り締まり、評定所への出役のほか、役人の執務の調査などにあたった（安藤優一郎『お殿様の人事異動』日経プレミアシリーズ）。</p>

<p>しかし、幕府は政務や幕臣を監察させるため、忠順を目付に起用したのではなかった。目付に任命された翌日の9月13日、江戸城芙蓉之間において、アメリカに派遣される使節（遣米使節）の「立ち合い」を命じられる。日米修好通商条約の締結に伴い、アメリカで批准書を交換するため外国奉行新見正興を正使、同役の村垣範正を副使とする使節を派遣することになるが、その監察役として白羽の矢が立ったのであった。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 12 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎（歴史家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>今川氏真と島津義弘、対照的に見える二人の晩年とは？  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12702</link>
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			<description><![CDATA[今川氏真と島津義弘、対照的に見える二人の晩年とは？ 作家の鷹橋忍氏が語る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="島津義弘" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/shimazuyoshihiro.jpg" width="1200" /></p>

<p>人生とは何が起こるかわからないもので、それは戦国時代も変わらない。才知をもって家を守り抜いたかと思えば、晩年に思わぬ辛さを味わう者もいれば、城から追われる悲運を味わいながら、悪くはない最期を迎えた者もいる。ここでは、戦国大名としての今川家を滅ぼしてしまった今川氏真、「鬼島津」と称された猛将・島津義弘という対照的に見える二人の晩年を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家を滅ぼしても、悪くはなかった後半生――今川氏真</h2>

<p>今川氏真は天文7年（1538）に、駿河・遠江の戦国大名・今川義元の嫡男として生まれた。父・義元が永禄3年（1560）5月の桶狭間合戦で敗死したことから当主として難局に当たるが、今川家の保護下にあった国衆の岡崎松平家の当主・松平元康（のちの徳川家康）は離反した。</p>

<p>永禄11年（1568）12月には武田信玄の駿河侵攻を受け、氏真は遠江の懸川城へ敗走するが、翌年、懸川城を家康に明け渡し、妻・早川殿の実家である小田原北条家の元に移った。ここに、戦国大名としての今川家は滅亡した。氏真、32歳のときのことである。</p>

<p>のちに小田原北条家からも離れ、氏真は家族とともに、家康の庇護を受けることとなった。</p>

<p>天正18年（1590）、氏真が53歳のとき、秀吉の小田原攻めにより北条家が滅び、家康は関東へ転封となった。だが、氏真は家康に同行せずに、家族で京に上ることを選んだようである。翌天正19年（1591）から、公家・山科言経の日記『言経卿記』などに、氏真が登場するからだ。氏真は、仙巌斎（仙岩斎）という斎号を称している。</p>

<p>京都での氏真は、歌会に出席して公家たちとの交流に時間を費やすなど自適な生活を送ったという（小和田哲男『駿河今川氏十代 戦国大名への発展の軌跡』）。</p>

<p>京都での生活費は、家康から与えられた所領でまかなわれたとみなされている（黒田基樹『徳川家康と今川氏真』）。</p>

<p>慶長17年（1612）4月、氏真は京都から駿府の家康を訪ね、対面している。氏真は75歳、家康は71歳になっていた。その後、氏真は江戸に居を移している。</p>

<p>翌慶長18年（1613）2月15日、氏真の妻・早川殿がこの世を去った。氏真と結婚してから59年の月日が流れていた。</p>

<p>そして、翌慶長19年（1614）12月28日、氏真も77歳で死去し、長い流浪の日々に終止符が打たれた。</p>

<p>戦国大名今川家当主の座は失ったが、和歌などを楽しみながら、夫婦揃って長寿が叶った。氏真にとって悪くない人生だったと思いたい。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>息子の領国経営を支えて...島津義弘</h2>

<p>「鬼島津」の異名を持つ猛将・島津義弘は天文4年（1535）7月、薩摩国伊作（鹿児島県日置市）に生まれた。父は、島津家中興の祖と仰がれる島津貴久。兄に十六代島津家当主となった義久、弟に歳久、異母弟に家久がおり、義弘は最前線で指揮を執り、華々しい軍功をあげていった。</p>

<p>島津家は薩摩・大隅・日向の3カ国を制し、九州統一まであと一歩と迫ったものの、秀吉に敗れ、豊臣大名として存続した。その後も義弘の戦いは続き、文禄の役に58歳、慶長の役に63歳で参戦している。</p>

<p>66歳で挑み、最後の戦場となった関ケ原合戦では、義弘が与した西軍が敗北。のちに義弘の子・島津忠恒（のちの家久）が、初代薩摩藩主となった。</p>

<p>義弘は隠居したが、晩年は農業の発展のために水利開墾を促進し、植林や牧畜、養蜂の事業も進めるなど、藩主となった忠恒の領国経営を支えた。明（中国）やルソン（フィリピン）、琉球王国などとの交易にも尽力しており、国の繁栄を心から願っていたのだろう。</p>

<p>80歳を超えたころには、のちに『惟新公御自記』と称される、自らの武功や見聞などを綴った自伝を残した。千利休から茶道を伝授されており、晩年は茶事を好んだという。</p>

<p>義弘は生涯52回の合戦に挑んだという強者であるが、元和3年（1617）2月中旬、中風（脳卒中）で倒れ、元和5年（1619）7月21日、加治木屋形（鹿児島県姶良市）で亡くなった。享年85。義弘の後を追うように、十三名の家臣が殉死していった。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 12 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>佐和山城を抜き、一気に大阪城へ　家康の計略と三成の誤算  河合敦（歴史研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12596</link>
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			<description><![CDATA[慶長5年（1600）小山評定から関ヶ原合戦に至る両陣営の思惑を歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="大阪城" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_Osakajyou.jpg" width="1200" /></p>

<p>徳川家康は戦国乱世を収拾し、江戸時代という平和な世の中をつくりあげた。ただ、彼の人生はまさに波瀾万丈であり、苦難や危機の連続だった。</p>

<p>本稿では、慶長5年（1600）小山評定から関ヶ原合戦に至る両陣営の思惑を歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』（PHP新書）の内容を、一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>豊臣政権の公儀性を失う家康</h2>

<p>会津攻めのため家康に従っていた豊臣系大名は、石田三成の挙兵を知り反転して上方を目指しはじめた。<br />
ただ、家康は彼らと行動を共にせず、江戸にとどまり、動こうとしなかった。<br />
自分が豊臣政権の公儀性を失ったことを知ったからである。</p>

<p>三成らは大老で西国の雄・毛利輝元を大坂城に引き入れて大将に担ぎ、また大老の宇喜多秀家も三成に加担、さらに家康に三成らの不穏な動きを知らせた三奉行が寝返ったのだ。</p>

<p>「当初は三成・吉継両名の単なる徒党であったものが、秀頼をいただき、大老毛利輝元を盟主に、大老宇喜多秀家も加わり、さらに三奉行も参画することによって、彼らこそが豊臣公儀を背負うことになったのである。</p>

<p>当然のことながら、豊臣公儀を背負って出馬したはずの家康は公儀性を剝奪され、会津攻めを行う大義名分も失うことになった」（本多隆成著『人をあるく　徳川家康と関ヶ原の戦い』吉川弘文館）</p>

<p>さらに三奉行の名をもって西軍（三成ら反家康派）は、豊臣政権に対する家康の非道を「内府違いの条々」にまとめ、諸大名に配布した。公的性格を匂わせたその書には、理路整然と家康の暴虐ぶりが列記され、秀頼に対する忠義が説かれていた。この文章を読むかぎり正義は西軍にあった。</p>

<p>同時に、三成らは、諸大名に勝利後の莫大な褒美を確約した。小早川秀秋には関白職、上田城の小大名真田昌幸には、信濃・甲斐2国の分与、という具合にだ。この結果、西国大名の大半は西軍方となり、その動員兵力は10万を超える規模に膨張した。家康が率いる味方大名の倍の数である。</p>

<p>こうしたこともあり、家康は進軍をためらってしまったのだろう。まずは、上方へ向かった豊臣系大名たちが東軍（徳川方）として働くかどうかを見極める必要があった。</p>

<p>また、敵対する上杉景勝や動向が読めない佐竹義宣などに対し、関東の防衛体制を固める必要に迫られた。さらに、この状況下、多数派工作も必要になった。まさに家康にとって最大のピンチとなったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>猛烈な書簡戦略を展開、関ヶ原へ</h2>

<p>小山評定から関ヶ原合戦前日までの約50日間、家康の手紙は155通も現存している。その大半は、味方の武将との絆を深めたり、敵に加担した大名に投降を促す内容である。実際はこの数倍の量を記したはずで、猛烈な書簡戦略を展開したのである。</p>

<p>ただ、この間、東軍の先鋒隊は岐阜城を1日で陥落させるなど、すさまじい進撃ぶりを見せ、このままでは徳川軍なしで西軍を倒してしまう状況が生まれた。</p>

<p>家康は東軍先鋒に対し、「私がそちらへ出向くまでは、何事も軍監の井伊直政の指図に従ってほしい」と命じている。しかし、彼らは徳川の天下取りのために働いているという感覚は薄い。</p>

<p>豊臣政権の派閥争いと認識しており、まさかのちに徳川幕府が誕生しようとは夢にも考えていなかったはず。くわえて、少しでも多く戦後の論功行賞を手にしたいと思っていたから、戦功に焦って身勝手な行動が多々見うけられた。</p>

<p>家康はこれにあわて、9月1日に江戸を出立し、9日には岡崎城に入った。かなり早い進軍速度である。さらに11日に清須城に入ったが、ここで風邪を引いて1日進軍をとめた。東山道（中山道）から上洛している徳川秀忠軍が、どうやら決戦に間に合いそうにないことがわかった。そこで時間かせぎをしようとしたらしい。</p>

<p>じつは家康が率いる軍勢3万は、小身の寄せ集めであり、大身や精鋭は秀忠が率いていた。だが、東軍諸将は大垣城に籠もる西軍主力軍に今にも攻めかかりそうな状況になっていた。時には勢いというものがある。いまここで決戦を引き延ばしてはまずいと家康は判断した。</p>

<p>このため13日に岐阜城に入り、翌9月14日、大垣城の近く北西の赤坂に着陣し、東軍諸将と合流したのである。<br />
こうして翌日いよいよ天下分け目の関ヶ原合戦が始まる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家康の狙いと石田三成の誤算</h2>

<p>　石田三成は当初、清須城と岐阜城を中心に、犬山城や竹ヶ鼻城を加えて西軍の防衛ラインとし、ここで東軍と激突するつもりであったようだ。豊臣恩顧の大名ゆえ、清須城主の福島正則も味方につくと思っていたらしい。</p>

<p>だが、正則は味方にならず、逆に主力として岐阜城を攻め立てた。城主の織田秀信は東軍の襲来にあっけなく城を明け渡してしまい、犬山城、竹ヶ鼻城も次々陥落した。</p>

<p>こうした誤算によって戦略の再構築を迫られた三成は、大垣城に籠もって東軍を引き付け、その間に西軍の総大将毛利輝元と豊臣秀頼を大坂城から出馬させる方針をとったという。</p>

<p>もし秀頼が出座し、輝元の大軍が来襲すれば、東軍の豊臣系大名に動揺を与えることは必至。きっと、戦意を喪失して東軍は瓦解するだろう、そう三成は読んだとされる。</p>

<p>こうして三成は9月8日、佐和山城を出て大垣城へ入った。同時に、10数キロ後方の関ヶ原周辺に陣地を構築し、諸大名を分置した。ここに毛利輝元本隊を迎え入れ、同軍の着陣を待って、大垣城に引き付けておいた東軍を挟撃しようと考えたようだ。</p>

<p>先述のとおり家康は、岐阜城を経て14日、大垣城から4キロ離れた赤坂の岡山に着陣した。</p>

<p>家康としては、苦手とする籠城戦は避けたい。また、城攻めで日を送れば、大坂城から豊臣秀頼が出馬してくる可能性もある。そこで、秘策をうったという。</p>

<p>諸将を集めて作戦会議を開き、三成の本拠地佐和山城を抜き、一気に大坂城へ攻め寄せる方針を決めたのである。家康はこの方針をあえて噂として流させ、それは三成の知るところとなった。</p>

<p>驚嘆した三成は、急遽、挟撃策を諦め、関ヶ原に防衛ラインを敷いて、何としても東軍の進軍を食い止めなくてはならないと焦った。まさにそれが、家康の狙いだった。</p>

<p>こうして9月14日夜、豪雨のなか闇に紛れ、三成は全兵力を大垣城から密かに出陣させた。一切松明を焚たかず、馬の口をしばって音を消し、東軍に気づかれないよう、大きく迂回して漆黒の中、関ヶ原を目指して消えていった。</p>

<p>出陣にどれほどの時間を要したのか、よくわからないが、家康の耳に確報が入ったのは翌日の午前2時頃だったとされる。<br />
そこで家康は、すぐさま全軍に進撃を命じた。こうして東軍も、三成軍同様、夜中雨の中、泥まみれになりながら、関ヶ原へと走った。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_Osakajyou.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 11 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[河合敦（歴史研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>質素な生活を送った光烈皇后、一夫一婦制を導入した文献皇后「中国後宮を彩った賢婦」  菊池昌彦（アジア雑学ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12682</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012682</guid>
			<description><![CDATA[実際の中国王朝における後宮も、ドラマのように華やかでドロドロとしたものだったのだろうか？アジア雑学ライターの菊池昌彦さんに解説して頂く]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="中国の後宮で繰り広げられた激動の歴史" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/banrinochojyo.jpg" width="1200" /></p>

<p>本格大河からファンタジーまで、多彩なジャンルの中国時代劇が注目を集めている。<br />
中でも根強い人気を誇るのが、寵姫たちが皇帝の愛情を独占すべく競い合う宮廷ロマンスだ。実際の中国王朝における後宮も、ドラマのように華やかでドロドロとしたものだったのだろうか？　今回は、その中でも賢婦と語られた女性を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>光烈（こうれつ）皇后・陰麗華（いんれいか）／後漢／5〜64年</h2>

<p>光烈皇后は南陽郡（現在の河南省南陽市）の豪族の娘で、本名を陰麗華という。</p>

<p>前漢が王莽の簒奪により一度滅亡すると、各地で劉氏を旗頭とする反乱が続発し、最終的に陰麗華と同郷の劉秀が後漢を立て、初代皇帝・光武帝（紀元前6〜後57）となる。</p>

<p>陰麗華は、挙兵前の劉秀が「仕官するなら執金吾（しっきんご）、妻を娶らば陰麗華（官職に就くなら華やかな都の儀仗兵、妻にするなら陰麗華がいい）」と語るほど評判の美女で、19歳のときに劉秀の妻となる。</p>

<p>劉秀が皇帝に即位すると、洛陽の後宮に迎えられたが、劉秀は有力豪族の娘・郭聖通（かくせいつう）との間に男子をもうけていたため、陰麗華は皇后の座を辞退して、一段低い貴人となった。</p>

<p>しかし、陰麗華を寵愛していた光武帝は、郭皇后を嫉妬深く傲慢だとして廃位すると、陰麗華を新たな皇后とした。郭皇后の生んだ子も皇太子を辞退し、陰麗華の生んだ劉荘が新たな皇太子に立てられ、後に後漢2代明帝となる。</p>

<p>後漢建国の苦難を共にしたことから、陰麗華は皇后になってからも、光武帝の死後に皇太后となってからも質素な生活を守り、自身の一族を要職につけず、むしろ廃位された郭皇后の一族を厚遇した。</p>

<p>その慎ましい性格のまま、光武帝の死後7年後に病死し、光烈皇后の号が贈られた。陰麗華に育てられた明帝も聡明で、陰麗華が推薦した馬皇后をそばに置いて後漢の安定期を築いた。</p>

<p>後漢末期は宦官と外戚が横行して王朝を弱体化させたが、陰麗華から馬皇后の代では外戚の専横は抑えられ、中国史における最も優れた皇后のひとりとして讃えられている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>文献（ぶんけん）皇后・独孤伽羅（どっこから）／隋／544〜602年</h2>

<p>南北朝時代に北魏から分裂した北周の重臣・独孤信（どっこしん）には、多くの娘がいた。長女は北周の皇帝である2代明帝に嫁ぎ、四女が大将軍の李昞（りへい）に嫁ぎ、七女の伽羅も隋国公となった将軍の楊堅（541〜604年）に14歳で嫁ぐ。</p>

<p>楊堅は伽羅との間に生まれた楊麗華を、北周の4代宣帝の皇后とし、宣帝が早くに亡くなると、わずか7歳の静帝を即位させて実権を握り、幼い静帝から禅譲される形で皇位についた。</p>

<p>楊堅は国号を隋として初代文帝となり、伽羅も皇后に立てられた。聡明で思慮深い皇后の支えもあって、隋は南朝の陳を滅ぼして、約300年ぶりに中国を統一する。</p>

<p>伽羅は楊堅を叱咤激励し、判断が間違っていると思えば遠慮なく諫めたという。また、公私の別をわきまえ、身内が不祥事を起こしたときも「国家のことに私情をはさんではいけない」と、法に則って処断させた。群臣たちは皇后を信頼し、楊堅と並んで「二聖」と呼んだ。</p>

<p>一方で嫉妬深く、楊堅が愛妾を持つことを許さず、結婚するときに、自分以外との間に子をつくらないよう約束させている。楊堅が秘かに愛妾をつくったことを知るとこれを殺害し、怒った楊堅が単騎で宮中を飛び出してしまったという話も伝わる。ただし、不幸な境遇の女性には同情し、滅亡した陳の皇族であった宣華（せんか）夫人などは後宮に迎え入れている。</p>

<p>権力者の多くが愛妾を抱えることが当然だった時代に、一夫一婦制の原則を持ち込んだ伽羅は、自分の子や臣下にも潔癖さを求めた。</p>

<p>楊堅との間に五男五女をもうけたが、多くの愛妾を抱える皇太子の楊勇を嫌い、品行方正にふるまう次男の楊広を後継者にするように画策し、59歳で亡くなった。</p>

<p>ただ、伽羅が亡くなり楊堅が病床に臥すと、楊広はそれまでの態度を覆して本性を現わし、即位後は暴政をくり返した。最後はクーデターにより殺害され、隋は2代で滅亡する。楊広は煬帝と呼ばれ、中国史上最大の暴君とされた。その後に唐を立てた初代高祖・李淵は、李昞に嫁いだ伽羅の姉が生んだ子だった。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 10 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[菊池昌彦（アジア雑学ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【2027大河】小栗忠順（上野介）は酒も女も興味なし？14歳で見せた「豪胆な姿」とは  安藤優一郎 (歴史家)</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14753</link>
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			<description><![CDATA[幕末の旗本・小栗忠順の青年期に迫る。花見の席で隅田川の治水を語るような「空気を読まない」言動や、14歳でタバコをくゆらせ、大名と渡り合った豪胆な素顔を証言から紐解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ヴェルニー公園の小栗上野介忠順像" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260609oguritadamasa.jpg" width="1200" /><br />
ヴェルニー公園の小栗上野介忠順像（撮影：PHPオンライン編集部）</p>

<p>幕末において日本の近代化をリードした小栗忠順（おぐりただまさ／上野介）。青年期の彼は、花見に出かけても桜や酒、女性に関心を示さず、川の治水について熱弁を振るうような「空気を読まない」人間であった。頭脳明晰で、他人の言葉に流されず、己の信じる道を突き進む自信家であったとされる小栗。その豪胆さが窺える14歳の姿とは...？同時代人の証言や幼少期のエピソードから、2027年大河『逆賊の幕臣』主人公・小栗忠順の素顔に迫る。</p>

<p>※本稿は、安藤優一郎著『幕臣・小栗忠順の真実』（PHP文庫）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>異彩を放つ青少年期のエピソード</h2>

<p>三河譜代名門の旗本の一人っ子として将来が約束されていたためか、忠順は怖いもの知らずの性分を青少年期から発揮した。当時の忠順を知る者たちの証言から、その人物像に迫ってみる。<br />
安積艮斎（あさかごんさい）塾の同門の間柄でもあった旗本の栗本鋤雲（くりもとじょううん）は、忠順の良き理解者だった。栗本は塾での日々を回顧し、次のように語る。</p>

<p>講義の席での忠順は寡黙で、一見他の者と少しも異なるところはないが、執拗剛腹で、意地っ張りであった。</p>

<p>自分の意見や主張にこだわる性格とともに、大胆で物怖じしない姿が見えてくる。いたずらをする時は餓鬼大将として、子供たちを手足のように使う力を持つとも栗本は証言しており、部下を駆使して改革に邁進した後の姿の片鱗をみせている。</p>

<p>他人の議論を傾聴することはなく、他人の見識に黙って従うこともなかったため、理屈屋とも評されたという。自己主張が強い、自信家の姿が見えてくる。臆せずに自己の信じる道を突き進んだことで周囲からは浮いてしまい、反感も買いやすかっただろう（戸川残花「史伝 小栗上野介」『旧幕府』四巻七号、旧幕府雑誌社）。</p>

<p>同い年の旗本朝比奈昌広の誘いで、隅田川へ花見に出かけた時のエピソードは興味深い。後年、朝比奈は外国奉行や勘定奉行などを歴任し、忠順と似た経歴を歩む。</p>

<p>その日は隅田川に屋形船を浮かべ、桜の花を愛でながら酒肴を楽しむ趣向だった。ところが、忠順は桜の花も酒もお酌する女性にも関心がなく、隅田川の堰の高低について語った。治水上の得失を話題にしたため、仕事を離れて隅田川の花見を楽しんでいた朝比奈たちは呆れる。隅田川の利水についても話題に出し、水田への効果を尋ねた。周りの空気を読まない言動に、その場は興醒めしたに違いない（蜷川新『維新前後の政争と小栗上野』（正続合本 復刻版、マツノ書店）。</p>

<p>遊興の際も、河川を見れば為政者として治水や利水が頭から離れなかった、仕事人間としての顔を覗かせている。</p>

<p>忠順については、風流韻事を理解しない「冷腸漢（れいちょうかん）」との評価もある。詩文に耽らず、酒を嗜まず、歌舞音曲や女性も近付けないというわけだが、書画を愛好する趣味は持っていた。しかし、自分の前で書かれた書画以外は否定する。宋の時代にせよ、明の時代にせよ、古人の書画は鑑定家による憶測に過ぎない以上、そんな真偽不明なものを愛蔵するのは不見識の至りと考えたからである（塚越芳太郎「小栗上野介」『読史余録』民友社）。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>大名の娘を妻に迎える</h2>

<p>一連の評価から、忠順が変わり者と思われていたことがわかるが、物怖じしない豪胆さをみせたエピソードとしては、次の証言が残されている。</p>

<p>忠順が14歳の時、播磨林田藩主建部政醇（たけべまさあつ）の上屋敷を訪れたことがあった。建部家は1万石の外様大名で、原則として幕府の役職には就けなかったものの、政醇は大番頭や奏者番を歴任する。</p>

<p>大番頭は、旗本が務める五番方のうち、筆頭格の大番（12組）の長だった。高禄の旗本のほか、小大名が務めることもあった。奏者番は年始や五節句など殿中で儀礼が執り行われる際、あるいは大名や旗本が将軍に拝謁する際に、その取次役や進物の披露役を務める役職で、譜代大名のうち若手の優秀な者が選任された。</p>

<p>それだけ、政醇は外様大名ながら能力を評価されたのだろう。建部家の上屋敷は神田駿河台にほど近い神田明神下にあった。</p>

<p>建部家を訪れた忠順の挙動はまったく大人のようだった。言語は明晰で、声も張りがあり、はっきりと響き渡った。応対も堂々としており、「巨人」の風があった。14の少年でありながら、煙管でタバコをくゆらし、煙草盆を強く叩きながら、政醇と一問一答を交わしたため、同家の人々はその高慢さに皆驚く。後世、どのような人物になるのだろうかと噂し合ったという（蜷川前掲書）。そこからは、物怖じしない豪胆な姿が浮かび上がってくる。</p>

<p>この証言は、旗本の家に生まれた国際法学者蜷川新が、母ハツの実家である林田藩士から伝え聞いたことだった。ハツは政醇の娘であった。</p>

<p>政醇も家臣と同じく、忠順の振る舞いには驚いただろう。その後、嘉永2年（1849）に娘の道子が忠順のもとに輿入れしている。その将来性に期待して、娘婿とすることを承知したのかもしれない。道子とハツは姉妹であったため、ハツの子である蜷川は忠順の甥にあたっていた。<br />
そんな我が道を行く独立不羈（ふき）の生きざまは、忠順の人生を波瀾万丈なものにするのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 07 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎 (歴史家)]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>黒田如水と金森長近、秀吉に仕えた二人の意外な晩年とは？  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12700</link>
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			<description><![CDATA[黒田如水と金森長近、秀吉に仕えた二人の意外な晩年とは？ 作家の鷹橋忍氏が語る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="福岡城" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_fukuokajyou.jpg" width="1200" /></p>

<p>人生とは何が起こるかわからないもので、それは戦国時代も変わらない。才知をもって家を守り抜いたかと思えば、晩年に思わぬ辛さを味わう者もいれば、城から追われる悲運を味わいながら、悪くはない最期を迎えた者もいる。ここでは、豊臣秀吉に仕えた二人の武将の晩年を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦さに明け暮れた男が迎えた風雅な日々・黒田如水</h2>

<p>黒田如水は、天文15年（1546）11月、黒田職隆の嫡男として、播磨国姫路に生まれた。幼名を万吉という。のちに祐隆、孝隆（考隆）、孝高などと名乗り、48歳の時に出家して、如水と号した。</p>

<p>父・職隆は、播磨国守護赤松氏の一族とされる小寺家の重臣で、如水も小寺家に仕えた。</p>

<p>天正3年（1575）ごろ、織田と毛利が勢力を拡大するなか、如水は主君の小寺政職らに、織田信長への従属を進言した。</p>

<p>のちに如水自身が織田家に属するようになり、本能寺の変で信長が死去したのちは、羽柴秀吉の天下統一事業のために力を尽くしていく。</p>

<p>天正15年（1587）に秀吉が九州を平定すると、如水は豊前六郡を与えられた。</p>

<p>天正17年（1589）、44歳のとき、嫡男の黒田長政に家督を譲る。だがその後も如水は、文禄・慶長の役に出陣。関ケ原合戦では東軍として、長政は関ケ原で、如水は九州で戦った。</p>

<p>関ケ原合戦後、長政に筑前一国（怡土郡の一部を除く）が与えられ、黒田家は52万石の大大名に上り詰める。このとき如水は55歳、晩年を迎えていた。</p>

<p>細川幽斎と並び称される文化人だった如水は、連歌と茶の湯を特に好んだ。福岡城の築城中には、連歌師の信仰を集める太宰府天満宮のそばに仮住まいを作り、神官たちを招いて、和歌や連歌三昧の日々を謳歌したという。戦いに明け暮れた如水にとって、筑前の風雅な日々は、心癒されるものだっただろう。</p>

<p>だが、穏やかな日々は、長く続かなかった。慶長8年（1603）から如水は体調を崩し、翌慶長9年（1604）3月20日、京都伏見で客死した。享年59だった。</p>

<p>辞世の句は　おもひをく　言の葉なくて　つゐに行く　道はまよはじ　なるにまかせて　である。「思い残すことはない。あとは潔く、なるにまかせる」（諏訪勝則『黒田官兵衛「天下を狙った軍師」の実像』）。　</p>

<p>戦国乱世を全力で駆け抜けた如水にふさわしい句である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>後半生の都市建設が現代に繫がった――金森長近</h2>

<p>「都市建設の名手」といわれる金森長近は、大永4年（1524）に、美濃国で生まれた。父は大畑定近といい、近江国野洲郡金森（滋賀県守山市金森町）に移ったことから、金森氏を称したという。</p>

<p>長近は天文10年（1541）、18歳のとき、尾張の織田信秀（信長の父）に仕官し、当時八歳だった信長の養育係になったといわれる。初名を可近といったが、信長から一字を与えられ、長近と名を改めた。</p>

<p>天正3年（1575）、戦功により、越前国大野（福井県大野市）に封じられ、53歳になった長近はこの地に城下町を築き、自身の構想で都市建設を行なったという（越澤 明『近江国金森と金森長近　都市計画と産業振興の名手』）。</p>

<p>信長の死後は、秀吉に仕えた。</p>

<p>天正13年（1585）、長近は秀吉に命じられた飛騨平定を成功させている。その功績により、飛驒国3万3000石（3万8000石とも）を与えられ、天正14年（1586）8月に入国した。</p>

<p>長近はすでに63歳になっていたが、飛驒を繁栄させるため、商業や経済に重点を置いた町作りをはじめた。高山城（岐阜県高山市）と城下町の建設に着手して、街道を整備し、流通の利便性を向上させた。さらに職人を保護し、鉱山資源や山林資源の開発にも取り組んだ。</p>

<p>長近は秀吉の死後、徳川家康に仕え、慶長13年（1608）8月12日、伏見で亡くなった。享年85という長寿であった。</p>

<p>この金森長近にゆかりがあることから、令和2年（2020）2月、滋賀県守山市、福井県大野市、岐阜県高山市の三つの市の間に、「災害時相互応援協定」が締結され、災害時には互いに助け合うという。長近もきっと喜ぶに違いない。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 07 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>会津遠征は家康の独断か？　関ヶ原合戦前夜を検証する  河合敦（歴史研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12590</link>
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			<description><![CDATA[会津遠征から小山評定に至る経過を歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="会津遠征から小山評定" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_moon.jpg" width="1200" /></p>

<p>徳川家康は戦国乱世を収拾し、江戸時代という平和な世の中をつくりあげた。ただ、彼の人生はまさに波瀾万丈であり、苦難や危機の連続だった。</p>

<p>本稿では、慶長5年（1600）6月関ヶ原合戦前夜、家康は上坂をしぶる上杉氏の態度を豊臣政権に対する謀反とみなし会津攻めを決意、会津遠征から小山評定に至る経過を歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』（PHP新書）の内容を、一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>会津遠征は公的行動か、家康による強行か</h2>

<p>6月6日、家康は大坂城に諸将を招集し、会津攻撃に関する会議を開いて部署を定め、上杉領近隣に領地を持つ最上義光や伊達政宗を国元へ戻した。そして16日に大坂城から伏見城へ入り、軍勢を整えて18日に出立した。</p>

<p>この会津遠征は、家康が勝手に仲間を集めて強引に実行されたといわれてきたが、多くの研究者は、遠征は豊臣政権の公的な行動だったとする。</p>

<p>なぜなら家康は、秀頼から正式な許可を得ており、五奉行（3名）の連署状に「すべて内府様の御下知によって行動しなさい。御下知に背いて万一勝手な行動をしたばあいは処罰します」（本多隆成著『人をあるく　徳川家康と関ヶ原の戦い』吉川弘文館）とあり、「豊臣公儀を担う五大老筆頭としての家康に、軍事指揮権が認められた」（前掲書）と考えられるからである。</p>

<p>本多隆成氏は「会津攻めは豊臣公儀による征討だった」（前掲書）ので、従軍大名は黒田長政や細川忠興、藤堂高虎など「家康を支持して進んで従軍した」（前掲書）者だけでなく、「敵の領国に近い義務的な動員というべき」「東海道筋の大名たち」（前掲書）がいたとして、福島正則や山内一豊などを例に挙げ、参加した豊臣系大名に「2つのタイプがあった」（前掲書）と述べる。</p>

<p>一方で、白峰旬氏は『吉川家文書』などを分析し、家康は「上杉景勝に落ち度がある訳ではないので、まわりからは家康に対して景勝と話し合いするよう度々進言した」が、「家康はこの進言を無視して上杉征伐を強引に決定した」「家康は、上杉征伐の決定段階では豊臣政権の幹部クラスや主だった諸将とは一切協議していない」（「小山評定は本当にあったのか？」渡邊大門編『家康伝説の噓』柏書房　所収）と述べており、従来通り、会津征伐は家康の強行だったと考える研究者がいることも指摘しておこう。</p>

<p>家康は、7月2日に江戸に入り、7日、諸大名に対して喧嘩口論や乱暴狼藉の禁止など、15カ条の軍法を発し、21日に江戸を出立して会津へ向け進軍していった。そして24日、下野国小山在陣中に石田三成の挙兵を知ったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>小山評定をめぐる謎</h2>

<p>そこで翌日、家康は諸将を集めて軍議を開いた。会議の場で家康は、「どちらに味方するかは自由である」と各自に進退を任せた。だが、辺りは水を打ったように静まり返った。人質を大坂城に残してきた者も多く、家康に付いて勝てる保証もないので躊躇したのだとされる。この静寂を破って発言したのが、福島正則だった。</p>

<p>正則は、「我に於てはかゝる時にのぞみ。妻子にひかれ武士の道を踏違ふ事あるべからず。内府（家康）の御ため身命を抛（なげうち）て御味方仕べし」（『徳川実紀』）と明言したのである。</p>

<p>巷説では、正則は石田三成と仲が悪く、彼を憎悪していたので、これは私的な感情から出た言葉だったとされる。しかしこの台詞が、家康の勝利を決定づけたのである。というのは、正則に励まされた諸将が、なだれをうって三成打倒を約し、そのまま反転して西上していったからである。さらに正則の発言のあと、山内一豊が居城の掛川を徳川方に差し出すことを表明したので、いっそう東軍（家康方）の士気は高まった。</p>

<p>正則ら東軍の先鋒隊は、西軍（三成方）の諸城を次々と落とし、関ヶ原の戦いでは主戦力となり、家康を天下人に押し上げた。このため正則は、関ヶ原合戦後、尾張国清須から芸備二国49万8千石へと大加増を受け、一豊も5万石から土佐一国（20万石）の国持大名になった。</p>

<p>ただ、近年の研究では、このあたりの巷説は大きく変化している。<br />
まず、7月11日の段階で石田三成と大谷吉継の謀反（別心）が明らかになると、三奉行（増田長盛、前田玄以、長束正家）は、翌12日付の書簡で家康と五大老の毛利輝元に上洛を求めている。</p>

<p>このため「『別心』の報は早くて19日、遅くとも20日には、家康のもとに届いていた」（藤井讓治著『人物叢書　徳川家康』吉川弘文館）のだ。ところが家康は、「この報を得るも、予告どおり21日に江戸城を発った」（前掲書）という。</p>

<p>このあたりの家康の心境がよくわからない。というのは、25日に小山で軍議を開き、そこでわざわざ会津征伐の中止を決定し、西軍（石田方）を討つため反転を決めているからだ。江戸で確報を得たのなら、その時点で中止の判断ができたはずだ。</p>

<p>この謎に対し、明確な回答を用意しているのが白峰旬氏である。</p>

<p>7月25日の小山評定（軍議）における「こうした有名なエピソードは一次史料（同時代史料）では全く確認できない」（「小山評定は本当にあったのか？」）ことなどから小山評定はなかったと述べる。</p>

<p>その論拠として白峰氏は、家康が周囲の「進言を無視して強引に上杉征伐を決定し」「諸将とは一切協議をしていないのに、なぜ上杉討伐を中止する時だけは諸将と協議をするために評定を開くのか」（前掲書）と疑問を呈し、「上杉討伐の軍事指揮権は終始家康が掌握していた」（前掲書）のだから、「中止すること、については家康の一存で命じればそれで済む話」（前掲書）だという。</p>

<p>さらに、あの決定的な一言を発した福島正則は、7月25日に小山にいなかったというのだ。</p>

<p>白峰氏は、7月19日付け福島正則宛徳川家康書状を分析し、7月19日に「上方における反家康の動向」（前掲書）を察知した家康は、「それに対応するため、福島正則の軍勢の西上を命じ、家康がいる江戸まで来るように命じた」（前掲書）とし、その後、西軍（三成方）が正則の居城清須を奪うかもしれないので清須に向かわせ、「7月中には清須城に帰城したと考えられる」（前掲書）とする。</p>

<p>小山評定は存在せず、福島正則がいないとなると、これまでの通説は完全に変わってしまう。ただ、いっぽうで小山評定を肯定したり、小山ではないかもしれないが、東軍諸将が集まり、意思疎通をはかったとする研究者も多く存在する。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 06 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[河合敦（歴史研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>名君玄宗を惑わせた楊貴妃、清を滅亡へと導いた西太后 「中国後宮を彩った奸婦」  菊池昌彦（アジア雑学ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12678</link>
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			<description><![CDATA[実際の中国王朝における後宮も、ドラマのように華やかでドロドロとしたものだったのだろうか？アジア雑学ライターの菊池昌彦さんに解説して頂く]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="中国の後宮で繰り広げられた激動の歴史" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/genso.jpg" width="1200" /></p>

<p>本格大河からファンタジーまで、多彩なジャンルの中国時代劇が注目を集めている。<br />
中でも根強い人気を誇るのが、寵姫たちが皇帝の愛情を独占すべく競い合う宮廷ロマンスだ。実際の中国王朝における後宮も、ドラマのように華やかでドロドロとしたものだったのだろうか？　今回は、その中でも奸婦と語られた女性を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>楊貴妃・楊玉環（ようぎょくかん）／唐／719〜756年</h2>

<p>中国4大美人、世界3大美人に数えられ、皇帝を惑わし国を混乱させた「傾国の美女」として歴史に名を残す楊貴妃。</p>

<p>本名を楊玉環といい、17歳で唐の玄宗（685〜762年）の子・寿王の妃として後宮に入った。才智に優れ、歌舞音曲に巧みで豊満な美女だったという。</p>

<p>22歳のときに玄宗に見初められ、寿王が失脚したのを受けると、一度出家させられてから玄宗の後宮に入り、皇后に次ぐ地位の貴妃となって寵愛を受けた。</p>

<p>玄宗は、武即天によって一度消滅した唐を再建し、「開元の治」と呼ばれる最盛期を築いた名君であった。しかし、楊貴妃を寵愛するようになると政治への関心を失い、楊貴妃の好物であるライチを南方から早馬で運ばせ、数百人もの工人を使って衣服や装飾品を作らせ、盛大な宴を開いて瀟洒に溺れた。</p>

<p>さらに、楊貴妃が望むまま、楊貴妃の一族の楊国忠を宰相に、楊貴妃の寵臣である安禄山を節度使として重用した。ところが、楊国忠と安禄山が対立するようになり、安禄山が「安史の乱」と呼ばれる反乱を起こし都に迫った。</p>

<p>玄宗は楊貴妃を連れて南方に逃れようとしたが、道中で乱の原因となった楊国忠が兵士たちに殺され、さらに楊貴妃の処刑まで求められた。玄宗は反対したが、臣下の追及に逆らえず処刑に同意し、自身も退位した。</p>

<p>やがて、乱が収束して都に戻った玄宗は、楊貴妃の姿を描いた絵を見ながら余生をすごしたという。玄宗と楊貴妃の物語は、後に詩人の白居易が「長恨歌」にしたため、後世に伝えられた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>西太后・孝欽顕（こうきんけん）皇后・蘭児（らんじ）／清／1835〜1908年</h2>

<p>満洲族の建てた清では、3年ごとに后妃を選抜する選秀女（せんしゅうじょ）という試験が行なわれており、西太后は18歳で清の9代咸豊帝（1831〜1861年）の後宮に入る。皇帝の寵愛を受けると貴人、嬪と昇格し、10代同治帝となる男子を生んだことにより貴妃となった。</p>

<p>清の後宮では、中宮、東宮、西宮と三つの宮殿があり、西宮に住んだことから西太后と呼ばれる。正妃は東宮に住む東太后で、西太后の生んだ同治帝も東太后の子とされた。</p>

<p>咸豊帝が亡くなると、温和で政治に疎い東太后と共同で後見人となるが、果断で政治的センスに優れた西太后が実権を握った。同治帝が早くに病死すると甥を11代光緒帝とし、東太后が病死したあとはさらに独裁色を強めた。</p>

<p>当時は西欧列強がアジアの植民地化を進めており、西太后は洋務運動と呼ばれる近代化を推進した。</p>

<p>しかし、1895年に日清戦争で日本に敗れると清は弱体化。敗因のひとつとして、西太后が海軍増強の予算を削って豪華な庭園の造営に流用したこと、自身の60歳の誕生日を盛大に祝わせたことなどが挙げられる。</p>

<p>その後は表向き引退し、光緒帝の親政が始まったが、西太后の影響力は根強かった。双方は激しい政争をくり広げたが、光緒帝の改革に反対する守旧派とともにクーデターを決行し、再び実権を握る。</p>

<p>列強の圧力が強まる中、外国人排斥を訴える義和団の乱が起きると、西太后はこれに便乗して日本やロシアなど列強8カ国に宣戦布告。しかし、清軍は連戦連敗で、さらに列強の介入を強めることとなった。</p>

<p>1908年に74歳で死去するが、死にあたって政敵である光緒帝を毒殺し、甥の子にあたるわずか3歳の溥儀を、12代宣統帝とした。</p>

<p>だが、清の弱体化は止まることなく、西太后の死去から4年後、辛亥革命により清は滅亡し、中国最後の王朝となった。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 05 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[菊池昌彦（アジア雑学ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>戦争する国は「地理」で決まる？なぜ大陸国家は侵略をやめられないのか  宇山卓栄（著作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14664</link>
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			<description><![CDATA[国境を隣国と接する「大陸国家」が侵略をやめられない理由を、地政学的観点から解説。領土を広げざるを得ない事情や、ロシアがウクライナを欲する「不凍港」への渇望など、戦争と地理の宿命をひも解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="クレムリン" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_russia.jpg" width="1200" /></p>

<p>四方を海に囲まれた日本では、普段「国境線」を意識することはあまりありません。しかし世界の大半の国々にとって、国境とは「隣と地続きの、ただの地面」。いつ侵略されてもおかしくない「大陸国家」と、海という「最強の防壁」を持つ「海洋国家」とでは行動原理が全く異なるといいます。大陸国家が侵略や拡大を繰り返してきた理由とは&hellip;？ロシアがウクライナに執着する宿命など、世界の紛争を地図から読み解きます。</p>

<p>※本稿は、宇山卓栄著『「地理で考える」は武器になる』（秀和システム新社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>隣人は友人か、それとも侵入者か？</h2>

<p>私たちは日本という島国に住んでいるため、「国境線」というものをあまり意識せずに暮らしています。私たちにとっての国境は海であり、そこは誰も住んでいない、物理的に渡るのが難しい壁です。</p>

<p>しかし、世界の大半の国にとって、国境とは「隣の家の庭とつながっている、ただの地面」です。そこには壁もなければ、関所が建っているだけのこともあります。もし隣国が悪意を持てば、戦車や歩兵がそのまま歩いて入ってくることができるのです。</p>

<p>地政学において、戦争のリスクを決定する最大の要因は「陸続きの国境をどれだけ抱えているか」です。この地理的条件の違いが、国家を「ランドパワー（大陸国家）」と「シーパワー（海洋国家）」という、全く異なる行動原理を持つ生き物に分けます。そして、歴史上の大規模な戦争の多くは、「恐怖に駆られたランドパワー」によって引き起こされているのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>陸の呪い―「防衛」とは、すなわち「膨張」</h2>

<p>ロシア、中国、ドイツ、フランス。これらユーラシア大陸の強国には、共通する精神構造があります。それは「慢性的な包囲恐怖症」です。</p>

<p>彼らの国境は、平原や低い山で隣国と接しています。360度、どこから敵が攻めてくるかわからない。しかも、一度国境を突破されたら、首都まで一気に攻め込まれてしまうかもしれない。この「防御の脆さ」が、彼らを攻撃的な行動へと駆り立てます。</p>

<p>彼らが編み出した生存戦略は、非常にシンプルです。<br />
「やられる前に、領土を広げて、敵を遠ざける」<br />
これしかありません。</p>

<p>自宅（首都）が泥棒に入られやすいなら、庭（領土）を広げて、隣の家までの距離を稼げばいい。そうすれば、敵が攻めてきても、庭で戦っている間に迎撃の準備ができます。この、首都を守るために外側に置くクッションのような役割をする領土を「緩衝地帯（バッファゾーン）」と呼びます。</p>

<p>ランドパワーの国々が、歴史的に侵略や併合を繰り返すのは、彼らが生まれつき暴力的だからではありません。「隣国との間に、もっと広いスペースがないと夜も眠れない」という、地理的な不安に苛まれているからです。彼らにとっての「防衛」とは、すなわち「膨張」を意味します。国境線を外へ押し広げ続けることこそが、唯一の安全保障なのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>海の祝福―防衛のリソースを経済活動に回すことができる</h2>

<p>一方、イギリス、日本、アメリカ（実質的な島国）といった「シーパワー」のメンタリティは全く異なります。彼らには、海という「最強の防壁」があります。海を渡って軍隊を上陸させるというのは、軍事的に最も難易度が高く、コストがかかる作戦です。</p>

<p>13世紀、当時世界最強だったモンゴル帝国軍でさえ、海と台風に阻まれて日本を征服できませんでした。ナポレオンもヒトラーも、ついぞドーバー海峡を渡ってイギリスを占領することはできませんでした。</p>

<p>この「攻められにくい」という地理的安心感が、海洋国家の政治をリベラルで寛容なものにします。彼らは、巨大な陸軍を常駐させて国境を監視する必要がありません。その分のリソースを、海軍や貿易、経済活動に回すことができます。また、彼らが戦争をする場合、それは「本土防衛戦（負ければ国が滅ぶ）」ではなく、遠く離れた場所での「利益確保のための戦争（負けても自国に帰ればいい）」であることがほとんどです。</p>

<p>海洋国家の戦略は「領土を広げること」ではありません（植民地など、領土を広げたこともありましたが）。「海の自由を守ること」です。彼らにとって、よその大陸領土そのものに大きな価値はありません。面倒な統治コストがかかるからです。その代わり、大陸の重要な港や、海峡といった「点」と「線」だけを確保し、自由に商売ができればそれで十分なのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>噛み合わない「恐怖」と「自由」</h2>

<p>ここにおいて、ランドパワー国家とシーパワー国家の間には、決定的なコミュニケーション不全が生じます。</p>

<p>ランドパワー国家はこう考えます。<br />
「我々の安全のためには、周辺国を支配下に置いて緩衝地帯にしなければならない。（恐怖の論理）」</p>

<p>シーパワー（アメリカなど）はこう考えます。<br />
「国境を勝手に変更して他国を支配するのは許されない。すべての国は自由に貿易し、自決する権利がある。（自由と利益の論理）」</p>

<p>この二つは、見ている地図が違うため、永遠に話が噛み合いません。西側諸国が「ロシアの侵略は許しがたい暴挙だ」と非難しても、ロシアからすれば「これはNATOという脅威から自国を守るための、正当な防御行動だ」と本気で信じているのです。</p>

<p>戦争をする国としない国の差。それは道徳心の差ではなく「枕を高くして眠れる地理的条件にあるかどうか」の差と言えるでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ロシアがどうしてもウクライナを欲しがる地理的宿命</h2>

<p>ロシアは、世界最大の国土を持つ国です。その面積は日本の約45倍。地球の陸地の約8分の1を占めています。これほど巨大な領土を持っていれば、さぞかし堂々としていられるだろうと思うかもしれません。</p>

<p>しかし、ロシアの歴史は、常に「恐怖」との戦いでした。彼らは、自分たちの国が大きすぎて守りきれないこと、そして外の世界へ出る出口を他国に塞がれていることに、数百年もの間、怯え続けているのです。</p>

<p>ロシアの指導者たちが、時代を超えてウクライナに執着し続ける理由は、この巨大な不安を解消するための、たった二つの地理的パズルを埋めるためです。それが「緩衝地帯（バッファゾーン）」と「不凍港（暖かい海）」です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【１】&nbsp;恐怖の「緩衝地帯」―無防備なモスクワ</h2>

<p>まず、ロシアの西側、ヨーロッパ方面を見てみましょう。ここには「東ヨーロッパ平原」と呼ばれる、山も谷もない、見渡す限りの平らな大地が広がっています。フランスからドイツ、ポーランドを通り、ウクライナ、そしてロシアの心臓部であるモスクワまで、遮るものが何一つありません。</p>

<p>これは、戦車や軍隊を動かすには最高の地形です。つまり、ロシアにとって西側の国境は「玄関のドアが開けっ放しの状態」なのです。実際、歴史上、ロシアを脅かしたナポレオンやドイツ帝国、ヒトラーといった敵のほとんどは、この平原を通って西から攻め込んできました。モスクワは、地理的にあまりに無防備なのです。</p>

<p>この恐怖に対抗するために、ロシアが採用したのが「空間を盾にする」という戦略です。敵がモスクワに到達するまでに、できるだけ長い距離を歩かせ、疲弊させ、冬将軍（寒さ）の餌食にする。そのために、自国の国境をできるだけ西へ、ヨーロッパ側へと押し広げようとします。</p>

<p>この戦略において、「ウクライナ」は決定的に重要です。もしウクライナがNATO（西側軍事同盟）に加盟し、そこに米軍の基地やミサイルが置かれたらどうなるか。モスクワまでの距離はわずか500キロメートル程度になり、平坦な道を通って一気に攻め込まれるリスクが生じます。ロシアにとってウクライナとは、単なる隣国ではなく、モスクワの喉元を守るための「絶対に必要な時間稼ぎ」なのです。</p>

<p>「ウクライナは兄弟国だ」というプーチンの感情的な言葉の裏には「ここを敵に渡したら、ロシアの安全保障が崩壊する」という、地理的計算があります。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【２】「不凍港」への渇望―凍りついた巨人の悩み</h2>

<p>ロシアのもう一つの、そしてより深刻な地理的悩みは「海」です。「海なんていくらでもあるじゃないか。北は北極海、東は太平洋に面している」と思うかもしれません。しかし、それらの海は、ロシアにとってあまり役に立ちません。なぜなら「凍る」からです。</p>

<p>冬になると、ロシアの主要な港は氷に閉ざされます。サンクトペテルブルク（バルト海）も、ウラジオストク（太平洋）も、冬の間は砕氷船なしでは自由な航行が制限されます。また、北極海は言わずもがなです。貿易立国を目指すにも、強力な海軍を持って世界に睨みをきかせるにも「一年中凍らない港（不凍港）」がなければ話になりません。</p>

<p>ロシアにとって、世界への唯一の確実な出口。それが南にある「黒海」です。黒海は温暖で、冬でも凍りません。ここからボスポラス海峡（トルコ）を抜ければ、地中海、そして大西洋やインド洋へと自由にアクセスできます。この黒海における戦略的拠点が、ウクライナの南部にぶら下がっている「クリミア半島」であり、そこにある軍港「セヴァストポリ」です。</p>

<p>セヴァストポリは、ロシア黒海艦隊の本拠地であり、ロシアが「海洋国家」として行動するための生命線です。2014年、ウクライナで親欧米派の政権が誕生したとき、プーチンが電光石火でクリミア半島を併合した理由は、ここにあります。もしウクライナがNATOに入り、クリミア半島が西側の手に落ちれば、ロシアは黒海へのアクセスを失い、凍りついた内陸国へと逆戻りしてしまいます。それは、超大国としての「死」を意味します。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>地理的被害妄想と現実</h2>

<p>西側諸国から見れば、現代において「NATOがロシアに戦車で攻め込む」などということはあり得ない妄想に見えます。しかし、ナポレオンとヒトラーに二度も国を蹂躙された記憶を持つロシアにとって、それは妄想ではなく「地理と歴史が証明した現実」なのです。</p>

<p>大平原の穴を埋めたい（バッファゾーンの確保）<br />
暖かい海への出口を守りたい（不凍港の確保）</p>

<p>この二つの「地理的宿命（呪縛）」が、ロシアという国を領土拡張へと駆り立てています。ウクライナ侵攻は、プーチンという個人の狂気だけで説明できるものではありません。それは、帝政ロシア時代から数百年続く、「ユーラシア大陸の広すぎる平原」と「北に寄りすぎた位置」が生んだ、地理上の必然なのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 03 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄（著作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉の没後、家康は本当に豹変したのか？　五大老・五奉行と遺言書の中身  河合敦（歴史研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12589</link>
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			<description><![CDATA[豊臣秀吉が自らの死期を悟ったとき、天下の後時を誰に託そうとしたのか、歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="死期を悟った秀吉" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_sakura_koukyo.jpg" width="1200" /></p>

<p>徳川家康は戦国乱世を収拾し、江戸時代という平和な世の中をつくりあげた。ただ、彼の人生はまさに波瀾万丈であり、苦難や危機の連続だった。</p>

<p>本稿では、豊臣秀吉が自らの死期を悟ったとき、天下の後時を誰に託そうとしたのか、歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』（PHP新書）の内容を、一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>五大老・五奉行に政権運営を委ねた秀吉</h2>

<p>関ヶ原合戦は、いうまでもなく徳川家康が天下をとった戦いである。</p>

<p>ただ、天下分け目の合戦と呼ばれているように、政権を取るか取られるかの分かれ目であり、もし戦いに勝利しなかったら、家康はすべてを失うこととなったろう。</p>

<p>そういった意味では、千載一遇のチャンスと同時に最大の危機でもあったといえる。</p>

<p>そんな戦いをいかに制し、天下人という究極の果実を手に入れたのか、まずは秀吉の死前後から詳しく紐解いていこう。</p>

<p>家康は豊臣秀吉から関東移封を命じられ、江戸を拠点とすることになった。旧支配者の北条氏は、長年にわたって善政を展開してきたこともあり、戦場となり荒廃した旧北条領を統治するのは、まさに至難の業だった。だが、もし新領地の経営に失敗すれば、厳しい処分が待っていた。</p>

<p>実際、秀吉に降った越中の佐々成政は、肥後一国を賜ったものの、国内で大規模な一揆がおこり、その責任を問われて切腹に処せられている。</p>

<p>しかし家康は、どうにかその難局をしのいで関東の支配を安定させることができた。そして以後は、その「律儀」な人柄を秀吉から信頼され、豊臣政権の重鎮として活躍、内大臣にまでのぼっていった。</p>

<p>そんな家康の関東入封からちょうど8年、豊臣秀吉は63歳の生涯を閉じることになる。</p>

<p>最晩年の秀吉は、後継者の甥・関白秀次を妻子もろとも皆殺しにしたり、スペインのサンフェリペ号の漂着に伴って、宣教師やキリシタンら26名を処刑したりした。また、明の征服を目指して強引に朝鮮へ出兵し、両国で膨大な人命が損なわれたのに、戦いをやめようとせず膠着状態に陥っていた。こうしたこともあって、生前から豊臣政権は揺らぎ始めていた。</p>

<p>慶長3年（1598）3月15日、秀吉は京都の醍醐寺三宝院裏山で花見の宴を開いた。</p>

<p>正室の北政所や淀殿をはじめ、側室、さらには諸大名の妻など1300人の女性たちを招いた盛大なものだった。しかしこの頃にはすでに体調はすぐれず、断定はできないものの、どうやら末期の胃癌ではなかったかと思われる。</p>

<p>そうしたこともあり、五大老・五奉行という政治組織を整え、この十名に政権の運営を委ねた。一般的には、石田三成、浅野長政、増田長盛、前田玄以、長束正家という五人の奉行に政治運営を分担させ、重要な案件については五大老である家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家が合議して決める仕組みだったとされる。</p>

<p>ただ近年、この制度については諸説があり、中にはそうした存在はなかったと主張する研究者も登場している。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉は遺言書で家康に後事を託したのか</h2>

<p>醍醐の花見から2カ月後の5月、秀吉は体調が悪くなって儀式のあとに倒れてしまい、大好きな有馬温泉行きも中止した。そんなこともあって同月、「太閤様被成御煩（おわずらいなされ）候内に被為仰置（おおせおかせられ）候覚」（浅野家文書）と題する遺言書（11条）を五大老・五奉行に宛てて出し、全員から起請文を集めている。</p>

<p>遺言の内容だが、おおむね次のようなものだった。</p>

<p>「家康は律儀なので、近年、昵懇にしてきた。だから我が子・秀頼を家康の孫婿（千姫の婿）とした。どうか盛り立ててほしい。とくに家康は伏見にいて政務をおこなうように。</p>

<p>前田利家は幼友達なので、秀頼の傅役（もりやく）とする。秀頼と大坂城に入って彼を補佐してほしい。二人の息子である徳川秀忠と前田利長も、老いた父たちの職務をよく補佐するように。宇喜多秀家よ、お前は幼いころから私が育ててきたのだから、秀頼を放っておかないでくれ。</p>

<p>上杉景勝と毛利輝元も律儀な人柄なので、秀頼のことをよろしく頼む。五大老は法度に背かず、仲違いをしてはいけない。もし不届きな者がいれば斬りなさい。五大老・五奉行は、今後はどんなことでも家康と利家にはかり、その判断をあおぎなさい」</p>

<p>10人への遺言といっても、ことさら家康と前田利家に向けたものが多く、2人の権限が大きいことがわかる。</p>

<p>死期を悟った秀吉は翌7月、配下の大名や公家たちに遺品や金銭の分与をおこなっている。そして諸大名に対し、改めて6歳の秀頼への忠誠を誓わせた。</p>

<p>なお、研究者の高橋陽介氏は、7月14日のフランシスコ・パシオの報告書に「自らの死期を悟った秀吉は、最大の実力者である徳川家康に後事を託し、政権をゆだねた。また、秀頼が成人したあかつきには政権を返還するよう、家康に依願した。秀吉は、諸大名のまえでこのことを申しわたし、起請文を差し出させ、さらに家康に対しても起請文を差し出すように命じた」（『秀吉は「家康政権」を遺言していた　朝鮮出兵から関ヶ原の合戦までの驚愕の真相』河出書房新社）とあることを主な根拠として、秀吉は生前、天下人の地位を家康に譲ったと論じている。</p>

<p>通説では、秀吉が没した瞬間から政権の最大実力者だった家康は豹変し、権力奪取に動きはじめ、「政治は五奉行と五大老の合議でおこなう」という約束を破り、大名への論功行賞を独断でおこなったり、大名たちと私的な縁組みを始めたとされてきた。</p>

<p>さらには、政権内の武功派と吏僚派の対立をあおり、武功派を味方につけて吏僚派を武力で倒し、政権を簒奪しようと目論んだともいわれる。</p>

<p>だが、高橋氏がいうように、天下人の秀吉が家康に後を任せたのなら、あえてそんな野望を抱く必要はないので、これまでの通説は崩れることになる。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_sakura_koukyo.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 03 Aug 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[河合敦（歴史研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>古代ロマンに新展開！弥生文化の魅力を発信する強力チームが誕生  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14803</link>
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			<description><![CDATA[青谷上寺地遺跡、津島遺跡、吉野ヶ里遺跡と、弥生時代の遺跡を有する鳥取、岡山、佐賀の三県が連携して、「弥生文化再発見プロジェクト（鳥取×岡山×佐賀）」を開始。その会見の模様と、今後の取り組みを紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="左から、平井伸治鳥取県知事、伊原木隆太岡山県知事、山口祥義佐賀県知事" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260731tottori1n.jpg" width="1200" />写真：左から、平井伸治鳥取県知事、伊原木隆太岡山県知事、山口祥義佐賀県知事</p>

<p>去る7月15日、弥生時代の歴史・文化に関する強力なプロジェクトチームの立ち上げが発表されました。プロジェクトを組んだのは、鳥取、岡山、佐賀の三県。それぞれ、青谷上寺地遺跡、津島遺跡、吉野ヶ里遺跡と、いずれも弥生時代を語るうえで欠かせない遺跡を有するだけに、歴史ファンにとってはどんなプロジェクトになるのか気になるところ。</p>

<p>そこで、歴史街道編集部が連携協定式の模様を取材し、あわせて鳥取県の文化財専門職員にお話しを聞くと、興味深い取り組みが進行中であることも明らかに。古代ロマンに新たな展開を期待させてくれるプロジェクトを紹介しよう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>三県が誇る弥生遺跡</h2>

<p>そもそも鳥取、佐賀、岡山の三県の連携は、青谷上寺地遺跡、津島遺跡、吉野ヶ里遺跡を抜きにしては語れない。</p>

<p>鳥取県の青谷上寺地遺跡は、弥生時代前期末から古墳時代前期（約2400～1700年前）にかけて営まれた港湾集落遺跡で、通常の遺跡では残らない木や骨などが数多く出土している。</p>

<p>また鳥取県には、弥生時代後期後葉（約1800年前）に栄えた妻木晩田遺跡もある。この遺跡では、竪穴建物跡と掘立柱建物跡をあわせて900棟以上の建物跡や、四隅突出型墳丘墓を中心とする墳墓群が見つかっている。</p>

<p>岡山県の津島遺跡は、縄文時代晩期から弥生・古墳時代にかけての大規模な遺跡で、日本で初めて、弥生時代前期（約2600～2400年前）の集落と水田が一緒に発見された場所だ。</p>

<p>佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の大規模な遺跡で、特に弥生時代後期（約2000～1800年前）に栄えた、国内最大級の環壕集落として知られている。</p>

<p>いずれの遺跡も、弥生時代の様相を探るうえで極めて重要であり、だからこそ、この三県の連携は、古代史研究においても意義深いものといえる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>プロジェクトにかける三知事の思い</h2>

<p>では、三県の連携はどのようになされるのだろうか。7月15日（木）、鳥取市にある青谷かみじち史跡公園で、「弥生文化再発見プロジェクト（鳥取&times;岡山&times;佐賀）」に関する連携協定式が行なわれた。</p>

<p>この連携において、三県は弥生時代の歴史・文化について共同で調査研究を行い、弥生文化の地域性や多様性を明らかにしながら、その特徴を改めて見出すなど、研究をリードするとともに、その重要性や学術的価値を国内外に発信していくという。</p>

<p>具体的な取り組みとしては、弥生文化解明のための共通テーマ（弥生の墓制、祭祀等）による調査研究、シンポジウムによる連続講座や講演会の開催、各県展示施設での展覧会の開催などがあげられるそうだ。</p>

<p>協定式では、鳥取県の平井伸治知事、岡山県の伊原木隆太知事、佐賀県の山口祥義知事が協定書に署名し、このプロジェクトに関する思いも語られた。</p>

<p>「本日は、伊原木隆太岡山県知事、山口祥義佐賀県知事にお越しいただき、無事に協定の調印を行なうことができました。我々は、弥生の遺跡で結ばれているわけであります。これから研究をともにしたり、イベントを一緒にやったりしていきたいと思います。</p>

<p>弥生時代は、いまの日本人ができた時代です。よく、農耕民族といわれますが、本当はお魚もだいぶ食べていましたし、交易をするための港もここ（青谷上寺地遺跡）にあったということでございます。これ、意外と今までの教科書で習ったものと違うじゃないかと思うのですが、まだまだ分からないことがあります。</p>

<p>そこで、三本の遺跡を束ねて、三本束ねれば絶対折れないということで、&quot;三本の矢、良い（弥生）&quot;ということで、よろしくお願いいたします」と、中国地方の戦国大名・毛利元就の三本の矢の逸話に絡めて、平井知事は三県連携の意義について語った。</p>

<p>つづいて、伊原木知事。「岡山県の津島遺跡は、弥生時代前期の集落と水田が一緒に見つかったというところが画期的なところでございまして、稲作を始めて、もう生活様式がガラっと変わった。われわれの生活様式、社会の在り方を一変させる一大革命であった稲作農業定住、そういった当時の最先端の場所であったということで、本当に誇りに思っています。それが、岡山駅から歩いて20分のところにあるので、ぜひお越しいただければと思います」</p>

<p>そして、山口知事は「吉野ヶ里遺跡には実はこの5月にスノーピークさんと連携した県営公園があり、大きなグランピングの施設をオープンしました。朝靄がたつと幻想的な風景になりますので、ぜひお越しいただきたいなと。</p>

<p>また、明らかに弥生時代に船で交流をしておりますので、この三県で人の交流、私はかなりあったんじゃないかなと思いますし、この三県の地域は人口集積地だったことは間違いないと思っています。それを一緒になって、この弥生時代というものが明らかにされていくということでも、いいことだなと思います。非常にわくわくするような事業でありますし、未来に向けたところが楽しみだと思いますので、ぜひ、我々三県を見守っていただきたいと思います」と締めた。</p>

<p>三県の知事の言葉からうかがえるのは、弥生時代が持つ重要性だ。大和朝廷成立へと至る過程はいまも謎が多く、邪馬台国の位置についても、畿内説や九州説と様々な見方が提示されている。古代日本の様相を解明するうえで、弥生時代は重要な鍵と言え、三県の取り組みは古代史に新たな展開をもたらしてくれるものと期待したい。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>研究者たちは語る</h2>

<p><img alt="青谷かみじち史跡公園" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260731tottori2n.jpg" width="1200" />写真：青谷かみじち史跡公園</p>

<p>では、実際に現場で研究にあたっている方々は、この三県連携において、どんな取り組みをしようと考えているのだろうか。それを探るべく、青谷かみじち史跡公園の河合章行さんにお話をうかがった。</p>

<p>河合さんによると、今年の9月12日（土）から11月23日（月・祝）にかけて、青谷かみじち史跡公園にて「吉野ヶ里遺跡展」が開催されるそうだ。吉野ヶ里に関する展覧会は、鳥取県としては初めてとのこと。さらに来年には、岡山県に関する展覧会を検討しているという。</p>

<p>「今回の連携においては、まずは地域性を明らかにすることを意識しています。たとえば、『吉野ヶ里遺跡展』では、吉野ヶ里遺跡出土の甕棺（かめかん）を展示しますが、この甕棺は弥生時代の前期の終わりごろから用いられ、副葬品も多い。ところが弥生時代後期になるとあまりつくられなくなるというように墓制が変化しているのです。</p>

<p>一方で、鳥取県を含む山陰には甕棺はなく、遺体は甕棺にいれず、穴を掘ってそのまま埋めたり、木棺を用いたり、別の方法で埋葬するわけです。また、副葬品も甕棺と異なりほとんど見つからない。このほか四隅突出型墳丘墓といった特殊な墳丘墓がつくられるようになります。墓ひとつとってもこれだけ違うわけで、それぞれの地域の特徴を明らかにしていきたいと思っています」</p>

<p>ただ、河合さんによると、吉野ヶ里遺跡は青谷上寺地遺跡にも共通項はあるという。「吉野ヶ里も青谷上寺地からも、木製の履物が出土しています。今回の展覧会では、その2つの遺跡から発掘された履物などを横に並べて、実は遠く離れて見える遺跡で、お墓のつくり方も全然違うけれども、生活レベルでは共通しているところもある、ということを伝えられればと思っています」</p>

<p>鳥取県の取り組みは、これだけではない。「弥生人＋&quot;ワン！&quot;事業」と題した研究事業も推進し、研究成果をもとに、青谷上寺地遺跡で出土した「弥生犬」の骨格復元模型と生体復元模型を製作するという。</p>

<p>青谷かみじち史跡公園の門脇隆志さんによると、青谷上寺地遺跡からは、弥生時代としては全国で最多となる88個体以上の犬の骨が出土しているそうだ。</p>

<p>「なぜ弥生犬を研究するかというと、犬の存在自体が人間がなくては成り立たないものであるためです。犬は非常に人間の社会とか暮らしの状況を反映している動物なのです。</p>

<p>たとえば、ここで出土した犬の骨には、一度、生前に骨折してから治った形跡が認められるものがあります。となると、結構、ハードな生活をしていた一方、人間に保護されていた猟犬だった可能性が高い。つまり、稲作の始まった弥生時代になっても、犬は猟犬として重要だったことは間違いないということです」と門脇さん。</p>

<p>今後、骨格復元模型や生体復元模型の製作が行なわれるが、復元した全身骨格に肉付けする手法で製作された出土犬の生体復元模型は、国内ではこれまで2例しかないという。</p>

<p>また鳥取県では、DNA分析によって遺伝子情報が得られれば、それをもとに毛色や尾の形状なども復元するとのことで、そうなれば極めて学術的価値の高い復元例になる。</p>

<p>鳥取、岡山、佐賀の三県による「弥生文化再発見プロジェクト」と、鳥取県の「弥生人＋&quot;ワン！&quot;事業」。これらの&quot;ワン&quot;ダフルな取り組みから、古代日本の謎が解き明かされることを期待したい。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 31 Jul 2026 18:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>政治家として卓越していた馮太后、中国史上唯一の女帝武即天「中国後宮を彩った烈婦」  菊池昌彦（アジア雑学ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12677</link>
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			<description><![CDATA[実際の中国王朝における後宮も、ドラマのように華やかでドロドロとしたものだったのだろうか？アジア雑学ライターの菊池昌彦さんに解説して頂く]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="中国の後宮で繰り広げられた激動の歴史" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sogen.jpg" width="1200" /></p>

<p>本格大河からファンタジーまで、多彩なジャンルの中国時代劇が注目を集めている。<br />
中でも根強い人気を誇るのが、寵姫たちが皇帝の愛情を独占すべく競い合う宮廷ロマンスだ。実際の中国王朝における後宮も、ドラマのように華やかでドロドロとしたものだったのだろうか？　今回は、その中でも烈婦と語られた女性を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>文成文明（ぶんせいぶんめい）皇后・馮太后（ふうたいごう）／北魏／442〜490年</h2>

<p>南北朝時代に中国の北半分を支配した北魏。文成文明皇后はその5代文成帝（440〜465年）の皇后で、馮氏、馮太后とも呼ばれる。</p>

<p>北燕の皇族をルーツに持ち、父は馮氏が幼い時に罪に問われ処刑された。そこで、3代太武帝の側室だった叔母を頼って後宮に入り、太武帝の孫にあたる2歳年上の文成帝に見初められた。</p>

<p>文成帝は宦官を排斥するなど若くして名君として期待され、馮氏も皇后に立てられて寵愛を受けたが、文成帝は26歳の若さで病死してしまう。馮氏は悲しみのあまり火葬中の亡骸に飛び込み、大火傷を負いながら一命をとりとめたという。</p>

<p>その後、長男の献文帝が後を継ぎ、太后となった馮氏が後見人となる。北魏では、外戚が力を持つことを防ぐため、皇帝の生母は自害させられる決まりで、献文帝の実母は殺され、馮太后とは血縁関係になかった。</p>

<p>成長した献文帝が義母の馮太后の意に逆らうようになると、馮太后は献文帝の子でわずか五歳の孝文帝に譲位させ、やがては献文帝を毒殺した。</p>

<p>非情な手段で権力を手に入れた馮太后だが、政治家としては卓越した手腕を持ち、さまざまな政治改革を行なった。</p>

<p>同じ姓を持つもの同士の婚姻を禁ずる「同姓婚禁止」。そして、官吏に俸禄を与える「俸禄制」が導入された。それまで官吏の収入は賄賂が主だったが、俸禄を与える代わりに賄賂を禁止し、違反した者は処刑した。</p>

<p>民には戸籍に準じて田畑を分け与える「均田制」、米の代わりに布麻などを税として納めさせる「租調制」を実施。また、近隣の5戸を最小単位とし、3段階に組織分けする「三長制」により地域の結束を高めた。</p>

<p>こうした制度は、孝文帝に引き継がれ、北魏の最盛期を築くことになった。そして、北魏滅亡後も隋や唐に受け継がれ、遣唐使を通して日本にまで伝えられた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>武即天（ぶそくてん）・則天武后・武照／唐／624〜705年</h2>

<p>武則天は本名を武照といい、14歳で唐の2代太宗（598〜649年）の後宮に入る。</p>

<p>才人という低い身分で、流言により太宗から遠ざけられたが、当時皇太子であった3代高宗（628〜683年）に気に入られ、太宗没後に出家すべきところ、序列三位の昭儀（しょうぎ）として後宮に返り咲いた。</p>

<p>復帰後はそれまで高宗から寵愛されていた蕭淑妃（しょうしゅくひ）を抜き、さらに正妃である王皇后を陥れて失脚させると、新たな皇后に立てられる。そして、蕭淑妃と王皇后を処刑すると、凡庸な高宗に代わって政治でも実権を握った。</p>

<p>武皇后は下級貴族の出身で後ろ盾がなかったため、身分は低くても有能な人材を重用した。武皇后が抜擢した狄仁傑（てきじんけつ）は、名宰相として後世に名を残し、姚崇（ようすう）、宋璟（そうけい）といった人材は後の六代玄宗の代でも活躍した。</p>

<p>外交面では、隋の代から何度も失敗していた朝鮮半島の高句麗征伐を成し遂げた。朝鮮半島を統一した新羅、高句麗遺民が建てた渤海国とは一時険悪になるも、その後服属させている。</p>

<p>やがて、高宗が崩御すると息子の中宗が即位する。しかし、中宗が敵対的な姿勢を見せると廃位し、弟の睿宗（えいそう）を即位させた。武照の専横に対して反乱の兵を挙げる者もいたが、ことごとく鎮圧されている。</p>

<p>そして690年、睿宗をも廃すると、自らが女帝となって国号を周に改めた。以後、武照は武即天、国は武周と呼ばれる。</p>

<p>武即天は自分に忠実な宦官や寵臣をそばに置き、密告を奨励して酷吏が取り締まる恐怖政治をしいた。ただ、狄仁傑らの諫言を聞き入れるなど政治感覚には優れ、武周の政治は安定した。</p>

<p>そんな武即天も、晩年には病がちになり、唐の復興を望む声が大きくなるのを受け、一度廃位した息子の中宗に譲位。武周はわずか15年で消滅し、武即天は中国史上初の、そして唯一の女帝として生涯を終えた。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 31 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[菊池昌彦（アジア雑学ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「お前が居ると目障りだ！」名指揮官・木庭知時が、負傷した隊長にかけた言葉の真意  岩井秀一郎（歴史研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12674</link>
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			<description><![CDATA[太平洋戦争において、部下から慕われた名指揮官・木庭知時少将について歴史研究家の岩井秀一郎さんが解説する]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="名指揮官・木庭知時" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sogen.jpg" width="1200" /></p>

<p>厳しい、しかし頼もしい──。<br />
太平洋戦争において、部下からそのように慕われた名指揮官がいる。木庭知時（こばともとき）少将である。<br />
その名はあまり知られていないが、彼の真価は、インパール作戦中止後の、過酷な撤退戦において発揮されるのであった。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年7月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>常に現場を歩んだ訳</h2>

<p>敗北した太平洋戦争では、多くの日本軍の指揮官が失敗を犯した。彼らの失敗や欠点は、今でも研究の対象となっている。</p>

<p>しかし、数は少ないながらも「名指揮官」と呼ばれる人々がいたのもまた事実である。硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道、ラバウルで終戦まで自活した今村均などが思い浮かぶだろう。彼らは自伝を残したり、戦記もので取り上げられるなどして、その知名度は一般にも及ぶ。</p>

<p>ただし、その名が知られていなくても指揮官として不利な状況下で最後まで戦い抜いた軍人は他にもいる。陸軍少将・木庭知時もその一人である。軍の要職に就くでもなく、現場の一指揮官として軍歴を終えたこの人物は、玉砕も降伏もせずに最後までその責務を果たした。この目立たない常在戦場の軍人は、いかなる人物だったのか。</p>

<p>木庭知時は明治23年（1890）9月、熊本県に生まれた。長じて陸軍士官学校の25期生となり、卒業後に将校としての道を歩み始める。同期には後に中将となる武藤章、田中新一、富永恭次など、昭和史の中で陸軍を牽引することになる軍人たちもいた。特に、武藤と田中は日米開戦前はそれぞれ軍務局長、作戦部長として大きな役割を担った。</p>

<p>木庭のその後の軍歴は彼らと大きく異なる。隊付将校や連隊副官の他、中隊長、大隊長、連隊長と、常に現場で過ごしてきたといっていい。一見陽の当たりにくい職場ではある。</p>

<p>しかし、同期の武藤章がなかなか部隊長勤務に就けないのを嘆いていることを考えれば、木庭は目立たないながらも一貫して軍人としての本務である部隊長勤務に就いてきたとも言える。木庭が中央（陸軍省や参謀本部）ではなく、部隊長としての軍歴を重ねることになったのは、彼が陸軍幼年学校と陸軍大学校を出ていないことに起因すると思われる。</p>

<p>陸軍中央のエリートとなるような人物は、幼年学校に入り、士官学校を経、さらに陸軍大学校に入ることが多い。士官学校は何も幼年学校を出ていなければ入れない訳ではなく、木庭や前述の今村のように一般の中学校を出てから入る者もいた。</p>

<p>しかし、軍の主流となるのは幼年学校から陸軍大学校へと進んだ軍人たちだった。陸大を出ていない木庭には軍中央の要職に就くチャンスはなかったのである。</p>

<p>だがそれゆえに木庭は、部隊長としての経験を積み、祖国の危難にその能力を発揮することができたのだ。満洲事変や日中戦争など昭和期日本の主要な戦争に参加した木庭は、昭和15年（1940）8月、歩兵第111連隊長となる（大佐）。そして、この部隊を率いて太平洋戦争に従軍する。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>木庭を憤慨させた言葉</h2>

<p>木庭が戦地に赴いたのは、昭和18年（1943）4月のことであった。といっても木庭の部隊が進駐したのはジャワ島（インドネシア）のスラバヤであり、昭和17年（1942）に日本が攻略して以降、戦火は絶えていた。さらに物資も豊かで、常夏の気候のせいもあり、人心は緩みがちだったという。</p>

<p>しかし、木庭の部隊は違った。彼は「訓練第一主義」を掲げ、猛訓練に励んだ。スラバヤに到着してから2ケ月間は全将兵の外出は禁止され、大隊同士の対抗演習をよく実施した。演習後の講評では勝敗を裁定したので、参加する部隊は指揮官以下全力で勝つべく臨んだ。</p>

<p>演習場には必ずどこかに木庭の姿があり、中隊長が準備不足で演習を行なっているとどこからか現われ、そのやり方を微細に指導したという。</p>

<p>当初、このような木庭のやり方は連隊の幹部に敬遠されたが、その真意が伝わるにつれ、訓練は実を結んでいった。部下たちは次第に木庭に言われずとも研究や準備を重ねて訓練に臨むようになり、ついには「自分の案よりももっと良い案を、連隊長に教えてもらいたい」とまで思うようになったという。</p>

<p>木庭は戦闘に勝つためには「手兵」、すなわち指揮官の手足のように動ける兵を作り上げる他はなく、手兵を作るためには「訓練第一主義以外に途はない」と考えていた。そしてその訓練は「血の通ったものでなければならない」というのが信念であった。</p>

<p>木庭がこのように熱心に指導したのには1つのきっかけがあった。ジャワに進駐する途次、シンガポールにいる南方軍総司令官の元帥寺内寿一と面会した際の話だ。木庭は寺内に申告を済ませると、夕食を共にした。</p>

<p>この時、寺内は木庭の率いる第111連隊がかつて姫路の第10師団の管轄にあったことを知り、己の日露戦争での経験を持ち出し、「第10師団は弱くて弱くて、日露戦争の奉天会戦のとき、おれの隣が第10師団で、その兵が負傷すれば、中隊長やられました、看護兵看護兵と大声で呼ぶ者もあり、また担架担架と担架を呼んで戦場離脱を願う者がある」と、例を挙げてこきおろしたのである。</p>

<p>木庭はこれにひどく憤慨し、部隊がスラバヤに集結した際に全員を営庭に集めて訓示した。</p>

<p>「自分は熊本生まれであるが兵庫県民から選ばれたみんなの連隊長である以上、兵庫県民の悪口をいわれると癪にさわる。故に兵庫県民の連隊長として次の通り明日から実施する。将校以下この八紘兵舎に宿泊し、向う2ケ月間全員の外出を禁止して日夜訓練に従事する。また戦場で負傷して痛いとか苦しいとか弱音を吐く者は戦死戦傷者として取扱わない」</p>

<p>さすがにこの発言には一同啞然としたが、その後、木庭が実際に全将兵の外出を2ケ月間禁止し、自らも日夜演習に励むに及び、その指導方針は徹底されていった。</p>

<p>木庭の指導下で鍛え抜かれた連隊は、やがてその真価を発揮することになる。</p>

<p>戦局が日本に不利な昭和18年（1943）10月、木庭の部隊はジャワ島を後にした。行先は、連合軍が奪回を狙うビルマである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>インパール作戦に連動し...</h2>

<p>木庭の第111連隊は前述の通り本来第10師団の管轄下にあったが、昭和15年8月に師団が満洲に移駐して以降、第54師団が創設されてその指揮下にあった。第54師団は第55師団、第2師団とともに、昭和19年（1944）1月に新設された第28軍の基幹となった。</p>

<p>昭和19年2月、花谷正（はなやただし）率いる第55師団はインパール（「ウ」号）作戦での牽制と英印軍の反攻を予め挫くため、第2次アキャブ（「ハ」号）作戦に参加した。</p>

<p>しかし、第55師団がシンゼイワという地点を攻撃している最中、思わぬ事態が起こった。イギリスの第81西アフリカ師団が、ミョーホン近くに出現したのである。ミョーホンは師団の背後の連絡線を脅かす地点だった。</p>

<p>この危急を救うために派遣されたのが木庭の部隊であった。木庭は当時、アキャブを守備していたが、第28軍はミョーホンの危機を救うために木庭の部隊を軍の直轄にすることにした。木庭は、「手兵」の111連隊に加え、歩兵第143連隊の一部、騎兵第55連隊などを合わせて「木庭支隊」を指揮することになった。</p>

<p>そして「長い間猛訓練をやってきたが、いよいよその成果をためすときがきた。英印軍が1個師団なら相手に不足はない」と勇んで出発した。</p>

<p>木庭は第3大隊に命じて山岳地帯を暗夜に迂回急進させ、敵の側背に出撃させた。大隊は砲や重機関銃を分解して搬送し、予定通り払暁に敵の側背に進出、見事これを撃退したのである。</p>

<p>木庭は部下たちに対し、「よくやってくれた。これもあの苦しい訓練のお陰だ。大・中・小隊長の率先陣頭指揮の賜（たまもの）だ。早くこの有様を、兵庫県民に知らせたい。おれも何だかこれで兵庫県民に申し訳がたち、顔向けができるような気がする」と言葉をかけた。</p>

<p>しかし肝心のシンゼイワ攻略戦は、包囲されている英印軍が空中からの物資補給で余裕があるのに対し、日本側は補給も不足し、英印軍の堅固な防御戦闘により損害が続出した。そして作戦開始（2月3日）から約3週間後の2月26日、とうとう攻略を中止せざるを得なくなった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>過酷な撤退戦でみせたもの</h2>

<p>昭和19年7月、多くの損害を出したインパール作戦は中止された。第15軍司令官の牟田口廉也は更迭され、それまで第54師団長だった片村四八（しはち）中将が新司令官となった。木庭は8月に少将に進級し、新たに師団の歩兵団長を務めることになる。これとほぼ同時に、新師団長としてやってきたのが宮崎繁三郎である。</p>

<p>宮崎は士官学校では木庭の1期下の26期で、陸大を卒業している。ただし、木庭と同じく軍中央の要職には縁はなく、熱河作戦、ノモンハン事件、インパール作戦で指揮を執った歴戦の軍人であった。</p>

<p>しかし将官となった木庭を待っていたのは、怒濤の反攻を始める英印軍からの過酷な撤退戦であった。</p>

<p>ビルマの雨季は6月から9月だが、この雨季が終わると英印軍の動きも活発になってきた。12月中旬ごろ、ミョーホン北東約15キロメートルに敵軍約3,000が出現した。木庭は直ちにこれを撃退したが、今度はアキャブが攻撃を受けた。</p>

<p>アキャブは木庭のいるミョーホンから約60キロ離れており、山本源丈少佐率いる歩兵第111連隊第1大隊が守備していた。大隊は敵に包囲される恐れがあり、木庭は同部隊にアキャブからの転進（撤退）を命じる。</p>

<p>12月30日、転進した大隊はアキャブ北東約20キロのポンナグンという地点に集結して英印軍の侵攻を阻止していたが、昭和20年（1945）1月6日になると木庭は同部隊に主力への合流を命じる。</p>

<p>ところが翌7日、大隊がカラダン川を渡河中、ベンガル湾から遡上した英印軍の砲艦によって退路が遮断され、主力との連絡もつかなくなってしまう。木庭は大隊を救援すべく信頼する守本正大尉を長とする約40名を派遣した。</p>

<p>救援隊は9日夜ポンナグンに上陸するが、隊長の守本大尉は渡河中に大腿部に貫通銃創を受け、ポンナグンでも大隊を発見できず、虚しく帰還した。</p>

<p>木庭は再び救援隊を出すことを考え、最初に赴いた部隊の将校らに状況を尋ねていた。負傷した守本大尉が口を出そうとすると、なんと木庭は「お前は黙っていろ！」「お前が居ると目障りだ、すぐここを出て行け！」と怒鳴りつけてしまう。</p>

<p>守本大尉は負傷しているとはいえ、船の上で指揮を執ることはできた。第2次救援隊も自分が参加するつもりでいた。そこで改めて救援隊を率いることを直訴すると、最初は厳しかった木庭の眼差しも、慈父のようなそれに変わってようやくその真意を吐露した。</p>

<p>「お前の気持ちはうれしい、しかしお前が第2次に行ってくれるより、早く良くなって1日も早く司令部に帰ってくれるほうが、そのほうが私はうれしいのだ......」</p>

<p>諄々と説く木庭の言葉に、守本大尉は思わず涙した。大尉は他の負傷者と共に後送され、第2次救援隊もなんとか別の場所に移動していた第1大隊と合流することに成功した。</p>

<p>右の守本大尉との会話やスラバヤでの猛訓練に象徴されるように、木庭は部下に対しては時に厳しかった。ただし、その厳しさは真に部下を愛する気持ちから出たものであり、過酷な戦場をともに生き抜くためのものだった。</p>

<p>例えば昭和20年5月27日夜、第54師団が二手に分かれて宮崎が左縦隊、木庭が右縦隊を率いてブロームという町を突破した際のこと。木庭は炊事中の煙を敵に発見される危険を避けるため、「生米を嚙んで食べよ」と命じた。</p>

<p>しかし、包囲を突破するとその安心感からか、米を炊こうとする者がでてきた。木庭は自ら部隊を歩き回り、階級問わずそうした者たちを注意していった。こうして木庭の意図は徹底され、その晩、右縦隊では1人の死者も出なかったという。</p>

<p>「木庭のおやじは鬼よりこわい。しかし、このおやじの言うとおりに後にくっついていけば、なんとか無事に連れて行ってもらえる」<br />
厳しい、しかし頼もしい、というのが部下将兵が木庭に抱く思いだった。</p>

<p>木庭の副官として終始側にいた安則三作少尉は、終戦直後の復員船の中で木庭の思い出を手記にし、「自分は一生、閣下の副官をしていたい」と吐露している。</p>

<p>戦後、故郷に帰った木庭は毎年靖国神社に参拝し、慰霊祭があればどこにでも出かけた。彼はよく、「おれは良い部下を沢山持って幸せであった」と述べていたという。この言葉に対し、木庭の部下は次のような言葉を返している。</p>

<p>「いや、良い部下を沢山持たれたのではない、良い部下を沢山つくられたのである」と。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 30 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岩井秀一郎（歴史研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「独裁」と「民主主義」は気候で決まる？地図に浮かぶ“自由の境界線”  宇山卓栄（著作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14663</link>
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			<description><![CDATA[なぜ中国は皇帝支配が続き、欧州では民主主義が育まれたのか。乾燥地帯の「治水」が強力な独裁者を生み、「雨」が個人の自由を育てたという、気候と政治体制の驚くべき関係を解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="天安門" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_tenanmon.jpg" width="1200" /></p>

<p>私たちは政治体制のあり方について「民主主義は正しい」「独裁は間違っている」と理念の戦いとして捉えがちです。しかし、世界地図でこの両者を色分けしてみると、驚くべき事実が浮かび上がります。「独裁的な国」の多くは「乾燥帯」や「内陸部」、「民主主義の国」の多くは雨の降る「温帯・湿潤地域」に位置しているのです。<br />
なぜ、中国では皇帝による支配が続き、ヨーロッパでは議会制民主主義が生まれたのか。その謎を解く鍵は、「気候」にありました。地理と政治の驚くべき関係に迫ります。</p>

<p>※本稿は、宇山卓栄著『「地理で考える」は武器になる』（秀和システム新社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>民主主義の国は「温帯・湿潤地域」に位置している</h2>

<p>政治とは何でしょうか。多くの人は、それを人間の思想や理念の戦いだと考えています。自由を愛する人々と、支配を望む人々。民主主義という「正しいシステム」と、独裁という「間違ったシステム」。そういったイデオロギーの対立として世界を見ています。</p>

<p>しかし、ここでも一度、その色眼鏡を外して、冷静に「地図」を見てみましょう。世界地図を広げ、現在「独裁的」あるいは「強権等」とされる国々を塗ってみましょう。中国、ロシア、北朝鮮、中東諸国、中央アジア&hellip;。次に、年間の降水量が少ない「乾燥帯」と、広大な大陸の内部にある「内陸部」を重ね合わせてみてください。</p>

<p>驚くべきことに、この二つの地図は、かなりの部分で一致します。<br />
逆に、「民主主義」が定着している国々―西ヨーロッパ、アメリカ、日本、オセアニア―は、その多くが、雨が十分に降り、海に開かれた「温帯・湿潤地域」に位置しています。</p>

<p>これは偶然でしょうか？ いいえ、違います。それはすなわち「その国が独裁になるか、民主主義になるかは、そこに雨が降るか、大きな川が流れているかで、あらかじめ決定づけられている」という仮説です。</p>

<p>私たちは「政治体制は、国民が選び取るものだ」と信じたがります。しかし、数千年の歴史を振り返れば、人間が選び取る以前に、大地がその選択肢を狭めている現実が見えてきます。</p>

<p>なぜ、中国では皇帝による支配が続き、ヨーロッパでは議会制民主主義が生まれたのか。その謎を解く鍵は、マルクスやロックの思想書の中ではなく、気象庁の雨温図の中に隠されています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「水」を制するものが「民」を制する</h2>

<p>この謎を解き明かすために、20世紀の歴史学者カール・ウィットフォーゲルが提唱した「東洋的専制主義」とも呼ばれるこの考え方を元に、地理と政治の関係を説明しましょう。</p>

<p>人間が生きていくために、絶対に必要なもの。それは「水」です。特に、文明の基盤である農業において、水の確保は死活問題です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>① 乾燥地帯のロジック：巨大な「治水」が独裁者を生む</h2>

<p>古代文明が発祥した場所を思い出してください。エジプト（ナイル川）、メソポタミア（チグリス・ユーフラテス川）、中国（黄河・長江）、インダス（インダス川）。これらに共通するのは、「乾燥した大地に、巨大な川が流れている」という地理的特徴です。</p>

<p>ここは、雨が降りません。作物を育てるためには、川から水を引いてくる「灌漑（かんがい）」が必要です。しかし、大河の治水は、個人の力では不可能です。ナイル川や黄河は、一度氾濫すれば数万人を飲み込む暴れ川です。堤防を築き、数百キロにわたる運河を掘り、水を公平に分配する。これらを行うには、数十万人の労働者を動員し、指揮命令する、強力な「中央集権的なリーダー」が必要不可欠なのです。</p>

<p>もし、あなたがこの乾燥地帯の農民だったとします。あなたは一人では水を手に入れられません。「王様」が作った運河を使わせてもらわなければ、家族全員が餓死します。この状況下では、王様の命令は絶対です。「税金が高い」とか「自由がない」などと文句を言っている場合ではありません。水という「生殺与奪の権利」を握られている以上、あなたは王様にひれ伏し、絶対服従するしかないのです。</p>

<p>こうして、乾燥地帯の大河流域では、必然的に「一人の強力な専制君主」と、それに仕える「巨大な官僚機構」、そして水をもらうだけの「無力な民衆」というピラミッド構造が完成します。</p>

<p>これが、中国やエジプトで、古くから強大な統一王朝（独裁体制）が成立しやすかった地理的な理由です。彼らが独裁を好んだわけではありません。過酷な自然環境で生き延びるために、自由と引き換えに「強力な治水システム」を選ばざるを得なかったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>② 湿潤地帯のロジック：「雨」が自由を育む</h2>

<p>一方、民主主義が生まれたヨーロッパの地理的条件を見てみましょう。<br />
アルプスの北側は、一年を通して適度に雨が降ります。大きな川もありますが、ナイルや黄河のような巨大な暴れ川ではなく、水量は比較的安定しています。</p>

<p>ここでは、巨大な灌漑工事は必要ありません。農民は、空から降ってくる雨水と、近くの小川や井戸があれば、家族単位や小さな村単位で十分に農業ができます。つまり「生きるために、強力な王様に頼る必要がない」のです。</p>

<p>これが政治構造に決定的な違いをもたらします。王様が命令しても、地方の貴族（騎士）や農民たちは反発することができます。「水」というライフラインが分散しているため、権力も分散するのです。</p>

<p>その結果、ヨーロッパでは絶対的な権力を持つ統一皇帝が生まれにくく、地方の領主たちが力を持つ「封建制」が長く続きました。王様は、彼らと交渉し、妥協しなければ国を動かせません。この「王権との交渉の場」こそが、後の「議会」であり「民主主義」の源流となったのです。</p>

<p>皮肉なことに、現代の私たちが享受している「個人の自由」や「民主主義」は、ヨーロッパ人の民度が高かったから生まれたのではありません。彼らが、「独裁者に頼らなくても、空から勝手に水が降ってくる」という、恵まれた気候（地理的幸運）の下に住んでいただけなのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>中国共産党と「現代の治水」</h2>

<p>この気候による呪縛は、現代になっても消えてはいません。中国共産党という組織を、単なる政治政党として見るのではなく、数千年前から続く「治水皇帝」の最新バージョンとして見てみると、その行動原理がよく分かります。</p>

<p>中国のトップ（歴代皇帝や共産党指導者）にとって、最大の悪夢は「反乱」ではありません。「水害」と「飢饉」です。広大な国土と、14億もの民を養う食料生産。これらを維持するためには、長江や黄河のコントロール（三峡ダムのような巨大プロジェクト）や、乾燥する北部へ水を送る「南水北調」といった、国家レベルのインフラ整備を強権的に進め続けなければなりません。</p>

<p>「個人の立ち退き拒否」や「環境保護団体の反対」などで工事を止めることは許されません。全体を生かすためには、個の自由を犠牲にしてでも断行する「強い権力」が必要だと、支配者も、そして心のどこかで民衆も思っている節があります。</p>

<p>「国が豊かになれば、いずれ中国も民主化するだろう」という西側の期待が裏切られ続けているのは、この地理的な土台を見落としているからです。彼らの土地が求める政治の形は、リベラルな話し合いではなく、水を確実にコントロールしてくれる「強い皇帝」なのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 29 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄（著作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>あまりにもむごい関東移封　徳川家康はなぜ受け入れたのか？  河合敦（歴史研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12587</link>
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			<description><![CDATA[羽柴（豊臣）秀吉の天下統一後、父祖の地を奪われ、関東への移封を命じられた経緯について、歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="関東移封" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/edocastle.jpg" width="1200" /></p>

<p>徳川家康は戦国乱世を収拾し、江戸時代という平和な世の中をつくりあげた。ただ、彼の人生はまさに波瀾万丈であり、苦難や危機の連続だった。</p>

<p>本稿では、羽柴（豊臣）秀吉の天下統一後、父祖の地を奪われ、関東への移封を命じられた経緯について、歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、河合敦著『徳川家康と9つの危機』（PHP新書）の内容を、一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>あまりにもむごい措置</h2>

<p>天正18年（1590）7月、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康を本領から切り離し、関東へ移封することを公表した。おそらく家康が内示を受けたのは、6月のことだったと思われる。この話を知ったときの家康の衝撃たるや、すさまじいものだったろう。想像するに余りある。</p>

<p>秀吉以前、大名や国衆が何の咎もなく、上位権力（室町幕府や信長）によって支配地から切り離される例はほとんどなかった。もしそんな措置をとろうものなら、大きな反発を呼ぶからだ。</p>

<p>それは、真田昌幸の例をみればよくわかる。</p>

<p>家康に臣属した昌幸は、信濃国上田領のほかに上野国沼田領を有していたが、家康が北条氏と旧武田領を国分けしたさい、「替え地を与えるので沼田領を北条方に引き渡すように」と真田方に求めたところ、昌幸は憤慨して徳川から離れ、上杉景勝についてしまった。</p>

<p>沼田領は、武田の家臣時代、昌幸当人が実力で切り取った土地だ。ましてや家康の場合、秀吉から没収される領地には、父祖代々の三河の地が含まれている。しかも三河は、人質時代から数々の危難を切り抜け、己の才覚によって支配を回復したもの。それを実力で手に入れた遠江・駿河・甲斐・信濃を含めて手離さなければならないのだ。</p>

<p>「いくら何でもあまりにむごい措置だ」</p>

<p>そう家康は、秀吉に対して激しい怒りを感じたことだろう。だが、天下を制した秀吉に逆らうことなど不可能である。しかも秀吉は、家康に対してその居城まで指定してきた。北条氏が拠点にしてきた相模国の小田原城ではなく、なんと、京都や三河から遠く離れた江戸城へ入ることを強要されたのである。</p>

<p>こうした危機的状況に、家康はいったいどのように対応したのだろうか。また、なぜ秀吉は、家康の本領を奪って関東へ移し、その居城まで押しつけてきたのか。そのあたりについて、最新の研究成果に触れながら詳しく考察していこう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>小田原北条氏の服属を任される</h2>

<p>小牧・長久手合戦で秀吉と戦った家康は、膨張する羽柴秀吉の勢力にはかなわず、天正14年（1586）10月、ついに臣従することに決めた。</p>

<p>10月18日に朝日姫の病気見舞いという名目で人質の大政所（秀吉の生母）が岡崎にやってくると、家康は20日に岡崎を発って大坂へ向かった。そして26日に豊臣秀長（秀吉の弟）の屋敷に入った。明日はいよいよ、秀吉との対面の日だった。</p>

<p>だが、『松平家忠日記』によると、「其夜御宿へ（秀吉が） 御越、殿様（家康の）御手をとらせられ候て、おくの御座敷へ被成」とあるように、夜、サプライズで秀吉本人が家康のところに現れ、自ら家康の手をとって奥座敷に招き、存分に話をして「御昵懇（ごじっこん）」となり、「御酒もりニ被成、関白様、御酌にて御盃を殿様へ被進候」と、酒宴では秀吉自らが家康にお酌をしたという。家康もすぐに返杯したが、さすが秀吉、「人たらし」といわれるだけのことはある。かくして翌日、家康は大坂城へ入り、秀吉に対して正式に臣下の礼をとったのだった。</p>

<p>11月4日、秀吉が越後の上杉景勝に宛てた判物（書状）には、「家康上洛候て令入魂（じつこんせしめ）何様にも関白殿（羽柴秀吉）次第与申候」（『愛知県史　資料編12　織豊２』）とある。家康が上洛し「すべて関白様にお任せする」と申して来たと伝え、それゆえ徳川征伐は取りやめ、今後は「関東之儀家康と令談合諸事相任之由（だんごうせしめしよじあいまかすのよし）被仰出候（おおせいだされ）」（前掲書）と、「関東のことについては、家康を取次として一任することにした」と告げている。「関東之儀」とは、小田原北条氏のことである。</p>

<p>秀吉は関白になると、朝廷の権威を背景に本格的に諸大名に向けて私的な戦いを禁じる停戦命令を出した。大名間の紛争は、以後、自分がすべて裁定をくだすとしたのだ。</p>

<p>これを研究者たちは「惣無事令（そうぶじれい）」とか「惣無事」と称している。藤木久志氏が提唱した概念である。近年、この解釈をめぐっては、活発な議論がおこっている。</p>

<p>たとえば、室町幕府の足利将軍時代から同様の停戦命令はたびたび出されており、信長も同様だった。つまり秀吉の惣無事は、信長の継承であるなど云々。</p>

<p>いずれにせよ、家康はまだ関東で戦い続けている北条氏政・氏直父子の戦闘を停止させ、豊臣政権に臣従させることを秀吉から命じられたわけだ。</p>

<p>ちょうど、秀吉に服属した織田信雄が、家康に秀吉への服属を働きかけたのと同じ役目を担わされたのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 29 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[河合敦（歴史研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜスイスとシンガポールは「世界の金庫」に？ 山と海が武器になる納得の理由  宇山卓栄（著作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14660</link>
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			<description><![CDATA[世界中の富が集まるスイスとシンガポール。資源なき二つの小国が、アルプスの「山」とマラッカ海峡という「海」の地理的特性を武器に、難攻不落の「世界の金庫」へと登りつめた生存戦略をひも解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="スイスとシンガポールが「世界の金庫」になった理由は、地図を見ればわかるという" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_worldmap.jpg" width="1200" /></p>

<p>世界中の超富裕層が自分の資産を守るために求めるもの、それは「安全」です。彼らから不動の支持を得ているのがヨーロッパの「スイス」とアジアの「シンガポール」。どちらも資源を持たない小国でありながら、なぜ「世界の金庫」として存在し続けられるのでしょうか。その秘密は、スイスの「山」とシンガポールの「海」――両国が持つ地理的特性にありました。地図を見ればわかる、小国の生存戦略に迫ります。</p>

<p>※本稿は、宇山卓栄著『「地理で考える」は武器になる』（秀和システム新社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>マネーがもつ「臆病」という性格</h2>

<p>金融を理解するための第一歩は、マネーの「性格」を知ることです。マネーは極めて「臆病」です。少しでも危険な匂いがすれば、光の速さで逃げ出します。逆に、絶対に安全だと確信できる場所には、磁石のように吸い寄せられ、そこに滞留します。</p>

<p>世界中の超富裕層が、自分の資産を守るために最も気にしていることは何でしょうか。「もっと増やしたい」ではありません。「絶対に減らしたくない」です。戦争、革命、国家による没収、ハイパーインフレ&hellip;。歴史上、富は常に暴力や政治の犠牲となってきました。だからこそ、彼らは利回りの高さよりも、「何があっても壊れないシェルター」を血眼になって探しています。</p>

<p>そのシェルターとして選ばれ続けているのが、ヨーロッパの「スイス」と、アジアの「シンガポール」です。<br />
興味深いことに、この二国には共通点があります。どちらも資源を持たない小国であり、大国に囲まれた不安定な位置にありながら、地理的特性を極限まで利用して「信用」という城壁を築き上げた点です。</p>

<p>一つは「山岳要塞」。<br />
もう一つは「海洋要塞」。<br />
それぞれの地理的ロジックを見ていきましょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>スイス―アルプスという「天然の防空壕」</h2>

<p>【１】地形が作った「武装中立」<br />
スイスと聞いて思い浮かべるイメージは『アルプスの少女ハイジ』のような牧歌的な風景かもしれません。しかし、地政学的なスイスの顔は、ハリネズミのように武装した「要塞国家」です。</p>

<p>スイスは、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアという、歴史的に何度も戦争を繰り返してきた大国に四方を囲まれています。本来なら、真っ先に侵略されて消滅してもおかしくない位置です。しかし、スイスには「アルプス山脈」がありました。国土の大部分を占める険しい山々は、天然の城壁として機能しました。ナポレオンもヒトラーも、スイスを完全に屈服させることのコスト（損害）が、得られる利益を上回ると判断し、侵攻を躊躇しました。</p>

<p>この「攻めにくい地形」が、スイスの国是である「永世中立」を可能にしました。中立とは、単に「戦わない」と宣言することではありません。「攻め込んできたら、全土を焦土にしてでも反撃する」という実力（地形的・軍実に潜む抑止力）があって初めて成立するものです。</p>

<p>スイスの山々の地下には、無数のトンネルや掩体壕が掘り巡らされています。かつては軍事用だったこれらの地下施設が、現在では何に使われているかご存知でしょうか。金の延べ棒や、貴重な美術品を保管する「巨大金庫」として使われているのです。</p>

<p>物理的に軍隊ですら突破できない山の中の金庫。これ以上のセキュリティは世界中どこを探してもありません。スイス銀行の信頼性は、厳格な守秘義務という法律だけでなく、アルプスという「物理的な難攻不落さ」によって裏付けられているのです。</p>

<p>【２】傭兵から銀行家へ ── 「守る」ビジネスの転換<br />
スイスが金融立国になった背景には、貧しい山岳国家としての悲しい歴史があります。産業革命以前、山ばかりで作物が育たないスイスの最大の輸出品は、なんと「人間（傭兵）」でした。屈強なスイス男児たちは、出稼ぎとしてヨーロッパ中の戦場へ送り出され、契約を遵守し、雇い主のために死ぬまで戦うことで有名でした（現在でもバチカン市国を警護しているのはスイス衛兵です）。</p>

<p>「命をかけて、顧客と契約を守る」<br />
この傭兵ビジネスで培われた職業倫理が、形を変えて継承されたのが「プライベートバンキング」です。17世紀以降、宗教戦争などでヨーロッパが混乱すると、各国の王侯貴族たちは、自分の財産を安全な場所に隠したいと考えるようになりました。そこで彼らが頼ったのが、かつて自分たちの命を守ってくれたスイス人たちでした。</p>

<p>「やつらは口が堅い。そして、アルプスの奥地までは誰も追ってこられない」<br />
こうして、スイスは「命を開けて守る傭兵」から「資産を守る銀行家」へと華麗な転身を遂げました。他国の干渉を許さない山岳地形と、顧客の秘密を墓場まで持っていくというメンタリティ。この二つが融合し、スイスは世界中のブラックマネー（とホワイトマネー）が流れ込む、巨大な貯水池となったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>シンガポール―マラッカ海峡という「物流の心臓」</h2>

<p>【１】「アジアのスイス」を目指した島国<br />
一方、アジアの金庫であるシンガポールには、山がありません。最高峰のブキ・ティマ山でも標高163メートル。丘のようなものです。しかし、シンガポールにはスイスにはない最強の武器がありました。それは「海」です。より正確には、「マラッカ海峡」という立地です。</p>

<p>1965年、マレーシアから追い出される形で独立した当時のシンガポールは、資源も水もなく、国民の統合も取れていない、吹けば飛ぶような小国でした。建国の父、リー・クアンユー首相が生存戦略として手本にしたのが、遠く離れたヨーロッパの小国、スイスでした。「東洋のスイスを目指す」というスローガンは、単なる憧れではなく、大国に囲まれた小国が生き残るための極めて冷静な計算でした。</p>

<p>【２】「モノ」が集まる場所には「カネ」が集まる<br />
シンガポールは、太平洋とインド洋を結ぶマラッカ海峡の出口に位置しています。ここは、中東の石油、欧州の製品、アジアの部品が行き交う、世界物流の「大動脈」です。リー・クアンユーは、この立地を最大限に活かし、国全体を巨大な自由貿易港に作り変えました。関税をなくし、インフラを整備し、世界中の船を呼び込みました。</p>

<p>ここからが地理的思考の重要なポイントです。「物流」のハブは、必然的に「金融」のハブになります。なぜなら、モノが動くところには必ず決済が発生し、保険が必要になり、為替交換が行われるからです。港にコンテナが積み上がるにつれて、シンガポールの金融街には銀行の支店が林立するようになりました。</p>

<p>【３】カントリーリスクという「追い風」<br />
さらに、シンガポールにとっての幸運は、周りの国々の政治情勢が不安定だったことです。インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナム&hellip;。20世紀後半の東南アジアは、共産化の波やクーデター、通貨危機など、常に政情不安のリスクに晒されていました。</p>

<p>この「不安定な地域」の中に、ポツンと一つだけ、独裁的ではあるものの法治が徹底され、英語が通じ（英領だったため）、通貨が安定している国がありました。周辺国の富裕層や華僑たちは、自国の通貨や政府を信用していません。彼らは、何かあった時に備えて、資産を安全なシンガポールへ避難させようとします。</p>

<p>スイスが「アルプスの壁」で物理的に守られているのに対し、シンガポールは「法と制度の壁」で資産を守っています。独裁とも言われる強力なリーダーシップで政治を安定させ、「シンガポールに置いてある金だけは、絶対に安全だ」というブランドを国家ぐるみで作り上げたのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>小国が生き残るための「地理的差別化」</h2>

<p>スイスとシンガポール。地球の反対側に位置するこの二つの国は、「大国の狭間にある」という地政学的なピンチを、「中立地帯」というビジネスチャンスに変えました。</p>

<p>大国（アメリカや中国）は、自国の論理や規制でマネーを縛ろうとしますが、マネーはその束縛を嫌います。スイスとシンガポールが見出したのは、大国の支配が及ばない「隙間」に、物理的・制度的に堅牢な金庫を用意するという生存戦略でした。資源を持たない小国にとって、「ここに置けば安全だ」という信用こそが、最大の商品だったのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 24 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄（著作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>劉邦の忠臣となった「始皇帝の暗殺に失敗した人物」 お尋ね者だった張良の転機  島崎晋（歴史作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12553</link>
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			<description><![CDATA[『キングダム』で注目の中国古代史。始皇帝暗殺に失敗した張良が劉邦の臣下となり、項羽との戦いを支える。『史記』が描く張良の数奇な運命と劉邦の西進を歴史作家・島崎晋氏が解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="劉邦の挙兵" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2024/2024A/241031shimazakisusumu07.jpg" width="1200" /><br />
&uarr;劉邦の挙兵（河南省永城市場の漢高祖斬白蛇記念碑付設の展示室より）</p>

<p>大ヒット漫画『キングダム』を読み、中国史に興味を抱いたという方も多いだろう。中国古代史を知るうえで欠かせない歴史書と言えば、『史記』だ。その中には、始皇帝の暗殺に失敗した張良が、のちに劉邦と出会い、臣下として仕えていた様子が記されている。</p>

<p>本稿では歴史作家・島崎晋氏が、全130巻に及ぶ超大作『史記』原典のおもしろさを損なうことなく一冊にまとめた書籍『いっきに読める史記』よりご紹介する。</p>

<p>※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』（PHP文庫）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>項羽、宋義を殺して兵権を奪う</h2>

<p>項梁（こうりょう）が楚の懐（かい）王を擁立すると、劉邦もこれに合流した。このほか、魏、趙、斉などがそれぞれ自立した。</p>

<p>項羽は雍丘（ようきゅう）を攻めて、李由（りゆう／李斯の子）を斬り殺した。項梁はこの勝利に驕る気配が強く、宋義（そうぎ／もと楚の令尹（れいいん））に諫められても耳を貸そうとしなかった。それからまもなく、項梁は定陶（ていとう）で章邯（しょうかん）に敗れ、戦死した。これを知った懐王は秦軍を恐れて、盱眙（くい）から彭城（ほうじょう）へ移った。懐王は軍を再編成しようと、宋義を上将軍、項羽を次将、范増（はんぞう）を末将として、趙へ救援に行かせた。</p>

<p>安陽（あんよう）まで行きながら、宋義は46日間も軍をとどめ、前進しようとしなかった。項羽は、「趙軍は秦軍に包囲されている。早く黄河を渡り、趙軍と内外呼応して戦えば、必ず勝利できる」と主張したが、宋義は、「わが方は秦軍の疲れに乗じるのが得策だ。鎧をつけ武器をとって戦うことでは、わしはそなたに及ばないが、座って策略をめぐらすことでは、そなたはわしに及ばない」と言って、項羽の意見を却下した。</p>

<p>やがて項羽は宋義を殺して兵権を奪った。懐王はこれを追認して、項羽を上将軍とした。</p>

<p>鉅鹿（きょろく）から救援要請を受けると、項羽は軍を率いて黄河を渡った。渡り終えると、船をみな沈めるとともに、鍋や釜を壊して、3日分の食糧だけを携帯させ、決死の戦いを挑む覚悟を示した。将兵がこれに感じて奮戦したことから、項羽の軍は章邯の軍と九度戦い、ことごとく勝利を収めることができた。項羽の軍の兵士が一人で十人の敵に打ち勝つのを見て、諸侯の将軍はみな項羽を恐れて、従うようになった。</p>

<p>これよりさき、懐王は、「まっさきに函谷関を破り、関中を平定した者を関中の王にしよう」と約束していた。章邯が連戦連勝を収めていたときだったので、諸侯はみな尻ごみをした。そうしたなか、項羽と劉邦だけが西に向かうことを願った。項羽が叔父の仇である章邯と正面からぶつかる道を選んだのに対し、劉邦は比較的敵の少ない道を通った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>張良と陳恢の進言に従う</h2>

<p>劉邦は西進をつづけた。宛（えん）の町は守りが堅いので、見捨てて先へ進もうとしたが、張良が諫めて言った。</p>

<p>「沛公は急いで函谷関（かんこくかん）に向かおうとされていますが、秦の兵はなお多く、険要の地によって防いでおります。いま宛を下さなければ、背後から襲われましょう。前にも敵がいるのですから、これは危険なやり方です」</p>

<p>劉邦はこの進言に従い、宛を攻めることにした。宛の守（しゅ）は弱気になって自害しようとしたが、側近の陳恢（ちんかい）がそれを止めて言った。自分が劉邦に会って話をつけてくると。陳恢はつぎのように述べたてた。</p>

<p>「宛は大きな郡の都で、城市が数十もあり、民も財貨も多く、役人も人民も自分から降伏すれば、秦の法により、あとで必ず殺されるものと思っています。だから、みな必死になって戦うでしょう。そうなれば、あなたがたもいたずらに時間を費やし、多くの死傷者を出すことになります。また宛をやりすごして先へ進めば、後ろから追撃されるでしょう。</p>

<p>あなた様のために考えますに、宛の守の降伏を許すかわりに、封じて宛の城を守らせる。そして靡下（きか）の兵卒はとりあげ、いっしょに西へ連れて行くにこしたことはありません。そうすれば、これから先の諸城も、噂を聞けば、争って門を開き、あなたをお待ちするはずです。通行を妨げることはありません」</p>

<p>劉邦はこの策に従い、宛の守を殷（いん）侯にするとともに、陳恢を千戸に封じた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>張良の人生を変えた不思議な老人</h2>

<p>ところで、上に名の出た張良とは、博浪沙（はくろうさ）で始皇帝暗殺を企てた張良と同一人物である。お尋ね者となったことから、張良は姓名をかえ、下邳（かひ）に隠れ住んだ。</p>

<p>ある日、下邳の橋の上を散歩していると、一人の粗末ななりをした老人と出会った。老人はわざと自分の履き物を橋の下に落とすと、張良のほうを見て言った。</p>

<p>「若造、下におりて履物をとってこい」</p>

<p>張良は内心の怒りを抑えて、履物をとってきた。すると老人は、今度は「はかせろ」と言う。張良は膝をついてはかせてやった。すると老人は笑いながら去っていった。張良はしばらくその後姿を見送っていたが、老人は一里ばかり行くと引き返してきて、張良に言った。</p>

<p>「若造、おまえには教える価値がある。5日後の夜明けに、ここで会おう」</p>

<p>張良は不思議に思いながらも承知した。</p>

<p>5日後の夜明け、張良が橋に行ってみると、老人は先に来ていて、怒っていた。</p>

<p>「老人と約束しながら、遅れるとは何事だ、帰れ。5日後、出直してこい」</p>

<p>5日後の鶏が鳴く頃、張良が橋に行ってみると、老人はまた先に来ていて、同じ言葉を繰り返した。5日後、張良は夜半に出かけていって、夜の明けるのを待った。しばらくすると老人がやってきた。老人は喜んで、「こうあるべきなのだ」と言い、さらに一篇の書物を取り出して、こう言った。</p>

<p>「これを読めば王者の師となれるだろう。あと10年すれば世に出られる。13年すれば、わしと再会するだろう。済北（せいほく）の穀城山（こくじょうさん）の麓にある黄色い石、それがわしじゃ」</p>

<p>老人はそれだけ言うと、どこへともなく去っていった。夜が明けてから、その書物を見てみると、それは太公望（たいこうぼう）が著わした兵法書だった。張良はそれを暗誦できるほどにまで熟読した。</p>

<p>それから世に出るまでのあいだに、張良は人殺しをして追われていた項伯をかくまったことがある。</p>

<p>陳勝・呉広の乱がおこると、張良もまた若者百余人を集めて兵をあげ、やがて劉邦のもとに身を投じた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p><img alt="いっきに読める史記" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250625shiki01.jpg" width="1200" />『いっきに読める史記』（PHP文庫）</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 23 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[島崎晋（歴史作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秘伝の天ぷらと夏祭に宿る歴史　港町にして城下町・尼崎の素顔  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14708</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014708</guid>
			<description><![CDATA[兵庫県尼崎市の歴史ある城下町を巡ります。尼崎城や、往時の町割を残す寺町の歴史スポットを紹介しつつ、地元の商店街で愛される名物の「天ぷら」（すり身揚げ）など、グルメの魅力も伝えます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="復元尼崎城天守" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260716amagasaki1.jpg" width="1200" /><br />
写真：復元尼崎城天守。篤志家と市民の寄付のもとに竣工。内部は尼崎城と地域の歴史を紹介する体験型の施設になっている。なお、本来の天守があった本丸は少し南西側。明治維新後、堀を含めて城郭は完全に失われ、本丸跡には学校などが設けられた。その戦前に建てられた旧女学校の建物が改修され、令和2年（2020）に市立歴史博物館として開館している</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>大阪市に隣接する兵庫県尼崎市は、近代工業発展の最前線となった地である。そのために海岸が埋め立てられ、多くの鉄道や幹線道路が敷かれるなど、近世以前とは地理そのものが大きく変化し、かつての地域像は影を潜めた感がある。しかし、この地域には、平安時代以来、摂関家や有力寺社の荘園が設けられ、沿岸には京都と西国を結ぶ舟運の拠点港が栄えた。さらに近世には、譜代大名が治める尼崎城が置かれ、海に臨む城下町はにぎわいを見せた。</p>

<p>令和元年（2019）、阪神尼崎駅の南側、かつての尼崎城の西三之丸跡地に復元天守が完成。城下町尼崎への関心が改めて高まった。</p>

<p>その旧城下町である商店街の一角に、地元の人たちに長く愛される、魚のすり身を揚げる天ぷらの老舗がある。また、近くには、熱気に満ちた夏祭で知られる、城下町の氏神である神社が鎮座する。それらに秘められた尼崎の歴史をたどった。</p>

<p>【兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【（編者）歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>尼崎の「あま」の元は「海士」。漁師の住む地に由来</h2>

<p>尼崎地域で古くから開発が進んだ地域としては、長洲（ながす）荘が知られる。奈良時代に東大寺領とされた地で、平安時代に入ると荘園が成立する。そして、その海に面する場所にできたのが、大物浦（だいもつうら）と呼ばれる港であった。場所は現在の阪神大物駅付近と考えられ、海辺からかなり離れた場所だが、かつてはこのあたりに海岸線があったのである。</p>

<p>大物浦は、西国と瀬戸内海経由で結ぶ船と、神崎川・淀川を通じて京都とつなぐ川船の間で、物資を積み替える中継港として大いに栄えた。『平家物語』には、兄の源頼朝から討伐の対象とされた義経の一行が、大物浦から西国に船で逃避を試みる場面があり、世間に知られた要港であった。</p>

<p>この大物浦の南側には、漁師たちが住む洲のような土地があり、彼ら漁師は、平安時代後期に京都の賀茂社（上賀茂・下鴨神社）の神人（じにん）となった。神人とは、神社に所属して諸役を務める民のことで、荘園領主の過大な要求を拒否し、自立を図る目的で、中世期にかけて神人となる荘民が少なくなかった。当地の漁師たちは、賀茂社に魚を奉納する見返りに、漁業の権利を確保したのである。このように産物を神社に調進する地を御厨（みくりや）という。</p>

<p>この漁師たちの住む場所は「あまがさき」と呼ばれた。古文書には「海士崎」「海人崎」「海崎」などと記される。</p>

<p>さて、ここからは推測だが、漁師たちは川を遡って京へと運んだ魚を、賀茂社に納めただけだっただろうか。内陸の京都では、海の魚は非常に貴重であり、引く手あまたであったと思われる。おそらく漁師たちは、貴族や裕福な商人たちに魚を売ることがあったのではないか。そして、京の人々は、訪れを待ち望んだその漁師たちを「尼崎」の者と記したのではなかろうか。都でのその呼称は、いつしか一漁村から周辺を含めた広い地域を指すものとして定着したのであろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>大坂の西の守り、譜代大名が治めた尼崎城</h2>

<p><img alt="尼崎城下の総氏神・貴布禰神社" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260716amagasaki2.jpg" width="1200" />写真：尼崎城下の総氏神・貴布禰（きぶね）神社。水神をまつり、尼崎城主も雨乞いの神事をここで行なってきた</p>

<p>中世期に入ると、大物浦には商人が集住し、寺院が幾つも営まれるなど、自治都市が確立する。要衝であるだけに争乱にもしばしば巻き込まれ、享禄4年（1531）、管領細川高国が、戦いの末に仇敵（きゅうてき）の細川晴元によってこの地で自害させられた「大物崩れ」に、地名を残している。</p>

<p>詳細は不明だが、この大物崩れの頃に、すでに大物城と呼ばれる城があり、のちにこれをもとに、摂津伊丹の有岡城主・荒木村重の長男・村次が尼崎城（尼崎古城）を築いたという。織田信長に対して謀反し、糾弾された村重は一時、この城に逃げ込んでいる。大坂の陣の勝利によって徳川の世が定まって2年後の元和3年（1617）、この地に徳川譜代の戸田氏鉄（うじかね）が入府。幕府の命のもと、古城の西側に新たに尼崎城を築き、城下町を整備した。</p>

<p>氏鉄は、築城や治水などに手腕を発揮した治世者であった。尼崎旧城下町の東側、現在の大阪府との境界を流れる左門殿（さもんど）川の左門とは、氏鉄の通称で、彼によって整備されたことを顕彰して名付けられたという。旧城下町西部の一画に寺院が密集する寺町があって、旧来の風情を残すが、これも城下町建設の際に、氏鉄が地域の寺院を集めたものである。寛永12年（1635）、氏鉄は加増を受けて美濃大垣に移封。こちらでも藩政に功績を残している。</p>

<p>氏鉄が築いた尼崎城は、その後、青山氏4代、松平（桜井松平）氏7代と譜代大名によって、明治維新まで引き継がれた。その城郭は、ほぼ正方形の本丸を持ち、その北東隅に4層の天守を構え、他の3隅に3重の櫓（やぐら）を配置。本丸を中心に3重の水堀が巡らされ、その東西に城下町が広がっていた。城の南側には、遅れて沿岸の洲をもとに築地町（つきじちょう）も造成されている。</p>

<p>城下には大坂につながる中国街道が通り、大坂の西を守護する城でもあって、これが譜代大名が配された理由である。城郭の規模も藩の禄高に比して立派なものであったといい、徳川2代将軍秀忠ならびに3代将軍家光が視察に訪れてもいる。</p>

<p>大坂近郊にあって流通の便に優れる尼崎城下町では、各種商業が発展。古来の漁業も引き継がれて、築地町には漁師たちが集住し、城西側の沿岸部にあたる中在家町（なかざいけちょう）には魚市場が設けられ、生魚問屋の取引は瀬戸内海全域に及んだという。</p>

<p>近世尼崎の漁業の繁栄を伝える資料に『尼崎産魚』という図譜がある。享保20年（1735）にまとめられたもので、平成28年（2016）に市に寄贈されて世に知られることになった資料である。そこには、80種の魚介類が彩色鮮やかに描かれていて、豊かな漁場があったことがしのばれる。古代以来の地域の漁法である地引網や底引網による、それらの海産物の収穫は、明治時代まで続き、大阪・京都などに盛んに出荷された。しかし、明治末期以降、都市化や工業地帯化が進展すると、尼崎の漁業は衰退。埋め立てによって海岸線もずっと南へと後退し、その形跡も埋もれてしまった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>創業170年の老舗蒲鉾店の天ぷらと300年来の夏祭</h2>

<p><img alt="尼崎桝千の店頭に並ぶ天ぷら" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260716amagasaki3.jpg" width="1200" />写真：尼崎桝千（ますせん）の店頭に並ぶ天ぷら。金網かごに積み上げての販売も、お店の昔ながらのスタイル</p>

<p>しかし、尼崎の魚産業の伝統は、形を変えて生き続けている。</p>

<p>「江戸時代末の安政年間（1854-1860）に、尼崎城下の漁師町にいた初代が、魚を保存できる食べ物はないかと考えて、蒲鉾（かまぼこ）を作り始めたと聞いています」と、創業の経緯を語るのは、蒲鉾・天ぷらの老舗「尼崎桝千」の9代目、店を継いで8年という代表取締役社長の尾上貴之さん。桝千は阪神尼崎駅から西側に連なる尼崎中央商店街に店舗を構え、地元なら知らない人はいない名店である。</p>

<p>桝千の主力商品は「天ぷら」である。ここでいう天ぷらは、魚介や野菜に衣をつけて揚げたものではなく、魚のすり身を油で素揚げした練り物・揚げ蒲鉾のこと。関東では薩摩（さつま）揚げと呼ぶことが多いが、関西では天ぷらという。桝千では、定番の平天・ごぼう天のほか、人気のキクラゲを練り込んだ白天、香り高いしょうが天・さんしょう天など7種類を販売。客足は途切れないほどで、一日に2000枚から3000枚を製造して売り切れるという。</p>

<p>「通常は、天ぷらの材料のすり身は、蒲鉾よりランクが低いものを使うのですが、うちでは蒲鉾に用いる上質のすり身を揚げています。また、添加物は一切、使用していません」。その尾上さんの言葉どおり、桝千の天ぷらはプリプリとして食感から違い、頬張ると旨味が口一杯にあふれる。魚のすり身は、季節によって完成品の身のしまりが変わることがあり、その仕上げや伸ばし方に非常に気を遣い、秘伝を要するが、手作りで揚げる調理場は通りから見えるようになっていて、これも自信の表れであろう。</p>

<p>毎週、大河ドラマを楽しみにしているという歴史ファンの尾上さん。「山崎の戦いの前に、秀吉が尼崎に入って作戦を練ったことを知り、地元が歴史の現場となったことがうれしかったですね」と笑う。「桝千」の屋号は、初代で尾上さんの先祖でもある桝本千太郎（ますもとせんたろう）の名を継ぐという、こちらも由緒あるものだが、自身の事業の歴史にはむしろ謙虚に、天ぷらを日々揚げて応え、守り続けている。</p>

<p>さて、もう一つ、尾上さんも夏が来たと感じるという、地元の歴史文化がある。毎年8月1日・2日に開催される、貴布禰神社のだんじり祭である。</p>

<p>貴布禰神社は、鎌倉時代末期の嘉暦（かりゃく）元年（1326）の創建と伝わり、もとは尼崎城内にあたる場所に鎮座していたが、戸田氏鉄の築城の際に城下に移され、正徳5年（1715）に中央商店街の南側にあたる国道43号沿いの現在地に遷座。尼崎城主の祈願所となるとともに、城下8町の総氏神とされてきた。</p>

<p>主祭神は神社名からもわかるように、京都の貴船神社と同じくする高龗神（たかおかみのかみ）。また、賀茂社の神も配祀（はいし）され、御厨時代以来のこの地域と京都の結びつきをうかがわせる。これらの神々は水に関わる神であり、かつて境内も海に面していて、尼崎の舟運・漁業関係者からの崇敬も集めた。</p>

<p>そして、この地に鎮座して以来、300年余の歴史を伝えるのが、夏季大祭・だんじり祭である。初日1日には旧城下8町のだんじりが宮入り。あわせて「暴れ太鼓」が繰り出し、豪快に横倒しにする迫力の演技を披露する。2日目の最大の見どころは「だんじり山合わせ」。巨大なだんじり同士が正面から激しくぶつかり合う光景は圧巻で、参拝者から大きな拍手が贈られる。境内周辺には約100軒の夜店も並び、約5万もの人々が訪れて町を熱気と興奮で包む、尼崎の夏の風物詩である。その盛況に、かつて城下の町衆の活力を感じ取ってみたい。</p>

<p><img alt="貴布禰神社の夏祭での「だんじり山合わせ」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260716amagasaki4.jpg" width="1200" />写真：貴布禰神社の夏祭での「だんじり山合わせ」。だんじりをぶつけ合う約3時間にわたる熱戦に、観衆の視線は釘付けになる</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260716amagasaki1.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 22 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>大谷吉継に中間管理職の悲哀をみた...白蔵盈太の小説「タイムループ×関ケ原」はネタ切れから誕生？  白蔵盈太（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14695</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014695</guid>
			<description><![CDATA[白蔵盈太氏が最新作『大谷吉継の終わらない関ケ原』を語る。ネタ切れから生まれた「タイムループ×関ケ原」の設定や、会社員としての視点から、西軍勝利へ向けて奔走する大谷吉継の姿に込めた思いを明かす。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="白蔵盈太氏直筆のキャラクター×大谷吉継" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260713ShirokuraEita.jpg" width="1200" /></p>

<p>時代小説『実は、拙者は。』で、地味な男が事件に巻き込まれていくさまをコミカルに描いた白蔵盈太（しろくらえいた）氏。彼がこのたび上梓した小説『大谷吉継の終わらない関ケ原』は「タイムループ&times;関ケ原」！忠臣蔵、源平合戦、小牧・長久手合戦など、さまざまなテーマに挑んできた白蔵氏が、関ケ原を題材にした理由とは？そして何度もタイムループする大谷吉継の姿を通じて描きたかったものとは...？白蔵氏にお話を伺ってみました。<br />
取材・文：PHPオンライン編集部</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>実はネタ切れを起こしていた...</h2>

<p>――これまでも軽妙なタッチで時代・歴史小説を著してこられた白蔵さんですが、「タイムループ&times;関ケ原」というのはいままでとは違った、突拍子もない設定ですね。</p>

<p>【白蔵】いや、本当はね。関ケ原合戦って一生題材にすることはないだろうって思ってたんです。というのは、あまりにも徳川家康が用意周到すぎるから。石田三成があの手この手で家康に歯向かおうとするけれど、こんなの勝負見えてるよなっていうのが僕の個人的な見解なんです。もう勝敗が決まりきってて、全然ドラマにならないと思ってたんですよね。</p>

<p>ただ、実は小説のネタ切れを起こしていまして（笑）。当時いろんな出版社の方に、「できるだけぶっ飛んだアイディアをください」とお願いしていたんです。そんななか、「タイムループ&times;関ケ原」というアイディアを出してくださったのがPHPの編集さんでした。この発想はなかった。これだったら関ケ原をおもしろく書けるんじゃないか、と自分の中でばーっと繋がりまして。それで本作が生まれたんです。</p>

<p>――主人公を大谷吉継にしたのはどうしてですか？</p>

<p>【白蔵】最初に編集の方から提案されたのは、一介の侍大将とか、名もなき人を主人公にしては？というものでした。タイムループした主人公が西軍をなんとか勝利に導くため、さまざまな敗因を排除していく。<br />
でも、僕の考えでは、下っ端の人が色々動いたとしても、大きな組織って変わらないんですよね。<br />
そこで実質的な大将である三成を動かせる人物として、大谷吉継ならいけるのではないかと。「義の人」として大谷吉継は人気ありますしね。僕も好きですし。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>現代ものを書いてたら吐きそうに...</h2>

<p>――小説の題材として、白蔵さんが惹かれるのってどんな人物なんですか？</p>

<p>【白蔵】これまでの作品を読んでもらえるとわかると思いますが、「間に挟まれる人」ですね。</p>

<p>――わかります。主人公たち、みんな挟まれてますもんね（笑）</p>

<p>【白蔵】僕のデビュー作『あの日、松の廊下で』は、忠臣蔵の発端となった「松の廊下刃傷事件」が起きる前、浅野内匠頭と吉良上野介の間に割って入った人物が主人公です。</p>

<p>あれね、実は歴史小説として書くつもりじゃなかったんですよ。僕はメーカー勤務の会社員で、サラリーマン仕事のことはよくわかるから、最初はサラリーマンものを書こうと思ってプロット組んでたんです。タイプの違う2人の上司に挟まれて、「お前どっちの味方なんや！」って怒られる。2人とも尊敬できる人なんだけど、めっちゃ仲が悪いっていう。</p>

<p>そしたらですね、「そういえば、あの人に昔こんなことされたな...」とか思い出しちゃって、書いてて吐きそうになるんですよ（笑）<br />
これ、だめだ。書けない！ってなって、そのプロットはボツにしました。</p>

<p>そのあと何気なく電車の中吊り広告を見ていたら、松の廊下で「殿中でござる！」って間に入ってる人の絵があって、「これ、サラリーマンと一緒じゃん！」って。それで試しに歴史小説の形にしてみたら、生々しさが消えてスラスラ書けるようになりました。<br />
だから実は、それまであまり歴史小説とか、時代小説を読んでこなかったんですよね。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>組織は簡単に変わんねえよ、と</h2>

<p>――たしかに、『大谷吉継の終わらない関ケ原』でも、石田三成の性格を変えようとしたり、福島正則や加藤清正ら武断派との仲を取り持とうとして、大谷吉継が右往左往していますね。でも、簡単にはいかなくて、5回も関ケ原合戦をやり直す羽目になり、切腹ばかりが上手になっていく...。</p>

<p>【白蔵】サラリーマンをやっている僕が実感として思っているのは、「組織や人ってそんなに簡単に変わんねえよ」ってことなんです。<br />
「改革しよう！」とか、「古いものを打破しよう！」とか、みんなすぐ言うんですけど、本当に組織とか人を変えようと思ったら、根本から変えていかないといけないし、刺し違えるぐらいの覚悟でやらないとダメだろ、って常々思っているんです。軽々しく言うなよと。</p>

<p>だからこの作品では、大谷吉継が最後、ひとつの結論に至ります。そこには僕の思いがほとばしった感じがあって、書いてて楽しかったですね。これは、「組織改革のコンサル本」と言ってもいいかもしれない（笑）</p>

<p>――西軍が勝つ未来のために、あの手この手で策をひねり出す大谷吉継の姿に共感する部分は多々ありました。<br />
歴史の面でいうと、本作を執筆されるにあたり、関ケ原合戦の文献をだいぶ読まれたようですね。</p>

<p>【白蔵】他の歴史作家さんには到底及ばないと思うんですが、調べれば調べるほど悩みが増えていきました。<br />
関ケ原合戦って、日本でもっとも知られた戦じゃないですか。だから、異論とか異説が多いんですよ。後世になって徳川幕府への忖度で歪められた部分もあるようだし、どの文献を信じていいのかわからない。</p>

<p>そのうえ、新しい学説をあまりにも取り入れすぎてしまうと、みんなが知ってる関ケ原合戦の姿から遠ざかってしまう。</p>

<p>だから、個人的には新説のほうに説得力を感じていても、エンタメとしてよく知られている旧来の説のほうを採用した部分もあります。戸惑いなく読んで楽しんでもらいたいので。</p>

<p>僕が歴史小説の世界に入ったのはたまたまですが、歴史小説というジャンルが、一部のマニアのためだけの世界になってしまったらもったいないと感じてるんです。</p>

<p>「タイムループ&times;関ケ原」の設定をいいなと思ったのは、関ケ原合戦に詳しくない人でも楽しんでもらえそうだと思ったから。だからこの本は、歴史に興味なくても、関ケ原合戦に関する知識がなくても、抵抗なく読んでもらえる本を目指しました。今まで全然歴史小説を読んだことがない人が読んでくれて、「おもしろいじゃん」と感じてくれたらうれしいなあと思っています。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260713ShirokuraEita.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 22 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[白蔵盈太（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ黒人は奴隷にされた？「気候」と「免疫」が招いた悲劇のパズル  宇山卓栄（著作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14653</link>
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			<description><![CDATA[なぜ黒人が奴隷にされたのか。ヨーロッパ人がプランテーション農業を進める上で、ほかでもない「アフリカ人」を労働力とした理由について、「気候」や「病原菌」など、地理的要因から歴史の背景に迫る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="歴史の背景には、地理的な要因が深くかかわっている" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_map.jpg" width="1200" />16世紀から19世紀にかけて行われた「奴隷貿易」。悪名高きこのシステムは「人種差別が原因だ」と認識している人は多いでしょう。しかし現代の歴史学では、差別は&ldquo;後付けの正当化&rdquo;だったと考えられています。<br />
なぜ西洋人はアフリカ人を奴隷にしたのでしょうか。そこには、新大陸の「気候」、サトウキビという「作物」、そして旧大陸に持ち込まれた「病原菌」という&quot;地理的な必要性&quot;がありました。悪意だけでは説明できない、残酷なパズルを解き明かします。</p>

<p>※本稿は、宇山卓栄著『「地理で考える」は武器になる』（秀和システム新社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>人種差別以前にあった、プランテーション農業と気候の残酷な関係</h2>

<p>歴史には、目を背けたくなるような残酷な事実が存在します。その最たるものが、16世紀から19世紀にかけて行われた「大西洋奴隷貿易」です。推計1200万人以上ものアフリカの人々が、無理やり船に乗せられ、大西洋を渡り、南北アメリカ大陸で労働力として酷使されました。</p>

<p>なぜ、西洋人（白人）は、アフリカ人（黒人）を奴隷にしたのでしょうか？</p>

<p>「白人が黒人を差別していたからだ」<br />
これは正しいですが、順序が逆です。現代の歴史学や経済学の視点では「差別があったから奴隷にした」のではなく「奴隷にする地理的・経済的な必要性があったから、後付けで差別の論理を作って正当化した」という側面が強いと考えられています。</p>

<p>では、その「地理的な必要性」とは何だったのか。それは、新大陸（アメリカ）の「気候」と、そこで栽培しようとした「作物」、そして「病気」のミスマッチでした。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「砂糖」が求めた過酷な労働環境</h2>

<p>コロンブスがアメリカ大陸に到達した後、ヨーロッパ人はそこで莫大な富を生む「錬金術」を見つけました。それが、サトウキビや綿花を栽培する「プランテーション農業」です。特に砂糖は、当時のヨーロッパで宝石のように高値で取引されていました。</p>

<p>しかし、サトウキビの栽培には、決定的な地理的条件が必要でした。それは「熱帯・亜熱帯の気候」であることです。アメリカ大陸の南部やカリブ海の島々は、この条件を満たしていましたが、そこは同時に、人間にとって過酷な環境でもありました。灼熱の太陽の下、ジャングルを切り開き、重労働を行う。これには膨大な人手が必要です。</p>

<p>当初、ヨーロッパ人は、現地の「先住民（インディオ）」を労働力として使おうとしました。しかし、彼らは次々と死んでしまいました。虐待も原因の一つですが、最大の死因は「病原菌」でした。ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘やはしかに対して、免疫を持たない先住民はひとたまりもなく、人口の90%以上が死滅してしまったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>なぜアフリカ人でなければならなかったのか？</h2>

<p>労働力が足りなくなったヨーロッパ人は、次に自分たちの同胞である「白人の契約労働者」を送り込みました。しかし、彼らもまた、次々と倒れました。今度の敵は、熱帯特有の病気である「マラリア」や「黄熱病」でした。温帯の涼しい気候で暮らしていたヨーロッパ人には、熱帯の病気に対する抵抗力が全くなかったのです。</p>

<p>ここで、経営者たちは判断を迫られます。</p>

<p>「先住民は旧大陸の病気ですぐ死ぬ。白人は新大陸の病気ですぐ死ぬ。では、誰がこの灼熱の農場で生き残れるのか？」<br />
その「地理的な答え」を持っていたのが、アフリカ人でした。</p>

<p>（1）旧大陸の病気への耐性：アフリカ大陸はユーラシア大陸と陸続きで交流があったため、牛や馬などの家畜由来の病気（天然痘など）に対する免疫をすでに持っていた。<br />
（2）熱帯の病気への耐性：熱帯気候のアフリカで何千年も暮らしてきたため、遺伝的にマラリアへの耐性を持つ人が多かった。<br />
（3）熱帯農業のスキル：すでに熱帯農業のノウハウを持っていた。</p>

<p>つまり、ヨーロッパ人にとってのアフリカ人は、差別対象である以前に「熱帯のプランテーションという特殊な地理的環境で、生存し稼働できる唯一の労働リソース」として「発見」されてしまったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>経済合理性が生んだ「三角貿易」</h2>

<p>こうして、あの悪名高い「三角貿易」のシステムが完成しました。</p>

<p>（1）ヨーロッパからアフリカへ、武器や雑貨を運ぶ。<br />
（2）アフリカからアメリカへ、奴隷（労働力）を運ぶ。<br />
（3）アメリカからヨーロッパへ、砂糖や綿花（製品）を運ぶ。</p>

<p>この巨大な物流システムは、大西洋を取り囲む「気候の違い」と「病気への耐性の違い」を利用した、極めて合理的なビジネスモデルでした。<br />
「黒人は人間ではない、商品だ」という悲惨な人種差別イデオロギーは、この経済活動を正当化し、心を痛めずに遂行するために、後から強化され、定着していったのです。</p>

<p>もし、アメリカ大陸の気候がヨーロッパと同じ冷涼な気候で、サトウキビが育たない土地だったら、これほど大規模な奴隷貿易は生じていなかったでしょう（実際、アメリカ合衆国北部では奴隷制はあまり発達しませんでした）。<br />
あるいは、もし先住民が病気に強ければ、わざわざ大西洋を越えてアフリカから人を運ぶコストをかける必要はなかったはずです。</p>

<p>私たちが知る歴史の悲劇は、人間の悪意だけで起きるわけではありません。「その土地で何が育つか（気候）」と「誰がそこで生きられるか（免疫）」という、動かせない地理的条件のパズルが、不幸な形で噛み合ってしまった結果なのです。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_map.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 21 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄（著作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>昭王の追手に狙われるも、鶏の鳴きまねで命拾い　食客を重んじた孟嘗君の眼力  島崎晋（歴史作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12552</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012552</guid>
			<description><![CDATA[『史記』によると、項羽は始皇帝を目の当たりにしたことがあったという。その時に発した言葉とは? 歴史作家の島崎晋氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="史記" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/Shiki.jpg" width="1200" />（国立公文書館蔵）</p>

<p>大ヒット漫画『キングダム』を読み、中国史に興味を抱いたという方も多いだろう。中国古代史を知るうえで欠かせない歴史書と言えば、『史記』だ。その中には、中国戦国時代の名君・孟嘗君の逸話についても記されている。始皇帝の曽祖父である昭王に命を狙われた孟嘗君は、いかにして迫りくる追手の目を掻い潜ったのか?</p>

<p>本稿では歴史作家・島崎晋氏が、全130巻に及ぶ超大作『史記』原典のおもしろさを損なうことなく一冊にまとめた書籍『いっきに読める史記』よりご紹介する。</p>

<p>※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』（PHP文庫）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>孟嘗君の登場</h2>

<p>斉の宣王には田嬰（でんえい）という弟がいて、威王の代から要職につき、国政を補佐していた。</p>

<p>田嬰には妻妾（さいしょう）がたくさんおり、男子だけで四十人あまりいた。そのなかで身分の低い妾が五月五日に男子を産み、その子は文と名づけられた。田嬰は、その子は不吉だとして殺すよう命じたが、女はひそかに育て、ある程度大きくなってから、父親に対面させた。</p>

<p>立腹して女を詰問する田嬰に対し、田文は言った。</p>

<p>「父上が5月生まれの子を生かすなとおっしゃるのはなぜでしょう」</p>

<p>田嬰が、「5月生まれの子は、背丈が門より高くなって、父母に害を与えるといわれているからだ」と答えると、田文はさらに言った。</p>

<p>「人の運命は天から授かるものでしょうか、それとも門の戸から受けるものでしょうか」</p>

<p>田嬰が沈黙すると、田文はたたみかけるように言った。</p>

<p>「運命が天から授かるものであるなら、父上は何も心配に及びますまい。門の戸から受けるのだと決まっているのだとしたら、門をことさら高くつくればよいことです」</p>

<p>こう言われては田嬰も返す言葉はなく、女の行為を追認するしかなかった。</p>

<p>しばらくして、田文は父に、「子供の子は何と申しますか」という問いからはじまる、理にかなった進言をした。</p>

<p>「父上が斉の宰相になられてから、もう王様は三代目になります。そのあいだに斉の領土が広くなったわけでもないのに、父上の財産は万金を重ねるありさまで、おそばには賢者が一人も見えません。父上はこれ以上財産を積み蓄えて、呼び名もわからない子孫に残すおつもりですか」</p>

<p>これを聞いてはじめて、田嬰は田文に一目置くようになり、家の取り締まりを命じるとともに、食客（しょっかく）の接待をさせることとした。食客の数は日ごとに増え、田嬰と田文の名声は諸侯に知れわたるようになった。</p>

<p>周囲のすすめもあって、田嬰は田文を後継ぎにすることを決めた。田嬰が没すると、田文は薛（せつ）の領地を引き継いだ。これが孟嘗君（もうしょうくん）である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>鶏の鳴き真似で難を逃れる</h2>

<p>孟嘗君は薛（せつ）の領地に住み、財産を投げだして一芸に秀でた者たちを受け入れた。食客は数千人にものぼったが、孟嘗君は身分を問わず、誰でも同じようにもてなした。</p>

<p>ある夜の宴会で、食客のひとりの席は灯火が暗くてよく見えなかった。その食客は他の食客と食事が違うと言って怒りだし、席を立とうとした。孟嘗君は立ち上がり、自分の卓を持って比べてみせた。その食客は自分の勘違いを恥じて自害した。</p>

<p>このようなこともあって、孟嘗君のもとにさまざまな人材が集まることとなったのである。孟嘗君はえり好みをせず、誰でも手厚くもてなしたので、誰もが自分だけ特別扱いされている気になっていた。</p>

<p>秦の昭王は孟嘗君の評判を聞き、自分のもとで使いたいと考え、自分の弟を人質として斉へ送ってきた。孟嘗君は蘇代（そだい）の進言に従い、一度は行くのをやめにしたが、斉の湣（びん）王の25年、ついに拒みがたくなり、秦に赴いた。</p>

<p>昭王は孟嘗君を宰相にするつもりでいたが、ある者がこう諫言した。</p>

<p>「孟嘗君はたしかに賢者でありますが、同時に斉の公子でもあります。もし秦の宰相になっても、斉のためを第一に考え、秦の利益はあとまわしにするでしょう。秦にとっては危険な存在ですぞ」</p>

<p>昭王はそれをもっともと考え、孟嘗君を軟禁状態に置き、いずれは殺すつもりでいた。</p>

<p>孟嘗君は昭王が寵愛する夫人のもとへ人をやり、とりなしを願った。すると夫人は言った。</p>

<p>「あなたがお持ちの狐の白い毛皮の外套をくれれば考えてもようございます」</p>

<p>その外套は天下に二つとない逸品で、孟嘗君はそれを持参してきたが、すでに昭王に献上してしまったあとだった。孟嘗君が食客たちと頭を並べながら困り果てていると、末席にいた盗みを得意とする者が名乗りをあげた。</p>

<p>「わたしなら、その外套を盗んでこられます」</p>

<p>果たして、その男は犬のまねをして宮中の倉庫にしのびこみ、まんまと件の外套を盗み出してきた。孟嘗君がこれを夫人に贈ったところ、夫人は約束どおり昭王にとりなしてくれた。おかげで孟嘗君は自由の身となった。</p>

<p>解放されるやいなや、孟嘗君は急いで秦の都をあとにした。夜半になって、函谷関（かんこくかん）に着いた。そこは秦の東の端である。関所の門は鶏が鳴くと同時に開かれ、日没とともに閉ざされる決まりとなっていた。</p>

<p>ところで、少したって、昭王は孟嘗君を解放したことを後悔しだした。使いをやって調べさせたところ、すでに出立したことがわかった。そこで昭王は早馬を出してあとを追わせた。</p>

<p>孟嘗君もそれを予想しないわけではなかったが、いかんせん関所が開かないことには先へ進めない。孟嘗君が焦燥の念に駆られていたとき、食客の末席にいた、鶏の鳴き真似の上手な者が名乗り出て、鳴き真似をやってみせた。するとたちまち、近くにいた鶏がいっせいに鳴き出した。こうして孟嘗君一行は、追っ手がくるより一足早く、秦の領外へ逃れることができたのだった。</p>

<p>そもそも、孟嘗君が盗みの得意な者と鶏の鳴き真似のうまい者を食客に抱えたとき、他の食客たちは不平を言った。あんな者といっしょにされるのは恥だと思ったからである。しかし、右の出来事があってからは、誰もが孟嘗君の眼力に感服したのだった。</p>

<p>帰国の途中、一行は趙の国に立ち寄った。趙の平原君は一行を歓待したが、趙の人のなかには不謹慎にも、「薛の殿様はりっぱなお姿かと思いきや、よく見たら、何のことはない、ちっぽけな男じゃないか」と嘲笑う者もいた。これを聞いた孟嘗君は腹を立てた。</p>

<p>食客のなかで腕に覚えのある者たちは孟嘗君の意を察して、手あたりしだいに数百人を斬り殺し、一つの県の住民を皆殺しにしてしまった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p><img alt="いっきに読める史記" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250625shiki01.jpg" width="1200" />『いっきに読める史記』（PHP文庫）</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/Shiki.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 20 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[島崎晋（歴史作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>イギリス産業革命の引き金は「森の消滅」？島国ゆえに起きた奇跡の逆転劇  宇山卓栄（著作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14651</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014651</guid>
			<description><![CDATA[なぜ産業革命はイギリスで起きたのか。「島国」という安全保障と「森林枯渇」というエネルギー危機、そして「石炭と水運」という地理的条件が化学反応を起こした必然の歴史を解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ウエストミンスター宮殿" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/westminster.jpg" width="1200" /></p>

<p>世界史の教科書に書かれている「18世紀後半、イギリスで産業革命が始まった」という事実。しかし当時のイギリスはヨーロッパの端にある小さな島国に過ぎず、国力ではフランスが、科学技術では中国（清）のほうがはるかに上回っていました。<br />
なぜ、そのような国で人類の歴史を変える大変革が起きたのでしょうか。<br />
そこには「島国」という地理的条件、「森の消滅」という絶体絶命のピンチが絡み合う、偶然のパズルがありました。教科書の裏に隠された、壮大なイノベーションの謎に迫ります。</p>

<p>※本稿は、宇山卓栄著『「地理で考える」は武器になる』（秀和システム新社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>地理的なピンチとチャンス</h2>

<p>世界史の教科書には、18世紀後半にイギリスで産業革命が始まったと書かれています。ジェームズ・ワットが蒸気機関を改良し、紡績機が発明され、工場制機械工業が誕生した&hellip;。私たちはこれを当たり前の事実として暗記していますが、地理的な視点を持つと、そこには巨大な「謎」が浮かび上がります。</p>

<p>なぜ、イギリスだったのでしょうか？</p>

<p>当時のイギリスは、ヨーロッパの端にある小さな島国に過ぎませんでした。国力や人口規模で見れば、ライバルのフランスの方が圧倒的に上でした。科学技術の水準で見れば、中国（清）の方がはるかに進んでいました。それにもかかわらず、人類の生活を一変させるイノベーションは、ロンドンを中心とするこの島国で爆発しました。</p>

<p>その理由は「イギリス人が天才だったから」ではありません。</p>

<p>イギリスという土地が、「産業革命を起こさなければ生きていけない」という地理的な追い込み（ピンチ）と、それを実現できる資源という地理的なチャンスの両方を、同時に持っていたからです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【１】「島国」という最強の防壁</h2>

<p>第一の要因は、イギリスがドーバー海峡によって大陸から切り離された「島国」であったことです。</p>

<p>当時、ヨーロッパ大陸は大国同士が領土を奪い合う戦争に明け暮れていました。フランスもドイツ（プロイセン）も、国境を接する隣国からの侵略に備えるため、莫大な予算と人的リソースを陸軍に費やす必要がありました。</p>

<p>しかし、海に守られたイギリスは、本土侵略のリスクが極めて低かった。そのため、軍事費を陸軍ではなく「海軍」と「通商」に集中させることができました。</p>

<p>さらに重要だったのは、国内の政治的安定です。大陸諸国が戦火に焼かれる中で、イギリス国内では資産が破壊されるリスクが低く、人々は安心して長期的な投資を行うことができました。工場を建て、高価な機械を導入するというリスクの高い行動は、「明日もこの工場が破壊されずにここにある」という地理的な安全保障があって初めて可能になるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【２】「木材不足」というエネルギー危機</h2>

<p>しかし、平和な島国であることだけでは革命は起きません。イノベーションには、強烈な「必要性」が条件です。イギリスを産業革命へと突き動かした真の犯人は、実は「森の消滅」でした。寒冷なイギリスでは、暖房や料理、そして建材や造船のために大量の木材を消費しました。その結果、17世紀頃には国内の森林がほとんど切り尽くされ、深刻なエネルギー危機に陥ってしまったのです。</p>

<p>「木がないなら、燃える石を使うしかない」追い詰められたイギリス人が手を伸ばしたのが、地下に豊富に埋まっていた「石炭」でした。この「木材から石炭へ」というエネルギー転換こそが、運命の分かれ道でした。木材（森林）は、再生するのに数十年かかります。つまり、エネルギーの供給量に「土地の広さ」という限界があります。</p>

<p>一方、石炭は地下に数億年分が眠っています。掘り出しさえすれば、土地の広さに関係なく、莫大なエネルギーを取り出すことができます。イギリスは、化石燃料という「封印された太陽エネルギー」の蓋を、世界で最初に開けざるを得ない状況に追い込まれた国だったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【３】蒸気機関は「炭鉱」から生まれた</h2>

<p>ここで、地理的な条件がパズルのように噛み合います。石炭を掘るために深く穴を掘ると、必ず地下水が染み出してきます。この水を汲み出さなければ、採掘は続けられません。当初は馬を使ってポンプを動かしていましたが、もっと効率的な方法が必要でした。そこで発明されたのが、石炭を燃やして動かすポンプ、すなわち「蒸気機関」です。</p>

<p>つまり、蒸気機関は、最初から織機を動かしたり列車を走らせたりするために発明されたのではありません。「炭鉱の地下水処理」という、極めて局地的な現場のニーズに応えるために生まれたのです。もしイギリスに豊富な石炭がなく、炭鉱開発の必要がなければ、ワットが蒸気機関を改良する動機も生まれず、産業革命は数百年遅れていたかもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>なぜ中国では起きなかったのか？</h2>

<p>比較としてよく挙げられるのが中国です。当時の中国にも石炭はありましたし、高度な技術もありました。しかし、産業革命は起きませんでした。</p>

<p>その理由の一つは、地理的な「距離」です。</p>

<p>中国の石炭産地（北部）は、経済の中心地である長江デルタ（南部）から遠く離れていました。重い石炭を陸路で運ぶコストが高すぎたため、産業エネルギーとしての利用が進まなかったのです。</p>

<p>対してイギリスは、小さな島国であり、かつ多くの炭鉱が海や川の近くにありました。掘り出した石炭をすぐに船に載せ、安価な水運でロンドンや工場地帯へ運ぶことができた。</p>

<p>この「資源地と消費地の地理的近接性」と「水運アクセス」という幸運な条件が揃っていたからこそ、石炭を中心とした産業生態系が一気に花開いたのです。</p>

<p>「島国という守り」と「森林枯渇というピンチ」、そして「石炭と水運という恵み」。産業革命とは、一人の天才のひらめきではなく、イギリスという土地に刻まれたこれらの地理的条件が化学反応を起こした結果だったのです。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/westminster.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 16 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄（著作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「始皇帝は非常にわがまま」と言われ激怒　学者460人を穴埋めにした天下の見せしめ  島崎晋（歴史作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12551</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012551</guid>
			<description><![CDATA[『史記』によると、項羽は始皇帝を目の当たりにしたことがあったという。その時に発した言葉とは? 歴史作家の島崎晋氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="始皇帝陵" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_shikotei.jpg" width="1200" />始皇帝陵</p>

<p>大ヒット漫画『キングダム』を読み、秦王政、のちの始皇帝に興味を抱いたという方も多いだろう。彼の時代を知るための貴重な史料が『史記』だ。その中には、始皇帝が即位後に断行した政策についても詳細に記されている。</p>

<p>本稿では歴史作家・島崎晋氏が、全130巻に及ぶ超大作『史記』原典のおもしろさを損なうことなく一冊にまとめた書籍『いっきに読める史記』より、始皇帝の政策「焚書坑儒（ふんしょこうじゅ）」が行われた背景についてご紹介する。</p>

<p>※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』（PHP文庫）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>始皇帝、刺客と盗賊に襲われる</h2>

<p>27年、始皇帝は隴西（ろうせい）・北地を巡遊した。</p>

<p>28年、始皇帝は東方を巡遊し、泰山（たいざん）と梁父山（りょうほざん）で封禅（ほうぜん）の儀式をおこなった。ついで琅邪台（ろうやだい）に頌徳碑（しょうとくひ）を建てた。すると斉人の徐市（じょふつ）という者が参上して、つぎのような進言をおこなった。</p>

<p>「海の沖合に蓬萊（ほうらい）・方丈（ほうじょう）・瀛州（えいしゅう）という3つの神山があり、仙人が住んでおります。斎戒（さいかい）して童男童女を連れ、仙人を探したいと思います」</p>

<p>そこで始皇帝は、童男童女数千人を徐市に与え、仙人探しに行かせた。</p>

<p>始皇帝は彭城（ほうじょう）を通過したとき、斎戒して祈り、周の鼎（かなえ）を泗水（しすい）から引き上げようと、千人もの者を潜らせたが、見つけることができなかった。それから始皇帝は、南郡から武関（ぶかん）を通って咸陽（かんよう）に帰った。</p>

<p>29年、始皇帝は東方を巡遊したが、陽武（ようぶ）の博浪沙（はくろうさ）というところで、刺客に襲われた。この事件の主犯は張良（ちょうりょう）という男だった。</p>

<p>張良は韓の人で、祖父も父も韓の国で要職にあった。韓が秦に滅ぼされたとき、張良はまだ幼少で、官職についていなかった。家には300人もの奴僕（ぬぼく）がいた。張良は弟が死んでも埋葬もせず、家財すべてを投げ売り、その資金をもとに刺客を探し、秦王を殺して、韓の国の復讐をしようと考えた。</p>

<p>張良は淮陽（わいよう）に行って礼を学んだことがあった。東に出かけ倉海君（そうかいくん）に会い、そのつてで力自慢の士を手にいれた。また彼の武器として、重さ120斤の鉄槌をつくらせた。</p>

<p>始皇帝が東方巡遊にきたとき、いよいよ暗殺を実行することにした。襲撃地点は博浪沙。鉄槌をぶつけて、車ごと破壊する計画だった。しかし、鉄槌があたったのは、始皇帝が乗ったのとは別の車だった。</p>

<p>始皇帝は激怒し、10日間にわたり付近を大捜索させたが、ついに張良を捕らえることはできなかった。その後、始皇帝は、之罘山（しふざん）、琅邪を経由して、上党（じょうとう）から都に帰った。</p>

<p>30年のある夜、始皇帝はお忍びで、武士四人を伴い、咸陽の市街を歩いた。蘭池のほとりで盗賊に襲われたが、武士たちが奮戦して、始皇帝に怪我はなかった。それから20日間、関中で大捜索がおこなわれた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>李斯による焚書のすすめ</h2>

<p>32年、始皇帝は碣石山（けっせきさん）に出かけ、燕人の盧生（ろせい）に仙人の羨門高（せんもんこう）を探させた。ついで韓終（かんしゅう）、侯公（こうこう）、石生（せきせい）らに命じて、仙人の不死の薬を探させた。</p>

<p>始皇帝は北辺をめぐり、上郡から都に帰った。そこへ盧生が、鬼神のお告げという、予言の書を手土産にやってきた。そこには、「秦を滅ぼす者は胡なり」と記されていた。そこで始皇帝は、将軍の蒙恬に命じ三十万の兵を率いて、北方の胡（東胡（とうこ）・林胡（りんこ）・楼煩（ろうはん））を討伐させた。</p>

<p>33年に、南方に桂林（けいりん）・象郡（しょうぐん）・南海（なんかい）の三郡を置いた。また西北方の匈奴（きょうど）を駆逐した。楡中（ゆちゅう）から黄河以東の地を陰山（いんざん）とし、そこに四十四県を置き、黄河のほとりに砦を築いた。</p>

<p>34年、斉出身の博士、淳于越（じゅんうえつ）が封建制を採用するよう進言した。これに対し丞相の李斯は次のように言って反対した。</p>

<p>「前代には、諸侯が並立して争い、遊説（ゆうぜい）の学者たちを優遇して招き寄せました。いまでは天下はすでに定まり、法令も皇帝お一人から出ております。黔首（けんしゅ／人民）は家にいて農工につとめ、士人は官職について法令を学ぶだけでよいのです。</p>

<p>ところが、いま学者たちは法令を手本とせず、古代の典籍を学んで当世を非難し、黔首を惑わせ混乱に陥らせております。彼らは法令がしかれたと聞くと、めいめい自分の学識にもとづいてこれを議論しております。宮廷に入っては公然と口外せずに心中で非難し、宮廷を出ると市中で議論し、多くの門下生を従えて誹謗ばかりしております。</p>

<p>そこで、わたくしはつぎのような処置をとるようお願いしたいのであります。史官の手になる秦の歴史記録以外はみな焼いてしまい、博士官が職務上保管しているもの以外で、この世に『詩経』『書経』および諸子百家の語録などの書物を所蔵している者があれば、みな郡の守（しゅ）・尉（い）のもとに出頭して差し出させ、あわせて焼いてしまうこと。</p>

<p>『詩経』『書経』のことを論じあう者がいれば、棄市（きし）の刑［殺したあと、死体を市場にさらす刑］に処すること。古代を基準にいまを非難する者には、一族皆殺しの族刑に処すること。命令が出て30日以内に焼かない者は、入れ墨をし徒刑囚（とけいしゅう）とすること。残してよいものは、医薬・卜筮（ぼくぜい）・農業の書物だけにすること。もし法令を学びたい者がいれば、官吏を師とすること。以上であります」</p>

<p>始皇帝はこの李斯の意見を裁可した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>天下の見せしめ</h2>

<p>35年、始皇帝は道路を整備させ、九原（きゅうげん）から雲陽（うんよう）に至る道を開通させた。このとき始皇帝は思った。</p>

<p>「咸陽（かんよう）は人が多いのに、宮廷が小さい。周の文王は豊（ほう）に、武王は鎬（こう）に都した。豊と鎬のあいだこそ、帝王の都にふさわしいのではないか」</p>

<p>そこで朝宮を渭水（いすい）の南の上林苑（じょうりんえん）に営むことにした。こうしてまず前殿の工事がはじめられたが、それは東西500歩［秦代の一歩は1.35&nbsp;メートル］、南北50丈、二階建てで、上には一万人が座れるという広大なものだった。完成してから名前がつけられることになっていたが、世人は土地の名から、それを阿房宮（あぼうきゅう）と呼んだ。</p>

<p>ときに宮刑や徒刑の囚人が70万あったが、彼らは分けて、阿房宮と驪山（りざん）の陵墓づくりにあたらせられた。</p>

<p>盧生（ろせい）はいまだ仙人を見つけられずにいた。その理由を盧生はつぎのように説明した。これは悪気が邪魔をしているからにちがいない。悪気を取り去るには、君主の居場所を人に知られないようにする必要があると。それからというもの、始皇帝は自分の居場所を臣下に知られないようつとめた。</p>

<p>あるとき、始皇帝は高みから李斯の行列を見て、お供の車や馬が多いのに不快感をあらわにした。宦官のなかに、これを李斯に告げる者があったので、李斯はお供の数を減らすようになった。</p>

<p>すると始皇帝は、「これは宦官のなかにわしの言葉を漏らす者があるからだ」と怒って調べさせたが、誰も白状する者がなかった。そこで始皇帝は、当時かたわらにいた宦官全員を捕らえ、皆殺しにした。</p>

<p>このような状況をみて、侯生（こうせい）と盧生はひそかに語りあった。</p>

<p>「始皇帝の人となりは、天性傲慢無情で、非常にわがままだ。諸侯から身を興して天下をあわせ、意を得てほしいままにし、歴史上、自分よりすぐれた者はいないと自惚れている。だから獄吏（ごくり）が信任を得ているんだ。</p>

<p>博士は七十人もいるが、数がいるだけで、特別何も任されていない。丞相や諸大臣もみな皇帝の決裁した命令を奉じて実行するのみで、上に意見をすることはない。主上は刑殺をもって民を脅すのを楽しみとし、天下の者は罪を恐れ、禄を惜しんで、あえて忠を尽くす者はいない。このため主上はみずからの過ちを知ることなく日々驕り、臣下は恐れてひれ伏し、ただ自分が罰せられないことだけを願っている。</p>

<p>秦の法では、方士（ほうし）［方術をおこなう者のこと］は霊験［不思議で測り知れない力のあらわれ］がないとわかれば即座に殺される。しかも天の星の気をみる者は300人もいるというのに、みなりっぱな士でありながら、怒りを買うのを恐れるあまりへつらうばかりで、誰もその過ちを直言する者がいない」</p>

<p>二人は示し合わせて、逃げだしてしまった。</p>

<p>それを知るや、始皇帝は激怒した。怒りの矛先は咸陽にいる学者たちに向けられた。始皇帝は、「妖言（ようげん）をもって黔首（けんしゅ）[人民]を惑わしている者がいる」として、学者たちを厳しく取り調べさせた。</p>

<p>彼らは互いに罪のなすりあいをするばかりだったので、始皇帝は禁令を犯した者460余人をみな穴埋めにし、天下への見せしめとした。これより法の適用が厳しくなり、辺境に流される者が急増した。</p>

<p>始皇帝の長子の扶蘇（ふそ）が諫言をした。</p>

<p>「天下は平定されたばかりで、遠方の黔首はまだ帰服せず、学者はみな孔子の教えを奉じています。いま主上は法を重んじて彼らを罰せられておりますが、わたくしは、これでは天下が乱れるのではないかと思います。どうかご明察をお願いいたします」</p>

<p>始皇帝は怒って、扶蘇を北方上の上郡にやり、蒙恬（もうてん）に監督をさせた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p><img alt="いっきに読める史記" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250625shiki01.jpg" width="1200" />『いっきに読める史記』（PHP文庫）</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_shikotei.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 15 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[島崎晋（歴史作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【小栗旬インタビュー】『豊臣兄弟！』本能寺の変で実感した「信長の弱さ」  小栗旬（俳優）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14599</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014599</guid>
			<description><![CDATA[大河ドラマ『豊臣兄弟！』で本能寺の変を迎えた織田信長役・小栗旬さんのインタビュー。数々の裏切りを経験した信長が死の間際に抱いた後悔、豊臣兄弟への特別な感情、そして彼が辿り着いた「信長の終着点」に迫る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="大河ドラマ『豊臣兄弟！』で織田信長を演じる小栗旬さん（写真提供：NHK）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260630OguriShun01.jpg" width="1200" />写真提供：NHK、以下同</p>

<p>大河ドラマ『豊臣兄弟！』(NHK総合 毎週日曜 夜8:00～ほか)で、ついに本能寺の変が描かれた。織田信長役として、小一郎（のちの豊臣秀長）・秀吉とともに物語を牽引してきた小栗旬さんは、この歴史の一大転換点をどのように捉えたのか。お話をうかがうと、信長に扮した者にしかわからない、信長像とその最期の胸中が浮かび上がってきた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「GOD」からひも解いた信長像</h2>

<p><img alt="大河ドラマ『豊臣兄弟！』で織田信長を演じる小栗旬さん（左）と荒木村重役のトータス松本さん（右）（写真提供：NHK）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260630OguriShun02.jpg" width="1200" /></p>

<p>――小栗さんは、織田信長をどう捉え、どのように演じられてきたのでしょうか？</p>

<p>&ldquo;悲運の破壊神&rdquo;だと思います。永禄3年（1560）以前、まだ&ldquo;うつけ&rdquo;と呼ばれていたころの信長は、単に戦で天下を取ろうとしていたのではなく、商業や流通を活性化させ、経済的に豊かな世の中をつくりたいと考えていたのではないでしょうか。</p>

<p>しかしそのビジョンは、当時の人々にはなかなか理解されなかった。そうしたなかで、信長は次第に「今の世の中を壊さなければ変えられない」という考えに至ったのだと感じています。</p>

<p>ただ、破壊神ならではの魅力もあるんですよね。以前、秀吉役の池松（壮亮）くんと信長像についての話をしていたときに、彼がおもしろいことを言っていたんです。「GOD（ゴッド）って、Generator（創造者）、Operator（経営者）、Destroyer（破壊者）だという説がある」と。新しい時代を創り出した秀吉、そしてそれを安定させた家康、という話をしてくれました。</p>

<p>そのときに「実は、破壊者が一番人気なんですよね」とも言われて、すごく腑に落ちたんですよね。人は、自分にはできないことをやっている存在に魅力を感じる部分があるからこそ、昔から破壊者は人々を惹きつけてきたのではないでしょうか。</p>

<p>そういう意味では、今回僕がつくりあげた信長像は単なる英雄や暴君ではなく、破壊神の面も表現できたんじゃないかなと思っています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>光秀ではなく、秀吉が討ちに来たのなら...</h2>

<p><img alt="大河ドラマ『豊臣兄弟！』で織田信長を演じる小栗旬さん（左）と豊臣秀長役の仲野太賀さん（中央）、豊臣秀吉役の池松壮亮さん（右）（写真提供：NHK）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260630OguriShun03.jpg" width="1200" /></p>

<p>――信長にとって、豊臣兄弟とはどのような存在だったのでしょうか？</p>

<p>「自分の決断が狂わないための、最後の指針のような存在」だったのだと思います。<br />
秀吉は、どれだけ厳しい状況になっても、「人々を喜ばせたい」「明るい未来をつくりたい」という思いを失わない人物でした。</p>

<p>そして小一郎（秀長／仲野太賀）は、信長にとって秀吉以上に頼ることのできる存在だった。そんな兄弟が互いを思い合い、支え合う姿を見るたびに、信長は自分にはつくれなかった世界を見せつけられていた気がします。それは羨ましさでもあり、家督継承を巡って争った弟・信勝（中沢元紀）にまつわる心の傷をえぐられるような感覚でもあったと思います。</p>

<p>だからこそ、信長は豊臣兄弟に特別な感情を抱いていたのではないでしょうか。第26回で秀吉から「殿と一緒に新しい世の中をつくりたい」と言われたとき、これだけ無理難題を押し付けてきたのに、まだ同じ理想を見てくれている人間がいる、と感じたはずです。</p>

<p>その瞬間、「この男になら未来を任せられるかもしれない」と思えたんじゃないでしょうか。だからこの物語の信長は、本能寺の変において、もし自分を討ちに来たのが光秀ではなく秀吉だったなら、喜んで最期を迎えたんじゃないかと思います。</p>

<p>――実際に本能寺の変を起こすのは光秀なわけですが、その信長の胸中はどんなものだったのでしょうか？</p>

<p>「なんて、俺は弱い人間だったんだろう」と感じていたと思います。信長の最期を考えるうえで大きかったのは、それまでの人生で経験してきた数々の裏切りです。</p>

<p>先述した信勝との家督争いに始まり、一度は信じ合える関係を築けるかもしれないと思った浅井長政（中島歩）の離反、さらに松永久秀（竹中直人）や荒木村重（トータス松本）の謀反など、信長は何度も人に裏切られてきました。</p>

<p>ただ、今回演じた信長は、一般的にイメージされるような冷酷な人物というより、相手に言い分があり、交渉の余地があれば許そうとしていた人間だったと感じています。実際に松永のことも二度許していますし、長政についても彼なりの事情は理解していたはずです。</p>

<p>そんな人生のなかで、秀吉だけは決して自分を裏切らない存在に見えていたことでしょう。もしかしたら信長は、「こいつと本当の兄弟になれていたら、自分の人生も違ったものになっていたんじゃないか」と感じた瞬間があったのかもしれません。</p>

<p>兄弟というテーマが物語全体を貫いているからこそ、信長が死を覚悟した瞬間、自分が築けなかった兄弟の絆や、清算できなかった過去が次々と頭をよぎったのだと思います。</p>

<p>自分のなかに残り続けていた傷や後悔が、まるで亡霊のように目の前に現われてきた。そうしたものと向き合った時に、信長は初めて「なんて、俺は弱い人間だったんだろう」と感じたのだと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>本能寺の変を演じてみて</h2>

<p><img alt="大河ドラマ『豊臣兄弟！』で織田信長を演じる小栗旬さん（写真提供：NHK）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260630OguriShun04.jpg" width="1200" /></p>

<p>――ついに信長の最期・本能寺の変を迎えました。感想を聞かせてください。</p>

<p>ロケでの撮影だったので、本物の火に囲まれた映像には迫力があったと思います。スタジオでは出せない空気感や緊張感を表現できたのではないでしょうか。</p>

<p>それから今回の本能寺では、「なぜ信長は逃げなかったのか」ということをずっと考えていました。</p>

<p>様々な本を読んだ限りでは、信長は逃げると決めたら非常に判断が早い人物だったそうです。だからこそ、本能寺でなぜ逃げなかったのか、ずっと気になっていました。</p>

<p>そこで自分なりにたどり着いた答えが、「もう疲れてしまっていたんじゃないか」というものでした。</p>

<p>天下統一に向かって走り続け、多くの敵や恨みを抱えながら生きてきた信長にとって、逃げ続けた先に何があるのか、その終着点が見えてしまったのではないかと思うんです。</p>

<p>引退して穏やかに暮らそうとしても、いつ命を狙われるかわからない。そう考えた時に、「もう十分走り切った」という感覚があったのではないでしょうか。</p>

<p>だから僕自身は、最後まで勇ましく戦う信長ではなく、一度は逃げようとしながらも、それすら諦めてしまうような信長を演じたいと思っていました。もちろん作品としての形はありますが、今回の本能寺では、英雄としての最期というより、一人の人間として人生の終着点にたどり着いた信長を描けた気がしています。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260630OguriShun01.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 13 Jul 2026 07:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[小栗旬（俳優）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ蒙恬は投獄された？ 始皇帝の死後、宦官の趙高がたくらんだ「とんでもない陰謀」  島崎晋（歴史作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12550</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012550</guid>
			<description><![CDATA[『史記』によると、項羽は始皇帝を目の当たりにしたことがあったという。その時に発した言葉とは? 歴史作家の島崎晋氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="兵馬俑" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_heimayo.jpg" width="1200" /><br />
兵馬俑。始皇帝陵の陪葬坑</p>

<p>大ヒット漫画『キングダム』を読み、秦王政、のちの始皇帝に興味を抱いたという方も多いだろう。彼の時代を知るための貴重な歴史書が『史記』だ。この『史記』をひもとくと、始皇帝の死後には&quot;とんでもない陰謀&quot;が繰り広げられていたことがわかる。</p>

<p>本稿では歴史作家・島崎晋氏が、全130巻に及ぶ超大作『史記』原典のおもしろさを損なうことなく一冊にまとめた書籍『いっきに読める史記』より、始皇帝の死後に一体何が起きたのか、その真相をご紹介する。</p>

<p>※本稿は、島崎晋著『いっきに読める史記』（PHP文庫）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>始皇帝、死す</h2>

<p>36年、隕石が東郡に落ちた。黔首（けんしゅ）[人民]のなかに、その石に、「始皇帝が死んで地が分かれる」と刻んだ者がいた。始皇帝は御史［天子の書記官］をやって調べさせたが、誰も白状する者がいない。そこで近在に住んでいる者を皆殺しにし、石は焼いて溶かしてしまった。</p>

<p>同年秋、関東から都へ向かう使者が、夜、華陰（かいん）の平舒（へいじょ）道にさしかかったところ、璧（玉）を持った男に呼び止められた。男は、「わしに代わって璧を滈池（こうち）の水神に送ってほしい」と言い、さらに、「来年、祖龍が死ぬだろう」と言い足した。使者が理由を尋ねようとしたときには、璧だけを残して、男はもう消えていた。</p>

<p>使者が璧を献上して事の次第を報告すると、始皇帝はしばらく黙然としていたが、ややあって、「山鬼はその年のことがわかるだけ」と口にした。使者が退席すると、始皇帝は、「祖龍とは先祖のことであろう」とつぶやいた。御府（ぎょふ）［天子の宝物庫の管理官］に璧を調べさせたところ、8年前の巡遊中、長江を渡るときに沈めたものであるとわかった。</p>

<p>37年10月、始皇帝はまた巡遊にでた。左丞相（さじょうしょう）の李斯（りし）がお供をした。始皇帝から特にかわいがられていた末子の胡亥（こがい）もお供を願って許された。</p>

<p>11月、始皇帝は九疑山（きゅうぎさん）で虞舜（ぐしゅん）の祀りをおこなったのち、長江を渡り、会稽山（かいけいざん）に行った。そこに秦の徳を称える碑を建てたのち、北上して琅邪（ろうや）に行った。</p>

<p>ときに方士（ほうし）の徐市（じょふつ）は、海上に神薬を求めて数年になるが、経費がかさむばかりで、成果をあげられないでいた。それで罰せられるのを恐れて、適当なことを言ってごまかした。</p>

<p>「蓬萊に行けば神薬は得られるはずなのですが、いつも大鮫（おおざめ）に邪魔されて、島へ行くことができません。上手な射手をつけていただければ、なんとかなると思うのですが」</p>

<p>始皇帝は、自分が海神と戦う夢をみたばかりであったことから、この話を真に受けた。そこで徐市の言うとおりに、射手を手配してやった。</p>

<p>その後、始皇帝は平原津（へいげんしん）というところで病気になった。症状は重く、もはや助かる見込みがないと悟るや、始皇帝は長子の扶蘇（ふそ）あての璽書（じしょ）をつくった。それには「棺を咸陽に迎えて葬式を主宰せよ」と記されていた。詔書（しょうしょ）は封をされ、宦官の趙高（ちょうこう）に渡された。</p>

<p>7月丙寅（へいいん）の日、始皇帝は沙丘（さきゅう）の平台（へいだい）で死去した。</p>

<p>趙高は始皇帝から信任され、玉璽（ぎょくじ）の管理を任されていた。しかし、彼は野心の強い人物だった。扶蘇あての璽書がまだ手元にあるのをいいことに、胡亥・李斯と語らい、とんでもない陰謀をめぐらした。</p>

<p>始皇帝の死を秘密にしたまま詔書を偽造し、扶蘇を自害させ、胡亥に後を継がせるという策である。李斯ははじめ反対したが、趙高から、扶蘇が後を継げば蒙恬（もうてん）が重用され、李斯は下風に立たされる、それでもよいのかと言われると心が揺らぎ、結局、趙高の共犯者になることになった。</p>

<p>陰謀は計画どおりにすすんだ。扶蘇の後見役で、『キングダム』でも準主役扱いの蒙恬も投獄のうえ、あっけない最期を遂げた。趙高らは咸陽に帰りついてはじめて喪を発表した。胡亥が後を継いで、二世皇帝となった。</p>

<p>9月、始皇帝を驪山（りざん）に葬った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>阿房宮の造営</h2>

<p>始皇帝は秦王に即位した当初から陵墓の造営をはじめていた。天下統一後は、徒罪の者70余万人を動員して、工事を加速させた。地下三層の水脈まで掘り下げ、銅をもって下をふさぎ、そこに外棺を入れた。墓の中の宮殿には百官（ひゃっかん）の座席をつくり、珍奇な物を宮中から運んで満たし、工匠に機弩矢をつくらせ、盗掘して近づく者があれば、ひとりでに発射する仕掛けになっていた。</p>

<p>また水銀で百川・江河・大海をつくり、機械で水銀の水を注ぎ送った。上は天文をそなえ、下は地理をそなえ、人魚の油をもって灯とし、長く消えないようにした。二世皇帝は、「先帝の後宮で、子供のない者を宮殿から出すのはよくない」と言って、全員殉死させた。</p>

<p>棺を埋めると、「工匠は内部の秘密を知りすぎています」と意見するものがあったので、封印をする際、全員を生き埋めにした。陵墓の上には草木を植えて、山のように見せかけた。</p>

<p>二世皇帝の元年、皇帝は21歳だった。趙高を郎中令（ろうちゅうれい）［宮中のいっさいを管理する官］として政務をまかせた。</p>

<p>二世皇帝はひそかに趙高に相談をした。</p>

<p>「大臣はわしに心服せず、官吏はなお力をもち、諸公子の動向も心配だ。何か対策はないものか」</p>

<p>すると趙高は、法の適用を厳しくするよう進言した。二世皇帝はなるほどと思い、大臣や諸公子、蒙毅（もうき／蒙恬の弟）をはじめ、少しでも不穏な素振りをみせた者をつぎつぎと処刑していった。</p>

<p>4月、二世皇帝は阿房宮（あぼうきゅう）の工事を本格化させた。これにあたらせるため、全国から労働者が徴発された。また防衛のために5万人の精鋭部隊が組織され、彼らや彼らが使う馬のための食糧を、郡県に命じて徴発させた。それを運ぶ際の食糧も自弁とした。</p>

<p>さらに咸陽から300里以内の農民は、自分のつくった穀物を食べることを禁じられるなど、法の適用は厳しくなるばかりだった。</p>

<p>7月、陳勝・呉広の乱がおきた。</p>

<p>同年、李斯が失脚して投獄された。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p><img alt="いっきに読める史記" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250625shiki01.jpg" width="1200" />『いっきに読める史記』（PHP文庫）</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_heimayo.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 10 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[島崎晋（歴史作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉・光秀決戦の地・大山崎で加賀正太郎が没入した幻の蘭栽培  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14638</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014638</guid>
			<description><![CDATA[羽柴秀吉と明智光秀が激突した天下分け目の地、京都・大山崎。この地に魅了された実業家・加賀正太郎は、自ら山荘を築き蘭の栽培に没頭します。彼が追い求めた、美しき蘭の世界とその生涯に迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="三川合流点の上流側から大山崎方面を望む" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260706SuisinOoyamazaki1.jpg" width="1200" />写真：三川合流点の上流側から大山崎方面を望む。中央を流れるのが宇治川、左手は木津川、右手の山が天王山</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる三川合流点の右岸、流れの近くまで天王山が迫る。京都府と大阪府の境界の地でもあり、現在は京都府大山崎町側を大山崎、大阪府側を山崎と呼ぶ。近畿の要衝と知られ、特に羽柴（豊臣）秀吉と明智光秀との天下分け目の決戦「山崎の戦い」の場となったことはあまりに名高く、「天王山」は決戦・山場の代名詞となっている。</p>

<p>一方で、天王山の麓や山腹は三川を望む、風光明媚（めいび）な郊外でもある。近代においては資産家が邸宅や別荘を構え、その一人が、明治末期から昭和の戦後まで関西財界で活躍した、加賀正太郎（しょうたろう）であった。</p>

<p>天王山の中腹に「大山崎山荘」を築いた彼が、ここで熱中したのが、蘭（らん）の栽培であり、その成果を記録した画集『蘭花譜（らんかふ）』の制作である。その画集の絵をあしらった絵ハガキを販売する大山崎町歴史資料館を訪ねて、加賀正太郎の人となり、『蘭花譜』に託した思いを探った。</p>

<p>【兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【（編者）歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>京都と西国を結ぶ街道の拠点にして、淀川の重要港</h2>

<p><img alt="天王山にある宝積寺の三重塔" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260706SuisinOoyamazaki2.jpg" width="1200" />写真：天王山にある宝積寺（ほうしゃくじ）の三重塔。宝積寺は「山崎の戦い」で秀吉が本陣を置いたところといい、この塔は戦いののちに秀吉が一夜で建てたという伝承がある。大山崎山荘は、この宝積寺の隣接地にあたる</p>

<p>三川と天王山の間、大山崎の狭地を、京都と西国をつなぐ、平安時代以来の西国街道が通る。また、淀川を船で行き交う人々が、発着地としたのが山崎の津であり、いわば京の外港として、中世に淀、近世に伏見の港が整備されるまで、格別に重要な地位を保っていた。</p>

<p>平安時代の初期に、嵯峨（さが）天皇がこの地に離宮を置き、また、清和天皇が八幡神をここに勧請し、これを対岸の男山（おとこやま）山上に移転したのが、石清水（いわしみず）八幡宮であるという。移転後も大山崎には離宮八幡宮が営まれ、中世には当社が荏胡麻（えごま）油の販売権を独占し、大山崎油座の商人たちが全国各地に雄飛して栄えた。</p>

<p>大山崎を格別に著名なものにしているのが、羽柴秀吉と明智光秀の軍勢が激突した「山崎の戦い」である。天王山の麓が主戦場となり、山上に陣取って指揮した秀吉が勝利を果たした。この決戦ののち、大坂城を築くまで、秀吉は天王山に居城を構えてもいる。</p>

<p>また、この時期に、秀吉に仕える千利休は、麓に草庵茶室を建てた。禅寺の妙喜庵に残るこの茶室は「待庵（たいあん）」と呼ばれ、利休の築造と確定できる唯一の茶室として国宝に指定されている。</p>

<p>幕末の「禁門の変」で、京都御所を襲った長州藩士たちは、まず大山崎に上陸して離宮八幡宮を拠点とした。敗退して天王山に立て籠もった真木和泉守保臣（いずみのかみやすおみ）らは、会津藩や新選組の攻撃を受けてここで自害。彼ら十七烈士の墓が山腹にある。</p>

<p>明治末期から大正・昭和初期、国内の産業革命は進展するが、一方、大阪などの都市の住環境は煤煙などで悪化する。この時期に発展した関西の鉄道会社は、沿線郊外の阪神間や大阪北部で住宅開発を進め、田園都市での文化的生活をしきりにアピールし、都市住民の移住を推奨した。</p>

<p>そうしたなかで、大山崎の地も京都・大阪に直通する、自然環境が豊かな良地として注目される。昭和3年（1928）には天王山山麓に、建築家の藤井厚二が自邸「聴竹居（ちょうちくきょ）」を建造。現在、木造モダニズム住宅の傑作として重要文化財に指定されている。そうした動向の先駆として、天王山の山腹に広大な敷地を得て邸宅を置いたのが、若き経済人、加賀正太郎であった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>若き国際派経済人の誕生とその軌跡</h2>

<p><img alt="英国風の外観の大山崎山荘本館" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260706SuisinOoyamazaki3.jpg" width="1200" />写真：英国風の外観の大山崎山荘本館。平成初期、山荘を取り壊し、マンションを建設する計画があったが、地域の人たちを中心とする運動を受けて保存がかなった。現在はアサヒグループ大山崎山荘美術館として運用され、今年、美術館として開館30周年を迎えた</p>

<p>加賀正太郎は、明治21年（1888）に大阪船場（せんば）に生まれた。実家は江戸時代から両替商などを営み、父の加賀市太郎（いちたろう）は株式仲買を手掛け、大阪屈指の資産家として知られた。しかし、正太郎が12歳の時にその父は没する。母のレイは一旦、事業を停止して、遺産の一部をもって現在の価値で百数十億円相当という国債を購入。これを日銀大阪支店に預け、正太郎の将来に備えた。</p>

<p>明治40年（1907）、正太郎は東京高等商業学校（高商・現在の一橋大学）に入学。翌年、20歳のときに、日本山岳会に入会している。少年時代から蝶（ちょう）が好きだった彼は、採集のために山に入るうちに、登山の魅力に目覚めたのだという。</p>

<p>明治43年（1910）、高商の卒業を待たずにヨーロッパに遊学。シベリア鉄道でロシアに入り、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、ドイツとたどってスイスに入り、ここでアルプス山脈のユングフラウに登頂。日本人初の業績として記録されている。その後、正太郎は、イタリア、フランス、オランダと旅し、最後にイギリスに渡る。訪欧の目的の一つであったロンドンでの日英博覧会の見学に加えて、キュー王立植物園を訪問。ここでの洋蘭との遭遇が、生涯の趣味となる蘭栽培へと正太郎を向かわせる端緒となる。</p>

<p>翌年、高商を卒業し、家業の証券業を再開。加賀商店（のちの加賀證券）を立ち上げる。その一方で、大山崎・天王山の土地を購入し、1年後には山荘の建設に着手。公害がひどかった大阪市内での生活で健康を害し、週末の安息所とするためであった。</p>

<p>大正3年（1914）、山荘に小さな温室を設けて蘭栽培を始める。当初は英国産および英国経由の輸入蘭を育てるが、未経験のうえ、蘭栽培は難度が高く、多くを枯れさせてしまった。</p>

<p>大正4年（1915）には、京都に滞在していた夏目漱石夫妻を建設中の山荘に招待。山荘の命名を漱石に依頼するが、結局は正太郎自身が「大山崎山荘」と名付ける。翌年、豊田千代子と結婚。</p>

<p>大正6年（1917）、第1期の大山崎山荘が完成。同年、当時はオランダ領であったインドネシア各地を巡り、登山のほか、蝶・蘭の調査を行なう。東洋最大規模のボゴール植物園を訪れ、蘭のコレクションに驚嘆する。</p>

<p>大正11年（1922）、第2期の山荘の設計を開始。永住の場とするための増築とゲストハウスの拡充を図り、建築・庭園をはじめ一木一石まで、正太郎が考案設計にあたった。10年後の昭和7年（1932）に竣工し、これが現在の大山崎山荘のもととなっている。また、同じ大正11年に、新宿御苑の栽培技師であった後藤兼吉を招聘（しょうへい）。山荘敷地で本格的な蘭栽培を開始した。</p>

<p>事業家としても正太郎は活躍の幅を広げ、大正12年（1923）には、大阪府内初となるゴルフ場、茨木カンツリー倶楽部設立に参画。理事を務めるだけでなく、ゴルフを日頃から愛好していた彼は、自身で設計も行ない、その思いのままの立案によって関係者と軋轢（あつれき）を生じさせながらも名コースを造り上げた。</p>

<p>昭和9年（1934）には、竹鶴政孝が立ち上げた大日本果汁株式会社（現在のニッカウヰスキー株式会社）創立にも参画。資本金の70パーセントを出資し、実質的なオーナーといえる立場となった。竹鶴夫人のリタが、妻の千代子の英語教師を務めるなど、竹鶴夫妻と加賀夫妻はかねてより交流があったという。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦時体制のなかで制作された『蘭花譜』。そこに込めた思いとは</h2>

<p><img alt="大山崎歴史資料館で販売している「蘭花譜 絵ハガキ」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260706SuisinOoyamazaki4.jpg" width="1200" />写真：大山崎歴史資料館で販売している「蘭花譜 絵ハガキ」。最初に制作した6枚組と、好評を受けて追加した別図版の8枚組がある</p>

<p>正太郎が述べたところによれば、大山崎山荘の蘭のコレクションは、世界的新種・優良種・奇種として残存するもの約360種、輸入交配種約650種、原種160種。鉢数は約1万に及んだという。そして、正太郎は、その長年にわたる栽培の成果から逸品を選んで、画集として記録し、配布することを思い立つ。これが『蘭花譜』である。</p>

<p>「加賀正太郎は多趣味の人でしたが、何をするにして自身の嗜好（しこう）を貫き、妥協を許さないところがありました。この『蘭花譜』において、もっともこだわったのは、日本の伝統技術である木版画で制作することでした」。今回の解説をお願いしたのは、大山崎町歴史資料館の館長で学芸員の福島克彦さん。昨年と今年はほかの企画とのかねあいで実施がなかったが、例年春季に当資料館で『蘭花譜』とそれに関係する企画展を開催してきた。</p>

<p>最終的に刊行された『蘭花譜』は、日本画を原画とした木版画84点、日本画4点・油彩画9点・写真7点をもとに印刷したもの計20点、あわせて全104点からなる。これに正太郎自身が記した冊子「蘭花譜・序」（以下「序」）を添えた木箱入りであった。発刊数は300部とみられる。主となる日本画の原画を担当したのは、植物愛好家でその絵を得意とした池田瑞月（ずいげつ）。昭和8年（1933）ごろから原画を描き始め、昭和11年（1936）には木版画が摺（す）り始められたとみられる。</p>

<p>木版画を重用した経緯については「序」でも触れられているが、当初、印刷業界の協力を得て制作を試みたものの、欧米の図譜には及ばないとみて諦め、一方、浮世絵以来の日本式の木版画での試作は、出来栄えに驚くほどであったという。正太郎にとって『蘭花譜』の第一義は、蘭の生態を写す学術的記録であったが、日本の木版技術を用いることで、それをいきいきと表現する美術的価値をも見出したのである。</p>

<p>「実は『蘭花譜』の木版画のほとんどが、蘭を原寸のまま記録しています」と、『蘭花譜』の実物に触れてきた福島さんが教えてくれる。「しかし、版画の用紙は決まった大きさがあり、蘭によってはそこに収まらない場合もありました。そうすると、茎の途中などで分割して画面に収めています。加賀氏の記録へのこだわりが見えるところです。ただ、美術家であった池田瑞月にとって、こうした対処はさすがにつらかったようですが」。</p>

<p>一種ずつ順次、木版画を仕上げていったが、戦時に入ると、制作は困難を極めた。用紙とした特注の越前和紙が入手できなくなり、昭和19年（1944）には、多くの原画を描き、校正にも関わった瑞月が没した。木版の彫刻を担った、東京の彫師・大倉半兵衛は空襲で行方不明となった。また、山荘での蘭の栽培自体も燃料不足から温室が温められず枯れ死するものがあり、大戦末期には、後藤兼吉が招集されてもいる。</p>

<p>そうした困難がありながら、終戦の1年後の昭和21年（1946）、正太郎は『蘭花譜』を発刊する。戦後混乱期の発刊の背景には、作りためた木版画などが散逸することへの危惧、蘭栽培の先行きへの不安があった。しかし、そこには希望もあった。「序」に正太郎は記す。</p>

<p>──日本民族は必ず更生するであろう。時を要するかも知れないが、今までとはまるで違った形において、美しき日本は必ず生まれ出るであろう。これが余の最も大きな希望である事は言うまでもない──。正太郎にとって『蘭花譜』は、その指標の一つだったと思われる。</p>

<p>加賀正太郎は、戦後、長い闘病の生活ののち、昭和29年（1954）に没した。それから37年後の平成3年（1991）、大山崎山荘で百点近い日本画の原画が偶然に発見された。しかし、その原画は『蘭花譜』に収録されている作品のものとは、すべて異なっていた。正太郎は『蘭花譜』の第2輯（しゅう）の制作を計画していたといい、そのために保留していた絵であったのだろう。それらの原画は大山崎歴史資料館に寄託され、企画展で紹介されてきた。</p>

<p>「一方で、『蘭花譜』第1輯に使われた原画は見つかっていません。どこにあるのかというのが、現在に残る謎です。それらしいものが出てくることがありましたが、贋作（がんさく）でした」と福島さん。『蘭花譜』の全容は、いまだ解明されてはいないのである。</p>

<p>大山崎町歴史資料館では、『蘭花譜』の木版画をもとにした絵ハガキも販売している。同町の商工会青年部が約30年前、大山崎山荘が美術館として開館するのに合わせて、町のＰＲのために制作したものである。印刷された絵ハガキは、大きさも質感も原本に及ぶものではないが、手に収まって親しみを感じさせる。加賀正太郎の希望とともに、広く、多くの人のもとに届いてほしい。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 09 Jul 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「すべては毛利のために」父の教えを守り続けた吉川元春の生涯  小和田哲男（静岡大学名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12515</link>
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			<description><![CDATA[わずか12歳で初陣を飾り、数々の戦で勝利した戦国武将・吉川元春。生涯を懸けて、毛利本家を一途に支えようとした名将の足跡を、小和田哲男氏がひも解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="備中高松城址" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_bittyutakamatujyou.jpg" width="1200" /><br />
備中高松城址</p>

<p>わずか12歳で初陣を飾り、数々の戦で勝利した戦国武将・吉川元春。武勇に優れた印象が強い元春だが、実は文化人的な面や、戦略家としての横顔をもち合わせていた。</p>

<p>生涯を懸けて、毛利本家を一途に支えようとした名将の足跡をひも解く。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>12歳で初陣を飾る</h2>

<p>吉川元春は享禄3年（1530）、毛利家の次男として生まれました。父・毛利元就が安芸国で戦国大名として羽ばたきはじめる、最初の頃にあたります。</p>

<p>安芸国には十以上の「国衆」がどんぐりの背比べ状態で存在しており、周囲を見渡せば、東には尼子、西には大内という毛利家を上回る戦国大名がいました。</p>

<p>あるときは尼子につき、またあるときは大内につくなど、元就は時代の流れを的確に判断しながら、毛利の勢力を伸ばそうとしていました。そういった時期に、元春は成長していったのです。</p>

<p>尼子か大内、どちらかにつかないと生き延びられないような状況だった毛利家が、他の国衆のなかから一歩抜きん出て、安芸を代表する戦国大名にのし上がれたのは、吉川家と小早川家を味方につけたことが大きかったといっていいでしょう。</p>

<p>元就は、吉川家の当主だった吉川興経に不満をもつ一族の吉川経世らに働きかけ、天文16年（1547）、興経を隠居させて、元春を吉川家の跡継ぎとして送り込むことに成功しました。元春の吉川家相続は一見、平和裏に事が進められたようにも思えます。</p>

<p>しかし、元春が吉川家を継いでからわずか3年後、元就は興経を殺害しているので、実は裏では不協和音が生じていたと考えても、穿ち過ぎではないでしょう。</p>

<p>お家乗っ取り劇の裏側を知る人の中には、元就が息子を押しつけてきたと捉える人もいたでしょうし、吉川家に全面的に歓迎されたわけではなく、元春はプレッシャーを感じたはずです。</p>

<p>それでも吉川家に受け入れられたのは、家臣団のなかで元春の力量を評価する人たちがいたからではないでしょうか。というのも、元春は、若い頃から「武勇」という光るものをもっていたからです。</p>

<p>天文10年（1541）、尼子氏との戦いである吉田郡山合戦に、元春はわずか12歳にして出陣。初陣ながらもしっかりと手柄を立てています。</p>

<p>十代半ばで元服し、初陣を飾る武将が多いなか、元春の12歳での初陣は早すぎるようにも思えますが、それだけ、父の元就が元春に期待していたとも捉えられます。</p>

<p>そしてそんな武勇に優れた元春の様子を見て、当初は彼が当主になることに反対だった吉川家の人たちも、「この若君なら、吉川家を盛んにしてくれる」という期待感をもつようになったのかもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>実は文武両道だった</h2>

<p>先にも挙げた通り、吉川元春は武勇に優れた人でした。</p>

<p>永禄8年（1565）から翌年にかけて、毛利家と尼子家との間で第二次月山富田城の戦いが勃発します。</p>

<p>このとき、毛利元就は軍を三手に分けて、いわゆる第一軍に元就、第二軍に元春と元春の嫡男・元長、第三軍に元春の弟の小早川隆景がつきました。</p>

<p>その際、元春は、尼子方の山中鹿介が守る塩谷口を攻めています。鹿介は尼子の猛将として知られる人物です。そこを元春に任せていたことからも、元就が元春の武勇を認めていたことがうかがえます。</p>

<p>兵糧の尽きた尼子側が降参し、第二次月山富田城の戦いは終わります。元春の働きも大いにあったうえでの勝利だったといえるでしょう。</p>

<p>また、永禄12年（1569）の大友宗麟との筑前立花山城の戦いでは、元春らの働きで、大友方の立花山城は一時、毛利方となりました。</p>

<p>しかし、山中鹿介らに擁立された尼子勝久が、織田信長の支援を得て動き出したため、元就は撤退することを決断。ところが元春は、「せっかく取った城を捨てるのはもったいない」と、撤退に異を唱えており、この逸話からも、武勇に自信があったと捉えていいでしょう。</p>

<p>ただ、元春が優れていたのは、武勇だけではありませんでした。</p>

<p>尼子攻めの陣中で、『太平記』を書写していたという話もあり、古典を学んで先人たちの戦法を身につけようとする文化人的な側面も見られます。</p>

<p>また、よく知られる逸話として、元就から、嫁をむかえるにあたって望む娘がいるかを聞かれた際に、不美人との噂があった熊谷信直の娘の名を挙げ、娶っています。</p>

<p>信直は毛利家のなかでも有力武将であり、その娘を望むことで、恩を感じた信直が自分のために働くだろうという、一種の思惑のようなものがあったとも取れ、政治的な思考ができる人物であったこともうかがえます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>毛利両川の兄弟仲</h2>

<p>吉川の「川」と小早川の「川」の二本の川が、毛利本家を支えたということで、元春と弟の隆景は「毛利両川」といわれますが、二人は生涯、「毛利家のために、自分たちは何をしたらいいか」を考えながら動いていました。</p>

<p>元春と隆景の兄弟仲が実際、どのようなものだったのかについては、史料も多くないため詳しくは分かりません。</p>

<p>ただ、永禄6年（1563）に兄・毛利隆元が急死してしまったことで、11歳で毛利家の跡を継いだ隆元の長男・輝元を支えるという使命感があった点で、元春と隆景の思いは一致していました。</p>

<p>二人の働きは、当主が幼くても、叔父がしっかり支えていけば家が発展できることを示した一つの例だといっていいでしょう。</p>

<p>親子の争いすらあった戦国時代においては、兄弟の争いも多く、兄弟が争わずに家を保った例としてすぐに思い浮かぶのは、北条家や島津家ぐらいではないでしょうか。</p>

<p>もちろん当時は、兄弟がお互いにライバル意識を抱くのが普通でしたから、羽柴秀吉の中国大返しにあたって二人の意見が対立したことを踏まえると、一種のライバル的な関係があっても不思議ではないです。</p>

<p>また、兄の嫡子とはいえ、「若い輝元に代わって、自分が跡を継ぐ」と、元春が名乗りを上げてもおかしくはありません。しかし、それをやろうとしなかった義理堅さは評価すべき点の一つです。</p>

<p>父である毛利元就の「兄弟が仲良くしないと、毛利家はつぶれる」という「三子教訓状」、のちに有名な「三本の矢」の逸話にもなる教えが身に染みていたといえますし、元就から託された「毛利本家を頼む」との言葉が、元春の一生を貫いていたのではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>なぜ秀吉に反発したのか</h2>

<p>天正10年（1582）、羽柴秀吉が備中高松城を水攻めした際、城主の清水宗治を助けるべく、元春と隆景は、後詰めとして出陣しました。</p>

<p>しかし6月2日に織田信長が明智光秀に討たれたという情報が、備中高松城を攻めていた秀吉に入ります。ここで秀吉は、「城主の清水宗治の切腹を見届けたら兵を引く」と、毛利輝元に和睦をもちかけました。以前から和睦交渉の機運があり、突然の話というわけでもなかったため、毛利方はそれを受け入れます。</p>

<p>清水宗治が自害すると、秀吉は有名な中国大返しを始めるのですが、その直後、毛利方も信長の死を知ります。</p>

<p>そこで元春は、秀吉追撃の命令を出そうとしました。後ろから毛利が秀吉を攻め、前にいる光秀と挟み撃ちにすれば勝てると踏んだのでしょう。</p>

<p>ところが、弟の隆景は「誓書を取り交わした直後に約束を破るのは、毛利家の家風ではない」と反対します。</p>

<p>当主である輝元自身がどう考えていたのかは、史料が残っていないので分かりませんが、隆景の言い分に賛成したために追撃軍を出さなかったと考えるのが妥当です。</p>

<p>元春が秀吉を追撃しようとした背景には、信長や秀吉によって天下が取られていくことを、元春が面白くない思いで見ていた可能性もありますが、そもそも、元春のもとに秀吉に関する情報があまり入っておらず、その実力が把握しきれていなかった可能性も考えられます。</p>

<p>元春の所領は山陰でした。一方、隆景の所領は、山陽、瀬戸内沿いにありました。より京に近い隆景のもとには、秀吉に関する情報が多く入ってきており、その力量を隆景は元春よりも把握していて、追撃をよしとしなかったのかもしれません。</p>

<p>この後、光秀を討って信長の後継者となった秀吉は、元春を冷遇し、隆景を優遇するようになります。「隆景が追撃を止めてくれたから助かった」という思いと、「元春は自分を攻めようとした」という思いが、秀吉の頭の中で渦巻いていたのかもしれません。</p>

<p>元春が天正10年の末に元長に家督を譲って隠居したのは、秀吉に屈するのをよしとしなかったからだともいわれますが、真相は分かりません。</p>

<p>ただし、完全に第一線から退いたわけではなく、秀吉軍の一員として天正14年（1586）、九州の島津攻めに従軍し、この年の11月15日、豊前・小倉の陣中で病死しています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>毛利家を支え続けた元春の思い</h2>

<p>毛利のために命を懸け戦い続けた元春ですが、戦に強かったと知られていても、どの戦いでどういう手柄を立てたのか、具体的な話はあまり語り継がれていません。</p>

<p>それは元春に関する史料が少ないからです。弟の隆景が、秀吉のもとで優遇された「勝ち組」だったのに対して、冷遇された元春は「負け組」に近い印象が強いため、あまり語られることがなかったという側面もあります。</p>

<p>元春の隠居後、吉川家を継いだ元春の嫡男・元長でしたが、元春の死の翌年に病死してしまい、弟の広家が跡を継いで吉川家を支えることとなりました。</p>

<p>ご承知のとおり、慶長5年（1600）の関ケ原の戦いで、広家は南宮山に布陣して戦いには加わらず、いわゆる毛利不戦の元となりました。</p>

<p>毛利輝元は西軍の総大将ですから、徳川家康は輝元の所領だった120万石を取り上げ、毛利家をつぶすつもりでした。</p>

<p>それを阻止したのは広家です。広家は、関ケ原の戦いにおいて家康の勝利に貢献したことで、周防と長門を与えられました。しかし、家禄を没収された輝元にこれを譲りたいと懇願し、毛利家の存続に貢献しました。</p>

<p>自らの大名の地位を捨て、毛利家を守る。まさに「毛利両川」の本領があらわれた一事といえますが、そこには、「毛利本家を支える」という父・元春の思いと律儀さが、子どもにもしっかりと受け継がれていたといえるのではないでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 03 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[小和田哲男（静岡大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ真田家は生き残れた？戦国最強の“小さな組織”が実践した「戦略的ポートフォリオ」  眞邊明人（作家・講師）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14595</link>
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			<description><![CDATA[「戦国最強の小さな組織」真田一族の軌跡から組織論を考察。生き残るための「判断基準の共有」やランチェスター戦略の実践など、中小企業やチームを強くするための生存戦略を8つのテーマで解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="真田の家紋「六文銭」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2021/2021ALI/sanadarokumonsenLI.jpg" width="1200" /></p>

<p>小勢力でありながら、徳川や北条らと渡り合い、江戸時代まで家名を存続させた「真田一族」。彼らの強さの源とは？戦略・戦術の使い分けや、「弱者の生存戦略」について、『もしも徳川家康が総理大臣になったら』の著者で、『うちの部下が使えなさすぎて日本一の兵になった 真田幸村と十勇士』を上梓した眞邊明人氏が、8つのテーマで紐解きます。小さくても強い組織をつくるためのヒントがここにあります。</p>

<p>※本稿は、『THE21』2026年7月号より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>組織の強さを決める分岐点</h2>

<p>「組織とは何か」と問われたとき、多くの人は「人の集まり」「会社やチーム」「制度や仕組み」といった答えを思い浮かべるだろう。確かにそれは間違いではない。しかし、それは「組織の形」であって、「組織の本質」ではない。</p>

<p>組織の本質とは何か。私はこう定義している。<br />
組織とは、「行動原理の共有体」である。<br />
つまり、「この状況で、我々はどう判断するか」という基準を共有している集団。制度でもない。人事でもない。判断基準を共有しているかどうか。ここが組織の強さを決める分岐点となる。</p>

<p>本稿では、戦国時代に小勢力ながら大名家に対抗し続け、江戸時代を通じて存続した真田一族を題材に、現代の組織論を考察する。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>テーマ１ 真田家を貫く行動原理</h2>

<p>真田家といえば、真田信繁（幸村）を思い浮かべる人が多いだろう。大河ドラマ「真田丸」の主人公であり、「日本一（ひのもといち）の兵（つわもの）」と称された武将である。しかし、真田家の「行動原理」を確立したのは、その父・真田昌幸という人物である。</p>

<p>真田昌幸は、武田家滅亡後、織田信長につき、本能寺の変で信長が死ぬと北条に、その後は上杉、豊臣へと主君を変え、最終的には徳川と敵対した。何度も主君を変えた昌幸は、一見すると「節操がない」ように見える。</p>

<p>しかし、これは「生き延びる」という最上位目標への、一貫した忠誠なのだ。</p>

<p>真田家を貫く行動原理。それはひと言でいえば、<br />
「生き延びるためには、常に考え続けよ」<br />
という姿勢である。</p>

<p>ここで強調したいのは、強い組織とは優秀な人材の集合ではなく、「判断基準」が揃っている組織だということである。優秀な人材が10人いても、いざ判断を迫られたときに意見がバラバラでは、組織は動けない。一方、普通の人材でも全員が同じ判断基準を持っていれば、組織は素早く動ける。</p>

<p>真田家が強かったのは、祖父の幸隆から父の昌幸、そして信之（信幸）・信繁へと、「判断基準」が継承されていたからである。だからこそ、小さな組織でも大勢力に対抗できた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>テーマ２ 戦略と戦術──「犬伏の別れ」に見る分散投資</h2>

<p>「戦略」と「戦術」という言葉は、ビジネスの現場でよく使われるが、意外と混同されている。</p>

<p>戦略とは、「方向」と「範囲」を決めること。つまり、「どこで戦うか」「どこでは戦わないか」を決めることである。一方、戦術とは、「ヒト・モノ・カネの配備」である。決めた戦場で、どう資源を配置するかを決めることだ。順番が大事で、まず戦略があって、その後に戦術がある。</p>

<p>真田家は信濃国（現在の長野県）の小さな豪族だった。南には徳川家康、北には上杉景勝、東には北条氏。どの勢力と正面衝突しても、確実に負ける。兵力が違いすぎるのだ。</p>

<p>真田が選んだ戦略は明確だった。「どこで戦うか」は上田城周辺の限定された地域。「どこでは戦わないか」は平野部での大規模会戦。「何を守るか」は真田家の存続。「何を捨てるか」は一時的な面子と特定の主君への忠誠。</p>

<p>この戦略が最も劇的に表れたのが、1600年の「犬伏の別れ」である。関ヶ原の戦いの直前、真田父子３人─父の昌幸、長男の信之、次男の信繁─が、下野国犬伏で「東西どちらにつくか」を協議した。</p>

<p>結果は、長男の信之は東軍（徳川方）へ、父の昌幸と次男の信繁は西軍へ。親子で敵味方に分かれたのである。</p>

<p>これは一見「お家の分裂」に見える。しかしこれは「生き残る」という戦略の、最も純粋な実行である。</p>

<p>全員が東軍について西軍が勝てば、真田家は滅亡する。全員が西軍について東軍が勝っても、やはり滅亡する。しかし分かれれば、どちらが勝っても真田の血は残る。現代の言葉で言えば「リスク分散」であり、「戦略的ポートフォリオ」なのである。</p>

<p>そして戦術面では、それぞれの「持ち駒」を最適配置した。昌幸には上田城という拠点と長年培った戦術眼がある。これを西軍に。信繁には若さと行動力がある。父と共に西軍に。信之には徳川との人脈がある。本多忠勝の娘・小松姫を妻にしていた。だから東軍に。資源の最適配置。これが戦術である。</p>

<p>現代の経営に翻訳すれば、「戦略なき戦術は現場の疲弊を生む」「戦術なき戦略は机上の空論になる」ということだ。真田家は、戦略と戦術を車の両輪として使っていた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>テーマ３ ランチェスター戦略と上田合戦</h2>

<p>ランチェスター戦略とは、第一次世界大戦中にイギリスのエンジニア、フレデリック・ランチェスターが提唱した軍事理論で、後に日本で経営戦略として体系化されたものである。</p>

<p>ポイントは二つの法則だ。第一法則は接近戦・一騎打ちの法則で、戦闘力は「武器効率&times;兵数」。狭い戦場では数の優位が薄まり、質が勝敗を決める。第二法則は広域戦・集団戦の法則で、戦闘力は「武器効率&times;兵数の二乗」。広い戦場では数が圧倒的に有利になる。</p>

<p>ここから導かれる弱者の戦略は、「数で劣る側は、絶対に第二法則の戦場で戦ってはいけない。戦場を狭め、第一法則の世界に持ち込め」ということである。</p>

<p>真田家は、まさにこれを実践していた。象徴的なのが上田合戦である。</p>

<p>第一次上田合戦（1585年）では、徳川軍約7000に対して真田軍はわずか2000。結果は真田の圧勝。第二次上田合戦（1600年）では、徳川秀忠軍3万8000に対して真田軍はわずか3500。結果は、秀忠軍は上田城を落とせず、関ヶ原の本戦に遅参（他の要因もあるが）。実質的に真田の勝利である。</p>

<p>10倍以上の兵力差を跳ね返せた理由は何か。<br />
まず「人の能力」。昌幸の戦術眼と決断力、草の者と呼ばれる諜報集団による情報収集、そして領民との信頼関係に基づく協力体制。</p>

<p>次に「テクノロジー」。上田城の攻めにくく守りやすい構造、千曲川・神川を利用した地形戦、偽情報や陽動作戦という情報戦。 そして何より「戦場を選んだ」ことだ。真田は、戦場を限定し（平野部には出ない）、地の利を最大化し（城、川、地形を味方につけた）、情報で先手を取り（敵の動きを事前に把握）、一点に集中した（分散せず上田城に戦力を集中）。これがランチェスター第一法則の実践である。</p>

<p>現代の組織に翻訳すれば、中小企業・スタートアップ・小規模チームは全面戦争をしてはいけない。大企業と同じ市場で、同じ商品で、同じ戦い方をすることは敗北への最短ルートだ。戦場を限定し、特定の地域・顧客層・課題に一点集中する。「これだけは絶対に負けない」という領域を作る。それが弱者の生存戦略である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>テーマ４ 六文銭──スローガンと行動の一致</h2>

<p>多くの企業には経営理念やミッション・ビジョン・バリューがある。壁に貼られ、朝礼で唱和されている。しかし、そのスローガンは社員の行動に変換されているだろうか。</p>

<p>私はこう定義している。<br />
スローガンとは、社会と組織に対する「行動宣言」である。<br />
壁に貼る言葉ではない。朝礼で唱和する呪文ではない。「我々はこう行動する」という約束なのだ。</p>

<p>真田家のスローガンは「六文銭」である。真田家の家紋として有名な、六つの銭が並んだ紋章だ。この六文銭は三途の川の渡し賃を意味する。死者があの世に渡るために必要な銭である。</p>

<p>これを旗印にするということは、「我々は命を賭けてここに立つ」という宣言である。単なる家紋ではない。行動原理の可視化なのだ。</p>

<p>六文銭というスローガンは、三つの方向に機能した。敵に対しては「この者たちは死を恐れない。厄介だ」というメッセージ。味方に対しては「我々は覚悟を持った集団だ。誇りを持て」という求心力。領民に対しては「我々は逃げない。だから信じろ」という約束。</p>

<p>しかし最も重要なのは、行動が伴っていたことだ。六文銭を掲げながら逃げ回っていたら、誰も信じない。 昌幸は上田合戦で圧倒的不利な戦を勝ち抜いた。信繁は大坂冬の陣で幕府の大軍を撃破した。言葉と行動が一致していたからこそ、六文銭は400年経った今も私たちの記憶に残っている。</p>

<p>スローガンは「見直す」ものではない。スローガンと行動のズレを「見直す」のだ。行動を変えるか、スローガンを変えるか。どちらかしかない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>テーマ５ 行動こそが 最大のロイヤリティ</h2>

<p>「ロイヤリティが高い社員」と聞いて、どんな人を思い浮かべるだろうか。「会社が好きです」と言う人、「この会社に貢献したい」と言う人、「理念に共感しています」と言う人。確かにそれは素晴らしいことだ。しかし、</p>

<p>ロイヤリティは感情ではなく、行動である。</p>

<p>「応援しています」「共感しています」──それは感情だ。感情は大事だが、それだけでは組織は動かない。問うべきは「何をしたか」である。</p>

<p>1615年、大坂夏の陣。真田信繁は豊臣方として戦った。この時点で豊臣方の敗北はほぼ確定していた。冬の陣で外堀を埋められ、大坂城はもはや裸同然。幕府方の兵力は圧倒的だった。勝てないことは、信繁自身が一番わかっていたはずだ。</p>

<p>それでも信繁は、真田の赤備えを復活させ、武田家滅亡後に散逸していた旧武田家臣を結集し、最前線に立ち、徳川家康本陣に突撃し、そして討死した。</p>

<p>「豊臣への恩義に報いる」。信繁はそれを言葉ではなく、命で証明した。</p>

<p>その結果、敵である徳川方の武将から「日本一の兵」と称えられた。敵から最大限の敬意を得たのだ。そして400年経った今も、真田信繁の名は残っている。行動が、言葉を超えた。これがロイヤリティの本質である。</p>

<p>現代の組織に翻訳すれば、上司の行動は部下の行動規範になる。「顧客第一」と言いながら社内政治に忙しい上司。「挑戦を恐れるな」と言いながら失敗を責める上司。「チームワーク」と言いながら手柄を独り占めする上司。部下は見ている。上司の「言葉」ではなく「行動」を。そして行動は文化を作る。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>テーマ６ 経験学習──理論は後から生まれる</h2>

<p>何かを学ぶとき、多くの人は「まず理論を学び、それを実践する」「マニュアルを読み、その通りにやる」と考える。しかし、実際の順番は逆である。</p>

<p>先にあるのは行動と試行錯誤。積み重ねが理論を生む。</p>

<p>真田家にマニュアルは存在しなかった。祖父・幸隆の戦い方と父・昌幸の戦い方は違う。昌幸の戦い方と信繁の戦い方も厳密には違う。信繁の生き方と兄・信之の生き方も違う。しかし共通していたのは、毎回その状況での最適解を探し続けたことだ。「真田流」とは、特定の戦術パターンではない。「考え続ける」という姿勢そのものである。</p>

<p>アメリカの教育学者デイビッド・コルブが提唱した経験学習モデルでは、学習は四つのステップで進む。まず「具体的経験」（やってみる）、次に「内省的観察」（振り返る）、その次に「抽象的概念化」（教訓を引き出す）、最後に「能動的実験」（次に試す）。そしてまた最初に戻る。このサイクルを回し続けるのだ。</p>

<p>真田昌幸で具体例を見てみよう。「具体的経験」として武田家の滅亡を経験した。「内省的観察」としてなぜ武田は滅んだのか振り返った。「抽象的概念化」として「一つの主君に依存するとリスクが高い」という教訓を引き出した。「能動的実験」として複数の大名との関係を維持する戦略を実践した。</p>

<p>現代の組織への示唆は明確だ。失敗を「学習」に変換できる組織が強い。弱い組織では失敗すると責任追及が始まり、隠蔽し、同じ失敗を繰り返す。強い組織では失敗すると振り返りが始まり、教訓化し、次に活かす。真田家が江戸時代まで続いたのは、失敗を「学び」に変える文化があったからである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>テーマ７ 人望とは覚悟の可視化である</h2>

<p>「人望がある人」と聞いて、みんなに好かれている人、人当たりが良い人、優しい人を思い浮かべるかもしれない。確かにそういう人には人望があるかもしれないが、それだけではない。</p>

<p>真田昌幸は「表裏比興（ひきょう）の者」と呼ばれていた。豊臣秀吉の評価で、「裏表がある策士」という意味だ。何度も主君を変え、敵からも味方からも「油断ならない」と思われていた。決して「みんなに好かれる」タイプではない。</p>

<p>しかし、昌幸には人望があった。家臣は離反しなかった。領民は協力した。なぜか。</p>

<p>言っていることと、やっていることが一致していたからだ。昌幸は「生き延びるためには何でもする」と言い、実際に何度も主君を変え、そのたびに真田家を存続させた。家臣からすれば、「この人についていけば生き残れる」という信頼があった。</p>

<p>信繁はどうか。「義のために戦う」と言い、勝ち目のない大坂の陣に参戦し、大坂冬の陣では、幕府の大軍を撃破した。周りからすれば、「この人は本気だ」という信頼があった。</p>

<p>人望とは、その組織の行動原理を体現しているかどうかである。</p>

<p>ここで重要な気づきがある。人望の「形」は一つではないのだ。組織の行動原理が「生き残る」なら、リスクを取って組織を守る人に人望が集まる（昌幸タイプ）。「義を貫く」なら、損得を超えて筋を通す人に人望が集まる（信繁タイプ）。「堅実に続ける」なら、派手さはないが着実に成果を出す人に人望が集まる（信之タイプ）。</p>

<p>人望は「徳」ではなく「覚悟の可視化」である。人格者であること、品行方正であることは大事だが、それは「条件」であって「人望の源泉」ではない。人望の源泉は、覚悟を可視化しているかどうか。組織の行動原理を自らの行動で示しているか。リスクを引き受けているか。言葉と行動が一致しているか。昌幸も信之、信繁も「命のリスクを引き受けた」から慕われたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>テーマ８ 社会と組織の整合性</h2>

<p>これは普遍的な真理である。戦国も現代も同じ。社会の価値観とズレた組織は淘汰される。</p>

<p>真田家は、豊臣と徳川の狭間で大きな選択を迫られた。豊臣への義理を貫く道を信繁が選び、名誉の討死を遂げた。徳川への恭順を示す道を信之が選び、松代藩13万石を得た。</p>

<p>どちらが正しかったのか。答えは「どちらも正しかった」だ。信繁は「義」で死に、信之は「実」で生きた。両方の選択が真田家を残した。名は信繁が残し、血は信之が残した。真田家の「生き延びる」は、やはり嫡男である信之が引き継いだのである。だからこそ、信繁は自分の生き方を貫けたのだ。信之という存在がなければ&ldquo;真田幸村&rdquo;という伝説は生まれなかった。</p>

<p>重要なのは、真田家が時代に合わせて「提供する価値」を変え続けたことだ。戦国時代、社会が求めた価値は戦闘力と調略能力で、真田は上田城防衛と情報収集を提供した。江戸時代、社会が求めた価値は安定と従順で、真田は堅実な藩政と幕府への協力を提供した。明治以降、社会が求めた価値は物語とロマンで、真田は「日本一の兵」の伝説を提供した。</p>

<p>社会が求める価値を読み、自分たちの提供価値を変え続けた。「自分たちが何者か」という核は保ちながら。社会との整合性を取ることは「迎合」ではない。「生き残るための知恵」である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>真田一族からのメッセージ</h2>

<p><img alt="「真田一族」に学ぶ組織のあり方" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260629ManabeAkihito01.jpg" width="738" /></p>

<p>真田一族から現代の私たちへの最終メッセージは三つある。</p>

<p>第一に、勝つことより生き残ること。上田合戦で「勝った」昌幸は、関ヶ原で「負け組」になった。しかし真田家は生き残った。目的は「勝利」ではなく「存続」なのである。</p>

<p>第二に、理想より行動。「こうあるべき」という理想論は、行動しなければ何も変えない。信繁は「義」を語らず、行動で示した。信之は「忠誠」を語らず、93年の生涯をかけて証明した。</p>

<p>第三に、理論より実践。真田にマニュアルはなかった。毎回、最適解を探し続けた。その積み重ねが「真田流」という理論になったのである。</p>

<p>最後に、本稿の核心を改めて記す。</p>

<p>「強い組織とは、判断に迷ったとき、同じ答えに辿り着ける組織である」</p>

<p>真田一族が400年かけて証明したこと。小さくても、弱くても、「判断基準」が揃っていれば生き残れる。大きくても、強くても、「判断基準」がなければ滅びる。</p>

<p>読者諸氏の組織が、判断に迷ったとき、全員が同じ方向を向けることを願ってやまない。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2021/2021ALI/sanadarokumonsenLI.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 01 Jul 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[眞邊明人（作家・講師）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>藤原一族の歴史　鎌足から道長へと至るまでの「光」と「影」  河合敦（歴史研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12526</link>
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			<description><![CDATA[摂関政治を確立し、絶大な権力を有するに至るまで、藤原一族の歴史を河合敦さんに解説して頂く]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="平城京" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_heijyokyo2-01910.jpg" width="1200" /></p>

<p>7世紀、中臣鎌足が天智天皇から「藤原」姓を賜ったことに始まる藤原氏。<br />
婚姻によって天皇家と結びつく一方で、他の有力氏族を排斥し、その地位を強化していった。やがては一族内における、氏長者をめぐる争いも起こり──。摂関政治を確立し、絶大な権力を有するに至るまで、藤原一族の歴史を歴史研究家の河合敦さんに解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>鎌足と不比等の功績とは</h2>

<p><img alt="奈良時代の関係略図" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250620Kawaiatsushi1.jpg" width="1200" /></p>

<p>藤原氏の始祖は藤原鎌足である。もとは中臣姓を称していたが、臨終のさいに天智天皇から「藤原」姓を賜ったことで、藤原氏の歴史が始まった。</p>

<p>中臣氏は朝廷の祭祀を司る家柄で、鎌足は中臣御食子の子として、大和国高市郡に生まれた。幼いころから学問を好み、留学生として唐に滞在していた南淵請安の塾で学ぶうち、「日本も唐のように、天皇を中心とする律令国家になるべきだ」と考えるようになった。</p>

<p>当時は、蘇我蝦夷・入鹿父子が天皇をしのぐ勢力を持っていたが、鎌足は蘇我氏打倒を決意し、皇極天皇の子・中大兄皇子に接触、共にクーデター計画を立てた。<br />
そして645年6月、偽の儀式の場に蘇我入鹿をおびき出して暗殺。さらに、蝦夷の邸宅を囲んで自殺に追い込んだ。</p>

<p>こうして蘇我氏を滅ぼすと、人事が刷新され、孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子、鎌足は内臣となった。鎌足はその後も、中大兄皇子（天智天皇）の側近として外交や法の整備などに力を尽くし、669年に重病となって56歳で死去した。<br />
天智はその労に報い、鎌足に大織冠 （最高位）と「藤原」の姓を与えたのである。</p>

<p>鎌足が死んだとき、息子の不比等は11歳の少年であったが、30代になると、天武天皇の皇后・鸕野讚良 （のちの持統天皇）の絶大な信任を得て、力を伸ばしていく。<br />
鸕野讚良は、息子の草壁皇子が死去すると、即位して持統天皇となるが、研究者の土橋寛氏は、このおり草壁と親しかった不比等と盟約を結んだと論じる。</p>

<p>その内容だが、幼い孫の珂瑠皇子（草壁の子）を天皇にすることを不比等に約束させ、代わりに不比等の娘・宮子を珂瑠の妻とするといったものだったという。<br />
697年、珂瑠皇子が15歳で即位し、文武天皇となった。不比等の功績が大きかったのだろう、この年、宮子は文武の夫人となった。</p>

<p>天皇の妻には皇后、妃、夫人、嬪の4種類があり、皇后と妃は皇族しか就くことができない。文武は生涯、皇后や妃を持たなかったので、事実上、夫人である宮子が皇后の地位にあったわけだ。<br />
大宝元年（701）の大宝律令制定の功績により、不比等は正三位大納言に就任。同年、文武と宮子との間に首皇子（のちの聖武天皇）が誕生する。</p>

<p>ところが、文武は25歳で没してしまう。不比等としては文武のもとで権力を保持し、やがては孫の首皇子を天皇にすえて天皇の外戚として、藤原氏の力を盤石にしようと考えていただろうから、大きな痛手だった。<br />
やがて不比等は正二位右大臣に就いたが、彼にとって、首皇子にどう皇位を継承させるかが最大の課題となった。</p>

<p>和銅元年（708）2月、元明天皇（文武の実母で、首皇子の祖母）は詔勅を出して、藤原京から平城京への遷都を宣言した。遷都を強行させたのは不比等であった。<br />
研究者の林陸朗氏は、新しい都で不比等の邸宅と首皇子の邸宅を隣接させ、そばで孫の成長を見守り養護しようとしたのだと述べる。つまり平城京遷都は、不比等の権力を維持するための大事業だったというのだ。</p>

<p>遷都にあたり不比等は、藤原氏の氏寺（興福寺）も新都に移したが、この壮麗な寺院は高台に置かれ、京域のどこからでもその姿が見える仕掛けになっており、人びとは常に藤原氏の権力を実感させられることになった。巧みな戦略である。<br />
霊亀2年（716）、不比等は娘の安宿媛 （光明子）を首皇子に入内させた。つまり、自分の娘（宮子）が生んだ孫（首皇子）に、別の我が子を輿入れさせたわけだ。</p>

<p>安宿媛は養老2年（718）に阿倍内親王（のちの孝謙天皇）を生み、不比等の息子たちも高位高官にのぼった。こうして一代で藤原氏の勢力を伸張させた不比等は、養老4年（720）8月、63歳で死去した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>藤原四家、それぞれの栄枯盛衰</h2>

<p><img alt="藤原氏略系図" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250620Kawaiatsushi2.jpg" width="687" /></p>

<p>不比等の死後、息子たち（武智麻呂、房前、宇合、麻呂）は若かったので長屋王が政治を主導したが、やがて藤原四子（四兄弟）が力を伸ばし、妹の光明子を聖武天皇の皇后にするよう、長屋王に要求した。<br />
これまで皇族以外から皇后が出たためしはなく、長屋王は難色を示した。すると四子が長屋王に謀反の疑いをかけて、邸宅を兵で囲んだため、王は自殺した（長屋王の変）。</p>

<p>政敵を排除した四子は、光明子を皇后にすえ実権を握ったが、天平9年（737）、4人とも疱瘡（天然痘）で亡くなってしまう。<br />
なお、四子の系統は、後に南家（武智麻呂）、北家 （房前）、式家 （宇合）、京家（麻呂）と呼ばれるようになった。後年、摂関政治を行なうのは北家である。</p>

<p>四子の没後、皇族出身の橘諸兄が政権をになったが、やがて光明皇后に寵愛された藤原仲麻呂が台頭する。<br />
仲麻呂は武智麻呂の次男で、藤原広嗣（宇合の子）の乱のとき、騎兵大将軍として聖武や光明の護衛にあたったことで、信頼を勝ち得るようになった。</p>

<p>やがて橘諸兄や兄の豊成が失脚すると、仲麻呂は太政官のトップに立った。聖武上皇は崩御する直前、皇太子に新田部親王（天武天皇の子）の子・道祖王を任命したのだが、その後、孝謙天皇は日ごろの不行跡を理由に道祖王を廃し、大炊王（舎人親王の七男）を皇太子にしたのである。</p>

<p>大炊王は、仲麻呂の亡き息子の妻を娶り、仲麻呂邸に同居していた。そんな人物を皇太子にしたのは、もちろん仲麻呂の強い希望があったからだろう。</p>

<p>天平宝字2年（758）、孝謙は大炊王（淳仁天皇）に譲位して上皇となった。淳仁は、仲麻呂に恵美の姓と押勝の名を与え、太保（右大臣）に叙した。<br />
以後、淳仁のもとで仲麻呂は思うがままに権力をふるい、天平宝字4年（760）には従一位太師（太政大臣）に、2年後にはついに正一位となった。しかし天平宝字4年には、仲麻呂を寵愛していた光明皇太后が60歳で死去している。</p>

<p>そうしたなか、孝謙上皇が僧の道鏡を寵愛するようになった。仲麻呂が淳仁を通じて孝謙に注意を与えると、激怒した孝謙は、政権奪還宣言をする。焦った仲麻呂は武力蜂起（恵美押勝の乱）したが、あっけなく敗れて殺されてしまった。</p>

<p>その後、孝謙が重祚して称徳天皇となり、道鏡に仏教政治を展開させたが、称徳の死去にともなって道鏡は失脚。称徳天皇には近親者がいなかったため、実力者の藤原百川（式家）らが、天智の孫にあたる白壁王（光仁天皇）を即位させた。<br />
こうして皇統は天武系から天智系に移り、光仁の子・桓武天皇は都を長岡京、さらに平安京に遷都して天皇親政をおこなった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>北家による摂関政治</h2>

<p><img alt="天皇家略系図" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250620Kawaiatsushi3.jpg" width="556" /></p>

<p>桓武没後は子の安殿親王が平城天皇になったが、病気のため3年で皇位を弟（嵯峨天皇）に譲り、多数の貴族・官僚を率いて旧平城京へ移った。ところが健康を取り戻し、寵愛する藤原薬子（式家）とその兄・仲成と結んで復位に動き、勅を発しはじめた。<br />
嵯峨天皇は上皇方との対決を決意。藤原仲成を殺し、平城上皇を出家させたのである（薬子の変）。薬子は毒をあおいで自殺した。</p>

<p>これによって、宇合を祖とする式家の政治力は衰退したが、その後も天皇の生母を輩出し、後宮ではしばらく隆盛を保った。<br />
いっぽう台頭したのが、房前を祖とする北家であった。嵯峨天皇は、詔勅の伝達や訴訟を太政官に取り次ぐ蔵人所を立ち上げ、リーダーの蔵人頭に北家の冬嗣をすえた。</p>

<p>嵯峨のもとで冬嗣は栄達し、弘仁12年（821）には右大臣となって政治を主導、左近衛大将として軍事も統括するようになっていた。<br />
弘仁14年（823）、嵯峨は弟の大伴親王（淳和天皇）に譲位するが、冬嗣はこの頃、嵯峨の娘（源潔姫）を息子・良房の妻とし、自分の娘（順子）を皇太子の正良親王（嵯峨の子。のちの仁明天皇）へ輿入れさせた。こうして天皇家と強く結びついた冬嗣は、淳和のもとで左大臣に昇り、天長3年（826）に52歳で逝去した。</p>

<p>冬嗣は北家の力を一気に強めたが、その子・良房も太政大臣に昇り、幼い外孫の清和天皇のもとで臣下として初めて摂政の地位に就いた。その地位は良房の養子・基経に受け継がれ、さらに基経は関白の地位に就く。成人した天皇のもとで、摂政同様の仕事をこなす役職だが、これは基経のために設けられたものであった。</p>

<p>良房と基経の時代以降、北家は次々と有力な貴族を蹴落としていった。承和9年（842）、良房は、伴健岑と橘逸勢を謀反の疑いで配流した（承和の変）。この事件には式家の5人も連座し、式家の力がさらに弱まった。京家はいち早く落ちぶれており、すでに南家も恵美押勝の乱で失墜している。</p>

<p>朝廷の政治をになう太政官の太政・左・右大臣、大納言、中納言、参議などを議政官と呼び、平安時代初めから十数名で推移していた。このうち3割から4割を藤原氏が占めてきたが、承和の変以後、藤原氏の議政官はほぼ北家の独占状態になった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>かくして、有力氏族は消え去った</h2>

<p>貞観8年（866）、平安宮大内裏の朝堂院への入口に立つ応天門が燃え落ちた。大納言の伴善男は、右大臣の藤原良相に対し「応天門に放火したのは、左大臣の源信の仕業である」と告げた。<br />
そこで良相は、兵を送って源信の屋敷を包囲。同時に甥の基経に事実を教え、基経は養父の良房に言上した。</p>

<p>ところが後日、伴善男が息子・中庸らに命じて応天門に火をつけさせ、その罪を源信になすりつけて失脚させようとしたことが判明。伴善男・中庸父子は流罪となり、源信も放火の疑いを受けたことを恥じ、出仕しなくなってしまった。結果として伴氏と源氏は力を失い、北家がますます強大化した（応天門の変）。</p>

<p>仁和3年（887）、即位した宇多天皇は、橘広相に起草させた勅書を基経に与えた。引き続き関白として政治の補佐を求める内容だったが、勅書に「阿衡に任ずる」との文言があった。<br />
基経は「阿衡は古代中国の高い地位だが、実際の職務はない。俺を名誉職に祭りあげようというのか」と腹を立て、出仕しなくなってしまったという（阿衡の紛議）。</p>

<p>基経が怒ってみせた背景には、橘広相を失脚させる狙いがあった。広相は娘を宇多天皇に輿入れさせ、2人の皇子をもうけていた。その皇子が即位すれば、広相が外戚として力をふるうことになる。だからこうした態度に出たのである。<br />
宇多天皇は仕方なく広相を失脚させ、基経の娘・温子を女御 （妻）にすることで解決をはかった。いずれにせよ、この阿衡の紛議によって、関白としての基経の政治的立場は強化されたのである。</p>

<p>そうしたこともあって、宇多天皇は基経の死後、摂政や関白を置かず、学者の家柄である菅原道真を重用し、藤原北家に対抗させた。さらに退位するとき、息子の醍醐天皇に道真を重用するよう伝えたのである。このため、道真は右大臣まで登りつめた。</p>

<p>ところが基経の長男で左大臣の時平が「道真が女婿・斉世親王を即位させようとしている」と告訴したので、醍醐天皇は道真を大宰権帥として大宰府へ左遷した（昌泰の変）。しかし時平はそれから数年後、39歳の若さで死去してしまう。</p>

<p>その後は、弟の忠平が醍醐天皇の政治（延喜の治）をささえ、醍醐の死後、朱雀天皇のもとで摂政・関白になった。続く村上天皇のもとでも関白を続けたが、数年後に死去した。</p>

<p>かわって忠平の長男・実頼が、村上天皇の政治（天暦の治）を補佐。この延喜・天暦の治は、醍醐・村上天皇が親政を行なって律令政治の再建を果たしたとされ、後世では「聖世」と賛美されたが、実際は藤原氏北家の力が強大だった。</p>

<p>冷泉天皇が即位すると、実頼が関白となるが、安和2年（969）、「左大臣の源高明が謀反を企んでいる」という源満仲の密告があり、高明は大宰府へ左遷された。<br />
これを安和の変といい、以後、北家に対抗しうる他氏は消滅し、摂政・関白が常置され、藤原氏北家がその職を独占するようになった。こうして、摂関政治を確立させていったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>一族内での泥沼の抗争</h2>

<p><img alt="藤原井一族をめぐる出来事" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250620Kawaiatsushi4.jpg" width="916" /></p>

<p>北家は、摂政・関白を出す家柄という意味から摂関家と呼ばれたが、有力な他氏が排除されたあと、摂関職をめぐって、北家一族間で泥沼の抗争が繰り広げられるようになった。<br />
摂関職にある人物は、藤原氏北家の「氏長者」も兼ねた。その一族の首長のことで、氏全体を統率し、氏寺や氏社、大学別曹などを管理し、一族が任官したり、叙位される際の推挙権も持っていた。</p>

<p>家政をつかさどる摂関家政所もあり、朝廷から与えられた家司（職員）を用いて膨大な封戸（財産）を管理させるなど、絶大な権限を有した。<br />
北家の男として生まれたからには、何としても摂関職＝氏長者になりたい──だが、摂関職になるためには運が大きく左右した。天皇の外戚（母方の親戚）になることが必要だったため、自身の妹や娘を天皇の妻とするわけだが、皇子を生んでくれなければ外戚にはなれない。</p>

<p>たとえば関白の実頼は、村上天皇の女御とした娘に皇子が生まれなかった。一方、実頼の弟・師輔の娘である安子は、村上天皇との間に三皇子をもうけた。やがて彼らが即位していったことで、師輔の子孫（九条流）が摂関家（北家）の嫡流となったのである。</p>

<p>そんな九条流のなかでも、激しい権力闘争がおこっている。師輔の次男・藤原兼通と三男・兼家、さらに兼家の五男・道長と伊周（兼家の長男・道隆の嫡男）の争いである。<br />
五男の道長は、通常なら権力者になるのは難しいのだが、兄たちが次々と死んだうえ、兄の娘にまだ皇子がいなかったことが幸いした。</p>

<p>ライバルの伊周の妹・定子はすでに一条天皇の皇后となっていたが、彼女が皇子を生む前に、伊周が失態を犯して失脚。その後、道長は娘の彰子を一条天皇に入内させ、彼女が皇子を生んだことで外戚となった。<br />
さらに娘の妍子を三条天皇の、威子を後一条天皇の中宮（皇后）とし、一家から三后が出たことで、約30年間、道長は権力の座にとどまり続けることができたのである。</p>

<p>その余得により、道長の後を継いだ息子の頼通は半世紀の間、権力者の地位にあった。だが、ついに娘は皇子を生まず、結局、藤原氏北家を外戚としない後三条天皇が即位、摂関政治は終わりを告げたのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 30 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[河合敦（歴史研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>2027年大河・小栗忠順のやばい素顔　役人を「うんこ製造機」扱いした天才官僚  本郷和人（歴史学者）,滝乃みわこ（執筆者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14442</link>
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			<description><![CDATA[2027年大河の主人公・小栗忠順の功績と意外な素顔を本郷和人氏が紹介。日本の近代化を推進した天才官僚でありながら、仕事をしない役人を「うんこ製造機」と批判した逸話など、教科書では語られない側面に迫る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="横須賀・ヴェルニー公園の小栗上野介忠順像" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260609oguritadamasa.jpg" width="1200" />横須賀・ヴェルニー公園の小栗上野介忠順像（撮影：PHPオンライン編集部）</p>

<p>2027年の大河ドラマの主人公は小栗忠順ですが、彼が何をしたのか、語れる人は少ないのではないでしょうか。<br />
攘夷思想が蔓延する幕末において「外国から学ぶべき」と日本の近代化を訴え、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行などを歴任し、幕政改革に尽力した忠順。彼の人物像とは...？<br />
天才官僚でありながら、仕事をしない役人を「うんこ製造機」と批判した逸話など、歴史学者の本郷和人氏が、小栗忠順の「すごさ」とともに「やばい」一面も紹介します。</p>

<p>※本稿は、本郷和人監修、滝乃みわこ著『東大教授がおしえる 超！やばい日本史』（ダイヤモンド社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>混乱期に近代日本の基礎をつくった天才</h2>

<p>黒船来航により日本が開国し、混乱した幕府を支えた天才エリート官僚が、小栗忠順です。</p>

<p>「外国人を追い出せ」という攘夷思想がはびこるなか、「日本の未来のためには、逆に外国から学ぶべき！」とアメリカへ行き、日本の外交・経済の近代化を推し進めました。</p>

<p>アメリカから帰国した忠順は「日本も自分たちの力で軍艦や機械をつくれるようにならなければ」と考え、フランスと協力して「横須賀製鉄所」を建設します。</p>

<p>これは日本で初めての本格的な近代工場で、のちの横須賀造船所の元になりました。忠順の行動は、日本の「ものづくり」の始まりでもあったのです。</p>

<p>また、忠順は「経済がしっかりしていないと国は強くなれない」と、税の仕組みや通貨制度も見直そうとしました。金や銀の流通を整え、外国との貿易を公平にし、日本の産業が成長できるよう努力しました。</p>

<p>幕府は新政府に倒されてしまいますが、早くから「鉄道も必要だ」と主張していた彼の考え方は、のちの明治政府の政策にもつながっていきます。</p>

<p>未来志向で政策を実行した彼が幕府にいなければ、日本の近代化はもっと遅れていたかもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>優秀すぎて無能な役人にイライラ</h2>

<p>優秀すぎる小栗忠順は、無能な幕府の役人たちにイライラしがちでした。</p>

<p>あるとき、忠順は仕事をしない役人を「あいつらは製糞機だ」とよびました。これは「ごはんを食べて出すだけのうんこ製造機」という意味。</p>

<p>外国にビクビクし、ただ指示を待つだけで自分から行動しない幕府の役人たちに、かれはとても怒っていたのです。</p>

<p>でも、忠順の頭脳についてこられる人はなかなかいませんでした。</p>

<p>幕府最後の将軍・徳川慶喜が政権を天皇に返した大政奉還のあと、かれは「新政府軍と戦うべきだ！」と主戦論を唱えて作戦を立てますが理解されず、すべての役職をクビになってしまいます。</p>

<p>のちにかれの作戦を聞いた新政府軍は「その作戦が実行されていたら負けてたかも......」と恐れおののいたそうです。</p>

<p>クビになった忠順は家族とともに、おとなしく群馬で暮らすことにしました。</p>

<p>しかし、新政府は優秀すぎる忠順がこわかったのでしょう。「徳川埋蔵金や武器を持ち出して反乱をたくらんでいる」というデマを流され、取り調べもないままつかまり、41才のときに斬首されてしまいます。</p>

<p>生まれるのが早すぎた忠順ですが、いまでは「日本の近代化を最初に実行した人物」と再評価が進んでいます。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 29 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[本郷和人（歴史学者）,滝乃みわこ（執筆者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>家康は食い逃げ、光秀の妻は信長をボコボコに　本郷和人が明かす戦国武将のやばい事件  本郷和人（歴史学者）,滝乃みわこ（執筆者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14439</link>
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			<description><![CDATA[信長のお気に入りを殺害してしまった前田利家、武田軍に負けて逃げる途中で「食い逃げ」をしてしまった徳川家康など、戦国武将たちがやらかした「やばい事件」を本郷和人氏が解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="徳川家康" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_tokugawaieyasu.jpg" width="1200" /></p>

<p>ドラマ等では勇ましい姿で描かれる戦国武将ですが、加賀百万石の礎を築いた前田利家も、江戸幕府を開いた徳川家康も、若い頃には「殺人」や「食い逃げ」など、驚くような失態をやらかしていました。歴史学者・本郷和人氏が、戦国武将たちの「やばい事件」をひも解き、教科書ではわからない彼らの素顔を浮き彫りにします。</p>

<p>※本稿は、本郷和人監修、滝乃みわこ著&nbsp;『東大教授がおしえる さらに！やばい日本史』、『東大教授がおしえる 超！やばい日本史』（ダイヤモンド社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>元恋人・信長のお気に入りを殺害してしまった前田利家</h2>

<p>身長180cm以上もあるイケメンだったといわれている前田利家。若いころは相当ヤンチャで、織田信長とともに不良ファッションで街を練り歩く傾奇者でした。</p>

<p>じつは、ふたりは恋人でもありました。この時代、男性どうしの恋愛はめずらしくなく、信長が家臣団の前で利家についてのろけたという加賀藩の公式記録も残っています。</p>

<p>時がたち、利家はまつと結婚。信長は拾阿弥（じゅうあみ）という茶坊主をかわいがるようになりました。拾阿弥は信長の元恋人にマウントをとりたかったのか、利家にイヤミ攻撃をしかけます。しかもそれではあきたらず、利家がまつにもらった大事な笄（こうがい／髪を整える道具）をぬすんだのです。</p>

<p>とうとう怒った利家は信長に「殿、拾阿弥を斬ってもいいですか!?」とうったえますが、信長は「まあまあ......大目に見てやってよ」と露骨に拾阿弥をえこひいき。</p>

<p>利家もいったんは信長の顔を立てて引き下がったものの、拾阿弥に「返してほしいか？ ほれほ～れ」とでもバカにされたのか、やっぱりブチギレて信長の目の前で拾阿弥を斬り捨ててしまいました。</p>

<p>信長は「もう顔を見せるな！」と利家に激怒。信長にゆるしてもらうまで、利家は浪人同然の貧乏生活を送るはめになったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ターボおばあちゃんに追いつかれる！家康の食い逃げ事件</h2>

<p>徳川家康には、若いころに食い逃げをした逸話が残っています。</p>

<p>「三方ケ原の戦い」で武田信玄に負けてしまった家康は、あわてて自分の浜松城に逃げ帰ることになりました。<br />
逃げる途中、つかれて腹ペコだった家康は、あるおばあちゃんのお店で小豆餅を食べたといわれています。</p>

<p>でも、食べている途中に武田軍が追いかけてきたので、お金をはらわずにあわてて逃げてしまったのです。</p>

<p>「おい！ 食い逃げしてんじゃねえええ!!」</p>

<p>家康からお金をもらえなかったお店のおばあちゃんはブチギレました。<br />
なんと武田軍よりも速いスピードで疾走し、逃げた家康を追いかけたのです。</p>

<p>そして浜松城に近い場所で家康に追いつき、きっちりお金を徴収。憤怒の形相のターボおばあちゃんにタックルされた家康は、武田軍に追いつかれたと思って死を覚悟したことでしょう。</p>

<p>そのお店があった場所はのちに「小豆餅」、お金を受け取った場所は「銭取」という地名でよばれるようになりました。小豆餅から銭取までの距離は2km以上。</p>

<p>おばあちゃんの元気さとねばり強さ、そしておそろしいほどの執念は現代に語り継がれているのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>本能寺の変は、光秀の妻が信長をボコボコにしたせい？</h2>

<p>明智光秀は妻を大切にした愛妻家としても有名ですが、妻をめぐって光秀夫婦に大迷惑がふりかかった、こんな逸話があります。</p>

<p>きっかけは、織田信長が家臣たちを集めて始めた「どの武将の奥さんが美人か」というくだらない男同士のトークでした。話が盛り上がるなか、ひとりの家臣が「そりゃあ明智殿の妻の煕子（ひろこ）殿が天下一ですよ」と言いました。</p>

<p>そこで信長は煕子の顔が見たくなり、城内にやってきた煕子のあとをつけて、いきなり後ろから抱きついたのです。おどろいた煕子は、とっさに持っていた扇で信長をボコボコにしました。</p>

<p>相手がおそろしい信長だと知っていればそんなことをするはずもありませんが、煕子は信長の顔を知らなかったのです。</p>

<p>人妻にセクハラをしておいて勝手なものですが、信長は恥をかかされたと怒り、光秀にパワハラをするようになりました。とんだ逆恨みです。</p>

<p>パワハラのストレスからか、光秀は激しい下痢に苦しみます。その看病をしていた煕子も病気で倒れ、なんと死んでしまいました。</p>

<p>ブラック上司に疲れ果て、最愛の妻までも失った光秀は、とうとうキレて本能寺の変を起こしたのかもしれません。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 22 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[本郷和人（歴史学者）,滝乃みわこ（執筆者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>歴史学者・本郷和人が明かす秀吉のやばい実像　妻への「うんこ」手紙とコスプレ大会  本郷和人（歴史学者）,滝乃みわこ（執筆者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14438</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014438</guid>
			<description><![CDATA[歴史学者の本郷和人氏が豊臣秀吉の「やばい」素顔を紹介。愛妻のねねに「うんこ」を連発する手紙を送る、63億円相当の金銀を1日で放出、朝鮮出兵前にコスプレ大会を開くパリピぶり、など驚きの姿を紹介。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="豊臣秀吉" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_toyotomihideyoshi.jpg" width="1200" /></p>

<p>現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟！』で注目を集める豊臣秀吉。戦国時代随一の出世を遂げ、「人たらし」のイメージが定着していますが、その素顔はなかなかにクセの強い人物だったようです。現代人の常識からは想像もできない「奇行」とは？<br />
歴史学者の本郷和人氏が、天下人の「リアルな姿」に迫ります。</p>

<p>※本稿は、本郷和人監修、滝乃みわこ著『東大教授がおしえる 超！やばい日本史』（ダイヤモンド社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>便秘で苦しむねねに「めでたい知らせを待ってるね」</h2>

<p>豊臣秀吉は当時としてはめずらしく、恋愛結婚をした妻のねねをとても大事にしていました。秀吉が戦でねねのそばを離れていたときに送った、こんな手紙があります。</p>

<p>具合が少しよくなったと聞いて一安心。帰ったらすぐにお見舞いに行くからね。下剤を飲んで、うんこ（大便）をちょっとでもいいから出していこう！<br />
追伸：やっぱり下剤を飲んで、うんこを出そう！ うんこがどのくらい出たか、めでたい知らせを待ってるね。（以上、現代語訳）</p>

<p>どうやら、ねねは便秘で苦しんでいたようです。「大便」3連発の手紙を送られたねねは恥ずかしかったかもしれませんが、ふたりがかなりの仲良し夫婦だったことが伝わります（まあ、秀吉の子を産んだ側室の茶々は戦場に連れて行っているのですが......）。</p>

<p>その後も秀吉はねねに、</p>

<p>今度の遠征では白髪が増えちゃって、ねねに会うのが恥ずかしいよ。ねねにだけは、そんな気づかいはしなくていいと思うけど......。（以上、現代語訳）</p>

<p>と、かわいい手紙を書いています。側室がたくさんいても「ねねだけは特別」と言われたら悪い気はしなかったのでしょう。</p>

<p>「人たらし術」で出世したといわれる秀吉は、家族に対しても気づかい上手だったのかもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>63億円相当の金銀を1日で放出</h2>

<p>戦国の世を勝ちぬき、日本統一を果たした豊臣秀吉。かれはつねに「信長超え」にこだわっていました。</p>

<p>信長超えの人気を獲得するために、秀吉は「お金配りおじさん」になりました。</p>

<p>現代でいう約63億円もの金銀を積みあげ、たった1日で武将や公家たちにばらまいたのです。見物料1万円を徴収した信長と正反対の大サービスですね（編集部注：信長は安土城に多くの武将を招き、現代の価値で見物料1万円ほどを徴収した。『東大教授がおしえる 超！やばい日本史』参照）</p>

<p>信長を超える豊かさをアピールするために、秀吉は「黄金の茶室」もつくりました。もともと茶の湯はせまくて暗い空間で質素に楽しむものですが、かれは茶室を金ピカにかがやかせたのです。</p>

<p>この茶室は持ち運びもできたため、京都の北野天満宮で開いた北野大茶の湯にも「黄金の茶室」を持っていき、身分の高い人から庶民まで1000人を超える人たちに、千利休たちとともに茶をふるまったといわれています。</p>

<p>さらに「瓜畑遊び」というコスプレ大会まで開くパリピぶり。これは武将たちが物売りやお坊さんの仮装をし、かれ自身も瓜売りの格好をしてショートコントをするというイベント。</p>

<p>しかしこれは大量の死者を出した朝鮮出兵前のタイミングだったので、武将たちは内心「はしゃいでる場合かよ！」とイラついたことでしょう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 15 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[本郷和人（歴史学者）,滝乃みわこ（執筆者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>国防の要・対馬　未知の敵に挑んだ人々の面影を求めて  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14433</link>
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			<description><![CDATA[長崎県対馬市に関する歴史紀行文。対馬市は蒙古襲来の最初の戦場となった地で、今も元軍と戦った人々をしのぶ史跡が残されている。それらを歴史街道編集部が訪ね、紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="金田城跡" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima11n.jpg" width="1200" />写真：金田（かねだ）城跡（提供：対馬観光物産協会）</p>

<p>対馬は、日本人が元軍と最初に戦った地で、宗助国（そうすけくに）をはじめ、未知の敵に果敢に立ち向かった人々がいた。それらの歴史の足跡は、今もなお、対馬でたどることができるという。編集部が実際に足を運んでみると、ありし日の彼らの姿が蘇ってきた──。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>城下町の面影</h2>

<p><img alt="万松院" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima1n.jpg" width="1200" />写真：万松院（ばんしょういん）</p>

<p>対馬の人々は、未知なる敵・元軍を相手に、どのようにしてこの地を守ろうとしたのだろうか。</p>

<p>対馬観光物産協会の西護さんと舟橋仁さんに案内いただき、最初に向かったのは、厳原（いづはら）港から車で約3分の万松院だ。</p>

<p>「宗氏は鎌倉時代末期に対馬の実権を握り、江戸時代には対馬藩主として、10万石以上の格式を誇った一族です。そんな宗氏の初代が、元軍と戦った宗助国でした。</p>

<p>万松院は元和元年（1615）に20代の義成（よしなり）が創建した、宗家の菩提寺です」</p>

<p>と、西さん。</p>

<p>万松院周辺の石垣は美しく、百雁木（ひゃくがんぎ）と呼ばれる石段はおごそかだ。鎌倉以来、この地を守り続けてきた宗氏の威信が感じられる。</p>

<p>万松院のある一帯を進んでいると、公共施設の塀に石垣が使われているなど、現代の建築物と旧跡が融合した街並みが目に入る。</p>

<p>舟橋さんによると、厳原は古くから政の中心地で、江戸時代には城下町として栄えたそうだ。</p>

<p>今なお厳原には、武家屋敷の石垣が多く残され、城下町の面影を感じさせる。対馬の人々は、蒙古襲来があっても、この街を復興させ、発展させてきたのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>武士たちの奮闘</h2>

<p><img alt="宗助国公御首塚" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima2n.jpg" width="1200" />写真：宗助国公御首塚（おくびづか）</p>

<p>次に向かうのは、文永の役で元軍を迎え撃った宗助国の御首塚だ。万松院から車で西へ約16分。ここに助国の首が葬られたという。</p>

<p>御首塚から車で約2分のところには助国の太刀（たち）塚、さらにそこから約1分の場所に御胴（おどう）塚もある。いずれも木々に囲まれた閑静な地で、対馬の人々が助国を弔い続けてきたことが窺える。</p>

<p><img alt="宗助国公太刀塚" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima3n.jpg" width="1200" />写真：宗助国公太刀塚</p>

<p><img alt="宗助国公御胴塚" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima4n.jpg" width="1200" />写真：宗助国公御胴塚</p>

<p>次に向かったのは、宗助国の御胴塚から車で5分ほどのひじき壇という丘だ。</p>

<p>蒙古襲来時、ひじき壇のある地域は、佐須浦（さすうら）と呼ばれる海岸部であったとされ、文永の役では3万以上の元軍のうち、約1000人が佐須浦に上陸したとされる。</p>

<p>文永11年（1274）10月5日の夕刻、元軍来寇の報せを受けた助国は、80余騎を率いて出陣。険しい山が続く夜道を通り、佐須浦へ向かったという。</p>

<p>そして助国が陣を構えたのが、小茂田浜（こもだはま）近くのひじき壇だったのだ。</p>

<p>ひじき壇には現在、金毘羅（こんぴら）神社が鎮座し、鳥居をくぐると急な階段が続く。苔がむしたおもむきある階段を登っていくと一気に視界が開け、小茂田浜が一望できる。</p>

<p><img alt="ひじき壇の階段" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima6n.jpg" width="1200" />写真：ひじき壇の階段</p>

<p><img alt="ひじき壇から小茂田浜を見下ろす" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima5n.jpg" width="1200" />写真：ひじき壇から小茂田浜を見下ろす</p>

<p>「10月6日早朝に戦いが始まり、助国たちは奮戦しましたが、大宰府への伝令2名を脱出させた後、全員が討ち死にしたとされます」</p>

<p>西さんの言葉に胸が詰まる。</p>

<p>次に向かったのは、助国をはじめ、蒙古襲来で亡くなった武士たちを祀る小茂田浜神社だ。ひじき壇から車で2分ほどで、海が広がる小茂田浜海浜公園も近い。</p>

<p><img alt="小茂田浜神社" height="1600" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima9n.jpg" width="1200" />写真：小茂田浜神社</p>

<p><img alt="小茂田浜海浜公園" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima8n.jpg" width="1200" />写真：小茂田浜海浜公園</p>

<p>参道を進むと、文永の役から750年を記念して建てられた、宗助国の騎馬像が目に入ってくる。弓をつがえるその勇姿から、助国の奮戦ぶりが思い浮かぶ。</p>

<p><img alt="宗助国公騎馬像" height="1600" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima7n.jpg" width="1200" />写真：宗助国公騎馬像</p>

<p>続いて訪ねたのは、小茂田浜神社から車で北へ約20分の越前五郎（えちぜんごろう）の墓。</p>

<p>文永の役では、小茂田浜以外にも対馬各地が戦場となっており、その一つが、加志（かし）という地域で、助国の庶兄とされる越前五郎盛賢（もりたか）が討ち死にした地と伝わる。</p>

<p>墓は室町時代の建立とみられるそうだが、対馬では時代を超えて、元軍に立ち向かった人々を、語り継ごうとしてきたのだろう。</p>

<p><img alt="越前五郎の墓" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima10n.jpg" width="1200" />写真：越前五郎の墓</p>

<p>最後に向かったのは、越前五郎の墓から車で12分ほどの金田城跡。</p>

<p>古代における白村江の戦い後、唐・新羅の反攻に備え、堅固な地形を利用して築かれた山城だ。</p>

<p>それだけに、本来はなかなか足を運べない金田城だったが、日露戦争に備えて砲台が設置され、山頂近くまで道が整備された。</p>

<p>今はその道によって多くの人が訪れ、あるテレビ番組では日本「最強の城」に選定されているほどだ。</p>

<p>蒙古襲来だけでなく、古代から近現代まで、常に国防の要であった対馬。そんな地を守ろうとした人々に想いを馳せながら、現地をめぐってみるといいだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p><img alt="対馬元寇関連マップ" height="1733" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima12n.jpg" width="1200" /></p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607tsushima11n.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 12 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>古代から近現代まで...元寇激戦の島・壱岐は歴史の交錯地だった！   歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14432</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014432</guid>
			<description><![CDATA[長崎県壱岐市に関する歴史紀行文。壱岐市には原の辻遺跡、豊臣秀吉にまつわる勝本城、昭和に築かれた黒崎砲台跡など、古代から近現代に至るまでの史跡が存在する。そんな壱岐市の史跡を編集部が紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="原の辻遺跡" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki2n.jpg" width="1200" />写真：原の辻（はるのつじ）遺跡</p>

<p>蒙古襲来時の激戦地・壱岐には、現在でも、それにまつわる史跡が多く残されている。同時に、『魏志』倭人伝に記された「一支国（いきこく）」の王都と特定された原の辻遺跡や数々の古墳、豊臣秀吉が朝鮮出兵に備え築いた勝本（かつもと）城、さらには昭和に築かれた黒崎（くろさき）砲台跡など、古代から近現代にいたるまで、幅広い時代の史跡が数多く存在する。歴史の交錯地ともいえる壱岐を、編集部がめぐる。</p>

<h2>古代、交易の地として</h2>

<p><img alt="壱岐市立一支国博物館 " height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki1n.jpg" width="1200" />写真：壱岐市立一支国博物館</p>

<p>長崎県の壱岐市には数多くの史跡があり、様々な視点から、歴史を感じ取ることができる。今回は古代から近現代までの時代ごとの歴史を、車でたどることにした。</p>

<p>まず足を運んだのは、芦辺（あしべ）港から車で15分ほどの壱岐市立一支国博物館だ。</p>

<p>壱岐市文化スポーツ振興課文化財班の松見裕二さんに案内していただきながら、館内をめぐる。</p>

<p>博物館には、原の辻遺跡をはじめ、島内の遺跡や古墳からの出土品が多数展示されている。</p>

<p>「壱岐は、中国の歴史書『魏志』倭人伝にも『一支国』の名で記されていて、海外との交流・交易を行なう外交都市でした。そんな一支国の拠点として栄えた場所が、原の辻遺跡です」</p>

<p>次に、実際に原の辻遺跡を歩くことに。博物館からは車で5分ほどだ。</p>

<p>原の辻遺跡には、竪穴住居や物見櫓など17棟の建物が復元されており、この地が交易でにぎわっていた姿が目に浮かぶようだった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>古墳時代の足跡</h2>

<p><img alt="双六古墳" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki3n.jpg" width="1200" />写真：双六（そうろく）古墳</p>

<p>壱岐には、280基以上もの古墳がある。</p>

<p>松見さんの案内で、原の辻遺跡から車で15分ほどの双六古墳へ向かう。双六古墳は、6世紀後半に造られた県内最大の前方後円墳だ。</p>

<p>古墳の前方部分に登ってみると、その大きさに驚かされる。</p>

<p>「壱岐の古墳には、日本の他の地域で見られる古墳とは異なる点が多数あります。</p>

<p>例えば、埴輪が出土していないこと。諸説ありますが、埴輪には、埋葬された人が寂しくないように並べる意味があったとされます。</p>

<p>しかし、壱岐の古墳は、埋葬後も人々が石室に入れるつくりになっているため、埴輪を並べる必要がなかったようです」</p>

<p>次に訪ねたのは、双六古墳から車で約2分の掛木（かけぎ）古墳。7世紀前半に造られた円墳で、県内で唯一、刳抜式家形（くりぬきしきいえがた）石棺という、石を刳り抜いて造った棺が置かれた古墳だ。</p>

<p>この古墳、なんと石室に入ることができる。入ってみると、石棺がそのままの姿で残っている。古代の息吹を感じられる貴重な機会に、思わず胸が高鳴る。</p>

<p>市内には掛木古墳以外にも、内部に入れる古墳が多数あり、古墳群を目当てに壱岐を訪れる人も多いそうだ。</p>

<p><img alt="掛木古墳" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki4n.jpg" width="1200" />写真：掛木古墳</p>

<p><img alt="掛木古墳内の石棺" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki5n.jpg" width="1200" />写真：掛木古墳内の石棺</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>元軍との激戦が繰り広げられ...</h2>

<p><img alt="新城神社" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki6n.jpg" width="1200" />写真：新城（しんじょう）神社</p>

<p>鎌倉時代、日本を揺るがす大事件が勃発する。元軍による、2度の日本襲来だ。壱岐の地でも激戦が繰り広げられ、今もそれにまつわる史跡が多数残されている。</p>

<p>壱岐市文化スポーツ振興課文化財班の立石徹さんにご案内いただきながら、蒙古襲来関連の史跡をめぐることに。</p>

<p>文永11年（1274）、元軍が最初に来襲した文永の役に際して、この地で元軍を迎え撃ったのが、壱岐守護代を務めていた平景隆（かげたか）だ。</p>

<p>景隆は居城・樋詰（ひのつめ）城から100余騎を率いて出陣し、唐人原（とうじんばる）などで元軍と激戦を繰り広げるも、退却を余儀なくされ、樋詰城で包囲され自害したとされる。</p>

<p>樋詰城の跡地と考えられている新城神社は、掛木古墳から車で8分ほどのところにあり、境内には平景隆の墓もある。</p>

<p>「実はこの神社は、明治期に造られたものなんです。文永の役は短期間で終わったこともあり、壱岐には元寇の考古学的な痕跡が残っていません。</p>

<p>ただ、戦いにまつわる言い伝えが多く残されているので、元側の史料とともに、多角的に組み合わせて検証していく必要があります」</p>

<p>文永の役で激戦が繰り広げられた地としての伝承があることから、新城神社の近くには「文永の役 新城古戦場」の碑が建っている。</p>

<p>田畑に囲まれた穏やかな地であるが、かつて平景隆らが未知の敵と果敢に戦ったことが、まぎれもない史実として実感される。</p>

<p><img alt="文永の役新城古戦場" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki7n.jpg" width="1200" />写真：文永の役新城古戦場</p>

<p>文永の役から7年後の弘安4年（1281）、壱岐に再び元軍がやってくる。</p>

<p>この際、元軍相手に奮戦した人物として知られるのが、壱岐守護代だったとされる少弐資時（しょうにすけとき）だ。</p>

<p>「文永の役 新城古戦場」の碑から車で約8分、資時が祀られている壱岐神社へと向かう。</p>

<p>白い大きな鳥居が目を引く壱岐神社は、昭和に創建され、本殿内には蒙古襲来時の碇石（いかりいし）との伝承が残る石や、資時の奮闘を描いた絵画が飾られている。</p>

<p>「襲来時の碇石とされる石は島内に多数あるのですが、壱岐の江戸時代の文献には『碇石にいたずらをすると祟られる』との言い伝えがあります。元軍の脅威は、後の時代の人々にも受け継がれていたのでしょう」</p>

<p>と、立石さん。</p>

<p>神社の裏手を山側に歩いていくと、少弐資時の墓が現われる。19歳にして元軍と懸命に戦い、若い命を散らした資時の姿が思い浮かび、胸が詰まる。</p>

<p><img alt="壱岐神社" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki8n.jpg" width="1200" />写真：壱岐神社</p>

<p><img alt="少弐資時の墓" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki9n.jpg" width="1200" />写真：少弐資時の墓</p>

<p>壱岐神社から車で約3分、芦辺港のターミナルには、元寇720年記念事業に際して建立された少弐資時像が勇姿を見せ、今もなお、芦辺港から往来する人々を見守っているようにも思えてくる。</p>

<p><img alt="少弐資時像" height="1342" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki10n.jpg" width="1200" />写真：少弐資時像</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦国時代の史跡も</h2>

<p><img alt="聖母宮" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki11n.jpg" width="1200" />写真：聖母宮（しょうもぐう）</p>

<p>次に向かったのは、少弐資時像から車で約15分の馬場先（ばばさき）元軍上陸地の碑だ。文永の役の際、元軍は三方向から壱岐に上陸したとされ、馬場先はそのうちの一つである。</p>

<p>馬場先元軍上陸地の碑からすぐ近くには、奈良時代初期に創建された古社、聖母宮がある。</p>

<p>豊臣秀吉による文禄の役の際、この地には日本軍が駐屯しており、聖母宮の表門と石垣は加藤清正が、裏門は鍋島直茂が寄進したものだという。</p>

<p>聖母宮では御朱印をいただくこともでき、種類も多彩だ。壱岐には1000近い神社があるが、聖母宮以外にも、御朱印をいただける神社が多数ある。</p>

<p>御朱印をいただく際には事前予約が必要な神社も多いので、壱岐観光ナビなどのポータルサイトで調べてから訪ねるといいだろう。</p>

<p>ちなみに、聖母宮の近くには、江戸時代に朝鮮から日朝友好の証として派遣された朝鮮通信使の迎接所跡地もある。</p>

<p>続いて、聖母宮から車で4分ほどの勝本城跡に向かうことに。</p>

<p>勝本城は朝鮮出兵の際に秀吉が築城を命じた城で、天正19年（1591）、松浦鎮信（まつらしげのぶ）が中心となり、なんと4カ月で築城したものだという。朝鮮半島に向かう兵士の食糧や武器等の補給を行なう兵站基地として機能したそうだ。</p>

<p>美しく積み上げられた石垣が今も残されていて、見事だ。再び松見さんに伺うと、この石垣は戦国時代に活躍した石工集団、穴太（あのう）衆の技術が凝縮されたものだそうだ。</p>

<p>「勝本城は、徳川家康の時代になると、朝鮮との関係改善の意思表示として壊されています。朝鮮通信使は、日本が勝本城を壊したことをその目で確認しており、この城がいかに重要なものであったかが窺えます」</p>

<p><img alt="勝本城" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki12n.jpg" width="1200" />写真：勝本城跡</p>

<p>最後に、昭和8年（1933）に建造された黒崎砲台跡を訪ねた。勝本城跡からは車で約16分だ。</p>

<p>黒崎砲台は、対馬海峡を通過する艦船を攻撃するために設置されたもので、当時、東洋一の射程距離を誇った砲台である。</p>

<p>砲台の近くには、猿岩（さるいわ）と呼ばれる猿の形をした岩が見られるスポットがある。そこにある土産店の裏側のスロープを上がると、砲台跡の大穴を上から見学することができる。</p>

<p>巨大な穴を覗いてみると、その大きさに驚かされる。実戦で使用されることはなかったそうだが、戦前の日本が感じられる貴重な戦争遺産だ。</p>

<p><img alt="黒崎砲台跡" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki13n.jpg" width="1200" />写真：黒崎砲台跡</p>

<p>古代から近現代までの壱岐の史跡をたどってみると、交易の場として栄えるだけでなく、軍事的にも重要な土地であり、折々の時代において、要衝として機能していたことが実感される。</p>

<p>壱岐は様々な視点から歴史をたどれる地だ──その魅力を改めてかみしめながら、この地を後にした。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p><img alt="壱岐史跡関連マップ" height="1416" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki14n.jpg" width="1200" /></p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260607iki2n.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 12 Jun 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>伝統工芸「近江上布」とは？1時間にわずか10cm、秀吉も愛した高級麻布  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14343</link>
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			<description><![CDATA[秀吉も愛した最高級の麻織物「近江上布」。中山道の宿場町で育った伝統工芸は、今も職人による緻密な手作業で織り上げられています。湖国・滋賀に息づく幻の職人技の過去と現在をたどります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="中山道の高宮宿に建つ、多賀大社「一の鳥居」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/202605SuishinTakamiya01.jpg" width="1200" />写真：中山道の高宮宿に建つ、多賀大社「一の鳥居」。寛永12年（1635）の建立の記録がある</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>滋賀県琵琶湖の東側・湖東地域を、旧街道である中山道が通る。東海道とともに京と江戸を結んだ基幹道であり、街道の宿場は旅人で大いににぎわい、また、地域の商人たちはこの街道を利用して各地に雄飛し、近江商人の名で全国に知られることになった。</p>

<p>その近江商人たちが当初から扱った地元の産物が、麻織物であったという。その系譜は今も引き継がれて、高級織物「近江上布（おうみじょうふ）」として知られ、国指定の伝統的工芸品にもなっている。湖東中山道の宿場の歴史とともに、近江上布の過去と現在を、生産の中心地・愛荘町にある施設でたどる。</p>

<p>【兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【（編者）歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>湖東地域の発展の礎、中山道の宿場にて</h2>

<p>古代の律令制時代、畿内から東国・東北地方につながる官道・東山道が敷かれた。中山道はこの道を基礎に、東海道などとともに江戸幕府が整備した五街道の一つであり、江戸日本橋から京都三条大橋の間に69次の宿場が設けられた。江戸・京都間においては、東海道より遠回りになり、峠も多かったが、太平洋沿岸を通る東海道は、増水でしばしば通行ができなくなる河川が多く、安定して通行できる中山道を利用する旅人や、参勤交代の大名も多かった。幕末、将軍家に降嫁する和宮の一行がこの道を通ったこともよく知られている。</p>

<p>近江国（滋賀県）においては、関ヶ原方面から入って、柏原（かしわばら）・ 醒井（さめがい）・番場・鳥居本・高宮・愛知川（えちがわ）・武佐（むさ）・守山の宿場を経て、草津宿で東海道と合流し、大津宿を経由して京都三条大橋に至った。</p>

<p>それらの近江の宿場で特に栄えたのが、中山道の宿場のなかでも第2の規模を誇ったという高宮宿であった。彦根城下と結ぶ彦根道との合流地にして、伊勢神宮と並ぶほどの参拝者が訪れた多賀大社へと向かう参道の分岐点という要衝の利があったが、周辺地域で生産される麻織物の集散地となったことが、経済面の繁栄にとって大きかった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>全国で知られた近江の麻布ブランド「高宮布」</h2>

<p><img alt="近江上布伝統産業会館内で展示されている、「絣」生地の着物と「生平」の帯の見本" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/202605SuishinTakamiya02.jpg" width="1200" />写真：近江上布伝統産業会館内で展示されている、「絣（かすり）」生地の着物と「生平（きびら）」の帯の見本</p>

<p>湖東地域では、室町時代から麻織物が生産され、贈答などに用いられたことが古文書に記されている。なかには、多賀大社の神職が、豊臣秀吉に朝鮮出兵の陣中見舞いとして帷子（かたびら）五端を送ったという記録もあり、珍重されていたことがしのばれる。</p>

<p>江戸時代に入ると、彦根藩が麻織物を保護・統制するなかで、地域の農家の副業として生産が盛んとなり、それを仕入れて販売する問屋・小売りを兼ねた店が高宮宿に建ち並び、江戸時代後期には十数軒を数えた。その製品は「高宮布」と呼ばれ、「奈良晒（さらし）」「越後縮（ちぢみ）」と並ぶ、名産品として全国に知られることとなる。</p>

<p>そうした高宮の麻織物問屋のなかでも格別の存在として名が伝えられるのが、「布惣（ぬのそう）」である。幕末の安政期（1855-1860）ごろには、7つの蔵を構え、それを満杯にする高宮布が年に12回、集荷と出荷を繰り返すのが通例であったという。現在も当時の隆盛を伝える5つの蔵と旧宅の建物が高宮宿に残っている。</p>

<p>これほど湖東地域で麻織物産業が発展した理由として、地理的にも生産に適していたことが挙げられる。周辺の山々から琵琶湖に注ぐ河川や湧水が、布の製造において大量に必要とする清水を供給できたこと。また、伸縮性がない麻の繊維は乾燥すると切れやすく、琵琶湖によって湿潤な気候が保たれることも、機織りの作業に有利であった。</p>

<p>素材である麻糸を現地で生産するのではなく、早くからほかの生産地より買い入れていたことも、大量生産を可能とし、産業としての確立につながった。良質の麻糸として知られた、群馬の「岩島麻」や栃木の「野洲麻」を仕入れて製造したといい、ここでも中山道という輸送路と近江商人が大いに活躍したとみられる。</p>

<p>明治維新は、近江の麻織物産業にとっても大きな転換点となった。彦根藩の保護を失うとともに、鉄道の開通など交通の近代化によって、街道の宿場を拠点とした高宮布は衰退。代わって、もともと織物の生産地であった愛知川周辺に織機を導入した工場が設けられ、麻織物産業の中心地となっていく。</p>

<p>一方で、湖東地域の生産者たちは手織りの技術の継承にも取り込んできた。その伝統の手織り技法で織られた上質の麻織物を「近江上布」と称し、昭和52年（1977）に国の伝統的工芸品に指定されている。</p>

<p>「滋賀県では、琵琶湖を中心にして周辺地域を、湖北・湖南・湖西・湖東という言い方をします。湖北には浜縮緬（ちりめん）という絹織物があり、湖西には高島ちぢみという綿織物が伝えられています。同じ県のなかに三種の自然素材の産地が存在するのは滋賀県だけです。そのなかでもっとも古いのが、湖東地域の麻織物です。そして、絹と綿の織物生産は、現在はすべて機械化されていて、昔からの手作業による織りの技術を唯一残しているのも、もっとも古いこの湖東の麻織物なのです」と語るのは、愛荘町にある近江上布伝統産業会館の事務局長・田中由美子さんである。</p>

<p>同会館は、滋賀県麻織物工業協同組合の拠点で、地元の麻織物の生地や商品の販売のほか、近江上布の職人の育成、手織り体験などを通しての織物文化の発信も進めている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>今に見出す、伝統工芸「近江上布」の価値</h2>

<p><img alt="「地機」を使って生平を織る" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/202605SuishinTakamiya03.jpg" width="1200" />写真：「地機（じばた）」を使って生平を織る。現在は、和装の帯として織ることが多い。地機は「腰機（こしばた）」ともいい、織った布の側を巻き付ける棒を腰に固定し、体重を後に掛けることで経糸（たていと）が張り、前に体重を移して緩めると経糸が上下に分かれて緯糸（よこいと）を通せるようになる。体を織り機の一部のようにして体重の掛け方を調整するのが大事という。織れるのは1時間で10センチほどとか</p>

<p>現在、世の中に出回る衣料に使われている麻布の80パーセントから90パーセントは、リネンであると田中さんは教えてくれる。リネンは亜麻（あま）という植物の繊維から織られたもので、肌触りの柔らかさを特徴とする。ただし、この亜麻は欧州原産で、リネンが日本で普及したのも明治時代中期以降のことという。</p>

<p>「近江上布には、『生平（きびら）』と『絣（かすり）』という2種の織物があり、こちらは古来から日本にある大麻（おおあさ）・苧麻（ちょま）の繊維を素材としています」と、それらの詳細も田中さんが説明してくれる。</p>

<p>「生平」は室町時代とほぼ同じ技術で作られており、染色した糸は使わず、緯糸に大麻の「手績（う）み」の糸を使用する。手績みとは、植物の繊維を割いて指先で縒（よ）り合せて糸にすること。非常に時間を要する。織り機も、現在はほかで使われることがない「地機」と呼ばれる古い形式のものを使用。生平を織っているのは、伝統産業会館に所属する職人のみである。</p>

<p>大麻は、繊維としてはヘンプともいい、丈夫だが、粗野な固い素材とみなされてきた。ただし、加工の仕方で柔らかな繊維にもできる。古くから日本で麻といえば、この大麻を指したが、現在、伝統的工芸品に指定されている麻織物のなかで大麻を用いるのは、近江上布の生平だけである。大麻も伝統産業として認められた地域でしか、栽培が許可されていない。また、亜麻や苧麻の繊維は、近代の紡績技術によって糸にしやすかったが、大麻の繊維は不向きであまり糸に加工されなかった。そうした事情から、繊維表示においては「麻」と表示できず、指定外繊維の扱いを受けていたが、近年はようやく「大麻」と表示することができるようになったという。</p>

<p>「とはいっても、大麻は苧麻とともに縄文時代から布を作るために使われてきた植物です。特に大麻の繊維は、日本では古くから清浄な資材と見なされ、織った布は『荒妙（あらたえ）』と呼ばれて、絹を織った『和妙（にぎたえ）』とともに神事で調進されてもきました」。</p>

<p>「絣」のほうは、苧麻の糸を使用。苧麻は「からむし」「青苧（あおそ）」とも呼ばれ、織物としては英語のラミーという名称もよく使われる。独特のシャリ感があり、主に夏用の衣類に用いられる。</p>

<p>「近江上布の絣は、糸を先染めして模様を織り出しますが、その糸を染めるのに特殊な技法を使っています」と田中さん。その染色技法が、「型紙捺染（なせん）」と呼ばれるもので、反物の幅に合わせた「羽根（はね）」と呼ぶ金枠に、緯糸に使用する糸を緻密に整列させながら巻き付けてキャンバス状にし、絣の柄が彫られた型紙をのせて表裏を染める。そののちに糸をほどいてまき直し、あらかじめ糸に付けておいた「耳印（みみじるし）」を、織るときの左右の折り返し点として合わせながら、絣の模様を織り出す技法である。左右の端に違う色の耳印があることが、手織りの証ともなる。</p>

<p>「国の伝統的工芸品に申請するためには、幾つかの要件をクリアしなければいけません。その一つが、製造作業の大部分が手作業であること。ニつ目が日本の伝統的技術と原料を使っていること。そして三つ目が日常品であることです。ただ、昔は日常的に使っていたものも、使われなくなって消えてしまったり、嗜好品や高級品になってしまったりしているものも多く、努力しなければ、日常品として残っていくことはできません」と苦労を述べる田中さんだが、可能性についても語る。</p>

<p>「手織りの近江上布は、機械で織ったものとは、作り方も仕上がりも全く違う。これを残していくことには、手織り・機械織りのどちらにとっても相乗効果があると思っています。当会館では、機械織りの麻布を素材にした、ハンカチや布巾、洋服なども扱っていますが、使ってみると、吸水性が優れるだけでなく、発散性もよくて乾きやすい。清潔を保ち快適です。そうしたことから愛用してくださる方もおられるのですが、そこには近江上布の産地でこその、安心・安全な品質への信頼があります。そして、これらの麻製品を利用してくださるなかで、いつか最高級の手織りの近江上布を使ってみたいという方もあることを願っています」。</p>

<p>会館で織りの実演を、20歳代という若い職人さんが見せてくれた。もとは違う仕事をしていたが、3年前に初めて研修を受け、職人の仕事ぶりや会館の活動を見て、こちらで仕事をしてみたいと思ったのだという。近江上布という伝統工芸が、新たな世代の視点のなかで、新しい意味を持ち始めていることを感じた。</p>

<p><img alt="近江上布伝統産業会館が1階に入る「ゆめまちテラスえち」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/202605SuishinTakamiya04.jpg" width="1200" />写真：近江上布伝統産業会館が1階に入る「ゆめまちテラスえち」。古い洋風の建物は、旧愛知郡役所だったところ。ここから徒歩で10分ほどの旧愛知川宿には、旧銀行の施設を活用した「愛知川ふれあい本陣」があり、観光情報を発信するほか、宿場や地域の歴史文化を紹介している</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/202605SuishinTakamiya01.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 10 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>伊賀忍者の末裔が空き家の管理？　江戸時代のちょっと悲しい仕事事情  山本渉（歴史学研究者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12369</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012369</guid>
			<description><![CDATA[江戸時代、幕臣の人数が多すぎたため、職に就けない者が続出しました。 下級武士の仕事事情を歴史研究者の山本渉氏に解説して頂く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="下級武士はつらいよ" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/edo.jpg" width="1200" /></p>

<p>江戸時代、幕臣の人数が多すぎたため、職に就けない者が続出しました。 かろうじて与えられた職でも、勤務日は月に何日かというありさま。 食べることもままならないのに暇を持て余す幕臣たちに対し、 幕府が苦肉の策で考えた役職やその実態、そしてそれを勤めた 武士たちの本音&hellip;&hellip;。思わず苦笑したり、悲哀を感じるような、 下級武士の仕事事情を歴史学研究者の山本渉氏に解説して頂く。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>とにかく就職難だった</h2>

<p>江戸時代の幕臣が、現代のサラリーマンを見たらなんと言うだろう。答えは容易に想像がつく。<br />
「みんな働きすぎじゃない？」</p>

<p>大きく分けると、幕臣は将軍に御目見できる家格を持つ旗本と、それ以下の御家人の2種類からなる。俗に言われる「旗本8万騎」という数字は決して実数ではないが、18世紀ごろの段階で、旗本の数は5000、御家人の数は17000を超えていた。</p>

<p>紀伊や尾張などの御三家の藩主が将軍の継嗣として江戸城に入る場合、国許から連れてこられた家臣たちが幕臣に編入されることがあった。館林藩主である徳川徳松が将軍綱吉の継嗣として江戸城に入城した際、2500名の家臣を率いていた。</p>

<p>その後、徳松は数え5歳で夭折してしまうが、連れてこられた家臣たちはそのまま幕臣となっている。そんなこともあり、幕臣の数は増える一方だった。</p>

<p>「徳川幕府」という組織を運営していくうえで、この職員の数は明らかに多すぎた。江戸時代の幕臣たちは、基本的に暇を持て余していたのである。</p>

<p>それでも働き口があるだけマシだった。幕府も仕事を生み出そうと工夫はしたものの、どうしても仕事にありつけない旗本・御家人たちは、「寄合（よりあい）」「小普請組（こぶしんぐみ）」という組織に編入された。</p>

<p>「小普請」は元来、小規模の修繕工事を指す。無役の者はこのために、人足を供出しなければならなかったのだ。人足の供出はのちに金納に代えられるが、役料（役職手当）のない御家人にとっては、相当に痛い出費であった。</p>

<p>そもそも、徹底された身分制のせいで、それぞれの幕臣が就ける仕事の幅は、かなり限られていた。たとえば、将軍に近侍して歯磨きや顔剃りなどの面倒を見る「小納戸（こなんど）」を、御家人生まれの者が勤めることは少なかった。</p>

<p>近世は、様々な身分の人々が天から与えられた「分」を守ることで「理想的」な社会を保っていたのだ。下位の武士が将軍に近侍するなんて、「分をわきまえない行為」だった。</p>

<p>下級武士の家に生まれた人間は、下級武士としての仕事をつつがなく全うし、子孫にバトンを渡すことを使命としていた。現代のように「のし上がってやる」と出世に燃える人間は、基本的には少なかったのである。</p>

<p>幕府はできるだけ多くの幕臣を職に就けるため、水で薄く延ばすかのように当番制を敷き、多くの雇用を作り出した。独断専行を避けるためでもあったが、結果的に1人の仕事量は極めて軽量化していた。</p>

<p>「御徒（おかち）」は将軍外出の際などに先駆けして警戒を行なう仕事である。代々この職に就く山本政恒という武士は、幕末から明治にかけて、自らの生活を記していた。その日記に曰く、山本は月に6度しか勤務しなかったという。いくぶん極端な例かもしれないが、基本的には「3日勤め」と言って、2日勤務しては、1日休む当直・非番制が組まれていた。筆者は京都における幕府の役所で働く人々について研究しているが、とにかく「非番」（なぜか「悲番」とも書く）が多い。とにかく多い。</p>

<p>では、たっぷりあった休みの日に何をしていたのかというと、多くは内職である。傘張りや提灯作り、植木の栽培などがメジャーなところだろう。大久保に住んでいた飯島武右衛門という同心は、躑躅（つつじ）の栽培に熱中しすぎたせいで、「江戸第一の壮観」とも呼ばれる景色を生み出してしまった。上役はきっと苦笑いをしていたに違いない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>激しい「新人いびり」に耐え抜いて</h2>

<p>とはいえ、決して下級武士のお勤めが楽だったと言いたいわけではない。そこには江戸時代ならではの過酷さがあった。下級武士たちの様々な仕事を紹介しながら、サラリーマンの悲哀にも似た気苦労を覗いてみよう。</p>

<p>まずは先ほど紹介した御徒の山本政恒だ。彼の職場が抱える問題は、激しい「新人いびり」であった。「若（も）し古参の言に随（した）がはざれば、一同の悪（にく）しみを受け勤め難し」という環境のなかで、勤めについて半年のあいだは、非番のたびに上役の屋敷に挨拶に出向かなければならなかった。これでは、毎日働いているのと変わらない。きっと手ぶらというわけにもいかなかっただろう。</p>

<p>出勤の日にはいち早く家を出て、同僚が揃うまで往来で待ちぼうけをしていた。挙句、初めての当直の日には、先輩たちが集まって新入りの陰茎を検（あらた）め、からかいながら、その詳細を書類に記録したという。これは暇に飽かした先輩たちの「慰み」であった。翌朝には、その「御礼」として、先輩たちの屋敷を回らなければならなかった。</p>

<p>ことの次第を耳にしている下女たちが自分を見てクスクスと笑うので、山本は「甚（はなはだ）赤面なり」と記している。とんでもないハラスメントだ。</p>

<p>持て余した時間に、逆に苦しめられる者もいた。「伊賀者」と呼ばれる伊賀忍者の末裔たちは、家康の伊賀越えを助けた功績によって、幕府に召し抱えられた由緒を持つ。神君を助けた功績を誇る、気高き忍者の末裔たちであった。</p>

<p>ところが、幕府での彼らの扱いは極めて軽かった。基本的には江戸城内の警固が仕事であったが、なかには「明屋敷番（あきやしきばん）」という閑職に当てられた者もいる。幕臣の拝領屋敷は、上地（没収）や替地によって、しばしば空き家となった。この空き家の管理・見廻りをしたのが、「明屋敷番」なのである。ある伊賀者は嘆く。</p>

<p>「閑暇（かんか）之御場所ニテは相勤空敷（あいつとめむなしく）打過罷在候（ちすごしまかりありそうろう）ハ、本意ニも無之（これなく）、先祖之遺言ニも相背（そむき）候」<br />
（暇な場所では、お勤めも空しく過ぎていくので、望むところではない。先祖の遺言にも背いてしまう）&nbsp;<br />
「伊賀者惣人数御取調」（『掛川市史資料集』第四号より） &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;&nbsp;</p>

<p>日がな一日、広大な旗本屋敷の庭を眺め、ため息をつく伊賀者の姿が想像できる。</p>

<p>「貝役（かいやく）」は将軍の日光詣でや狩猟の際に供奉し、ほら貝を吹く仕事である。戦乱の世には戦略的にも重要な役割を担ったが、いかんせん太平の世では閑職とならざるを得ない。</p>

<p>似た役としては、貴人の接待をする僧形の武士、表坊主が勤めた「太鼓役（たいこやく）」という仕事がある。幕臣たちの出勤のチャイムの代わりとなる大櫓の太鼓を、「表六尺」という下級御家人に「打たせる」役職である。こちらも極めて閑職であるので、懲罰人事的な意味合いも込められていた。</p>

<p>意外かもしれないが、江戸城内には坊主頭の武士が多くいた。剃髪は世俗からの離脱を意味したので、貴人に近侍する際には、どこにも属さぬ中立的な存在として重宝されたのだ。ただし彼らはあくまで武士なので、万が一役から離れると、またぞろ髪を伸ばして髷を蓄えることになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>あるだけマシな仕事あれこれ</h2>

<p>「明屋敷番」も「太鼓役」もなかなかマイナーではあるが、幕府にはまだまだ知られざる仕事がある。なにせ、御家人の仕事だけでも250に及んでいたのだ。旗本・御家人の雇用を生むには、仕事はいくらあっても足りない。時代劇では日の目をみない仕事をいくつか紹介しよう。</p>

<p>珍しい仕事としては、真っ先に「公人朝夕人（くにんちょうじゃくにん）」が挙げられる。なんと外出中に将軍の便器（尿筒）を懐中する専門職だ。大仰な武家装束を身にまとった将軍にとっては必要不可欠な仕事であるが、常の勤めはなく、他職への昇進も見込めなかった。土田孫左衛門家という家が世襲したことで知られている。登城御目見の際も町人と同席で、脇差一本差しという極めて軽い身分であった。</p>

<p>「掃除之者（そうじのもの）」と呼ばれる人々は、文字通り城内の清掃を主たる任務とし、そのほか使い走りなどに従事した。10俵1人扶持ほどの薄給であったが、ほかに手当が与えられることもあった。</p>

<p>武士身分のシンボルである「帯刀（たいとう）」という特権は、大小二本の刀を帯びることを指す。軽輩である「掃除之者」は木刀一本を手挟んで職についた。とはいえ、使い走りをするには、これくらい軽装の方が楽だっただろう。</p>

<p>「湯呑所之者（ゆのみしょのもの）」は下勘定所にある休憩スペースで、給仕や器の管理に従事した下級御家人である。役高は20俵〜給金13両ほどだ。</p>

<p>先ほどから登場する「俵」という単位はおおよそ4斗と計算できるので、20俵は80斗。石高に直すと8石ほどだろう。俵取りの下限は「評定所使之者（ひょうじょうしょつかいのもの）」の8俵1人扶持であるが、いずれにしても物価の高い江戸では生活に苦労するほどの薄給である。因みに、「扶持」は1人1日玄米5合の割合で支給された。</p>

<p>先ほど紹介した「表坊主」の仲間には、「中奥」で働く「小納戸坊主」がいる。彼らの主な仕事は鋏（はさみ）や煙草盆など、将軍の日用品を管理することだった。こちらは逆に気忙しい仕事で、大奥で飼われている魚や鳥の餌となるミミズの手配にまで奔走する姿が知られている。</p>

<p>どうやら、将軍一族の高貴な楽しみのために、こき使われる仕事だったようだ。常に貴人と接するので、気も休まらない。</p>

<p>同じように、幕府には動物に関わる仕事がたくさんあった。「鳥見役（とりみやく）」は将軍の鷹狩のために獲物となる鳥のいそうな場所を調べて廻る役。</p>

<p>「牧士（もくし）」は幕府直営牧場の運営を任された者だ。朝夕の見廻りから、牧場内の馬を捕らえる年に一度の「野馬（のま）捕り」の指揮まで行なう、なかなかハードな仕事であった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「やらかした者」がたどる道</h2>

<p>いくら軽量化されているとはいえ、いつの時代でも、仕事にミスはつきものだ。幕府の仕事でやらかした武士たちは、どうなってしまうのだろう。</p>

<p>懲罰人事の典型とされるのが、直轄領である甲府城に勤めた「甲府勤番衆」である。江戸から遠く離れた山深い地での勤務は、幕臣から酷く嫌われ、「山流し」などと蔑まれた。</p>

<p>御家人の子に生まれ、武士の文化に詳しい作家の岡本綺堂は、『箕輪心中（みのわしんじゅう）』のなかで、懲罰として「山流し」を命じられそうになった旗本が、叔父から「甲府勤番を命じられる前に、潔く腹を切るべきだ」と迫られる様子を描いている。</p>

<p>「代々の功績」が重んじられた時代、一代の「やらかし」は一族郎党のみならず、永久的に末裔にまで及ぶ負債となったのだ。<br />
<br />
　御番日（ごばんび）を居間に書付張置（かきつけはりおけ）よ<br />
　　もしわすれては立たぬ身の上<br />
<br />
という狂歌が『番衆狂歌』に収録されている。勤番の武士たちは、まれにしかない勤務日を忘れないように、紙を貼り出しておくのが習慣であった。</p>

<p>下級武士の悲哀にばかり注目してきたが、勤めがつらい者たちは、歯を食いしばって踏みとどまるしかなかったのだろうか。</p>

<p>残念ながら、多くの場合はそうだった。陰湿な新人いびりを受けた山本ですら、「其他（そのほか）実に腹の立事多しと雖（いえど）も、習慣なれば致し方無之」と、あきらめ気味に現実を受け入れているくらいだ。</p>

<p>とはいえ、能力によって「分」を乗り越え、出世していった人間もいないではない。特に幕末は強固であった身分制が、少しずつ崩れはじめた時代であった。庶民ですら「身上がり願望」という上昇欲求にとりつかれ、どうにか武士化しようと画策する者が多かった。</p>

<p>幕末に勘定奉行などの要職を歴任した川路聖謨（としあきら）は、もともと豊後の代官所の属吏の息子にすぎなかった。それが出世に燃える父に育てられ、勘定所の登用試験に合格したことを皮切りにめきめきと頭角を現す。支配勘定、評定所留役（旗本）、勘定組頭、勘定吟味役、勘定奉行と目覚ましい出世を成し遂げ、勘定吟味役就任時には「昇進凡（おおよ）そ十段計りも飛び抜け」と評された。　</p>

<p>「未明より出て、暮に帰るごとく奔走」という日々の精進の賜物ではあったが、近代の萌芽を感じさせてくれる、秋空のごとき清々しい大出世劇であった。</p>

<p>堂々たる聖謨の働きっぷりは、出世なんて想像もしていなかった下級武士たちを、大いに励ましたに違いない。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 09 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[山本渉（歴史学研究者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>戦力温存のため出撃を控えていた日本陸軍　東京大空襲から原爆投下に至るまで  水島吉隆（近現代史研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12346</link>
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			<description><![CDATA[太平洋戦争中の昭和20年（1945）2月、米軍は焼夷弾を用いた大都市への攻撃を重ねていく。それを食い止めるべく、日本陸海軍の防空隊も果敢に挑んでいくが...。原爆投下に至るまでの戦いに迫る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="原爆投下に至るまで" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sea.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中の昭和20年（1945）2月、米軍は焼夷弾を用いた無差別空襲を開始し、東京をはじめとする大都市への攻撃を重ねていく。それを食い止めるべく、日本陸海軍の防空隊も果敢に挑んでいくが...。敗色濃厚となった中で、彼らはいかに戦ったのか。原爆投下に至るまでの戦いに迫る。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>東京大空襲後も続く大都市への空襲</h2>

<p>米軍は東京大空襲後も多数のＢ-29で大都市への焼夷弾無差別空襲を続けた。昭和20年（1945）3月12日には名古屋、13日に大阪、17日に神戸へ大空襲を実施し、大都市の機能が壊滅するまで空襲を重ねた。<br />
3月26日には、地下陣地で粘り強く戦っていた硫黄島の守備隊が玉砕。米軍は硫黄島を護衛戦闘機Ｐ-51の発進基地として、Ｐ-51とＢ-29による戦爆連合で日本を襲った。</p>

<p>また、米軍は5月から関門海峡などへ頻繁に機雷を投下し、海上交通の封鎖に出た。日本は食糧と燃料の輸入が滞り、航空隊の練習すら満足に行なえなくなった。人材の払底も深刻で、徴兵で熟練工がいなくなった工場では飛行機の計器を間違えるなど、初歩的なミスが頻発した。</p>

<p>陸軍では2月以降、「決号作戦」の名で本土決戦の準備を進めていた。「決号作戦」は、来航する敵の上陸軍を国家の全戦力を展開して迎え撃ち、各種特攻攻撃で洋上および水際で撃破しようというものである。</p>

<p>4月には、陸軍は航空総軍のもとに実践、訓練、生産を一本化した。航空総軍の最終目標は本土決戦時に敵の輸送船団へ全機特攻をかける総力自爆である。戦力温存のために徹底した隠蔽をはかり、防空戦闘にむやみに出撃しないよう定められた。</p>

<p>東京への大空襲は4月、5月も続けられたが、5月25日には海軍の302空が果敢な防空戦を繰り広げた。302空は「月光」の生みの親である小園安名中佐率いる防空戦闘隊だ。</p>

<p>「月光」8機、「銀河」3機、「彗星」8機、零夜戦7機、あわせて26機が発進。高射砲からの味方撃ちを恐れずに、照空灯に照らし出されたＢ-29の後ろ下方から斜銃の20ミリ弾を撃ち込み、Ｂ-29を十六機撃墜した。この日、陸軍部隊によるものと合わせて26機を撃墜、100機に損害を与えた。</p>

<p>また、米軍は機動部隊の艦載機で飛行場や港湾施設、鉄道操車場などへの攻撃も重ねた。艦載機に対する防空戦で特筆すべき戦果を挙げたのは、源田実大佐が指揮する松山基地の第343海軍航空隊である。</p>

<p>3月19日、米機動部隊の艦載機が中国地方に来襲した。前日に機動部隊が南九州に襲来したとの報を受けていた源田司令は、19日に必ず呉軍港方面に攻撃を仕掛けてくるはずだと予測して、局地戦闘機「紫電改」に燃料と弾薬を搭載して待ち構えていた。</p>

<p>「紫電改」は自動的にフラップが出入りして翼の有効面積を調整する空戦フラップを備えていて、格闘戦に強かった。<br />
偵察隊の「彩雲」が敵機動部隊を発見すると、43機の「紫電改」と11機の「紫電」が発進。戦闘機隊は呉軍港方面に向かうグラマンの編隊と巴戦を展開した。敵味方入り乱れての激戦となり、「紫電改」は20ミリ機銃で次々と敵機を撃ち落としていった。</p>

<p>次から次へと押し寄せるグラマン機に対して、日本軍機は敵機来襲の合間をぬって、基地に降りて補給し、再び飛び立った。この戦闘で343空はグラマンF6F、F4Uなどを50機以上撃墜した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>実行されなかった「制号作戦」</h2>

<p>大都市を焼き尽くした米軍は、6月中旬から地方の中小都市を標的とした。大本営は防空戦闘を制限していたが、米軍機が我が物顔で日本の上空を飛び続けていては、軍への不信が高まるばかりである。しかしながら、Ｐ-51や空母艦載機を相手にしていると戦力の激減が目に見えているため、6月下旬、Ｂ-29に限って撃墜を目指すこととした。</p>

<p>防空戦力を一元化した航空総軍は得られる限りの情報をもとに、全戦闘機を用いてＢ-29に対する集中邀撃を目指す「制号作戦」を準備した。だが、日本軍には敵機の侵入を把握する警戒網や、それを知らせる情報伝達網が整備されていなかった。そのため戦力を集中させることすら難しかった。</p>

<p>また、照空灯が不足していたため、夜間に飛来するＢ-29を捕捉することも困難だった。日本の夜間戦闘機には機上レーダーが装備されていないため、照空灯がなければどうしようもないのだ。</p>

<p>こうした迎撃体制のなか、米軍は占領した沖縄や空母から戦爆連合を続々と昼間攻撃に飛び立たせた。小型機との戦闘を避ける方針の日本軍は、地上で自軍の戦闘機を退避させたり隠蔽することに終始した。夜間戦闘に備えて待機する余裕すらなく、「制号作戦」は実行されずに終わった。</p>

<p>日本軍戦闘機の最後の本格的な空戦は、7月25日、本土決戦に備えて知覧から滋賀県八日市に後退した飛行第244戦隊によるものだった。戦隊長の小林照彦少佐は出撃が禁止されているにもかかわらず、「迎撃ではなく訓練」として、飛来したF6Fの一群と迎撃戦を展開した。この戦闘で2人を失ったが、12機（日本側記録）を撃墜した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>原爆投下と終戦</h2>

<p>陸海軍では打倒Ｂ-29を期待して、新型機の開発が急がれた。期待のロケット戦闘機「秋水」は6月に試作機が完成したが、試作の段階で終戦を迎えた。ジェット戦闘機の「火龍」（陸軍）、「橘花」（海軍）なども製作されたが、実戦には間に合わなかった。</p>

<p>8月に入ると、6日に広島、9日に長崎と立て続けに原子爆弾が落とされた。海軍は次なる原爆投下を阻止しようと、「Ｂ-29が単機で侵入した場合は、体当たりで即時撃墜せよ」と、戦闘機隊に命令を伝えた。</p>

<p>また、次は東京だという情報もあり、夜間の投弾を防ぐために、飛行第53戦隊では1時間ごとの交代で、二式複座戦闘機「屠龍」4機が終夜警戒飛行を行なった。</p>

<p>8月13日にはＢ-29邀撃部隊として海軍で最も精強を誇った第302航空隊が、爆装機による機動部隊攻撃を決意した。「月光」8機、「銀河」6機、「彗星」5機に香取基地の「天山」4機が加わって夜間発進したが、ほとんどの機が敵機動部隊を見つけることすらできなかった。逆にF6Fに追われて散り散りになって帰還し、「銀河」2機と「彗星」1機が未帰還となった。</p>

<p>8月15日にも空襲は行なわれた。米機動部隊の艦載機約250機が関東地方に来襲した。</p>

<p>この日の正午前、三重県鈴鹿基地や愛知県挙母基地では、死を覚悟した隊員たちがまさに出撃しようとしていた。正午に天皇から放送があるということで「発進待て」の命令を受けた隊員たちは、指揮所の前で玉音放送を聞いた。どうやら戦争が終わったのだとわかると、隊員の列からは堪え切れない嗚咽が漏れた。</p>

<p>太平洋戦争開戦前、本土防空を担当する陸軍の視線は対ソ戦に向けられていた。太平洋方面におけるアメリカとの戦いは、海軍に一任するという考えだった。ソ連からの空襲の危険性もあったが、それは関東軍が阻止するという算段だった。</p>

<p>また、日本軍は伝統的に守りを軽視する傾向があり、防衛力の強化に強い関心を示さなかった。レーダーや通信網の充実、高性能戦闘機、高性能高射砲の開発を求める意見もあったが、陸軍首脳部は聞き流していた。本格的な本土空襲が始まってから、慌てて防衛に力を入れようとしたが、その時にはすでに時間も余力もなかった。</p>

<p>お粗末な防空体制のなか、防空戦闘隊員たちは必死に奮闘したが、最終的に行なわれたのは特別攻撃隊の大量投入だった。<br />
米軍は京都や札幌など一部の都市を除いて、日本中のほとんどの都市を焼き尽くした。あとは南九州と関東への上陸作戦を敢行するばかりという段階で、日本の無条件降伏によって終戦を迎えた。日本本土空襲による死没者は50万人にのぼる。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 08 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[水島吉隆（近現代史研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ沖縄大空襲は&quot;完全な奇襲&quot;になったのか？ 不運が次々に重なった日本軍  源田孝（元防衛大学校教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12368</link>
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			<description><![CDATA[&quot;超空の要塞&quot;と称されたB-29はなぜ造られたのか。一方、その脅威を目の当たりにした日本軍は...。ここでは、八幡空襲後に起きた、沖縄大空襲における両軍の攻防を元防衛大学校教授の源田孝氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="沖縄大空襲" height="740" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_sogenG.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中の1944年、日本はドーリットル空襲以来、二度目の本土空襲を、九州の八幡に受ける。その際、日本を苦しめたのが、米軍の大型爆撃機B-29である。</p>

<p>&quot;超空の要塞&quot;と称されたB-29はなぜ造られたのか。一方、その脅威を目の当たりにした日本軍は......。ここでは、八幡空襲後に起きた、沖縄大空襲における両軍の攻防を元防衛大学校教授の源田孝氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>虚を突かれた沖縄</h2>

<p>1944年10月、マリアナ諸島の攻略を終えた米軍は、フィリピン侵攻を準備していた。これに先立ち米海軍は、フィリピンの日本軍を空から支援する航空基地がある、南西諸島を制圧することにした。</p>

<p>攻撃部隊は第3艦隊隷下の第38任務部隊であり、エセックス級空母9隻、インデペンデンス級軽空母8隻、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦10隻、駆逐艦約58隻、艦載機計1081機からなる大艦隊であった。</p>

<p>一方、日本陸軍は第32軍隷下の4個師団、5個旅団が沖縄本島と八重山諸島の配備についていた。海軍は沖縄本島に沖縄方面根拠地隊を置いていた。しかし第32軍は、米軍の来寇はフィリピン侵攻が終わった1945年3月以降とみていた。</p>

<p>米軍が来襲する10月10日以前、南西諸島は本格的な空襲を受けたことが無かった。6月の八幡空襲を皮切りに、米軍のＢ-29による日本本土空襲が始まっていたが、沖縄では危機感が薄かった。</p>

<p>当時、沖縄では県民の日本本土や台湾への疎開が始まっており、那覇港や運天港には軍需物資や疎開民を運ぶ船舶が多数停泊していた。</p>

<p>沖縄は各地にレーダーサイトが設置され、沖縄本島には高射砲70門、高射機関砲50門が配備されており、防空航空機は沖縄本島北飛行場（読谷）に独立飛行第23中隊の三式戦闘機、徳之島に一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」などがいた。</p>

<p>日本海軍情報部は、米軍の通信解析やパラオの監視所からの報告で、第38任務部隊がウルシー環礁から出撃していることを察知していたが、10月6日以降は見失っていた。日本軍は第38任務部隊を捜索するため哨戒飛行を行なったが、米軍は日本軍の哨戒機をレーダーで捕捉して、ことごとく撃墜していた。日本軍は、未帰還の哨戒機は悪天候が原因と安易に判断していた。</p>

<p>日本軍の不運は重なった。第32軍は10月10日に大規模な「兵棋演習」を予定しており、各司令官と参謀たちは9日には那覇に集まって、その夜は各所で宴会が行なわれた。そのため、10日朝は各部隊の指揮官が不在となり、対応が遅れる原因となった。また、「兵棋演習」が兵士には「演習」としか知らされておらず、高射砲の砲撃を見ても「実戦的な演習をしている」と受け止めた兵士が多く、住民も空襲を演習と誤解する者がいた。</p>

<p>さらに、日本軍のレーダーはもともと故障が多かったため、突如出現した多数のレーダー航跡は故障と見なされ報告されなかった。要するに、沖縄の軍民はともに米軍の攻撃を全く予想しておらず、完全な奇襲となったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>米艦載機による攻撃、那覇市の炎上</h2>

<p>10月9日夜、米艦隊は発見されることなく、台風の後追で沖縄に接近した。10日朝は快晴であった。第1次空襲（午前6時40分〜8時20分）は、沖縄本島の北飛行場（読谷）、中飛行場（嘉手納）、そして伊江島飛行場に米艦載機が殺到した。本島にいた独立飛行第23中隊の戦闘機は離陸したものの6機が撃墜され、3機が不時着大破などで10機を失った。</p>

<p>沖縄空襲を知らせる電文は10日の午前7時に発信されたが、日吉の連合艦隊司令部に到達したのは1時間30分後であった。連合艦隊司令長官豊田副武大将はあいにく台湾に滞在中であったため、草鹿龍之介参謀長が代わりに指揮を執ったが、豊田長官も台湾から矛盾する命令を出して混乱を招いた。</p>

<p>第2次空襲（午前9時20分〜10時15分）は小禄飛行場、那覇港と運天港に停泊中の艦船が目標とされた。潜水母艦「迅鯨」、満洲国海上警察隊駆逐艦「海威」、敷設艇 「鷹島」、曳船「立神」のほか、魚雷艇13隻、甲標的4隻、駆逐艇6隻、伊号高速艇8隻、大発動艇18隻が沈没した。大型船舶は那覇港で5隻、瀬底島錨地で2隻を含む11隻が沈没している。小型船は107隻が犠牲となった。港湾付近の民家では火災が発生し、軍、警防団、学徒が消火活動したが、延焼は止まらなかった。</p>

<p>第3次空襲（午前11時45分〜午後0時30分）は、那覇市、名護市、運天港、渡久地港、与那原、泡瀬が目標となった。</p>

<p>第4次空襲（午後0時40分〜1時40分）と第5次空襲（午後2時45分〜3時45分）は、那覇市街を狙って焼夷弾攻撃が行なわれ、市内各所で火災が発生。台風の強風に見舞われて那覇市街は延焼し、火焰に包まれてしまう。那覇市民は退避を始めた。</p>

<p>本島以外の沖縄諸島各地も攻撃された。慶良間諸島では8回にわたり、延べ60の米軍機が漁船に機銃掃射した。宮古島では午前と午後に1回ずつ、各16の米軍機が飛来し、九九式襲撃機3機などの陸軍機9機と、徴用輸送船に被害が出た。石垣島には早朝に米8機が飛来した。久米島西方海域では徴用輸送船が沈没。大東島には米8機が飛来し、飛行場や海軍船を銃爆撃した。海軍徴用小型船2隻が沈んだほか、沖大東島付近で特設駆潜艇が炎上擱座した。</p>

<p>攻撃は奄美群島にも及んだ。奄美大島では3回、延べ45の米軍機が来襲して名瀬と古仁屋は焼け野原になった。徳之島では浅間飛行場が攻撃され、陸軍機14機が破壊された。奄美群島から八重山群島まで、陸海軍機合わせて47機が中破以上の被害を受けている。</p>

<p>人的損害も大きい。沖縄連隊区司令官井口駿三大佐をはじめ、軍人・軍属218人が戦死したほか、軍関係の民間作業員120人が犠牲となった。最も被害の大きかった那覇市の犠牲者は、255名にのぼった。奄美群島から八重山群島までの犠牲者総数は668人であった。この被害によって、住民の県外疎開が促進されることになる。</p>

<p>米軍は9時間にわたって5回の攻撃を行ない、出撃機数は延べ1396機に達したが、21機を失い、戦死者は9名であった。米軍は空襲を行なう一方、SB2C偵察爆撃機で沖縄の地形を撮影し、沖縄上陸作戦「アイスバーグ」の計画立案に必要な情報を得ている。</p>

<p>1944年12月、日本は米軍機が非軍事目標の市街地を攻撃したことが戦争犯罪にあたるとして、中立国のスペインを通じた外交ルートで米国に正式に抗議した。</p>

<p>しかし、米国は従来の解釈からすれば戦争犯罪に該当するとするも、これを認めると捕虜になったパイロットが訴追される可能性があることや被害実態が明らかでないことを理由に黙殺したのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 05 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[源田孝（元防衛大学校教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>1700トンの焼夷弾で日本の一都市を破壊できる　周到に準備された東京大空襲  水島吉隆（近現代史研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12345</link>
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			<description><![CDATA[太平洋戦争中の昭和20年（1945）2月、米軍は焼夷弾を用いた大都市への攻撃を重ねていく。それを食い止めるべく、日本陸海軍の防空隊も果敢に挑んでいくが...。東京大空襲に至るまでの戦いに迫る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="東京大空襲" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_moon.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中の昭和20年（1945）2月、米軍は焼夷弾を用いた無差別空襲を開始し、東京をはじめとする大都市への攻撃を重ねていく。それを食い止めるべく、日本陸海軍の防空隊も果敢に挑んでいくが...。敗色濃厚となった中で、彼らはいかに戦ったのか。東京大空襲に至るまでの戦いに迫る。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>マリアナ諸島からの空襲</h2>

<p>「超空の要塞」B－29爆撃機が日本に初空襲を行なうために中国の成都を飛び立った昭和19年（1944）6月15日、西太平洋に浮かぶマリアナ諸島のサイパン島に米軍が上陸を開始した。</p>

<p>翌月には米軍はサイパン島を占領し、マリアナ諸島を発進基地とする日本本土空襲が始まるのは、時間の問題となった。</p>

<p>サイパン島から東京までの距離は約2350キロメートル。その中間点に位置する硫黄島から、日本軍はマリアナ基地に対して陸海軍共同の航空攻撃を実施した。</p>

<p>時には数機のＢ-29に損害を与えたが、逆に米軍の硫黄島攻撃を呼び込むかたちとなった。昭和20年（1945）2月に米軍の硫黄島上陸作戦が行なわれ、日本軍のマリアナ攻撃は打ち切られた。</p>

<p>東京では、昭和19年11月に入ると、マリアナ諸島からの偵察機が飛来するようになった。一万メートルを超える高高度で侵入する偵察機を、日本軍戦闘機は捕捉することができない。</p>

<p>フィリピンでは前月から米空母に体当たりする特別攻撃（特攻）が始まっていたが、関東地区の防空を担う陸軍第10師団でも空対空の特攻隊が編成された。体当たり機は軽量化のために武装や防弾鋼板が除去された。</p>

<p>11月24日、マリアナ諸島を発進した大編成のＢ-29が初めて日本本土を襲った。高度一万メートル前後で侵入するＢ-29の主な標的は、東京の中島飛行機武蔵製作所だった。</p>

<p>迎撃に飛び立った日本陸海軍戦闘機は、素早く短時間で関東上空を通過するＢ-29に対して、反復攻撃を仕掛けることが困難だった。陸軍飛行第四七戦隊の見田義雄伍長機は体当たり攻撃を敢行し、Ｂ-29を撃墜した。</p>

<p>その後も、米軍は日本各地の軍需工場などを目標とする精密爆撃を続けた。しかし、高高度からの爆撃で標的を捉えることは難しく、また日本軍からの体当たり攻撃を含む激しい抵抗で、望ましい効果を挙げられなかった。</p>

<p>米軍は日本本土上陸作戦が企図されている昭和20年末までに、日本の抵抗力を大幅に減少させておきたかった。そのためには、直接の軍事目標だけでなく、日本の戦争遂行能力そのものを破壊し、国民の戦意まで喪失させることを目的とした戦略爆撃が必要だった。</p>

<p>昭和20年1月、マリアナ基地からの日本空襲の指揮官が、精密爆撃に固執するヘイウッド・ハンセル准将から、ドイツ戦線で都市への無差別爆撃を断行したカーチス・ルメイ少将に替わった。</p>

<p>同時期、日本軍では初となる陸海軍共通作戦計画である陸海軍作戦計画大綱がまとめられ、最終的に本土決戦に持ち込む方針が明文化された。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>東京大空襲</h2>

<p>新指揮官となったルメイ少将は2月25日、初めて東京に無差別空襲を行なった。大規模焼夷弾空襲のテストケースである。これまでで最多となる229機のＢ-29が出撃し、450トンの焼夷弾を投下した結果、神田や四谷などで約19万戸が焼失した。</p>

<p>この爆撃の結果は、アメリカでの実験で導き出された、1700トンの焼夷弾で日本の一都市を破壊できるという推算を実証するものだった。</p>

<p>ルメイはこの成果に満足した。また、「日本軍には低高度用の対空火器が少ない」「夜間戦闘機にはレーダーがなく機数も少ない」との情報もあり、ルメイは夜間に焼夷弾のみを搭載したＢ-29で低空から侵入して無差別爆撃を行なうという方針を決定した。</p>

<p>その第一弾が、3月10日夜間に行なわれた東京大空襲である。9日午後、焼夷弾を満載した325機のB-29が、マリアナ諸島を離陸した。この日、東京近郊では20から30メートルの強風が吹いていて、電波警戒レーダーが正常に作動しなかった。</p>

<p>午後10時過ぎ、千葉県勝浦南方に少数の不明機が認められ、第302海軍航空隊（＝302空、厚木航空隊）から夜間戦闘機「月光」4機が発進し、警戒警報が発令された。だが、東京の空を守る第10飛行師団では何ら対策を打たないままに、不明機は飛び去ってしまった。</p>

<p>10日0時8分、Ｂ-29が東京の江東方面の上空を南から北へ駆け抜け、焼夷弾を落とした。0時15分、東京で初めての空襲警報が発令され、第10師団長の近藤兼利中将は直ちに夜間出動可能な全機に出動を命じた。</p>

<p>だが、第10師団には夜間戦闘が可能な保有機も、夜の飛行を充分にこなせる搭乗員も少なく、日本軍の戦闘機はＢ-29を1機も撃墜できなかった。各所で発生した火災はあっという間に拡大し、死者7万人以上、焼失戸数27万戸の被害を出した。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 03 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[水島吉隆（近現代史研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ米軍は、本格的な日本本土空襲都市に八幡を選んだのか？  源田孝（元防衛大学校教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12366</link>
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			<description><![CDATA[&quot;超空の要塞&quot;と称されたB-29はなぜ造られたのか。一方、その脅威を目の当たりにした日本軍は...。両軍の攻防を元防衛大学校教授の源田孝氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/bigwave.jpg" width="1201" /></p>

<p>太平洋戦争中の1944年、日本はドーリットル空襲以来、2度目の本土空襲を、九州の八幡に受ける。その際、日本を苦しめたのが、米軍の大型爆撃機B-29である。</p>

<p>&quot;超空の要塞&quot;と称されたB-29はなぜ造られたのか。一方、その脅威を目の当たりにした日本軍は...。両軍の攻防を元防衛大学校教授の源田孝氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>米軍の爆撃理論</h2>

<p>1930年代半ば、米陸軍航空軍の前身である航空サービス戦術学校では「敵国の心臓部に直接爆撃機を向かわせ、戦争遂行能力を破壊する方策」を研究していた。</p>

<p>ドナルド・ウィルソン少佐は「ある目標を破壊すれば1つの産業を破壊できる、あるいは生産を停止させられるようなキーノード（緊要な結節点）」の選定を模索した。都市における産業の集中度、産業の構成要素、その構成要素の相対的な重要性、そして攻撃目標の脆弱性を判定するため、まずは自国の各都市を目標にしたケーススタディを重ねた。</p>

<p>その結果、次のようにまとめた。<br />
・目標は戦争遂行に影響を与える軍需工場とする。<br />
・破壊力と、爆撃機の防御力を増加させるために、100機単位の編隊で爆撃する。<br />
・数百キロメートル離れた基地から出撃する。<br />
・敵の高射砲や防空戦闘機が到達できない高高度を飛行する。<br />
・爆撃照準器で爆弾を一斉に投下する。<br />
・爆撃目標が視認でき、爆撃効果が期待できる昼間に爆撃する。</p>

<p>これが「選別された目標に対する昼間高高度精密爆撃戦略」であり、この戦略を実現するには長距離性能と高高度性能を備えた多数の大型爆撃機が必要であった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Ｂ-29の開発と第20航空軍の新編</h2>

<p>陸軍航空軍はこの戦略を実現するため、1935年7月に四発大型爆撃機Ｂ-17、ついで、1941年1月に多用途大型爆撃機Ｂ-24を完成させた。航続能力の低いＢ-17はヨーロッパ戦域、Ｂ-24は地中海戦域で使用されることになった。</p>

<p>問題は広大な太平洋戦域であり、陸軍航空軍は新たな爆撃機を開発した。1942年9月に完成したボーイングＢ-29「スーパーフォートレス（超空の要塞）」である。</p>

<p>Ｂ-29は第二次世界大戦中最大の爆撃機であり、最多の爆弾搭載量、最長の航続距離を誇った。空気抵抗を低減した真円の機内は与圧され、冷暖房を完備。機銃砲塔は遠隔操作でき、アナログコンピュータ化された射撃管制装置と機上レーダーなど当時の最新技術が導入されていた。まさに「未来から来た航空機」といっても過言ではなかった。</p>

<p>Ｂ-29の開発経費は30億ドルにのぼり、もう1つの国家プロジェクトである原子爆弾の開発計画「マンハッタン」が20憶ドルであることを見ても、その巨額さがわかる。</p>

<p>一方でＢ-29の欠点は、ライト社の2200馬力のエンジンが過熱しやすく、よく火災を起こすことであった。クルーの間では、エンジンが発火した場合「30秒以内に火が消えるか、さもなければ自分達が消えるか」という戯言があるほどであった。三発エンジンでの飛行時間を競うことも流行ったという。</p>

<p>米統合参謀本部がＢ-29を太平洋戦線で使用することを決定すると、各司令官は高性能のＢ-29を自分の部隊で使用したがった。しかし、Ｂ-29は一つの部隊で統一して運用しなければ十分に働けないことを懸念した統合参謀本部は、まったくの例外ながら、Ｂ-29の部隊を直接指揮することにした。</p>

<p>1944年4月、Ｂ-29のみを装備する第20航空軍が新編され、統合参謀本部のメンバーである陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将が司令官を兼務した。</p>

<p>当時、アジアの連合国の領地でＢ-29が展開できるのは中国だけであった。そこで、Ｂ-29は米本土からはるばる北大西洋を渡り、ヨーロッパ、中央アジア、インドを経て中国の成都に進出した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>狙われた八幡</h2>

<p>1944年4月1日、米統合参謀本部は成都から2600キロにある北九州の八幡市を爆撃目標に選定した。八幡市にある官営八幡製鐵所は、日本の圧延鋼の24パーセントを生産している日本の軍需産業の重要施設であったからだ。第一の目標は、コークス炉のうち最大の東田コークス炉とした。</p>

<p>中国に展開していた日本軍の工作員は優秀であり、Ｂ-29が成都に展開してきたことをつかんでいた。日本軍はＢ-29の航続力からみて、やがて九州北部の軍事施設が爆撃されると推測していた。そのため1944年初頭から、中国と太平洋に配備されていた戦闘機を内地に移転させた。</p>

<p>1944年4月、八幡は西部軍の下に置かれ、山口県小月の飛行第4戦隊（二式複座戦闘機「屠龍」35機）と福岡県芦屋の飛行第59戦隊（三式戦闘機「飛燕」25機）を隷下に置く第19飛行団が新編された。また、九州北部には早期警戒網が張り巡らされ、レーダー、高射砲、阻塞気球、サーチライトを設置した。</p>

<p>第1回八幡空襲は、1944年6月15日夕刻に行なわれ、米第58爆撃航空団のＢ-29 75機が出撃した。爆撃は夜間に決行され、燃料を節約するため編隊を組まず、個々に侵攻した。Ｂ-29の出撃は中国大陸の日本軍の工作員によって察知され、「真夜中に北九州に到着する」との一報が日本の第19飛行団にもたらされ、「屠龍」8機が邀撃した。</p>

<p>16日午前零時すぎ、47機のＢ-29が八幡市に到着したが、市街は灯火管制が敷かれており、また霞に覆われていたため、米軍は目標が確認できず大混乱に陥った。結局コークス炉への命中弾は皆無で、爆撃自体は大失敗であった。</p>

<p>この爆撃中、米軍は事故で5機を失い、2機が撃墜され、58名が戦死した。日本側で報告された戦果は撃墜4機、不確実3機、一方で市民の犠牲者は256名であった。</p>

<p>日本の対空砲火は激しかったが正確ではなく、サーチライトはほとんど役に立たなかった。Ｂ-29は「屠龍」より速く、攻撃にもたつくとすぐに引き離されてしまった。</p>

<p>同日、日本の絶対国防圏の要衝であるマリアナ諸島のサイパン島に米軍が上陸したこともあり、八幡空襲の報告を受けた大本営は大きな衝撃を受けた。この八幡空襲が日本本土への本格的な空襲の始まりであったため、まったく戦果の無かった八幡空襲が米国や中国では大々的に報道された。</p>

<p>7月7日には、少数のＢ-29が第2回目の八幡空襲を行なっている。<br />
第3回目の空襲は、1944年8月20日に行なわれ、八幡市は米第58爆撃航空団のＢ-29 61機による白昼堂々の爆撃を受けた。昼間であったため、陸軍の「屠龍」、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」合計82機、海軍の「零戦」、「月光」が邀撃した。</p>

<p>この日、野辺重夫軍曹と高木伝蔵兵長が搭乗する「屠龍」はＢ-29に体当りし、1機目の破片が後続のＢ-29にあたり、2機を同時撃墜する戦果をあげている。</p>

<p>日本側で報告された戦果は、撃墜24機、不確実13機、未帰還3機。米国側の報告では、Ｂ-29を14機失った。損失率は23パーセントであった。</p>

<p>この損失は大問題となり、報告を受けたアーノルド司令官は激怒したといわれる。8月20日の戦闘では、日本軍は劣勢ながらよく健闘したといえる。</p>

<p>八幡市と戸畑市では二百数十名の犠牲者が出た。八幡製鐵所は相当な損害をこうむり、大規模な火災も発生して操業停止に追い込まれたが、2日後には復旧した。20日夜間も10機のＢ-29が爆撃してきたが、損失はなかった。</p>

<p>1944年11月、マリアナ諸島が陥落すると、アーノルド司令官はマリアナ諸島に第21爆撃兵団を新編した。平坦なマリアナ諸島は、多くの滑走路が造成でき、Ｂ-29で北海道を除く日本全土の爆撃が可能であり、なにより海路で補給できる好立地であった。</p>

<p>1945年初め、アーノルド司令官は、中国の第20爆撃兵団をマリアナ諸島に移転して第21爆撃兵団に統合した。第21爆撃兵団の有するＢ-29は約300機に膨れ上がった。</p>

<p>1945年1月、第21爆撃兵団司令官に弱冠37歳のカーチス・ルメイ少将が起用された。アーノルド司令官はヨーロッパの戦いで戦功をあげたルメイ少将を高く評価していた。<br />
1945年8月8日、八幡市は4度目の空襲を受けた。3個飛行隊のＰ-47サンダーボルト戦闘爆撃機に護衛された221機のＢ-29が来襲し、45万発を超える焼夷弾が投下された。</p>

<p>八幡市は火の海となり、市街地の21パーセントが壊滅。八幡市東区小伊藤山横穴防空壕では、避難した市民約300人が窒息死・焼死している。この空襲で2900人が犠牲となった。Ｂ-29の撃墜数は確定で1機のみ。</p>

<p>米軍は翌日の8月9日、陸軍造兵廠、軍需工場が多い小倉市に、原子爆弾「ファットマン」を投下することを計画していたが、Ｂ-29「ボックスカー」は小倉市上空が曇っていたことに加え、八幡空襲で発生した煙が流れ込んで視界を遮ったことから、目標を長崎市に変更したのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 02 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[源田孝（元防衛大学校教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>三国志と並ぶ中国三大演義「隋唐演義」　あらすじ、時代背景を一挙解説  島崎晋（歴史作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12271</link>
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			<description><![CDATA[「三国志」とならんで高い人気を誇る、中国三大演義のひとつ『隋唐演義』。そこではどんな物語が展開されているのか。その時代背景とは？そして人気を博した理由とは？歴史作家の島崎晋氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_keikoudaiunga.jpg" width="1200" /><br />
煬帝が開削した京杭大運河</p>

<p>「三国志」は日本でも高い人気を誇るが、それとならんで中国三大演義のひとつに数えられるのが、『隋唐演義（ずいとうえんぎ）』である。果たして、どんな物語が展開されるのか。そして、人気を博した要因はどこにあったのか。大長編のエッセンスを、一気に紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>170余年の興亡を描いた物語</h2>

<p>「演義」という言葉を聞いて、歴史好きの人がまっさきに思い浮かべるのは『三国志演義』に違いない。国語辞典の『広辞苑』によれば、「演義」とは「中国で、歴史上の事実を修飾し小説的興味を添え、俗語で叙述した書」のこと。わかりやすく、通俗小説と呼ばれることもある。</p>

<p>中華圏ではタイトルに「演義」とつく作品が多く作られてきたが、一番人気はやはり『三国志演義』で、二番人気は『封神演義』か『隋唐演義』のどちらかだろう。</p>

<p>この二作のうち、『封神演義』は殷から周への王朝交替に仙人界の二大派閥が絡み、人間と仙人、道士、妖怪などが入り乱れて戦いを展開する歴史ファンタジーである。</p>

<p>それに対し、『隋唐演義』は『三国志演義』と同じく人間界における人間同士の興亡を描いた作品だ。史実と虚構をない交ぜにしながら、隋による天下統一（589年）から、唐の建国（618年）、李世民（りせいみん）による政権奪取（626年）、則天武后による唐朝の中断期（690〜705年）などを経て、安史の乱（755〜763年）が終結するまでの約170余年間を物語化している。</p>

<p>成立は清（1644〜1911年）の初め頃で、日本ではあまり読まれなかったが、田中芳樹氏による編訳（中央公論新社刊）と安能務氏によるリライト（講談社）が出版されてから、いささか知られるようになった。</p>

<p>170余年と言えば、黄巾の乱（184年）から晋による天下統一（280年）までを物語化した『三国志演義』で描かれる期間よりも長い。</p>

<p>だが、『三国志演義』がそうであるように、人気がある場面は序盤から中盤に集中しており、中国で2013年に制作されたテレビドラマ『隋唐演義〜集いし46人の英雄と亡びゆく帝国（原題は『隋唐演義』）』全62話も、李世民による政権奪取をもって完結。途中で主役を何回も替えるのは、そのキャラクターに感情移入してきた視聴者の関心を断ち切ることになるから、賢明な判断と思われる。</p>

<p>それはともかく、ドラマのタイトルにある「亡びゆく帝国」は短命に終わった隋王朝を指している。一方、46人の英雄が集った場所は瓦崗（がこう）という地に設けられた要塞で、『水滸伝』における梁山泊と同じく、為政者の手が及ばない解放区のごとき空間だった。</p>

<p>原作の前半部分と同じく、同ドラマの主人公は瓦崗寨（がこうさい）に集った英雄のひとりで、姓は秦（しん）、名は瓊（けい）、字（あざな）は叔宝（しゅくほう）。だが、時代背景に不案内な読者もいるだろうから、ここでは瓦崗寨と秦瓊について語る前に、隋による天下統一から滅亡、唐による再統一までの流れについてまとめておこう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>隋の登場、そして反乱の拡大</h2>

<p>まずは前史から。三国志の動乱は司馬炎の晋（西晋）によって終結したが、この統一王朝は短命に終わり、4世紀初頭以降、中国は五胡十六国と南北朝という分裂の時代に後戻りする。これを終わらせ、再び統一を成し遂げたのが、北朝から出た隋の楊堅（ようけん。文帝）だった。</p>

<p>北魏から西魏・東魏、北周・北斉、隋と続いた北朝の歴代帝室は純粋な漢人ではなく、五胡（胡は北方・西方の民族）のひとつである鮮卑（せんぴ）のうち、漢人の言語や漢字、儒教など中華文化の受け容れを通し、すっかり漢化した集団からなっており、唐の帝室（隴西李氏）も系統はいっしょである。</p>

<p>楊堅の長女が北周宣帝の正室で、楊堅と北周明帝の正室及び唐の李淵（りえん。高祖）の母が実の姉妹であるなど、同集団の有力者たちは何重にも婚姻関係を結んでいたが、それは結束力を高める場合もあれば、その真逆もあり、北魏の分裂から隋建国までの歴史は、重臣による簒奪の繰り返しだった。</p>

<p>果てしなく続くかと思われた動乱の時代も、隋が南朝の陳を平定したことで幕を閉じ、「開皇（かいこう）の治」と称される文帝の善政のもと、安定平和の時代が到来するが、それは淡い期待に終わった。598年の高句麗遠征の失敗に続いて、600年、皇太子の楊勇（ようゆう）を廃嫡して次男の楊広（ようこう）を新たな皇太子に立てた頃から、雲行きが怪しくなった。</p>

<p>604年には文帝の崩御を受け、楊広が即位するが、彼は東都洛陽城の造営、黄河と長江を結ぶ大運河の開削、高句麗遠征など、民を著しく疲弊させる大事業をいくつも重ね、唐代に「煬帝（ようだい）」という諡号（しごう）を付与された。「煬」は「礼を去り、衆を遠ざける（礼儀に背き、民衆から見放された）」を意味する漢字だから、大帝国の君主としては限りなく不名誉な諡号だった。</p>

<p>隋に対する反乱は煬帝が即位した直後から見られたが、どれも取るに足らない規模で、すぐさま鎮圧された。ところが、煬帝による最初の高句麗遠征が開始された612年正月頃からは反乱の規模は大きくなり、回数も増え始めた。</p>

<p>二度目の高句麗遠征最中の613年6月には、楊玄感の乱が起きる。楊玄感は文帝時代に重臣筆頭であった楊素の子で、煬帝から疎んじられたことを恨んでの挙兵だった。この反乱自体はわずか2カ月余で鎮圧されたが、帝国全土で隋を見限る者が続々と現われ、反乱の炎は四川を除く帝国全土に波及した。</p>

<p>それでも煬帝は、三度目の高句麗遠征に着手。自殺行為以外の何物でもなく、反乱は激しさを増し、煬帝は比較的平穏な江南の江都（現・江蘇省揚州市）に逃れるが、618年には娘婿の宇文化及（うぶんかきゅう）が謀反を起こす。</p>

<p>皇帝の最期に相応しく、煬帝は毒酒を仰ごうとするが、管理役の宦官が逃げてしまったため、ありかがわからない。そのため煬帝は自分が身に着けていた布を兵士らに渡し、縊り殺してもらうしかなかった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>群雄割拠、唐の統一、暗闘...</h2>

<p>全土に反乱が波及した様子を、史書は「天下の人、十分の九を挙げて群盗となる」と伝える。確認できるだけで、反乱集団の数は200余に及んだという。紀元前の春秋時代を彷彿とさせる群雄割拠の状態に逆戻りした形だが、統一をあるべき姿とする観念が広まっていたのか、淘汰が進むのも速く、煬帝が落命した頃には20余にまで減っていた。</p>

<p>当時において人口密度が最も高かったのは黄河の中下流域で、そこに限って言えば東から、国号を夏（か）とした竇建徳（ほうけんとく）、皇帝と称した宇文化及、瓦崗を根拠地にして魏公（ぎこう）と称した李密（りみつ）、洛陽に拠り国号を鄭（てい）とした王世充（おうせいじゅう）、国号を唐とした李淵の五大勢力が激しい攻防を繰り広げた。</p>

<p>これらのうち最初に李密、次に宇文化及が脱落。王世充が李淵・李世民父子の唐軍相手に敗北を重ね、洛陽での籠城戦にまで追い込まれる。すると、竇建徳は漁夫の利を得るなら今しかないと、唐軍に背後から攻めかかろうとするが、李世民の巧みな戦術の前に決定的な敗北を喫した。</p>

<p>この一戦により、黄河の中流域一帯は唐の手中に帰し、唐は天下統一に大きく近づいた。623年にはほぼ平定がなり、626年には最大の不安要素だった北方民族の突厥（とっけつ）との間で和議が成立。628年には陝北（せんほく）に割拠する梁師都（りょうしと）を滅ぼし、統一事業を完成させた。</p>

<p>李淵父子が一丸となった成果と言いたいところだが、実は統一の完成より前、李淵の足元で深刻な問題が生じた。李淵の長男で皇太子に指名されていた建成（けんせい）と次男世民の対立である。四男の元吉（げんきつ）が建成を支持しながら、漁夫の利を狙ったことから、水面下での暗闘はより激しさを増した。</p>

<p>高祖が毅然とした態度を取っていれば、兄弟間の争いは避けられたかもしれない。しかし、高祖は李世民が大きな軍功を挙げるたび、手柄に相応しい地位を与え、ついには天策上将という王公より上の尊称と、陝東道大行台尚書令（せんとうどうだいこうだいしょうしょれい）という、黄河中下流域における民政と軍事を統括する全権まで与えてしまった。</p>

<p>これを見た建成が危機感を強めないはずはなく、帝都の長安に張り詰めた空気が漲るなか、先手を打ったのは李世民だった。626年6月4日早朝、手勢を率いた世民が登庁する建成と元吉を宮殿の北門にあたる玄武門で待ち伏せ、問答無用に討ち取ったのである。これを玄武門の変と言う。</p>

<p>数日後、李世民は皇太子に立てられ、2カ月後には高祖から譲られ帝位についた（太宗）。数えにして29歳の若さで、これより史上稀なる太宗の善政「貞観（じょうがん）の治」が開始される。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>瓦崗寨に集った男たち</h2>

<p>話を『隋唐演義』中の瓦崗寨と秦瓊に戻そう。原作もドラマ版も大筋では史実に忠実だが、登場人物の性格や行動、男女間の恋愛を含めた私的な関係など、細かなところには創作や改変がふんだんに施された。</p>

<p>たとえば瓦崗寨は、河北省と山東省の省境に近い河南省北部の滑県（かつけん）にある実在の地名だ。楊玄感と親交のあった李密は早くから反乱に参加し、敗れて捕虜となりながら脱走に成功。長い逃亡生活のすえ、名門出身で深い学識を有するところを買われ、参謀として瓦崗寨に迎えられた。</p>

<p>瓦崗寨の初代頭領は農民出身で、地方役人の経験もある翟譲（てきじょう）。地方豪族出身の徐世勣（じょせいせき。のちに李勣〈りせき〉）や李密を配下に加えたことで、河南の地で急速に勢力を拡大させるが、好まずして群盗から群雄の一人と成り上がるに及び、自分には分不相応だとして、李密に頭領の座を譲った。</p>

<p>その後も瓦崗寨へ合流する群盗、英雄、豪傑は後を絶たず、幹部クラスだけでも46人を数えるまでになるが、彼らに共通するのは圧政を重ねる隋の打倒と世直しの志であり、これは『水滸伝』で言う「替天行道（天に替わりて道を行なう）」に近い感情だった。</p>

<p>李密が頭領となった瓦崗寨で、特に重んじられたのは秦瓊、単雄信（ぜんゆうしん）、徐世勣、程知節（ていちせつ。程咬金〈ていこうきん〉）の4人である。</p>

<p>このうち秦瓊は将軍の家系に生まれ、程知節とは幼馴染の間柄。親孝行で仁義に篤く、誠実な人柄により世間の好漢からも尊敬を集めた。文武両道にして、金翟（きんかん）という左右一対の打撃系武器を愛用。李淵一家が刺客に襲われた現場に出くわし、一同を救ったこと、うっかり李密の勢力圏に足を踏み入れ、捕らわれの身となった李世民を李密に無断で逃がしてやったこともある。</p>

<p>二番目に挙げた単雄信は匪賊の出身。秦瓊とは旧知の間柄で、秦瓊が病に倒れて困窮した際には自身の縄張り内に匿った。槊（さく）という騎兵用の長槍を愛用。一族を殺された恨みから、とことん李淵を敵視していた。</p>

<p>三番目の徐世勣は豪族の家の生まれで、単雄信を介して秦瓊と懇意となり、智謀に秀でたことから、瓦崗寨では軍師として采配を振るった。唐に帰順してのち、李淵から姓を賜り、李世民と同じ「世」を使うわけにはいかないというので、姓を李、名を勣に改めた。</p>

<p>四番目の程知節は秦瓊の弟分で斧の使い手。『隋唐演義』とほぼ同時期に成立した『説唐全伝』と前掲のドラマ中ではなぜか、天才的な強運の持ち主として描かれた。それゆえに瓦崗寨の初代頭領に祭り上げられ、「混世魔王（こんせいまおう）」と称するなど、主要キャラクターのなかで最も大きな改変が加えられている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>『隋唐演義』に流れる歴史観</h2>

<p>瓦崗寨に集った46人は乱世に「義」を体現させようと誓い合い、義兄弟の契りをも結んだのだが、李密が元頭領の翟譲を警戒するあまり、理不尽に殺めたことをきっかけに、瓦崗寨の結束に亀裂が生じる。すぐには表面化しなかったが、失望を感じた者は少なからず、単雄信はその筆頭だった。</p>

<p>この伏線があるため、李密が王世充相手に大敗北を喫した際、単雄信はよい機会として、王世充に投降した。李密自身は配下の誰にも相談することなく、唐に帰順した。</p>

<p>李世民を逃がしてからというもの、李密から冷遇されていた秦瓊と徐世勣はハタと困った。群雄の淘汰が進んだ状況では、もはや彼らだけでは自立を維持できず、群雄の誰かに投じるしかなかったからだ。</p>

<p>それまでの付き合いから李密のいる唐に帰順するが、李世民から蛇蝎（だかつ）のごとく嫌われていた李密に活躍の機会は与えられず、不満を募らせた李密は山東で再起を図るべく、唐から逃げ出してしまった。</p>

<p>秦瓊と徐世勣に対しては、またしても一言もなかった。ここまで無下に扱われては彼らの忍耐も限界を迎え、李密との絶縁を決意。李世民が非凡な人物であると確信したことに加え、命を二度まで救った経緯もあることから、秦瓊の従兄弟にあたる羅成（らせい。史書では羅士信）をあわせた3人で、唐に帰順した。彼ら以外の瓦崗寨の面々では、程知節や文官の魏徴（ぎちょう）が同じく唐に帰順した。</p>

<p>秦瓊をはじめ瓦崗寨の面々は、単雄信にも唐への帰順を勧めるが、単雄信は尾羽打ち枯らし捕虜となってなお帰順を拒んだため、当人の望みもあって斬首の刑に処された。ときに621年のことである。</p>

<p>竇建徳と王世充も同年のうちに降伏。竇建徳の残党やその他の群雄も623年までにあらかた平定され、この間に唐の陣営には新たに尉遅恭（うっちきょう。字は敬徳）という勇将も加わった。秦瓊との一騎打ちで互角に渡り合い、勝負がつかなかったのだから、相当な強さである。</p>

<p>全土の平定がほぼ終わったところで、『隋唐演義』前半の登場人物はほぼ出揃っていた。瓦崗寨に集った46人はみな、正義が行なわれる世の到来を願ったわけで、李世民こと唐の太宗による貞観の治がまさにそれというのが、『隋唐演義』に流れる歴史観である。</p>

<p>ここまで正義が強調される理由としては、『三国志演義』や『水滸伝』と同じく、『隋唐演義』も書籍化される前に、講談や芝居の人気テーマと化していたことが挙げられる。聴衆の反応を見ながら台本の書き換えが重ねられ、大衆受けする作品として完成したわけで、現実には正義が通ることが少なく、縁故や賄賂で左右される例が多かったからこそ、読み書きのできない民衆はせめてフィクションの世界で溜飲を下げようとしたのだ。</p>

<p>『隋唐演義』も読み書きの達者な人間の書いた原稿がそのまま書籍化されていたなら、読者をさほど獲得することができず、後世に伝えられることもなかったかもしれない。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 01 Jun 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[島崎晋（歴史作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>則天武后に評価された粟田真人、人々に憎まれた玄昉...海を渡り中国に学んだ日本人（後編）  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12272</link>
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			<description><![CDATA[粟田真人、玄昉、井真成...海を渡って、中国に学んだ古代日本人を作家の鷹橋忍氏が解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="遣唐使船" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_kentoshifune.jpg" width="1200" />復元された遣唐使船</p>

<p>航海すること自体が命懸けだった古代において、海を渡って中国に向かい、国づくりに尽力した人々がいた。国書を紛失した者、大化の改新に貢献した者、異国の土となった者......。ここでは前後編に分け、七人の男たちを取り上げ、果たした役割とその足跡をたどる。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>粟田真人（あわたのまひと）――則天武后から高く評価</h2>

<p>粟田真人は、白雉4年（653）の第2回遣唐使において、「道観（どうかん）」という学問僧として随行し、唐で学んでいる。</p>

<p>帰国後、真人はその卓越した才をかわれて還俗し、官人としての道を歩みはじめた。持統天皇3年（689）には、筑紫大宰（つくしのおおみこともち）であったことが、『日本書紀』に記されている。藤原不比等らとともに、大宝律令の制定に尽力したことでも知られている。</p>

<p>大宝2年（702）の第7回遣唐使において、真人は使節団の最高責任者である執節使（しっせつし）を務めた。執節使は仏教の知識をもち、唐での留学経験もある真人に適任であった。</p>

<p>なお、このときは厳密にいうと、遣唐使ではない。当時、中国の王朝名は唐から周へと代わっており、周の皇帝は中国史上、唯一の女性皇帝である則天武后だった。</p>

<p>真人はその則天武后から、高く評価されたようである。『旧唐書（くとうじょ）』には、真人が朝廷を訪れ、日本国の産品を献上したことが記されているが、それに加え、「真人は好んで経史（けいし）を読み、上手に文章をつくり、その立ち振る舞いは温雅であった」と讃えられている。そして、則天武后は真人を麟徳殿（りんとくでん）に招いて宴を開き、司膳卿（しぜんけい）の官を授けて、日本に帰国させたという。</p>

<p>真人らは出発から2年後の、慶雲元年（704）に帰国した。その功績により、真人は大和国（奈良県）に田二十町、穀千石を与えられた。</p>

<p>その後も中納言、大宰帥（だざいのそち）、参議を歴任し、正三位に叙され、養老3年（719）2月5日に薨じた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>玄昉（げんぼう）――日本の仏教発展に貢献するも...</h2>

<p>玄昉は、大和国（奈良県）の阿刀（あと）氏の一族の生まれとされる。出家して、法相宗の高僧である義淵（ぎえん）の弟子となった。</p>

<p>養老元年（717）の第8回遣唐使に留学僧として随行し、吉備真備や阿倍仲麻呂らとともに、唐に渡っている。</p>

<p>唐では、中国法相宗第三祖の智周（ちしゅう）に師事した。『続日本紀』によれば、時の皇帝・玄宗から尊ばれ、三品（さんぽん）の位に准じられ、紫衣（しえ）を賜っている。</p>

<p>18年の長きにわたって在唐し、天平7年（735）に、吉備真備とともに帰国した。</p>

<p>帰国にあたり、玄昉は5000余巻の経論と諸々の仏像を将来している。この膨大な経論と玄昉が唐で身に付けた学識は、日本の仏教の発展に大きく貢献した。</p>

<p>帰国後、玄昉は天平9年（737）8月に僧綱（そうごう）の最高位である「僧正（そうじょう）」に任じられている。同年12月には聖武天皇の母・藤原宮子の病を治し、天皇の寵愛を受けた。</p>

<p>政権にも参画し、吉備真備とともに権力を掌握すると、人々に憎まれたという。天平12年（740）には、藤原広嗣（ひろつぐ）が玄昉と吉備真備の排除を要求し、九州で反乱を起こした。「藤原広嗣の乱」である。</p>

<p>反乱は鎮圧され、藤原広嗣は敗死した。だが、政局の変化により玄昉も天平17年（745）11月に筑紫の観世音寺に左遷され、翌天平18年（746）6月18日、同地で死去した。『続日本紀』には玄昉に関して、「次第に僧侶としての行ないに背くことが多くなり、人々はこれを憎んだ。世の人は、玄昉は藤原広嗣の霊によって、左遷の地で殺されたのだと伝えている」とある。</p>

<p>このように評判はあまり芳しくないが、前述のように、日本の仏教の発展に大変に寄与したことは確かだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>井真成（いのまなり）――墓誌の発見で存在が明らかに!</h2>

<p>最後に、墓誌の発見により、はじめて存在が明らかになった日本人留学生「井真成」をご紹介したい。中国における墓誌とは、亡くなった人の経歴などを刻んだ石で、死者とともに墓に埋納される。</p>

<p>平成16年（2004）、中国・西安の西北大学が、井真成の墓誌を発見したことを発表し、話題を呼んだ。</p>

<p>墓誌の記述によれば、井真成は生まれながらに才能に恵まれ、命を受けて中国に派遣された。勉学に打ち込んでいたが、天平6年（734）正月、官舎にて、36歳で急逝してしまう。</p>

<p>時の皇帝・玄宗は井真成の死を悼み、尚衣奉御（しょういほうぎょ。従五品上に相当）の官位を追贈した。同年2月には、葬儀を公費で執り行なわせたという（東野治之『遣唐使』）。</p>

<p>井真成は養老元年（717）の第8回遣唐使とともに、19歳で唐に渡ったと推定されている。第8回遣唐使には玄昉や吉備真備や阿倍仲麻呂も随行しており、井真成もきっと彼らと同様に秀でた才をもち、将来を期待された若者だったのだろう。</p>

<p>墓誌は「形は既に異土に於（お）いて埋もれ、魂は故郷に帰らんことを乞い庶（ねが）う（身体はすでに異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願う）」という文言で結ばれている。</p>

<p>井真成の故郷は、確定に至っていない。だが、候補地とされる大阪府藤井寺市では、「墓誌と一緒に井真成の魂を、故郷とされる藤井寺に返してあげたい」という思いが市民の間に広がり、平成17年（2005）に「墓誌の里帰り」が実現。墓誌里帰りパレードなど、盛大なイベントが催された。</p>

<p>墓誌は中国へ戻されたが、その後、中国からレプリカが贈呈され、現在も藤井寺市立生涯学習センター（アイセルシュラホール）で常設展示されている。</p>

<p>井真成の魂は1300年の時を超え、願いどおり故郷に帰れたと信じたい。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 29 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>小野妹子は国書を紛失、高向玄理は帰国できず...海を渡り中国に学んだ日本人（前編）  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12273</link>
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			<description><![CDATA[小野妹子、南淵請安、高向玄理...海を渡って、中国に学んだ古代日本人を作家の鷹橋忍氏が解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="小野妹子の墓" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_Ononoimokohaka.jpg" width="1200" /><br />
大阪府にある小野妹子の墓</p>

<p>航海すること自体が命懸けだった古代において、海を渡って中国に向かい、国づくりに尽力した人々がいた。国書を紛失した者、大化の改新に貢献した者、異国の土となった者......。ここでは前後編に分け、七人の男たちを取り上げ、果たした役割とその足跡をたどる。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>小野妹子――煬帝から文書を授かるも...</h2>

<p>中国へ渡った古代の人物というと、小野妹子が、真っ先に脳裏に浮かぶのではないだろうか。</p>

<p>『日本書紀』には、推古天皇15年（607）、「大礼（だいらい）」小野臣妹子が大唐（隋）に遣わされたことが記されている。「大礼」とは位階で、冠位十二階のなかの第五位にあたる。この時点で妹子の位階は、特別に高いわけではなかった。　妹子は有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙（つつが）無きや」ではじまる国書を携えて、隋に渡った。</p>

<p>この国書を見た隋の第二代皇帝・煬帝は、「蛮夷の書、無礼なる者有り」と怒りをあらわにしたという（『隋書倭国伝』）。</p>

<p>翌推古16年（608）、妹子は隋からの返答使・裴世清（はいせいせい）を伴い、帰国した。　妹子は帰国にあたり、煬帝から文書を授かっていたが、百済国を通った際に、その文書を百済人に奪われてしまったため、届けることができないと奏上した。文書を紛失した妹子を群臣は、流刑に処すべきだとしたが、推古天皇は赦（ゆる）した。</p>

<p>この妹子の文書紛失に関しては諸説あるが、倭国に不都合な内容が記されていたため、妹子が握りつぶしたともいわれる。</p>

<p>同年9月、裴世清を送るため、妹子は再び、隋に派遣された。このとき、後述する南淵請安（みなぶちのしょうあん）、旻（みん）、高向玄理（たかむこのげんり）らも、随行している。彼らは、隋の滅亡と唐の興隆を目の当たりにしながら中国で学び続けることになる。一方の妹子は、翌推古17年（609）9月に帰国した。</p>

<p>帰国後の妹子に関しては、よくわかっていない。だが、大礼から、冠位十二階の最高位である「大徳（だいとく）」に昇進したようなので、しばらくは朝廷で任につき、高い評価を得ていたのではないだろうか。</p>

<p>妹子の没年は不明である。政界を引退してからは、故郷の近江国滋賀郡小野村（滋賀県大津市）で過ごしたともいわれる。穏やかな晩年を送れたのだろうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>南淵請安――大化の改新に貢献するも、その名は刻まれず</h2>

<p>南淵請安は百済系渡来人の子孫で、その名が登場するのは『日本書紀』のみである。推古16年（608）、旻、高向玄理らとともに遣隋使・小野妹子に従い、学問僧として入隋。</p>

<p>隋から唐へと移り変わる中国に、32年にわたって滞在し、舒明天皇12年（640）、高向玄理とともに帰国した。中大兄皇子（のちの天智天皇）や中臣鎌足（のちの藤原鎌足）らが蘇我蝦夷・入鹿父子を倒す「乙巳（いっし）の変」が起こる5年前のことである。</p>

<p>請安はその中大兄皇子、中臣鎌足と関わりがあった。</p>

<p>『日本書紀』によれば、皇極天皇3年（644）、中大兄皇子や中臣鎌足らは請安のもとに書物を携えて通い、周孔（しゅうこう）の教（儒教）を学んでいるのだ。二人は講義へ通う道中で、蘇我氏打倒の計画をひそかに企てたと伝わる。</p>

<p>中大兄皇子と鎌足によるクーデターが成功し、新政権が樹立されると、請安とともに隋・唐へ留学していた高向玄理と旻は、新政権において重要な役割を担った。</p>

<p>ところが、請安は中大兄皇子と鎌足の師であるにもかかわらず、登用された形跡はない。その理由は、中大兄皇子や鎌足らと決別したからとも、請安が死去したからともいわれる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>旻――国博士（くにのはかせ）として大化の改新に貢献</h2>

<p>旻は、渡来人の子孫で、僧侶である。その名は僧旻、旻法師、日文などと記される。推古16年（608）、遣隋使・小野妹子に従い、南淵請安や高向玄理らとともに入隋したが、舒明4年（632）、請安や玄理に先だって帰国している。それでも、旻の中国滞在は24年にもおよび、仏教のみならず、儒教、陰陽五行など深い学識を得た。</p>

<p>皇極4年（645）、蘇我入鹿・蝦夷が滅び、皇極天皇の譲位により軽皇子が孝徳天皇として即位し、「大化」の元号がたてられた。そして、皇太子として実権を握った中大兄皇子と、内臣となった鎌足を中心に、国の変革がはじめられることになる。「大化の改新」である。旻と高向玄理は、政治顧問ともいうべき「国博士」に任命された。</p>

<p>旻は高向玄理とともに「八省・百官の制」を立案するなど、ブレーンとして活躍した。</p>

<p>大化6年（650）、穴戸（あなと。長門〈ながと〉）国司から白雉が献上されたときには、旻は中国の古典を引用して、白雉が祥瑞であることを説き、「白雉」に改元されている。</p>

<p>孝徳天皇からの信頼は厚く、『日本書紀』によれば、白雉4年（653）5月、孝徳天皇が旻の僧坊を訪れ、病に伏した旻を見舞い、親しく言葉をかけている。　旻はその翌月6月に亡くなってしまうが、それを知った孝徳天皇は弔問使（ちょうもんし）を送り、多くの贈物をしたという。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>高向玄理――異国に骨をうずめた遣唐押使（おうし）</h2>

<p>高向玄理も渡来人の子孫である。推古16年（608）の遣隋使に学生として随行し、旻や南淵請安とともに隋に渡った。</p>

<p>32年にわたって隋・唐で学び、舒明12年（640）に、新羅を経由して、南淵請安らと帰国。その後は、旻とともに国博士に任じられ、大化の改新に貢献した。</p>

<p>『日本書紀』によれば、大化2年（646）9月に遣新羅使として新羅に派遣され、新羅から任那（みまな）への調（みつぎ）を廃止させた。そして翌大化3年（647）に、新羅の金春秋（きんしゅんじゅう。のちの武烈王）を人質として連れて帰国している。</p>

<p>白雉5年（654）には第3回遣唐使に、遣唐押使として派遣された。遣唐押使とは、この第3回遣唐使ではじめて置かれた役職で、使節団の最高責任者である。大使より上位となる。</p>

<p>玄理らは新羅を経由して入唐し、長安に上って、三代皇帝・高宗に拝謁している。そのとき唐の役人から、日本国の地理や国初の神の名などを問われたが、全員、答えられたという。</p>

<p>使者としての面目を果たせた玄理だが、この後、唐の地で死去したことが、『日本書紀』にみえる。死因は記されていない。玄理はすでに老齢に達していたといわれ、異国への長旅の疲れや、遣唐押使としての重責がこたえたのかもしれない。</p>

<p>中国、朝鮮との外交に活躍した玄理にとって、使命半ばで命尽きたのは、さぞかし無念だったであろう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 28 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>『豊臣兄弟！』では描かれない？本郷和人が語る、豊臣秀吉の「残酷すぎる合理主義」  本郷和人（歴史学者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14307</link>
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			<description><![CDATA[豊臣秀吉の「合理主義」が持つ残酷さを解説。武士の常識だった領地の世襲を否定し、幼い跡継ぎから領地を没収しようとした冷徹な合理性をひも解く。また、母や妹すら政略の道具にするドライな人間関係の実態を明かす。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="豊臣秀吉" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_hideyoshi2019G.jpg" width="1200" /></p>

<p>低い身分から天下人へと上り詰めた豊臣秀吉。その成功の裏には、家柄を無視した人材登用など、鎌倉以来の武士の伝統を破壊するほどの、冷酷ともいえる合理性がありました。身内すら駒として扱うドライな人間関係、重臣たちを戦慄させた「世襲否定」など、秀吉の真の恐ろしさに、歴史学者の本郷和人氏が迫ります。</p>

<p>&nbsp;※本稿は、本郷和人著『こわい日本史』（扶桑社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>豊臣秀吉は「能力主義」すぎてこわい？</h2>

<p>戦国時代の大名は残酷だった、という話はよく聞きます。実際、戦争の時代ですから、残酷な場面はいくらでもある。しかし、その中でも私が「薄気味悪いな」と思うタイプの残酷さを持っているのが、豊臣秀吉です。</p>

<p>秀吉はご存じの通り、武士の家に生まれた人物ではありません。農民出身とも言われていますが、少なくとも名門武士の家柄ではない。だからなのか、あるいは逆に「だからこそ」なのか、秀吉は武士社会のルールをあまり守りません。その象徴が「人材登用の仕方」です。秀吉は家柄などをほとんど気にせず、その人の能力を見て、「お前は優秀だから10万石」「お前は働きがいいから20万石」という具合に、大胆に領地を与えていました。いわば能力主義です。現代の企業なら、優秀な一般社員をいきなり役員に抜擢するようなものですね。</p>

<p>もっとも、この点に関して言えば、秀吉だけが特別というわけでもありません。彼の主君であり、ある意味では師匠でもあった織田信長も同じことをしています。信長も、家柄より能力を重視して、「どこの馬の骨かわからないけど優秀だから取り立てる」というやり方をしていた。ですから、この部分だけを見ると、信長のやり方を秀吉が引き継いだとも言えるでしょう。</p>

<p>ところが、秀吉にはもう一歩踏み込んだ特徴があります。それが、家の相続に対する考え方です。たとえば秀吉が10万石の大名に取り立てた人物が、戦死したり、病気で若くして亡くなったりすることがありました。戦国時代ですから、30代や40代で亡くなる大名は珍しくありません。そうすると、跡を継ぐのは10歳くらいの子どもだったりする。ここで秀吉が何をするかというと、こう言うわけです。「10歳の子供に父親と同じ働きはできない。だから領地は返してもらう」と。</p>

<p>現代の感覚で言えば、これはむしろ合理的です。たとえば会社の部長が優秀だったから部長になったのであって、その息子が自動的に次の部長になるわけではない。そう考えると、秀吉の理屈はよくわかる。しかし、武士社会の感覚からすると、これはとんでもない話でした。武士の家というのは、一度家を起こして大名になれば、その家は世襲で続くというのが大前提です。どんなにボンクラでも、前の殿様の息子なら家を継ぐ。それが武士の常識でした。実際、江戸時代を見てもそうです。大名の息子が優秀かどうかは二の次で、とにかく家督は息子が継ぐ。だからこそ、藩の中で「お家騒動」が起きたりもするわけですが、それでも世襲そのものは疑われない。これは鎌倉時代から続く武士社会の基本ルールでした。</p>

<p>ところが秀吉は、そのルールを平気で壊してしまう。たとえば有名なのが丹羽長秀です。丹羽長秀は織田信長の重臣であり、秀吉にとってはむしろ先輩にあたる人物でした。秀吉は長秀に大きな領地を与えますが、彼が亡くなると、その息子からかなりの領地を取り上げてしまう。</p>

<p>さらに有名なのが蒲生氏郷です。氏郷は非常に優秀な武将で、信長にも秀吉にも仕えた人物です。秀吉はその能力を高く評価して、大きな領地を与えました。しかし氏郷は40歳で亡くなってしまう。おそらく死因は胃がんではないかと言われています。問題はその後です。跡を継いだ息子の蒲生秀行は、まだ10代でした。すると秀吉は「10代の子どもにこの領地は大きすぎる」と考え、ほとんどの領地を取り上げようとしたのです。</p>

<p>このとき、待ったをかけたのが秀吉の忠臣である石田三成でした。「それをやってしまったら、誰も殿のために命がけで働かなくなります」と反対した。つまり、家が続くという保証があるからこそ、家臣は命がけで働くのだ、というわけです。その言葉で、秀吉は思いとどまったと言われています。</p>

<p>似たような話はほかにもあります。たとえば、織田信長の家臣だった堀秀政という人物を見ていきましょう。秀政は「名人久太郎」というあだ名で知られていました。何が名人かというと、これがとにかく何でもできる。戦場でも強いし、行政能力もある。いまで言えば、現場もできるしデスクワークもできる、万能タイプのエリートです。若い頃は信長に仕えて小姓を務めていた人物で、森蘭丸の先輩にあたるとも言われます。しかもかなりの美男子だったらしく、信長の側近としても非常に重用された人物でした。</p>

<p>この堀秀政を、秀吉は越前北ノ庄の城主にしています。北ノ庄というのは由緒ある城で、かつて柴田勝家が本拠にし、その後は丹羽長秀が治めた重要な拠点です。そこを任せるくらいですから、秀吉が秀政の能力を高く評価していたことは間違いありません。ところが、この秀政が37歳で急死してしまいます。天正18（1590）年、小田原征伐の頃に、どうやら疫病のようなもので突然亡くなっている。普通ならどうなるか。武士の家ですから、当然息子が跡を継ぐ。これが当たり前の感覚です。ところが秀吉は、この決断をかなり渋る。やはり「子どもにそれだけの領地を治めさせるのはどうなのか」と思ったのでしょう。</p>

<p>この話を聞くと、秀吉のやり方はどこか現代的にも見えます。能力主義で、成果主義で、家柄ではなく実力を評価する。今の会社ならむしろ理想的かもしれません。しかし戦国時代の武士社会にとっては、それはあまりにも冷たい制度でした。命がけで戦って手に入れた家が、次の世代に残らないかもしれない。そう思ったら、誰だって命を懸けて戦う気は薄れます。</p>

<p>秀吉の政治は、ある意味では合理的でした。しかし、その合理性が行き過ぎると、かえって人の心が離れていく。戦国時代という「血縁と家」を中心にした社会では、そのズレがかなり不気味に映ったのではないかと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>妹まで政略結婚。秀吉の「ドライすぎる」人間関係</h2>

<p>豊臣秀吉の残酷さは、刀で斬ったり処刑したりという、そういう直接的な残酷さではなくて、どこか人間関係の扱いが妙にドライな点だったと私は思っています。ただし、そんな秀吉にも情がないわけではありません。面白いことに、彼は母親にはかなり情があったようです。儒教的な意味での「孝行」というより、生き物としての母親への愛情ですね。それはわりと素直に持っていたようです。</p>

<p>ところが、兄弟姉妹に対する感情は、急にドライになるのです。大河ドラマ『豊臣兄弟！』では、弟の秀長とのやりとりが描かれていますが、秀長との円満な関係はあくまで例外。むしろ、兄弟に対しても、容赦がない人物だったのです。たとえば、小牧・長久手の戦いのあと、秀吉は徳川家康に対して「自分の家来になれ」と迫ります。そのとき家康に対して「大坂に来い」と要求するのですが、家康からすれば大坂に行くのはこわい。捕まって殺されるかもしれませんから。そこで秀吉がどうしたかというと、自分の母親を家康に対して人質に出す。「母を預けるから安心して来い」というわけですね。これはなかなか大胆な発想です。普通、人質というのは相手から出させるものですが、秀吉は逆に自分の母を出してしまう。</p>

<p>さらに驚くのは、そのあとです。秀吉には朝日（旭）姫という妹がいました。この妹は、もともとは農民に嫁いでいたと言われています。ところが秀吉が出世してくると、「妹の夫が農民では体裁が悪い」ということで離婚させてしまう。そして今度は武士と再婚させる。ここまでは、まあ戦国大名の身内としてはありがちな話です。しかし秀吉は、そこからさらに一歩進みます。なんと、その妹を徳川家康の正室にしてしまう。しかもそのとき、朝日姫はすでに40歳を過ぎていました。政略結婚とはいえ、妹を2度離婚させて、最後は家康の妻にする。秀吉という人は、こういうことを割と平然とやる。現代の感覚でもなかなか強引な婚姻だと言えます。</p>

<p>このあたりを見ると、秀吉という人物の人間関係は少し独特です。母親には情がある。しかし兄弟や家臣に対しては、どこか計算が先に立つ。そんな冷酷さを感じます。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 27 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[本郷和人（歴史学者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>吉田茂が愛した「大磯」 軽井沢を凌ぐ明治の避暑地No.1の意外な歴史  宮本昌孝（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14348</link>
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			<description><![CDATA[明治時代に軽井沢を抑え「避暑地百選」第1位に輝いた神奈川県大磯町。吉田茂ら8人もの首相が別荘を構えた&quot;政界の奥座敷&quot;の、宿駅制廃止から奇跡の復活を遂げた歴史と魅力をひも解きます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="『東海道五拾三次之内 大磯 虎ヶ雨』（東京都立中央図書館蔵）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260522MiyamotoMasataka01.jpg" width="1200" />『東海道五拾三次之内 大磯 虎ヶ雨』（東京都立中央図書館蔵）</p>

<p>大磯（おおいそ）の旧吉田茂邸で、「小説『松籟邸（しょうらいてい）の隣人』でめぐる大磯」という企画展が開催されています（2026年6月30日まで）。<br />
松籟邸とは、戦後に首相を務めた吉田茂が暮らしていた邸宅で、『松籟邸の隣人』(全3巻、宮本昌孝著)は、明治20年代の大磯を舞台に、少年時代の吉田茂と松籟邸の隣に越してきた青年が、様々な事件を解決していく連作ミステリーです。<br />
明治時代後半には「避暑地百選」の第1位にもなったこの街の歴史と魅力に、宮本昌孝氏が迫ります。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年1月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>大磯宿は人気の観光地だった</h2>

<p>神奈川県の相模湾に面した湘南一帯は、国内有数の観光地として音楽・映画・ドラマ・バラエティー番組などで繰り返し登場する。東から挙げれば三浦・横須賀・葉山・逗子・鎌倉・藤沢・江の島に、加山雄三とサザンオールスターズ揺籃の茅ヶ崎。</p>

<p>ところが、それより西の地で紹介されるのは、七夕祭の平塚と城のある小田原ぐらいで、平塚〜小田原間の地域は分が悪い。</p>

<p>わけても大磯は、県内の東海道本線の駅としても乗降客が少なく、かなり地味な印象である。しかし、実はこの地は歴史エンタメの宝庫のようなところなのだ。</p>

<p>万葉の昔から多くの和歌に詠まれてきた。大磯に遺る地名の鴫立沢（しぎたつさわ）は、誰しも高校の古文の授業で習ったことだろう西行法師の名歌で知られる。<br />
　心なき身にもあはれは<br />
　　　　　知られけり<br />
　　　　鴫立つ沢の秋の夕暮<br />
鎌倉時代の仇討ちの実話で、能・浄瑠璃・歌舞伎などでも再生、上演され続け、国民芸術ともいえる&quot;曽我物&quot;。その主人公・曽我十郎の恋人虎御前が庵を結んだのは大磯であり、関連して「虎ヶ雨」という季語も伝わる。</p>

<p>戦国期には上杉謙信が小田原攻めの本陣を布いた。徳川の世でも当初から東海道の要衝で、最盛期に人口3000人を超え、本陣3軒、旅籠屋66軒を数える繁華な宿だった。</p>

<p>「著盡湘南清絶地」<br />
寛文4年（1664）頃に大磯の俳諧道場「鴫立庵」を創始したとされる崇雪（そうせつ）が、標石に刻んだ語であり、湘南は清絶を尽きつくすの地、と読む。湘南はこのうえなく澄んで清らかな地、というほどの意だ。<br />
標石の実物は、現在も大磯町郷土資料館の庭で見ることができる。大磯を湘南の発祥地とする証拠ともいわれる。</p>

<p>ちなみに、ご存じの読者も多いだろうが、相模国（神奈川県）の南海岸だから、本来は「相南」と記すところを、中国の景勝地である湖南省の湘江に因んで、「湘南」の字があてられた。　</p>

<p>風光明媚で、ひともたくさん集まった大磯宿は、江戸時代を通じて、永く人気の観光地だったともいえよう。</p>

<p>しかしながら、幕府や藩の管理下に置かれた宿というのは、地子（じし／税金）の免除や給米などの助成があっても、御用が多すぎて過重の負担を強いられつづけた。四宿と称ばれた千住・板橋・内藤新宿・品川のように大きな歓楽街としても発展を遂げたところを除けば、いずこの宿も借金に苦しむのが常だった。<br />
大磯も例外ではない。それでも、自転車操業みたいなもので、参勤交代に伴う文化や経済の流通地として賑わっているうちは、やっていけた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>復活の立役者は松本順（じゅん）</h2>

<p>大磯が急速に寂れるのは、明治5年（1872）に宿駅制そのものが廃止されてからだ。参勤交代制度については、すでに幕末に崩壊している。</p>

<p>名ばかりは依然として宿あるいは駅だったが、旅籠屋の大半は廃業を余儀なくされ、宿内の半分以上が失職世帯へと堕す。このまま何の手も打たなければ、やがて大磯宿は朽ち果てて廃墟と化してしまうだろう。令和時代の日本で想像するなら、シャッター通りの景色に似ているかもしれない。</p>

<p>しかも、同じ神奈川県内に驚嘆の躍進をつづける新開地があった。狐狸が日中でも我が物顔で往来する海辺の寒村だったのに、日本最大の国際貿易都市へと変貌した横浜である。落差は月と鼈（すっぽん）どころではない。</p>

<p>この大磯を劇的に復活させた人物がいる。<br />
名を松本順という。</p>

<p>西洋医術の先駆者として名を残す蘭方医 ・佐藤泰然（たいぜん）の次男だが、将軍家奥詰御医師・松本家へ養子に入ると、幕命により長崎に赴いてオランダ陸軍軍医ポンペの助手をつとめながら、わが国初の西洋式病院、長崎養生所を開設した。帰府後は幕府西洋医学所（後年の東京大学医学部）頭取となり、その改革に取り組んでいるさなか、幕末の動乱に巻き込まれる。</p>

<p>海陸軍医総長でもあった順は、幕府方として激戦地の会津へも赴き、みずから戦傷兵の治療にあたった。朝敵として捕らえられたが、ほどなく放免され、新政府に請われて初代陸軍軍医総監となる。</p>

<p>最新の西洋医学にもとづく海水浴の効用を予て自著でも説いていた順は、退官後、海水浴療法の条件に最適の地として大磯を選び、地元の名士たちの協力を得て、本格的な海水浴場を照ヶ崎海岸に開設する。さらに、伊藤博文首相を口説いて鉄道局に働きかけ、東海道鉄道の横浜〜国府津間において、当初の予定では通過地域だった大磯への停車場誘致にもこぎつける。</p>

<p>また、河竹黙阿弥（かわたけもくあみ）に依頼した新作歌舞伎「名（なに）大磯湯場（ゆばの）対面」を、尾上菊五郎や市川左團次ら人気役者に演じさせるなど、ＰＲ活動にも順は抜け目がなかった。　</p>

<p>東京や横浜から海水浴客が汽車に乗って大磯へ殺到した。避暑、避寒のため、別荘を建てる上流の人士も急激に増えてゆく。陸地近くまで寄せる暖流と北風を遮る丘陵との間に横たわる大磯は、東西に細長い土地なので、冬でも雪は滅多に降らないことから、避暑だけでなく避寒の好適地でもあったのだ。</p>

<p>大磯駅開業年の明治20年（1887）に早くも、ときの内務大臣・山県有朋が&quot;小淘庵（おゆるぎあん）&quot;を建てた。その後は、著名人の別荘建設ラッシュである。すべての名を列挙すると3桁になってしまうので、政財界の頂点というべき人物だけを以下に記しておく。</p>

<p>伊藤博文、大隈重信、西園寺公望、加藤高明、寺内正毅、原敬、吉田茂。山県を含め八人の総理大臣経験者である。大磯が&quot;政界の奥座敷&quot;とも称ばれた所以といえよう。</p>

<p>三菱の岩崎弥之助に、三井高棟、安田善次郎。ここに住友も加われば、四大財閥の総帥が大磯に揃い踏みだったことになる。ついでに記せば、住友財閥を継ぐはずだったのが、事業にまったく興味を示さず、廃嫡されて芸術家として生きた住友寛一は、大磯に別荘を所有した。他の財閥では、それぞれ創業者の浅野総一郎と大倉喜八郎の名が挙げられる。</p>

<p>実業界最高の指導者だった渋沢栄一も、別荘は持たなかったが、照ヶ崎海岸で医院と旅館を兼ねた禱龍館（とうりゅうかん）の建設に出資している。もし彼らの財力を合わせたなら、大磯から日本経済を意のままにできただろう。</p>

<p>セレブの別荘族は、家族だけでなく、多くの使用人も連れてくるので、とくに夏場の大磯は人で溢れた。</p>

<p>明治40年（1907）前後が大磯の好景気のピークであり、日本新聞社による同41年（1908）実施の「全国避暑地百選」では、軽井沢をおさえて、堂々の第1位に選ばれる。鎌倉は11位、江の島は39位だった。現在のように様々なメディアがあれば、数多の取材クルーやタレント、モデルなども押し寄せ、東西約8キロメートルばかりの大磯町は連日ごった返していたに違いない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>吉田茂邸が迎賓館</h2>

<p>別荘族の中で、大磯を誰よりも愛したのは吉田茂だろう。</p>

<p>横浜で実業家として成功した養父・吉田健三は、山県よりも早く大磯に別荘を建てて&quot;松籟邸&quot;と名付け、茂を伴い、この地で夏に冬に大いに遊んだ。茂にとっては幼少期の楽しい思い出である。</p>

<p>健三が若くして他界すると、病弱な養母の士子（ことこ）が療養をかねて松籟邸で暮らすようになる。士子を敬愛していた茂も、その身を案じ、学生時代の夏休みなどは大磯で過ごしたと察せられる。</p>

<p>茂は、大磯の景色も大好きだった。総理大臣を辞したあと、横浜でも東京でもなく、この地を終の住処としたのも、&quot;海千山千荘&quot;とも称した松籟邸から眺める雄大で美しい相模湾と富士山に魅了されたからだ。</p>

<p>そして、外国の賓客を私邸でもてなす欧米流に倣い、松籟邸を増改築し、迎賓館としても用いた。国家元首や閣僚クラスばかりか、大統領になる前のニクソン、大富豪ロックフェラー、アレクサンドラ英王女夫妻など、多数の海外の要人を歓迎している。皇太子（現上皇）御夫妻を招いたこともある。</p>

<p>地元の人々とも気軽に交流して、人柄を親しまれた吉田茂は、昭和42年（1967）10月に松籟邸で死去する。</p>

<p>大磯の町内では各戸ごとに半旗を掲げ、近隣住民は国道1号線の沿道から、国葬の行なわれる東京の武道館へ向かう葬列を見送った。その数、5,000人という。大磯に海水浴場の開かれた明治18年（1885）から82年後の、巨星墜つである。</p>

<p>すでに関東大震災で別荘の半数以上が倒壊し、以後はあらたに別荘族となる著名人も稀となり、海水浴客も激減の一途を辿っていたから、吉田茂の死によって大磯はさらに活気を失っていく。<br />
昭和54年（1979）に大平正芳首相とカーター大統領の日米首脳会談は吉田邸（松籟邸）で行なわれたが、これが最後のひと花だったろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>島崎藤村も愛した地</h2>

<p><img alt="大磯史跡MAP" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260525MiyamotoMasatakaMap2.jpg" width="1200" /></p>

<p>数年前、少年時代の吉田茂を主人公にした小説（『松籟邸の隣人』）を書こうと思い立ち、初めて大磯の町を歩いたとき、良く言えば穏やか、悪く言うと沈滞。それが第一印象である。といって、落胆したわけではない。ここが第1位の避暑地だったのは事実なのだから、かえって想像を逞しくすることができた。</p>

<p>吉田邸も明治期の松籟邸とはまったく異なる規模と造作だが、屋内、敷地内を経巡るうち、自然と脳内でタイムリープが始まっていた。帰途について大磯駅から電車に乗る頃には、おぼろげだった小説のアイデアに具体性が伴った。</p>

<p>そして、これだけは記しておかねばなるまい。大磯がいまや再び復活の時を窺っているということを。</p>

<p>明治の歴史的建物や緑地の保存、活用をめざして、明治記念大磯邸園という事業を進行中なのだ。全容を知らないものの、何やら期待してしまう。</p>

<p>2度目の大磯逍遥では、その事業の第一期開園として公開中の旧大隈重信別邸、陸奥宗光別邸跡に建つ旧古河別邸の建物まわりの庭園を歩いた。通常は屋内の見学は不可だが、取材ということで出版社から申し入れてもらい、明治時代の住居部分の現存する大隈別邸内で、昔日のよすがに触れることもできた。</p>

<p>その後、横浜を本拠とする老舗書店の広報紙に『明治大磯ロマン』というエッセイを寄稿したところ、思いがけない好運に恵まれた。大磯に明治31年（1898）開業の旅館・大内館を営んだ方々のご子孫だろう女性から、お便りを頂戴したのだ。</p>

<p>惜しくも数年前に閉館してしまったが、大内館にはかの島崎藤村も宿泊している。女性の母堂は明治生まれで、松本順が始めた「禱龍館」や、照ヶ崎で遊泳指導や事故防止につとめる「海水じいや」や「波のり」などを、実際に目にしておられ、生前、それらのことを語ってくれたそうだ。伊藤博文が大磯に来るときは小旗を振って迎えたという。<br />
筆者も文献では知っていたものの、女性のお便りによって往時の光景が目の前に立ち上がってきた。この場をかりて、感謝申し上げる。</p>

<p>島崎藤村は、大磯がよほど気に入ったものか、最晩年の2年間を、この地に居宅を設けて過ごした。庭を眺めながら息を引き取るさいに、こう洩らしたという。<br />
「涼しい風だね......」<br />
昭和18年（1943）夏のことだった。最も人気の高かった避暑地の余風は、この頃にもまだ吹いていたのかもしれない。</p>

<p>当時としては長命の89歳で逝った吉田茂も、主治医の懐旧談によれば、よくこんなふうに語ったそうだ。<br />
「鎌倉より大磯のほうが酸素が多い。大磯にいると長生きできる」<br />
軽口だったとしても、本気でもあったろう。前述の事業の完工を、茂は泉下で心待ちにしているはずだ。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 26 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宮本昌孝（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>【本郷和人が解説】武士はなぜ「首」に執着した？　源義経が強行した「生首のパレード」  本郷和人（歴史学者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14306</link>
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			<description><![CDATA[武士はなぜ「首」を重要視していたのか。戦果を示す「生首のパレード」や、源義経の首が酒漬けで運ばれたという驚きの実態を紹介。さらに化粧で整え、表情で吉凶を占うなど「首実検」の奇妙な作法まで深掘りする。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「後三年合戦絵巻 巻下」に描かれた生首（出典：ColBase）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260514Hongo01.jpg" width="1200" /><br />
「後三年合戦絵巻 巻下」に描かれた生首（出典：ColBase）</p>

<p>「敵の首を取る」という言葉が、文字通りの意味を持っていた時代。鎌倉武士たちにとって、首は自らの手柄をアピールし、勝者の権力を示すための「政治的ツール」でもありました。源義経の死亡を証明するため、奥州平泉から鎌倉へと生首が運ばれた驚きの手法や、戦場で行われていた「首実検」の作法など、武士社会における「首」の意味について、歴史学者の本郷和人氏がひも解きます。</p>

<p>※本稿は、本郷和人著『こわい日本史』（扶桑社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>首を取ることは、武士の最大の手柄</h2>

<p>現代では想像もつかないほど、命のやりとりが当たり前だったと考えられる鎌倉武士たちの間で、最大の手柄。それは「敵の首」をとることでした。よく慣用句で「あいつの首をとってやった」という言葉が、「やりこめてやった」という意味で使われます。ですが、ここで「首をとる」とは文字通り、首を切り落とし、それを持ち帰ることです。いわゆる「首狩り」です。</p>

<p>武士社会において首が非常に重要だったことは間違いありません。武士は主人のために命をかけて戦います。そして主人は、その働きに対して御恩を与える。この「御恩と奉公」という形が武士社会の基本的な主従関係です。そのとき評価の基準になるのが「どんな首を取ってきたか」だったのです。なぜ首が重要視されたのか。それは、ひとつには「社会にアピールする」という目的があったのではないか。この感覚は、平安時代に起こった源平合戦のエピソードにもよく表れています。</p>

<p>寿永3（1184）年に起こった一ノ谷の戦いの後、平家方の武将たちは多くが討ち死にします。その際、源氏側は、その名のある武将たちの首を持ち帰りました。ここで頼朝の弟・義経が後白河上皇に願い出たのが、「大路渡（おおじわた）し」という儀礼でした。これは簡単に言うと、討ち取った敵の首を都の大通りで見せびらかす、いわば「生首のパレード」のようなもの。「見てください、かつて威勢を振るっていた平氏の武将も、いまや首だけだ」ということを都の人々に示そうというのです。かなり残酷な行為ですが、当時の武士にとっては戦果を示す象徴的な儀式でした。</p>

<p>もっとも、この大路渡しには反対の声もありました。平家の武将の中には、すでに官位を持つ貴族も多かったからです。つまり、単なる武士ではなく、貴族でもある人物の首を庶民の前に晒すのはどうなのか、と。しかし義経はこれを押し切ります。「平家は父の仇である。ここまで戦ってきた以上、辱めを与えないという選択肢はない」と言い、大路渡しを強行するのです。義経の復讐心の強さがよくわかる場面です。同時に、その行為は、単なる残酷さだけではなく、「時代の権力者は自分たちだ」という政治的なメッセージも含まれていたのでしょう。</p>

<p>首を晒すことで権力の終わりを宣言する例は、それ以前にもありました。その一例が、平治の乱のときの藤原信西の事例です。信西は保元の乱の勝利によって後白河上皇の側近となり、当時の政治の実権を握った人物です。しかしそれを面白く思わないのが、青年公家、藤原信頼でした。信頼は平清盛が熊野詣でで京都を留守にしている隙を狙い、源義朝と手を組んで信西を打ち取ろうとクーデターを起こします。信西は京都を逃れて宇治田原まで落ち延びますが、逃げ落ちることはできないと判断し、自害。ところが、完全には死にきれなかったところを敵方の武士に発見され、首を刎ねられてしまう。</p>

<p>では、その首はどうなったか。なんと長い薙刀の先にひっかけられ、京都の大路を行進されてしまうのです。つまり、これは「信西の時代は終わった」ということを都の人々に見せつけるパフォーマンスだった。こうしたやり方は、その後も繰り返されます。源義経が平家武将の首で行った大路渡しも、言ってみればこの伝統の延長線上にあると言える。</p>

<p>人は死んでしまえば抵抗できません。その死体をさらし、辱める。首にされてしまえば、もう抗議もできない。武士の世界では、それが勝者の権力を示す最もわかりやすい方法だったのでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>アルコール漬けにされて送られた義経の首</h2>

<p>首は、戦いの世界で「その人物が本当に死んだのか」を証明する手立てでもあったのだと思われます。現代なら死亡診断書やDNA鑑定があれば一発でしょうが、武士の時代にはそんなものはありません。ではどうするか。首を持ってくること。それが一番確実でした。</p>

<p>実は源義経が奥州平泉で討たれた後、その首も切断され、頼朝の元へと送られています。義経の首は、遠い東北から鎌倉へ運ばれます。ただし、その運び方がなかなかすごい。腐らないように、首を酒に浸して運ぶのです。平泉から鎌倉までかなりの距離がありますから、当時としてはそれが最善の保存方法だったのでしょう。とはいえ、どんなにいい酒に浸したところで、時間が経てば当然腐る。正直、ドロドロになった首など誰も見たくないだろうなと思うのですが、それでも確認は必要だったわけです。</p>

<p>ところが、この確認作業のとき、義経の討伐を命令した頼朝本人は姿を見せず、確認したのは、侍所の長官和田義盛と副長官梶原景時の二人でした。彼らが鎌倉の町のはずれで検分し、「間違いなく義経殿の首でした」と頼朝に報告する。鎌倉の町には敵の首は入れない。ここが大切なのですが、これで義経の死が確定するわけです。武士の世界では、こうして首が死亡証明書の役割を果たしていました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>武士社会の「首実検」という奇妙でこわい儀式</h2>

<p>敵を倒した後、その首をチェックする儀式は、「首実検」と呼ばれ、平安時代の後期から行われていました。文字どおり、討ち取った敵の首を確認する儀式で、武将が「確かにこの人物を討ち取った」と、大将に証明するための場でもありました。つまり戦場での手柄を確認する、公式の手続きのようなものです。しかし、この首実検、ただ首を見ればいいというものではありません。実は、かなり細かい作法が決められていました。</p>

<p>まず、首は三宝という台の上に置かれます。そして「これは誰々の首です」と説明しながら、大将に見せる。その先に、妙なルールが複数あるのです。そのひとつが、首を真正面から見てはいけないというもの。作法としては、首に対して斜めから、斜向かいに見る。正面からまじまじと見るのは、首をとられた武士に対して無作法だ、というわけですね。殺して首まで狩ってきた後に、その配慮は必要なのかとも思ってしまいますが、きっとそれが武士の美学だったのでしょう。</p>

<p>さらに、首の表情によって吉凶を占うという話まであります。「この顔つきなら不吉」「この表情なら大吉」などと言う。運ばれたときの状態によって表情も変化しそうなものですが、そこはあまり気にされていなかったようです。また、死に顔があまりにもひどい形相だと見苦しいので、顔を整えたり、お化粧をしたりもしていたようです（その役目をやりたい人は、ほとんどいなかったと思いますが......）。</p>

<p>正直なところ、こういう作法はおそらく後世に整えられたものだと思います。平安時代後期にこの儀式が始まった頃には、もともとは「誰が死んだのかを確認する」という現実的な行為が先にあったはずです。それが次第に儀式化され、いろいろな作法や意味づけが付け加えられていったのでしょう。</p>

<p>ところが、この首実検は、時として武士にとって命取りになることもありました。有名なのが戦国時代の武将である武田信玄の若い頃の敗戦です。まだ彼が「信玄」と名乗る前、武田晴信だった時代の話です。信濃の大名である村上義清と戦った際、武田家の重臣の板垣信方が先陣を切って戦い、多くの首を取りました。ところがよせばいいのに、板垣信方は戦場の真っただ中で首実検を始めてしまった。</p>

<p>首を並べて「これは誰の首だ」と確認している間に、村上義清の軍が反撃してきます。首実検中は首に夢中なので、当然隙だらけです。結局この戦いで、武田家のナンバー2とも言える板垣信方は討ち死に。さらに有力武将である甘利虎泰も戦死し、武田軍は大きな打撃を受けました。首実検をしていたせいで、大事な部下を複数失ってしまった。若き武田信玄にとって、これはかなりショックの大きい敗戦だったでしょう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 22 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[本郷和人（歴史学者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>町中に悪臭が漂い、死体が道端にゴロゴロ...本郷和人が明かす「庶民から見た平安京」の現実  本郷和人（歴史学者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14301</link>
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			<description><![CDATA[平安時代の都のリアルを解説。芥川龍之介『羅生門』に描かれた死体放置の光景や、腐敗する遺体を描いた「九相図」、さらにトイレ事情から推測される強烈な悪臭など、華やかな貴族社会の裏側にある実態をひも解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「九相図」の一場面（出典：ColBase）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260514Hongo02.jpg" width="1200" />「九相図」の一場面（出典：ColBase）</p>

<p>貴族文化の優雅なイメージの強い平安京。しかしその華やかさの裏側に、現代人には想像を絶する「凄惨で過酷な現実」がありました。芥川龍之介の『羅生門』が描いたような死体放置の事実、そして発掘調査から判明した驚きの衛生事情など、1000年前の京の都の実像に迫ります。</p>

<p>※本稿は、本郷和人著『こわい日本史』（扶桑社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>平安京のリアルは『羅生門』にあり</h2>

<p>『源氏物語』の世界のような、雅で優雅な貴族文化――「平安時代＝華やかな時代」という印象を持つ人は多いと思います。ただし、そうしたイメージは、あくまで貴族社会の話に過ぎないのだということを、みなさんはご存じでしょうか。平安時代の日本列島の人口は、およそ1,100万人ほどだったと考えられています。そのうち、貴族そのものはせいぜい500人ほど。その家族を含めても3,000人程度です。</p>

<p>では、文学で描かれた都の様子が一部の貴族のものだったとしたならば、庶民にとっての平安の都とはどんなものだったのか。</p>

<p>それを考えるヒントになるのが、芥川龍之介の小説『羅生門』です。この作品は、平安時代の説話集『今昔物語』を下敷きにして書かれたもの。つまり完全な創作というより、当時の伝承や記録をもとにして描かれているわけです。だからこそ、それなりのリアリティがあると言えるでしょう。</p>

<p>物語の舞台は京都にある羅生門。この門は大きな二階建てになっており、雨風をしのぐことができる場所でした。ある男が雨宿りのためにその二階へ上がっていくと、そこには信じられない光景が広がっていました。なんと、飢えや病で亡くなった人々の死体が、ゴロゴロと放り出されているのです。</p>

<p>そこへ現れたのが一人の老婆。彼女は死体に近づき、亡くなった女性の髪の毛をむしり取っています。なぜ老婆がそんなことをしていたのかといえば、かつらをつくるため。当時の女性にとって、長い髪は大きな自慢でした。だから、長い髪を集めて、かつらの材料として売ると、そこそこのお金が手に入った。生き延びるために死体から髪を抜くあさましい老婆の姿を見て、男はゾッとし、彼女を蹴り倒してしまう、というのが『羅生門』の有名な一場面です。</p>

<p>この作品が私たちに教えてくれるのは、平安時代は日本で一番華やかであるはずの都・平安京ですら、死体が放置されるような状況があったという事実です。もし都でそうなら、地方ではどうだったのか。文献にはありませんが、道端に死体がゴロゴロ捨てられていたとしても、決しておかしくはありません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>平安時代の人々は、腐った遺体も見慣れていた？</h2>

<p>では、平安時代は、なぜそんなに死体がゴロゴロと放置されていたのでしょうか？まず、そもそもの理由は、現代に比べれば早死にする人が多かったからです。十分な医療がない当時、平均寿命は現代ほど高くありません。だいたい30歳から40歳ほどで亡くなる人が多かったと考えられています。</p>

<p>さらに死因として多かったのが、飢えと病気、そして戦争です。平安時代の前半から中期は非常に平和な時代だったので、戦争で亡くなる人は少なかったでしょうが、飢えや病気で亡くなる人が多かった。食べるものが不足していれば体力は落ちます。抵抗力が弱ったところに病気が重なれば、あっという間に命を落としてしまう。</p>

<p>ここで問題になるのが、遺体をどうするのかという問題です。現代の日本では火葬が一般的です。高温で焼いて骨にするのは、衛生的にも非常に合理的です。ところが、古代はそうではありません。きちんとした墓を作って埋葬する例はむしろ少なく、基本的には遺体を捨てるという形が取られていました。</p>

<p>とはいえ、無秩序に遺体を捨てていたわけではありません。都のはずれなどの場所に「だいたいこの辺りに遺体を置いておけばいい」という場所が自然に決まっていたようです。この場所を「葬地（そうち）」と呼びました。法律などで厳密に場所が決められていたわけではありませんが、人々が遺体を運ぶうちに「あの辺は死んだ人を捨てる場所だ」という共通認識が生まれていった。こうして亡くなった人は葬地へと運ばれ、「死体の集まる場所」ができていったのです。しかし、すべての遺体が葬地に置かれていたわけではありません。平安京という都の中には、家を持たない人々も少なくありませんでした。いまで言えばホームレスのような存在です。そうした人が道端で亡くなれば、遺体が放置されることもあった。そのため、人々が遺体を観察する機会は多かったようです。</p>

<p>少し先の時代ではありますが、鎌倉時代以降の絵画のジャンルに「九相図（くそうず）」というものがあります。これは、九つの段階に分けて、死体が腐敗していく過程を描いた絵です。まず体内にガスがたまり、膨張し、やがて破裂する。腐敗が進み、皮膚が崩れ、犬や鳥が肉をついばむ。最後には白骨になる。かなり凄惨な描写ですが、これが非常にリアルに描かれている。ということは、絵を描いた人は実際にそういう光景を見ていた可能性が高い。</p>

<p>鎌倉時代ですらそうなのですから、もっと社会制度が安定していない平安時代には、道端の死体が腐敗し、動物に食べられ、やがて骨になっていく過程は、ごくごく当たり前のものだったのではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>京都はかなりクサかった</h2>

<p>道端に遺体を捨てていたことを考えても、日本人の中には、昔から「死体は魂が抜けた抜け殻」という意識があったようです。問題は魂の行き先であって、体そのものではない。魂が抜けてしまえば、体はもうただの物体にすぎない。少し乱暴な言い方をすれば、「遺体はゴミのようなもの」という感覚さえあった。</p>

<p>天皇や貴族といった裕福な人や身分の高い人は丁重に葬られました。しかし、お金のない人々にとっては、葬儀に大きな費用をかける余裕などありません。親の遺体であっても、どこかに捨てに行くことも珍しくなかったのです。</p>

<p>死体がゴロゴロと転がっていたことを考えると、平安時代の京都はかなり「臭い」社会だったのではないかと推測されます。遺体が腐れば、その臭いが広がる。現代で、私たちは「死臭」をほとんど経験しません。遺体はすぐに火葬されてきれいに管理されるので、腐敗の臭いを嗅ぐ機会がない。ですが、昔はそうではありません。遺体がそのまま放置され、処理が遅れることもある。そうすると当然、腐敗臭が出る。これは想像以上に強烈な臭いだと言われています。</p>

<p>平安京のような人口が密集した都市では、当然死人も多いので、腐敗臭が漂う場面も少なくなかったでしょう。死の臭いが、日常の中に普通に混ざっていたはずです。さらに問題なのが、もっと身近な臭いです。そう、排泄物です。人間は生きている限り、必ず排泄をします。ところが平安時代には、もちろん水洗トイレなどありません。しかも紙も貴重品です。現代のようにトイレットペーパーで拭くわけにもいかない。では、何で拭いていたのかというと、これがまた驚きます。なんと「籌木（ちゅうぎ）」と呼ばれる木の棒で拭いていたのです。正直、どう考えてもあまりきれいになりません。想像するに、お尻には取り切れなかったウンコが付着するような、かなり厳しい衛生環境だったはず。</p>

<p>しかし、日本の歴史では木の棒でお尻を拭くのは意外と当たり前だったようです。事実、平安末期の遺跡である岩手県平泉の柳之御所遺跡などでは、アイスの棒のような木の棒が大量に出てきています。最初は「これは何だろう？」と研究者も首をかしげたそうですが、結論はお尻を拭く棒だったのです。</p>

<p>なお、お尻を棒で拭くのは意外とよくある文化のようで、古代中国でも棒でお尻を拭く文化があった。たとえば、禅宗の罵り言葉にある「乾屎橛（かんしけつ）」。直訳すると「乾いたクソのついたケツ」であり、「取るに足らないもの」という意味。ずいぶん強烈な言葉ですが、こういう言葉が成立するくらい、当時の人々にとって棒でお尻を拭くのは当たり前のことだったのでしょう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 19 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[本郷和人（歴史学者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀長がいれば家康の台頭はなかった？『豊臣兄弟！』時代考証が明かす、知られざる功績  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14203</link>
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			<description><![CDATA[大河ドラマ『豊臣兄弟！』の時代考証を担当する黒田基樹氏、柴裕之氏、制作統括の松川博敬氏にインタビュー。歴史研究はどのようにドラマへ反映されているのか。最新研究から見た秀長の人物像など、裏話を語る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="『豊臣兄弟！』写真提供：NHK" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260424jidaikosho02.jpg" width="1200" /><br />
『豊臣兄弟！』写真提供：NHK,以下同</p>

<p>視聴者をひきつけるエンターテインメント性と、史実をどう両立させるか――。歴史を扱った映像作品であれば、その問題は避けて通れませんが、国民的コンテンツである大河ドラマは、それとどう向き合っているのでしょうか。</p>

<p>そこで今回、大河ドラマ『豊臣兄弟！』(NHK総合 毎週日曜 夜8:00～ほか)の時代考証を担当する黒田基樹先生と柴裕之先生、そして制作統括の松川博敬氏にお話をうかがうことに。お三方のお話からは、時代考証の果たしている役割だけでなく、大河ドラマが歴史研究に及ぼす意外な影響も見えてきました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>時代考証は、ドラマの展開にどう影響するのか？</h2>

<p><img alt="『豊臣兄弟！』写真提供：NHK" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260424jidaikosho01.jpg" width="1200" /></p>

<p>――大河ドラマの時代考証というと、資料を集めたり、現状の研究状況を制作陣に伝えたりするというイメージがありますが、今回の大河ドラマで研究成果が反映さている点などあれば教えてください。</p>

<p>柴：たとえば桶狭間の戦いですが、今までの大河ドラマでは、今川義元上洛説をもとに描かれていたと思います。<br />
しかし今回は、織田信長側から動いて、それに対して義元が応戦するというふうに描かれています。研究によって、桶狭間の戦いを幅広く見てみると、実は信長のほうから動いていることがわかっていますので、そういった成果などをお話ししています。<br />
それをどう判断されるかは、最終的には制作陣の方ですが、桶狭間については取り入れてもらっていると思います。</p>

<p>黒田：考証会議というものが月に２回ほどあって、脚本について話し合うのですが、「現在の研究状況では、これは、こういうふうに理解されていて」ということをお伝えしています。そこに近づけるかどうかは、脚本家の方（八津弘幸氏）の考えになりますね。</p>

<p>松川：先ほど黒田先生がおっしゃられた時代考証会議はいつも対面で行っているのですが、実は視聴者のみなさんが気づいてないところで、お二方からいただいたアイデアがたくさん反映されています。</p>

<p>いま思いついたところで言うと、たとえば中村にあった小一郎（羽柴秀長）たちの家って意外と広いんですよね。あれは実は、豊臣兄弟の出自というのがもともとはそれなりのレベルで、その後、没落したということが反映されています。</p>

<p>また、ねねと秀吉の結婚の時期も最新研究にもとづいていて、いままでは永禄４年（1561）説がとられていて、「足軽のような秀吉が、身分の高いねねと結婚する」という描かれ方をされてきました。しかし今回は、秀吉が侍大将になった時に初めて結婚するということにしています。</p>

<p>あとは、黒田先生と柴先生に聞いて初めてわかったのですが、秀長には与一郎という息子がいて、天正10年（1582）に亡くなっています。また、撮影がはじまってからは秀長に娘がいたこともわかり、それらをドラマに反映しています。<br />
見えていないところで、お二方にすごい設計をしてもらっているというところがあるんですよね。</p>

<p><img alt="墨俣城が燃える場面" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260424jidaikosho04.jpg" width="1200" />墨俣城が燃える場面</p>

<p>――そうした研究成果が反映される一方で、ドラマと史実の面で、ぶつかり合うということもありますか？</p>

<p>柴：史実にこだわると、ドラマ性とのぶつかりがでてきてしまうというのはありますが、そこはあくまでドラマということで対応しています。ただ、やっぱり、史実と非常にずれてしまうとまずいわけですね。そこを、実際の歴史的過程の中にどう収めていくのかについては時代考証として考えています。</p>

<p>松川：八津さんとわれわれが譲れるところと譲れないところというのがあって、そこのせめぎ合いです。「ここはドラマの根幹にあたるところだから、申し訳ないですが、これで行かせてください」っていう。そういう部分は、史実の面を知ったうえで、お二方からのご指摘をわかったうえで、やらせてもらっています。</p>

<p>黒田：そう。だから、こちらとしては、そこでなるべく真っ赤な嘘だっていうふうに思われないような設定を提案してくということですよね。見ていて、もしかしたらあったかもしれないみたいに思っていただければ、それはそれでいいと思っています。</p>

<p>柴：史実はこうですっていうことは常に伝えていて、そのうえでのドラマとしての描き方がなされていくかと思いますので、制作陣が全く史実を知らなくて書いているわけではないということだけ押さえていただければと思います。</p>

<p>――ドラマと史実のせめぎあいについてうかがいましたが、脚本の創作面で面白いと思った点などを教えて下さい。</p>

<p>柴：やっぱり、凡人には思い付かない展開を考えつきますよね。第8回の「墨俣一夜城」は、「一夜で燃えたから一夜城」という描かれ方になっていて、そういったところは本当に素晴らしいと思います。</p>

<p>黒田：秀長の妻の慶（ちか）の描写が面白いというか、ここぞっていうときに慶がリードする場面があり、寧々よりもしっかりしているなと思います。詳しくは言えませんが、今後、慶のいいシーンがあるので、楽しみにしていてください。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>大河ドラマは、歴史研究に影響するのか？</h2>

<p><img alt="『豊臣兄弟！』写真提供：NHK" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260424jidaikosho03.jpg" width="1200" /><br />
姉川合戦の一場面</p>

<p>――そもそも、豊臣秀長に関する研究は、従来あまり進んでいなかったように思いますが、その点で、時代考証を担当するのは大変だったのではないでしょうか？</p>

<p>柴：秀長に関しては、これまでは、ほとんど研究がなかった状況です。「秀吉の弟」とか「秀吉の補佐役」とはいわれていても、具体的にどういう人物かわかっていませんでした。だからこそ、そこから積み上げて、時代考証としてアドバイスする必要があると思いました。</p>

<p>黒田：私は『真田丸』で時代考証をしたときも、わかっていないことを可能な限り調べたんですが、やっぱり歴史の研究者が時代考証に入っている以上は、その分野の研究を最先端まで進めるのが義務だと思っています。</p>

<p><img alt="『豊臣兄弟！』写真提供：NHK" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260424jidaikosho05.jpg" width="1200" /></p>

<p>――今回、時代考証として、史料を調べたり、準備を進めたりする中で、どんな秀長像が浮かび上がってきたのでしょうか？</p>

<p>黒田：秀吉って、なんでこんなに天下一統の過程が早いんだろうと思っていたら、「あ、秀長がいたからだ」っていうことがわかってきたんです。外様の大大名に対する取次を秀長がほぼ一人で務めていて、また軍事行動では常に別働軍の大将を務めている。だから、そんな秀長がいなくなったら、やっぱりその後が大変だろうなというのがわかってきましたね。</p>

<p>松川：昔からサポート役、補佐役といわれてきたけれども、実際に、そうだったということですよね。</p>

<p>黒田：補佐役ではあるけれども、非常に重要な役割を果たしていたということですね。やっぱり、今回の大河がなければそこまで調べることもなかったので、よかったです。</p>

<p>柴：秀吉の発給文書は約7000点とありますが、それを秀長の活動と合わせて考えることによって、大名の取次や、あるいは戦後処理、いわゆる仕置とかもその実態がよりわかってきましたよね。</p>

<p>松川：そういう面も、脚本にはかなり影響しているかなと思います。</p>

<p>黒田：興味深かったのは、秀長と奉行の関係ですね。たとえば秀長が奉行同士で意見対立しているのを調整したり、奉行が秀吉に言えない案件を秀長が伝えたりしている。だから、奉行にそんなに力がないんだなっていうのが明確にわかって、今までは秀長と奉行が対立したように解釈されている部分がありましたけど、それが全部成り立たないということがわかりました。従来の大河では、秀長が生きている段階から、石田三成が動き出す描写もありましたが、歴史的にはそういうのは全くないんですよ。</p>

<p>柴：それを踏まえていいますと、家康がどうやって豊臣政権の中ででてくるのかもわかってきましたよね。秀長が生きている間は、家康は豊臣政権下における関東・奥羽方面の軍事司令官なのですが、秀長がいなくなったことで、秀吉を支えるような助言役として出てくると。</p>

<p>黒田：そして羽柴秀次がいなくなったあと、秀吉が本当に頼れるのが家康だけになる。だから、今回の大河ドラマによって、研究面でも、秀吉政権の研究というのはこれから大きく変わらざるを得ないですね。</p>

<p>――黒田先生と柴先生は、今回でそれぞれ2回目の時代考証担当ということですが、お話をうかがうと、大河ドラマによって研究も進んでいくという、いい循環があるように見えますね。</p>

<p>柴：そうですね。大河ドラマによって研究がさらに進み、またそれが大河ドラマに反映されていくということだと思います。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260424jidaikosho02.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 18 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>実は豊臣秀長と深いゆかりが！天空の城・竹田城跡と生野銀山をゆく  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14264</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014264</guid>
			<description><![CDATA[兵庫県朝来市の竹田城跡と生野銀山に関する歴史紀行文。ともに、大河ドラマ『豊臣兄弟！』の主人公・豊臣秀長にゆかりある地で、この二つを通して見えてくる知られざる歴史の側面を、歴史街道編集部が紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="竹田城跡（提供：朝来市）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago1n.jpg" width="1200" />写真：竹田城跡（提供：朝来市）</p>

<p>兵庫県朝来市にある竹田城跡は、「天空の城」として有名だが、実は、大河ドラマ『豊臣兄弟！』の主人公・豊臣秀長が居城としたこともある名城だ。しかも市内には、豊臣兄弟の天下一統を語るうえで欠かせない生野銀山もある。</p>

<p>2つの地はいったい何を物語るのか。編集部が訪ね歩くと、圧巻の光景とともに、世界につながる歴史が見えてきた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>雲海なしの景色も美しい立雲峡</h2>

<p>竹田城跡は雲海に浮かぶ「天空の城」として、広く知られてきた。しかし今年は、それにもうひとつのキャッチフレーズが加わった。</p>

<p>「豊臣兄弟ゆかりの城」である。兄弟は中国攻めの最中でこの城を攻略し、特に秀長は、城代として城を預かる立場となっているのだ。</p>

<p>そこで、豊臣兄弟との関係を調べると、より一層、竹田城跡の魅力に触れられるのではないかと思い立ち、現地へと向かった。</p>

<p>まずは、竹田城跡を遠望できる立雲峡へ。立雲峡の展望台は、24時間入場可能とのことで、早朝に車で向かった。朝来市の中心市街・和田山駅からは20分ほどだ。</p>

<p>雲海が出るのは主に秋のため、この日は見られなかったが、それでも展望台からは竹田城跡の石垣を肉眼ではっきりと見ることができ、十分に目を楽しませてくれた。</p>

<p>ここで、ひとつの想念が浮かんできた。豊臣兄弟は竹田城を攻めたが、事前にどんな城か調べるはずだ。とすると、2人もこうした高所から竹田城を眺めて、攻め方を思案したのではないか&hellip;&hellip;。</p>

<p>そんなことを思いつつ、次は竹田城跡へと向かう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>圧巻の光景を見せてくれる竹田城</h2>

<p><img alt="中世城郭時代の竪堀" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago2n.jpg" width="1200" />写真：中世城郭時代の竪堀</p>

<p>竹田城跡は、季節によって観覧時間が変わるので、訪問時は事前に調べておいたほうがいいだろう。また、山道は4つあり、今回は一般的な西登山道で城跡を目指した。</p>

<p>山の麓にある山城の郷駐車場に車をとめ、そこから西登山道を歩けば、城跡入り口までは40分。</p>

<p>ＪＲ竹田駅からは、駅と竹田城跡を周遊する天空バス、またはタクシーを利用することもできる。</p>

<p>さて、西登山道を進むに際しては、朝来市観光交流課の荒木義嗣さんと、文化財課の大川拓也さんが案内してくださることに。</p>

<p>西登山道の中腹に、施設係員用の駐車場と公衆手洗いがあり、そこから進んだすぐ左手を大川さんが指をさし、「ここは、近世城郭になる前の、中世城郭時代の竪堀なんですよ」と教えてくれる。</p>

<p>横幅数メートルで、山上に延びる堀は、間違いなく竪堀とわかる。総石垣となる前の竹田城は、土塁からなる中世城郭だったそうだ。</p>

<p>ここで、竹田城の歴史に触れておきたい。竹田城は、永享3年（1431）に山名持豊が築城に着手し、嘉吉3年（1443）に完成。太田垣光景が初代城主となった。</p>

<p>その後、太田垣輝延の時代の天正5年（1577）、信長家臣だった秀長が攻略し、城代となる。</p>

<p>秀長が石垣造りの普請を命じられたというが、実際に総石垣の城となったのは、最後の城主・赤松広秀の時代と考えられている。</p>

<p>西登山道を進んでいくと、徐々に視界の上に石垣が見えてきて、その威容が姿を現わす。</p>

<p>城跡を近くで目にすると、石垣造りの曲輪が幾重にも連なるようにして見え、その光景は圧巻だ。</p>

<p>「竹田城は、天守台を中心に、北に北千畳、南に南千畳、西に花屋敷と、三方向に曲輪を配した縄張りとなっていて、堅固だったことでしょう」と大川さん。</p>

<p>北千畳から三の丸に入る際に、虎口櫓があるが、その石垣を見ると、大小、様々な石材が使われていることがわかる。</p>

<p>野面積みという手法で、安土城を築いた穴太衆によるものと似ているが、竹田城と彼らの関係はわかっていないという。</p>

<p><img alt="虎口櫓の石垣" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago3n.jpg" width="1200" />写真：虎口櫓の石垣</p>

<p>三の丸、二の丸を経ていよいよ天守台へとのぼる。かつては三層の天守があったと考えられているそうだ。</p>

<p><img alt="南千畳から天守台を望む" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago4n.jpg" width="1200" />写真：南千畳から天守台を望む</p>

<p>竹田城跡は標高約350メートル、比高200メートルで、天守台から景色を眺めると、この地がいかに要衝であったかが手にとるようにわかる。</p>

<p>大川さんは、こう語る。</p>

<p>「ここからは三方向に街道が見えますが、山陽と山陰を結ぶ要地で、竹田城を押さえた織田方にとっては、対毛利と生野銀山を守るための拠点でした」</p>

<p>続いて、南千畳に歩みを進めるが、歩いているうちに、竹田城跡全体の広大さに驚かされる。</p>

<p>南北400メートル、東西100メートルの規模に及び、しかもすべてが石垣造りであることから、まさに名城といっていいだろう。</p>

<p>しかも、立つ位置によって、それぞれ異なる光景を見せてくれ、お城ファンならずとも、間違いなく惹かれるはずだ。</p>

<p>「この竹田城跡で、雲海の中を歩くのもまた格別ですよ」と荒木さん。</p>

<p>雲海がなくともこれだけ美しいのだから、雲海の季節も見てみたいものだ。</p>

<p><img alt="南千畳方面の眺め" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago5n.jpg" width="1200" />写真：南千畳方面の眺め</p>

<p>なお、山城の郷駐車場から車で10分ほどの位置にある朝来市埋蔵文化財センター古代あさご館では、「羽柴秀長と竹田城」と題した企画展が開かれている。2026年7月20日まで開催中の前期展示では、織田軍の但馬侵攻と但馬国について、2026年8月4日から2026年11月29日までの後期展示では、竹田城を中心に朝来市内の山城が紹介されるとのことで、そちらにも足を延ばすといいだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>風情ある城下町</h2>

<p><img alt="旧宿場町の雰囲気を残す旧木村酒造場" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago7n.jpg" width="1200" />写真：旧宿場町の雰囲気を残す旧木村酒造場</p>

<p>竹田城跡を後にして、次は城跡の麓にある、ＪＲ竹田駅周辺の旧城下町へと向かう。山城の郷駐車場から駅までは車で10分ほど。駅近くには駐車場もある。</p>

<p>関ケ原合戦のおり、竹田城主・赤松広秀は西軍に与したことから、徳川家康の命によって切腹。その後、城は廃城となったものの、町は宿場町として栄え続けたという。</p>

<p>特に駅の東側の通りは、旧宿場町の雰囲気が濃厚で、どこか懐かしい気分にさせてくれる。</p>

<p>駅を挟んで反対側には、寺院の並ぶ寺町通りがある。</p>

<p>善證寺、常光寺、勝賢寺、法樹寺と白壁のあるお寺が四つ隣接し、その手前には鯉の泳ぐ小川が流れ、桜の木も続く光景は、映画のワンシーンにしたい雰囲気だ。</p>

<p><img alt="寺町通り" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago8n.jpg" width="1200" />写真：寺町通り</p>

<p>また面白いのは、この4つの寺院が、いずれも竹田城とゆかりがあることだ。</p>

<p>善證寺は再建時に、竹田城の廃材と旧赤松家臣平位善右衛門の邸宅が使われたという。</p>

<p>常光寺には初代城主・太田垣光景の供養塔、勝賢寺には九代城主・桑山重晴の長男夫妻の墓、法樹寺には赤松広秀の供養塔と、それぞれ旧城主やゆかりの人物の慰霊施設があるのだ。</p>

<p><img alt="桑山重晴の長男夫妻の墓" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago11n.jpg" width="1200" />写真：桑山重晴の長男夫妻の墓</p>

<p><img alt="太田垣光景の供養塔" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago10n.jpg" width="1200" />写真：太田垣光景の供養塔</p>

<p>法樹寺で広秀の供養塔に手を合わせて、その背後に目を向けると、石垣のようなものが並んでいる。</p>

<p>「ここは赤松広秀公の居館跡と考えられているんです」と荒木さん。</p>

<p>「広秀公は養蚕業や漆器産業を奨励し、それが、竹田の名物でもある家具製造業のもとになったと伝えられています」</p>

<p>荒木さんの口ぶりから、赤松広秀がこの地の人々に、いまも慕われていることがうかがえた。</p>

<p><img alt="赤松広秀の供養塔" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago9n.jpg" width="1200" />写真：赤松広秀の供養塔</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>昭和まで続いた生野銀山</h2>

<p><img alt="生野銀山の公開されている坑道" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago14n.jpg" width="1200" />写真：生野銀山の公開されている坑道</p>

<p>竹田城跡と旧城下町を後にし、次は生野銀山へと向かう。</p>

<p>竹田駅周辺からは車で30分ほど。電車の場合は竹田駅から生野駅まで30分、そこからタクシーまたは予約制のデマンド型乗合交通でいくこととなる。</p>

<p>生野銀山には、鉱山資料館、生野銀山文化ミュージアムといった展示施設があり、実際に使われていた坑道内を歩くこともできる。</p>

<p>ここからは、生野銀山を運営する株式会社シルバー生野の取締役社長・髙山孝一さんが案内してくださることに。</p>

<p>まず、生野銀山の歴史に簡単に触れておこう。この銀山が開坑されたのは、伝承では大同2年（807）とされる。</p>

<p>そして、銀山としての開発が本格化するのは戦国時代のことで、但馬守護・山名祐豊のもとで進められたと考えられる。</p>

<p>その後、竹田城主・太田垣氏が銀山を押さえ、続いて織田信長が豊臣兄弟を派遣して掌握。信長亡き後は、秀吉が直轄化し、関ケ原の戦い後は、徳川家康が銀山奉行を置いて管理した。</p>

<p>「信長、秀吉、家康という三英傑がかかわった銀山は、ここだけでしょうね」と髙山さん。</p>

<p>特に豊臣政権期には、全国から集められた銀のおよそ8割が、生野を主体とする但馬国の銀山から産出されており、政権の財源になると同時に、海外交易の原動力になったと考えられる。</p>

<p>歴史学者の磯田道史氏は著書『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』でこう記している。</p>

<p>「生野銀山を押さえることで、秀吉は天下を狙うことが可能になった、といっても過言ではありません」</p>

<p>戦国時代において、この地がいかに重要だったかがうかがえる。</p>

<p>それと同時に、ここで産出された銀が世界に輸出されていた事実を踏まえると、竹田城と生野銀山が世界史と無関係ではないことに気づかされる。</p>

<p>では、実際に銀はどのようにして採掘されていたのだろうか。</p>

<p>「銀山というと、坑道の中で採掘するイメージがあるでしょうが、戦国時代は主に、露頭掘りといって、鉱脈が地表に出ている部分を掘っていたんです」</p>

<p>そういって髙山さんが案内してくれたのが、坑道外コースにある慶寿の掘切だ。明らかに人の手によって掘られたことがわかる。</p>

<p>「ただ当時の技術では、1日掘っても10センチほどしか進まなかったでしょうね」</p>

<p>銀の採掘とは途方もなく、大変な仕事なのだろう。</p>

<p><img alt="戦国時代に掘られた慶寿の掘切" height="1600" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago12n.jpg" width="1200" />写真：戦国時代に掘られた慶寿の掘切</p>

<p>生野銀山では露頭掘りだけでなく、坑道も約1キロメートルが一般公開されており、そこでは、江戸時代の坑道や明治時代以降の近現代の坑道を見ることができる。</p>

<p>髙山さんによると、江戸時代の坑道内では採掘する人だけでなく、排水をする人、坑内に空気を送る人もいたとのことで、やはり大変な仕事だったのだろう。</p>

<p>あとで、その様子を再現した模型を鉱山資料館で見せてもらったが、当時の苦労が一層、偲ばれた。</p>

<p><img alt="江戸時代の採掘風景を再現した模型" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago13n.jpg" width="1200" />写真：江戸時代の採掘風景を再現した模型</p>

<p><img alt="江戸時代に掘られた坑道" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago15n.jpg" width="1200" />写真：江戸時代に掘られた坑道</p>

<p>一方で、坑道ではエレベーターや巻上機など、近代的な設備を目にすることもできる。</p>

<p>そこからは江戸時代から戦後までの鉱山開発の過程も見え、この地で採掘に携わってきた人々の息遣いが伝わってくるようだった。</p>

<p><img alt="エレベーターを動かすための巻上機" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago16n.jpg" width="1200" />写真：エレベーターを動かすための巻上機</p>

<p>「大正、昭和の最盛期には、生野の人口は1万人を超え、大変賑わい、文化的にも進んだ地域だったんですよ」と髙山さん。</p>

<p>紙幅の都合で触れられないが、生野駅周辺では、そうした時代の名残を感じさせてくれる建築物や施設もあるので、生野銀山と一緒に、それらも見学するといいだろう。</p>

<p>なお、生野銀山は昭和48年（1973）に閉山となったが、いまもこうして、その歴史を今に伝えてくれている。</p>

<p>豊臣兄弟とゆかりある竹田城跡と生野銀山を訪ねる旅は、思わぬ広がりを見せ、戦国時代だけでなく、世界史と現代につながる歴史にも出会わせてくれたのだった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>竹田城跡と生野銀山へのアクセスは、「朝来市観光協会」で検索するか、もしくは下記からアクセスしてください。</p>

<p>https://asago-kanko.com/</p>

<p><img alt="竹田城跡と生野銀山の地図" height="1459" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago17n.jpg" width="1200" /></p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260426asago1n.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 14 May 2026 17:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>伊賀忍者の携帯食がルーツ？ 素手ではなかなか割れない日本一固い煎餅「かたやき」がすごい  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14248</link>
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			<description><![CDATA[忍者の故郷としても知られる三重県・伊賀。「天正伊賀の乱」や、銘菓「かたやき」など、忍者とゆかりの深い伊賀の地を訪れ、その歴史をたどってみた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="名張市の南西、黒田の地の山手から中心市街地を望む" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260501iga1.jpg" width="1200" />写真：名張市の南西、黒田の地の山手から中心市街地を望む</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>三重県西部の内陸の地、伊賀。山々に囲まれたその盆地を、古くから人は生活圏とし、近世には、盆地北側は上野城の城下町、南側は名張陣屋のもとでの宿場町として栄えた。現在は、それぞれ伊賀市と名張市の市街地となっている。</p>

<p>伊賀といえば、忍者の故郷としても知られる。その忍者ゆかりの地域の銘菓が「かたやき」である。小麦粉に砂糖を加えて練った生地を鉄板の上で丸く焼き上げた、名の通りの固さで知られる煎餅（せんべい）で、忍者の携帯食が起源といわれる。</p>

<p>特に名張は、忍者の盛衰に深くかかわる場所。その歴史をたどるとともに、この地で営む名店を訪れて、かたやきに寄せる地域の思いを聞いた。</p>

<p>【兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【（編者）歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「隠（なばり）」と記された、忍者の発祥の地</h2>

<p>『日本書紀』や『万葉集』では、名張は「隠」と表記されている。いかにも山々に隠された地という印象だが、三重県内第2位の規模の馬塚古墳を含む美旗古墳群が存在し、古くからの人の集住をうかがわせる。飛鳥や奈良の都から東国へと向かう街道筋にもあたり、古代の駅が置かれたといい、奈良時代に建立された夏見廃寺の遺構を見ることもできる。</p>

<p>平安時代後期、名張に東大寺の荘園である黒田荘（くろだのしょう）が成立。市南部にある極楽寺は、檀家（だんか）の人々が東大寺二月堂修二会「お水取り」で使われる松明（たいまつ）を調進することで知られ、荘園時代からの営為といわれる。もっとも、鎌倉時代に入ると、在地の荘官や地侍が領主化し、寺領の年貢とすべき収穫を略取する者たちが現れる。彼らは「黒田悪党（くろだのあくとう）」と呼ばれた。</p>

<p>立場を変えれば、悪党の出現とは、地域に根付いた人々「国人（こくじん）」の自立を意味する。南北朝時代には黒田悪党は南朝につき、同じく悪党と呼ばれた楠木正成（くすのきまさしげ）とも結んだ。その後も、室町時代を通じて国人たちは勢力を拡大し、伊賀一国を割拠して支配するまでに成長。そして、戦国時代を迎えると、外部からの侵攻に対して一味同心して防戦することを掟書（おきてがき）に定めた。この一国挙げての同盟を「惣国一揆（そうこくいっき）」という。</p>

<p>彼らは戦乱の世を生き抜くために、情報の収集に努め、また、地侍ならではの独特の戦術を発展させた。つまり彼らこそ、のちに忍者と呼ばれる者たちだったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「天正伊賀の乱」忍者の最終決戦の城</h2>

<p><img alt="伊賀忍者たちが立て籠もった「決戦之地柏原城」の碑が立つ勝手神社" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260501iga2.jpg" width="1200" />写真：伊賀忍者たちが立て籠もった「決戦之地柏原城」の碑が立つ勝手神社。実際に柏原（かしはら）城があったのは、近くの小高い山上という</p>

<p>伊賀惣国一揆を脅かす存在が現れる。伊勢国司の北畠具教（きたばたけとものり）を滅ぼして同国を掌握した、織田信長の次男・信雄（のぶかつ）が、隣接する伊賀へと食指を伸ばすのである。天正6年（1578）3月、具教が上野盆地に建設途中であった丸山城を、伊賀支配の拠点とするために、信雄は家老の滝川雄利（かつとし）に完成を命じて築城を開始する。</p>

<p>伊賀方の密偵によると、丸山城は石垣で固めた天守台に三層の天守を備えた本格的な城郭であったといい、危機感を抱いた伊賀衆は、城が完成する前に700名で襲撃。急襲になすすべもなかった滝川雄利は、撤退を余儀なくされた。これが「天正伊賀の乱」の発端となる。</p>

<p>翌天正7年（1579）9月、織田信雄は約1万の兵をもって伊賀国に侵攻を開始。しかし、事前に察知していた伊賀衆は得意とする奇襲を繰り広げ、信雄軍は重臣が討たれるなど甚大な死傷者を出して敗走した。この敗戦を知った信長は激怒したといい、伊賀衆への憎悪をたぎらせた。</p>

<p>他の戦線に一段落をつけた信長は、天正9年（1581年）9月、信雄を総大将に、主力武将たちが率いる5万の兵を配して、伊賀へ六方向から攻め入らせた。伊賀衆は野営地に夜襲をかけ、また、各地で籠城して果敢に戦うが、織田軍は容赦ない殲滅（せんめつ）戦を展開。集落・寺社を焼き払い、子どもや女性などの非戦闘員にも構うことなく、殺戮（さつりく）を遂行した。これによって当時の伊賀の人口9万のうち、3万人余が命を失ったといわれる。</p>

<p>後退する伊賀衆の最後の集結地となったのが、名張南端・赤目口の柏原城であった。激しい攻防が幾度か繰り返されたが、仲介者があり、籠城する兵と民の命の保障を条件に開城することで和議が成って終戦となった。この後、伊賀の指揮官の多くは国を出たという。</p>

<p>しかしながら、時代の転換は早かった。この伊賀の乱の翌年6月、織田信長は京都本能寺で横死する。政権の混乱を見て、国を出た伊賀衆たちは帰還し、地元の仲間と蜂起。柏原城ほか各地の城を奪還して、再び織田方に対決姿勢を示した。ただし、こののちに豊臣政権が成立し、さらに徳川の時代へと移り変わるなかで、伊賀衆は「忍び」として体制に組み込まれていく。特に本能寺の変の際、徳川家康の危機脱出行「神君伊賀越え」を伊賀衆が支えたことで、多くが徳川幕府に召し抱えられて伊賀同心を称することになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>名張の上忍・百地三太夫も食べた「忍菓（にんか）」</h2>

<p><img alt="かたやきを焼く、大屋戸重雄さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260501iga3.jpg" width="1200" />写真：かたやきを焼く、大屋戸重雄さん。専用の道具で平らな円形に整えていく</p>

<p>柏原城の決戦で籠城した伊賀衆のなかに、黒田悪党の末裔（まつえい）といわれ、赤目地域に屋敷を置いた百地丹波（ももちたんば）もいた。実名は正西といい、上級忍者「伊賀三上忍」家の一つ、百地家の当主で、丹波守（たんばのかみ）を称したことからこの通称がある。のちの忍者ものの物語に登場する百地三太夫のモデルでもある。</p>

<p>その百地丹波が持久戦に備えて、柏原城に持ち込んだという、かたやきにまつわる伝承が名張にある。江戸時代にまとめられた忍術の解説書『老談集』や『万川集海』には、忍者が任務中に用いた携帯食・非常食の存在と製法が記されている。「兵糧丸」「飢渇丸」「水渇丸」などといい、漢方薬の成分を取り入れて滋養も図るものであったが、かたやきのように軽く日持ちがする食料があっても不思議ではない。そうしたことから、かたやきは別名「忍菓」とも呼ばれている。</p>

<p>名張市で営業する、かたやきの製造直売店「大屋戸製菓」を訪れて、店主の大屋戸重雄さんに忍者との関わりを尋ねると、「忍者が食べているところを見たことがないので...」と、とぼけて笑う。といっても、店頭ののぼりに忍者が描かれ、知人の手によるという忍者姿のご自身をキャラクター化した絵も店内に飾られていて、やはり忍者とかたやきは切り離せないようである。</p>

<p>大屋戸さんに見せていただいた、昔ながらのかたやきの作り方はシンプルである。小麦粉に砂糖と水を加えて混ぜた生地を一晩寝かす。店によっては山芋を加えるところもあるらしい。これを太さ3センチほどの棒状にまとめ、2.5センチほどの長さに等分に切って熱い鉄板の上に並べ、一つずつ、胡麻（ごま）や青のりを振る。大屋戸製菓では、白黒の胡麻のみを使用。小・中・大の三種の丸い金鏝（かなごて）のような道具を順に使い、生地を鉄板に押し付けて円盤型に形を整え、あとは木の板で押さえながら弱火でじっくりと両面を焼き上げる。</p>

<p>大屋戸製菓では、蛍火のようなガスの火で一枚15分から20分ほどかけて焼いている。中までしっかりと固く焼き、甘さと香ばしさを出すには、これくらいの時間がかかるという。「火を強くして短時間で焼こうとすると、焦げてしまいます。理想は『鹿色』に仕上げることで、気温や湿度、生地の状態に合わせて焼き方を日々調整するのが、難しいところです」。</p>

<p>焼き上がりも固いが、冷めるとさらに固くなる。小さく割って口に入れ、少し柔らかくなってからでないとかみ砕けない。その割ること自体が素手では困難で、もう一つのかたやきの側面を打ち付けて割ったりする。そんな固さでも90歳を超えた高齢のファンもいて、定期的に購入してくれるという。かみ砕くのが無理なときは、お茶などに浸してふやかして食べる方法もある。</p>

<p>「うちでかたやきを製造するようになってから、まだ30年ほど。代々焼いてこられたところもあって、うちは新しいほうです」と、ご主人とともに従事する奥様の美葉さんがお店の経緯を教えてくれる。実はご主人の父が以前から和菓子店を経営し、饅頭（まんじゅう）などを製造していたそう。ご主人も後継ぎとして、大阪心斎橋の和菓子店などで修業。実家に帰って奥様と結婚されたころは、奈良県内の室生寺の門前に出張して、草餅の製造実演販売をしていたのだとか。ちなみに蓬（よもぎ）を生地に練り込んだ草餅も、名張の名物の一つである。</p>

<p>ところが、平成7年（1995）の阪神淡路大震災の影響で、室生寺を訪れる参拝者が激減。ここでの販売をあきらめ、次の事業として着目したのが、幼少の頃から地元のお菓子として親しんできた、かたやきであった。「名張にあった名店にお願いして、修業させてもらったのです」とご主人。「お店に後継がおらず、私に製造を継いでもらおうということでもありました」。そして修業後、実家のお店に戻り、かたやきの製造販売店として再出発したという。</p>

<p>ただ、和菓子職人の性（さが）からか、大屋戸製菓では「あん入りかたやき」というオリジナル商品も製造販売している。自家製のこし餡（あん）を柔らかめの生地で包んだ、かたやきである。「師匠からは、これはかたやきやないといわれましたが、なかなか好評です」。</p>

<p>大屋戸製菓は直売だけでなく、近隣の量販店や、赤目・室生・長谷（はせ）・御杖（みつえ）などの観光地の土産（みやげ）店にも納品している。今年、79歳になる重雄さんにとって、その需要に応えるのが、近年、きつくなってきたという。背景には、後継者不足による製造店の減少もある。「私が修業を始めたときには、名張にまだ5、6軒のお店がありましたが、今は当店を含めて2軒だけになりました」。</p>

<p>そんななかでも、年に2回、地元小学校の給食での提供を実施。体験学習での店舗見学にも協力している。「子どもたちは、かたやきが大好きなのですよ。それでお母さんが買いに来てくれることもあります」と美葉さん。よそに出向く人が、地域の土産として持参してくれることも多いとか。「固い煎餅ということで話題にもなりますし、割るための小さな木槌（きづち）付きのセットもあって、面白いと評判を得ています」。同じかたやきでも、店ごとでまったく味わいが違い、それぞれに固定ファンが付いているともいう。</p>

<p>「私が子どものころは、駄菓子屋さんで焼いて子どもたちに売っているところもありました。地元の人にとって、かたやきはそんな身近で親しみのある、こだわりたい食べ物なのです」と重雄さん。「修業した店は閉店してしまいましたが、おいしかったその味を私も守り続けたいと思っています」。</p>

<p>忍者について、誤解されているところもあるのではと、重雄さんの地元の視点からの意見もお聞きした。「ドラマなどで、黒ずくめの恰好（かっこう）で暗躍するわけですけれど、実際の忍者というのは、普段はただの一般の民衆でした。いざというときには、戦闘に立ち向かうということはあったのでしょうけれど」。そんな地味ながら力を秘めた忍者の存在と、簡素ながら滋味が豊かなかたやきとは、やはりどこかでつながっているように思える。名張で忍者を生み育てた民の文化が、かたやきの一枚にも宿ることを、当地で焼き続けるご夫婦に教えられた。</p>

<p><img alt="写真：大屋戸さんご夫婦。取材を受けながらでも二人で分担して、かたやきを返すタイミングを忘れない。その阿吽（あうん）の呼吸はさすが" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260501iga4.jpg" width="1200" />写真：大屋戸さんご夫婦。取材を受けながらでも二人で分担して、かたやきを返すタイミングを忘れない。その阿吽（あうん）の呼吸はさすが</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260501iga1.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 08 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>家臣を守るため、主君が咄嗟にとった行動　毛利元就と加藤嘉明  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12110</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012110</guid>
			<description><![CDATA[いざ事が起こったとき、家臣への思いが強い主君がとった大胆な行動とは？奈落一騎さんが解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="加藤嘉明の銅像" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/pixta_katoyoshiakira.jpg" width="1200" /></p>

<p>戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。<br />
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。<br />
そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。<br />
今回は、毛利元就と加藤嘉明の胸打つエピソードをご紹介しましょう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家臣の腐りかけた傷口に口を当てた毛利元就</h2>

<p>戦場での献身的な行為は、つねに家臣から主君に向けられるだけとは限らない。その逆のこともある。</p>

<p>中国地方の大名・毛利元就というと、権謀術数を駆使した謀将という印象があるかもしれないが、次のような逸話が残されている。</p>

<p>元就の家臣に、岩木道忠という武将がいた。その道忠があるとき、戦場で敵の矢が左膝に刺さり、重傷を負ってしまった。道忠は陣に担ぎ込まれ、矢は引き抜いたものの、矢尻が骨に突き刺さったまま残り、どうしても取れない。その傷口を見た医者は、「足を切り落とすしかない」と匙を投げた。</p>

<p>すると元就は医者をどかせ、すでに腐りかけていた道忠の傷口に迷うことなく口を当てると、血膿を吸い出しはじめた。吸っては吐き出し、吸っては吐き出しをくり返しているうちに、やがて硬い物が傷口から零れ落ちた。骨に食い込んでいた矢尻が取れたのである。</p>

<p>こうして足を失わずに済んだ道忠は感激のあまり、「あなたのためなら命も惜しくはありません」と元就に誓った。だが、それを聞いた元就は「こんなことぐらいで感激して、命も惜しくないというのは本当の勇者ではない。部下の命を取り留めるために、これしきのことをするのは当たり前のことだ」と笑ったという。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家臣を守るため、自慢の焼物をなかったことにした加藤嘉明</h2>

<p>もうひとつ、戦国時代の心温まる逸話を紹介したい。</p>

<p>加藤嘉明は豊臣秀吉の家臣で、「賤ケ岳七本槍」の1人に数えられている武将だ。その嘉明は南蛮渡来の焼物の蒐集に凝っており、とくに「虫喰南蛮」という10枚1組の小皿が自慢の品であった。</p>

<p>ところがあるとき、嘉明の家臣が誤って「虫喰南蛮」の1枚を割ってしまった。有名な「皿屋敷」の怪談は、家宝の10枚1組の皿の1枚を割ってしまった下女が怒った主人に殺され、幽霊となるという話だが、主君の大切な焼物を損なってしまった嘉明の家臣も手討ちにされることを覚悟したはずだ。</p>

<p>だが、このことを知った嘉明は、残った9枚の皿を持ってこさせると、家臣たちが見ている前ですべて打ち砕いてしまった。そして、周囲が啞然としているなか、次のように語ったと伝えられている。</p>

<p>「残りの皿を割ったのは、決して怒りのあまりしたことではない。皿が残っていると、いつ誰々が粗相して割ったのだと言われ続けることになる。それではその者がかわいそうだ。それゆえ、全部割って、最初からなにもなかったことにしたのだ」</p>

<p>嘉明が言葉だけで「許す」と言っても、皿が残っていれば、割ってしまった家臣はいつまでも残った9枚の皿を見るたびに罪の意識に苛まれることになるし、周囲の者もそのたびに思い出してしまうだろう。</p>

<p>また、嘉明自身も、いまは許す気でいても、いつか残った皿を見たときに「惜しい」と感じ、家臣を恨んでしまうかもしれない。だから、はじめから皿など存在しなかったことにしてしまったのである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_katoyoshiakira.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 07 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>身命を賭して主君を守った家臣たち　毛受勝照と鳥居強右衛門  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12109</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012109</guid>
			<description><![CDATA[主君を守るため、信頼してくれた味方を守るため、まさに命を懸けた家臣の働きを奈落一騎さんが解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="武田勝頼公之像" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/takedakatsuyori.jpg" width="1200" /></p>

<p>戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。<br />
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。<br />
そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。<br />
今回は、主君のために命をなげうった二人の人物をご紹介しましょう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「我は柴田勝家なり」主君の身代わりとなった毛受勝輝（めんじゅかつてる）</h2>

<p>裏切りが常だった戦国時代とはいえ、主君に尽くした家臣も、もちろんいた。そして、その忠節はやはり、死と隣り合わせの戦場で試されるものだ。そういった戦場での忠節の逸話は、いくつも残されている。</p>

<p>毛受勝照は、織田氏の家臣・柴田勝家の近侍を務めていた武将である。天正2年（1574）、長島一向一揆との戦いにおいて勝家軍の馬印が一揆勢に奪われる事態が起こった。馬印は総大将の所在を示すもので、これを敵に奪われることは非常な恥辱とされていた。</p>

<p>憤激した勝家は武門の恥をそそぐべく、単身敵中に乗り込み、馬印を取り戻そうとしたが、それを勝照は押し留めた。そして自ら敵陣に乗り込み、見事、馬印を取り戻して勝家を大いに喜ばせたという。</p>

<p>その後も勝照は勝家に仕え続けたが、天正11年（1583）、「賤ケ岳の戦い」において勝家軍は羽柴秀吉に敗れてしまう。</p>

<p>勝家は討死にを覚悟したが、このときも勝照は死に急ぐ勝家を押し留め、主君の具足を借りて身につけると、勝家の馬印を掲げ、「我は柴田勝家なり」と言い放ちながら包囲する秀吉の大軍に突撃。主君の身代わりとなって敵を引きつけて果敢に奮戦した末、討死にした。</p>

<p>こうして勝照が時間を稼いでくれたおかげで、勝家は本拠の北ノ庄城にまで逃げ延びることができたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「あとしばらくの辛抱です」死を覚悟して叫んだ鳥居強右衛門（とりいすねえもん）</h2>

<p>また別の、戦場での命懸けの忠節の逸話を紹介する。鳥居強右衛門は、出自も前半生もはっきりしていない、ほぼ無名の武将だ。しかし、天正3年（1575）の「長篠の戦い」における決死の行動ただひとつによって、歴史に名前を残した。</p>

<p>強右衛門は、三河国の国衆であった奥平氏に仕えていた。奥平氏は元々、武田氏に従属していたが、武田信玄が亡くなると、徳川家康に寝返る。これに怒った信玄の後継者である武田勝頼は、15,000の大軍で奥平信昌の長篠城を包囲。対する長篠城の守備兵は500人足らずであった。</p>

<p>それでも長篠城はなんとか数日持ちこたえたが、兵糧庫を焼失したこともあり、やがて落城寸前となってしまう。</p>

<p>絶体絶命のなか、唯一の救いの道は家康のいる岡崎城へ援軍要請の使者を出すことだけだった。だが、武田の大軍に包囲されている状況下、城を抜け出して岡崎城まで無事辿り着くのは不可能に近いと思われた。</p>

<p>ここで、その困難な使命に名乗りを上げたのが強右衛門である。強右衛門は夜陰に紛れて長篠城を抜け出すと、武田軍の包囲網を突破して、翌日の昼過ぎには岡崎城に辿り着くことに成功する。このときすでに、岡崎城では長篠城救援のため、織田・徳川連合軍38,000が出発の準備を整えていた。</p>

<p>しかし、救援が来ると知っていれば持ちこたえられるかもしれないが、知らなければ絶望のあまり、いつ降伏してもおかしくない。そこで強右衛門は援軍の報せを一刻も早く味方に伝えるため、周囲が危険だと止めるのを振り切り、単身、着いた足ですぐに長篠城へと引き返した。</p>

<p>ほとんど休みなく走り続けた強右衛門は、翌朝、長篠城の近くまで戻ってくる。当時の長篠城から岡崎城までの距離は片道約65キロメートル、往復にすれば約130キロメートルだ。これを、強右衛門は一日強で走り切ったのである。</p>

<p>太宰治の小説『走れメロス』のなかに、「私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ」という一文があるが、強右衛門の気持ちもまさにそのようなものだっただろう。</p>

<p>だが、長篠城を目前にして強右衛門は武田軍に見つかり、捕まってしまう。取り調べで、織田・徳川連合軍が長篠城の救援に向かっていることを知った勝頼は、敵の援軍が到着する前に城を落とす必要に迫られた。</p>

<p>勝頼は強右衛門に対して、助命と厚遇を餌に、援軍は来ないと噓の報せを長篠城に伝えるよう強要。強右衛門は表向きではそれを承諾して城の前まで引き立てられるが、死を覚悟していた彼は、そこで城に向かって「一両日で援軍が来るから、あとしばらくの辛抱です」と叫んだ。</p>

<p>勝頼は怒り、強右衛門を殺したが後の祭り。強右衛門が捕まる直前に上げた狼煙によって救援到来の情報は長篠城に曖昧ながら伝わっていたが、強右衛門の死を賭した叫びでその確証を得た城主・奥平信昌と守備兵たちの士気は上がり、以後、彼らは2日間城を守り抜いた。</p>

<p>そして、織田・徳川連合軍の到着により、武田軍は敗北を喫したのである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/takedakatsuyori.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 05 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>Ｂ-29への体当たり攻撃　震天制空隊の真実  松田十刻（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12117</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012117</guid>
			<description><![CDATA[太平洋戦争末期、日本本土を襲った大型戦略爆撃機B-29。敢然と立ち向かう日本軍の姿を松田十刻氏が解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sea.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中、日本の本土防空戦における最大の脅威は、アメリカ陸軍の大型戦略爆撃機Ｂ-29「スーパーフォートレス」（超空の要塞）であった。日本軍は、陸海軍ともに特性のある局地戦闘機を繰りだし、壮絶な戦いをくりひろげた。ここでは、Ｂ-29迎撃戦で撃墜王と称される小林照彦（てるひこ）の戦いぶりを通して、本土防空戦の一端を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>生還へ、一縷の望みを託した落下傘</h2>

<p>昭和19年（1944）11月、高松の林飛行場で教官をしていた小林照彦大尉は、帝都防衛を担う第一〇飛行師団麾下の飛行第二四四戦隊長に抜擢され、東京・調布飛行場に着任した。このとき24歳。陸軍の飛行戦隊長としては最年少である。　</p>

<p>小林は昭和15年（1940）、陸軍士官学校を卒業。太平洋戦争緒戦の香港作戦に軽爆撃機で参加。その後、茨城県鉾田の飛行学校で襲撃機（対地攻撃機）を習得。三重県の明野陸軍飛行学校で戦闘機教育を受けた。</p>

<p>着任した二四四戦隊には、日本軍では唯一の液冷エンジンを備えた流線形の戦闘機「飛燕」が配備されている。</p>

<p>小林が着任する直前、同師団の各戦隊4機ずつでＢ-29への体当たり攻撃をする特別攻撃隊が編制されていた。爆弾を抱えての敵艦への特攻と異なり、隊員は一縷の望みを託して落下傘を装着する。</p>

<p>12月3日午後、小林は東京上空において、初めてＢ-29を迎撃した。</p>

<p>飛燕の上昇限度は高度11000メートル。実際には8000メートルで機動力が著しく落ちるため防弾鋼板を外し、機関砲1門につき300発の弾丸を50発に減らしている。防寒のために着用する電熱被服を使うと電圧が下がって射撃できず、無線電話も不具合を起こすため、電熱なしである。蓄電池は重いため積んでいない。身体は凍え、酸素マスクをしていても頭が朦朧となりかける（のちに酸素発生剤を使用）。</p>

<p>それでも、率先空中指揮を信条とする小林は気力を振り絞り、敵編隊の一番機へ突進した。とたんに正面だけでなく、左右後方のＢ-29が機銃弾を浴びせてくる。エンジンに被弾し、飛燕は制御不能となる。前部が火炎に包まれ、機体はみるみる降下。小林は風防をスライドして開けると、主翼右側から宙に飛んだ。開傘索を引くと、傘が勢いよく開く...。</p>

<p>基地にもどると、特別攻撃隊の四宮徹中尉、中野松美伍長、板垣政雄伍長がＢ-29に体当たりしたうえ、生還を果たしていた。</p>

<p>このうち四宮は、爆弾投下中の編隊に突進。右主翼に被弾したが、最後尾機を狙って突っ込み、右主翼外側のエンジンに激突した。搭乗機の左主翼が飛び散り、錐揉み状態で落下したが、幸い途中で機体が安定したことから、片翼飛行で着陸を果たした。</p>

<p>ラジオや新聞各紙は、片翼飛行の四宮中尉を中心に「奇跡の生還」と大々的に報じ、国威発揚につなげた。防衛総司令部総司令官の東久邇稔彦大将により、特別攻撃隊は「震天制空隊（震天隊）」と命名される。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>生還、そしてまた迎撃戦へ</h2>

<p>昭和20年1月27日、小林は甲府上空でＢ-29 14機の編隊を迎撃し、二番機に体当たりした。愛機は大破し、落下するが、小林は必死に操縦席から脱出し、かろうじて落下傘降下して生還した。</p>

<p>2月に入ると、F6FやF4Uなど敵機動部隊の艦上戦闘機が、東京など大都市に大挙来襲してきた。過酷な空中戦の連続で、陸海軍搭乗員の戦死が相次ぐ。</p>

<p>4月に入ると、マリアナ諸島からのＢ-29の大編隊に、硫黄島 （3月下旬陥落）から発進した最新鋭の陸軍戦闘機Ｐ-51ムスタングが随伴するようになった。Ｐ-51は手ごわく、Ｂ-29への接近さえ至難の業となる。</p>

<p>4月12日、小林は戦爆連合で来襲した敵機の迎撃に単機で立ち向かった。東京北方でＢ-29の編隊を捕捉。山梨県の大月付近まで追撃し、1機を撃破する。次の瞬間、護衛のＦ６Ｆの猛射を浴び、機体は火だるまになった。</p>

<p>小林は死に物狂いで機外に飛び出し、落下傘降下。落下傘は松の木にひっかかり、身体は灌木に投げ出された。小林は右足に銃創を負って陸軍病院に入院する。が、数日後には帰隊し、迎撃戦に再び加わった。</p>

<p>5月15日、二四四戦隊に第一総軍司令官・杉山元元帥より感状が授与された。個人感状ではなく部隊感状にしてほしいとの小林の希望による。小林は少佐に進級した。</p>

<p>4月下旬、二四四戦隊に、飛燕のエンジンを液冷から空冷に換装した五式戦闘機が配備されるようになった。</p>

<p>小林にとって辛かったのは、5月から鹿児島県の知覧基地で、沖縄への特攻機の護衛を命じられたことである（海軍の特攻基地は鹿屋、串良など）。この間、4月29日には、片翼生還で勇名を馳せた四宮中尉が第一九振武隊特攻隊員として出撃、戦死している。</p>

<p>小林は、滋賀県の八日市で終戦を迎えた。</p>

<p>震天隊によるＢ-29の撃墜数は73機、撃破数92機（高木晃治、ヘンリー・サカイダ著『Ｂ-29対日本陸軍戦闘機』）。小林の敵機撃墜数は12機といわれる。</p>

<p>戦後、小林は民間会社を経て、航空自衛隊に入隊。第一飛行団第一飛行隊長として教官をしていた昭和32年（1957）6月4日、練習機の墜落事故で殉職した。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sea.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 04 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[松田十刻（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>たとえ貧しくても、弱くても、家臣から愛された武将　蒲生氏郷と小田氏治  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12108</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012108</guid>
			<description><![CDATA[十分な恩賞が出せない、大事な合戦にことごとく敗れる、そんな武将がなぜ家臣から愛され続けたのか？奈落一騎さんが解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="戦国武将" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/kamakurabushi.jpg" width="1200" /></p>

<p>戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。<br />
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。<br />
今回は、蒲生氏郷と小田氏治の逸話をご紹介しましょう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>&ldquo;お風呂&rdquo;で家臣の心を鷲づかみした蒲生氏郷</h2>

<p>蒲生氏郷は、はじめ織田信長の家臣であり、その才を見込まれて信長の次女を娶って、数々の合戦で武功を挙げた武将だ。信長の死後は羽柴秀吉に属し、天正12年（1584）の「小牧・長久手の戦い」の功により、伊勢国松ケ島城城主となった。</p>

<p>しかし、そのころの氏郷は金銭面で非常に苦労しており、手柄を立てた家臣に対しても十分な恩賞が出せないほどだった。そこで氏郷は、あるとき功のあった家臣たちを屋敷に招き、酒や料理でもてなしたあと、風呂に入るよう勧めた。</p>

<p>家臣たちが湯船に浸かっていると、外から湯加減を聞く声がする。声に聞き覚えがあったため、家臣たちが湯殿の外を覗いてみると、なんと氏郷が煤で顔を黒く汚しながら薪をくべて風呂を焚いていた。</p>

<p>当時、風呂を焚くなどというのは下男の仕事だったが、恩賞を与えられない代わりに、せめてもの心尽くしとして氏郷は自らの手で風呂を焚き、家臣たちをもてなしたのだ。その主君の姿に、家臣たちは心打たれ、涙したという。</p>

<p>その後、手厚いもてなしに感激した家臣たちによって、この話は「蒲生風呂」として家中に広まった。そして、そのとき屋敷に招かれなかった家臣たちは、自分たちもいつかは「蒲生風呂」に入りたいと懸命に奉公に励むようになったと伝えられている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>８回居城を奪われた「戦国時代最弱の大名」小田氏治</h2>

<p>弱小ということでいえば、「戦国時代最弱の大名」と評されているのが、常陸国の大名だった小田氏治である。</p>

<p>なにしろ、氏治は大事な合戦でことごとく敗れ、居城であった小田城を8回（9回とも）も敵に奪われているのだ。その弱さから後世、織田信長との対比で「弱いほうのおだ」とも呼ばれている。</p>

<p>だが、8回居城を奪われたということは、7回取り戻したということでもある。そして、それを支えたのが、父の代から小田氏の重臣を務めていた菅谷政貞を筆頭とする家臣団だった。</p>

<p>氏治が最初に小田城を奪われたのは、弘治2年（1556）に結城政勝と北条氏康の連合軍に敗れたときのことだ。このとき氏治は家臣の政貞が城主を務める土浦城に命からがら逃れたが、北条方と和睦することで政勝を撃ち破り、その年のうちに小田城を奪回した。</p>

<p>しかし、翌弘治3年（1557）に今度は佐竹義昭に敗れ、またしても小田城を失ってしまう。だがこのときも、政貞の活躍によって2年後に小田城を取り戻している。</p>

<p>このように何度も復活を遂げた氏治だが、なかでも凄かったのは、永禄7年（1564）に上杉謙信と戦ったときのことだ。「山王堂の戦い」で壊滅的な敗北を喫し、多くの将兵を失って小田城も奪われた氏治だったが、政貞をはじめ残った家臣団たちが一致団結し、わずか1年後に「戦国最強」とも謳われた謙信から居城を取り戻しているのである。</p>

<p>戦国時代、主君に先がないと判断すれば、家臣が見限って別の主君に仕えようとするのは普通のことであった。</p>

<p>それにもかかわらず、何度敗れても氏治の家臣たちが主君を捨てずに支え続けたのは、よほど人望があったためだろう。また、領民たちにも慕われており、氏治が小田城を奪われても新しい領主には年貢を納めず、氏治が戻って来るのを、そのつど待ったともいう。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/kamakurabushi.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 01 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>水増しされた撃墜王・遠藤幸男の戦果「これでは、海軍の面子が立たない」  松田十刻（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12115</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012115</guid>
			<description><![CDATA[太平洋戦争末期、日本本土を襲った大型戦略爆撃機B-29。敢然と立ち向かう日本軍の姿を松田十刻氏が解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_moon.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中、日本の本土防空戦における最大の脅威は、アメリカ陸軍の大型戦略爆撃機Ｂ-29「スーパーフォートレス」（超空の要塞）であった。日本軍は、陸海軍ともに特性のある局地戦闘機を繰りだし、壮絶な戦いをくりひろげた。ここでは、Ｂ-29迎撃戦で撃墜王と称される遠藤幸夫（さちお）の戦いぶりを通して、本土防空戦の一端を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>遠藤幸男　大村基地に降り立つ</h2>

<p>遠藤幸男が、撃墜王と称されるきっかけとなったのは、昭和19年（1944）6月16日未明、Ｂ-29による八幡空襲である。</p>

<p>八幡空襲では、陸軍四戦隊の活躍ぶりが報じられたが、海軍としても有効な手立てを打つ必要に迫られた。四戦隊が擁する二式戦（屠龍）は、海軍の「月光」と同じ双発戦闘機である。</p>

<p>折しも長崎県・大村基地では、佐世保海軍航空隊大村分遣隊が改編され、第三五二海軍航空隊として開隊する手筈が整っている。ところが、肝心の夜間戦闘機の熟練者がいない。佐世保鎮守府は、横須賀鎮守府に月光の訓練を担う分隊長の派遣を要請した。</p>

<p>これを受けた厚木航空隊司令の小園安名中佐は、最も信頼する遠藤中尉を分隊長とする派遣隊を、大村基地へ遣わした。遠藤はペアを組む偵察員の尾崎一男（一飛曹）と愛機に乗り、7月10日ごろ、大村基地に降り立った。ほかに2機の列機も無事に着陸した（整備員は汽車で移動）。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>教官から第一線の分隊長へ</h2>

<p>遠藤は、海軍飛行予科練習生（予科練）第1期生である。艦上攻撃機の操縦士として日中戦争に従軍。日米開戦後は教官を務め、昭和18年（1943）1月、第二五一海軍航空隊（以下、二五一空）に異動になり、二式陸上偵察機の操縦士になった。</p>

<p>5月、二五一空はラバウルに進出するが、遠藤は搭乗機のエンジン故障で不時着した際に脚を負傷し、入院生活を送る。二五一空には、二式陸偵の前身である十三試双発陸戦に斜銃（2連装20ミリ機銃）を装備した改造型2機が加えられた。</p>

<p>斜銃は、ラバウルの台南航空隊（二五一空の前身）で副長兼飛行長を務めていた小園が、敵の大型爆撃機に手を焼き、内地に戻った際に上層部にかけあって承認させたものである。半信半疑の上官を説得するため、零戦との模擬空中戦を演じ、斜銃の威力を証明してみせた操縦士が、ほかならぬ遠藤である。</p>

<p>改造型がＢ-17を撃墜する戦果をあげたことから、二式陸偵に斜銃を装備した「月光」が、夜間戦闘機として制式採用された。</p>

<p>退院後、遠藤は「月光」で奮戦する。9月2日、遠藤がソロモン諸島の前進基地バラレ島の指揮所にいたとき、来襲したアメリカの戦闘機Ｆ４Ｕコルセアが見張り台に接触して墜落、大破した。遠藤は破片を浴び、重傷を負う。</p>

<p>帰国すると、厚木航空隊木更津派遣隊（夜戦隊）に配属され、隊員を鍛錬した。昭和19年3月1日、帝都防空を担う三〇二空が木更津飛行場で開隊。木更津派遣隊は同空に編入され、遠藤は分隊長となった。</p>

<p>3月末、三〇二空は厚木基地に進出。月光のほか、零戦に斜銃を装備した零夜戦、雷電、彗星、銀河の戦隊が加わり、局地戦闘機航空隊（通称・厚木航空隊）の陣容が整う。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>海軍で初めてB-29を撃墜した男　誇張された戦果</h2>

<p>大村基地に派遣された遠藤は、三五二空（通称・草薙部隊）の訓練に励んだ。</p>

<p>8月10日夜、Ｂ-29 29機（24機とも）が長崎に襲来。遠藤は僚機を率いて迎撃に向かったが、会敵できなかった。</p>

<p>20日午後4時半、空襲警報の発令後、Ｂ-29 67機が九州上空に達し、そのうち6機が長崎上空へ向かった。</p>

<p>三五二空では、零戦（延べ33機）と月光4機を発進させた。海軍にとって初のＢ-29迎撃戦になる。 一方、陸軍は第一二飛行師団の屠龍、飛燕、四式戦「疾風」80数機が出撃した。</p>

<p>列機が被弾や故障で離脱するなか、遠藤はラバウルでＢ-17と交戦したときの戦訓を生かし、臨機応変に月光特有の上方銃と下方銃を使い分けた（後発型は上方銃のみ）。</p>

<p>反航戦とあって一撃離脱の攻撃法をとり、5機以上に20ミリ弾を放ち、遠藤はある程度の手ごたえを感じた。だが、敵編隊の機銃弾による火網は凄まじく、エンジンに被弾。遠藤機は洋上を飛行し、済州島に不時着した。</p>

<p>遠藤は駐屯する陸軍部隊を通じ、三五二空司令部に「敵大型機、中破3機、小破2機」と打電。ところが、当日の戦闘概報で「撃墜確実2、概ね確実1、小破2」と変更され、翌月の戦時日誌では「撃墜2機、不確実1機、中破2機」と戦果が過大になっていた。</p>

<p>背景には、第一二飛行師団が「撃墜23機（不確実11機）、撃破25機」の大戦果をあげたのに対し、三五二空は出撃した機数が少ないとはいえ、戦果に差がありすぎたことにある。</p>

<p>「これでは、海軍の面子が立たない」と考えた佐世保鎮守府など上層部が、意図的に水増ししたとみられる（渡辺洋二著『夜間戦闘機「月光」』）。</p>

<p>遠藤は本人の意思とは関係なく、海軍で初めてＢ-29を撃墜した殊勲者として一目置かれることになった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>マリアナ諸島陥落　B-29から東京を守る</h2>

<p>9月中旬、遠藤と尾崎のペアは大村基地を去り、厚木基地へ復帰した。ほかの派遣隊員は大村に留まり、北九州で戦い続ける。</p>

<p>この間、日本が絶対国防圏と定めていたマリアナ諸島が、米軍（連合軍）の猛攻により陥落。Ｂ-29の発進基地が急造され、日本本土への空襲が時間の問題となった。</p>

<p>そしてついに、11月1日午後1時半ごろ、サイパン島から飛来したＢ-29の改造偵察機が東京上空に現われた。</p>

<p>主力部隊の雷電隊、零戦隊、遠藤率いる月光隊が緊急発進したが、上昇に時間がかかって追いつけず、10000メートル上空を悠々と飛行するＢ-29を歯嚙みしながら見送るだけだった（この日、遠藤は大尉に進級）。</p>

<p>24日朝、サイパン島を発進した111機のＢ-29のうち、故障機を除く94機による初の東京空襲が行なわれた。ただし、目標の中島飛行機武蔵製作所に達したのは24機で、被害は軽微にとどまる。</p>

<p>このとき、三〇二空の可動機すべてが出撃したが、白昼、高高度での戦闘は想像以上に過酷であり、まともに戦えなかった。米軍側の記録では、Ｂ-29の損失は2機。うち1機は二式戦（鍾馗）の体当たりで墜落したものである（もう1機は不時着水）。</p>

<p>これよりさかのぼる11月3日、遠藤は、東京の手前でＢ-29を撃墜する任務を帯び、八丈島に派遣隊隊長として進出。偵察員は西尾治（上飛曹）に替わった。派遣隊はわずか月光3機の戦力だったが、12月18日には、「1機撃墜、2機撃破」を三〇二空司令部に報告している。</p>

<p>27日、熱海上空で警戒中の遠藤機は、単機来襲したＢ-29に襲いかかり、伊豆半島伊東沖で撃墜した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「敵11機発見、ワレコレニ突撃ス」</h2>

<p>昭和20年（1945）1月10日、遠藤と西尾のペアは厚木基地に復帰した。</p>

<p>その前日、遠藤機は静岡県南方で中島飛行機武蔵製作所に向かうＢ-29 70機ほどの編隊を捕捉。うち1機を撃墜した。</p>

<p>遠藤の活躍ぶりは華々しく喧伝されたが、本人は誇張される記事に複雑な心境だったらしく、予科練時代の恩師に送った手紙に「戦果をおおげさに報ずる点、まったく迷惑いたしております」と本音をもらしている。</p>

<p>1月14日、Ｂ-29 73機が三菱・名古屋航空機製作所を目標に襲来。これを二一〇空と三〇二空が協同で迎撃した。</p>

<p>遠藤は午後2時52分、Ｂ-29を豊橋上空で捕捉。西尾に「敵11機発見、ワレコレニ突撃ス」と打電させた。6分後、「1機撃墜、大破&hellip;&hellip;」が厚木基地の無線機に入ったが、それっきり連絡はなかった。</p>

<p>このとき、遠藤は被弾した愛機を渥美半島上空まで飛行させたうえ、先に西尾を脱出させ、続いて自分も機外へ飛び出た。ところが西尾は落下傘の紐が尾翼に切られ、墜死。遠藤は高度不足のため、落下傘が開き切る前に地上に叩きつけられた。</p>

<p>遠藤機の墜落は、陸軍の防空監視哨が視認していた。哨員らが墜落現場に駆けつけたときには、2人とも絶命していたという（発見場所は、現在の愛知県田原市神戸町）。</p>

<p>国民的英雄となっていた遠藤の戦死が、海軍省から発表されたのは3月16日。全軍布告のうえ、遠藤は中佐、西尾は少尉にそれぞれ2階級特進した。</p>

<p>遠藤機によるＢ-29の撃破数は16機（うち撃墜は6機ないしは8機）とされる。</p>

<p>海軍上層部の思惑から思いがけなく勇名を馳せた遠藤だが、その後は国民の期待を一身に背負い、撃墜王の名に恥じぬよう全身全霊でＢ-29に戦いを挑み、その末に果てた。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 30 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[松田十刻（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>戦国武将　色恋にまつわる「ちょっといい話」織田信長と武田信玄編  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12106</link>
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			<description><![CDATA[あの武将にこんな一面が…。戦国時代の主君と家臣の「ちょっといい話」を奈落一騎さんが解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="長久手の戦い" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityLI/kibagundan_pixtaLI(1).jpg" width="1200" /></p>

<p>戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。<br />
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。<br />
そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。<br />
今回は、織田信長と武田信玄の意外な一面をご紹介しましょう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ねねの悋気をそっと窘めた織田信長</h2>

<p>家臣に厳しい主君としては、やはり織田信長を思い浮かべる人が多いだろう。完全能力主義で成果主義、かつ気の短い信長は、功績のある家臣に対しても、気に入らないことがあれば躊躇なく過酷な仕打ちをした。</p>

<p>例えば、30年以上にわたって信長の重臣を務めてきた佐久間信盛は、天正8年（1580）に信長から突如、19カ条の折檻状を突きつけられて家禄を没収された上、追放されてしまった。その理由は、「石山本願寺との戦いで積極性が見られない」というだけのものだ。</p>

<p>あるいは、その19カ条の折檻状のなかで、信盛と比較されて褒められている明智光秀も、戦国時代に来日した宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によれば、信長の怒りを買って足蹴にされたことがあったという。</p>

<p>光秀が「本能寺の変」を起こした動機については諸説あるが、そのひとつとして信長の心ない仕打ちへの恨みが原因という怨恨説も根強い。</p>

<p>このように家臣に対して極めて厳しかった信長だが、一方で、羽柴（豊臣）秀吉の妻ねね（おね）に送った直筆の手紙を見ると、家臣の夫婦仲まで気遣う細やかさもあった。</p>

<p>天正9年（1581）ごろ（天正4年〈1576〉説もあり）、ねねは安土城を訪れ、夫である秀吉の浮気癖について信長に不満をこぼしたらしい。</p>

<p>この手紙はそのことについての返信で、信長はまずねねに対して「以前会った時より、あなたはずっと美しくなっていました」と褒めながら、「どこを訪ねても、あの禿ネズミに、あなた以上の女性は見つからない」とねねを持ち上げ、秀吉をこき下ろすことで、彼女の気持ちをなだめている。</p>

<p>ここだけ見ると、信長はたんにねねの味方をしているだけのように思えるかもしれない。だが、手紙の後半で信長は「正室なのだから堂々としていればいいんですよ」と、ねねの悋気をそっと窘めることで、間接的に女房の嫉妬から秀吉を守ってもいるのだ。</p>

<p>部下の妻の愚痴にここまで丁寧に対応する上司など、現代にもいないだろう。</p>

<p>それにしても見事なのが、信長の人間心理への理解の深さである。最初に十分ねねの感情に寄り添う姿勢を見せたあと、最後にさりげなく諭す。</p>

<p>もしこの順序が逆だったら、彼女の怒りは増すだけで、余計、秀吉は窮地に陥ったに違いない。信長の手紙がどこまで功を奏したかはわからないが、結果として夫婦仲は壊れることなく、ねねの内助の功もあって秀吉は天下人にまで登り詰めた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>自らの浮気を必死に弁明した武田信玄</h2>

<p>手紙といえば、甲斐の大名・武田信玄が家臣に宛てた手紙も微笑ましい。その手紙は天文15年（1546）ごろに書かれたと思われるもので、当時、信玄の同性愛（衆道）の相手だった春日源助に、自分が浮気をしていないと言い訳をするという内容である。</p>

<p>具体的には、「確かに弥七郎に言い寄ったことはあるが、お腹が痛いと断られたので、寝てはいない。私はあなたと仲良くしたいと思って頑張っているが、疑われるばかりで困っている。もし私の言っていることが噓だったら、我が国の1、2、3の大明神、富士山、白山、八幡大菩薩、諏訪上下大明神からの神罰を受ける覚悟がある」というもので、まさに必死の弁明だ。</p>

<p>この手紙が書かれたのが天文15年ごろだとすれば、信玄が父・信虎を追放して5年後、家中を掌握し、諏訪を手中に収めて信濃国の切り取りへ野心を燃やしていた時期である。</p>

<p>そんな破竹の勢いの「甲斐の虎」こと信玄が、なんとか恋人の怒りを解こうとしている姿は、本当に人間臭い。恋仲になってしまえば主君も家臣も関係なく対等、いや惚れた弱みで主君が家臣のご機嫌を伺う場合もあるということだ。</p>

<p>ところで、信玄の送った手紙の相手である春日源助は、のちに武田24将の1人に数えられることになる高坂昌信だとも言われている。昌信の元々の名前は春日虎綱であり、さらに通称として春日源五郎とも名乗っていた。それゆえ、春日源助が高坂昌信のことだと考えられているのだ。</p>

<p>ただ、昌信が源助と名乗っていたこともあるという事実は、文書などにはいっさい残されていない。そのため、春日源助と春日源五郎は別人という説もある。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 29 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>Ｂ-29“超空の要塞”を26機撃墜した男　樫出勇  松田十刻（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12113</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012113</guid>
			<description><![CDATA[太平洋戦争末期、日本本土を襲った大型戦略爆撃機B-29。敢然と立ち向かう日本軍の姿を松田十刻氏が解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/sunset20151201.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中、日本の本土防空戦における最大の脅威は、アメリカ陸軍の大型戦略爆撃機Ｂ-29「スーパーフォートレス」（超空の要塞）であった。日本軍は、陸海軍ともに特性のある局地戦闘機を繰りだし、壮絶な戦いをくりひろげた。ここでは、Ｂ-29迎撃戦で撃墜王と称される樫出勇（かしいで・いさむ）の戦いぶりを通して、本土防空戦の一端を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Ｂ-29来襲　日本陸軍がとった迎撃準備</h2>

<p>日本本土に来襲するＢ-29を初めて撃墜したのは、山口県・小月基地を拠点にしていた陸軍航空隊飛行第四戦隊（以下、四戦隊）の樫出勇中尉である。</p>

<p>昭和19年（1944）3月以降、実戦配備が可能になったＢ-29は、中国の前進基地から日本本土を空襲する「マッターホルン作戦」に基づき、次々とアメリカ本土を発進。大西洋を横断し、北アフリカなどを経て、インド・カルカッタ基地に集結した。</p>

<p>4月26日、単独飛行中のＢ-29と陸軍一式戦闘機「隼」2機が、ビルマ戦線の中印国境で交戦。双方とも墜落しなかったが、これが日本軍機とＢ-29との初対戦となった。</p>

<p>6月15日夕刻、中国の成都基地に進出していた第二〇爆撃兵団のＢ-29 75機が出撃した。ただし、故障などで脱落した機体があり、実際に飛行を継続できたのは63機（機数は文献により異なる。以下同じ）。</p>

<p>これより前、大本営陸軍部はＢ-29の成都進出を確認すると、その航続距離を推定したうえ、福岡県・八幡製鉄所に代表される北九州の工業地帯に来襲すると予測。四戦隊と飛行第五九戦隊から成る第一九飛行団を編制し、夜間爆撃、昼間の高高度爆撃を想定した迎撃訓練に当たらせていた。</p>

<p>四戦隊には、二式複座戦闘機「屠龍」35機が配備された（実際に「屠龍」と呼称されるのは11月以降）。</p>

<p>屠龍は海軍の「月光」と同じく、エンジンを2基搭載した双発戦闘機である。前席に操縦士、後席に偵察員（航法や通信も担当）が乗り込む。</p>

<p>樫出は、陸軍少年飛行兵第1期生である。若くしてノモンハン航空戦に参戦し、ソ連機5機以上を撃墜している。昭和16年（1941）7月、陸軍航空士官学校を卒業し、原隊の四戦隊に復帰した。</p>

<p>屠龍の装備は型により異なるが、樫出の愛機には機首前方に37ミリ対戦車砲、胴体上部（背部）に20ミリ機関砲が装備されている。機関砲は、月光の斜銃に倣ったもので、陸軍では「上向き銃」と呼んだ。</p>

<p>ちなみに、海軍は20ミリ以上でも機銃と称する。エンジン出力を左手で制御する絞り弁を、海軍はスロットルレバーと呼ぶのに対し、陸軍はガスレバーと呼ぶ。</p>

<p>陸軍戦闘機の発射装置は、一式戦（隼）、二式単座戦闘機（鍾馗）までは海軍と同じくスロットルレバーについているが、屠龍、三式戦（飛燕）など後発の戦闘機は操縦桿に発射装置がある。海軍の制式戦闘機で操縦桿に発射装置があるのは、月光だけである。</p>

<p>エンジンを始動させるには、海軍ではエナーシャ（手動慣性始動装置）を使うのに対し、陸軍機ではトラック型の専用始動車がプロペラハブ（中心軸）を回して始動する。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>遂にB-29来襲、「屠龍」出撃</h2>

<p>6月15日午後10時40分、飛行師団と西部軍司令部から警戒警報が発令され、第三攻撃隊の樫出は戦闘配置についた。各機は始動車による始動でエンジンを唸らせている。</p>

<p>「戦隊は全機出動、要地上空3000、朝鮮方面より侵入する敵機を邀撃すべし」</p>

<p>16日午前0時過ぎ、可動機24機（8機とも）が次々に離陸し、上空で編隊を組みながら、要地である八幡、小倉付近の北九州工業地帯へ向かった（五九戦隊は飛燕の練度が不十分で、出撃を見送った）。</p>

<p>四戦隊は全機に高性能の無線電話（以下、無線）が装備され、地上の戦闘指揮所だけでなく、機上の隊員どうしでも高感度の通話ができる。高度3000メートルで、戦闘指揮所からの無線により「敵機は要地上空に侵入、各隊攻撃すべし」との戦隊長命令が下された。</p>

<p>ほとんど同時に、地上の照空灯（探照灯）が一斉に上空に照射され、高射砲が火を噴く。四戦隊は地上部隊の照空灯隊、高射砲隊との協同訓練もしている。</p>

<p>闇夜に、四発大型爆撃機の機影が浮かびあがる。なかにはＢ-24と誤認する隊員もいたが、樫出はＢ-29と直感した。</p>

<p>照空灯隊は、単縦陣で侵入してきた敵機を捕捉すると、3本の光芒で追跡する。敵機は逆に照明弾を投下。灯火管制を敷いて真っ暗だった八幡の市街地が照らされる。</p>

<p>「ただいまより攻撃」</p>

<p>第一攻撃隊長・小林公二大尉の声を皮切りに、各隊の第一撃を告げる声が無線に入る。樫出は高度4200メートルまで上昇すると、友軍機であることを示す標識灯を点滅させ、反航する敵機に突進した。</p>

<p>みるみる巨大な機体が眼前に迫る。距離80メートル。激突寸前で37ミリ対戦車砲の引金を引く。砲口から発射された砲弾は、敵機の左翼取り付け部に命中。とっさに操縦桿を操作し、敵機の脇をすり抜けて離脱する。振り返ると、Ｂ-29は火炎に包まれ、落下していった...。</p>

<p>この日、Ｂ-29の日本本土初爆撃となった八幡空襲で、四戦隊は樫出の戦果を含む7機を撃墜した（確実4機、不確実3機。米軍側の記録とは異なる。以下同じ）。 日本軍は墜落したＢ-29二機を回収し、機体の性能などを徹底的に分析する。</p>

<p>樫出はこれ以降も、北九州に来襲するＢ-29の迎撃戦で、37ミリ対戦車砲や上向き銃を駆使し、獅子奮迅の活躍をする。</p>

<p>終戦までに、Ｂ-29だけで最多記録となる26機を撃墜。陸軍航空隊の撃墜王として名を馳せた（最終階級は大尉）。 戦後、『Ｂ29撃墜記』を著している。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 28 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[松田十刻（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>大河ドラマ「豊臣兄弟！」前田利家役・大東駿介が福井へ　秀吉・勝家との絆と“義の男”の足跡  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14176</link>
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			<description><![CDATA[大河ドラマ「豊臣兄弟！」で前田利家を演じる大東駿介さんが、利家ゆかりの地・福井へ 。秀吉との絆や勝家への恩義、統治への目覚めなど、激動の「越前時代」を辿り、“義の男”利家の矜持に迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「豊臣兄弟！」で前田利家を演じる大東駿介さんが越前を訪問" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi10.jpg" width="1200" /></p>

<p>前田利家という武将を語る際、「加賀百万石」という華やかなイメージや、織田信長に仕えた「槍の又左」としての勇猛さに目を奪われがちです。しかしその「義」の精神が最も熱く、そして高潔に鍛え上げられたのは、前田家の家督を相続して、信長軍の最前線に立った「越前時代」ではなかったでしょうか。</p>

<p>主君・信長への忠誠、秀吉との友情、そして上司・柴田勝家への恩義。これらの板挟みのなかで、利家はいかにして「男の中の男」としての道を歩んだのでしょうか。大河ドラマ「豊臣兄弟！」で前田利家役を務める俳優・大東駿介さんが、敦賀市の金崎宮（かねがさきぐう）、南越前町の中村家住宅の黒印状、そして五大老の一人として青木重吉に宛てた連署状という三つのテーマをもとに、利家が越前で磨き上げた「義」の足跡をたどりました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>金ヶ崎の地獄で見せた近習の矜持</h2>

<p><img alt="金崎宮を参拝する大東さん。海抜86メートルの月見御殿からは雄大な敦賀湾を見下ろせる" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi03.jpg" width="1200" />金崎宮を参拝する大東さん。海抜86メートルの月見御殿からは雄大な敦賀湾を見下ろせる</p>

<p>最初に訪れたのは敦賀の小高い丘に鎮座する「金崎宮」。穏やかな敦賀湾を見下ろすこの場所は、元亀元年（1570）、織田信長が義弟・浅井長政の裏切りに遭い、天下布武の夢が潰えかけた「金ヶ崎の退き口」の舞台となった金ヶ崎城跡です。尾根続きには天筒山もあり、信長は先に標高が高い天筒山城を攻略して、翌日金ヶ崎城を陥落させました。</p>

<p>当時の利家は、前田家の家督を継いだばかりであり、この戦いに懸ける思いは人一倍、強かったはずです。かつて信長の寵臣を斬り、勘当の憂き目に遭った利家は、桶狭間の戦いや森部の戦いで武功を上げて再び信長に拾い上げてもらい、さらに兄がいるにもかかわらず、信長の後押しで家督を継ぐに至りました。利家の胸の中には、「信長様から受けた恩は死んでも返す」との思いがあったことでしょう。</p>

<p><img alt="金崎宮を参拝する大東さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi02.jpg" width="1200" /></p>

<p>ところが、金ヶ崎城を攻略したものの、浅井長政の謀反が発覚し、織田軍は一転して窮地に立たされることに。信長は撤退を決断し、木下藤吉郎秀吉（後の豊臣秀吉）らが殿（しんがり）を務め、利家は信長の傍にあったものと考えられます。役割は違えども、藤吉郎と利家はともに信長を守ろうとしたわけで、彼らの絆は深まったものと想像できます。</p>

<p>大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、殿を名乗り出た藤吉郎の助けになればと、利家が部下を残していく場面が描かれますが、利家という男の義理堅さを思うと、実際にそのようなことがあってもおかしくはないでしょう。</p>

<p><img alt="金崎宮を参拝する大東さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi01.jpg" width="1200" /></p>

<p>「ドラマでは金ヶ崎に残る決断をした藤吉郎に対して利家は赤母衣衆を託しました。信長に対して真摯に向き合っている藤吉郎に対してライバルといえども率先して手を貸した義の男・利家を私はとても気に入っています」（大東さん）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「中村家住宅」の黒印状――統治への目覚め</h2>

<p><img alt="中村家住宅に残る前田利家の黒印状をみせていただく大東駿介さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi05.jpg" width="1200" /></p>

<p>天正3年（1575）、越前一向一揆を平定した信長は、利家を「府中三人衆」の一人として越前府中に配しました。ここから利家は、一騎当千の強者から、民を治める領主へと脱皮していきます。</p>

<p>その統治の片鱗を今に伝えるのが、南越前町（旧河野村）に現存する前田利家の黒印状です。当時、この地は河野浦といって越前府中から最も近い要港で、書状はその河野浦の人々に宛てたものでした。のちにこの地は日本海物流を担う北前船で栄え、その栄華は同地の重要文化財「中村家住宅」からもうかがい知ることができます。</p>

<p><img alt="中村家住宅に残る前田利家の黒印状" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi06.jpg" width="1200" /></p>

<p>書状は天正10年（1582）3月、利家が越前府中から能登へ移封された後のものですが、なおも利家が越前の要港を押さえていたことがわかります。</p>

<p>朝倉氏が滅びた後の越前では一向一揆の嵐が吹き荒れ、利家も当初は領地経営に苦心したといいます。利家は算盤を得意とし、財政面にも明るかったとされますが、何とか越前を富ますことで、領民に安寧をもたらそうとしていたのではないでしょうか。</p>

<p>今回、中村家住宅で利家の黒印状をみせていただきましたが、中村家住宅の高い吹抜けの重厚な梁の下で黒印状を目にすると、利家が越前での苦闘を通じて、領主としての統治術を身につけていった姿が浮かび上がってくるようでした。</p>

<p><img alt="中村家住宅の高い吹抜け" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi04.jpg" width="800" /></p>

<p>中村家住宅に残る黒印状は天正10年3月、本能寺の変の３カ月前に書かれたものです。「利家は常に自分が背負っているものの重さを意識しながら、家臣も領民も最後まで裏切らなかった武将であるように思えますね」（大東さん）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>賤ヶ岳の決断と北庄城への想い</h2>

<p>利家が最も過酷な試練に晒されたのは、天正11年（1583）の賤ケ岳の戦いでした。 信長亡き後、覇権を争う羽柴秀吉と柴田勝家。利家にとって勝家は、越前府中時代に上司として仰ぎ、父のように慕った恩人でした。一方の秀吉は、若い頃から苦楽を共にした「竹馬の友」です。</p>

<p>利家は勝家軍の一員として布陣しながらも、一説には途中で戦線を離脱したとされます。それが事実ならば、武士としては末代までの恥とも取られかねない動きです。しかし、その決断こそが義の人・利家の真骨頂といえるものではないでしょうか。勝家に殉じて前田家を滅ぼすことは、家臣や家族への不義となります。かといって秀吉と共に勝家を討つことは、恩師への不義となるのです。</p>

<p>利家は、越前府中城に引きこもりますが、秀吉と勝家の調停を模索していたのではないでしょうか。結果として勝家は自害しますが、利家は北庄城（現在の福井市）へ向かう秀吉に、勝家の助命を請うために面会したとの逸話があります。こうした逸話が語り継がれるほど、この時、利家が見せた「どちらも裏切りたくない」という人間臭い葛藤こそが、のちに秀吉から全幅の信頼を勝ち取る要因となったのではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>五大老の連署状――託された「最後の義」</h2>

<p><img alt="「五大老連署状」を見る大東駿介さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi07.jpg" width="1200" /></p>

<p>今回の旅のラストを飾るのは、利家の死の直前、慶長4年（1598）に発せられた「五大老連署状」。なかでも注目すべきは、越前・北庄城主であった青木重吉に宛てられた北庄の領地宛行の連署状です（5月15日～7月7日迄　福井県立歴史博物館では「『秀吉と越前の武将たち』―新収蔵古文書を中心に」が開催中。連署状も見ることができる）。</p>

<p><img alt="五大老の連署状" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi08.jpg" width="1200" /><br />
利家を含む五大老が並んだ書状は珍しく貴重。秀長没後、秀吉が頼れるのは利家しかいなかった。連署状が書かれた2カ月後、利家は亡くなった</p>

<p>死の床にあった秀吉は、幼い秀頼の将来を案じ、利家を秀頼の傅役に指名しました。利家は家康の野心を抑え込む唯一の防波堤として、豊臣政権の重石となります。この連署状は、秀吉亡き後の新体制を整える意味でも重要な公文書でした。</p>

<p>北庄城はかつて利家が敬愛した柴田勝家の本拠であり、利家自身もかつて越前で過ごしたいわば第二の故郷。その地の安堵を約束する連署状であることから、病を押して署名した利家の心中には、並々ならぬ思いがあったはずです。</p>

<p>それは、豊臣政権を守るという「公の義」と、かつての恩師・勝家の地を守るという「私の情」が重なり合った、人生の総決算であったのではないでしょうか。</p>

<p>利家は連署状を発したわずか2カ月後、家康の動きを制しながら、激動の生涯を閉じます。その没後一年で「関ケ原の戦い」が起きたという事実は、利家一人の存在が、どれほど巨大な「重石」となって天下の均衡を保っていたかを逆説的に証明しているかのようです。</p>

<p>金ヶ崎の退き口で見せた「武士としての忠義」、中村家住宅の黒印状に見る「領主としての統治力」、そして青木重吉宛の連署状に込められた「五大老としての責任」。これら三つのキーワードを辿って見えてくるのは、乱世の荒波に翻弄されながらも、自らの心の軸を一度も曲げなかった一人の男の矜持なのではないでしょうか。</p>

<p><img alt="越前小丸城から出土した瓦であった（小丸城跡出土文字瓦〈複製〉、福井県立歴史博物館所蔵〈原資料：味真野史跡保存会所蔵〉）" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigashi9.jpg" width="849" /></p>

<p>今回、大東さんが何より驚いたのは、越前小丸城から出土した瓦（小丸城跡出土文字瓦〈複製〉、福井県立歴史博物館所蔵〈原資料：味真野史跡保存会所蔵〉）。瓦には、利家が一向一揆勢1,000人を磔にして釜茹でにした事実が刻まれている。つまり、利家への恨みがこめられたものともいえる。「戦国という世は、本当に我々が想像がつかないほど激しい時代であったのですね」（大東さん）</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi10.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 27 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉はなぜ「最強軍団」を作れたのか？ 竹中半兵衛・黒田官兵衛ら異才を束ねた組織術  柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14034</link>
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			<description><![CDATA[豊臣秀吉が最強家臣団を構築した背景を解説。竹中半兵衛、黒田官兵衛といった軍師の登用や、加藤清正ら子飼い武将の育成など、代々仕える家臣を持たないからこそ重視した実力主義の組織作りを紹介します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="竹中氏陣屋" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/pixta_takenakahanbe.jpg" width="1200" /><br />
竹中氏陣屋</p>

<p>一代で天下人に登りつめた豊臣秀吉。代々仕える家臣がいない「成り上がり」の彼が、なぜ竹中半兵衛や黒田官兵衛、加藤清正ら多才な家臣を束ね、最強の軍団を築くことができたのでしょうか。実力重視の登用、家族のような信頼関係を築いた「子飼い」の武将たち。秀吉流の人材マネジメントを『豊臣兄弟！』の時代考証を担当する柴裕之氏が紐解きます。</p>

<p>＊本稿は柴裕之監修『7つのキーワードでまるわかり　コミュ力お化け　豊臣秀吉』（主婦と生活社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>実力重視のスター軍団</h2>

<p>一代で天下人に登りつめた豊臣秀吉は、実力重視でゼロからスター家臣団をつくりあげた。<br />
その屋台骨は弟の秀長で、草創期は蜂須賀正勝や子飼い武将の加藤清正、福島正則など、尾張出身の面々が支えた。長浜時代には近江の石田三成や片桐且元など官僚肌の武将にも出会い、中国攻めで軍師となる黒田孝高(官兵衛)も加入。政権初期から千利休も内政を支えたが、晩年の武断派・文治派の対立が関ヶ原の戦いの遠因となった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>軍師・竹中半兵衛、黒田官兵衛はどんな活躍をした？</h2>

<p>竹中重治(半兵衛)と黒田孝高(官兵衛)。&quot;両兵衛&quot;と呼ばれた秀吉の軍師だ。軍師の役目は合戦の戦術を考えることだが、秀吉が重視したのは、交渉で味方を増やす「調略」の才だった。</p>

<p>竹中重治はわずか17名で主君の稲葉山城(岐阜城)を乗っ取った知将だ。通説ではその後、山奥に隠棲した重治のもとを秀吉が訪れて家臣にするが、実際は信長の美濃平定後に織田家臣となったようだ。近江国境に近い菩提山城を領有するため浅井家との人脈を持つ上、知略に優れる重治は浅井家臣の調略にうってつけの人材だった。</p>

<p>黒田孝高は播磨の国衆で、播磨攻めを命じられた秀吉が姫路城を任されていた孝高を引き入れた。そして孝高は主君の小寺家をはじめ、播磨衆を調略していったのだ。有岡城主・荒木村重が離反した際は、孝高が交渉に向かうが村重に幽閉されてしまう。重治は三木城攻めの最中に病死するが、その後は孝高が秀吉のそばで天下取りに奔走した。</p>

<p>備中高松城攻めの陣中。信長の死に呆然とする秀吉に、孝高は「殿、ご運が開けましたな」と言葉をかけたという。我に返った秀吉は情報分析し、その夜から中国大返しに向けて動いた。この一言は大きかった。</p>

<p>合理主義者・信長の配下で調略の才によって出世した秀吉が、自身の軍師に求めたのも、同種の才能だった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉が子飼い武将たちを育てた理由とは？</h2>

<p>「子飼いの武将」とは、大将が子ども時代から育てた武将のことである。家族のような信頼関係が築かれ、忠誠心の強い家臣が育つ。一代で天下人になった秀吉には代々仕える家臣がおらず、親類も少なかった。家臣団の中で最も信頼のおける「一門衆」を組織するには、子飼いの武将が必要だったのだ。</p>

<p>秀吉子飼いで最もよく知られるのは、福島正則と加藤清正である。正則は、母が秀吉父方の妹で、秀吉とは従兄弟。清正の母は大政所の従姉妹とされ、2人とも秀吉の親戚筋ということになる。彼らは少年時代から秀吉とねね(北政所)のもとで育った。</p>

<p>成長した彼らは、のちに&quot;武断派&quot;と呼ばれるように、猛将のイメージが強いが、大名として経済政策や治水事業などにも手腕を発揮している。</p>

<p>また、正則・清正とともに「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元や長浜時代に見出された石田三成、人質として幼少期を長浜城で過ごした黒田長政(孝高の嫡男)も、秀吉子飼いの武将である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>はっきり分かれた古参家臣の明暗</h2>

<p>豊臣秀吉に仕えた古参武将たちの生涯をたどってみよう。尾張の土豪(土地の有力者)だった蜂須賀正勝は、豪快なイメージとは違う交渉・調略上手の知将だった。四国攻め後に病死したが、子の家政に阿波が与えられ大名となった。</p>

<p>信長と対立した岩倉織田家重臣の子だった山内一豊と堀尾吉晴は、主家が滅んで流浪した後に信長配下となり、秀吉に仕えた。歴戦の将として活躍し、長浜や佐和山など要所の城主となった。吉晴とともに&quot;三中老&quot;と後世に位置づけられた生駒親正・中村一氏も、高松・駿府などの要所を任された。</p>

<p>一方で、精鋭部隊&quot;黄母衣衆&quot;の一員として長く秀吉を支えた神子田正治・尾藤知宣は小牧・長久手の戦いや九州攻めの失態で追放され、後に処刑されている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ヒーローとなった秀吉</h2>

<p>江戸時代、豊臣秀吉は庶民のヒーローだった。秀吉の一代記『太閤記』が人気を博したからである。その形は伝記、読本、講談、歌舞伎、浄瑠璃などに発展し、&quot;親しみ易く才気にあふれ、戦にも強い秀吉&quot;が、一代の英雄として人々の心をつかんだ。その背景には、幕府への不満と破格の出世へのあこがれがあったようだ。</p>

<p>太閤記のもととなったのは、秀吉が御伽衆・大村由己に書かせた記録集『天正記』だ。これに触発され、太田牛一の『太閤軍記』、竹中重門(半兵衛の子)の『豊鑑』や川角三郎右衛門の『川角太閤記』が続いた。</p>

<p>そして、儒学者の小瀬甫庵がこれらに解説を加えた全22巻の本格一代記『太閤記』を成立させる。幕府が数度発禁を命じたほどの人気ぶりだったが、今に至る秀吉像を決定づけたのは、『絵本太閤記』7編84巻だ。平易な文章と豊富で本格的な挿絵、そしてストーリーが大ウケした。信長の草履を温めた話や墨俣一夜城などの創作話も、繰り返し語られるうちに史実として信じられていった。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/pixta_takenakahanbe.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 27 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉の「爆速出世」を支えた弟・秀長の実像　信長も認めた“最強の補佐官”は何をした？  柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14032</link>
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			<description><![CDATA[豊臣秀吉の弟・秀長の生涯を解説。中国攻めや四国平定での軍功、政権内の調整役としての役割を紹介。秀吉に諫言できた唯一の存在と言われ、彼の死が豊臣家の迷走に与えた影響についても紐解きます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="大和郡山城" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_Yamatokooriyamajyou.jpg" width="1200" />大和郡山城</p>

<p>豊臣秀吉から絶大な信頼を寄せられ、天下取りに欠かせなかったと言われるほどの存在感を示した弟の豊臣秀長。秀吉同様、前半生は謎に包まれていますが、近年、その謎は少しずつ解明されつつあります。秀吉の右腕としての活動、そして大名間の緩衝材として政権を支えた晩年まで、『豊臣兄弟！』の時代考証を担当する柴裕之氏が、「最強の補佐官」秀長の実像に迫ります。</p>

<p>＊本稿は柴裕之監修『7つのキーワードでまるわかり　コミュ力お化け　豊臣秀吉』（主婦と生活社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉と秀長の父親は誰なのか</h2>

<p>秀吉が右腕として頼りにした弟・秀長。大名との関係を取り持ち、合戦では別働隊の大将を務めるなど、天下取りに貢献したが、その前半生は兄同様に謎が多い。</p>

<p>秀長の父は、秀吉の継父・筑阿弥(ちくあみ)とされている。しかし近年の研究では、2人は同父兄弟で父の法名は「妙雲院」であるという説が有力だ。生年も諸説あるが、天文9年(1540)生まれで秀吉とは3歳差とする説が有力である。</p>

<p>秀長が織田信長に仕官した年も、確かなことはわかっていないが、天正3年(1575)に発給した文書が残っており、35歳ごろには信長に仕えていたと考えられる。興味深いのは、この文書の署名が「長秀」となっている点だ。これは信長からの偏諱(身分が上の人物から名前の一文字を賜る習慣)とみられる。つまり、このときの秀長はあくまで信長の家臣であり、信長から秀吉に配属されている立場(与力)だったのだ。</p>

<p>謎が多い秀長だが、秀吉に信頼されていたことは間違いなく、兄を支えて重要な任務をこなしていたことがわかっている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>中国攻めで秀長はどんな働きをした？</h2>

<p>天下一統に本腰を入れた信長は、全国各地を平定するための方面軍を組織した。中国地方の担当になった秀吉の配下に、長秀(秀長)が名を連ねている。但馬の竹田城を攻略した秀吉は秀長に竹田城の城代を任せ、但馬に領地も与えたようだ。弟への信頼が伝わってくる。</p>

<p>さらに、秀長が秀吉にとって単なる部下ではなく、対等ともいえる存在だったことがわかる文書が伝わっている。三木城攻めの最中に起こった平井山合戦で敵将を討ち取った樋口彦助に、秀吉と秀長が100石ずつ、合計200石の領地を与えるという書状を発給しているのだ。樋口彦助からすれば、同じ石高の褒美を与えてくれた秀吉と秀長は、同じ立場の上司と感じられただろう。</p>

<p>中国攻めは本能寺の変による信長の急死で幕切れとなるが、この遠征で行われた三木城攻めや鳥取城攻めでも秀長は秀吉を補佐した。特に、但馬の直接的な統治は秀長が担当しており、部下に領地を与えたり、鮎の漁を許可したりした証状が残っている。秀長が政務を行ってくれたおかげで、秀吉は安心して背後を任せて平定戦に集中できたのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>信長の死後、秀長の活躍は？</h2>

<p>信長の仇討ちとなった山崎の戦いには、陣頭に立つ秀吉とともに秀長も参戦。この合戦で明智光秀を討った秀吉は信長後継者の第一候補となる。続く賤ヶ岳の戦いでは最前線に陣取って前田利家らと対峙したとされる。この武功で播磨と但馬を拝領した秀長は、姫路城に居城を移したという。</p>

<p>織田信雄・徳川家康と秀吉が戦った小牧・長久手の戦いでも秀長は秀吉を補佐。秀吉が秀長を頼りにする書状が複数伝わる。この頃名乗りを「長秀」から「秀長」に変えており、織田家と羽柴家の立場が逆転したことがわかる。</p>

<p>そして、信長が成しとげられなかった四国攻め。秀吉の出陣がなくなったことで、代理の総大将となった秀長は期待に応えて長宗我部元親を降伏させ、四国を平定した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>拡大する豊臣政権の中で秀長が果たした役割とは？</h2>

<p>小牧・長久手の戦いと紀州攻めでも功績を積み上げた秀長は、紀伊・和泉を拝領して播磨・但馬から本拠地を改めた。さらに、四国攻めの戦功で大和も加増され、3か国を治める大名になる。</p>

<p>同じ頃、秀吉は朝廷の最高官職である関白に就任して、朝廷から豊臣姓を賜った。秀長も参議に就任し、従三位に列せられる。武士にとっての朝廷のポストや序列は、朝廷で仕事をするというよりステータスに箔をつける目的が大きい。出自が低い秀吉には、かなり重要なポイントだったのだ。</p>

<p>秀長は九州攻めにも副将として参戦。東西に分かれて同時に進行する軍の片翼を指揮し、約14万の兵で日向などの城を攻めて島津義久を降伏させた。この功績もあって大納言に昇進。大和大納言と呼ばれる。同時に大納言となった徳川家康とともに政権の序列3位として秀吉を支えた。</p>

<p>豊臣政権の要となった秀長は、温厚で情け深い性格もあって多くの大名から頼られた。大名同士や大名と秀吉の間の緩衝材となり、豊臣家臣団の結束力を保つ指南役を務めたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>晩年の秀吉はなぜ迷走したのか？</h2>

<p>秀吉の小田原攻め開始が秒読み状態となり、全国統一戦が総仕上げに入る時期に、秀長は重い病に倒れた。このため小田原攻めにも東北の平定にも参戦できず、秀吉の全国統一達成を病床で聞く。そして、翌年の天正19年(1591)正月22日に52歳で秀長は世を去った。秀吉は秀長の死を深く嘆き、盛大な葬儀で送り出した。葬列の見物には20万人が集まったという。家督は養子の秀保が継いだが、3年後に17歳の若さで病死。秀長が築いた大和豊臣家はわずか2代で断絶する。</p>

<p>秀吉に諫言できる数少ない身内だった秀長がいなくなり、秀吉は次第に迷走をはじめる。秀長逝去の直後には、政治の相談役として信頼してきたはずの千利休を切腹させた。利休の影響力が強まることを恐れたとされる。さらに、数年後には関白をゆずった豊臣秀次も切腹させた。実子の拾(秀頼)が誕生したことで、秀次が邪魔になったためともいわれる。そして、最晩年に断行した文禄・慶長の役は、国力を疲弊させるだけの結果となり&quot;老害&quot;の限りを尽くす晩年となってしまった。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_Yamatokooriyamajyou.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 20 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>小和田哲男氏らが称賛！ 映画『長篠』4月17日公開。敗者・武田軍の視点で描く「軍議」と「愛」の物語  《PR》歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14106</link>
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			<description><![CDATA[2026年4月17日（金）に、長篠合戦450年記念映画として、映画『長篠』が公開される。小和田哲男氏をはじめ、歴史家や評論家が称賛する映画の内容を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="映画『長篠』より、秋山虎繁" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260409nagashino1n.jpg" width="1200" />映画『長篠』より、秋山虎繁</p>

<p>長篠の戦いの実相については、いまもなお議論が尽きず、歴史ファンの興味を引き付けてやまない。</p>

<p>そんな戦国時代を代表する合戦の謎に迫った映画『長篠』が、2026年4月17日（金）から、池袋シネマ・ロサほか全国で順次公開される。</p>

<p>歴史学者のみならず映画関係者からも称賛の声があがっているこの作品の魅力に、寄せられたコメントの数々とともに迫る。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>&quot;戦国&quot;群像劇、開幕！</h2>

<p><img alt="映画『長篠』より、武田家の重臣たち" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260409nagashino2n.jpg" width="1200" />映画『長篠』より、武田家の重臣たち</p>

<p>本作には歴史学者から多数の声が寄せられており、その一端を紹介しよう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>小和田哲男氏</p>

<p>「敗者武田勝頼の重臣たちの目線で描かれている点が特筆される。美濃岩村城代秋山虎繁と信長の叔母とのエピソードも盛り込まれていて興味深いつくりになっている」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>黒田基樹氏</p>

<p>「内容はかなり重厚で、率直に言って見応えがある。近年の研究成果がふんだんに取り入れられていて、戦国史ファンにとってかなり興味深い内容になっている」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>大石 学氏</p>

<p>「主演の二人の間の信頼や優しさは印象的で、ともすると成果や出世をめざして誇る現代の私たちに、それとは異なる生き方の大切さを示している。本作で描かれる奇跡は、歴史を越えて、人々が武力や才能よりも信頼や優しさを大切に思う気持ちの現れであり、本作の革新テーマである」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>呉座勇一氏</p>

<p>「長篠合戦前夜に馬場信春・山県昌景・内藤昌秀・土屋昌続が明日の敗戦を覚悟して別れの水盃を交わしたという逸話（「長篠日記」ほか）は周知のものであろう。けれども、もし前夜の段階で武田家の中枢を担う重臣たちが厭戦気分に支配されていたならば、史実のような武田軍の奮戦は考えにくい。</p>

<p>本作は、この問題に関して新解釈を施し、決戦前夜にあったかもしれない武田家重臣たちの大通寺での軍議を生々しく再現する」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>笹本正治氏</p>

<p>「興味深いのは秋山信繁（金児憲史）の妻のお艶（名前は仮、楊原京子）の役割を極めて大きく評価して、主役としている点である。男世界の武士団の中で女性がいかに活躍したかは大きな課題であるが、宮下氏は現代風に課題に近づいている。同時に武田家の家臣個々人が総体として主役になっており、特定の主人公に重きを置きすぎない点が新しく、好ましい」</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>映画評論家とあの名優はどう捉えたか？</h2>

<p><img alt="映画『長篠』より、織田信長とお艶の方" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260409nagashino3n.jpg" width="1200" />映画『長篠』より、織田信長とお艶の方</p>

<p>では、この歴史映画を、映画評論家はどう観たのだろうか。娯楽映画研究家の佐藤利明氏のコメントを紹介しよう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>佐藤利明氏（娯楽映画研究家）</p>

<p>「戦国映画において「長篠の戦い」といえば、騎馬軍団と鉄砲隊が激突するスペクタクルとして語られてきた。黒澤明の『影武者』（1980年）、北野武の『首』（2023年）をはじめ、映画やNHK大河ドラマ、さらにはゲーム「信長の野望」シリーズなどに至るまで、その合戦のヴィジュアルは繰り返し描かれ、我々の中に強く刷り込まれている。</p>

<p>だが宮下玄覇監督は、『信虎』に続く本作で、その常識を静かに裏返してみせる。描かれるのは合戦そのものではなく、「その前夜」。武田家の重臣たちがいかにして戦に向き合い、何を思い、いかなる決断へと至ったのか――そのプロセスを「軍議」という極めて静的な場面の連なりによって描き出していく。</p>

<p>天正3年、3万8千の織田・徳川連合軍に対し、1万5千の兵で臨む武田勝頼。主戦を唱える武田勝頼（小堀正博）と、老獪な側近たち。それに対し、信玄の恩顧を受けた重臣たちは慎重な姿勢を崩さない。両者の対立は、単なる戦略論の違いではなく、武田家を守るとは何か、武士としてどうあるべきかという価値観の衝突として浮かび上がる。その構図は、現代の政治や組織、企業経営にも通じる切実さを帯び、観る者に強い共感を呼び起こす。</p>

<p>その中で、ひときわ鮮烈な印象を残すのが、武田家重臣で美濃岩村城代・秋山虎繁を演じる金児憲史である。21世紀の「石原裕次郎を探せ！」オーディションで石原プロモーション入り、渡哲也、舘ひろしの薫陶を受けたその佇まいは、どこか往年の映画スターを思わせる。登場した瞬間に場の空気を変える力――いわば&quot;スクリーンに立つことの意味&quot;を体現する俳優である。その長身痩躯と豪快さは、まさに秋山虎繁、ベストキャスティングである。</p>

<p>豪放磊落でありながら、状況を冷静に見極める知将としての顔。そして、妻であるお艶の方への深い信頼と情愛。秋山虎繁という人物の持つ複雑な陰影を、金児は過不足なく掬い取る。本作がユニークなのは、この秋山と、信長の叔母でもあるお艶の方という二つの視点を軸に物語が展開される点にある。</p>

<p>観客は自然と二人に感情を預け、「この選択の正しさ」を確信する。そこに、宮下監督の歴史への、そしてあの時代を生きた人々への深いリスペクトが息づいている。</p>

<p>派手な合戦場面はないが、本作には確かな&quot;熱&quot;がある。それは、武田家を支えてきた者たちの矜持であり、その信念と決断である。戦わぬ道を模索しながらも、やがて避けがたく「負け戦」へと歩みを進めていく。その過程を見つめることで、歴史の一断面が、単なる出来事ではなく&quot;人の選択の積み重ね&quot;として立ち上がってくる。</p>

<p>そしてラスト。信長の前に引き出され、逆さ吊りにされた秋山虎繁が見せる眼光の鋭さ。死を前にした男の生命力を感じさせる。その中に宿るのは、武士としての揺るぎない矜持と、妻・お艶の方への深い愛情である。信長の逆鱗にふれたお艶の方がどう振る舞うのか。このラストは実に見事である。この映画は「生きることと、愛すること」について、考えさせられる」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>最後に、大河ドラマ『豊臣兄弟！』への出演が話題となっているあの名優のコメントも紹介しよう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>竹中直人（俳優・映画監督）</p>

<p>「全ての役を俺ひとりで演じ分けさせてくれっ！！！と思うくらいの衝撃作だ！！」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>映画『長篠』</p>

<p>2026年4月17日（金）、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開</p>

<p>https://nagashino.jp/</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260409nagashino1n.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 17 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[《PR》歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉はなぜ爆速出世した？ 墨俣一夜城の真相と、驚きの城下町経営  柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14029</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014029</guid>
			<description><![CDATA[豊臣秀吉の青年期から長浜城主までの歩みを解説。信長の信頼を得た「金ヶ崎の退き口」や、初の城下町経営で見せた免税政策など、秀吉出世の背景をひも解き、有名な一夜城伝説の真偽にも迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="豊臣秀吉" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_hideyoshi2019G.jpg" width="1200" /><br />
&nbsp;</p>

<p>「戦国一の出世頭」として知られる豊臣秀吉。出自のわからない身分から天下人へと昇り詰めた彼の人生は、織田信長との出会いを抜きに語ることはできない。出世の足がかりとして語られる「墨俣一夜城」の真実や、命懸けの「殿（しんがり）」を務めた金ヶ崎の退き口、そして初めて城主となった長浜での画期的な政策など、秀吉躍進の軌跡を『豊臣兄弟！』の時代考証を担当する柴裕之氏が辿ります。</p>

<p>＊本稿は柴裕之監修『7つのキーワードでまるわかり　コミュ力お化け　豊臣秀吉』（主婦と生活社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家を出たのは母の再婚相手とそりが合わなかったから?</h2>

<p>天下人として現代に名を残している豊臣秀吉だが、その生涯は織田信長抜きに語ることはできない。下層身分の出身とされ、青年期までの動向もよくわかっていない秀吉の運命は、信長の家臣となって大きく変わった。</p>

<p>秀吉の出自は謎に包まれているが、有力な説を組み合わせると天文6年(1537)2月6日生まれで、両親は元足軽の父・弥右衛門と母・大政所(仲)。幼名(幼少期の名前)は不明である。</p>

<p>秀吉が7歳の頃に弥右衛門が亡くなり、母の再婚相手の筑阿弥と不仲だった秀吉は、家を飛び出して放浪の旅に出た。その旅の中で信長の存在を知り仕官したという。</p>

<p>信長のもとでは草履を用意する小者(雑用係)からのスタートだったが、愛嬌があり機転が利く秀吉はすぐに信長のお気に入りになり、トントン拍子で出世した。敵対勢力のスパイである上島主水（もんど）の正体を暴くために、槍試合を受けて立ったという逸話は創作の可能性が高いが、ときには度胸を武器に成り上がっていったのだろう。秀吉の名が確かな史料に登場するのは、29歳のときである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>浅井長政の裏切りが秀吉出世の糸口に</h2>

<p>信長が斎藤龍興に勝利して美濃を平定し、「天下布武」を掲げた戦いが美濃攻めである。秀吉もこの戦いに参戦し、交通の要衝・墨俣に一晩で城を築いて信長を感心させたという。この「墨俣一夜城」は創作だが、秀吉は砦を守って斎藤軍を撃退する活躍をしたようだ。</p>

<p>こののち信長は室町幕府の将軍・足利義昭に協力するため、当時の首都・京に乗り込む。秀吉も京で政治に関わりながら反対勢力との合戦に出陣した。</p>

<p>そして元亀元年(1570)、反対勢力の1つである越前の朝倉義景との戦いの最中に、信長軍は大ピンチに陥る。同盟相手である北近江の大名・浅井長政が敵に回ったのだ。長政は信長の妹・お市の夫だが、関係の深い朝倉家の味方に付くことを選んだのだ。</p>

<p>挟み撃ちを避けるため、信長は朝倉軍の激しい追撃を覚悟で撤退を決めた。このとき、最も危険な殿(しんがり)を引き受けたのが秀吉だ。秀吉は明智光秀・池田勝正と奮戦し、信長を京都に帰還させた。この「金ヶ崎の退き口」で、秀吉は信長からのさらなる信頼を得る。命をかけた戦いが出世の糸口になったのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>長浜の人口を爆増させたすごい政策</h2>

<p>浅井長政の裏切りを信長が許すはずはなく、長政は小谷城の戦いで敗れて自刃した。この合戦で長政を孤立させて戦況を有利に運んだ秀吉は、信長から浅井家の旧領を与えられた。</p>

<p>秀吉ははじめ、長政の居城だった小谷城に入ったが、小谷城は険しい山中にあって移動が難しい地形だった。そこで琵琶湖のほとりの水運が活発な今浜に本拠地を移し、ここに新しい城を築く。このとき秀吉は信長の名前から一文字を拝借し、今浜を長浜と改名。城も長浜城と名付けた。長浜城は秀吉が人生ではじめて手に入れた、つまり城主デビューを果たした城なのである。</p>

<p>秀吉は長浜城下にもともとある村を再編成しながら、小谷城周辺の城下町も長浜に移転させるなどして新しい城下町を充実させていった。人口を増やすために年貢(税)を免除するという思い切った政策も行っており、この特権は秀吉が本拠地を長浜から大坂などに移したのちも続けられた。秀吉が長浜に愛着を抱いていたことがうかがえる。この時期と前後して、秀吉は名前を木下藤吉郎から「羽柴秀吉」に改めている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>信長の手紙が語る「高評価家臣ランキング」</h2>

<p>室町幕府や朝倉・浅井軍を破った信長は、破竹の勢いで天下統一を進めていった。家臣の中でも浅井軍との戦いで長浜城主となった秀吉と、それより早く坂本城主となった明智光秀は、織田家臣団でも群を抜いた出世頭だった。</p>

<p>勢力拡大を狙う信長が次に展開した戦略は、方面軍体制である。これは日本全国の各方面に軍勢を派遣する作戦だ。ここで秀吉は難敵・毛利家が立ちはだかる中国地方の担当に抜てきされる。信長の厚い信頼による人選だ。</p>

<p>また、信長が古参の家臣・佐久間信盛を追放したときに送った手紙に、興味深い記述がある。大坂本願寺との戦いに手こずった信盛を「光秀と秀吉と勝家は立派な武功を上げているのに」と叱っているのだ。秀吉は信長の高評価家臣ランキングに入っていたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>一夜城伝説の墨俣城はどんな城？</h2>

<p>岐阜県大垣市、長良川西岸に位置する墨俣は古来の要衝で、かの「墨俣一夜城伝説」の舞台だ。</p>

<p>この伝説は、信長の美濃攻めの時、佐久間・柴田らの重臣が失敗した墨俣での砦の築城を藤吉郎(秀吉)がたった一夜で完成させたというものだ。江戸時代の読本『絵本太閤記』や古文書『武功夜話』に見られる伝説だが、信頼できる史料にも小瀬甫庵の『太閤記』には、一夜城どころか秀吉が墨俣城を築いたという記載はなく、後世の創作とされている。</p>

<p>ただし、当時斎藤家が築いた墨俣城があり、信長軍が攻略し前線基地としたこと(信長死後に流路が変わって廃城)、秀吉が美濃のどこかの砦を守ったこと、さらにこの美濃攻め以降に秀吉が重用されていくことは事実である。</p>

<p>ちなみに&ldquo;もう1つの一夜城&rdquo;石垣山城は、小田原攻めの時の豊臣軍の本陣で、『太閤記』などには即席の櫓に紙を貼って一夜で城を築いたと見せかけたとあるが、実際には4万人で80日かけて造られた、関東初の総石垣の城である。</p>
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						<pubDate>Mon, 13 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ対立は続く？イランvs米国を「民族・地政学・宗教」の3点で読み解く  宇山卓栄（著述家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14112</link>
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			<description><![CDATA[アメリカ・イラン関係を背景に、イランの本質を歴史的側面から解説。中東アラブ人とは異なるルーツ、19世紀から続く米露の覇権争い、シーア派特有の政治観など「民族」「地政学」「宗教」3つの視点で解き明かす。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="著述家の宇山卓栄氏がイランの本質を３つのポイントで解説する" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/iran.jpg" width="1200" /></p>

<p>イランとアメリカの緊張関係は、世界の安定を揺るがす大きな懸念事項となっている。なぜイランとアメリカは対立し続けているのか。その裏には、数千年に及ぶ民族の変遷、19世紀から続く大国の覇権争い、そしてイランに綿々と伝わる独自の宗教観が複雑に絡み合っている。本記事では、『歴史街道』2019年9月号に掲載された宇山卓栄氏の記事「３つのポイントから読み解く『イランの本質』」より、「民族」「地政学」「宗教」の3つの視点から、謎に包まれたイランの本質を解き明かす。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2019年9月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>イランとアメリカの緊張関係が、かつてない局面を迎えている。2026年4月、ホルムズ海峡の封鎖や米軍機の撃墜を経て、両国はパキスタンの仲介による「2週間の即時停戦」に合意した。最悪の軍事衝突は一旦回避されたものの、依然としてイスラエルによる空爆は継続しており、情勢は予断を許さない。世界の危機の震源地として、今後も、イランが注目される。イランでは、最高指導者が政治や軍事の大権を握り、大統領が首相の役割を担い、議会や行政を動かす。イランはいったい、どのような歴史を持つ国なのだろうか。民族、地政学、宗教の3つの視点で、イランの深層に迫る。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【民族】イラン人は中東アラブ人とは異なる民族系列</h2>

<p>イラン人は元々、イラク人をはじめとする中東アラブ人とは異なる民族系列に属する。イラン人もイラク人も同じように見えるが、イラン人はインド・ヨーロッパ語族、いわゆるヨーロッパ人と同じ系列に属する。</p>

<p>紀元前2000年頃、中央アジアを原住地とするインド・ヨーロッパ語族は、ユーラシア大陸の広大な範囲に移住拡大し、東を目指した一派はインドへ、そして、西を目指した一派はイランやヨーロッパへ入った。</p>

<p>古代において、イラン人の容貌は白人ヨーロッパ人に近かったと考えられる。<br />
イラン人は中東地域にあって、長い年月をかけ、アラブ人との混血を繰り返し、事実上、アラブ人化して今日に至る。</p>

<p>混血種はそれぞれの民族の長所をよく継承し、その美しさを凝縮した特性を兼ね備えた容貌を遺伝子的に形成していくとされる。<br />
そうしたイランの混血種の美しい女性を狙ったのが、アレクサンドロス大王である。</p>

<p>紀元前330年、ギリシア人勢力を率いるアレクサンドロス大王が来襲し、当時のイランのアケメネス朝ペルシアは滅ぼされた。大王はギリシアとオリエント（中東地域のこと）を統合し、ヘレニズム（ギリシア風）の帝国をつくる。</p>

<p>アレクサンドロス大王らギリシア人はイランで、男性を大量虐殺し、女性を集団強姦した。ギリシア男性と被征服民のイラン人女性が「集団結婚」したと一般に解説されるが、父や兄弟を殺したギリシア人を、イラン人女性が好んで結婚することなどあろうはずがない。</p>

<p>この時代、キリスト教などの倫理宗教が無く、虐殺や強姦が平然と行われていた時代であった。力による支配が全てであり、美しいイラン人女性は征服者の餌食になったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「イラン」とは、「アーリア人」の国の意</h2>

<p>イラン人をはじめとするインド・ヨーロッパ語族は、アーリア人とも呼ばれる。 「アーリア」というのは「高貴な」という意味であり、ペルシア語（イラン語）では「ariia」、サンスクリット語では「ārya」と表記される。「イラン（アーラン）」は「アーリア人の国」、つまり「高貴なる者の国」という意味を持つ。</p>

<p>このように、「イラン」というのは地名を表すものではなかったため、「ペルシア」という地名を表す国名が古代から一般的に使われていた。「ペルシア」は「騎馬者」という意味の「パールス（Pars）」を語源にしており、「騎馬者たちの住む地域」という意味で「ペルシア」という形になる。</p>

<p>アーリア人は他の民族と比べ、自分たちを「高貴なる者」とし、自分たちの優位性を主張しながら、中東でアラブ人（セム語族）を支配した。</p>

<p>アーリア人と聞くと、一般にヒトラーのアーリア人優位主義が想起されるだろう。「アーリア人」は古代史の中で使われる古い歴史用語に過ぎなかったが、19世紀になり、オリエンタリズム（東方趣味）が流行する中、「アーリア人」という言葉がその神秘的な響きと相まって、大きな注目を浴び、次第にオカルト的な意味合いを持つようになる。</p>

<p>やがて、ヨーロッパ諸民族の祖先としてのアーリア人を崇めるという風潮が、民族主義者たちの間で強まった。20世紀、このオカルト的な意味での「アーリア人」をフルに利用したのが、ヒトラーの率いるナチスだった。</p>

<p>紀元前6世紀、イラン人の王国アケメネス朝が建国され、中東地域における、最初の長期統一政権となる。<br />
アケメネス朝は「ペルシア」を国号とした。この国号を、226年に建国されたササン朝も用いた。ササン朝は強大な力を誇り、中東から中央アジア、インド西北部に至るまで支配した。</p>

<p>7世紀に、預言者ムハンマド（英語名はマホメット）が出て、中東地域全体をイスラム化し、統合すると、イラン人のアラブ人化が急速に進む。因みに、ムハンマドは純然たるアラブ人である。またイラン人は、従来のイラン人独自の民族主義的宗教であるゾロアスター教を捨て、イスラム教に帰依していく。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【地政学】大国の覇権争いは19世紀以来、変わっていない</h2>

<p>トランプ大統領は第1次政権時の2018年5月、欧州諸国に引き止められたにもかかわらず、欧米など6カ国とイランが結んだイラン核合意（2015年締結）から離脱し、イランに対する経済制裁を再開した。</p>

<p>妥協の産物として締結されたイラン核合意では、イランの核武装を止めることはできないとトランプ大統領は主張している。</p>

<p>アメリカは同年4月、イギリス・フランスとともに、シリアのアサド政権が化学兵器を使用したとして、シリアの化学兵器関連施設へミサイル攻撃をした。シリアへの攻撃は2017年4月に次ぎ2回目となる。</p>

<p>一方、ロシアはシリアを支援しながら、イランとの連携を深めた。今日のアメリカとイランの対立は、中東という資源地域を巡るアメリカとロシアの覇権争いというマクロの構図で読み解くことが欠かせない。</p>

<p>そして、このような大国の覇権争いの構図は19世紀以来、中東地域では一貫して変わることがない。</p>

<p>ロシアは19世紀、「南下政策」により、イラン（当時はカージャール朝）へ進出して、中東への支配の拠点とした。ロシアはイランからアルメニアを獲得し、カスピ海西岸を経由するルートで、イランに入り、さらに東方のアフガニスタンに向かって進出した。</p>

<p>インド防衛を重視するイギリスもアフガニスタンに進出し、1856年、カージャール朝イランの勢力を駆逐した。</p>

<p>カージャール朝はイギリスに和睦を請い、イギリスに治外法権、貿易上の特権を与えた。<br />
こうして、カージャール朝はロシアとイギリスによる二重支配を被るに至る。<br />
ロシアとイギリスはイラン支配を巡り、激しく争った。この両国の駆け引きは「グレート・ゲーム」と呼ばれる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>アメリカの存在感がなければ、中東はロシアの傘下に組み入れられてしまう</h2>

<p>今日でも、イランを中心に地政学的な覇権争いは続いている。中東において、アメリカのプレゼンス（存在感）がしっかりとしていなければ、中東はアッという間に、ロシアの傘下に組み入れられてしまう。欧州諸国は長い間、中東政策で、事なかれ主義のぬるま湯に浸かり過ぎていたが、アメリカは絶対に妥協できない。</p>

<p>かつてトランプ大統領は「アメリカを脅していると、過去の歴史でもほとんどないような報いを受けるだろう」と述べている。アメリカのシリア攻撃、イラン核合意離脱、大使館のエルサレム移転などは、中東におけるアメリカのプレゼンスを再編・確立するための重要な布石であったと見ることができる。</p>

<p>第2次世界大戦後、イランでは、工業化とともに、民族資本が台頭し、国王と激しく対立した。<br />
国王のパフレヴィー2世は民族資本に対抗するため、イギリスのみならず、アメリカにも頼った。アメリカはパフレヴィー2世との連携を強化し、積極的に支援した。</p>

<p>ところが、イラン民族資本はシーア派最高指導者ホメイニを担ぎ上げ、イラン国民もホメイニに従い、米英を排除するべく立ち上がり、1979年、イラン革命となる。パフレヴィー2世は退位し、エジプトに亡命する。</p>

<p>そしてホメイニの指導で、反米のイラン・イスラム共和国が成立した。ホメイニは石油国有化に踏み切り、石油輸出を制限したため、石油の国際価格が急上昇し、第二次石油危機が発生した。</p>

<p>米英はイランの利権を失った。アメリカはホメイニ政権を潰すため、隣国のイラクを全面支援し、1980年、イラン・イラク戦争がはじまる。イランとアメリカとの確執はこの時以来のものである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【宗教】なぜイランにはシーア派が多いのか？</h2>

<p>現在、イスラム世界全体において、スンナ派が多数派であり、シーア派は約10％しかいないが、イランに限って言えば、約90％の国民がシーア派である。なぜ、イランではシーア派が信奉されているのだろうか。</p>

<p>イスラムの預言者ムハンマドの娘ファーティマとその婿のアリーの子孫だけを、正統なムハンマドの後継者と認める人々は「シーア・アリー」（アリーの信奉者）、略して「シーア派」と呼ばれるようになる。</p>

<p>シーア派はアリーを初代の「イマーム」（「指導者」の意）とし、アリーとファーティマの子孫を「イマーム」と認める。</p>

<p>「イマーム」は神と人間を結びつける指導者であり、預言者ムハンマドの血統によって決まる君主である。<br />
これに対し、スンナ派は選挙や戦争などにより、人間が選ぶ「カリフ」（最高権威者）に従う。</p>

<p>シーア派は、人間の判断は神の判断には及ばないとして、指導者を恣意的な人間の判断で選ぶべきではないと主張する。また、シーア派は、人間の判断で選ばれた指導者は批判されるべき存在であると考えるため、スンナ派の政府に対する反体制者の拠り所となる。</p>

<p>このシーア派が歴史的に、イラン人に受け継がれてきたのは、イラン人が反体制者として、アラブ人などの多数派のスンナ派勢力に対抗するため、という側面もある。</p>

<p>実際に、10世紀に台頭したイラン人のブワイフ朝はシーア派を奉じ、スンナ派のアッバース朝に対抗した。16世紀に台頭した同じくイラン人のサファヴィー朝は、スンナ派のオスマン帝国に対抗した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>彼らが戦いをやめない理由</h2>

<p>ムハンマドの血統を重んじるシーア派は、原理主義的で神秘主義的な傾向が強い。<br />
イランの王朝は、スンナ派を徹底的に憎悪する人々を軍隊の中核に配置し、統率力を高めようとした。</p>

<p>イラン人が正統と認める「イマーム」は、初代アリーから12代ムハンマド・ムンタザルまでの12人いた（12イマーム派）。これ以降、直系の継承者が絶えたが、イマームは死に絶えたのではなく、人々の前から姿を消し、隠れたのだと考えられている。</p>

<p>この「隠れ（幽隠）」のことを「ガイバ」と言う。「ガイバ」の状態にあるイマームは最後の審判の日に、この世に再臨すると信じられている。<br />
そして、かつてのイマームたちの家族やその子孫たち、彼らの血筋を引く者が「サイイド」とされる。「サイイド」はアラビア語で「血筋」を表す言葉だ。ホメイニやハメネイ師のような「サイイド」が最高指導者として、「イマーム」が再臨する日まで、「イマーム」の統治を代行している。</p>

<p>そのため、イランでは、最高指導者が国民に選ばれた大統領よりも強大な権限を持ち、国家の最終意思決定者として君臨する。<br />
まさに、シーア派の思想が政治においても実践されており、そうした観点からもイランは宗教国家と言える。</p>

<p>このような国家は「神の名」において、妥協をすることはしないであろうし、アメリカが強硬に出れば出る程、彼らは「ジハード（聖戦）」の大義名分を掲げ、戦いに挑むだろう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 10 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄（著述家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>大河『豊臣兄弟！』山口馬木也と巡る越前・北庄　「鬼柴田」は家族思いで領民に寄り添う名君だった！  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14100</link>
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			<description><![CDATA[大河ドラマ『豊臣兄弟！』で柴田勝家を演じる山口馬木也さんが、勝家ゆかりの地を求めて福井を訪問。「鬼柴田」と呼ばれた勝家の人物像に迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="『豊臣兄弟！』で柴田勝家を演じる山口馬木也さんが福井を訪問" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya1.jpg" width="1200" /></p>

<p>織田信長の筆頭家老として「北陸の門番」を託された柴田勝家。越前国（現在の福井県北部）を拝領し、賤ケ岳の戦いに敗れて生涯を閉じるまでは、変容する時代の波に抗い、武士としての矜持を貫き通した後半生でした。『豊臣兄弟！』で柴田勝家役を演じる山口馬木也さんが、福井県に点在する勝家ゆかりの地を訪問。その様子を、おとどけします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>焼野原の一乗谷ではなく北庄に巨大な城をつくる</h2>

<p><img alt="「信長軍が焼き討ちを行った一乗谷がこのような山間の空間であることに驚きました。撮影前に訪れていれば、もう少し違った勝家を出せたかもしれませんね」（山口さん）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya2.jpg" width="1200" /></p>

<p>福井を訪ねるのは初めて、という山口さんが最初に立ち寄ったのは「一乗谷朝倉氏遺跡」。一乗谷は信長軍によって滅ぼされた朝倉氏の本拠地でした。勝家も一乗谷の焼き討ちに加わっています。朝倉氏が滅びてから2年後の天正3年（1575）、勝家は越前の大部分を任され、焼野原となった一乗谷ではなく、北庄に本拠地を移して9層の天守を持つ巨大な城を建設しました。</p>

<p>北庄は、京都と北陸を結ぶ北国街道上にあり、足羽川による水上交通のターミナルです。日本海交易で栄えた三国湊にも、舟運でつながっています。北庄の平城は山あいの一乗谷城と違い、城下町を拡大しやすく、一向一揆の勢力がくすぶる加賀方面へも軍勢を動かしやすく、上杉謙信ら東方の脅威に備えるフロントラインとしても最適でした。</p>

<p>主君である信長が次々と新しい町づくりに着手したように、勝家もまた北庄に新たな物流拠点や軍事のネットワークを築こうとしたのでしょう。</p>

<p><img alt="「信長軍が焼き討ちを行った一乗谷がこのような山間の空間であることに驚きました。撮影前に訪れていれば、もう少し違った勝家を出せたかもしれませんね」（山口さん）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya3.jpg" width="1200" /></p>

<p>「信長軍が焼き討ちを行った一乗谷がこのような山間の空間であることに驚きました。撮影前に訪れていれば、もう少し違った勝家を出せたかもしれませんね」（山口さん）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>民政に見る剛毅さと繊細さ・西蓮寺と明智神社</h2>

<p><img alt="勝家自筆の安堵状" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya5.jpg" width="1200" />勝家自筆の安堵状</p>

<p>勝家は「鬼柴田」の異名が示す通り、武骨な軍人というイメージが強いですが、越前の地を歩くと、その統治がいかに細やかで領民に寄り添ったものであったかがわかります。</p>

<p>勝家は朝倉攻めや一向一揆で荒廃した寺社を保護し、地域の治安維持に心血を注ぎました。一乗谷への大手道の入口にあたる東大味町の西蓮寺には、勝家が発した安堵状や柴田勝家公御木像が残されています。近くにある明智神社（明智光秀を祀る神社）は、もともと光秀の住居跡であったという伝承があり、勝家は本能寺の変後も光秀ゆかりの地に手荒なことをせずに治めていたと想像できます。</p>

<p>勝家は、政情不安定な越前において、力でねじ伏せるのではなく、秀吉に先駆けて刀ざらえ（刀狩り）を実行して兵農分離を推し進めており、領民にとっては恐ろしい征服者ではなく、安寧をもたらす名君だったのではないでしょうか。</p>

<p><img alt="西蓮寺に伝わる柴田勝家公御木像に手を合わせる山口さん" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya4.jpg" width="900" />西蓮寺に伝わる柴田勝家公御木像に手を合わせる山口さん</p>

<p><img alt="山口さんが訪れると東大味町の町民が西蓮寺に集まり、勝家様の歓迎ムード一色。" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya6.jpg" width="1200" />山口さんが訪れると東大味町の町民が西蓮寺に集まり、勝家様の歓迎ムード一色</p>

<p>坂井市の丸岡城は、北庄城の支城として勝家の甥・柴田勝豊（かつとよ）によって築かれました。勝家の時代には加賀国をにらんだ攻撃と防衛の拠点で、天守は、江戸時代以前に建設された「現存12天守」の一つです。</p>

<p><img alt="重要文化財である丸岡城天守" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya7.jpg" width="1200" />重要文化財である丸岡城天守</p>

<p>当時の越前は、上杉謙信という巨大な脅威と対峙する最前線でした。丸岡城の武骨な野面積みの石垣を見上げると、雪深い北陸の地で、常に死と隣り合わせの緊張感を抱きながら「織田の壁」であり続けた勝家と勝豊の矜持が伝わってきます。</p>

<p><img alt="坂井市の池田禎孝（よしたか）市長と角明浩学芸員の案内で傾斜角約65度の丸岡城の階段を昇る山口さん" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya8.jpg" width="900" />坂井市の池田禎孝（よしたか）市長と角明浩学芸員の案内で傾斜角約65度の丸岡城の階段を昇る山口さん</p>

<p><img alt="「いままでお城に住みたいと思ったことは一度もないですが、丸岡城のフォルムの美しさと威容を見ると思わず住んでみたくなりました（笑）」（山口さん）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya9.jpg" width="1200" /></p>

<p>「いままでお城に住みたいと思ったことは一度もないですが、丸岡城のフォルムの美しさと威容を見ると思わず住んでみたくなりました（笑）」（山口さん）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>男の散り際の美学・柴田神社と西光寺</h2>

<p><img alt="西光寺の墓に手を合わせる山口馬木也さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya12.jpg" width="1200" /><br />
西光寺の墓に手を合わせる山口さん</p>

<p>勝家の後半生は、本能寺の変、清須会議、そしてお市の方との結婚と続き、賤ケ岳の戦いで秀吉に敗北して北庄城で最期を迎えます。</p>

<p>北庄城を囲まれた際、勝家はお市の方と三姉妹に城を出るよう促しました。しかし、お市の方は共に死ぬことを選びました。北庄城の跡地に建つ柴田神社は、勝家とお市の方を、そして柴田神社の境内社・三姉妹神社では浅井三姉妹を祀っています。</p>

<p>ここで見えてくるのは、冷徹な武将としての顔ではなく、愛する妻子を最後まで守り抜こうとした、勝家の夫としての父としての素顔でした。</p>

<p><img alt="北庄城跡" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya10.jpg" width="1200" />北庄城跡</p>

<p>北庄で自害した勝家とお市の方はいま、福井市の西光寺に眠っています。西光寺は天台真盛宗のお寺であり、もともと朝倉氏が滅ぼした相手を弔うために建立したもので、その朝倉氏を滅ぼした勝家とお市夫妻が弔われているというのは奇縁でしょう。さらにいうと、天台真盛宗の総本山西教寺が明智光秀の菩提寺という偶然は、運命のいたずらとしか思えません。</p>

<p>西光寺には、勝家が大切にしていた宝刀や念持仏、そのほか数々の遺品が展示されている「柴田勝家公資料館」があります。</p>

<p>北庄城落城の際、勝家は「夏の夜の　夢路はかなき　跡の名に　雲井まであげよ　山ほととぎす」という辞世の句を詠みました。一乗谷から始まり、西光寺で終わる勝家の越前での足跡を辿ると、勝家という人物の多面的な魅力が浮かび上がります。</p>

<p>勝家は秀吉のようなしなやかな如才なさは持ち合わせていませんでしたが、越前の地には、彼を慕った人々の記憶が今も深く息づいています。</p>

<p><img alt="辞世の句" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya11.jpg" width="900" />辞世の句</p>

<p>西光寺の墓に手を合わせた山口さんは、心の中でお二人はどんなご夫婦だったのですかと問いかけたという。「勝家の最期の撮影の際、私の中でどのような&ldquo;走馬灯&rdquo;がよぎるのか。いまから楽しみですし、期待していただきたいですね」（山口さん）</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya1.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 10 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>北斎や国芳の妖怪が躍動！「動き出す妖怪展 TOKYO」レポ “イマーシブ”な異世界への没入感がすごい  PHPオンライン編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14053</link>
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			<description><![CDATA[天王洲で「動き出す妖怪展 TOKYO」が開催中。北斎や国芳の描いた江戸の妖怪が3DCGやプロジェクションマッピングで躍動！音や香りも駆使した演出で、異世界へ迷い込む体験をレポ。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="動き出す妖怪展TOKYO" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai2.jpg" width="1200" /><br />
「動き出す妖怪展 TOKYO」展示風景、寺田倉庫 G1ビル、2026年、以下同</p>

<p>江戸の絵師たちが描いた魑魅魍魎が、最新のデジタル技術で現代に蘇る。2026年3月27日から6月28日まで、東京・天王洲で「動き出す妖怪展 TOKYO」が開催中。3DCGや香り、音の演出で妖怪の世界に没入できる体験型ミュージアムとのこと。さっそく「没入」しに行ってみた！</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>江戸の町中に入り込んでいる感覚</h2>

<p><img alt="動き出す妖怪展 TOKYO" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai3.jpg" width="1200" /><br />
鳥山石燕、葛飾北斎、歌川国芳...いずれも江戸期に活躍した絵師だが、彼らに共通するのは、「妖怪」を描いたこと。2026年3月27日（金）から東京の天王洲にて、「動き出す妖怪展　TOKYO」が開催中だ。</p>

<p>「動き出す」と銘打っているように、本展では絵師の描いた妖怪たちが、3DCGやプロジェクションマッピングなどのデジタル技術で「動く」展覧会となっている。<br />
「本展は没入型のデジタルアートミュージアムです。妖怪がいろんなところに登場しますので、視点を変えながら、妖怪を見つけて楽しんでいただきたい」（東山武明氏／株式会社一旗代表取締役・プロデューサー）とのこと。</p>

<p>部屋に入ると、前面と左右の壁、床一面に映像が映し出され、江戸の瓦屋根の上や海面を妖怪たちが縦横無尽に跋扈している。映像にぐるりと取り囲まれ、妖怪たちと一緒に江戸の町や海の中に一緒に入り込んでいる感覚になる。</p>

<p>館内は部屋ごとに異なるテーマで構成されており、お化け屋敷のような、ちょっと怖い妖怪がいる部屋、魔よけの効果があるという藤の花がアレンジされた幻想的な部屋など、音や香りも演出に生かされ、没入感覚を味わう仕掛けに満ちている。</p>

<p>縁日をテーマにした部屋では、映像に触れると妖怪が変化したり、輪投げや砂遊びなど遊びの要素があり、小さいお子さんも楽しめそう。</p>

<p>土・日と春休み・ゴールデンウィーク期間中には「妖怪グリーティング」と称して妖怪たちが会場を巡回するとのこと。取材時には河童が縁日ゾーンをうろうろしており、「妖怪ちゃぶ台」で遊ぶなどしていた。「一緒に遊ぼう」と誘っているのかもしれない。ありがたいが、ちょっと怖い。</p>

<p>ほかにも何体か遭遇したが、「子供だましの変装」ではないことを申し添えておく。</p>

<p><img alt="動き出す妖怪展 TOKYO" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai5.jpg" width="1200" /><br />
妖怪ちゃぶ台。手をかざすと妖怪が変化する</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>妖怪文化とは何か</h2>

<p><img alt="動き出す妖怪展 TOKYO" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai4.jpg" width="1200" /><br />
会場内を徘徊する絡新婦（じょろうぐも）さんに遭遇</p>

<p>本展では映像作品を楽しめるだけでなく、妖怪が描かれてきた歴史の解説も充実している。</p>

<p>「妖怪というと河童や天狗、ぬらりひょんといった名前がついているものたちを想像されると思うんですが、まだまだそいつらはごく一部であって、絵師が戯れで描いたようなものなど、名前がついていない妖怪も色々いるんです。まさに魑魅魍魎の世界。そんな世界に入り込んでいただくと同時に、絵師たちはなぜ妖怪を描こうと思ったのか。妖怪文化とは何か？といったことを階層的に楽しむことができる作りになっています。だから、個々の妖怪の解説はかえって少ないんですよ」（解説監修：島田尚幸／妖怪文化研究家）</p>

<p>江戸の絵師たちがどんな妖怪を描いてきたのか、その作品とともに体系的に紹介されていて、見ごたえ満点。低い位置には子ども向けの解説パネルもちゃんとある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「あの浮世絵」が躍動するさまを</h2>

<p><img alt="動き出す妖怪展 TOKYO" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai1.jpg" width="1200" /></p>

<p>「妖怪というと、古臭いものというイメージがあると思うんですけど、妖怪画の歴史を見てみると、西洋から絵の具が入ってきたら使ってみたり、西洋絵画の技法を用いてみたり、実験的に最先端の技術を取り入れているんですよ。だから、妖怪と最先端の技術との親和性は非常に高いと思います。そもそも妖怪は幻想の世界と現実の世界を軽く超越していくものなんです」（島田氏）</p>

<p>映像作品に用いられている妖怪たちは、元の作品の雰囲気がそのまま生かされており、「浮世絵で見たあの絵が躍動している！」とちょっと感動的だ。映像にはストーリー性が感じられるうえ、「この妖怪はかわいい」「こいつは何をしている？」とそれぞれの妖怪をじっくりと鑑賞したくなる。</p>

<p>歴史とアートとエンターテインメントが融合した本展は、江戸にタイムスリップしているようで、異世界に入り込んでいるようでもある。妖怪好きも妖怪に詳しくない方も、大人も子どもも楽しめる、時空を超えた遊園地。時間をたっぷりとって、存分に味わいたい展覧会だ。</p>

<p>動き出す妖怪展 TOKYO ～Imagination of Japan～<br />
2026年3月27日（金）～6月28日（日） 9:30～20:00（最終入場19:30）<br />
※期間中休館日なし<br />
※最終日 6月28日は17:00まで（最終入場16:30)　<br />
【会場】 寺田倉庫 G1ビル (東京都品川区東品川2-6-4)<br />
【チケット】<br />
〈料金〉大人:2,600円、学生(高・大・専門):1,800円、子ども(4歳以上中学生以下):800円、シニア(65歳以上):2,500円<br />
〈障がい者等割引〉大人:1,200円、子ども(4歳以上中学生以下):500円<br />
※3歳以下の入場は無料です。（チケット不要）</p>

<p>https://www.yokaiimmersive.com/tokyo</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai2.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 07 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[PHPオンライン編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>コッペパンにソフト麺...日本の給食の歩みをさぐる  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12007</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012007</guid>
			<description><![CDATA[給食が日本で始まったのはいつ？ 時代とともに変遷するメニューにはどんな背景が？　給食の歴史をひもといてみましょう。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="学校給食" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_kyusyoku.jpg" width="1200" /></p>

<p>子どものころ、学校で食べた給食。みなさんはどんな思い出があるでしょうか。楽しみだった、苦手な食べ物が出てきて困った......。年代や地域によって、「定番メニュー」にも違いがありそうです。そんな給食ですが、日本で始まったのはいつなのでしょうか。また、時代とともに変遷するメニューには、どんな背景があるのでしょうか。昔懐かしいものから、最新事情まで、給食の歴史をひもといてみましょう。</p>

<p>小学校や中学校の給食の思い出は人によって違い、おいしくて楽しみだったという人もいれば、苦手なものを残すと怒られて苦痛だったという人もいるだろう。給食のメニューは時代ごとに大きく移り変わっており、世代によっても給食に対するイメージはかなり違う。</p>

<p>日本における給食の歴史は、短く見ても100年以上、長く見れば200年以上にもなる。そういう意味では、もはや日本の食文化のひとつといっても過言ではない。ここでは、そんな日本の給食の歴史を紹介していきたい。</p>

<p>【奈落一騎（ならくいっき／文筆業 ）】 歴史、宗教、哲学、文芸などを対象に幅広く執筆。 著書に『江戸川乱歩語辞典』『競馬語辞典』『門外漢の仏教』『スーパー名馬伝説』、 グループSKIT名での共著に『元号でたどる日本史』などがある。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>江戸時代には給食が始まっていた!?</h2>

<p>日本で給食が始まった年については、給食関係の資料は、どれも明治22年（1889）だとしている。山形県鶴岡町（現・鶴岡市）の私立忠愛小学校で出された昼食が、日本初の学校給食だったというのが給食史の通説だ。そのメニューは、おにぎりと塩鮭、菜の漬物といった程度で、現代の私たちから見ると多少寂しいが、当時の食事としてはとくに質素なわけでもない。</p>

<p>ただ、この忠愛小学校よりも100年近く前、江戸後期の文化3年（1806）に、新島八重の兄である山本覚馬や、白虎隊の少年たちを輩出した会津藩の藩校・日新館で、15歳以上の生徒に昼食が出されたという記録が残されている。メニューは忠愛小学校とほとんど変わらないもので、これを日本で最初の給食だとする説もある。</p>

<p>日新館で昼食が提供された理由は、貧しい藩士の子弟も食事の心配をせずに勉学に集中してもらうためである。これは、学校給食というものの根底にある考え方だ。</p>

<p>19世紀から20世紀初頭にかけて、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカなど世界各国で学校給食が普及していったが、どの国でも貧困家庭の子どもの栄養状態を改善するというのが、制度を導入したときの最大の目的だった。先に名前を挙げた忠愛小学校も同様で、生活が苦しい家庭の子どもに無償で昼食を用意しようということで始まっている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>太平洋戦争末期、食糧不足から中止に</h2>

<p>日本初の給食が日新館か忠愛小学校かは置いておくとして、明治時代後半に入ると、少しずつ全国に給食は広まっていった。だが、それらは各学校が慈善事業として独自に行なっていたもので、制度として定着していたわけではない。</p>

<p>自治体が本格的に取り組むようになったのは、大正8年（1919）からだ。この年、東京府は府直轄の小学校で学校給食を開始している。その4年後に政府が児童の栄養改善のために学校給食を奨励するようになり、各道府県にも給食が普及していった。</p>

<p>当時のメニューとして、ひき肉とサトイモなどの野菜の混ざった五色ごはんと、具沢山の栄養味噌汁が出されたという記録が残されている。</p>

<p>もっとも、この時点でも学校給食はまだ国の制度にはなっていない。国の政策として実施されるようになったのは、昭和7年（1932）からで、この年初めて国庫補助による貧困児童救済のための学校給食が全国的に実施された。以後、給食を提供する対象は貧困児童だけでなく、栄養不良児、身体虚弱児にも拡大。また、内容の充実が図られていった。</p>

<p>そんな昭和初期のメニューは、米飯にホウレン草のホワイト煮と鰆のつけ焼きなど、明治・大正期とは大きく様変わりしている。</p>

<p>しかし、昭和16年（1941）に太平洋戦争が勃発すると、次第に国内の食糧不足が深刻になり、給食の内容も劣化。翌年には、給食がすいとんの味噌汁だけという事態になってしまう。やがては、それすらも維持できなくなり、戦争末期になると給食は中止を余儀なくされた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>アメリカの意向で米食からパン食へ</h2>

<p>昭和20年（1945）に日本は終戦を迎えたが、依然、国内の食糧難は続いており、子どもたちの栄養状態の悪化も深刻だった。それを救ったのが、アメリカ在住の日系人である浅野七之助の尽力で実現した、日本向け援助物資のララ物資だ。</p>

<p>このララ物資には衣類や薬品なども含まれていたが、その多くは食料品で、これを基に日本の給食は再開される運びとなる。</p>

<p>昭和21年（1946）12月24日に物資の贈呈式が都内の小学校で行なわれ、これが現在も毎年1月24日から30日まで学校給食の意義や役割についての関心を高めるために実施されている「学校給食週間」の起源だ。</p>

<p>こうして子どもたちの飢餓は回避されることとなったが、当時の給食を食べた世代が口を揃えていうのが、給食に出た脱脂粉乳はまずかった、ということである。ララ物資のなかに大量にあった脱脂粉乳は、牛乳から脂肪分を取り除いて粉末状にしたもので、お湯で溶いて飲む。</p>

<p>スキムミルクとも呼ばれる脱脂粉乳は、栄養価が高いのに低カロリーであることから現代では美容食品として人気だが、そのころの日本人の口にあうものではなかった。しかも、食糧不足のなかで最低限の栄養を確保することが優先されたため、戦後再開された当初の給食はトマトシチューと脱脂粉乳のみといった奇妙な組み合わせのものも多かった。</p>

<p>戦後の給食において脱脂粉乳と並ぶ大きなトピックが、米食からパン食への転換だろう。昭和25年（1950）にアメリカから寄贈された小麦粉により、パンを主食とした完全給食が実施されることとなった。完全給食とは、主食（パンや米飯）、ミルク（牛乳や脱脂粉乳）、おかずの組み合わせによる、栄養バランスのいい給食のことである。</p>

<p>その結果、コッペパン、ミルク（脱脂粉乳）、コロッケ、ポタージュスープ、千切りキャベツといった、いま出されても違和感のない給食が出るようになった。余談だが、コッペパンのコッペとはフランス語の「切られた」が語源ともされているが、日本で独自に誕生したパンで、その名称も和製英語だ。</p>

<p>ところで、この米食からパン食への転換には戦勝国であるアメリカの意向が強く働いており、その裏には自国の余剰小麦を処分する狙いがあったという説がある。その真偽はともかく、将来的には日本を小麦の市場にしたいという意図がアメリカにあったことは確かだ。事実、給食を通してパンに馴染んだ戦後の日本では、米の消費量が減り続けた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>多様化する現代の学校給食</h2>

<p>昭和29年（1954）に「学校給食法」が制定されたことで、地方自治体でも児童への完全給食が提供されるようになり、ようやく学校給食は全国共通のものとなった。</p>

<p>当時のメニューで子どもたちに人気だったのが、鯨の竜田揚げだ。低カロリーで高タンパクながら安価だった鯨肉は、給食に使いやすく、鯨肉を使ったメニューは昭和後期までポピュラーなものだった。</p>

<p>高度経済成長期を経て日本が豊かになった1960年代ごろから、脱脂粉乳が牛乳に変わり、またコッペパンだけだったパンは、揚げパンなどの調理パンも提供されるようになっていった。そして、昭和40年（1965）に、ソフト麺が登場する。</p>

<p>袋から出した麺をミートソースやあんかけなどと絡めて食べるこのソフト麺は、正式名称をソフト・スパゲティ式麺といい、登場以来、長いあいだ子どもたちに人気のメニューだった。だが、残念ながら近年は給食から姿を消しつつある。</p>

<p>ソフト麺が衰退した一因とも言われているのが、昭和51年（1976）から給食に導入されることになった米飯だ。先に紹介したように、戦後の日本の給食はアメリカの占領政策によってパン食となったが、米余りの解消と日本の食文化を教育する目的から、米飯が復活したのである。</p>

<p>これに伴い、カレーライスなどが人気の給食メニューとなった。ちなみに、米飯の提供は、当初は月に数回程度だったが、2000年代以降は週に3回程度に増えている。</p>

<p>年号が昭和から平成に変わったころから、給食のメニューはさらに多様化するようになった。イタリア料理、フランス料理といった国際色豊かなメニューや、各地域でその土地の郷土料理なども取れ入れられるようになったのである。また、地産地消の観点から、地元の食材を取り入れる学校も増えている。</p>

<p>例えば、沖縄県なら伝統的な琉球料理のひとつ「イナムドゥチ」という、豚肉を使った汁物、北海道なら「幻のたまねぎ」と呼ばれる「札幌黄」を使ったかき揚げ丼などが給食のメニューとなっているのだ。昭和に子ども時代を過ごした人にとっては信じられないだろう。</p>

<p>＊　　　　　＊　　　　　＊</p>

<p>──ここまで、駆け足で日本の給食の歴史を振り返ってきたが、給食が好きだった人も、嫌いだった人も、どこか懐かしさを覚えたのではないだろうか。</p>

<p>実際、昭和の給食を再現したメニューを出すホテルが人気を博すなど、給食とは大人のノスタルジーを刺激するものでもある。「同じ釜の飯を食う」という言葉があるが、子ども時代、何年間もクラスのみんなで同じ食事をするというのは、忘れがたい経験であることは間違いない。</p>

<p>最後にひとつ忘れてはいけないのが、近年、貧富の格差の拡大により、「給食だけが唯一のまともな食事」である子どもが増加しているということだ。先にも触れたように、子どもを飢えさせないためというのが、そもそも学校給食が始まった理由である。メニューは変わっても、給食の一番大切な役割は変わっていない。これからも、給食という制度は守り続けていく必要があるだろう。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_kyusyoku.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 31 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>クレオパトラと香油、織田信長の蘭奢待...あの人物が嗅いでいた「香りの正体」とは？  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12003</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012003</guid>
			<description><![CDATA[クレオパトラ、織田信長…歴史上の「あの人」が嗅いでいた「匂い」の正体とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="デンデラのハトホル神殿　クレオパトラ7世のレリーフ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_Cleopatra.jpg" width="1200" /></p>

<p>記憶や感情に直結しやすいといわれている人間の嗅覚。「香り」や「匂い」は、絵や文字と違い、そのまま後世まで伝わっているものは稀ですが、昔の人たちも、何らかの匂いを感じながら暮らしていたはず。人々は「香り」とどのようにつき合ってきたのでしょうか。そして、歴史上の「あの人」が嗅いでいた「匂い」の正体とは&hellip;&hellip;。</p>

<p>「匂い」を感じる嗅覚は、多くの生き物にとって、視覚や聴覚といった他の感覚と同じように、食べられるものを判別したり、自分を捕食しようとする敵を察知したりする役割をもっている。また、繁殖相手となる異性を見つけるためにも使われている。</p>

<p>つまり、嗅覚は生き物が生存していくための大切な武器なのである。それは本来、人間にとっても同じであった。</p>

<p>だが、しだいに人間は嗅覚を生きるためだけでなく、日々の生活を楽しむためにも使うようになり、「香り」の文化を発展させていった。ここでは、そんな「香り」と「匂い」の世界史を見ていきたい。</p>

<p>【奈落一騎（ならくいっき／文筆業 ）】 歴史、宗教、哲学、文芸などを対象に幅広く執筆。 著書に『江戸川乱歩語辞典』『競馬語辞典』『門外漢の仏教』『スーパー名馬伝説』、 グループSKIT名での共著に『元号でたどる日本史』などがある。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2025年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>クレオパトラが愛した香油</h2>

<p>人類がいつから香りを楽しむようになったのかははっきりしていないものの、旧石器時代（約250万年前から約1万年前まで）にはすでに、そうした文化があったと考えられている。</p>

<p>はじめは香りのよい植物をそのまま体にこすりつけていたが、そのうちに人類は、木々や樹脂のなかには加熱すると芳しい香りが増すものがあることを発見した。</p>

<p>香水は英語でperfume、フランス語でpar-fumというが、語源はラテン語のperfumareである。</p>

<p>perは「通して」、fumareは「煙を」という意味だ。このことからも、人類が長いあいだ植物を焚くことで、その香りを楽しんでいたことがよくわかる。</p>

<p>燻蒸による香りの文化は世界中に見られるが、とくに発展したのが古代エジプトを中心とした地中海世界だ。</p>

<p>6000年以上前の古代エジプトの王の墳墓からは、ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属の樹木の樹脂である乳香が、埋葬品として発掘されている。この乳香は、火にくべて利用されていたと推察されている。</p>

<p>やがて、古代エジプトでは香りのよい植物を植物油や動物性脂肪と混ぜ合わせる香油も作られるようになっていった。</p>

<p>その代表的なものが、ムクロジ目カンラン科コンミフォラ属の樹木の樹脂である没薬に、松脂、蜂蜜、干しブドウ、ワインなどを混ぜて作る香油のキフィだ。このキフィも焚くことで香りを強め、利用されていた。</p>

<p>こうした香油は宗教儀式に使われたほか、鎮静薬、鎮痛薬といった医療目的にも使われ、さらに直接皮膚に塗り込むことで、美容や衛生のためにも使われた。</p>

<p>紀元前1世紀の古代エジプトの女王クレオパトラは、ヤギ乳で満たした浴槽に薔薇の花を浮かべて入浴を楽しんだあと、湯上りの肌に香油を塗り込んでいたと伝えられている。</p>

<p>また、香油の香りを偏愛していたクレオパトラは、自身の船の帆に香油をたっぷり染み込ませていたため、遠くからでも女王の船の来訪がわかったという逸話も残されている。</p>

<p>なお、乳香や没薬は古代エジプトのみならず、地中海世界全域で珍重されていた。聖書には、イエス・キリストが誕生した際、祝福に訪れた東方の三博士が贈り物として乳香と没薬をイエスに捧げたと記されている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>織田信長も求めた蘭奢待</h2>

<p><img alt="信長公出陣の像（清洲公園）" height="395" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_odanobunaga.jpg" width="640" /></p>

<p>もちろん、日本にも古くから香りの文化は存在した。</p>

<p>『日本書記』によれば、推古天皇3年（595）に、一抱えもある大きな木が淡路島に漂着し、島民が薪と一緒に竈で焼いたところ、煙から類い稀なるよい香りが漂ってきた。そこで島民たちは、その木を朝廷に献上したという。</p>

<p>これが、日本において香りの文化を伝える、もっとも古い記録である。</p>

<p>こうしたよい香りを放つ木のことを香木というが、このとき漂着したのは、ジンチョウゲ科アクイラリア属やギリノプス属の樹木の「沈香」だとされている。</p>

<p>朝廷に献上された香木は、その後、淡路島にある枯木神社の御神体となり、現在も大切に祀られている。</p>

<p>日本ではこの沈香のほか、ビャクダン科ビャクダン属の樹木である白檀が、香木として歴史的に愛用され続けてきた。また、沈香のなかでも高品質のものは伽羅と呼ばれ、とくに珍重された。</p>

<p>ちなみに、沈香は熱を加えることで香りを発するが、白檀は熱を加えなくても香気を発するという違いがある。ただ、どちらの香木も日本には自生せず、インドや東南アジアから輸入しなければならない高級品だった。</p>

<p>正倉院には長さ156センチメートル、重さ11.6キログラムという巨大な香木の蘭奢待（黄熟香）が宝物として納められている。これは沈香の一種で、鎌倉時代以前に日本に入ってきたと考えられている。</p>

<p>そして、足利義政や織田信長、明治天皇など時の権力者たちが、その貴重な香りを求めて蘭奢待の一部を切り取り、自分のものにしたと記録されている。</p>

<p>余談だが、「栴檀は双葉より芳し」ということわざがある。この栴檀とは、白檀のことだ。意味は、白檀が芽生えたときからすでに芳しい香りを放っているように、のちに大物になるような人物は子どものときから優れた素質を見せるというものである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ハンガリー王女の魔法の水</h2>

<p>現在の香水は基本的には香料をアルコールで溶かして作られるが、そのような香水がヨーロッパで誕生したのは比較的遅く、14世紀以降のことだ。それまでは、香料を植物油や動物性脂肪と混ぜ合わせた、昔ながらの香油が一般的であった。</p>

<p>しかも、香水を作るのに欠かせないアルコール自体は、ヨーロッパではなく、イスラム社会で発明されたものである。</p>

<p>8世紀以降、イスラム社会では錬金術の研究が盛んになり、その過程で化学物質を分離・純化するための蒸留器が発明された。</p>

<p>そして11世紀に、そのような蒸留器を使うことで、イスラム社会では発酵物からアルコールを抽出することに成功したとされている。</p>

<p>その知識と技術が、11世紀末以降に幾度となく繰り返された十字軍の遠征によってヨーロッパに伝えられ、香料をアルコールで溶かす香水が作られるようになっていった。</p>

<p>そうした香水の原形といわれているのが「ハンガリー・ウォーター」だ。これは、シソ科の植物で甘く爽やかな香りが特徴的なローズマリーとアルコールで作られた香水である。</p>

<p>「ハンガリー・ウォーター」の誕生については、次のような逸話が残されている。</p>

<p>14世紀ハンガリーの王女だったエリザベートは70歳過ぎの高齢で、持病のリウマチに悩んでいた。そこで、お抱えの錬金術師に相談したところ、「ハンガリー・ウォーター」の作り方を教えられた。</p>

<p>早速、王女がその液体を作って肌に塗り、さらに内服すると、リウマチが治っただけでなく、顔の皺も消えた。こうして若さと美貌を取り戻した彼女は、その後、年下のポーランド王に求婚され、結ばれたという。</p>

<p>もっとも、「14世紀ハンガリーの王女エリザベート」というのが具体的に誰を指すのかははっきりしておらず、この逸話は後世の創作だともいわれている。</p>

<p>また、「ハンガリー・ウォーター」という名の香水が最初に文献上で確認されるのは、17世紀に入ってからのことだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>貴族が香水を使った切実な理由</h2>

<p>ともあれ、16世紀以降、アルコールをベースとした香水は、ヨーロッパの王侯貴族や裕福な市民のあいだに急速に広まっていった。</p>

<p>だが、その普及の背景には、たんに香りを楽しむという以上の切実な理由もあった。当時のヨーロッパでは入浴の習慣が一般的でなく、何日も入浴しないことで強まる体臭を抑えるために、香水が必要とされたのである。</p>

<p>ただ、ヨーロッパの人々が昔から入浴しなかったわけではない。古代ローマ時代には大規模な公衆浴場があり、キリスト教が普及すると公衆浴場は不道徳なものとして一時期禁止されたこともあったが、11世紀以降、また復活していた。</p>

<p>しかし、14世紀に黒死病（ペスト）が大流行し、西ヨーロッパの総人口の3分の1が死ぬほどの猛威を振るうと、公衆浴場は病気の感染を広げる場として全面的に禁止されることとなった。</p>

<p>そこからさらに、「水や湯を浴びると病気になる」という迷信が広まり、ヨーロッパでは入浴の習慣が廃れてしまったのである。</p>

<p>17世紀のフランス国王で太陽王とも呼ばれたルイ14世などは、生涯に3回、あるいは1回しか入浴しなかったと伝えられている。これでは、体臭を抑えるために香水が必要とされたのも当然だろう。</p>

<p>一応、ルイ14世の名誉のためにつけ加えておくと、彼は不潔な状態を好んでいたわけではない。その証拠に、ルイ14世は日に3度も下着を替えていたという。</p>

<p>香水作りは、はじめイタリアで発展した。だが、1533年にメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスがフランス王家の第二王子で、のちのアンリ2世に嫁ぐ際、お抱えの調香師ルネ・ル・フロランタンをフランス宮廷に連れてきたことで、以後、フランスでも香水作りは盛んになっていった。</p>

<p>とくに、先に名前を挙げたルイ14世は大の香水好きとして名を馳せ、フランスの宮廷では香水が大流行した。</p>

<p>だがルイ14世の時代、宮廷で香水が人気となったのには、体臭を抑えるという以外の理由もあった。</p>

<p>1682年、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建てるが、この城には極端にトイレが少なかった。</p>

<p>そこで、城を訪れた人々は便意や尿意を催すと、豪華な庭園で地面にそのまま用を足すほかなかった。</p>

<p>この時代に登場した婦人用の腰の部分が大きなドレス（バッスルスタイルドレス）は、じつは女性が尻まくりをせずに、その場でしゃがんで用を足すために考案されたものだ。</p>

<p>貴族たちのなかには、召使いに携帯用便器を持たせてヴェルサイユ宮殿を訪れる者もいた。だが、召使いたちは便器に溜まった汚物を宮殿の庭園に捨ててしまっていた。</p>

<p>その結果、ヴェルサイユ宮殿は耐え難い糞尿の匂いに包まれることとなり、それを誤魔化すためにフランスの宮廷では香水が大流行したのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>マリリン・モンローの名言</h2>

<p>こうした経緯がありながらも、しだいに香水は一般の人々にも広まっていき、18世紀に入ると、ヨーロッパの大都市では香水専門店も見られるようになっていった。そして、西洋文化の重要な一部となった。</p>

<p>そんな香水にまつわる伝説的な名言を、20世紀アメリカの女優マリリン・モンローが残している。</p>

<p>1952年、モンローは雑誌の取材で記者から「あなたは、寝るときなにを着ているのですか？」と尋ねられた。すると彼女は、「シャネルの５番だけ」と答えた。</p>

<p>ようするに、香水だけつけて裸で寝ているという意味だ。モンローらしい、色っぽくも機知に富んだ返答といえるだろう。</p>

<p>なお、「シャネルの5番」は、１９２１年にフランスのファション・デザイナーであるココ・シャネルが、自ブランドの商品として初めて発表した香水である。モンローの発言によって、「シャネルの5番」の売上は格段に上がったともいわれている。</p>

<p>ところで、モンローの発言にも見られるように、香水は基本的には直接肌につけて使うものだ。古い時代の香油も肌につけて使われた。こうした香りの楽しみ方は、世界中で普遍的なものである。</p>

<p>だが、日本では歴史的に香料を直に肌につける文化は生まれず、衣服に香を焚きしめたり、部屋に香の香りを漂わせたりといった間接的な楽しみ方をされてきた。これは、日本の香りの文化の特徴といえる。</p>

<p>＊　　　　　　＊　　　　　　＊</p>

<p>「香り」や「匂い」は映像や音と違い、記録に残しづらいものだ。しかし、それゆえ強烈に記憶に残ることがある。</p>

<p>20世紀フランスの作家マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』のなかに、主人公がマドレーヌを紅茶に浸した瞬間、その香りによって幼少期を思い出す場面がある。</p>

<p>そこから、特定の「香り」や「匂い」と結びついた記憶や感情が呼び起こされる現象を、心理学では「プルースト効果」と呼んでいる。</p>

<p>あなたにとって、もっとも思い出深い「香り」や「匂い」はなんだろうか――。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 31 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本人として知っておきたい！ 第一次世界大戦が勃発した真相  宇山卓栄</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12006</link>
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			<description><![CDATA[第一次世界大戦を引き起こした対立の根源とは？ なぜ対戦が勃発した？ 日本と世界の関わりの歴史を解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ヴィルヘルム2世" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_WilhelmIIcoin.jpg" width="1200" /></p>

<p>第一次世界大戦はヨーロッパで勃発したことから、日本人には遠くの国の出来事のようにも思える。しかし実際には、日本が第二次世界大戦に突入していく遠因ともなっていた。この大戦はなぜ起きたのか。世界で紛争が収まらないいまこそ、知っておきたい世界大戦勃発の背景をQ&amp;A形式で解説しよう。</p>

<p>【宇山卓栄（うやまたくえい／著述家）】<br />
昭和50年（1975）、大阪府生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、現在に至る。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説している。著書に『「民族」で読み解く世界史』『世界「民族」全史』など、近刊に共著の『日本人が知らない！世界史の原理』がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q そもそも対立の根源は何だったのか？</h2>

<p>19世紀後半、イギリスはその経済覇権を新興のアメリカやドイツに奪われはじめました。世界の工業生産のシェアにおいて、1880年以降、イギリスはアメリカに1位の座を奪われ、20世紀に入るとドイツにも抜かれていきます。</p>

<p>18世紀から19世紀にかけて、イギリスは産業革命で最も成功した国でしたが、その成功モデルが根強く残り、アメリカやドイツに、産業構造の転換で遅れを取ってしまったのです。</p>

<p>一方、アメリカやドイツでは、国家主導で大規模な工業設備投資が行なわれ、各産業分野に独占的な巨大企業が次々と生まれ、国家経済を力強く牽引していきました。特にドイツでは、1871年のドイツ帝国の成立後、宰相ビスマルクによる各種の産業成長戦略が大胆かつ斬新に打ち出され、高度な経済成長を遂げていきます。</p>

<p>ドイツの産業資本が急速に成長すると、より大きな利益を求め、資本は国外へ向かい、対外的な軋轢を生むようになります。</p>

<p>さらに、1888年に即位したドイツ皇帝のヴィルヘルム2世が、産業資本の勢力に押され、「世界政策」という対外膨張政策を推し進めます。</p>

<p>ドイツの政策は、イギリスとロシアを刺激。また、オーストリアもドイツに倣って強硬化し、ゲルマン人優位を主張するパン・ゲルマン主義を掲げ、バルカン半島へ進出、ロシアとの対立を招きました。</p>

<p>ロシアはドイツとオーストリアに激しい反感を抱き、フランスに接近。1891年、露仏同盟を結び、ドイツと敵対します。</p>

<p>これらをうけ、ドイツ・オーストリア陣営、ロシア・フランス陣営と大きな二つの陣営が現われました。この両陣営の対立が火種となり、第一次世界大戦へと繫がっていくのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q どのようにして、第一次世界大戦は勃発したのか？</h2>

<p>イギリスは19世紀、超大国として世界に君臨し、他国と同盟を結ばず、超然としていました。その状況は「光栄ある孤立」と評されます。</p>

<p>しかし、同世紀末、前述のようにイギリスの覇権に陰りが見えはじめると、もはや超然とした地位を保つことはできず、ドイツ・オーストリア陣営、ロシア・フランス陣営の二大陣営のどちらに付くか、重大な決断を迫られました。</p>

<p>そんなイギリスが「光栄ある孤立」を捨て、最初に組んだ相手は日本でした。1902年、日英同盟が締結されます。日本は1868年、明治維新を成し遂げ、近代化へ邁進していました。イギリスは極東アジアに進出するロシアの動きを封じ込めるため、日本を支援しようとしたのです。</p>

<p>ドイツのヴィルヘルム2世は、こうしたイギリスの動きを歓迎しました。ロシアを警戒するイギリスがドイツの陣営に入ることを期待していたからです。しかし、ヴィルヘルム2世の期待は裏切られることになります。</p>

<p>確かに、イギリスは当初、バルカン半島をめぐる利権闘争である東方問題などでロシアと激しく対立した経緯から、ドイツ支持に傾いていました。また、イギリスに次いで、アジア・アフリカに広大な植民地を有するフランスの脅威もあり、イギリスはドイツと組み、フランスを包囲して、その権益を奪うという構想も描いていました。</p>

<p>しかし、今やドイツの台頭が著しく、ロシアやフランスよりもドイツを脅威とする捉え方がイギリス国内で大勢を占めていました。また1905年、日露戦争でロシアが敗北すると、ロシアへの脅威が薄れ、イギリスは明らかにドイツを敵対視するようになります。</p>

<p>ドイツの対外拡大政策の推進は、イギリスの植民地権益を侵すもので、対立は避けられませんでした。</p>

<p>こうしてイギリスは、ロシア・フランス陣営に接近し、三国協商を完成させ、ドイツを包囲することになり、「イギリス、フランス、ロシア」陣営（のちの連合国）と「ドイツ、オーストリア」陣営（のちの同盟国）が激突へと至るのです。</p>

<p>一方、バルカン半島では、ロシア・セルビアの掲げるパン・スラブ主義と、ドイツ・オーストリアの掲げるパン・ゲルマン主義が激しく対立。こうした緊迫するバルカン情勢は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれます。</p>

<p>1914年、ボスニア州都サラエボで、セルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺しました（サラエボ事件）。これをきっかけに、オーストリアがセルビアに宣戦布告、セルビアの背後にいるロシア、オーストリアの背後にいるドイツも動きはじめ、いよいよ第一次世界大戦の幕開けとなるのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 30 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本人として知っておきたい！ 第一次世界大戦の終結とその後の影響  宇山卓栄</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12005</link>
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			<description><![CDATA[第一次世界大戦はどのようにして終結した？ 世界の歴史にどんな影響を及ぼした？ 日本と世界の関わりの歴史を解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="大西洋中心の世界地図" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_worldmap.jpg" width="1200" /></p>

<p>現在、紛争地域に世界中が注視している。長く続いた戦争はどのようにすれば終わるのだろうか。ここでは、第一次世界大戦の終結と、その後の影響、そして第一次世界大戦の歴史から日本人が学ぶべきことについて、Q&amp;A形式で解説しよう。</p>

<p>【宇山卓栄（うやまたくえい／著述家）】<br />
昭和50年（1975）、大阪府生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、現在に至る。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説している。著書に『「民族」で読み解く世界史』『世界「民族」全史』など、近刊に共著の『日本人が知らない！世界史の原理』がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q 戦争はどのようにして終結したのか？</h2>

<p>第一次世界大戦で、イギリスやフランスは、経済大国となっていたアメリカから巨額の戦費を借り入れました。またアメリカも、イギリスやフランスがドイツよりも優勢と見て、個人・法人、国家に至るまで、進んでイギリスの戦債を買い支えました。</p>

<p>当初、アメリカは経済的な支援を両国にしていたに過ぎず、中立を建前としていましたが、予想以上にアメリカ人による両国への戦債投資が進みました。</p>

<p>その最中の1917年、ロシアで革命が勃発し、ロシア帝国が崩壊。ロシアが混乱に陥り、ドイツに有利な状況となると、アメリカ人は動揺しました。もし、イギリス、フランスが敗北すれば、対米負債の支払いが困難になり、アメリカは大きな経済的ダメージを被ってしまいます。そこでウィルソン大統領は、ドイツの無制限潜水艦作戦に対抗することを口実に参戦するのです。</p>

<p>アメリカの参戦により、大きく戦局が動き、ドイツとオーストリアの敗北が決定。第一次世界大戦は、ロシア、オーストリア、ドイツの三帝国の崩壊によって終結しました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q 第一次世界大戦は、日本と世界の歴史にどんな影響を及ぼしたのか？</h2>

<p>日本は第一次世界大戦で中国の権益を確保し、アジア地域で大きな存在感を発揮しました。ただアメリカやイギリスなどのヨーロッパ列強にとって、日本という新興勢力は目障りとなります。</p>

<p>アメリカのハーディング大統領は1921年、ワシントン会議を開催し、アジア・太平洋地域の戦後秩序を取り決めます。このワシントン会議で、日本は孤立させられ、イギリス、アメリカと対立しはじめます。この孤立こそが、日本が太平洋戦争へと突入し、破滅する出発点となるのです。</p>

<p>また、戦場となったヨーロッパはその力を低下させ、戦場とならず、ヨーロッパに対する債権国となったアメリカが台頭します。</p>

<p>これらの国際情勢の変化とは別に、イギリスの外交が大きな禍根を残すこととなりました。イギリスは大戦中、戦局を有利なものにするために、三つの秘密条約を締結していました。これが、今日まで続く中東問題の原因とされるのです。</p>

<p>第一次世界大戦中、イギリスはドイツやその同盟国オスマン帝国と戦い、苦戦していました。戦争の資金繰りにも苦しみ、ユダヤ人財閥ロスチャイルドに、資金援助を要請。援助と引き換えに、パレスチナの地に、ユダヤ人の国を建国することを約束しました。</p>

<p>この「バルフォア宣言」では、パレスチナにおけるユダヤ人の「national homeナショナルホーム」の建設が言及されています。イギリスの言い分としては、「nation」や「state」とは言っておらず、「居住地」の建設を約束したに過ぎないとされます。ユダヤ人国家建設を約束したものではないというのです。しかも、パレスチナ先住民における権利を確保することが明記されています。</p>

<p>ただ、この言い分はムリがあるでしょう。「national home」の「national」は「国民の」や「国家の」という意味があり、単なる「居住地」を超えた主権性を帯びたものと捉えることができるからです。実際に、ユダヤ人らには、国家建設と捉えられたのです。</p>

<p>またバルフォア宣言に先立つ1915年、イギリスはオスマン帝国に対抗するため、オスマン帝国の支配下にあるアラブ人に接近。アラブ人に戦争協力と引き換えに、アラブ人の国家建設を約束したフサイン・マクマホン協定を締結します。</p>

<p>その一方で、イギリスは翌1916年、大戦後にオスマン帝国の領土を、フランスとともに分割支配することを約束したサイクス・ピコ協定も締結しました。</p>

<p>1915年のフサイン・マクマホン協定、1916年のサイクス・ピコ協定、1917年のバルフォア宣言の三つのイギリスの外交は、その内容に矛盾を抱えているとされ、「三枚舌外交」と呼ばれます。</p>

<p>アラブ人の独立を約束し、一方ではオスマン帝国を分割して手に入れる条約を結び、パレスチナにはユダヤ人国家を認めるなど、互いに両立不可能で、矛盾した内容の秘密条約とされるのです。</p>

<p>しかし、パレスチナに関して言えば、フサイン・マクマホン協定で約束されたアラブ国家の範囲に、同地が含まれるかどうかが問題となります。</p>

<p>一般的な概説書には、パレスチナが含まれると解説されるのですが、必ずしもそうとは言えません。シリアの地中海沿岸部、レバノンなどはフサイン・マクマホン協定でハッキリと含まれていないことが記されており、その続きで、南のパレスチナ地域も含まれていないともいえるのです。</p>

<p>となると、イギリスの言い分として、紅海東岸にアラブ人のためのヒジャーズ王国建国を支援するなど、アラブ人との約束を守りつつ、パレスチナにおいては、先住民における権利を守りながら、ユダヤ人の入植を認めていったのであり、「三枚舌外交」として批難されるべきものではない、ということになります。</p>

<p>また、オスマン帝国領のアラブ地域を英仏が分割したサイクス・ピコ協定では、パレスチナを「国際管理」と定めており、バルフォア宣言とは矛盾するとも言えません。実際に、パレスチナは第一次世界大戦後、イギリスの委任統治領下で、ユダヤ人移民に対して抑制的に運営されていました。</p>

<p>こうして見ると、パレスチナ紛争はイギリスの「三枚舌外交」が遠因であるものの、それ以外の要因もあると言えそうです。ただ、今日のパレスチナ紛争は、第一次世界大戦の国際紛争の拡がりの中で生じた対立であることは間違いありません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q 第一次世界大戦の歴史から、日本人が学ぶべきことは？</h2>

<p>第一次世界大戦は、ヨーロッパ南東部に位置するバルカン半島における対立からはじまりました。当時のヨーロッパ諸国のバルカン半島の利権をめぐる対立を形容して、「バルカンはヨーロッパの火薬庫」と言われました。実際、「火薬庫」に火が付いて、ヨーロッパやアジアに戦火が拡大し、大戦となったのです。</p>

<p>現在、極東において、日本、台湾、中国、北朝鮮、ロシアがせめぎ合う状況を、第一次世界大戦前のバルカン半島に喩え、「極東は世界の火薬庫」と表現されています。世界史的に見ても、これほどの対立と緊張をはらんだ危機的な国際情勢は、他にないと言っても過言ではありません。</p>

<p>日本は北朝鮮や中国という「民主主義ではない国」と隣接しています。北朝鮮は核兵器を保有し、中国は軍備を拡大し、日本にとって、大きな脅威となっています。日本を取り巻く現在の極東情勢は危機的な状況で、ひと度、何らかのバランスが崩れはじめると、軍事衝突が発生してもおかしくありません。</p>

<p>しかし、日本国内は一応、平和であり、その日々の平穏が、目の前に起こっている危機を見えなくさせています。現在、ウクライナ戦争や中東紛争が起こっています。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 30 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本人として知っておきたい！ 第一次世界大戦の経過と日本が参戦した理由  宇山卓栄</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12004</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012004</guid>
			<description><![CDATA[第一次世界大戦はどんな経緯をたどった？ 日本はなぜ参戦した？ 日本と世界の関わりの歴史を解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="井上馨" height="396" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/inouekaworu.jpg" width="640" /><br />
井上馨</p>

<p>1914年に勃発した第一次世界大戦は、主にヨーロッパが戦場となったことから、日本人には遠くの国の出来事のようにも思える。しかし、この大戦には日本も参加し、その後の歴史に大きな影響を及ぼしていた。世界で紛争が収まらないいまこそ、知っておきたい世界大戦と日本のかかわりをQ&amp;A形式で解説しよう。</p>

<p>【宇山卓栄（うやまたくえい／著述家）】<br />
昭和50年（1975）、大阪府生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、現在に至る。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説している。著書に『「民族」で読み解く世界史』『世界「民族」全史』など、近刊に共著の『日本人が知らない！世界史の原理』がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q 第一次世界大戦は主にどのような経過をたどったのか？</h2>

<p>ドイツは、シュリーフェン・プランと呼ばれるロシア方面とフランス方面への両面戦争を展開しますが、予想以上に苦戦を強いられ、フランスとの西部戦線は膠着状態に陥ります。</p>

<p>アジアでは、日本が日英同盟の立場から、ドイツに宣戦布告し、中国及び太平洋のドイツ領を攻撃し、青島などを占領（後述）。</p>

<p>オスマン帝国は、ロシアやロシアが支援するバルカン諸国と対立していたことから、ドイツ・オーストリア側について参戦します。</p>

<p>イタリアは、ドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいましたが、両国には加担しませんでした。南チロルやトリエステといった「未回収のイタリア」をめぐり、オーストリアと対立していたからです。</p>

<p>イギリスは、イタリアにイギリス陣営（連合国側）に立って参戦するよう促します。その見返りとして、「未回収のイタリア」を割譲することを約束。結果、イタリアは1915年、三国同盟を離れ、連合国側に立って参戦しました。</p>

<p>1916年、ドイツは、フランス軍の守るヴェルダン要塞を攻撃（ヴェルダンの戦い）しますが、要塞を落とすことはできませんでした。</p>

<p>対する連合国は北フランスのソンムで、ドイツ軍に総攻撃をかけます（ソンムの戦い）が、勝敗は決まりませんでした。また、このソンムの戦いで、イギリス軍が初めて戦車を使用しています。</p>

<p>第一次世界大戦では、科学技術が応用され、戦車をはじめ、機関銃、飛行機や爆弾投下装置、潜水艦、毒ガスなどの新兵器、電報などの通信情報技術も使われました。</p>

<p>さらに、世界の多くの国々を巻き込みながら、軍人だけでなく、一般国民も戦争に動員され、参戦国が国力を挙げて戦う総力戦となります。</p>

<p>こうした中で、各国が終戦条件などの落とし所を見つけることができず、4年以上の長期に及ぶ戦争となったのです。</p>

<p>戦争に加え、「スペインかぜ」のような疫病も戦地のヨーロッパを中心に蔓延し、莫大な数の死傷者を出しました。主な参戦国の死者数は、ドイツが177万人、オーストリア＝ハンガリーが120万人、イギリスが91万人、フランスが136万人、アメリカが12万人などで、総計852万人を超えました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q 日本はなぜ参戦し、何をしていたのか？</h2>

<p>先述の通り、日本は当時、イギリスと日英同盟を締結していました。イギリスは第一次世界大戦がはじまると、日本に対し、アジア地域のイギリス商船をドイツ東洋艦隊の攻撃から守るように要請しました。大隈重信内閣はこれを承諾します。</p>

<p>しかし日本は、ヨーロッパの戦禍を奇貨として、アジアの支配権を強めようと考えました。維新の元勲・井上馨はこれを、「日本国運の発展に対する大正新時代の天佑（天の助け）」と表現しています。イギリスは日本の野心を危惧し、支援の要請を取り下げようとしましたが、日本は戦闘地域を限定することをイギリスに約束して、イギリスをひとまず安心させました。</p>

<p>ところが、日本はイギリス商船を守るという本来の目的を越えて、アジアにおけるドイツの支配領域を奪い取ろうとしていきます。まず1914年8月、ドイツに対し、中国海域からのドイツ艦隊の撤退と、ドイツが支配権を持っていた膠州湾租借地を中国に還付するために、日本に引き渡すことを勧告し、最後通牒を送り付けました。</p>

<p>しかし、ドイツがこれを黙殺したため、日本はドイツに宣戦布告。膠州湾を封鎖し、青島要塞を包囲します。ドイツ軍はすぐに降服し、青島を明け渡しました。日本は最後通牒で、「青島を中国に返還する」と言ったにもかかわらず、それを中国に還付せず、軍政を敷き、山東省全域を支配します。同時に、マーシャル、マリアナ、パラオ、カロリンのドイツ領太平洋諸島を占領しました。</p>

<p>1917年、第一次世界大戦の真っ最中、激戦がピークに達し、イギリスやフランスが身動きできない状態に陥ります。それを見計らった日本は両国に、中国山東省と太平洋のドイツ権益を日本が継承することを強引に認めさせました。日本はこれらの新しい支配領域をほとんど犠牲を払うことなく、易々と手に入れたのです。</p>

<p>一方、イギリスやフランスは苦戦を強いられ、ヨーロッパ戦線が膠着化していました。イギリスは余力のあった日本に対し、陸軍をヨーロッパに派遣するように要請しました。しかし、日本はこれに応じませんでした。</p>

<p>当時の外相の加藤高明は、「日本軍兵士は国民皆兵の徴兵制に基づき召集されており、国益に直接関与しない外征に参加させることはできない」と説明しました。</p>

<p>アジア地域で、イギリス商船を守るという名目で参戦した日本が、ヨーロッパ地域で苦戦しているイギリス本軍を見捨てたという事実は、イギリスやフランスを怒らせました。</p>

<p>日本はイギリスなどの連合国と良好な外交関係を築いていましたが、大戦後、ドイツの脅威が去ると、アジア・太平洋地域の邪魔者として、孤立させられていくのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 30 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>古代ローマの浴場は「スーパー銭湯」ラテン語さんと訪ねるカラカッラ帝の光と闇  ラテン語さん（ラテン語研究者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13914</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013914</guid>
			<description><![CDATA[Xなどでラテン語のおもしろさを発信しているラテン語さんがローマを訪問。アルジェンターリ門からカラカッラ浴場を訪れます。二つの遺跡から見えてきたカラカッラ帝の人物像とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="アルジェンターリ門に掘られたレリーフ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo06.jpg" width="1200" /><br />
アルジェンターリ門に掘られたレリーフ（撮影：筆者）</p>

<p>ローマの街には、街角の碑文、教会の壁、噴水の銘文など、今も都市の中にラテン語が生き続けているーー高校2年生からラテン語の学習を始め、X（旧Twitter）などでラテン語のおもしろさを発信しているラテン語さん（東京古典学舎研究員）が、ローマを旅しました。バチカン市国を訪れたあと、アルジェンターリ門からカラカッラ浴場へ。レリーフの「不自然な空白」が語るものとは？ローマの浴場「テルマエ」の姿とは？遺跡からカラカッラ帝の人物像に迫ります。</p>

<p>※本稿は、『今に生きるラテン語を求めて　「永遠の都」ローマ滞在記』（ラテン語さん著）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>妻と義父、弟を「いなかったこと」に</h2>

<p>ローマの探検はまだ終わらない。サン・ピエトロ大聖堂からMUSEO della FORMA URBIS（フォルマ・ウルビス博物館）を訪ねたあと、チルコ・マッシモ（「大競技場」（ラテン語でCircus Maximus）という意味の遺跡）の横を散歩する。脇道に入って少し歩くと、見えてきたのがアルジェンターリ門（Arco degli Argentari）だ。アルジェンターリとは「両替商たち」という意味で、彼らと牛商人がこの門をセプティミウス・セウェールス帝、その妻ユーリア、息子であるカラカッラ（兄）とゲタ（弟）などにささげた。</p>

<p>この門に彫られたレリーフを見ると、門の左半分にあるものにも右半分にあるものにも、不自然な空白がある。左半分には現在カラカッラのレリーフしか確認できないが、完成当初はカラカッラの妻フルウィア・プラウティッラと彼女の父プーブリウス・フルウィウス・プラウティアーヌスの姿があり、右半分にはカラカッラの弟ゲタのレリーフがあった。</p>

<p>では、なぜ現在それが消されているのか？ そこにはカラカッラの凶暴さが関係している。カラカッラは妻を嫌悪しており、義父もろとも殺害した。加えて、自身の父セプティミウス・セウェールス帝の死後弟のゲタと共同で皇帝となるが、仲が悪い弟も暗殺させ、自分一人が皇帝になった。そして、妻と義父、弟ゲタがいなかったことにするため、レリーフから消させたのである。フォロ・ロマーノにあるセプティミウス・セウェールス帝の凱旋門に書かれた碑文からも、ゲタの名前が消されて別の言葉が刻み直された跡がある。</p>

<p>このように、ある人の記録などを抹消する行為をラテン語でdamnatio memoriae（記憶の断罪＝ダムナーティオー・メモリアエ）と言う。皇帝の権力の強大さをありありと感じる場所、それがアルジェンターリ門である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「銭湯の富士山」に通ずる心意気</h2>

<p>このあとは、そのカラカッラ帝が建造したカラカッラ浴場を見学する。アルジェンターリ門でカラカッラの権力を闇の部分を見たが、今度はその皇帝による市民へのサービスを見てみよう。ということで、アルジェンターリ門からタクシーで10分もしない場所にあるカラカッラ浴場に向かう。</p>

<p>高校世界史の授業で、ローマの浴場（テルマエ）として先生がカラカッラ浴場を紹介していたことを覚えており、浴場の遺跡に行くならここと決めていたのだ。バチカン美術館でこの浴場にある図書室の床のタイルを見た記憶も新しいうちに、車は入口付近に着いた。</p>

<p>敷地の中に入ると、その広さに驚いた。入口から伸びる通路は200ｍあり、突き当たりを左に曲がるとまた250ｍ通路が伸びている。当時の浴場はもっと広く、およそ幅330ｍ、奥行き330ｍほどであった。</p>

<p>カラカッラ浴場などの古代ローマの大浴場は、銭湯というよりもスーパー銭湯のようなものであった。温水の浴室（カルダーリウム）だけでなく、ぬるめのお湯に浸かれるテピダーリウム、水風呂があるフリーギダーリウム、水泳用のプール、サウナ室なども存在した。さらに図書室や格闘技の練習場などもあった。地下では奴隷たちが火を焚いて水を沸かしていた。この時に出た熱い空気を建物の床下に流し、床暖房としていた。</p>

<p>浴槽に使う水は、紀元前2世紀に作られたマルキア水道から分岐させてカラカッラ帝がこの浴場のために引いたアントーニーニアーナ水道から供給されていた。このような浴場が無料で市民に提供されていた、ということが驚きである。</p>

<p>現在は浴場の建物が全て残っているわけではないが、残っている部分を歩くだけでも建物の大きさは容易に想像できた。さらに、床面の幾何学模様や怪物に乗る愛の神などのモザイク画などもこの遺跡で見ることができる。</p>

<p>テルマエは装飾にもこだわっていた。この浴場の敷地から発掘された雄牛やヘーラクレースの彫刻、現在はバチカン美術館で展示されているアスリートたちのモザイク画からも、見た目の美しさも重視されていたことが分かる（日本の銭湯で、浴室に富士山を描くのと似たような心を感じた）。無料で使える施設でも、市民を楽しませようとするカラカッラ帝の心意気が感じ取れる。このような豪華な浴場を提供して、市民からの人気を勝ち取っていたのだろう。今日はバチカンの豪華さと、カラカッラ帝の光の面と闇の面を見た一日であった。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo06.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 27 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[ラテン語さん（ラテン語研究者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>豊臣秀長が築いた城とも関わる、大和郡山名産の金魚  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14043</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014043</guid>
			<description><![CDATA[豊臣秀長が居城を築き、城下町を整えた大和郡山。その名産は金魚だ。なぜこの地で金魚の養殖が盛んなのか。大和郡山ならではの工夫とは？現在に至るまでの金魚養殖の歴史をたどる。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="史跡郡山城跡" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260325yamatokooriyamajyo.jpg" width="1200" />写真：史跡郡山城跡〔写真提供：大和郡山市〕。桜の名所でもあって、花の時期に「大和郡山お城まつり」が行なわれる。令和8年は3月24日（火）から4月7日（火）の開催。29日（日）に時代行列などが実施されるほか、28日（土）には金魚品評会も開催</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>天下人となった豊臣秀吉のもと、弟の秀長が大和・紀伊・和泉の三国を治める居城を築き、城下町を整えた大和郡山。現在も秀長時代の天守石垣や、箱本十三町（はこもとじゅうさんちょう）といわれた城下町の面影が残る。今年は大河ドラマの主人公がこの二人であることから、市内に「豊臣兄弟！大和郡山 大河ドラマ館」を設けるなど、「秀長さんプロジェクト」が進められている。</p>

<p>この大和郡山市の名産としてよく知られるのが、金魚である。例年、夏のニュースで紹介される全国金魚すくい選手権大会を開催するなど、金魚関係で注目されるイベントや施設も市内に多く、話題に事欠かない。金魚の育成が地域に根付いた、その起源をたどると、郡山城の殿様との深い関係が見えてくる。金魚の生産の歴史と、大和郡山ならではのその展開を探ってみた。</p>

<p>【兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【（編者）歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>王侯貴族の愛玩魚から庶民の暮らしの近くに</h2>

<p>金魚のもととなった魚は、フナ（鮒）である。フナは色素変異によって、しばしば赤いフナが出現する。これをヒブナ（緋鮒）という。そのヒブナをさらに品種改良して赤い色を定着させるなどした魚が金魚である。金魚は遺伝的変異を起こしやすく、多様な体形・体色・模様のものが育成されるが、生物学的な種は同じなのだという。</p>

<p>いち早く飼育されるようになったのは中国で、6世紀以前のことと見られる。10世紀後半から養魚が進んで品種も増加。皇帝や皇族・貴族が愛玩する贅沢（ぜいたく）品であった。</p>

<p>江戸時代の寛延元年（1748）に初版が発刊された、泉州堺の人・安達喜之が著した金魚飼育案内書『金魚養玩草（そだてぐさ）』によると、我が国への金魚伝来は、室町時代の文亀2年（1502）、明国から堺にもたらされたという。</p>

<p>近世前期までは希少で高価な観賞魚であったが、この本が出版された江戸中期には養殖が進み、庶民にも金魚の飼育が広まり、金魚売りの業態も成立。ガラスを使った金魚鉢などの専用の凝った調度も作られるようになる。</p>

<p>浮世絵・日本画の題材としてもよく取り上げられた。特に幕末から開国のころには、金魚ブームといえる状況であったらしく、長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が泳ぐ様子に、来訪した外国人も感心している。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>新城主の柳澤氏とともに伝えられ、歴代藩主が養魚を奨励</h2>

<p><img alt="大和郡山名産の金魚「ワキン」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260325kingyo.jpg" width="1200" />写真：大和郡山名産の金魚「ワキン」。撮影時は、出荷のオフシーズンで少し大きく育ち、春に産卵して親になる金魚である</p>

<p>大和郡山に金魚が伝えられたのは享保9年（1724）、柳澤吉里（やなぎさわよしさと）が新城主として甲府から郡山に移封された際のこととされる。吉里とは、5代将軍徳川綱吉（つなよし）に側用人（そばようにん）として重用され、元禄期に大老格として幕政を主導した柳澤吉保（よしやす）の子である。以後、柳澤家が6代にわたって、明治の廃藩置県まで城主を務めることになる。</p>

<p>柳澤吉里に従って郡山に入った家臣に、横田又兵衛という者がいて、金魚を持ち来たったという。郡山入部後、藩士の間に金魚の飼育が広がり、当初は趣味的なものであったようだが、のちに収入を得る藩士の内職となり、安永2年（1773）に家督を継いだ3代藩主柳澤保光（やすみつ）が、地域産業として援助するところとなる。</p>

<p>大和郡山市、東京都江戸川区と並んで、「弥富（やとみ）金魚」の産地・愛知県弥富市が、3大金魚産地に数えられる。その弥富の金魚養殖の発端について次のような伝えがある。</p>

<p>幕末の文久年間（1861-1864）に、熱田に向かう郡山の金魚商人が、前ヶ須（まえがす・現在の弥富市）の宿場に滞在し、池を造って金魚を休ませた。地元で寺子屋を営む権十郎という者がこれを見て、ぜひにと金魚を購入し、飼育を始めた。のちに産卵や孵化（ふか）の方法なども郡山の商人から教わり、本格的な養殖が行なわれるようになったという。大和郡山の金魚販売の広がりがうかがえる話でもある。</p>

<p>明治を迎えて廃藩となると、大和郡山の旧藩士にとって金魚養殖は一層、重要な収入源となった。砲術家として幕末の戦いにも参加した藩士・小松春鄰（はるちか）は、廃藩後、金魚の養殖を事業とし、明治12年（1879）には錦鱗（きんりん）社を立ち上げ、郡山城の外堀や付近の村々に養魚池を広げて増産を図る。また、農家に飼育法を伝授し、副業として金魚の養殖を勧めた。</p>

<p>金魚の販路拡大にも、春鄰は取り組んだ。新聞広告などで郡山の金魚の知名度を高めるとともに、金魚運搬用に重ね桶（おけ）を導入して鉄道輸送を始め、北陸や東京へ進出したのも彼であった。</p>

<p>一方、明治20年（1887）、最後の郡山藩主であった柳澤保申（やすのぶ）は、旧藩士のために柳澤養魚研究場を設立して金魚養殖の発展を支援。跡を継いだ娘婿の柳澤保恵（やすとし）も、明治33年（1900）、郡山城跡に柳澤養魚場を設立し、品種改良や販売を促進した。6年間のヨーロッパ留学経験を持ち、第一生命保険初代社長や貴族院議員を務めた保恵は、日本の金魚を広く海外へ輸出して国益を上げたかったと思いを記している。明治37年（1904）には郡山城内で品評会を開催し、自身も金魚を出品。この金魚品評会は現在も100回を超えて継続している。</p>

<p>そうした人々の尽力をもとに、大和郡山の金魚生産量は増大し、昭和8年（1933）には年間2000万尾を超え、戦前の最盛期には全国の金魚の6割を生産するまでに至った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦後に量産が始まった小さな金魚</h2>

<p><img alt="養魚場で金魚を見せてくれる幸田さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260325youshokujyo.jpg" width="1200" />写真：養魚場で金魚を見せてくれる幸田さん。この水槽だけで約1万匹とか。この養魚場は産卵と孵化に使い、その後に溜（た）め池に移して育成している</p>

<p>「郡山城主だった柳澤氏には、金魚を持ってきて、地場産業としての基礎を築いていただいたということで、格別な崇敬があります」と語るのは、金魚養殖を始めて5代目という「幸田養魚場」代表の幸田正さん。「金魚の養殖を本業として、本格的に始めたのは祖父の代からで、戦後になります。養殖の規模が大きくなっていったのも戦後以降で、お祭りなどの催し物が増え、金魚すくい用などの需要が増えたことが要因です」。</p>

<p>太平洋戦争時に落ち込んだ金魚産業だったが、昭和30年代から大和郡山市内の金魚池が復活し始め、昭和43年（1968）ごろには戦前と同程度の生産量まで回復した。その復興を支えたのが、金魚すくいの需要で、もっとも原種に近いワキン（和金）、それも生まれて1年以内のコアカ（小赤）と呼ばれる小さい金魚への大量の注文を呼び起こし、幸田さんいわく、作れば作るだけ売れる時代となった。</p>

<p>現在も、大和郡山での金魚生産の中心は、そうした小さなワキンが占めている。その背景には、この地域ならではの養殖環境がある。</p>

<p>「リュウキンやランチュウといった観賞用の金魚の場合は、大きく育てながら形や色の良いものを選別していく手間が必要ですが、小さなワキンということでは、大きさをそろえる程度でそうした手間は不要ということはあります。ただし、育てる金魚が大量で、それが可能だったのは、大和郡山には金魚を育てることができる溜め池が数多くあったということがあります」。</p>

<p>大和郡山市が位置する奈良盆地は年間降雨量が少なく、古代から多くの農業用溜め池が設けられた。それが養魚池に利用されて金魚産業を支えてきた部分は大きい。特に戦後の大量生産は溜め池なしでは成り立たなかったと思われる。</p>

<p>溜め池の水づくりには、気を遣うと幸田さんはいう。まず、有機肥料を投入して、金魚の餌となる動物プランクトン「ミジンコ」を発生させる。そこに幼魚を入れると、やがてミジンコを食べ尽くす。そうするとミジンコが餌としていた植物プランクトンが増加して、水は緑色の「青水」へと変わっていく。この青水が必需なのだという。</p>

<p>金魚は、飼うスペース内の密集度によって大きさが変わる。出荷に適したコアカの大きさを維持するためには、池の大きさごとにそれなりの数を入れなければならない。しかし、数が多いと水中の酸素が不足しやすく、金魚が死んでしまう。そうさせないために、光合成で酸素を供給する植物プランクトンが水中に不可欠なのである。金魚が病気にもなりにくいともいう。</p>

<p>大きさがさまざまな溜め池にどれくらい幼魚を入れるか、また、池によっては青水になりにくいといったこともあり、そのための肥料を調整するなど、経験をもとに対応していると幸田さん。「それでも何らかの理由で金魚が減り、池に見に行ったときに大きくなってしまっていると、ああ、失敗だと思うこともあります」。</p>

<p>産卵と孵化においても、大和郡山ならではの工夫がある。金魚の産卵においては、金魚が卵を産み付ける「産卵藻」を必要とするが、大和郡山の養殖業者のほとんどは、周辺の山で産する羊歯（しだ）植物のヒカゲノカズラ（日陰蔓）を使用している。昭和30年代までは、柳の根を乾燥させたものを用いたといい、これが入手しにくくなったことから、ある養殖業者がヒカゲノカズラを産卵藻に使ったところ、採卵に成功。これが地域全体に広がったものである。</p>

<p>柳の根より、むしろヒカゲノカズラのほうが、柔らかくて金魚を傷つけず適しているといい、近年は人工の産卵用素材も登場しているが、利便性・経済性においてかなわない。ただ、近隣の山ではヒカゲノカズラを取り尽くし、幸田さんのところでは、山主と契約して採取してもらっている。</p>

<p>「金魚の産卵は、基本4月ですが、近年の温暖化によって早くなる傾向があります。そうなると具合が悪いこともあって、気温が安定していない時期に孵化すると、急に寒い日が来て稚魚が全滅してしまうこともあるのです。金魚の産卵は年に一度だけなので、そうなると一年が無駄になってしまいます」。苦労することでは、近年は鵜（う）などの鳥が増え、その食害も大きいという。そんななかでも、例年、幸田養魚場では200万匹から300万匹の金魚を出荷している。</p>

<p>「土のせいなのか、水が関係するのか、理由はわからないのですが、毎年、同じ池で金魚を育てると、だんだん育つ量が減っていったり、コイを飼っていた池を翌年に使わせてもらうと、大量に育ったりすることがあります。私が本格的に金魚の養殖に関わってから27年ほどになりますが、何度やってきても、これといった確立された養魚方法はないのです。なんでもその都度、自分の「勘」を頼りにやってきたところがありますね」。金魚という生き物を育むだけに、気候や環境とも向き合う仕事なのである。</p>

<p>「♪赤いべべ着た、かわいい金魚。おめめをさませば、ごちそうするぞ。♪赤い金魚は、あぶくを一つ。昼寝うとうと、夢からさめた」大正8年（1919）発表の童謡『金魚の昼寝』（作詞：鹿島鳴秋・作曲：弘田龍太郎）。金魚は、どこか郷愁を誘う存在でもある。金魚の出荷は6月から夏期がメイン。縁日で金魚すくいを見かけたら、久しぶりにやってみようか。</p>

<p><img alt="郡山城本丸跡にある柳澤神社" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260325yanagisawajinja.jpg" width="1200" /><br />
写真：郡山城本丸跡にある柳澤神社。柳澤家の祖、柳澤吉保を祭神とする。神社前が「お城まつり」での金魚品評会の会場にもなる。近年の大和郡山市では、観賞用の金魚の育成に取り組む人も増えているという</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260325yamatokooriyamajyo.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 26 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>ラテン語学習のきっかけは&quot;夢の国のホテル&quot;　バチカンで出会った「本物の地図」  ラテン語さん（ラテン語研究者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13913</link>
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			<description><![CDATA[ラテン語の魅力を発信しているラテン語さんがバチカン市国を訪問。サン・ピエトロ大聖堂からバチカン美術館へ、「トロイの木馬」で有名な像や、ラテン語さんのルーツとなった地図など、言語研究者の視点で記します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="サン・ピエトロ大聖堂" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo04.jpg" width="1200" />サン・ピエトロ大聖堂（撮影：筆者、以下同）</p>

<p>ローマの街には、街角の碑文、教会の壁、噴水の銘文など、今も都市の中にラテン語が生き続けているーー高校2年生からラテン語の学習を始め、X（旧Twitter）などでラテン語のおもしろさを発信している&quot;ラテン語さん&quot;。彼はどうしてラテン語を学ぶようになったのでしょうか。このたびローマを旅し、サン・ピエトロ大聖堂からバチカン美術館を訪問。「人生を決めた一枚」と出会います。</p>

<p>※本稿は、『今に生きるラテン語を求めて　「永遠の都」ローマ滞在記』（ラテン語さん著）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>エレベーターにもラテン語が</h2>

<p><img alt="サン・ピエトロ大聖堂" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo05.jpg" width="1200" />私の2週間強の滞在で行った国は、イタリアだけではなかった。バチカン市国も訪問したからである。ローマ市内にあるとはいえ、そこはイタリア共和国ではなく、世界最小の独立国である。</p>

<p>ホテルから朝早くに出発し、到着したのはサンタンジェロ橋広場（Piazza di Ponte SantʼAngelo）。ここから、朝のまだ暗い時間に美しくライトアップされたサンタンジェロ城を見ることができる。また、サンタンジェロ橋には10体の天使の彫刻があり、通る人がそれぞれの美しさに見とれて立ち止まりながら渡っている。</p>

<p>サンタンジェロ城からサン・ピエトロ広場まではコンチリアツィオーネ通りが通っており、2025年の聖年に合わせて歩行者専用になったので、快適にバチカンまで歩くことができた。車はというと、新たに建設された地下道を通っている。コンチリアツィオーネ通りをしばらく歩くと、サン・ピエトロ広場とサン・ピエトロ大聖堂が見えてきた。私の著書『世界はラテン語でできている』でサン・ピエトロ大聖堂をとりあげたり、高校時代に読んだ『天使と悪魔』にもこの広場が登場したので、感慨深い瞬間だった。</p>

<p>まずは、バチカン博物館を目指す。開館時間の午前8時のチケットを取っていたため、すでに長くなっている当日券購入列に並ばずに済んだ。入場列に並んでいたら、係員からチケットを見せるように言われ、提示すると「並ぶ列は隣です」と言われた。チケットには入場する列の番号が記されており、事前購入している人でも指定された列に並んで入場しなければならない。ちなみに、ここはもうイタリアではないが、パスポートを見せての出入国手続きなどは必要なかった。</p>

<p>荷物検査を済ませ、無事に中に入ることができた。巨大な美術館なので、なるべく身軽に移動したい。そこで、無料の荷物預かりサービスを利用した。ちなみに、この美術館のイタリア語名はMusei Vaticani、ラテン語名はMusea Vaticana と、どちらも複数形になっている。いくつもある美術館の集合体、それがバチカン美術館だ。入口付近にあるエレベーターには、</p>

<p>FRANCISCVS PONT MAX<br />
ANNO DOM MMXIX<br />
PONTIF VII<br />
教皇フランシスコが2019年、教皇職7 年目に（建造した）。</p>

<p>とラテン語で書かれていた。こんなところにもラテン語を彫るとは、さすがバチカンである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>トロイの木馬を引き入れることに反対したら...</h2>

<p>まず、ピオ・クレメンティーノ美術館を目指した。ここはギリシャ・ローマの彫刻を展示する美術館だ。ここに、有名なラーオコオーン像がある。</p>

<p>トロイアとギリシャが戦争をしていた際、ギリシャ軍はある計略を使った。トロイアの城壁を攻略して中に攻め入るにはどうすればいいか。そこで彼らは、中空の巨大な木馬を作製し、腹の中に兵士たちを詰め込んだ。その木馬を、トロイアに戦利品として与える。だまされたトロイアは、その木馬を中に入れてしまう。夜更けに兵士たちが中から出て、城門を開け、さらに多くの兵士をトロイアに入れる。トロイアは略奪されるがままになり、大変な損害を被った。</p>

<p>この話は西洋では広く知られており、正体を偽ってコンピュータに侵入してデータの消去や他のコンピュータへの攻撃を行うプログラムも「トロイの木馬」と名付けられた。</p>

<p>そして、このトロイの木馬の計略の話に、ラーオコオーンが関わっている。彼はトロイアの祭司であった。彼は木馬を城内に入れることに反対の立場を取っていたが、2頭の巨大なヘビが現れて彼と彼の息子2人を絞め殺してしまった。これをトロイア人は、ラーオコオーンが木馬を城壁の中に入れることに反対したために罰を受けたと解釈し木馬を引き入れることに決めてしまった。バチカン美術館にある彫刻は、ラーオコオーンと2人の息子にヘビが絡まり、父親が苦悶の表情を浮かべる生々しい様子を描いている。</p>

<p>他にも見た美術品は数多くあるが、詳細に書こうとすると一冊では足りなくなる。私がいちばん感動したのは「地図の間」に飾られている、ある地図である。その上には、タイトルらしきラテン語ITALIA ANTIQVA（古代イタリア）が見られた。これが、私が高校生の時にラテン語学習を始めたきっかけだからである。</p>

<p>とはいっても、当時ここに来たわけではない。ディズニーが大好きな私は、とにかく園内にあるものを調べるのが大好きだった。英語で書かれたポスターを見つけては写真を撮り、それに書かれた文章を、辞書を片手に訳していた。そして、東京ディズニーシー・ホテルミラコスタのロビー階にこのイタリア古代の地図の複製が飾られていた。その地図の左下にある説明書きを読もうとするが、英語ではないようだ。これはどうやらラテン語らしい。というわけで、私はラテン語を勉強しようと決心した。そのきっかけとなった地図の本物に、直接会うことができた。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo04.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 24 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[ラテン語さん（ラテン語研究者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>トレヴィの泉の碑文には何が書いてある？ラテン語さんと巡る、ローマ巡礼都市の記憶  ラテン語さん（ラテン語研究者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13912</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013912</guid>
			<description><![CDATA[Xなどでラテン語のおもしろさを発信しているラテン語さんがローマを訪問。トレヴィの泉から、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂へ向かいます。その道々でラテン語さんの目を引いた言葉とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="スペイン階段付近" height="721" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo02.jpg" width="1200" />スペイン階段付近（撮影：筆者、以下同）</p>

<p>ローマの街には、街角の碑文、教会の壁、噴水の銘文など、今も都市の中にラテン語が生き続けているーー高校2年生からラテン語の学習を始め、X（旧Twitter）などでラテン語のおもしろさを発信している&quot;ラテン語さん&quot;がローマを訪問。街に遺るラテン語からはどんな歴史が見えてくるでしょうか。トレヴィの泉から、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂へ向かう道々で、ラテン語さんの目をひいた言葉とは？</p>

<p>※本稿は、『今に生きるラテン語を求めて　「永遠の都」ローマ滞在記』（ラテン語さん著）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>フランス語が聞こえるスペイン階段上の教会</h2>

<p><img alt="スペイン階段付近にある聖人たちの彫刻" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo03.jpg" width="1200" />スペイン階段付近にある聖人たちの彫刻</p>

<p>ローマに来たからにはぜひ見学したかったトレヴィの泉に向かう。近くまで来たはいいが、とんでもない人の多さだった。水が出てくる建物の上部には、このようなラテン語が書かれている。</p>

<p>CLEMENS XII PONT MAX<br />
AQVAM VIRGINEM<br />
COPIA ET SALVBRITATE COMMENDATAM<br />
CVLTV MAGNIFICO ORNAVIT<br />
ANNO DOMINI MDCCXXXV PONTIF VI<br />
教皇クレメンス12世は1735年、教皇職6年目に、水量豊富で健康によいという点で推賞されていたウィルゴ水道を、素晴らしき装いで飾った。</p>

<p>ウィルゴ水道とは、紀元前19年にできた水道である。トレヴィの泉の近くのナザレーノ通りでは、この水道橋の遺構も確認できる。つまり、古代人がこの水道を引いていなかったら、終端に位置するトレヴィの泉も造られていなかった。</p>

<p>コインを投げるとローマに戻ってくることができる、という言い伝えがあるが、この人の多さで水に近づいてコインを投げようとする気が起きず、「どうせ私はまた戻ってくるだろう」と思い、投げずにその場を後にした。</p>

<p>続いて、スペイン階段に向かった。『ローマの休日』で見たあの階段を、一目見たかった。トレヴィの泉から歩いて9分と、割と近い場所にある。途中で、以前ローマで食事を共にした増永菜生さんにすすめられた「カフェ・グレコ」に行った。ローマに残る最古のカフェである。ゲーテも通ったこのカフェが創業したのは1760年。外観もインテリアも、大変歴史を感じる。歩き疲れていたので、やっと休むことができてほっとした。エスプレッソを飲み体力を回復させ、近くのスペイン階段に歩を進めた。</p>

<p>ここまで来たら、階段でジェラートを食べたくなるが、『ローマの休日』に出てきたのはジョリッティのもので、スペイン階段からは遠かった。というわけで、何も持たずに階段を上る。</p>

<p>ちなみに、この場所はスペイン大使館の近くにあるために「スペイン階段」と名付けられた。階段の上には、映画でも映されたトリニタ・デイ・モンティ教会がある。近くで見ると、壁に大きくラテン語が彫られていた。</p>

<p>S TRINITATI REGVM GALLI&AElig; MVNIFICENTIA<br />
ET PIOR ELEMOSYNIS ADIVTA MINIMOR<br />
SODALITAS STRVXIT AC D D ANNO D MDLXX<br />
フランスの諸王の惜しみなさと、信心深きものたちによる施しの援助を受け、ミニム会の会員たちが1570年に建造し、聖三位一体にささげた。</p>

<p>中に入ると、ちらほらとフランス語が聞こえてきた。ここはフランス王ルイ12世の後援によって建てられたもので、フランス人が多く訪れている。館内の注意書きの看板も、Veuillez respecter le silence MERCI（お静かにお願いします）と、フランス語で書かれていた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「ジルベスター」の由来になった教皇</h2>

<p>思いがけない発見の後は階段を下り、近くのバルベリーニ広場まで歩く。ここにあるトリトーネの噴水は、童話作家になる前のアンデルセンが『即興詩人』という作品の冒頭で言及している。</p>

<p>タクシーに乗って次に目指すは、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂だ。現在の建物は近代に改築されたものだが、この教会の創建は4世紀前半、シルウェステル1世の時代と大変古い。彼が亡くなった12月31日はカトリックにおいてシルウェステルの記念日とされ、彼の名前はドイツ語で大晦日を指すSilvesterの由来にもなっている。日本で大みそかに開催される「ジルベスターコンサート」の「ジルベスター」は、そのドイツ語が使われている。</p>

<p>車が大聖堂に近づいてくると、目印となるオベリスクがだんだんと近くなる。教会のそばで下車し、その外観をながめる。近くにある噴水にはIUBILAEUM MMXXV（聖年2025年）と書かれていた。今年刻まれたラテン語は、あと何年ここに残るのであろうか。</p>

<p>ちなみに、ラテラノ大聖堂の道路をはさんで向かい側には「聖なる階段」がある。イエスが十字架にかけられる前に上ったと伝えられる階段だ。磔刑の場所は現在のエルサレムにあるゴルゴタの丘だが、ローマに移築されたと伝えられているのである。</p>

<p>この階段を、参拝者が膝をついて一段一段上る。歩いて上る信者はいない。当然、進みがゆっくりになるので階段は参拝者で混雑している。観光客は、隣にある階段を歩いて上ることができる。こちらはかなり空いていた。階段を上った先には、教皇の礼拝堂があった。そこには、</p>

<p>NON EST IN TOTO SANCTIOR ORBE LOCVS<br />
全世界において、この地より神聖な場所はない。</p>

<p>と書かれていた。</p>

<p>教会の方に戻ると、ファサード上部に並ぶ聖人たちの彫刻が圧巻である。建物前面の下の方に目をやると、入口付近にこのようなラテン語が目に入った。</p>

<p>SACROS LATERAN ECCLES<br />
OMNIVM VRBIS ET ORBIS<br />
ECCLERIARVM MATER<br />
ET CAPVT<br />
きわめて神聖なラテラノ教会、ローマおよび世界の全ての教会の母であり長</p>

<p>カトリックにおけるこの教会の重要さが分かる碑文である。この教会も「聖なる扉」があり、多くの巡礼者がここを通っていた。</p>

<p>聖堂内に入ると、白を基調とするインテリアがあたたかい雰囲気を演出している。教会の祭壇に近づいていくと、チボリウム（ciborium）という天蓋が目に入った。14世紀にゴシック様式で建てられたものが、現在でも残っている。つまり、これは改築された現在の建物よりも古い。このように、改築前にもともとあったものもちらほら聖堂内に残っている。その後は身廊にある聖堂内の十二使徒の彫刻などを眺めていたら、夕方になってしまった。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo02.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 19 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[ラテン語さん（ラテン語研究者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「あつ森」のあの彫刻の本物も！ラテン語さんと訪ねるカピトリーノ美術館の至宝  ラテン語さん（ラテン語研究者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13911</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013911</guid>
			<description><![CDATA[Xなどでラテン語の魅力を伝え続けているラテン語さんがローマを訪れました。ラテン語さんが「ぜひ本物を見てみたい」と熱望していた彫刻とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="カピトリーノ美術館" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo01.jpg" width="1200" />カピトリーノ美術館（撮影：筆者）</p>

<p>ローマの街には、街角の碑文、教会の壁、噴水の銘文など、今も都市の中にラテン語が生き続けているーー高校2年生からラテン語の学習を始め、X（旧Twitter）などでラテン語のおもしろさを発信しているラテン語さん（東京古典学舎研究員）が、ローマの街から感じた歴史とは？　その新著『今に生きるラテン語を求めて　「永遠の都」ローマ滞在記』では、カピトリーノ美術館を訪れた感慨を綴ります。</p>

<p>※本稿は、『今に生きるラテン語を求めて　「永遠の都」ローマ滞在記』（ラテン語さん著）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>カピトリーノ美術館で感じる古代ローマ</h2>

<p>この美術館の名前は、同館が位置するカピトーリーヌス丘に由来する。古代には、この丘にローマの最高神ユッピテル（ジュピター）の神殿があった。アメリカ合衆国議会議事堂がある丘、あるいはアメリカ合衆国の連邦議会そのものをCapitol Hill と言うが、それは現在議事堂がある丘をトマス・ジェファソンがカピトーリーヌス丘にちなんで名づけたことに由来する。</p>

<p>美術館の前には、ミケランジェロが設計したカンピドリオ広場（Piazza del Campidoglio）が広がり、広場の中心にはマールクス・アウレーリウス・アントーニーヌス帝の騎馬像がある。広場にあるものはレプリカで、オリジナルの騎馬像は館内にある。</p>

<p>館内に入ると、入口付近の中庭にてコーンスタンティーヌス帝の巨像の頭部がいきなり見えた。古代ローマに関する本で、写真でよく見るものだ。自分がローマに来たのだとあらためて気づかされる。</p>

<p>さらに、建物内にはユッピテルの神殿の土台も見ることができる。「&larr; Le fondazioni del Tempio di Giove」（&larr;ユッピテル神殿の土台）という案内板に沿って歩くと、レンガで作られた、建造物の大きな土台が現れた。近代に建てられた建物の中に、古代ローマがたしかに息づいていた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ローマの建国者を育てたオオカミ</h2>

<p>カピトリーノ美術館では、他にも古代ローマを感じられる場所がある。博物館の一棟「セナトーリオ宮」から入ることができるのが、紀元前78年に建てられた公文書館「タブラーリウム」だ。ここからはフォロ・ロマーノという遺跡を一望できる。古代に建てられた建物から古代遺跡を眺めるという、なんとも贅沢な体験ができた。</p>

<p>この博物館に来たからには、「カピトリーノの狼」の本物を見てみたい。2023年の『永遠の都ローマ展』で見たものは複製であり、本物はこの博物館に収蔵されている。この彫刻は、ローマの伝説上の建国者ロームルスとレムスを育てた狼を表現したものだと考えられている。</p>

<p>伝えられるところによれば、アルバ・ロンガの王ヌミトルは、弟であるアムーリウスに王位を簒奪されてしまう。その後、ヌミトルの娘であるレア・シルウィアが双子を生むと、将来自らの王位を脅かしかねない存在としてアムーリウスはこの双子をティベリス川に流すことを命じる。しかし、彼らは奇跡的に助かった。その後、ロームルスとレムスはオオカミに拾われ育てられ、成長した２人はアムーリウスを討ち、それまで幽閉されていた祖父ヌミトルも解放する。</p>

<p>カピトリーノの狼は、双子を育てた雌狼なのだ。この像が作られたのは紀元前5世紀と考えられており、狼の乳を飲む双子の赤子は15世紀以降に付け加えられたものだ。</p>

<p>実は、日本にもこの像のレプリカがある。1938年にイタリアから東京市に寄贈されたもので、日比谷公園で見ることができる。また、ゲーム『あつまれ どうぶつの森』に登場する「ぼせいあふれるちょうこく」のモデルにもなっているので、このゲームを通じて知った人もいるかもしれない。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo01.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 16 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[ラテン語さん（ラテン語研究者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>『豊臣兄弟！』朝倉義景は暗君か？　鶴見辰吾が語る「信長への恐怖と軽蔑」ゆかりの地一乗谷へ  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13853</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013853</guid>
			<description><![CDATA[一乗谷で文化的な都市を築き、繁栄した朝倉氏。しかし 五代義景の時、信長によって滅ぼされます。義景は暗君だったのでしょうか。『豊臣兄弟！』で義景を演じる鶴見辰吾さんがゆかりの地・福井を訪ねます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="一乗谷に再現された「朝倉館」に立つ朝倉義景役の鶴見辰吾さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo1.jpg" width="1200" />一乗谷に再現された「朝倉館」に立つ朝倉義景役の鶴見辰吾さん</p>

<p>戦国大名・朝倉義景は、一乗谷（いちじょうだに。現・福井県）を拠点に「北陸の小京都」を築き上げた人物として知られています。天正元年（1573）一乗谷はいくさによって灰燼に帰しましたが、遺跡からは、義景が北陸に写し取ろうとした美しき都の面影を強く感じることができます。2月中旬、大河ドラマ『豊臣兄弟！』で義景役を熱演する俳優の鶴見辰吾さんが、一乗谷を訪れました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦国時代の先進都市・一乗谷</h2>

<p><img alt="「私がこの時代に生きていたら一乗谷に住みたかったと思うほどの文化レベルの高さですね。当時の住民が1万人という規模感に驚きました」（鶴見さん）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo2.jpg" width="1200" /></p>

<p>「私がこの時代に生きていたら一乗谷に住みたかったと思うほどの文化レベルの高さですね。当時の住民が1万人という規模感に驚きました」（鶴見さん）</p>

<p>鶴見さんが最初に訪れたのは「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館」。当館は、戦国時代の没入感のある空間展示が特徴です。五代当主・朝倉義景が暮らした館（朝倉館）の一部を原寸大で再現しており、室内の意匠や庭園の眺めを当時の視線で体感できます。城下町の全貌を1/30スケールのジオラマでも見ることができます。船着き場である川湊（かわみなと）の遺構が、発掘された当時の石敷きのまま、露出展示されています。</p>

<p><img alt="川湊の遺構展示" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo3.jpg" width="800" />川湊の遺構展示</p>

<p>茶道具や将棋の駒、文房具など、重要文化財を含む170万点におよぶ一乗谷の出土品は、戦国時代のリアルな生活を体感できる重要文化財級の貴重な資料です。義景は単なる地方領主ではなく、傑出した教養人でした。応仁の乱後、朝倉家は戦乱から逃れた公家や僧侶を積極的に受け入れ、彼らがもたらす一流の文化を一乗谷に移植したのです。その結果、荒々しい戦国時代にあって、一乗谷では、都から訪れた客人をもてなす宴が催されました。一乗谷の繁栄ぶりは、もてなしを受けた客人たちが詠んだ歌によって今に伝えられています。</p>

<p>義景が拠点とした越前は、古代から日本海交易の要所であり、肥沃な平野を持つ非常に豊かな国でした。長らく大規模な戦火に巻き込まれなかったため、生活水準がとても高かったと考えられます。街道や河川を通じて国内外から多くの人や物資が往来し、戦国当時、1万ほどの人々が住んでいたと推定されており、道路、井戸、トイレなど生活を支えるインフラ基盤も整っていました。</p>

<p>義景は、一乗谷という独自の文化圏を築き上げた名門・朝倉家の当主であり、彼にとっての一乗谷は、先祖から受け継いだ財産であり、後世に守り継いでいくべきものでした。義景の理想は、力による天下統一よりも、文化の力による平和な理想郷の維持にあったのではないでしょうか。しかし、京都文化を重んじ、名門としての誇りをもつ義景は、新時代の覇者・織田信長との対比で&quot;甘い&quot;と見なされることもあります。なぜ、朝倉家は滅んでしまったのでしょうか。</p>

<p>義景は足利義昭を奉じて上洛する絶好の機会がありながら、越前の安定と一乗谷の繁栄を優先し、動こうとはしませんでした。家臣団との関係についても、朝倉家の軍事力はそれぞれの領地に根ざした国衆の集合体のため、家臣は土地を守ることを最優先し、長期遠征を強いることが困難であったとも考えられています。</p>

<p>一方、信長の土地に対する考え方は、義景と対照的に見えます。信長は清須、小牧山、岐阜、そして安土へと、戦略上の必要性に応じて次々と居城を移しています。また、楽市楽座の奨励に象徴されるように、土地を耕す農業だけでなく、モノを動かす商業も重視していました。</p>

<p>五代にわたって栄えてきた朝倉家からすれば、尾張・美濃を制し、急成長を見せる信長は、一種の成り上がり者にも見えたかもしれません。</p>

<p><img alt="福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館を訪れる鶴見辰吾さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo4.jpg" width="1200" /></p>

<p>「義景は信長に対して得体の知れない者がやってくる恐怖とともにある種の軽蔑のようなものがあったようにも思えますし、そのあたりも意識して演じました」（鶴見さん）</p>

<p>義景が格下と見下している間に、信長は急速に勢力を拡大し、最後には一気呵成に朝倉家を滅ぼしました。義景は、決して無能な暗君ではありませんでしたが、「太平の世の優れた経営者」ではあっても「激動の時代の革命児」にはなれなかったといえます。</p>

<p>名門朝倉家の当主として一乗谷を拠点に栄華を極めた朝倉義景は、信長に追われ、福井県大野市で自刃しました。雪に覆われた「朝倉義景墓所」は、哀しさを包み込むかのように、白く静まり返っていました。</p>

<p>一乗谷と義景墓所を訪ねた鶴見さんは「どうしても来たい場所だったので、当時の人たちのぬくもりのようなものを感じ取れて心が満たされました」と感無量の様子でした。</p>

<p><img alt="朝倉義景の墓所を訪れる鶴見辰吾さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo5.jpg" width="1200" /></p>

<p>「義景という武将は、信長のように領土を拡大するのではなく、理想郷である一乗谷を完成形に近づけたかったのではないかと私は思います。時代が合ってさえいれば、朝倉の文化は日本中に広まったでしょうね」（鶴見さん）</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo1.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 16 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>地元産デラウェアにこだわる「河内ワイン」　工場見学や収穫体験...地域とつながり、世界と結ぶ  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13894</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013894</guid>
			<description><![CDATA[世界的にも注目される日本ワイン。なかでも大阪の「河内ワイン」は、古くから栽培されてきたデラウェアを活かして人気だ。工場見学や収穫体験など、さまざまな取り組みを行っているワイナリーをたずねた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="河内ワイン株式会社の工場内に展示されている、かつてワイン製造に使用された大桶" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260303kawachiwine1.jpg" width="1200" />写真：河内ワイン株式会社の工場内に展示されている、かつてワイン製造に使用された大桶（おけ）。初期のワイン醸造では、日本酒造りの道具やノウハウが用いられたという</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>およそこの半世紀、ワインが日本人の食生活に定着していくなかで、国産ワインへの注目も高まってきた。平成30年（2018）には、酒類行政を管轄する国税庁によって、国産の葡萄（ぶどう）を原料とし、日本国内で醸造されるワインが「日本ワイン」として定義され、国際的に認められる高品質、あるいは、日本の食に適した味わいの追求に拍車がかかっている。</p>

<p>そうしたなかで、国内各地のワインの地域ブランド化も進み、関西においては古くからの産地である大阪・河内地域のワインが、新たな展開を見せている。「河内ワイン」が育まれてきた背景と、そこから生まれた個性を探るとともに、羽曳野（はびきの）市に拠点を置くワイナリーにその現在をたずねた。</p>

<p>【兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【（編者）歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>黒大豆の酵母で醸造されたワイン</h2>

<p>平成28年（2016）、肥後熊本藩主・細川家伝来の美術品・歴史資料を所蔵公開する永青文庫から、ワインに関する興味深い古文書が発見された。豊前小倉城主時代の細川忠利が、家臣の上田太郎右衛門にワイン造りを命じたことを記す文書である。それによると、江戸時代前期の寛永4年（1627）から寛永7年（1630）の毎年、2樽（たる）ほどの葡萄酒を仕込ませて届けさせている。これが、国内最初のワイン製造の記録である。</p>

<p>その葡萄酒は「がらみ」と呼ばれた山葡萄を原料に、黒大豆の酵母を使って醸造したと、製法も示される。太郎右衛門の一族は、初期の南蛮貿易の拠点・平戸で西洋の知識と技術を取得したといい、医療にもあたっていた。太郎右衛門はそうした技量を見込まれ、忠利に抱えられた人物であった。</p>

<p>忠利は、この醸造の前後にも長崎で葡萄酒を買い付けるよう命じており、「甘きがよき候」と指示を添えたりもしている。近世期の葡萄酒は、薬酒と捉えられていて、病気がちだった忠利は、滋養のためにワインを常飲していたのであろう。</p>

<p>元禄10年（1697）に出版された、本草学の書『本朝食鑑（ほんちょうしょくかがみ）』に葡萄酒についての記載があり、製法について、山葡萄の汁を煮立てて冷ましたところに、日本酒と氷砂糖の粉末を加え、封をした甕（かめ）で醸成すると書かれている。江戸時代中期以降の国内で造られる葡萄酒とは、こうした葡萄果汁と酒を混合したリキュールのような混成酒を意味するようになり、本来の醸造によるワイン製造の記録は見られなくなる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>甲斐山梨から河内へ──近世・近代の葡萄栽培とワイン製造事情</h2>

<p><img alt="株式会社河内ワインのワインセラー" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260303kawachiwine2.jpg" width="1200" />写真：株式会社河内ワインのワインセラー。後述する、地元の小学生が収穫した葡萄で造ったワインなどを保管している</p>

<p>日本の山に古来、自生する山葡萄が葡萄酒製造の素材に使われたのも理由がある。実は、江戸時代まで栽培種の葡萄産地は限られており、生産量も多くはなかった。</p>

<p>国内での葡萄の栽培は、12世紀の終わりごろ、鎌倉時代初期に甲斐（かい・現在の山梨県）勝沼で始まった。このときから栽培されてきたのは、日本固有の「甲州」と呼ばれる品種で、山野に自生していた変わった蔓草（つるくさ）を育てたところ、葡萄が実って発見されたと伝わる。江戸時代に入ると栽培が甲府盆地に広がり、特産品として江戸に出荷された。また、山形や京都、そして河内へと移植されていく。</p>

<p>享和元年（1801）発刊の地誌『河内名所図会』に、南河内の中心的都市・富田林（現在の富田林市）が、葡萄の産地として紹介されている。農家の前栽に葡萄棚を設け、初秋の頃に鈴のごとくなった実を市に出したと書かれ、また、葡萄酒も名産と知られたと記す。富田林は酒造も盛んで、この葡萄酒も日本酒との混成酒であったとみられる。天保元年（1830年）頃から、堅下（かたしも）村（現在の柏原市）などの河内地域に栽培が広がり、幕末にかけて自宅の庭で育てる農家が増加していったという。</p>

<p>本格的なワイン製造の進展は、西欧文化の導入と殖産興業が図られた明治時代を迎えてから始まる。明治10年（1877）、葡萄栽培の先駆地・山梨県で行政が主導して葡萄酒醸造所が開設され、製造販売会社も創設された。こののち、北海道札幌、兵庫県播磨などでも葡萄園が設けられ、ワインの製造が試みられる。民間においてもワイン生産への希望を抱いて起業する人たちが現れた。</p>

<p>しかし、ワイン製造のために導入したヨーロッパ種の葡萄の木が、高温多湿の日本では育ちにくく、また、醸造技術も未熟で安定した品質で生産するのが難しかった。さらには、葡萄の木の大敵である葡萄根油虫（ぶどうねあぶらむし・フィロキセラ）の外来によって、葡萄畑が壊滅的ダメージを受けるなど、ワイン生産は困難を極め、事業の撤退が相次いだ。</p>

<p>なにより、まだ洋食が一般的でなかった明治時代において、本格的なワインは広く受け入れられるものではなかった。かろうじて糖分や香辛料などを添加した甘味葡萄酒が、滋養酒として支持を得て、ワイン製造を支えていくことになる。</p>

<p>明治11年（1878）、2年前に南河内の道明寺村（現在の藤井寺市）に開設された葡萄試験園で配布された甲州葡萄の苗木をもとに、堅下村の中野喜平が育成に成功。これを起点に、河内地域での葡萄園による本格的栽培が発達する。明治32年（1899）には、日本の気候でも栽培しやすいアメリカ種を導入。のちに地域の中心的品種となるデラウェア種の栽培も始まった。大正時代に入って間もなく、河内でも葡萄根油虫が発見されるが、耐性がある木を台木に椄ぎ木をするなどの対策も普及していて被害が抑えられている。</p>

<p>大正3年（1914）には、駒ヶ谷村（現在の羽曳野市）でもデラウェアを移植して葡萄栽培が始まる。以後、生駒・金剛山地間の西側にあたる一帯の土壌・気候が葡萄育成に適していたことがあり、栽培面積・収穫量ともに急増。昭和10年（1935）ごろから、河内を中心にした大阪府の葡萄生産高が全国一となる時期が続いた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>歴史あるワイナリーを拠点に、河内ワインのファンを育む</h2>

<p><img alt="「河内ワイン館」で展示紹介されている、かつて使われたボトルやパンフレット" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260303kawachiwine3.jpg" width="1200" /><br />
写真：「河内ワイン館」で展示紹介されている、かつて使われたボトルやパンフレット</p>

<p>葡萄栽培が繁栄するなか、河内でのワイン製造も図られる。そこには地域の事情があった。山麓にある河内の葡萄園は台風による被害を受けることが多く、傷ついて出荷できない葡萄が大量に発生することがしばしばであった。そうした葡萄を活用するために、政府はワインの製造を呼びかけ、醸造免許を発行したのである。堅下村では、大正3年（1914）に地域で最初の醸造所が創業され、3年後にはワインの出荷を開始した。</p>

<p>昭和9年（1934）、京阪神地域を襲った室戸台風は、河内地域の葡萄農家にも甚大な被害を与えた。政府は特例として被災した果実を利用できるよう、すべての葡萄農家に醸造免許を交付。その数は119軒に及んだ。</p>

<p>「そうはいっても、当時の葡萄農家の大半は小規模な家族経営で、醸造免許があってもワインを製造する設備はなく、製造方法も売り方も知らなかったのです。また、ワイン造りは継続することで成り立つ事業でもあって、来年はどうするかわからないということでは、始めることはできません。そんななかで、面白いじゃないか、やってみようという地元の人が何人かいて、その一人がうちの曽祖父の金銅徳一（こくどうとくいち）でした」。そう語るのは、曽祖父が起業した「金徳屋（こんとくや）洋酒醸造元」を前身として引き継ぐ、「株式会社河内ワイン」代表取締役社長の金銅重行（しげゆき）さんである。羽曳野市駒ヶ谷の本社で運営する「河内ワイン館」は、地域の観光スポットとしてよく知られている。</p>

<p>かつての河内ワインは、一升瓶に詰めた素朴なワインとして知られた。金徳屋洋酒醸造元では、創業以来、ワインだけでなく、ブランデー、梅酒なども製造販売。戦後は大手酒類メーカーの製造受託先として事業を拡大したという。</p>

<p>昭和53年（1978）には、河内産葡萄100パーセント使用の自社製造ブランド「河内ワイン」を販売開始。イベントなどにも参加して、地ワインの味と知名度を広げていく。平成8年（1996）には、社名も「河内ワイン」と変更して株式会社に。そして平成9年（1997）、重行さんの父である先代・金銅徳郎氏が「河内ワイン館」を完成させる。自社ワインを直売する、人が集う場を、という思いを込めた施設であった。しかし、不幸なことに徳郎氏はまもなく急逝。当時、重行さんは20歳の大学生であったという。</p>

<p>会社の経営を祖父と母に預けながら、大学を卒業後、酒類の卸会社で3年半勤務して修業したのち、重行さんは平成17年（2005）に、実家の河内ワイン社に入る。そして、15年前に社長となって以来、進めてきたのは、事業の大胆な刷新であった。ブランディングを一から見直し、それまでの販売取引先をすべて取りやめたことも。「河内ワインの古いイメージを変えたいということがありました。それは先代、先々代の思いでもあったと思います。『日本ワイン』が注目されていますが、その代表として河内ワインを期待に応えるものにしたいということでもあります」。</p>

<p>醸造にも関わる金銅社長は、自身が納得できる品質を追求してきた。ヨーロッパ系の葡萄品種も自社圃場（ほじょう）で栽培して製品の幅を広げる一方、地元名産の食用葡萄で、古くからワインの原料ともしてきたデラウェアにこだわる。「現在も栽培している半分以上はデラウェアです。ただし、そこから同じワインを造るのではなくて、甘口、辛口、スパークリングと製法を変えて異なるワインを製造しています。最近は皮ごと原料にしてオレンジワインも造りました」。</p>

<p>金銅社長が事業の基本としてきたのは、生産量が限られる中小規模のワイナリーであることを踏まえ、製品を大手小売店に卸すのではなく、ワイナリーにお客さんに来てもらい、ワインに親しんでもらうことでファンを増やすことであった。そのために力を入れてきたのが、工場見学の企画である。ワインセミナーにテイスティングやランチも組み合わせた団体対象のプランを予約制で受け付けている。「インバウンドの見学者も少なくありません。台湾の方が多く、香港、シンガポール、欧米の方もおられます。なかには、バイヤーとして来られる人もいて、海外の販路にもつながっています」。すでに製品の約15パーセントが輸出されているという。</p>

<p>ワイナリーを訪れて地域の人と文化に触れるという旅のスタイルが、ワイン生産国において1980年代から始まり、すでに定着している。国内の生産地でも地域活性化において着目され、近年、取り組みを進めるところが出てきた。金銅社長の進める事業もその流れに沿う。</p>

<p>河内ワイン社では、法人を対象に葡萄栽培と収穫体験の企画も実施している。育てた葡萄をオリジナルワインに仕上げ、購入してもらうというものである。収穫には家族で来訪する人たちが多いといい、300人ほどが参加。ほとんどがリピーターである。「こうした事業を通じて、葡萄作りやワイン製造への理解を深めてコミュニティを広げていければ」と金銅社長は思いを語る。</p>

<p>ユニークな企画として、地元小学校の6年生を対象に葡萄収穫の体験学習を実施し、収穫した葡萄をワインにして保管。子どもたちが20歳になったときに、初めてのお酒としてプレゼントしている。小学校の校章には葡萄が取り入れられているといい、地域から飛び立つ青年たちに、故郷の産物、歴史文化としてワインの存在を胸に刻んでもらうことを願う。</p>

<p>「この地のワイン造りをどうすれば広く知ってもらえるか。頭を絞ってそのことを考え、新たなことに挑んできました。父が言っていたことで印象に残っているのは、『商いは飽きさせたらあかん』という言葉です。私もその遺伝子を引き継いでいるのかなと思います」。創業して92年。100周年に向けて、金銅社長のチャレンジはまだまだ続きそうである。</p>

<p><img alt="河内ワイン社の製品ラインナップ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260303kawachiwine4.jpg" width="1200" />写真：河内ワイン社の製品ラインナップ。メインになる「金徳葡萄酒」シリーズのラベルには、ワイナリーの東にそびえる二上山が描かれ、各ワインのテイストに相応しい時間帯の風景になっている。シリーズを代表するデラウェアは、若々しく爽やかな味わいにデラウェアがほのかに香る。寿司などの和食にあうワインである。ほか、オーク樽で熟成したクオリティ重視の「KONTOKUYA」、年ごとに自由な発想で挑む「KIEI」などのシリーズがそろう</p>
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						<pubDate>Thu, 05 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
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