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		<title>WEB歴史街道</title>
		<link>https://rekishikaido.php.co.jp/</link>
		<description>歴史に学び、未来を拓く！「WEB歴史街道」は、月刊誌『歴史街道』編集部がお届けするWebメディアです。戦国、幕末、古代史、近現代史など、歴史と人物を現代の視点から読み、楽しむためのコンテンツが満載です。</description>
		<dc:language>ja</dc:language>
				<copyright>Copyright PHP研究所　All rights reserved.</copyright>
		
				<pubDate>Fri, 08 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
						
				<item>
			<title>伊賀忍者の携帯食がルーツ？ 素手ではなかなか割れない日本一固い煎餅「かたやき」がすごい  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14248</link>
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			<description><![CDATA[忍者の故郷としても知られる三重県・伊賀。「天正伊賀の乱」や、銘菓「かたやき」など、忍者とゆかりの深い伊賀の地を訪れ、その歴史をたどってみた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="名張市の南西、黒田の地の山手から中心市街地を望む" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260501iga1.jpg" width="1200" />写真：名張市の南西、黒田の地の山手から中心市街地を望む</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>三重県西部の内陸の地、伊賀。山々に囲まれたその盆地を、古くから人は生活圏とし、近世には、盆地北側は上野城の城下町、南側は名張陣屋のもとでの宿場町として栄えた。現在は、それぞれ伊賀市と名張市の市街地となっている。</p>

<p>伊賀といえば、忍者の故郷としても知られる。その忍者ゆかりの地域の銘菓が「かたやき」である。小麦粉に砂糖を加えて練った生地を鉄板の上で丸く焼き上げた、名の通りの固さで知られる煎餅（せんべい）で、忍者の携帯食が起源といわれる。</p>

<p>特に名張は、忍者の盛衰に深くかかわる場所。その歴史をたどるとともに、この地で営む名店を訪れて、かたやきに寄せる地域の思いを聞いた。</p>

<p>【兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【（編者）歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「隠（なばり）」と記された、忍者の発祥の地</h2>

<p>『日本書紀』や『万葉集』では、名張は「隠」と表記されている。いかにも山々に隠された地という印象だが、三重県内第2位の規模の馬塚古墳を含む美旗古墳群が存在し、古くからの人の集住をうかがわせる。飛鳥や奈良の都から東国へと向かう街道筋にもあたり、古代の駅が置かれたといい、奈良時代に建立された夏見廃寺の遺構を見ることもできる。</p>

<p>平安時代後期、名張に東大寺の荘園である黒田荘（くろだのしょう）が成立。市南部にある極楽寺は、檀家（だんか）の人々が東大寺二月堂修二会「お水取り」で使われる松明（たいまつ）を調進することで知られ、荘園時代からの営為といわれる。もっとも、鎌倉時代に入ると、在地の荘官や地侍が領主化し、寺領の年貢とすべき収穫を略取する者たちが現れる。彼らは「黒田悪党（くろだのあくとう）」と呼ばれた。</p>

<p>立場を変えれば、悪党の出現とは、地域に根付いた人々「国人（こくじん）」の自立を意味する。南北朝時代には黒田悪党は南朝につき、同じく悪党と呼ばれた楠木正成（くすのきまさしげ）とも結んだ。その後も、室町時代を通じて国人たちは勢力を拡大し、伊賀一国を割拠して支配するまでに成長。そして、戦国時代を迎えると、外部からの侵攻に対して一味同心して防戦することを掟書（おきてがき）に定めた。この一国挙げての同盟を「惣国一揆（そうこくいっき）」という。</p>

<p>彼らは戦乱の世を生き抜くために、情報の収集に努め、また、地侍ならではの独特の戦術を発展させた。つまり彼らこそ、のちに忍者と呼ばれる者たちだったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「天正伊賀の乱」忍者の最終決戦の城</h2>

<p><img alt="伊賀忍者たちが立て籠もった「決戦之地柏原城」の碑が立つ勝手神社" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260501iga2.jpg" width="1200" />写真：伊賀忍者たちが立て籠もった「決戦之地柏原城」の碑が立つ勝手神社。実際に柏原（かしはら）城があったのは、近くの小高い山上という</p>

<p>伊賀惣国一揆を脅かす存在が現れる。伊勢国司の北畠具教（きたばたけとものり）を滅ぼして同国を掌握した、織田信長の次男・信雄（のぶかつ）が、隣接する伊賀へと食指を伸ばすのである。天正6年（1578）3月、具教が上野盆地に建設途中であった丸山城を、伊賀支配の拠点とするために、信雄は家老の滝川雄利（かつとし）に完成を命じて築城を開始する。</p>

<p>伊賀方の密偵によると、丸山城は石垣で固めた天守台に三層の天守を備えた本格的な城郭であったといい、危機感を抱いた伊賀衆は、城が完成する前に700名で襲撃。急襲になすすべもなかった滝川雄利は、撤退を余儀なくされた。これが「天正伊賀の乱」の発端となる。</p>

<p>翌天正7年（1579）9月、織田信雄は約1万の兵をもって伊賀国に侵攻を開始。しかし、事前に察知していた伊賀衆は得意とする奇襲を繰り広げ、信雄軍は重臣が討たれるなど甚大な死傷者を出して敗走した。この敗戦を知った信長は激怒したといい、伊賀衆への憎悪をたぎらせた。</p>

<p>他の戦線に一段落をつけた信長は、天正9年（1581年）9月、信雄を総大将に、主力武将たちが率いる5万の兵を配して、伊賀へ六方向から攻め入らせた。伊賀衆は野営地に夜襲をかけ、また、各地で籠城して果敢に戦うが、織田軍は容赦ない殲滅（せんめつ）戦を展開。集落・寺社を焼き払い、子どもや女性などの非戦闘員にも構うことなく、殺戮（さつりく）を遂行した。これによって当時の伊賀の人口9万のうち、3万人余が命を失ったといわれる。</p>

<p>後退する伊賀衆の最後の集結地となったのが、名張南端・赤目口の柏原城であった。激しい攻防が幾度か繰り返されたが、仲介者があり、籠城する兵と民の命の保障を条件に開城することで和議が成って終戦となった。この後、伊賀の指揮官の多くは国を出たという。</p>

<p>しかしながら、時代の転換は早かった。この伊賀の乱の翌年6月、織田信長は京都本能寺で横死する。政権の混乱を見て、国を出た伊賀衆たちは帰還し、地元の仲間と蜂起。柏原城ほか各地の城を奪還して、再び織田方に対決姿勢を示した。ただし、こののちに豊臣政権が成立し、さらに徳川の時代へと移り変わるなかで、伊賀衆は「忍び」として体制に組み込まれていく。特に本能寺の変の際、徳川家康の危機脱出行「神君伊賀越え」を伊賀衆が支えたことで、多くが徳川幕府に召し抱えられて伊賀同心を称することになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>名張の上忍・百地三太夫も食べた「忍菓（にんか）」</h2>

<p><img alt="かたやきを焼く、大屋戸重雄さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260501iga3.jpg" width="1200" />写真：かたやきを焼く、大屋戸重雄さん。専用の道具で平らな円形に整えていく</p>

<p>柏原城の決戦で籠城した伊賀衆のなかに、黒田悪党の末裔（まつえい）といわれ、赤目地域に屋敷を置いた百地丹波（ももちたんば）もいた。実名は正西といい、上級忍者「伊賀三上忍」家の一つ、百地家の当主で、丹波守（たんばのかみ）を称したことからこの通称がある。のちの忍者ものの物語に登場する百地三太夫のモデルでもある。</p>

<p>その百地丹波が持久戦に備えて、柏原城に持ち込んだという、かたやきにまつわる伝承が名張にある。江戸時代にまとめられた忍術の解説書『老談集』や『万川集海』には、忍者が任務中に用いた携帯食・非常食の存在と製法が記されている。「兵糧丸」「飢渇丸」「水渇丸」などといい、漢方薬の成分を取り入れて滋養も図るものであったが、かたやきのように軽く日持ちがする食料があっても不思議ではない。そうしたことから、かたやきは別名「忍菓」とも呼ばれている。</p>

<p>名張市で営業する、かたやきの製造直売店「大屋戸製菓」を訪れて、店主の大屋戸重雄さんに忍者との関わりを尋ねると、「忍者が食べているところを見たことがないので...」と、とぼけて笑う。といっても、店頭ののぼりに忍者が描かれ、知人の手によるという忍者姿のご自身をキャラクター化した絵も店内に飾られていて、やはり忍者とかたやきは切り離せないようである。</p>

<p>大屋戸さんに見せていただいた、昔ながらのかたやきの作り方はシンプルである。小麦粉に砂糖と水を加えて混ぜた生地を一晩寝かす。店によっては山芋を加えるところもあるらしい。これを太さ3センチほどの棒状にまとめ、2.5センチほどの長さに等分に切って熱い鉄板の上に並べ、一つずつ、胡麻（ごま）や青のりを振る。大屋戸製菓では、白黒の胡麻のみを使用。小・中・大の三種の丸い金鏝（かなごて）のような道具を順に使い、生地を鉄板に押し付けて円盤型に形を整え、あとは木の板で押さえながら弱火でじっくりと両面を焼き上げる。</p>

<p>大屋戸製菓では、蛍火のようなガスの火で一枚15分から20分ほどかけて焼いている。中までしっかりと固く焼き、甘さと香ばしさを出すには、これくらいの時間がかかるという。「火を強くして短時間で焼こうとすると、焦げてしまいます。理想は『鹿色』に仕上げることで、気温や湿度、生地の状態に合わせて焼き方を日々調整するのが、難しいところです」。</p>

<p>焼き上がりも固いが、冷めるとさらに固くなる。小さく割って口に入れ、少し柔らかくなってからでないとかみ砕けない。その割ること自体が素手では困難で、もう一つのかたやきの側面を打ち付けて割ったりする。そんな固さでも90歳を超えた高齢のファンもいて、定期的に購入してくれるという。かみ砕くのが無理なときは、お茶などに浸してふやかして食べる方法もある。</p>

<p>「うちでかたやきを製造するようになってから、まだ30年ほど。代々焼いてこられたところもあって、うちは新しいほうです」と、ご主人とともに従事する奥様の美葉さんがお店の経緯を教えてくれる。実はご主人の父が以前から和菓子店を経営し、饅頭（まんじゅう）などを製造していたそう。ご主人も後継ぎとして、大阪心斎橋の和菓子店などで修業。実家に帰って奥様と結婚されたころは、奈良県内の室生寺の門前に出張して、草餅の製造実演販売をしていたのだとか。ちなみに蓬（よもぎ）を生地に練り込んだ草餅も、名張の名物の一つである。</p>

<p>ところが、平成7年（1995）の阪神淡路大震災の影響で、室生寺を訪れる参拝者が激減。ここでの販売をあきらめ、次の事業として着目したのが、幼少の頃から地元のお菓子として親しんできた、かたやきであった。「名張にあった名店にお願いして、修業させてもらったのです」とご主人。「お店に後継がおらず、私に製造を継いでもらおうということでもありました」。そして修業後、実家のお店に戻り、かたやきの製造販売店として再出発したという。</p>

<p>ただ、和菓子職人の性（さが）からか、大屋戸製菓では「あん入りかたやき」というオリジナル商品も製造販売している。自家製のこし餡（あん）を柔らかめの生地で包んだ、かたやきである。「師匠からは、これはかたやきやないといわれましたが、なかなか好評です」。</p>

<p>大屋戸製菓は直売だけでなく、近隣の量販店や、赤目・室生・長谷（はせ）・御杖（みつえ）などの観光地の土産（みやげ）店にも納品している。今年、79歳になる重雄さんにとって、その需要に応えるのが、近年、きつくなってきたという。背景には、後継者不足による製造店の減少もある。「私が修業を始めたときには、名張にまだ5、6軒のお店がありましたが、今は当店を含めて2軒だけになりました」。</p>

<p>そんななかでも、年に2回、地元小学校の給食での提供を実施。体験学習での店舗見学にも協力している。「子どもたちは、かたやきが大好きなのですよ。それでお母さんが買いに来てくれることもあります」と美葉さん。よそに出向く人が、地域の土産として持参してくれることも多いとか。「固い煎餅ということで話題にもなりますし、割るための小さな木槌（きづち）付きのセットもあって、面白いと評判を得ています」。同じかたやきでも、店ごとでまったく味わいが違い、それぞれに固定ファンが付いているともいう。</p>

<p>「私が子どものころは、駄菓子屋さんで焼いて子どもたちに売っているところもありました。地元の人にとって、かたやきはそんな身近で親しみのある、こだわりたい食べ物なのです」と重雄さん。「修業した店は閉店してしまいましたが、おいしかったその味を私も守り続けたいと思っています」。</p>

<p>忍者について、誤解されているところもあるのではと、重雄さんの地元の視点からの意見もお聞きした。「ドラマなどで、黒ずくめの恰好（かっこう）で暗躍するわけですけれど、実際の忍者というのは、普段はただの一般の民衆でした。いざというときには、戦闘に立ち向かうということはあったのでしょうけれど」。そんな地味ながら力を秘めた忍者の存在と、簡素ながら滋味が豊かなかたやきとは、やはりどこかでつながっているように思える。名張で忍者を生み育てた民の文化が、かたやきの一枚にも宿ることを、当地で焼き続けるご夫婦に教えられた。</p>

<p><img alt="写真：大屋戸さんご夫婦。取材を受けながらでも二人で分担して、かたやきを返すタイミングを忘れない。その阿吽（あうん）の呼吸はさすが" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260501iga4.jpg" width="1200" />写真：大屋戸さんご夫婦。取材を受けながらでも二人で分担して、かたやきを返すタイミングを忘れない。その阿吽（あうん）の呼吸はさすが</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260501iga1.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 08 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>家臣を守るため、主君が咄嗟にとった行動　毛利元就と加藤嘉明  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12110</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012110</guid>
			<description><![CDATA[いざ事が起こったとき、家臣への思いが強い主君がとった大胆な行動とは？奈落一騎さんが解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="加藤嘉明の銅像" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/pixta_katoyoshiakira.jpg" width="1200" /></p>

<p>戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。<br />
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。<br />
そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。<br />
今回は、毛利元就と加藤嘉明の胸打つエピソードをご紹介しましょう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家臣の腐りかけた傷口に口を当てた毛利元就</h2>

<p>戦場での献身的な行為は、つねに家臣から主君に向けられるだけとは限らない。その逆のこともある。</p>

<p>中国地方の大名・毛利元就というと、権謀術数を駆使した謀将という印象があるかもしれないが、次のような逸話が残されている。</p>

<p>元就の家臣に、岩木道忠という武将がいた。その道忠があるとき、戦場で敵の矢が左膝に刺さり、重傷を負ってしまった。道忠は陣に担ぎ込まれ、矢は引き抜いたものの、矢尻が骨に突き刺さったまま残り、どうしても取れない。その傷口を見た医者は、「足を切り落とすしかない」と匙を投げた。</p>

<p>すると元就は医者をどかせ、すでに腐りかけていた道忠の傷口に迷うことなく口を当てると、血膿を吸い出しはじめた。吸っては吐き出し、吸っては吐き出しをくり返しているうちに、やがて硬い物が傷口から零れ落ちた。骨に食い込んでいた矢尻が取れたのである。</p>

<p>こうして足を失わずに済んだ道忠は感激のあまり、「あなたのためなら命も惜しくはありません」と元就に誓った。だが、それを聞いた元就は「こんなことぐらいで感激して、命も惜しくないというのは本当の勇者ではない。部下の命を取り留めるために、これしきのことをするのは当たり前のことだ」と笑ったという。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家臣を守るため、自慢の焼物をなかったことにした加藤嘉明</h2>

<p>もうひとつ、戦国時代の心温まる逸話を紹介したい。</p>

<p>加藤嘉明は豊臣秀吉の家臣で、「賤ケ岳七本槍」の1人に数えられている武将だ。その嘉明は南蛮渡来の焼物の蒐集に凝っており、とくに「虫喰南蛮」という10枚1組の小皿が自慢の品であった。</p>

<p>ところがあるとき、嘉明の家臣が誤って「虫喰南蛮」の1枚を割ってしまった。有名な「皿屋敷」の怪談は、家宝の10枚1組の皿の1枚を割ってしまった下女が怒った主人に殺され、幽霊となるという話だが、主君の大切な焼物を損なってしまった嘉明の家臣も手討ちにされることを覚悟したはずだ。</p>

<p>だが、このことを知った嘉明は、残った9枚の皿を持ってこさせると、家臣たちが見ている前ですべて打ち砕いてしまった。そして、周囲が啞然としているなか、次のように語ったと伝えられている。</p>

<p>「残りの皿を割ったのは、決して怒りのあまりしたことではない。皿が残っていると、いつ誰々が粗相して割ったのだと言われ続けることになる。それではその者がかわいそうだ。それゆえ、全部割って、最初からなにもなかったことにしたのだ」</p>

<p>嘉明が言葉だけで「許す」と言っても、皿が残っていれば、割ってしまった家臣はいつまでも残った9枚の皿を見るたびに罪の意識に苛まれることになるし、周囲の者もそのたびに思い出してしまうだろう。</p>

<p>また、嘉明自身も、いまは許す気でいても、いつか残った皿を見たときに「惜しい」と感じ、家臣を恨んでしまうかもしれない。だから、はじめから皿など存在しなかったことにしてしまったのである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_katoyoshiakira.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 07 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>身命を賭して主君を守った家臣たち　毛受勝照と鳥居強右衛門  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12109</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012109</guid>
			<description><![CDATA[主君を守るため、信頼してくれた味方を守るため、まさに命を懸けた家臣の働きを奈落一騎さんが解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="武田勝頼公之像" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/takedakatsuyori.jpg" width="1200" /></p>

<p>戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。<br />
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。<br />
そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。<br />
今回は、主君のために命をなげうった二人の人物をご紹介しましょう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「我は柴田勝家なり」主君の身代わりとなった毛受勝輝（めんじゅかつてる）</h2>

<p>裏切りが常だった戦国時代とはいえ、主君に尽くした家臣も、もちろんいた。そして、その忠節はやはり、死と隣り合わせの戦場で試されるものだ。そういった戦場での忠節の逸話は、いくつも残されている。</p>

<p>毛受勝照は、織田氏の家臣・柴田勝家の近侍を務めていた武将である。天正2年（1574）、長島一向一揆との戦いにおいて勝家軍の馬印が一揆勢に奪われる事態が起こった。馬印は総大将の所在を示すもので、これを敵に奪われることは非常な恥辱とされていた。</p>

<p>憤激した勝家は武門の恥をそそぐべく、単身敵中に乗り込み、馬印を取り戻そうとしたが、それを勝照は押し留めた。そして自ら敵陣に乗り込み、見事、馬印を取り戻して勝家を大いに喜ばせたという。</p>

<p>その後も勝照は勝家に仕え続けたが、天正11年（1583）、「賤ケ岳の戦い」において勝家軍は羽柴秀吉に敗れてしまう。</p>

<p>勝家は討死にを覚悟したが、このときも勝照は死に急ぐ勝家を押し留め、主君の具足を借りて身につけると、勝家の馬印を掲げ、「我は柴田勝家なり」と言い放ちながら包囲する秀吉の大軍に突撃。主君の身代わりとなって敵を引きつけて果敢に奮戦した末、討死にした。</p>

<p>こうして勝照が時間を稼いでくれたおかげで、勝家は本拠の北ノ庄城にまで逃げ延びることができたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「あとしばらくの辛抱です」死を覚悟して叫んだ鳥居強右衛門（とりいすねえもん）</h2>

<p>また別の、戦場での命懸けの忠節の逸話を紹介する。鳥居強右衛門は、出自も前半生もはっきりしていない、ほぼ無名の武将だ。しかし、天正3年（1575）の「長篠の戦い」における決死の行動ただひとつによって、歴史に名前を残した。</p>

<p>強右衛門は、三河国の国衆であった奥平氏に仕えていた。奥平氏は元々、武田氏に従属していたが、武田信玄が亡くなると、徳川家康に寝返る。これに怒った信玄の後継者である武田勝頼は、15,000の大軍で奥平信昌の長篠城を包囲。対する長篠城の守備兵は500人足らずであった。</p>

<p>それでも長篠城はなんとか数日持ちこたえたが、兵糧庫を焼失したこともあり、やがて落城寸前となってしまう。</p>

<p>絶体絶命のなか、唯一の救いの道は家康のいる岡崎城へ援軍要請の使者を出すことだけだった。だが、武田の大軍に包囲されている状況下、城を抜け出して岡崎城まで無事辿り着くのは不可能に近いと思われた。</p>

<p>ここで、その困難な使命に名乗りを上げたのが強右衛門である。強右衛門は夜陰に紛れて長篠城を抜け出すと、武田軍の包囲網を突破して、翌日の昼過ぎには岡崎城に辿り着くことに成功する。このときすでに、岡崎城では長篠城救援のため、織田・徳川連合軍38,000が出発の準備を整えていた。</p>

<p>しかし、救援が来ると知っていれば持ちこたえられるかもしれないが、知らなければ絶望のあまり、いつ降伏してもおかしくない。そこで強右衛門は援軍の報せを一刻も早く味方に伝えるため、周囲が危険だと止めるのを振り切り、単身、着いた足ですぐに長篠城へと引き返した。</p>

<p>ほとんど休みなく走り続けた強右衛門は、翌朝、長篠城の近くまで戻ってくる。当時の長篠城から岡崎城までの距離は片道約65キロメートル、往復にすれば約130キロメートルだ。これを、強右衛門は一日強で走り切ったのである。</p>

<p>太宰治の小説『走れメロス』のなかに、「私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ」という一文があるが、強右衛門の気持ちもまさにそのようなものだっただろう。</p>

<p>だが、長篠城を目前にして強右衛門は武田軍に見つかり、捕まってしまう。取り調べで、織田・徳川連合軍が長篠城の救援に向かっていることを知った勝頼は、敵の援軍が到着する前に城を落とす必要に迫られた。</p>

<p>勝頼は強右衛門に対して、助命と厚遇を餌に、援軍は来ないと噓の報せを長篠城に伝えるよう強要。強右衛門は表向きではそれを承諾して城の前まで引き立てられるが、死を覚悟していた彼は、そこで城に向かって「一両日で援軍が来るから、あとしばらくの辛抱です」と叫んだ。</p>

<p>勝頼は怒り、強右衛門を殺したが後の祭り。強右衛門が捕まる直前に上げた狼煙によって救援到来の情報は長篠城に曖昧ながら伝わっていたが、強右衛門の死を賭した叫びでその確証を得た城主・奥平信昌と守備兵たちの士気は上がり、以後、彼らは2日間城を守り抜いた。</p>

<p>そして、織田・徳川連合軍の到着により、武田軍は敗北を喫したのである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/takedakatsuyori.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 05 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>Ｂ-29への体当たり攻撃　震天制空隊の真実  松田十刻（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12117</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012117</guid>
			<description><![CDATA[太平洋戦争末期、日本本土を襲った大型戦略爆撃機B-29。敢然と立ち向かう日本軍の姿を松田十刻氏が解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sea.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中、日本の本土防空戦における最大の脅威は、アメリカ陸軍の大型戦略爆撃機Ｂ-29「スーパーフォートレス」（超空の要塞）であった。日本軍は、陸海軍ともに特性のある局地戦闘機を繰りだし、壮絶な戦いをくりひろげた。ここでは、Ｂ-29迎撃戦で撃墜王と称される小林照彦（てるひこ）の戦いぶりを通して、本土防空戦の一端を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>生還へ、一縷の望みを託した落下傘</h2>

<p>昭和19年（1944）11月、高松の林飛行場で教官をしていた小林照彦大尉は、帝都防衛を担う第一〇飛行師団麾下の飛行第二四四戦隊長に抜擢され、東京・調布飛行場に着任した。このとき24歳。陸軍の飛行戦隊長としては最年少である。　</p>

<p>小林は昭和15年（1940）、陸軍士官学校を卒業。太平洋戦争緒戦の香港作戦に軽爆撃機で参加。その後、茨城県鉾田の飛行学校で襲撃機（対地攻撃機）を習得。三重県の明野陸軍飛行学校で戦闘機教育を受けた。</p>

<p>着任した二四四戦隊には、日本軍では唯一の液冷エンジンを備えた流線形の戦闘機「飛燕」が配備されている。</p>

<p>小林が着任する直前、同師団の各戦隊4機ずつでＢ-29への体当たり攻撃をする特別攻撃隊が編制されていた。爆弾を抱えての敵艦への特攻と異なり、隊員は一縷の望みを託して落下傘を装着する。</p>

<p>12月3日午後、小林は東京上空において、初めてＢ-29を迎撃した。</p>

<p>飛燕の上昇限度は高度11000メートル。実際には8000メートルで機動力が著しく落ちるため防弾鋼板を外し、機関砲1門につき300発の弾丸を50発に減らしている。防寒のために着用する電熱被服を使うと電圧が下がって射撃できず、無線電話も不具合を起こすため、電熱なしである。蓄電池は重いため積んでいない。身体は凍え、酸素マスクをしていても頭が朦朧となりかける（のちに酸素発生剤を使用）。</p>

<p>それでも、率先空中指揮を信条とする小林は気力を振り絞り、敵編隊の一番機へ突進した。とたんに正面だけでなく、左右後方のＢ-29が機銃弾を浴びせてくる。エンジンに被弾し、飛燕は制御不能となる。前部が火炎に包まれ、機体はみるみる降下。小林は風防をスライドして開けると、主翼右側から宙に飛んだ。開傘索を引くと、傘が勢いよく開く...。</p>

<p>基地にもどると、特別攻撃隊の四宮徹中尉、中野松美伍長、板垣政雄伍長がＢ-29に体当たりしたうえ、生還を果たしていた。</p>

<p>このうち四宮は、爆弾投下中の編隊に突進。右主翼に被弾したが、最後尾機を狙って突っ込み、右主翼外側のエンジンに激突した。搭乗機の左主翼が飛び散り、錐揉み状態で落下したが、幸い途中で機体が安定したことから、片翼飛行で着陸を果たした。</p>

<p>ラジオや新聞各紙は、片翼飛行の四宮中尉を中心に「奇跡の生還」と大々的に報じ、国威発揚につなげた。防衛総司令部総司令官の東久邇稔彦大将により、特別攻撃隊は「震天制空隊（震天隊）」と命名される。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>生還、そしてまた迎撃戦へ</h2>

<p>昭和20年1月27日、小林は甲府上空でＢ-29 14機の編隊を迎撃し、二番機に体当たりした。愛機は大破し、落下するが、小林は必死に操縦席から脱出し、かろうじて落下傘降下して生還した。</p>

<p>2月に入ると、F6FやF4Uなど敵機動部隊の艦上戦闘機が、東京など大都市に大挙来襲してきた。過酷な空中戦の連続で、陸海軍搭乗員の戦死が相次ぐ。</p>

<p>4月に入ると、マリアナ諸島からのＢ-29の大編隊に、硫黄島 （3月下旬陥落）から発進した最新鋭の陸軍戦闘機Ｐ-51ムスタングが随伴するようになった。Ｐ-51は手ごわく、Ｂ-29への接近さえ至難の業となる。</p>

<p>4月12日、小林は戦爆連合で来襲した敵機の迎撃に単機で立ち向かった。東京北方でＢ-29の編隊を捕捉。山梨県の大月付近まで追撃し、1機を撃破する。次の瞬間、護衛のＦ６Ｆの猛射を浴び、機体は火だるまになった。</p>

<p>小林は死に物狂いで機外に飛び出し、落下傘降下。落下傘は松の木にひっかかり、身体は灌木に投げ出された。小林は右足に銃創を負って陸軍病院に入院する。が、数日後には帰隊し、迎撃戦に再び加わった。</p>

<p>5月15日、二四四戦隊に第一総軍司令官・杉山元元帥より感状が授与された。個人感状ではなく部隊感状にしてほしいとの小林の希望による。小林は少佐に進級した。</p>

<p>4月下旬、二四四戦隊に、飛燕のエンジンを液冷から空冷に換装した五式戦闘機が配備されるようになった。</p>

<p>小林にとって辛かったのは、5月から鹿児島県の知覧基地で、沖縄への特攻機の護衛を命じられたことである（海軍の特攻基地は鹿屋、串良など）。この間、4月29日には、片翼生還で勇名を馳せた四宮中尉が第一九振武隊特攻隊員として出撃、戦死している。</p>

<p>小林は、滋賀県の八日市で終戦を迎えた。</p>

<p>震天隊によるＢ-29の撃墜数は73機、撃破数92機（高木晃治、ヘンリー・サカイダ著『Ｂ-29対日本陸軍戦闘機』）。小林の敵機撃墜数は12機といわれる。</p>

<p>戦後、小林は民間会社を経て、航空自衛隊に入隊。第一飛行団第一飛行隊長として教官をしていた昭和32年（1957）6月4日、練習機の墜落事故で殉職した。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 04 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[松田十刻（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>たとえ貧しくても、弱くても、家臣から愛された武将　蒲生氏郷と小田氏治  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12108</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012108</guid>
			<description><![CDATA[十分な恩賞が出せない、大事な合戦にことごとく敗れる、そんな武将がなぜ家臣から愛され続けたのか？奈落一騎さんが解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="戦国武将" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/kamakurabushi.jpg" width="1200" /></p>

<p>戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。<br />
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。<br />
今回は、蒲生氏郷と小田氏治の逸話をご紹介しましょう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>&ldquo;お風呂&rdquo;で家臣の心を鷲づかみした蒲生氏郷</h2>

<p>蒲生氏郷は、はじめ織田信長の家臣であり、その才を見込まれて信長の次女を娶って、数々の合戦で武功を挙げた武将だ。信長の死後は羽柴秀吉に属し、天正12年（1584）の「小牧・長久手の戦い」の功により、伊勢国松ケ島城城主となった。</p>

<p>しかし、そのころの氏郷は金銭面で非常に苦労しており、手柄を立てた家臣に対しても十分な恩賞が出せないほどだった。そこで氏郷は、あるとき功のあった家臣たちを屋敷に招き、酒や料理でもてなしたあと、風呂に入るよう勧めた。</p>

<p>家臣たちが湯船に浸かっていると、外から湯加減を聞く声がする。声に聞き覚えがあったため、家臣たちが湯殿の外を覗いてみると、なんと氏郷が煤で顔を黒く汚しながら薪をくべて風呂を焚いていた。</p>

<p>当時、風呂を焚くなどというのは下男の仕事だったが、恩賞を与えられない代わりに、せめてもの心尽くしとして氏郷は自らの手で風呂を焚き、家臣たちをもてなしたのだ。その主君の姿に、家臣たちは心打たれ、涙したという。</p>

<p>その後、手厚いもてなしに感激した家臣たちによって、この話は「蒲生風呂」として家中に広まった。そして、そのとき屋敷に招かれなかった家臣たちは、自分たちもいつかは「蒲生風呂」に入りたいと懸命に奉公に励むようになったと伝えられている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>８回居城を奪われた「戦国時代最弱の大名」小田氏治</h2>

<p>弱小ということでいえば、「戦国時代最弱の大名」と評されているのが、常陸国の大名だった小田氏治である。</p>

<p>なにしろ、氏治は大事な合戦でことごとく敗れ、居城であった小田城を8回（9回とも）も敵に奪われているのだ。その弱さから後世、織田信長との対比で「弱いほうのおだ」とも呼ばれている。</p>

<p>だが、8回居城を奪われたということは、7回取り戻したということでもある。そして、それを支えたのが、父の代から小田氏の重臣を務めていた菅谷政貞を筆頭とする家臣団だった。</p>

<p>氏治が最初に小田城を奪われたのは、弘治2年（1556）に結城政勝と北条氏康の連合軍に敗れたときのことだ。このとき氏治は家臣の政貞が城主を務める土浦城に命からがら逃れたが、北条方と和睦することで政勝を撃ち破り、その年のうちに小田城を奪回した。</p>

<p>しかし、翌弘治3年（1557）に今度は佐竹義昭に敗れ、またしても小田城を失ってしまう。だがこのときも、政貞の活躍によって2年後に小田城を取り戻している。</p>

<p>このように何度も復活を遂げた氏治だが、なかでも凄かったのは、永禄7年（1564）に上杉謙信と戦ったときのことだ。「山王堂の戦い」で壊滅的な敗北を喫し、多くの将兵を失って小田城も奪われた氏治だったが、政貞をはじめ残った家臣団たちが一致団結し、わずか1年後に「戦国最強」とも謳われた謙信から居城を取り戻しているのである。</p>

<p>戦国時代、主君に先がないと判断すれば、家臣が見限って別の主君に仕えようとするのは普通のことであった。</p>

<p>それにもかかわらず、何度敗れても氏治の家臣たちが主君を捨てずに支え続けたのは、よほど人望があったためだろう。また、領民たちにも慕われており、氏治が小田城を奪われても新しい領主には年貢を納めず、氏治が戻って来るのを、そのつど待ったともいう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 01 May 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>水増しされた撃墜王・遠藤幸男の戦果「これでは、海軍の面子が立たない」  松田十刻（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12115</link>
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			<description><![CDATA[太平洋戦争末期、日本本土を襲った大型戦略爆撃機B-29。敢然と立ち向かう日本軍の姿を松田十刻氏が解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_moon.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中、日本の本土防空戦における最大の脅威は、アメリカ陸軍の大型戦略爆撃機Ｂ-29「スーパーフォートレス」（超空の要塞）であった。日本軍は、陸海軍ともに特性のある局地戦闘機を繰りだし、壮絶な戦いをくりひろげた。ここでは、Ｂ-29迎撃戦で撃墜王と称される遠藤幸夫（さちお）の戦いぶりを通して、本土防空戦の一端を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>遠藤幸男　大村基地に降り立つ</h2>

<p>遠藤幸男が、撃墜王と称されるきっかけとなったのは、昭和19年（1944）6月16日未明、Ｂ-29による八幡空襲である。</p>

<p>八幡空襲では、陸軍四戦隊の活躍ぶりが報じられたが、海軍としても有効な手立てを打つ必要に迫られた。四戦隊が擁する二式戦（屠龍）は、海軍の「月光」と同じ双発戦闘機である。</p>

<p>折しも長崎県・大村基地では、佐世保海軍航空隊大村分遣隊が改編され、第三五二海軍航空隊として開隊する手筈が整っている。ところが、肝心の夜間戦闘機の熟練者がいない。佐世保鎮守府は、横須賀鎮守府に月光の訓練を担う分隊長の派遣を要請した。</p>

<p>これを受けた厚木航空隊司令の小園安名中佐は、最も信頼する遠藤中尉を分隊長とする派遣隊を、大村基地へ遣わした。遠藤はペアを組む偵察員の尾崎一男（一飛曹）と愛機に乗り、7月10日ごろ、大村基地に降り立った。ほかに2機の列機も無事に着陸した（整備員は汽車で移動）。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>教官から第一線の分隊長へ</h2>

<p>遠藤は、海軍飛行予科練習生（予科練）第1期生である。艦上攻撃機の操縦士として日中戦争に従軍。日米開戦後は教官を務め、昭和18年（1943）1月、第二五一海軍航空隊（以下、二五一空）に異動になり、二式陸上偵察機の操縦士になった。</p>

<p>5月、二五一空はラバウルに進出するが、遠藤は搭乗機のエンジン故障で不時着した際に脚を負傷し、入院生活を送る。二五一空には、二式陸偵の前身である十三試双発陸戦に斜銃（2連装20ミリ機銃）を装備した改造型2機が加えられた。</p>

<p>斜銃は、ラバウルの台南航空隊（二五一空の前身）で副長兼飛行長を務めていた小園が、敵の大型爆撃機に手を焼き、内地に戻った際に上層部にかけあって承認させたものである。半信半疑の上官を説得するため、零戦との模擬空中戦を演じ、斜銃の威力を証明してみせた操縦士が、ほかならぬ遠藤である。</p>

<p>改造型がＢ-17を撃墜する戦果をあげたことから、二式陸偵に斜銃を装備した「月光」が、夜間戦闘機として制式採用された。</p>

<p>退院後、遠藤は「月光」で奮戦する。9月2日、遠藤がソロモン諸島の前進基地バラレ島の指揮所にいたとき、来襲したアメリカの戦闘機Ｆ４Ｕコルセアが見張り台に接触して墜落、大破した。遠藤は破片を浴び、重傷を負う。</p>

<p>帰国すると、厚木航空隊木更津派遣隊（夜戦隊）に配属され、隊員を鍛錬した。昭和19年3月1日、帝都防空を担う三〇二空が木更津飛行場で開隊。木更津派遣隊は同空に編入され、遠藤は分隊長となった。</p>

<p>3月末、三〇二空は厚木基地に進出。月光のほか、零戦に斜銃を装備した零夜戦、雷電、彗星、銀河の戦隊が加わり、局地戦闘機航空隊（通称・厚木航空隊）の陣容が整う。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>海軍で初めてB-29を撃墜した男　誇張された戦果</h2>

<p>大村基地に派遣された遠藤は、三五二空（通称・草薙部隊）の訓練に励んだ。</p>

<p>8月10日夜、Ｂ-29 29機（24機とも）が長崎に襲来。遠藤は僚機を率いて迎撃に向かったが、会敵できなかった。</p>

<p>20日午後4時半、空襲警報の発令後、Ｂ-29 67機が九州上空に達し、そのうち6機が長崎上空へ向かった。</p>

<p>三五二空では、零戦（延べ33機）と月光4機を発進させた。海軍にとって初のＢ-29迎撃戦になる。 一方、陸軍は第一二飛行師団の屠龍、飛燕、四式戦「疾風」80数機が出撃した。</p>

<p>列機が被弾や故障で離脱するなか、遠藤はラバウルでＢ-17と交戦したときの戦訓を生かし、臨機応変に月光特有の上方銃と下方銃を使い分けた（後発型は上方銃のみ）。</p>

<p>反航戦とあって一撃離脱の攻撃法をとり、5機以上に20ミリ弾を放ち、遠藤はある程度の手ごたえを感じた。だが、敵編隊の機銃弾による火網は凄まじく、エンジンに被弾。遠藤機は洋上を飛行し、済州島に不時着した。</p>

<p>遠藤は駐屯する陸軍部隊を通じ、三五二空司令部に「敵大型機、中破3機、小破2機」と打電。ところが、当日の戦闘概報で「撃墜確実2、概ね確実1、小破2」と変更され、翌月の戦時日誌では「撃墜2機、不確実1機、中破2機」と戦果が過大になっていた。</p>

<p>背景には、第一二飛行師団が「撃墜23機（不確実11機）、撃破25機」の大戦果をあげたのに対し、三五二空は出撃した機数が少ないとはいえ、戦果に差がありすぎたことにある。</p>

<p>「これでは、海軍の面子が立たない」と考えた佐世保鎮守府など上層部が、意図的に水増ししたとみられる（渡辺洋二著『夜間戦闘機「月光」』）。</p>

<p>遠藤は本人の意思とは関係なく、海軍で初めてＢ-29を撃墜した殊勲者として一目置かれることになった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>マリアナ諸島陥落　B-29から東京を守る</h2>

<p>9月中旬、遠藤と尾崎のペアは大村基地を去り、厚木基地へ復帰した。ほかの派遣隊員は大村に留まり、北九州で戦い続ける。</p>

<p>この間、日本が絶対国防圏と定めていたマリアナ諸島が、米軍（連合軍）の猛攻により陥落。Ｂ-29の発進基地が急造され、日本本土への空襲が時間の問題となった。</p>

<p>そしてついに、11月1日午後1時半ごろ、サイパン島から飛来したＢ-29の改造偵察機が東京上空に現われた。</p>

<p>主力部隊の雷電隊、零戦隊、遠藤率いる月光隊が緊急発進したが、上昇に時間がかかって追いつけず、10000メートル上空を悠々と飛行するＢ-29を歯嚙みしながら見送るだけだった（この日、遠藤は大尉に進級）。</p>

<p>24日朝、サイパン島を発進した111機のＢ-29のうち、故障機を除く94機による初の東京空襲が行なわれた。ただし、目標の中島飛行機武蔵製作所に達したのは24機で、被害は軽微にとどまる。</p>

<p>このとき、三〇二空の可動機すべてが出撃したが、白昼、高高度での戦闘は想像以上に過酷であり、まともに戦えなかった。米軍側の記録では、Ｂ-29の損失は2機。うち1機は二式戦（鍾馗）の体当たりで墜落したものである（もう1機は不時着水）。</p>

<p>これよりさかのぼる11月3日、遠藤は、東京の手前でＢ-29を撃墜する任務を帯び、八丈島に派遣隊隊長として進出。偵察員は西尾治（上飛曹）に替わった。派遣隊はわずか月光3機の戦力だったが、12月18日には、「1機撃墜、2機撃破」を三〇二空司令部に報告している。</p>

<p>27日、熱海上空で警戒中の遠藤機は、単機来襲したＢ-29に襲いかかり、伊豆半島伊東沖で撃墜した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「敵11機発見、ワレコレニ突撃ス」</h2>

<p>昭和20年（1945）1月10日、遠藤と西尾のペアは厚木基地に復帰した。</p>

<p>その前日、遠藤機は静岡県南方で中島飛行機武蔵製作所に向かうＢ-29 70機ほどの編隊を捕捉。うち1機を撃墜した。</p>

<p>遠藤の活躍ぶりは華々しく喧伝されたが、本人は誇張される記事に複雑な心境だったらしく、予科練時代の恩師に送った手紙に「戦果をおおげさに報ずる点、まったく迷惑いたしております」と本音をもらしている。</p>

<p>1月14日、Ｂ-29 73機が三菱・名古屋航空機製作所を目標に襲来。これを二一〇空と三〇二空が協同で迎撃した。</p>

<p>遠藤は午後2時52分、Ｂ-29を豊橋上空で捕捉。西尾に「敵11機発見、ワレコレニ突撃ス」と打電させた。6分後、「1機撃墜、大破&hellip;&hellip;」が厚木基地の無線機に入ったが、それっきり連絡はなかった。</p>

<p>このとき、遠藤は被弾した愛機を渥美半島上空まで飛行させたうえ、先に西尾を脱出させ、続いて自分も機外へ飛び出た。ところが西尾は落下傘の紐が尾翼に切られ、墜死。遠藤は高度不足のため、落下傘が開き切る前に地上に叩きつけられた。</p>

<p>遠藤機の墜落は、陸軍の防空監視哨が視認していた。哨員らが墜落現場に駆けつけたときには、2人とも絶命していたという（発見場所は、現在の愛知県田原市神戸町）。</p>

<p>国民的英雄となっていた遠藤の戦死が、海軍省から発表されたのは3月16日。全軍布告のうえ、遠藤は中佐、西尾は少尉にそれぞれ2階級特進した。</p>

<p>遠藤機によるＢ-29の撃破数は16機（うち撃墜は6機ないしは8機）とされる。</p>

<p>海軍上層部の思惑から思いがけなく勇名を馳せた遠藤だが、その後は国民の期待を一身に背負い、撃墜王の名に恥じぬよう全身全霊でＢ-29に戦いを挑み、その末に果てた。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 30 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[松田十刻（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>戦国武将　色恋にまつわる「ちょっといい話」織田信長と武田信玄編  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12106</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012106</guid>
			<description><![CDATA[あの武将にこんな一面が…。戦国時代の主君と家臣の「ちょっといい話」を奈落一騎さんが解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="長久手の戦い" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityLI/kibagundan_pixtaLI(1).jpg" width="1200" /></p>

<p>戦国時代というと、殺伐とした世を思い浮かべます。<br />
でも、乱世にあっても人は人。主従の心通い合う様が伝わってくる逸話が、数多く残されています。頼りなさげな弱将や油断ならぬ謀将が見せる意外な横顔...。<br />
そこからは、人間関係を良好に保つ秘訣も見えてくるかもしれません。<br />
今回は、織田信長と武田信玄の意外な一面をご紹介しましょう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ねねの悋気をそっと窘めた織田信長</h2>

<p>家臣に厳しい主君としては、やはり織田信長を思い浮かべる人が多いだろう。完全能力主義で成果主義、かつ気の短い信長は、功績のある家臣に対しても、気に入らないことがあれば躊躇なく過酷な仕打ちをした。</p>

<p>例えば、30年以上にわたって信長の重臣を務めてきた佐久間信盛は、天正8年（1580）に信長から突如、19カ条の折檻状を突きつけられて家禄を没収された上、追放されてしまった。その理由は、「石山本願寺との戦いで積極性が見られない」というだけのものだ。</p>

<p>あるいは、その19カ条の折檻状のなかで、信盛と比較されて褒められている明智光秀も、戦国時代に来日した宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によれば、信長の怒りを買って足蹴にされたことがあったという。</p>

<p>光秀が「本能寺の変」を起こした動機については諸説あるが、そのひとつとして信長の心ない仕打ちへの恨みが原因という怨恨説も根強い。</p>

<p>このように家臣に対して極めて厳しかった信長だが、一方で、羽柴（豊臣）秀吉の妻ねね（おね）に送った直筆の手紙を見ると、家臣の夫婦仲まで気遣う細やかさもあった。</p>

<p>天正9年（1581）ごろ（天正4年〈1576〉説もあり）、ねねは安土城を訪れ、夫である秀吉の浮気癖について信長に不満をこぼしたらしい。</p>

<p>この手紙はそのことについての返信で、信長はまずねねに対して「以前会った時より、あなたはずっと美しくなっていました」と褒めながら、「どこを訪ねても、あの禿ネズミに、あなた以上の女性は見つからない」とねねを持ち上げ、秀吉をこき下ろすことで、彼女の気持ちをなだめている。</p>

<p>ここだけ見ると、信長はたんにねねの味方をしているだけのように思えるかもしれない。だが、手紙の後半で信長は「正室なのだから堂々としていればいいんですよ」と、ねねの悋気をそっと窘めることで、間接的に女房の嫉妬から秀吉を守ってもいるのだ。</p>

<p>部下の妻の愚痴にここまで丁寧に対応する上司など、現代にもいないだろう。</p>

<p>それにしても見事なのが、信長の人間心理への理解の深さである。最初に十分ねねの感情に寄り添う姿勢を見せたあと、最後にさりげなく諭す。</p>

<p>もしこの順序が逆だったら、彼女の怒りは増すだけで、余計、秀吉は窮地に陥ったに違いない。信長の手紙がどこまで功を奏したかはわからないが、結果として夫婦仲は壊れることなく、ねねの内助の功もあって秀吉は天下人にまで登り詰めた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>自らの浮気を必死に弁明した武田信玄</h2>

<p>手紙といえば、甲斐の大名・武田信玄が家臣に宛てた手紙も微笑ましい。その手紙は天文15年（1546）ごろに書かれたと思われるもので、当時、信玄の同性愛（衆道）の相手だった春日源助に、自分が浮気をしていないと言い訳をするという内容である。</p>

<p>具体的には、「確かに弥七郎に言い寄ったことはあるが、お腹が痛いと断られたので、寝てはいない。私はあなたと仲良くしたいと思って頑張っているが、疑われるばかりで困っている。もし私の言っていることが噓だったら、我が国の1、2、3の大明神、富士山、白山、八幡大菩薩、諏訪上下大明神からの神罰を受ける覚悟がある」というもので、まさに必死の弁明だ。</p>

<p>この手紙が書かれたのが天文15年ごろだとすれば、信玄が父・信虎を追放して5年後、家中を掌握し、諏訪を手中に収めて信濃国の切り取りへ野心を燃やしていた時期である。</p>

<p>そんな破竹の勢いの「甲斐の虎」こと信玄が、なんとか恋人の怒りを解こうとしている姿は、本当に人間臭い。恋仲になってしまえば主君も家臣も関係なく対等、いや惚れた弱みで主君が家臣のご機嫌を伺う場合もあるということだ。</p>

<p>ところで、信玄の送った手紙の相手である春日源助は、のちに武田24将の1人に数えられることになる高坂昌信だとも言われている。昌信の元々の名前は春日虎綱であり、さらに通称として春日源五郎とも名乗っていた。それゆえ、春日源助が高坂昌信のことだと考えられているのだ。</p>

<p>ただ、昌信が源助と名乗っていたこともあるという事実は、文書などにはいっさい残されていない。そのため、春日源助と春日源五郎は別人という説もある。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 29 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>Ｂ-29“超空の要塞”を26機撃墜した男　樫出勇  松田十刻（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12113</link>
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			<description><![CDATA[太平洋戦争末期、日本本土を襲った大型戦略爆撃機B-29。敢然と立ち向かう日本軍の姿を松田十刻氏が解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/sunset20151201.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中、日本の本土防空戦における最大の脅威は、アメリカ陸軍の大型戦略爆撃機Ｂ-29「スーパーフォートレス」（超空の要塞）であった。日本軍は、陸海軍ともに特性のある局地戦闘機を繰りだし、壮絶な戦いをくりひろげた。ここでは、Ｂ-29迎撃戦で撃墜王と称される樫出勇（かしいで・いさむ）の戦いぶりを通して、本土防空戦の一端を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年5月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Ｂ-29来襲　日本陸軍がとった迎撃準備</h2>

<p>日本本土に来襲するＢ-29を初めて撃墜したのは、山口県・小月基地を拠点にしていた陸軍航空隊飛行第四戦隊（以下、四戦隊）の樫出勇中尉である。</p>

<p>昭和19年（1944）3月以降、実戦配備が可能になったＢ-29は、中国の前進基地から日本本土を空襲する「マッターホルン作戦」に基づき、次々とアメリカ本土を発進。大西洋を横断し、北アフリカなどを経て、インド・カルカッタ基地に集結した。</p>

<p>4月26日、単独飛行中のＢ-29と陸軍一式戦闘機「隼」2機が、ビルマ戦線の中印国境で交戦。双方とも墜落しなかったが、これが日本軍機とＢ-29との初対戦となった。</p>

<p>6月15日夕刻、中国の成都基地に進出していた第二〇爆撃兵団のＢ-29 75機が出撃した。ただし、故障などで脱落した機体があり、実際に飛行を継続できたのは63機（機数は文献により異なる。以下同じ）。</p>

<p>これより前、大本営陸軍部はＢ-29の成都進出を確認すると、その航続距離を推定したうえ、福岡県・八幡製鉄所に代表される北九州の工業地帯に来襲すると予測。四戦隊と飛行第五九戦隊から成る第一九飛行団を編制し、夜間爆撃、昼間の高高度爆撃を想定した迎撃訓練に当たらせていた。</p>

<p>四戦隊には、二式複座戦闘機「屠龍」35機が配備された（実際に「屠龍」と呼称されるのは11月以降）。</p>

<p>屠龍は海軍の「月光」と同じく、エンジンを2基搭載した双発戦闘機である。前席に操縦士、後席に偵察員（航法や通信も担当）が乗り込む。</p>

<p>樫出は、陸軍少年飛行兵第1期生である。若くしてノモンハン航空戦に参戦し、ソ連機5機以上を撃墜している。昭和16年（1941）7月、陸軍航空士官学校を卒業し、原隊の四戦隊に復帰した。</p>

<p>屠龍の装備は型により異なるが、樫出の愛機には機首前方に37ミリ対戦車砲、胴体上部（背部）に20ミリ機関砲が装備されている。機関砲は、月光の斜銃に倣ったもので、陸軍では「上向き銃」と呼んだ。</p>

<p>ちなみに、海軍は20ミリ以上でも機銃と称する。エンジン出力を左手で制御する絞り弁を、海軍はスロットルレバーと呼ぶのに対し、陸軍はガスレバーと呼ぶ。</p>

<p>陸軍戦闘機の発射装置は、一式戦（隼）、二式単座戦闘機（鍾馗）までは海軍と同じくスロットルレバーについているが、屠龍、三式戦（飛燕）など後発の戦闘機は操縦桿に発射装置がある。海軍の制式戦闘機で操縦桿に発射装置があるのは、月光だけである。</p>

<p>エンジンを始動させるには、海軍ではエナーシャ（手動慣性始動装置）を使うのに対し、陸軍機ではトラック型の専用始動車がプロペラハブ（中心軸）を回して始動する。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>遂にB-29来襲、「屠龍」出撃</h2>

<p>6月15日午後10時40分、飛行師団と西部軍司令部から警戒警報が発令され、第三攻撃隊の樫出は戦闘配置についた。各機は始動車による始動でエンジンを唸らせている。</p>

<p>「戦隊は全機出動、要地上空3000、朝鮮方面より侵入する敵機を邀撃すべし」</p>

<p>16日午前0時過ぎ、可動機24機（8機とも）が次々に離陸し、上空で編隊を組みながら、要地である八幡、小倉付近の北九州工業地帯へ向かった（五九戦隊は飛燕の練度が不十分で、出撃を見送った）。</p>

<p>四戦隊は全機に高性能の無線電話（以下、無線）が装備され、地上の戦闘指揮所だけでなく、機上の隊員どうしでも高感度の通話ができる。高度3000メートルで、戦闘指揮所からの無線により「敵機は要地上空に侵入、各隊攻撃すべし」との戦隊長命令が下された。</p>

<p>ほとんど同時に、地上の照空灯（探照灯）が一斉に上空に照射され、高射砲が火を噴く。四戦隊は地上部隊の照空灯隊、高射砲隊との協同訓練もしている。</p>

<p>闇夜に、四発大型爆撃機の機影が浮かびあがる。なかにはＢ-24と誤認する隊員もいたが、樫出はＢ-29と直感した。</p>

<p>照空灯隊は、単縦陣で侵入してきた敵機を捕捉すると、3本の光芒で追跡する。敵機は逆に照明弾を投下。灯火管制を敷いて真っ暗だった八幡の市街地が照らされる。</p>

<p>「ただいまより攻撃」</p>

<p>第一攻撃隊長・小林公二大尉の声を皮切りに、各隊の第一撃を告げる声が無線に入る。樫出は高度4200メートルまで上昇すると、友軍機であることを示す標識灯を点滅させ、反航する敵機に突進した。</p>

<p>みるみる巨大な機体が眼前に迫る。距離80メートル。激突寸前で37ミリ対戦車砲の引金を引く。砲口から発射された砲弾は、敵機の左翼取り付け部に命中。とっさに操縦桿を操作し、敵機の脇をすり抜けて離脱する。振り返ると、Ｂ-29は火炎に包まれ、落下していった...。</p>

<p>この日、Ｂ-29の日本本土初爆撃となった八幡空襲で、四戦隊は樫出の戦果を含む7機を撃墜した（確実4機、不確実3機。米軍側の記録とは異なる。以下同じ）。 日本軍は墜落したＢ-29二機を回収し、機体の性能などを徹底的に分析する。</p>

<p>樫出はこれ以降も、北九州に来襲するＢ-29の迎撃戦で、37ミリ対戦車砲や上向き銃を駆使し、獅子奮迅の活躍をする。</p>

<p>終戦までに、Ｂ-29だけで最多記録となる26機を撃墜。陸軍航空隊の撃墜王として名を馳せた（最終階級は大尉）。 戦後、『Ｂ29撃墜記』を著している。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 28 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[松田十刻（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>大河ドラマ「豊臣兄弟！」前田利家役・大東駿介が福井へ　秀吉・勝家との絆と“義の男”の足跡  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14176</link>
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			<description><![CDATA[大河ドラマ「豊臣兄弟！」で前田利家を演じる大東駿介さんが、利家ゆかりの地・福井へ 。秀吉との絆や勝家への恩義、統治への目覚めなど、激動の「越前時代」を辿り、“義の男”利家の矜持に迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「豊臣兄弟！」で前田利家を演じる大東駿介さんが越前を訪問" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi10.jpg" width="1200" /></p>

<p>前田利家という武将を語る際、「加賀百万石」という華やかなイメージや、織田信長に仕えた「槍の又左」としての勇猛さに目を奪われがちです。しかしその「義」の精神が最も熱く、そして高潔に鍛え上げられたのは、前田家の家督を相続して、信長軍の最前線に立った「越前時代」ではなかったでしょうか。</p>

<p>主君・信長への忠誠、秀吉との友情、そして上司・柴田勝家への恩義。これらの板挟みのなかで、利家はいかにして「男の中の男」としての道を歩んだのでしょうか。大河ドラマ「豊臣兄弟！」で前田利家役を務める俳優・大東駿介さんが、敦賀市の金崎宮（かねがさきぐう）、南越前町の中村家住宅の黒印状、そして五大老の一人として青木重吉に宛てた連署状という三つのテーマをもとに、利家が越前で磨き上げた「義」の足跡をたどりました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>金ヶ崎の地獄で見せた近習の矜持</h2>

<p><img alt="金崎宮を参拝する大東さん。海抜86メートルの月見御殿からは雄大な敦賀湾を見下ろせる" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi03.jpg" width="1200" />金崎宮を参拝する大東さん。海抜86メートルの月見御殿からは雄大な敦賀湾を見下ろせる</p>

<p>最初に訪れたのは敦賀の小高い丘に鎮座する「金崎宮」。穏やかな敦賀湾を見下ろすこの場所は、元亀元年（1570）、織田信長が義弟・浅井長政の裏切りに遭い、天下布武の夢が潰えかけた「金ヶ崎の退き口」の舞台となった金ヶ崎城跡です。尾根続きには天筒山もあり、信長は先に標高が高い天筒山城を攻略して、翌日金ヶ崎城を陥落させました。</p>

<p>当時の利家は、前田家の家督を継いだばかりであり、この戦いに懸ける思いは人一倍、強かったはずです。かつて信長の寵臣を斬り、勘当の憂き目に遭った利家は、桶狭間の戦いや森部の戦いで武功を上げて再び信長に拾い上げてもらい、さらに兄がいるにもかかわらず、信長の後押しで家督を継ぐに至りました。利家の胸の中には、「信長様から受けた恩は死んでも返す」との思いがあったことでしょう。</p>

<p><img alt="金崎宮を参拝する大東さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi02.jpg" width="1200" /></p>

<p>ところが、金ヶ崎城を攻略したものの、浅井長政の謀反が発覚し、織田軍は一転して窮地に立たされることに。信長は撤退を決断し、木下藤吉郎秀吉（後の豊臣秀吉）らが殿（しんがり）を務め、利家は信長の傍にあったものと考えられます。役割は違えども、藤吉郎と利家はともに信長を守ろうとしたわけで、彼らの絆は深まったものと想像できます。</p>

<p>大河ドラマ「豊臣兄弟！」では、殿を名乗り出た藤吉郎の助けになればと、利家が部下を残していく場面が描かれますが、利家という男の義理堅さを思うと、実際にそのようなことがあってもおかしくはないでしょう。</p>

<p><img alt="金崎宮を参拝する大東さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi01.jpg" width="1200" /></p>

<p>「ドラマでは金ヶ崎に残る決断をした藤吉郎に対して利家は赤母衣衆を託しました。信長に対して真摯に向き合っている藤吉郎に対してライバルといえども率先して手を貸した義の男・利家を私はとても気に入っています」（大東さん）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「中村家住宅」の黒印状――統治への目覚め</h2>

<p><img alt="中村家住宅に残る前田利家の黒印状をみせていただく大東駿介さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi05.jpg" width="1200" /></p>

<p>天正3年（1575）、越前一向一揆を平定した信長は、利家を「府中三人衆」の一人として越前府中に配しました。ここから利家は、一騎当千の強者から、民を治める領主へと脱皮していきます。</p>

<p>その統治の片鱗を今に伝えるのが、南越前町（旧河野村）に現存する前田利家の黒印状です。当時、この地は河野浦といって越前府中から最も近い要港で、書状はその河野浦の人々に宛てたものでした。のちにこの地は日本海物流を担う北前船で栄え、その栄華は同地の重要文化財「中村家住宅」からもうかがい知ることができます。</p>

<p><img alt="中村家住宅に残る前田利家の黒印状" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi06.jpg" width="1200" /></p>

<p>書状は天正10年（1582）3月、利家が越前府中から能登へ移封された後のものですが、なおも利家が越前の要港を押さえていたことがわかります。</p>

<p>朝倉氏が滅びた後の越前では一向一揆の嵐が吹き荒れ、利家も当初は領地経営に苦心したといいます。利家は算盤を得意とし、財政面にも明るかったとされますが、何とか越前を富ますことで、領民に安寧をもたらそうとしていたのではないでしょうか。</p>

<p>今回、中村家住宅で利家の黒印状をみせていただきましたが、中村家住宅の高い吹抜けの重厚な梁の下で黒印状を目にすると、利家が越前での苦闘を通じて、領主としての統治術を身につけていった姿が浮かび上がってくるようでした。</p>

<p><img alt="中村家住宅の高い吹抜け" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi04.jpg" width="800" /></p>

<p>中村家住宅に残る黒印状は天正10年3月、本能寺の変の３カ月前に書かれたものです。「利家は常に自分が背負っているものの重さを意識しながら、家臣も領民も最後まで裏切らなかった武将であるように思えますね」（大東さん）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>賤ヶ岳の決断と北庄城への想い</h2>

<p>利家が最も過酷な試練に晒されたのは、天正11年（1583）の賤ケ岳の戦いでした。 信長亡き後、覇権を争う羽柴秀吉と柴田勝家。利家にとって勝家は、越前府中時代に上司として仰ぎ、父のように慕った恩人でした。一方の秀吉は、若い頃から苦楽を共にした「竹馬の友」です。</p>

<p>利家は勝家軍の一員として布陣しながらも、一説には途中で戦線を離脱したとされます。それが事実ならば、武士としては末代までの恥とも取られかねない動きです。しかし、その決断こそが義の人・利家の真骨頂といえるものではないでしょうか。勝家に殉じて前田家を滅ぼすことは、家臣や家族への不義となります。かといって秀吉と共に勝家を討つことは、恩師への不義となるのです。</p>

<p>利家は、越前府中城に引きこもりますが、秀吉と勝家の調停を模索していたのではないでしょうか。結果として勝家は自害しますが、利家は北庄城（現在の福井市）へ向かう秀吉に、勝家の助命を請うために面会したとの逸話があります。こうした逸話が語り継がれるほど、この時、利家が見せた「どちらも裏切りたくない」という人間臭い葛藤こそが、のちに秀吉から全幅の信頼を勝ち取る要因となったのではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>五大老の連署状――託された「最後の義」</h2>

<p><img alt="「五大老連署状」を見る大東駿介さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi07.jpg" width="1200" /></p>

<p>今回の旅のラストを飾るのは、利家の死の直前、慶長4年（1598）に発せられた「五大老連署状」。なかでも注目すべきは、越前・北庄城主であった青木重吉に宛てられた北庄の領地宛行の連署状です（5月15日～7月7日迄　福井県立歴史博物館では「『秀吉と越前の武将たち』―新収蔵古文書を中心に」が開催中。連署状も見ることができる）。</p>

<p><img alt="五大老の連署状" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigasi08.jpg" width="1200" /><br />
利家を含む五大老が並んだ書状は珍しく貴重。秀長没後、秀吉が頼れるのは利家しかいなかった。連署状が書かれた2カ月後、利家は亡くなった</p>

<p>死の床にあった秀吉は、幼い秀頼の将来を案じ、利家を秀頼の傅役に指名しました。利家は家康の野心を抑え込む唯一の防波堤として、豊臣政権の重石となります。この連署状は、秀吉亡き後の新体制を整える意味でも重要な公文書でした。</p>

<p>北庄城はかつて利家が敬愛した柴田勝家の本拠であり、利家自身もかつて越前で過ごしたいわば第二の故郷。その地の安堵を約束する連署状であることから、病を押して署名した利家の心中には、並々ならぬ思いがあったはずです。</p>

<p>それは、豊臣政権を守るという「公の義」と、かつての恩師・勝家の地を守るという「私の情」が重なり合った、人生の総決算であったのではないでしょうか。</p>

<p>利家は連署状を発したわずか2カ月後、家康の動きを制しながら、激動の生涯を閉じます。その没後一年で「関ケ原の戦い」が起きたという事実は、利家一人の存在が、どれほど巨大な「重石」となって天下の均衡を保っていたかを逆説的に証明しているかのようです。</p>

<p>金ヶ崎の退き口で見せた「武士としての忠義」、中村家住宅の黒印状に見る「領主としての統治力」、そして青木重吉宛の連署状に込められた「五大老としての責任」。これら三つのキーワードを辿って見えてくるのは、乱世の荒波に翻弄されながらも、自らの心の軸を一度も曲げなかった一人の男の矜持なのではないでしょうか。</p>

<p><img alt="越前小丸城から出土した瓦であった（小丸城跡出土文字瓦〈複製〉、福井県立歴史博物館所蔵〈原資料：味真野史跡保存会所蔵〉）" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260422oohigashi9.jpg" width="849" /></p>

<p>今回、大東さんが何より驚いたのは、越前小丸城から出土した瓦（小丸城跡出土文字瓦〈複製〉、福井県立歴史博物館所蔵〈原資料：味真野史跡保存会所蔵〉）。瓦には、利家が一向一揆勢1,000人を磔にして釜茹でにした事実が刻まれている。つまり、利家への恨みがこめられたものともいえる。「戦国という世は、本当に我々が想像がつかないほど激しい時代であったのですね」（大東さん）</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 27 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉はなぜ「最強軍団」を作れたのか？ 竹中半兵衛・黒田官兵衛ら異才を束ねた組織術  柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14034</link>
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			<description><![CDATA[豊臣秀吉が最強家臣団を構築した背景を解説。竹中半兵衛、黒田官兵衛といった軍師の登用や、加藤清正ら子飼い武将の育成など、代々仕える家臣を持たないからこそ重視した実力主義の組織作りを紹介します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="竹中氏陣屋" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/pixta_takenakahanbe.jpg" width="1200" /><br />
竹中氏陣屋</p>

<p>一代で天下人に登りつめた豊臣秀吉。代々仕える家臣がいない「成り上がり」の彼が、なぜ竹中半兵衛や黒田官兵衛、加藤清正ら多才な家臣を束ね、最強の軍団を築くことができたのでしょうか。実力重視の登用、家族のような信頼関係を築いた「子飼い」の武将たち。秀吉流の人材マネジメントを『豊臣兄弟！』の時代考証を担当する柴裕之氏が紐解きます。</p>

<p>＊本稿は柴裕之監修『7つのキーワードでまるわかり　コミュ力お化け　豊臣秀吉』（主婦と生活社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>実力重視のスター軍団</h2>

<p>一代で天下人に登りつめた豊臣秀吉は、実力重視でゼロからスター家臣団をつくりあげた。<br />
その屋台骨は弟の秀長で、草創期は蜂須賀正勝や子飼い武将の加藤清正、福島正則など、尾張出身の面々が支えた。長浜時代には近江の石田三成や片桐且元など官僚肌の武将にも出会い、中国攻めで軍師となる黒田孝高(官兵衛)も加入。政権初期から千利休も内政を支えたが、晩年の武断派・文治派の対立が関ヶ原の戦いの遠因となった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>軍師・竹中半兵衛、黒田官兵衛はどんな活躍をした？</h2>

<p>竹中重治(半兵衛)と黒田孝高(官兵衛)。&quot;両兵衛&quot;と呼ばれた秀吉の軍師だ。軍師の役目は合戦の戦術を考えることだが、秀吉が重視したのは、交渉で味方を増やす「調略」の才だった。</p>

<p>竹中重治はわずか17名で主君の稲葉山城(岐阜城)を乗っ取った知将だ。通説ではその後、山奥に隠棲した重治のもとを秀吉が訪れて家臣にするが、実際は信長の美濃平定後に織田家臣となったようだ。近江国境に近い菩提山城を領有するため浅井家との人脈を持つ上、知略に優れる重治は浅井家臣の調略にうってつけの人材だった。</p>

<p>黒田孝高は播磨の国衆で、播磨攻めを命じられた秀吉が姫路城を任されていた孝高を引き入れた。そして孝高は主君の小寺家をはじめ、播磨衆を調略していったのだ。有岡城主・荒木村重が離反した際は、孝高が交渉に向かうが村重に幽閉されてしまう。重治は三木城攻めの最中に病死するが、その後は孝高が秀吉のそばで天下取りに奔走した。</p>

<p>備中高松城攻めの陣中。信長の死に呆然とする秀吉に、孝高は「殿、ご運が開けましたな」と言葉をかけたという。我に返った秀吉は情報分析し、その夜から中国大返しに向けて動いた。この一言は大きかった。</p>

<p>合理主義者・信長の配下で調略の才によって出世した秀吉が、自身の軍師に求めたのも、同種の才能だった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉が子飼い武将たちを育てた理由とは？</h2>

<p>「子飼いの武将」とは、大将が子ども時代から育てた武将のことである。家族のような信頼関係が築かれ、忠誠心の強い家臣が育つ。一代で天下人になった秀吉には代々仕える家臣がおらず、親類も少なかった。家臣団の中で最も信頼のおける「一門衆」を組織するには、子飼いの武将が必要だったのだ。</p>

<p>秀吉子飼いで最もよく知られるのは、福島正則と加藤清正である。正則は、母が秀吉父方の妹で、秀吉とは従兄弟。清正の母は大政所の従姉妹とされ、2人とも秀吉の親戚筋ということになる。彼らは少年時代から秀吉とねね(北政所)のもとで育った。</p>

<p>成長した彼らは、のちに&quot;武断派&quot;と呼ばれるように、猛将のイメージが強いが、大名として経済政策や治水事業などにも手腕を発揮している。</p>

<p>また、正則・清正とともに「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元や長浜時代に見出された石田三成、人質として幼少期を長浜城で過ごした黒田長政(孝高の嫡男)も、秀吉子飼いの武将である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>はっきり分かれた古参家臣の明暗</h2>

<p>豊臣秀吉に仕えた古参武将たちの生涯をたどってみよう。尾張の土豪(土地の有力者)だった蜂須賀正勝は、豪快なイメージとは違う交渉・調略上手の知将だった。四国攻め後に病死したが、子の家政に阿波が与えられ大名となった。</p>

<p>信長と対立した岩倉織田家重臣の子だった山内一豊と堀尾吉晴は、主家が滅んで流浪した後に信長配下となり、秀吉に仕えた。歴戦の将として活躍し、長浜や佐和山など要所の城主となった。吉晴とともに&quot;三中老&quot;と後世に位置づけられた生駒親正・中村一氏も、高松・駿府などの要所を任された。</p>

<p>一方で、精鋭部隊&quot;黄母衣衆&quot;の一員として長く秀吉を支えた神子田正治・尾藤知宣は小牧・長久手の戦いや九州攻めの失態で追放され、後に処刑されている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ヒーローとなった秀吉</h2>

<p>江戸時代、豊臣秀吉は庶民のヒーローだった。秀吉の一代記『太閤記』が人気を博したからである。その形は伝記、読本、講談、歌舞伎、浄瑠璃などに発展し、&quot;親しみ易く才気にあふれ、戦にも強い秀吉&quot;が、一代の英雄として人々の心をつかんだ。その背景には、幕府への不満と破格の出世へのあこがれがあったようだ。</p>

<p>太閤記のもととなったのは、秀吉が御伽衆・大村由己に書かせた記録集『天正記』だ。これに触発され、太田牛一の『太閤軍記』、竹中重門(半兵衛の子)の『豊鑑』や川角三郎右衛門の『川角太閤記』が続いた。</p>

<p>そして、儒学者の小瀬甫庵がこれらに解説を加えた全22巻の本格一代記『太閤記』を成立させる。幕府が数度発禁を命じたほどの人気ぶりだったが、今に至る秀吉像を決定づけたのは、『絵本太閤記』7編84巻だ。平易な文章と豊富で本格的な挿絵、そしてストーリーが大ウケした。信長の草履を温めた話や墨俣一夜城などの創作話も、繰り返し語られるうちに史実として信じられていった。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 27 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉の「爆速出世」を支えた弟・秀長の実像　信長も認めた“最強の補佐官”は何をした？  柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14032</link>
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			<description><![CDATA[豊臣秀吉の弟・秀長の生涯を解説。中国攻めや四国平定での軍功、政権内の調整役としての役割を紹介。秀吉に諫言できた唯一の存在と言われ、彼の死が豊臣家の迷走に与えた影響についても紐解きます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="大和郡山城" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_Yamatokooriyamajyou.jpg" width="1200" />大和郡山城</p>

<p>豊臣秀吉から絶大な信頼を寄せられ、天下取りに欠かせなかったと言われるほどの存在感を示した弟の豊臣秀長。秀吉同様、前半生は謎に包まれていますが、近年、その謎は少しずつ解明されつつあります。秀吉の右腕としての活動、そして大名間の緩衝材として政権を支えた晩年まで、『豊臣兄弟！』の時代考証を担当する柴裕之氏が、「最強の補佐官」秀長の実像に迫ります。</p>

<p>＊本稿は柴裕之監修『7つのキーワードでまるわかり　コミュ力お化け　豊臣秀吉』（主婦と生活社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉と秀長の父親は誰なのか</h2>

<p>秀吉が右腕として頼りにした弟・秀長。大名との関係を取り持ち、合戦では別働隊の大将を務めるなど、天下取りに貢献したが、その前半生は兄同様に謎が多い。</p>

<p>秀長の父は、秀吉の継父・筑阿弥(ちくあみ)とされている。しかし近年の研究では、2人は同父兄弟で父の法名は「妙雲院」であるという説が有力だ。生年も諸説あるが、天文9年(1540)生まれで秀吉とは3歳差とする説が有力である。</p>

<p>秀長が織田信長に仕官した年も、確かなことはわかっていないが、天正3年(1575)に発給した文書が残っており、35歳ごろには信長に仕えていたと考えられる。興味深いのは、この文書の署名が「長秀」となっている点だ。これは信長からの偏諱(身分が上の人物から名前の一文字を賜る習慣)とみられる。つまり、このときの秀長はあくまで信長の家臣であり、信長から秀吉に配属されている立場(与力)だったのだ。</p>

<p>謎が多い秀長だが、秀吉に信頼されていたことは間違いなく、兄を支えて重要な任務をこなしていたことがわかっている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>中国攻めで秀長はどんな働きをした？</h2>

<p>天下一統に本腰を入れた信長は、全国各地を平定するための方面軍を組織した。中国地方の担当になった秀吉の配下に、長秀(秀長)が名を連ねている。但馬の竹田城を攻略した秀吉は秀長に竹田城の城代を任せ、但馬に領地も与えたようだ。弟への信頼が伝わってくる。</p>

<p>さらに、秀長が秀吉にとって単なる部下ではなく、対等ともいえる存在だったことがわかる文書が伝わっている。三木城攻めの最中に起こった平井山合戦で敵将を討ち取った樋口彦助に、秀吉と秀長が100石ずつ、合計200石の領地を与えるという書状を発給しているのだ。樋口彦助からすれば、同じ石高の褒美を与えてくれた秀吉と秀長は、同じ立場の上司と感じられただろう。</p>

<p>中国攻めは本能寺の変による信長の急死で幕切れとなるが、この遠征で行われた三木城攻めや鳥取城攻めでも秀長は秀吉を補佐した。特に、但馬の直接的な統治は秀長が担当しており、部下に領地を与えたり、鮎の漁を許可したりした証状が残っている。秀長が政務を行ってくれたおかげで、秀吉は安心して背後を任せて平定戦に集中できたのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>信長の死後、秀長の活躍は？</h2>

<p>信長の仇討ちとなった山崎の戦いには、陣頭に立つ秀吉とともに秀長も参戦。この合戦で明智光秀を討った秀吉は信長後継者の第一候補となる。続く賤ヶ岳の戦いでは最前線に陣取って前田利家らと対峙したとされる。この武功で播磨と但馬を拝領した秀長は、姫路城に居城を移したという。</p>

<p>織田信雄・徳川家康と秀吉が戦った小牧・長久手の戦いでも秀長は秀吉を補佐。秀吉が秀長を頼りにする書状が複数伝わる。この頃名乗りを「長秀」から「秀長」に変えており、織田家と羽柴家の立場が逆転したことがわかる。</p>

<p>そして、信長が成しとげられなかった四国攻め。秀吉の出陣がなくなったことで、代理の総大将となった秀長は期待に応えて長宗我部元親を降伏させ、四国を平定した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>拡大する豊臣政権の中で秀長が果たした役割とは？</h2>

<p>小牧・長久手の戦いと紀州攻めでも功績を積み上げた秀長は、紀伊・和泉を拝領して播磨・但馬から本拠地を改めた。さらに、四国攻めの戦功で大和も加増され、3か国を治める大名になる。</p>

<p>同じ頃、秀吉は朝廷の最高官職である関白に就任して、朝廷から豊臣姓を賜った。秀長も参議に就任し、従三位に列せられる。武士にとっての朝廷のポストや序列は、朝廷で仕事をするというよりステータスに箔をつける目的が大きい。出自が低い秀吉には、かなり重要なポイントだったのだ。</p>

<p>秀長は九州攻めにも副将として参戦。東西に分かれて同時に進行する軍の片翼を指揮し、約14万の兵で日向などの城を攻めて島津義久を降伏させた。この功績もあって大納言に昇進。大和大納言と呼ばれる。同時に大納言となった徳川家康とともに政権の序列3位として秀吉を支えた。</p>

<p>豊臣政権の要となった秀長は、温厚で情け深い性格もあって多くの大名から頼られた。大名同士や大名と秀吉の間の緩衝材となり、豊臣家臣団の結束力を保つ指南役を務めたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>晩年の秀吉はなぜ迷走したのか？</h2>

<p>秀吉の小田原攻め開始が秒読み状態となり、全国統一戦が総仕上げに入る時期に、秀長は重い病に倒れた。このため小田原攻めにも東北の平定にも参戦できず、秀吉の全国統一達成を病床で聞く。そして、翌年の天正19年(1591)正月22日に52歳で秀長は世を去った。秀吉は秀長の死を深く嘆き、盛大な葬儀で送り出した。葬列の見物には20万人が集まったという。家督は養子の秀保が継いだが、3年後に17歳の若さで病死。秀長が築いた大和豊臣家はわずか2代で断絶する。</p>

<p>秀吉に諫言できる数少ない身内だった秀長がいなくなり、秀吉は次第に迷走をはじめる。秀長逝去の直後には、政治の相談役として信頼してきたはずの千利休を切腹させた。利休の影響力が強まることを恐れたとされる。さらに、数年後には関白をゆずった豊臣秀次も切腹させた。実子の拾(秀頼)が誕生したことで、秀次が邪魔になったためともいわれる。そして、最晩年に断行した文禄・慶長の役は、国力を疲弊させるだけの結果となり&quot;老害&quot;の限りを尽くす晩年となってしまった。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 20 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>小和田哲男氏らが称賛！ 映画『長篠』4月17日公開。敗者・武田軍の視点で描く「軍議」と「愛」の物語  《PR》歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14106</link>
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			<description><![CDATA[2026年4月17日（金）に、長篠合戦450年記念映画として、映画『長篠』が公開される。小和田哲男氏をはじめ、歴史家や評論家が称賛する映画の内容を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="映画『長篠』より、秋山虎繁" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260409nagashino1n.jpg" width="1200" />映画『長篠』より、秋山虎繁</p>

<p>長篠の戦いの実相については、いまもなお議論が尽きず、歴史ファンの興味を引き付けてやまない。</p>

<p>そんな戦国時代を代表する合戦の謎に迫った映画『長篠』が、2026年4月17日（金）から、池袋シネマ・ロサほか全国で順次公開される。</p>

<p>歴史学者のみならず映画関係者からも称賛の声があがっているこの作品の魅力に、寄せられたコメントの数々とともに迫る。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>&quot;戦国&quot;群像劇、開幕！</h2>

<p><img alt="映画『長篠』より、武田家の重臣たち" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260409nagashino2n.jpg" width="1200" />映画『長篠』より、武田家の重臣たち</p>

<p>本作には歴史学者から多数の声が寄せられており、その一端を紹介しよう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>小和田哲男氏</p>

<p>「敗者武田勝頼の重臣たちの目線で描かれている点が特筆される。美濃岩村城代秋山虎繁と信長の叔母とのエピソードも盛り込まれていて興味深いつくりになっている」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>黒田基樹氏</p>

<p>「内容はかなり重厚で、率直に言って見応えがある。近年の研究成果がふんだんに取り入れられていて、戦国史ファンにとってかなり興味深い内容になっている」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>大石 学氏</p>

<p>「主演の二人の間の信頼や優しさは印象的で、ともすると成果や出世をめざして誇る現代の私たちに、それとは異なる生き方の大切さを示している。本作で描かれる奇跡は、歴史を越えて、人々が武力や才能よりも信頼や優しさを大切に思う気持ちの現れであり、本作の革新テーマである」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>呉座勇一氏</p>

<p>「長篠合戦前夜に馬場信春・山県昌景・内藤昌秀・土屋昌続が明日の敗戦を覚悟して別れの水盃を交わしたという逸話（「長篠日記」ほか）は周知のものであろう。けれども、もし前夜の段階で武田家の中枢を担う重臣たちが厭戦気分に支配されていたならば、史実のような武田軍の奮戦は考えにくい。</p>

<p>本作は、この問題に関して新解釈を施し、決戦前夜にあったかもしれない武田家重臣たちの大通寺での軍議を生々しく再現する」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>笹本正治氏</p>

<p>「興味深いのは秋山信繁（金児憲史）の妻のお艶（名前は仮、楊原京子）の役割を極めて大きく評価して、主役としている点である。男世界の武士団の中で女性がいかに活躍したかは大きな課題であるが、宮下氏は現代風に課題に近づいている。同時に武田家の家臣個々人が総体として主役になっており、特定の主人公に重きを置きすぎない点が新しく、好ましい」</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>映画評論家とあの名優はどう捉えたか？</h2>

<p><img alt="映画『長篠』より、織田信長とお艶の方" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260409nagashino3n.jpg" width="1200" />映画『長篠』より、織田信長とお艶の方</p>

<p>では、この歴史映画を、映画評論家はどう観たのだろうか。娯楽映画研究家の佐藤利明氏のコメントを紹介しよう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>佐藤利明氏（娯楽映画研究家）</p>

<p>「戦国映画において「長篠の戦い」といえば、騎馬軍団と鉄砲隊が激突するスペクタクルとして語られてきた。黒澤明の『影武者』（1980年）、北野武の『首』（2023年）をはじめ、映画やNHK大河ドラマ、さらにはゲーム「信長の野望」シリーズなどに至るまで、その合戦のヴィジュアルは繰り返し描かれ、我々の中に強く刷り込まれている。</p>

<p>だが宮下玄覇監督は、『信虎』に続く本作で、その常識を静かに裏返してみせる。描かれるのは合戦そのものではなく、「その前夜」。武田家の重臣たちがいかにして戦に向き合い、何を思い、いかなる決断へと至ったのか――そのプロセスを「軍議」という極めて静的な場面の連なりによって描き出していく。</p>

<p>天正3年、3万8千の織田・徳川連合軍に対し、1万5千の兵で臨む武田勝頼。主戦を唱える武田勝頼（小堀正博）と、老獪な側近たち。それに対し、信玄の恩顧を受けた重臣たちは慎重な姿勢を崩さない。両者の対立は、単なる戦略論の違いではなく、武田家を守るとは何か、武士としてどうあるべきかという価値観の衝突として浮かび上がる。その構図は、現代の政治や組織、企業経営にも通じる切実さを帯び、観る者に強い共感を呼び起こす。</p>

<p>その中で、ひときわ鮮烈な印象を残すのが、武田家重臣で美濃岩村城代・秋山虎繁を演じる金児憲史である。21世紀の「石原裕次郎を探せ！」オーディションで石原プロモーション入り、渡哲也、舘ひろしの薫陶を受けたその佇まいは、どこか往年の映画スターを思わせる。登場した瞬間に場の空気を変える力――いわば&quot;スクリーンに立つことの意味&quot;を体現する俳優である。その長身痩躯と豪快さは、まさに秋山虎繁、ベストキャスティングである。</p>

<p>豪放磊落でありながら、状況を冷静に見極める知将としての顔。そして、妻であるお艶の方への深い信頼と情愛。秋山虎繁という人物の持つ複雑な陰影を、金児は過不足なく掬い取る。本作がユニークなのは、この秋山と、信長の叔母でもあるお艶の方という二つの視点を軸に物語が展開される点にある。</p>

<p>観客は自然と二人に感情を預け、「この選択の正しさ」を確信する。そこに、宮下監督の歴史への、そしてあの時代を生きた人々への深いリスペクトが息づいている。</p>

<p>派手な合戦場面はないが、本作には確かな&quot;熱&quot;がある。それは、武田家を支えてきた者たちの矜持であり、その信念と決断である。戦わぬ道を模索しながらも、やがて避けがたく「負け戦」へと歩みを進めていく。その過程を見つめることで、歴史の一断面が、単なる出来事ではなく&quot;人の選択の積み重ね&quot;として立ち上がってくる。</p>

<p>そしてラスト。信長の前に引き出され、逆さ吊りにされた秋山虎繁が見せる眼光の鋭さ。死を前にした男の生命力を感じさせる。その中に宿るのは、武士としての揺るぎない矜持と、妻・お艶の方への深い愛情である。信長の逆鱗にふれたお艶の方がどう振る舞うのか。このラストは実に見事である。この映画は「生きることと、愛すること」について、考えさせられる」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>最後に、大河ドラマ『豊臣兄弟！』への出演が話題となっているあの名優のコメントも紹介しよう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>竹中直人（俳優・映画監督）</p>

<p>「全ての役を俺ひとりで演じ分けさせてくれっ！！！と思うくらいの衝撃作だ！！」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>映画『長篠』</p>

<p>2026年4月17日（金）、池袋シネマ・ロサほか全国順次公開</p>

<p>https://nagashino.jp/</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260409nagashino1n.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 17 Apr 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[《PR》歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉はなぜ爆速出世した？ 墨俣一夜城の真相と、驚きの城下町経営  柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14029</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014029</guid>
			<description><![CDATA[豊臣秀吉の青年期から長浜城主までの歩みを解説。信長の信頼を得た「金ヶ崎の退き口」や、初の城下町経営で見せた免税政策など、秀吉出世の背景をひも解き、有名な一夜城伝説の真偽にも迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="豊臣秀吉" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_hideyoshi2019G.jpg" width="1200" /><br />
&nbsp;</p>

<p>「戦国一の出世頭」として知られる豊臣秀吉。出自のわからない身分から天下人へと昇り詰めた彼の人生は、織田信長との出会いを抜きに語ることはできない。出世の足がかりとして語られる「墨俣一夜城」の真実や、命懸けの「殿（しんがり）」を務めた金ヶ崎の退き口、そして初めて城主となった長浜での画期的な政策など、秀吉躍進の軌跡を『豊臣兄弟！』の時代考証を担当する柴裕之氏が辿ります。</p>

<p>＊本稿は柴裕之監修『7つのキーワードでまるわかり　コミュ力お化け　豊臣秀吉』（主婦と生活社）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>家を出たのは母の再婚相手とそりが合わなかったから?</h2>

<p>天下人として現代に名を残している豊臣秀吉だが、その生涯は織田信長抜きに語ることはできない。下層身分の出身とされ、青年期までの動向もよくわかっていない秀吉の運命は、信長の家臣となって大きく変わった。</p>

<p>秀吉の出自は謎に包まれているが、有力な説を組み合わせると天文6年(1537)2月6日生まれで、両親は元足軽の父・弥右衛門と母・大政所(仲)。幼名(幼少期の名前)は不明である。</p>

<p>秀吉が7歳の頃に弥右衛門が亡くなり、母の再婚相手の筑阿弥と不仲だった秀吉は、家を飛び出して放浪の旅に出た。その旅の中で信長の存在を知り仕官したという。</p>

<p>信長のもとでは草履を用意する小者(雑用係)からのスタートだったが、愛嬌があり機転が利く秀吉はすぐに信長のお気に入りになり、トントン拍子で出世した。敵対勢力のスパイである上島主水（もんど）の正体を暴くために、槍試合を受けて立ったという逸話は創作の可能性が高いが、ときには度胸を武器に成り上がっていったのだろう。秀吉の名が確かな史料に登場するのは、29歳のときである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>浅井長政の裏切りが秀吉出世の糸口に</h2>

<p>信長が斎藤龍興に勝利して美濃を平定し、「天下布武」を掲げた戦いが美濃攻めである。秀吉もこの戦いに参戦し、交通の要衝・墨俣に一晩で城を築いて信長を感心させたという。この「墨俣一夜城」は創作だが、秀吉は砦を守って斎藤軍を撃退する活躍をしたようだ。</p>

<p>こののち信長は室町幕府の将軍・足利義昭に協力するため、当時の首都・京に乗り込む。秀吉も京で政治に関わりながら反対勢力との合戦に出陣した。</p>

<p>そして元亀元年(1570)、反対勢力の1つである越前の朝倉義景との戦いの最中に、信長軍は大ピンチに陥る。同盟相手である北近江の大名・浅井長政が敵に回ったのだ。長政は信長の妹・お市の夫だが、関係の深い朝倉家の味方に付くことを選んだのだ。</p>

<p>挟み撃ちを避けるため、信長は朝倉軍の激しい追撃を覚悟で撤退を決めた。このとき、最も危険な殿(しんがり)を引き受けたのが秀吉だ。秀吉は明智光秀・池田勝正と奮戦し、信長を京都に帰還させた。この「金ヶ崎の退き口」で、秀吉は信長からのさらなる信頼を得る。命をかけた戦いが出世の糸口になったのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>長浜の人口を爆増させたすごい政策</h2>

<p>浅井長政の裏切りを信長が許すはずはなく、長政は小谷城の戦いで敗れて自刃した。この合戦で長政を孤立させて戦況を有利に運んだ秀吉は、信長から浅井家の旧領を与えられた。</p>

<p>秀吉ははじめ、長政の居城だった小谷城に入ったが、小谷城は険しい山中にあって移動が難しい地形だった。そこで琵琶湖のほとりの水運が活発な今浜に本拠地を移し、ここに新しい城を築く。このとき秀吉は信長の名前から一文字を拝借し、今浜を長浜と改名。城も長浜城と名付けた。長浜城は秀吉が人生ではじめて手に入れた、つまり城主デビューを果たした城なのである。</p>

<p>秀吉は長浜城下にもともとある村を再編成しながら、小谷城周辺の城下町も長浜に移転させるなどして新しい城下町を充実させていった。人口を増やすために年貢(税)を免除するという思い切った政策も行っており、この特権は秀吉が本拠地を長浜から大坂などに移したのちも続けられた。秀吉が長浜に愛着を抱いていたことがうかがえる。この時期と前後して、秀吉は名前を木下藤吉郎から「羽柴秀吉」に改めている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>信長の手紙が語る「高評価家臣ランキング」</h2>

<p>室町幕府や朝倉・浅井軍を破った信長は、破竹の勢いで天下統一を進めていった。家臣の中でも浅井軍との戦いで長浜城主となった秀吉と、それより早く坂本城主となった明智光秀は、織田家臣団でも群を抜いた出世頭だった。</p>

<p>勢力拡大を狙う信長が次に展開した戦略は、方面軍体制である。これは日本全国の各方面に軍勢を派遣する作戦だ。ここで秀吉は難敵・毛利家が立ちはだかる中国地方の担当に抜てきされる。信長の厚い信頼による人選だ。</p>

<p>また、信長が古参の家臣・佐久間信盛を追放したときに送った手紙に、興味深い記述がある。大坂本願寺との戦いに手こずった信盛を「光秀と秀吉と勝家は立派な武功を上げているのに」と叱っているのだ。秀吉は信長の高評価家臣ランキングに入っていたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>一夜城伝説の墨俣城はどんな城？</h2>

<p>岐阜県大垣市、長良川西岸に位置する墨俣は古来の要衝で、かの「墨俣一夜城伝説」の舞台だ。</p>

<p>この伝説は、信長の美濃攻めの時、佐久間・柴田らの重臣が失敗した墨俣での砦の築城を藤吉郎(秀吉)がたった一夜で完成させたというものだ。江戸時代の読本『絵本太閤記』や古文書『武功夜話』に見られる伝説だが、信頼できる史料にも小瀬甫庵の『太閤記』には、一夜城どころか秀吉が墨俣城を築いたという記載はなく、後世の創作とされている。</p>

<p>ただし、当時斎藤家が築いた墨俣城があり、信長軍が攻略し前線基地としたこと(信長死後に流路が変わって廃城)、秀吉が美濃のどこかの砦を守ったこと、さらにこの美濃攻め以降に秀吉が重用されていくことは事実である。</p>

<p>ちなみに&ldquo;もう1つの一夜城&rdquo;石垣山城は、小田原攻めの時の豊臣軍の本陣で、『太閤記』などには即席の櫓に紙を貼って一夜で城を築いたと見せかけたとあるが、実際には4万人で80日かけて造られた、関東初の総石垣の城である。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_hideyoshi2019G.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 13 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[柴裕之（東洋大学・駒澤大学非常勤講師）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ対立は続く？イランvs米国を「民族・地政学・宗教」の3点で読み解く  宇山卓栄（著述家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14112</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014112</guid>
			<description><![CDATA[アメリカ・イラン関係を背景に、イランの本質を歴史的側面から解説。中東アラブ人とは異なるルーツ、19世紀から続く米露の覇権争い、シーア派特有の政治観など「民族」「地政学」「宗教」3つの視点で解き明かす。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="著述家の宇山卓栄氏がイランの本質を３つのポイントで解説する" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/iran.jpg" width="1200" /></p>

<p>イランとアメリカの緊張関係は、世界の安定を揺るがす大きな懸念事項となっている。なぜイランとアメリカは対立し続けているのか。その裏には、数千年に及ぶ民族の変遷、19世紀から続く大国の覇権争い、そしてイランに綿々と伝わる独自の宗教観が複雑に絡み合っている。本記事では、『歴史街道』2019年9月号に掲載された宇山卓栄氏の記事「３つのポイントから読み解く『イランの本質』」より、「民族」「地政学」「宗教」の3つの視点から、謎に包まれたイランの本質を解き明かす。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2019年9月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>イランとアメリカの緊張関係が、かつてない局面を迎えている。2026年4月、ホルムズ海峡の封鎖や米軍機の撃墜を経て、両国はパキスタンの仲介による「2週間の即時停戦」に合意した。最悪の軍事衝突は一旦回避されたものの、依然としてイスラエルによる空爆は継続しており、情勢は予断を許さない。世界の危機の震源地として、今後も、イランが注目される。イランでは、最高指導者が政治や軍事の大権を握り、大統領が首相の役割を担い、議会や行政を動かす。イランはいったい、どのような歴史を持つ国なのだろうか。民族、地政学、宗教の3つの視点で、イランの深層に迫る。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【民族】イラン人は中東アラブ人とは異なる民族系列</h2>

<p>イラン人は元々、イラク人をはじめとする中東アラブ人とは異なる民族系列に属する。イラン人もイラク人も同じように見えるが、イラン人はインド・ヨーロッパ語族、いわゆるヨーロッパ人と同じ系列に属する。</p>

<p>紀元前2000年頃、中央アジアを原住地とするインド・ヨーロッパ語族は、ユーラシア大陸の広大な範囲に移住拡大し、東を目指した一派はインドへ、そして、西を目指した一派はイランやヨーロッパへ入った。</p>

<p>古代において、イラン人の容貌は白人ヨーロッパ人に近かったと考えられる。<br />
イラン人は中東地域にあって、長い年月をかけ、アラブ人との混血を繰り返し、事実上、アラブ人化して今日に至る。</p>

<p>混血種はそれぞれの民族の長所をよく継承し、その美しさを凝縮した特性を兼ね備えた容貌を遺伝子的に形成していくとされる。<br />
そうしたイランの混血種の美しい女性を狙ったのが、アレクサンドロス大王である。</p>

<p>紀元前330年、ギリシア人勢力を率いるアレクサンドロス大王が来襲し、当時のイランのアケメネス朝ペルシアは滅ぼされた。大王はギリシアとオリエント（中東地域のこと）を統合し、ヘレニズム（ギリシア風）の帝国をつくる。</p>

<p>アレクサンドロス大王らギリシア人はイランで、男性を大量虐殺し、女性を集団強姦した。ギリシア男性と被征服民のイラン人女性が「集団結婚」したと一般に解説されるが、父や兄弟を殺したギリシア人を、イラン人女性が好んで結婚することなどあろうはずがない。</p>

<p>この時代、キリスト教などの倫理宗教が無く、虐殺や強姦が平然と行われていた時代であった。力による支配が全てであり、美しいイラン人女性は征服者の餌食になったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「イラン」とは、「アーリア人」の国の意</h2>

<p>イラン人をはじめとするインド・ヨーロッパ語族は、アーリア人とも呼ばれる。 「アーリア」というのは「高貴な」という意味であり、ペルシア語（イラン語）では「ariia」、サンスクリット語では「ārya」と表記される。「イラン（アーラン）」は「アーリア人の国」、つまり「高貴なる者の国」という意味を持つ。</p>

<p>このように、「イラン」というのは地名を表すものではなかったため、「ペルシア」という地名を表す国名が古代から一般的に使われていた。「ペルシア」は「騎馬者」という意味の「パールス（Pars）」を語源にしており、「騎馬者たちの住む地域」という意味で「ペルシア」という形になる。</p>

<p>アーリア人は他の民族と比べ、自分たちを「高貴なる者」とし、自分たちの優位性を主張しながら、中東でアラブ人（セム語族）を支配した。</p>

<p>アーリア人と聞くと、一般にヒトラーのアーリア人優位主義が想起されるだろう。「アーリア人」は古代史の中で使われる古い歴史用語に過ぎなかったが、19世紀になり、オリエンタリズム（東方趣味）が流行する中、「アーリア人」という言葉がその神秘的な響きと相まって、大きな注目を浴び、次第にオカルト的な意味合いを持つようになる。</p>

<p>やがて、ヨーロッパ諸民族の祖先としてのアーリア人を崇めるという風潮が、民族主義者たちの間で強まった。20世紀、このオカルト的な意味での「アーリア人」をフルに利用したのが、ヒトラーの率いるナチスだった。</p>

<p>紀元前6世紀、イラン人の王国アケメネス朝が建国され、中東地域における、最初の長期統一政権となる。<br />
アケメネス朝は「ペルシア」を国号とした。この国号を、226年に建国されたササン朝も用いた。ササン朝は強大な力を誇り、中東から中央アジア、インド西北部に至るまで支配した。</p>

<p>7世紀に、預言者ムハンマド（英語名はマホメット）が出て、中東地域全体をイスラム化し、統合すると、イラン人のアラブ人化が急速に進む。因みに、ムハンマドは純然たるアラブ人である。またイラン人は、従来のイラン人独自の民族主義的宗教であるゾロアスター教を捨て、イスラム教に帰依していく。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【地政学】大国の覇権争いは19世紀以来、変わっていない</h2>

<p>トランプ大統領は第1次政権時の2018年5月、欧州諸国に引き止められたにもかかわらず、欧米など6カ国とイランが結んだイラン核合意（2015年締結）から離脱し、イランに対する経済制裁を再開した。</p>

<p>妥協の産物として締結されたイラン核合意では、イランの核武装を止めることはできないとトランプ大統領は主張している。</p>

<p>アメリカは同年4月、イギリス・フランスとともに、シリアのアサド政権が化学兵器を使用したとして、シリアの化学兵器関連施設へミサイル攻撃をした。シリアへの攻撃は2017年4月に次ぎ2回目となる。</p>

<p>一方、ロシアはシリアを支援しながら、イランとの連携を深めた。今日のアメリカとイランの対立は、中東という資源地域を巡るアメリカとロシアの覇権争いというマクロの構図で読み解くことが欠かせない。</p>

<p>そして、このような大国の覇権争いの構図は19世紀以来、中東地域では一貫して変わることがない。</p>

<p>ロシアは19世紀、「南下政策」により、イラン（当時はカージャール朝）へ進出して、中東への支配の拠点とした。ロシアはイランからアルメニアを獲得し、カスピ海西岸を経由するルートで、イランに入り、さらに東方のアフガニスタンに向かって進出した。</p>

<p>インド防衛を重視するイギリスもアフガニスタンに進出し、1856年、カージャール朝イランの勢力を駆逐した。</p>

<p>カージャール朝はイギリスに和睦を請い、イギリスに治外法権、貿易上の特権を与えた。<br />
こうして、カージャール朝はロシアとイギリスによる二重支配を被るに至る。<br />
ロシアとイギリスはイラン支配を巡り、激しく争った。この両国の駆け引きは「グレート・ゲーム」と呼ばれる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>アメリカの存在感がなければ、中東はロシアの傘下に組み入れられてしまう</h2>

<p>今日でも、イランを中心に地政学的な覇権争いは続いている。中東において、アメリカのプレゼンス（存在感）がしっかりとしていなければ、中東はアッという間に、ロシアの傘下に組み入れられてしまう。欧州諸国は長い間、中東政策で、事なかれ主義のぬるま湯に浸かり過ぎていたが、アメリカは絶対に妥協できない。</p>

<p>かつてトランプ大統領は「アメリカを脅していると、過去の歴史でもほとんどないような報いを受けるだろう」と述べている。アメリカのシリア攻撃、イラン核合意離脱、大使館のエルサレム移転などは、中東におけるアメリカのプレゼンスを再編・確立するための重要な布石であったと見ることができる。</p>

<p>第2次世界大戦後、イランでは、工業化とともに、民族資本が台頭し、国王と激しく対立した。<br />
国王のパフレヴィー2世は民族資本に対抗するため、イギリスのみならず、アメリカにも頼った。アメリカはパフレヴィー2世との連携を強化し、積極的に支援した。</p>

<p>ところが、イラン民族資本はシーア派最高指導者ホメイニを担ぎ上げ、イラン国民もホメイニに従い、米英を排除するべく立ち上がり、1979年、イラン革命となる。パフレヴィー2世は退位し、エジプトに亡命する。</p>

<p>そしてホメイニの指導で、反米のイラン・イスラム共和国が成立した。ホメイニは石油国有化に踏み切り、石油輸出を制限したため、石油の国際価格が急上昇し、第二次石油危機が発生した。</p>

<p>米英はイランの利権を失った。アメリカはホメイニ政権を潰すため、隣国のイラクを全面支援し、1980年、イラン・イラク戦争がはじまる。イランとアメリカとの確執はこの時以来のものである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【宗教】なぜイランにはシーア派が多いのか？</h2>

<p>現在、イスラム世界全体において、スンナ派が多数派であり、シーア派は約10％しかいないが、イランに限って言えば、約90％の国民がシーア派である。なぜ、イランではシーア派が信奉されているのだろうか。</p>

<p>イスラムの預言者ムハンマドの娘ファーティマとその婿のアリーの子孫だけを、正統なムハンマドの後継者と認める人々は「シーア・アリー」（アリーの信奉者）、略して「シーア派」と呼ばれるようになる。</p>

<p>シーア派はアリーを初代の「イマーム」（「指導者」の意）とし、アリーとファーティマの子孫を「イマーム」と認める。</p>

<p>「イマーム」は神と人間を結びつける指導者であり、預言者ムハンマドの血統によって決まる君主である。<br />
これに対し、スンナ派は選挙や戦争などにより、人間が選ぶ「カリフ」（最高権威者）に従う。</p>

<p>シーア派は、人間の判断は神の判断には及ばないとして、指導者を恣意的な人間の判断で選ぶべきではないと主張する。また、シーア派は、人間の判断で選ばれた指導者は批判されるべき存在であると考えるため、スンナ派の政府に対する反体制者の拠り所となる。</p>

<p>このシーア派が歴史的に、イラン人に受け継がれてきたのは、イラン人が反体制者として、アラブ人などの多数派のスンナ派勢力に対抗するため、という側面もある。</p>

<p>実際に、10世紀に台頭したイラン人のブワイフ朝はシーア派を奉じ、スンナ派のアッバース朝に対抗した。16世紀に台頭した同じくイラン人のサファヴィー朝は、スンナ派のオスマン帝国に対抗した。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>彼らが戦いをやめない理由</h2>

<p>ムハンマドの血統を重んじるシーア派は、原理主義的で神秘主義的な傾向が強い。<br />
イランの王朝は、スンナ派を徹底的に憎悪する人々を軍隊の中核に配置し、統率力を高めようとした。</p>

<p>イラン人が正統と認める「イマーム」は、初代アリーから12代ムハンマド・ムンタザルまでの12人いた（12イマーム派）。これ以降、直系の継承者が絶えたが、イマームは死に絶えたのではなく、人々の前から姿を消し、隠れたのだと考えられている。</p>

<p>この「隠れ（幽隠）」のことを「ガイバ」と言う。「ガイバ」の状態にあるイマームは最後の審判の日に、この世に再臨すると信じられている。<br />
そして、かつてのイマームたちの家族やその子孫たち、彼らの血筋を引く者が「サイイド」とされる。「サイイド」はアラビア語で「血筋」を表す言葉だ。ホメイニやハメネイ師のような「サイイド」が最高指導者として、「イマーム」が再臨する日まで、「イマーム」の統治を代行している。</p>

<p>そのため、イランでは、最高指導者が国民に選ばれた大統領よりも強大な権限を持ち、国家の最終意思決定者として君臨する。<br />
まさに、シーア派の思想が政治においても実践されており、そうした観点からもイランは宗教国家と言える。</p>

<p>このような国家は「神の名」において、妥協をすることはしないであろうし、アメリカが強硬に出れば出る程、彼らは「ジハード（聖戦）」の大義名分を掲げ、戦いに挑むだろう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 10 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄（著述家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>大河『豊臣兄弟！』山口馬木也と巡る越前・北庄　「鬼柴田」は家族思いで領民に寄り添う名君だった！  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14100</link>
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			<description><![CDATA[大河ドラマ『豊臣兄弟！』で柴田勝家を演じる山口馬木也さんが、勝家ゆかりの地を求めて福井を訪問。「鬼柴田」と呼ばれた勝家の人物像に迫ります。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="『豊臣兄弟！』で柴田勝家を演じる山口馬木也さんが福井を訪問" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya1.jpg" width="1200" /></p>

<p>織田信長の筆頭家老として「北陸の門番」を託された柴田勝家。越前国（現在の福井県北部）を拝領し、賤ケ岳の戦いに敗れて生涯を閉じるまでは、変容する時代の波に抗い、武士としての矜持を貫き通した後半生でした。『豊臣兄弟！』で柴田勝家役を演じる山口馬木也さんが、福井県に点在する勝家ゆかりの地を訪問。その様子を、おとどけします。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>焼野原の一乗谷ではなく北庄に巨大な城をつくる</h2>

<p><img alt="「信長軍が焼き討ちを行った一乗谷がこのような山間の空間であることに驚きました。撮影前に訪れていれば、もう少し違った勝家を出せたかもしれませんね」（山口さん）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya2.jpg" width="1200" /></p>

<p>福井を訪ねるのは初めて、という山口さんが最初に立ち寄ったのは「一乗谷朝倉氏遺跡」。一乗谷は信長軍によって滅ぼされた朝倉氏の本拠地でした。勝家も一乗谷の焼き討ちに加わっています。朝倉氏が滅びてから2年後の天正3年（1575）、勝家は越前の大部分を任され、焼野原となった一乗谷ではなく、北庄に本拠地を移して9層の天守を持つ巨大な城を建設しました。</p>

<p>北庄は、京都と北陸を結ぶ北国街道上にあり、足羽川による水上交通のターミナルです。日本海交易で栄えた三国湊にも、舟運でつながっています。北庄の平城は山あいの一乗谷城と違い、城下町を拡大しやすく、一向一揆の勢力がくすぶる加賀方面へも軍勢を動かしやすく、上杉謙信ら東方の脅威に備えるフロントラインとしても最適でした。</p>

<p>主君である信長が次々と新しい町づくりに着手したように、勝家もまた北庄に新たな物流拠点や軍事のネットワークを築こうとしたのでしょう。</p>

<p><img alt="「信長軍が焼き討ちを行った一乗谷がこのような山間の空間であることに驚きました。撮影前に訪れていれば、もう少し違った勝家を出せたかもしれませんね」（山口さん）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya3.jpg" width="1200" /></p>

<p>「信長軍が焼き討ちを行った一乗谷がこのような山間の空間であることに驚きました。撮影前に訪れていれば、もう少し違った勝家を出せたかもしれませんね」（山口さん）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>民政に見る剛毅さと繊細さ・西蓮寺と明智神社</h2>

<p><img alt="勝家自筆の安堵状" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya5.jpg" width="1200" />勝家自筆の安堵状</p>

<p>勝家は「鬼柴田」の異名が示す通り、武骨な軍人というイメージが強いですが、越前の地を歩くと、その統治がいかに細やかで領民に寄り添ったものであったかがわかります。</p>

<p>勝家は朝倉攻めや一向一揆で荒廃した寺社を保護し、地域の治安維持に心血を注ぎました。一乗谷への大手道の入口にあたる東大味町の西蓮寺には、勝家が発した安堵状や柴田勝家公御木像が残されています。近くにある明智神社（明智光秀を祀る神社）は、もともと光秀の住居跡であったという伝承があり、勝家は本能寺の変後も光秀ゆかりの地に手荒なことをせずに治めていたと想像できます。</p>

<p>勝家は、政情不安定な越前において、力でねじ伏せるのではなく、秀吉に先駆けて刀ざらえ（刀狩り）を実行して兵農分離を推し進めており、領民にとっては恐ろしい征服者ではなく、安寧をもたらす名君だったのではないでしょうか。</p>

<p><img alt="西蓮寺に伝わる柴田勝家公御木像に手を合わせる山口さん" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya4.jpg" width="900" />西蓮寺に伝わる柴田勝家公御木像に手を合わせる山口さん</p>

<p><img alt="山口さんが訪れると東大味町の町民が西蓮寺に集まり、勝家様の歓迎ムード一色。" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya6.jpg" width="1200" />山口さんが訪れると東大味町の町民が西蓮寺に集まり、勝家様の歓迎ムード一色</p>

<p>坂井市の丸岡城は、北庄城の支城として勝家の甥・柴田勝豊（かつとよ）によって築かれました。勝家の時代には加賀国をにらんだ攻撃と防衛の拠点で、天守は、江戸時代以前に建設された「現存12天守」の一つです。</p>

<p><img alt="重要文化財である丸岡城天守" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya7.jpg" width="1200" />重要文化財である丸岡城天守</p>

<p>当時の越前は、上杉謙信という巨大な脅威と対峙する最前線でした。丸岡城の武骨な野面積みの石垣を見上げると、雪深い北陸の地で、常に死と隣り合わせの緊張感を抱きながら「織田の壁」であり続けた勝家と勝豊の矜持が伝わってきます。</p>

<p><img alt="坂井市の池田禎孝（よしたか）市長と角明浩学芸員の案内で傾斜角約65度の丸岡城の階段を昇る山口さん" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya8.jpg" width="900" />坂井市の池田禎孝（よしたか）市長と角明浩学芸員の案内で傾斜角約65度の丸岡城の階段を昇る山口さん</p>

<p><img alt="「いままでお城に住みたいと思ったことは一度もないですが、丸岡城のフォルムの美しさと威容を見ると思わず住んでみたくなりました（笑）」（山口さん）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya9.jpg" width="1200" /></p>

<p>「いままでお城に住みたいと思ったことは一度もないですが、丸岡城のフォルムの美しさと威容を見ると思わず住んでみたくなりました（笑）」（山口さん）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>男の散り際の美学・柴田神社と西光寺</h2>

<p><img alt="西光寺の墓に手を合わせる山口馬木也さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya12.jpg" width="1200" /><br />
西光寺の墓に手を合わせる山口さん</p>

<p>勝家の後半生は、本能寺の変、清須会議、そしてお市の方との結婚と続き、賤ケ岳の戦いで秀吉に敗北して北庄城で最期を迎えます。</p>

<p>北庄城を囲まれた際、勝家はお市の方と三姉妹に城を出るよう促しました。しかし、お市の方は共に死ぬことを選びました。北庄城の跡地に建つ柴田神社は、勝家とお市の方を、そして柴田神社の境内社・三姉妹神社では浅井三姉妹を祀っています。</p>

<p>ここで見えてくるのは、冷徹な武将としての顔ではなく、愛する妻子を最後まで守り抜こうとした、勝家の夫としての父としての素顔でした。</p>

<p><img alt="北庄城跡" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya10.jpg" width="1200" />北庄城跡</p>

<p>北庄で自害した勝家とお市の方はいま、福井市の西光寺に眠っています。西光寺は天台真盛宗のお寺であり、もともと朝倉氏が滅ぼした相手を弔うために建立したもので、その朝倉氏を滅ぼした勝家とお市夫妻が弔われているというのは奇縁でしょう。さらにいうと、天台真盛宗の総本山西教寺が明智光秀の菩提寺という偶然は、運命のいたずらとしか思えません。</p>

<p>西光寺には、勝家が大切にしていた宝刀や念持仏、そのほか数々の遺品が展示されている「柴田勝家公資料館」があります。</p>

<p>北庄城落城の際、勝家は「夏の夜の　夢路はかなき　跡の名に　雲井まであげよ　山ほととぎす」という辞世の句を詠みました。一乗谷から始まり、西光寺で終わる勝家の越前での足跡を辿ると、勝家という人物の多面的な魅力が浮かび上がります。</p>

<p>勝家は秀吉のようなしなやかな如才なさは持ち合わせていませんでしたが、越前の地には、彼を慕った人々の記憶が今も深く息づいています。</p>

<p><img alt="辞世の句" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260407YamaguchiMakiya11.jpg" width="900" />辞世の句</p>

<p>西光寺の墓に手を合わせた山口さんは、心の中でお二人はどんなご夫婦だったのですかと問いかけたという。「勝家の最期の撮影の際、私の中でどのような&ldquo;走馬灯&rdquo;がよぎるのか。いまから楽しみですし、期待していただきたいですね」（山口さん）</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 10 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>北斎や国芳の妖怪が躍動！「動き出す妖怪展 TOKYO」レポ “イマーシブ”な異世界への没入感がすごい  PHPオンライン編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14053</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014053</guid>
			<description><![CDATA[天王洲で「動き出す妖怪展 TOKYO」が開催中。北斎や国芳の描いた江戸の妖怪が3DCGやプロジェクションマッピングで躍動！音や香りも駆使した演出で、異世界へ迷い込む体験をレポ。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="動き出す妖怪展TOKYO" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai2.jpg" width="1200" /><br />
「動き出す妖怪展 TOKYO」展示風景、寺田倉庫 G1ビル、2026年、以下同</p>

<p>江戸の絵師たちが描いた魑魅魍魎が、最新のデジタル技術で現代に蘇る。2026年3月27日から6月28日まで、東京・天王洲で「動き出す妖怪展 TOKYO」が開催中。3DCGや香り、音の演出で妖怪の世界に没入できる体験型ミュージアムとのこと。さっそく「没入」しに行ってみた！</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>江戸の町中に入り込んでいる感覚</h2>

<p><img alt="動き出す妖怪展 TOKYO" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai3.jpg" width="1200" /><br />
鳥山石燕、葛飾北斎、歌川国芳...いずれも江戸期に活躍した絵師だが、彼らに共通するのは、「妖怪」を描いたこと。2026年3月27日（金）から東京の天王洲にて、「動き出す妖怪展　TOKYO」が開催中だ。</p>

<p>「動き出す」と銘打っているように、本展では絵師の描いた妖怪たちが、3DCGやプロジェクションマッピングなどのデジタル技術で「動く」展覧会となっている。<br />
「本展は没入型のデジタルアートミュージアムです。妖怪がいろんなところに登場しますので、視点を変えながら、妖怪を見つけて楽しんでいただきたい」（東山武明氏／株式会社一旗代表取締役・プロデューサー）とのこと。</p>

<p>部屋に入ると、前面と左右の壁、床一面に映像が映し出され、江戸の瓦屋根の上や海面を妖怪たちが縦横無尽に跋扈している。映像にぐるりと取り囲まれ、妖怪たちと一緒に江戸の町や海の中に一緒に入り込んでいる感覚になる。</p>

<p>館内は部屋ごとに異なるテーマで構成されており、お化け屋敷のような、ちょっと怖い妖怪がいる部屋、魔よけの効果があるという藤の花がアレンジされた幻想的な部屋など、音や香りも演出に生かされ、没入感覚を味わう仕掛けに満ちている。</p>

<p>縁日をテーマにした部屋では、映像に触れると妖怪が変化したり、輪投げや砂遊びなど遊びの要素があり、小さいお子さんも楽しめそう。</p>

<p>土・日と春休み・ゴールデンウィーク期間中には「妖怪グリーティング」と称して妖怪たちが会場を巡回するとのこと。取材時には河童が縁日ゾーンをうろうろしており、「妖怪ちゃぶ台」で遊ぶなどしていた。「一緒に遊ぼう」と誘っているのかもしれない。ありがたいが、ちょっと怖い。</p>

<p>ほかにも何体か遭遇したが、「子供だましの変装」ではないことを申し添えておく。</p>

<p><img alt="動き出す妖怪展 TOKYO" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai5.jpg" width="1200" /><br />
妖怪ちゃぶ台。手をかざすと妖怪が変化する</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>妖怪文化とは何か</h2>

<p><img alt="動き出す妖怪展 TOKYO" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai4.jpg" width="1200" /><br />
会場内を徘徊する絡新婦（じょろうぐも）さんに遭遇</p>

<p>本展では映像作品を楽しめるだけでなく、妖怪が描かれてきた歴史の解説も充実している。</p>

<p>「妖怪というと河童や天狗、ぬらりひょんといった名前がついているものたちを想像されると思うんですが、まだまだそいつらはごく一部であって、絵師が戯れで描いたようなものなど、名前がついていない妖怪も色々いるんです。まさに魑魅魍魎の世界。そんな世界に入り込んでいただくと同時に、絵師たちはなぜ妖怪を描こうと思ったのか。妖怪文化とは何か？といったことを階層的に楽しむことができる作りになっています。だから、個々の妖怪の解説はかえって少ないんですよ」（解説監修：島田尚幸／妖怪文化研究家）</p>

<p>江戸の絵師たちがどんな妖怪を描いてきたのか、その作品とともに体系的に紹介されていて、見ごたえ満点。低い位置には子ども向けの解説パネルもちゃんとある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「あの浮世絵」が躍動するさまを</h2>

<p><img alt="動き出す妖怪展 TOKYO" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai1.jpg" width="1200" /></p>

<p>「妖怪というと、古臭いものというイメージがあると思うんですけど、妖怪画の歴史を見てみると、西洋から絵の具が入ってきたら使ってみたり、西洋絵画の技法を用いてみたり、実験的に最先端の技術を取り入れているんですよ。だから、妖怪と最先端の技術との親和性は非常に高いと思います。そもそも妖怪は幻想の世界と現実の世界を軽く超越していくものなんです」（島田氏）</p>

<p>映像作品に用いられている妖怪たちは、元の作品の雰囲気がそのまま生かされており、「浮世絵で見たあの絵が躍動している！」とちょっと感動的だ。映像にはストーリー性が感じられるうえ、「この妖怪はかわいい」「こいつは何をしている？」とそれぞれの妖怪をじっくりと鑑賞したくなる。</p>

<p>歴史とアートとエンターテインメントが融合した本展は、江戸にタイムスリップしているようで、異世界に入り込んでいるようでもある。妖怪好きも妖怪に詳しくない方も、大人も子どもも楽しめる、時空を超えた遊園地。時間をたっぷりとって、存分に味わいたい展覧会だ。</p>

<p>動き出す妖怪展 TOKYO ～Imagination of Japan～<br />
2026年3月27日（金）～6月28日（日） 9:30～20:00（最終入場19:30）<br />
※期間中休館日なし<br />
※最終日 6月28日は17:00まで（最終入場16:30)　<br />
【会場】 寺田倉庫 G1ビル (東京都品川区東品川2-6-4)<br />
【チケット】<br />
〈料金〉大人:2,600円、学生(高・大・専門):1,800円、子ども(4歳以上中学生以下):800円、シニア(65歳以上):2,500円<br />
〈障がい者等割引〉大人:1,200円、子ども(4歳以上中学生以下):500円<br />
※3歳以下の入場は無料です。（チケット不要）</p>

<p>https://www.yokaiimmersive.com/tokyo</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260327ugokuyokai2.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 07 Apr 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[PHPオンライン編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>コッペパンにソフト麺...日本の給食の歩みをさぐる  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12007</link>
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			<description><![CDATA[給食が日本で始まったのはいつ？ 時代とともに変遷するメニューにはどんな背景が？　給食の歴史をひもといてみましょう。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="学校給食" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_kyusyoku.jpg" width="1200" /></p>

<p>子どものころ、学校で食べた給食。みなさんはどんな思い出があるでしょうか。楽しみだった、苦手な食べ物が出てきて困った......。年代や地域によって、「定番メニュー」にも違いがありそうです。そんな給食ですが、日本で始まったのはいつなのでしょうか。また、時代とともに変遷するメニューには、どんな背景があるのでしょうか。昔懐かしいものから、最新事情まで、給食の歴史をひもといてみましょう。</p>

<p>小学校や中学校の給食の思い出は人によって違い、おいしくて楽しみだったという人もいれば、苦手なものを残すと怒られて苦痛だったという人もいるだろう。給食のメニューは時代ごとに大きく移り変わっており、世代によっても給食に対するイメージはかなり違う。</p>

<p>日本における給食の歴史は、短く見ても100年以上、長く見れば200年以上にもなる。そういう意味では、もはや日本の食文化のひとつといっても過言ではない。ここでは、そんな日本の給食の歴史を紹介していきたい。</p>

<p>【奈落一騎（ならくいっき／文筆業 ）】 歴史、宗教、哲学、文芸などを対象に幅広く執筆。 著書に『江戸川乱歩語辞典』『競馬語辞典』『門外漢の仏教』『スーパー名馬伝説』、 グループSKIT名での共著に『元号でたどる日本史』などがある。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2024年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>江戸時代には給食が始まっていた!?</h2>

<p>日本で給食が始まった年については、給食関係の資料は、どれも明治22年（1889）だとしている。山形県鶴岡町（現・鶴岡市）の私立忠愛小学校で出された昼食が、日本初の学校給食だったというのが給食史の通説だ。そのメニューは、おにぎりと塩鮭、菜の漬物といった程度で、現代の私たちから見ると多少寂しいが、当時の食事としてはとくに質素なわけでもない。</p>

<p>ただ、この忠愛小学校よりも100年近く前、江戸後期の文化3年（1806）に、新島八重の兄である山本覚馬や、白虎隊の少年たちを輩出した会津藩の藩校・日新館で、15歳以上の生徒に昼食が出されたという記録が残されている。メニューは忠愛小学校とほとんど変わらないもので、これを日本で最初の給食だとする説もある。</p>

<p>日新館で昼食が提供された理由は、貧しい藩士の子弟も食事の心配をせずに勉学に集中してもらうためである。これは、学校給食というものの根底にある考え方だ。</p>

<p>19世紀から20世紀初頭にかけて、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカなど世界各国で学校給食が普及していったが、どの国でも貧困家庭の子どもの栄養状態を改善するというのが、制度を導入したときの最大の目的だった。先に名前を挙げた忠愛小学校も同様で、生活が苦しい家庭の子どもに無償で昼食を用意しようということで始まっている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>太平洋戦争末期、食糧不足から中止に</h2>

<p>日本初の給食が日新館か忠愛小学校かは置いておくとして、明治時代後半に入ると、少しずつ全国に給食は広まっていった。だが、それらは各学校が慈善事業として独自に行なっていたもので、制度として定着していたわけではない。</p>

<p>自治体が本格的に取り組むようになったのは、大正8年（1919）からだ。この年、東京府は府直轄の小学校で学校給食を開始している。その4年後に政府が児童の栄養改善のために学校給食を奨励するようになり、各道府県にも給食が普及していった。</p>

<p>当時のメニューとして、ひき肉とサトイモなどの野菜の混ざった五色ごはんと、具沢山の栄養味噌汁が出されたという記録が残されている。</p>

<p>もっとも、この時点でも学校給食はまだ国の制度にはなっていない。国の政策として実施されるようになったのは、昭和7年（1932）からで、この年初めて国庫補助による貧困児童救済のための学校給食が全国的に実施された。以後、給食を提供する対象は貧困児童だけでなく、栄養不良児、身体虚弱児にも拡大。また、内容の充実が図られていった。</p>

<p>そんな昭和初期のメニューは、米飯にホウレン草のホワイト煮と鰆のつけ焼きなど、明治・大正期とは大きく様変わりしている。</p>

<p>しかし、昭和16年（1941）に太平洋戦争が勃発すると、次第に国内の食糧不足が深刻になり、給食の内容も劣化。翌年には、給食がすいとんの味噌汁だけという事態になってしまう。やがては、それすらも維持できなくなり、戦争末期になると給食は中止を余儀なくされた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>アメリカの意向で米食からパン食へ</h2>

<p>昭和20年（1945）に日本は終戦を迎えたが、依然、国内の食糧難は続いており、子どもたちの栄養状態の悪化も深刻だった。それを救ったのが、アメリカ在住の日系人である浅野七之助の尽力で実現した、日本向け援助物資のララ物資だ。</p>

<p>このララ物資には衣類や薬品なども含まれていたが、その多くは食料品で、これを基に日本の給食は再開される運びとなる。</p>

<p>昭和21年（1946）12月24日に物資の贈呈式が都内の小学校で行なわれ、これが現在も毎年1月24日から30日まで学校給食の意義や役割についての関心を高めるために実施されている「学校給食週間」の起源だ。</p>

<p>こうして子どもたちの飢餓は回避されることとなったが、当時の給食を食べた世代が口を揃えていうのが、給食に出た脱脂粉乳はまずかった、ということである。ララ物資のなかに大量にあった脱脂粉乳は、牛乳から脂肪分を取り除いて粉末状にしたもので、お湯で溶いて飲む。</p>

<p>スキムミルクとも呼ばれる脱脂粉乳は、栄養価が高いのに低カロリーであることから現代では美容食品として人気だが、そのころの日本人の口にあうものではなかった。しかも、食糧不足のなかで最低限の栄養を確保することが優先されたため、戦後再開された当初の給食はトマトシチューと脱脂粉乳のみといった奇妙な組み合わせのものも多かった。</p>

<p>戦後の給食において脱脂粉乳と並ぶ大きなトピックが、米食からパン食への転換だろう。昭和25年（1950）にアメリカから寄贈された小麦粉により、パンを主食とした完全給食が実施されることとなった。完全給食とは、主食（パンや米飯）、ミルク（牛乳や脱脂粉乳）、おかずの組み合わせによる、栄養バランスのいい給食のことである。</p>

<p>その結果、コッペパン、ミルク（脱脂粉乳）、コロッケ、ポタージュスープ、千切りキャベツといった、いま出されても違和感のない給食が出るようになった。余談だが、コッペパンのコッペとはフランス語の「切られた」が語源ともされているが、日本で独自に誕生したパンで、その名称も和製英語だ。</p>

<p>ところで、この米食からパン食への転換には戦勝国であるアメリカの意向が強く働いており、その裏には自国の余剰小麦を処分する狙いがあったという説がある。その真偽はともかく、将来的には日本を小麦の市場にしたいという意図がアメリカにあったことは確かだ。事実、給食を通してパンに馴染んだ戦後の日本では、米の消費量が減り続けた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>多様化する現代の学校給食</h2>

<p>昭和29年（1954）に「学校給食法」が制定されたことで、地方自治体でも児童への完全給食が提供されるようになり、ようやく学校給食は全国共通のものとなった。</p>

<p>当時のメニューで子どもたちに人気だったのが、鯨の竜田揚げだ。低カロリーで高タンパクながら安価だった鯨肉は、給食に使いやすく、鯨肉を使ったメニューは昭和後期までポピュラーなものだった。</p>

<p>高度経済成長期を経て日本が豊かになった1960年代ごろから、脱脂粉乳が牛乳に変わり、またコッペパンだけだったパンは、揚げパンなどの調理パンも提供されるようになっていった。そして、昭和40年（1965）に、ソフト麺が登場する。</p>

<p>袋から出した麺をミートソースやあんかけなどと絡めて食べるこのソフト麺は、正式名称をソフト・スパゲティ式麺といい、登場以来、長いあいだ子どもたちに人気のメニューだった。だが、残念ながら近年は給食から姿を消しつつある。</p>

<p>ソフト麺が衰退した一因とも言われているのが、昭和51年（1976）から給食に導入されることになった米飯だ。先に紹介したように、戦後の日本の給食はアメリカの占領政策によってパン食となったが、米余りの解消と日本の食文化を教育する目的から、米飯が復活したのである。</p>

<p>これに伴い、カレーライスなどが人気の給食メニューとなった。ちなみに、米飯の提供は、当初は月に数回程度だったが、2000年代以降は週に3回程度に増えている。</p>

<p>年号が昭和から平成に変わったころから、給食のメニューはさらに多様化するようになった。イタリア料理、フランス料理といった国際色豊かなメニューや、各地域でその土地の郷土料理なども取れ入れられるようになったのである。また、地産地消の観点から、地元の食材を取り入れる学校も増えている。</p>

<p>例えば、沖縄県なら伝統的な琉球料理のひとつ「イナムドゥチ」という、豚肉を使った汁物、北海道なら「幻のたまねぎ」と呼ばれる「札幌黄」を使ったかき揚げ丼などが給食のメニューとなっているのだ。昭和に子ども時代を過ごした人にとっては信じられないだろう。</p>

<p>＊　　　　　＊　　　　　＊</p>

<p>──ここまで、駆け足で日本の給食の歴史を振り返ってきたが、給食が好きだった人も、嫌いだった人も、どこか懐かしさを覚えたのではないだろうか。</p>

<p>実際、昭和の給食を再現したメニューを出すホテルが人気を博すなど、給食とは大人のノスタルジーを刺激するものでもある。「同じ釜の飯を食う」という言葉があるが、子ども時代、何年間もクラスのみんなで同じ食事をするというのは、忘れがたい経験であることは間違いない。</p>

<p>最後にひとつ忘れてはいけないのが、近年、貧富の格差の拡大により、「給食だけが唯一のまともな食事」である子どもが増加しているということだ。先にも触れたように、子どもを飢えさせないためというのが、そもそも学校給食が始まった理由である。メニューは変わっても、給食の一番大切な役割は変わっていない。これからも、給食という制度は守り続けていく必要があるだろう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 31 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>クレオパトラと香油、織田信長の蘭奢待...あの人物が嗅いでいた「香りの正体」とは？  奈落一騎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12003</link>
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			<description><![CDATA[クレオパトラ、織田信長…歴史上の「あの人」が嗅いでいた「匂い」の正体とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="デンデラのハトホル神殿　クレオパトラ7世のレリーフ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_Cleopatra.jpg" width="1200" /></p>

<p>記憶や感情に直結しやすいといわれている人間の嗅覚。「香り」や「匂い」は、絵や文字と違い、そのまま後世まで伝わっているものは稀ですが、昔の人たちも、何らかの匂いを感じながら暮らしていたはず。人々は「香り」とどのようにつき合ってきたのでしょうか。そして、歴史上の「あの人」が嗅いでいた「匂い」の正体とは&hellip;&hellip;。</p>

<p>「匂い」を感じる嗅覚は、多くの生き物にとって、視覚や聴覚といった他の感覚と同じように、食べられるものを判別したり、自分を捕食しようとする敵を察知したりする役割をもっている。また、繁殖相手となる異性を見つけるためにも使われている。</p>

<p>つまり、嗅覚は生き物が生存していくための大切な武器なのである。それは本来、人間にとっても同じであった。</p>

<p>だが、しだいに人間は嗅覚を生きるためだけでなく、日々の生活を楽しむためにも使うようになり、「香り」の文化を発展させていった。ここでは、そんな「香り」と「匂い」の世界史を見ていきたい。</p>

<p>【奈落一騎（ならくいっき／文筆業 ）】 歴史、宗教、哲学、文芸などを対象に幅広く執筆。 著書に『江戸川乱歩語辞典』『競馬語辞典』『門外漢の仏教』『スーパー名馬伝説』、 グループSKIT名での共著に『元号でたどる日本史』などがある。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2025年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>クレオパトラが愛した香油</h2>

<p>人類がいつから香りを楽しむようになったのかははっきりしていないものの、旧石器時代（約250万年前から約1万年前まで）にはすでに、そうした文化があったと考えられている。</p>

<p>はじめは香りのよい植物をそのまま体にこすりつけていたが、そのうちに人類は、木々や樹脂のなかには加熱すると芳しい香りが増すものがあることを発見した。</p>

<p>香水は英語でperfume、フランス語でpar-fumというが、語源はラテン語のperfumareである。</p>

<p>perは「通して」、fumareは「煙を」という意味だ。このことからも、人類が長いあいだ植物を焚くことで、その香りを楽しんでいたことがよくわかる。</p>

<p>燻蒸による香りの文化は世界中に見られるが、とくに発展したのが古代エジプトを中心とした地中海世界だ。</p>

<p>6000年以上前の古代エジプトの王の墳墓からは、ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属の樹木の樹脂である乳香が、埋葬品として発掘されている。この乳香は、火にくべて利用されていたと推察されている。</p>

<p>やがて、古代エジプトでは香りのよい植物を植物油や動物性脂肪と混ぜ合わせる香油も作られるようになっていった。</p>

<p>その代表的なものが、ムクロジ目カンラン科コンミフォラ属の樹木の樹脂である没薬に、松脂、蜂蜜、干しブドウ、ワインなどを混ぜて作る香油のキフィだ。このキフィも焚くことで香りを強め、利用されていた。</p>

<p>こうした香油は宗教儀式に使われたほか、鎮静薬、鎮痛薬といった医療目的にも使われ、さらに直接皮膚に塗り込むことで、美容や衛生のためにも使われた。</p>

<p>紀元前1世紀の古代エジプトの女王クレオパトラは、ヤギ乳で満たした浴槽に薔薇の花を浮かべて入浴を楽しんだあと、湯上りの肌に香油を塗り込んでいたと伝えられている。</p>

<p>また、香油の香りを偏愛していたクレオパトラは、自身の船の帆に香油をたっぷり染み込ませていたため、遠くからでも女王の船の来訪がわかったという逸話も残されている。</p>

<p>なお、乳香や没薬は古代エジプトのみならず、地中海世界全域で珍重されていた。聖書には、イエス・キリストが誕生した際、祝福に訪れた東方の三博士が贈り物として乳香と没薬をイエスに捧げたと記されている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>織田信長も求めた蘭奢待</h2>

<p><img alt="信長公出陣の像（清洲公園）" height="395" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_odanobunaga.jpg" width="640" /></p>

<p>もちろん、日本にも古くから香りの文化は存在した。</p>

<p>『日本書記』によれば、推古天皇3年（595）に、一抱えもある大きな木が淡路島に漂着し、島民が薪と一緒に竈で焼いたところ、煙から類い稀なるよい香りが漂ってきた。そこで島民たちは、その木を朝廷に献上したという。</p>

<p>これが、日本において香りの文化を伝える、もっとも古い記録である。</p>

<p>こうしたよい香りを放つ木のことを香木というが、このとき漂着したのは、ジンチョウゲ科アクイラリア属やギリノプス属の樹木の「沈香」だとされている。</p>

<p>朝廷に献上された香木は、その後、淡路島にある枯木神社の御神体となり、現在も大切に祀られている。</p>

<p>日本ではこの沈香のほか、ビャクダン科ビャクダン属の樹木である白檀が、香木として歴史的に愛用され続けてきた。また、沈香のなかでも高品質のものは伽羅と呼ばれ、とくに珍重された。</p>

<p>ちなみに、沈香は熱を加えることで香りを発するが、白檀は熱を加えなくても香気を発するという違いがある。ただ、どちらの香木も日本には自生せず、インドや東南アジアから輸入しなければならない高級品だった。</p>

<p>正倉院には長さ156センチメートル、重さ11.6キログラムという巨大な香木の蘭奢待（黄熟香）が宝物として納められている。これは沈香の一種で、鎌倉時代以前に日本に入ってきたと考えられている。</p>

<p>そして、足利義政や織田信長、明治天皇など時の権力者たちが、その貴重な香りを求めて蘭奢待の一部を切り取り、自分のものにしたと記録されている。</p>

<p>余談だが、「栴檀は双葉より芳し」ということわざがある。この栴檀とは、白檀のことだ。意味は、白檀が芽生えたときからすでに芳しい香りを放っているように、のちに大物になるような人物は子どものときから優れた素質を見せるというものである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ハンガリー王女の魔法の水</h2>

<p>現在の香水は基本的には香料をアルコールで溶かして作られるが、そのような香水がヨーロッパで誕生したのは比較的遅く、14世紀以降のことだ。それまでは、香料を植物油や動物性脂肪と混ぜ合わせた、昔ながらの香油が一般的であった。</p>

<p>しかも、香水を作るのに欠かせないアルコール自体は、ヨーロッパではなく、イスラム社会で発明されたものである。</p>

<p>8世紀以降、イスラム社会では錬金術の研究が盛んになり、その過程で化学物質を分離・純化するための蒸留器が発明された。</p>

<p>そして11世紀に、そのような蒸留器を使うことで、イスラム社会では発酵物からアルコールを抽出することに成功したとされている。</p>

<p>その知識と技術が、11世紀末以降に幾度となく繰り返された十字軍の遠征によってヨーロッパに伝えられ、香料をアルコールで溶かす香水が作られるようになっていった。</p>

<p>そうした香水の原形といわれているのが「ハンガリー・ウォーター」だ。これは、シソ科の植物で甘く爽やかな香りが特徴的なローズマリーとアルコールで作られた香水である。</p>

<p>「ハンガリー・ウォーター」の誕生については、次のような逸話が残されている。</p>

<p>14世紀ハンガリーの王女だったエリザベートは70歳過ぎの高齢で、持病のリウマチに悩んでいた。そこで、お抱えの錬金術師に相談したところ、「ハンガリー・ウォーター」の作り方を教えられた。</p>

<p>早速、王女がその液体を作って肌に塗り、さらに内服すると、リウマチが治っただけでなく、顔の皺も消えた。こうして若さと美貌を取り戻した彼女は、その後、年下のポーランド王に求婚され、結ばれたという。</p>

<p>もっとも、「14世紀ハンガリーの王女エリザベート」というのが具体的に誰を指すのかははっきりしておらず、この逸話は後世の創作だともいわれている。</p>

<p>また、「ハンガリー・ウォーター」という名の香水が最初に文献上で確認されるのは、17世紀に入ってからのことだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>貴族が香水を使った切実な理由</h2>

<p>ともあれ、16世紀以降、アルコールをベースとした香水は、ヨーロッパの王侯貴族や裕福な市民のあいだに急速に広まっていった。</p>

<p>だが、その普及の背景には、たんに香りを楽しむという以上の切実な理由もあった。当時のヨーロッパでは入浴の習慣が一般的でなく、何日も入浴しないことで強まる体臭を抑えるために、香水が必要とされたのである。</p>

<p>ただ、ヨーロッパの人々が昔から入浴しなかったわけではない。古代ローマ時代には大規模な公衆浴場があり、キリスト教が普及すると公衆浴場は不道徳なものとして一時期禁止されたこともあったが、11世紀以降、また復活していた。</p>

<p>しかし、14世紀に黒死病（ペスト）が大流行し、西ヨーロッパの総人口の3分の1が死ぬほどの猛威を振るうと、公衆浴場は病気の感染を広げる場として全面的に禁止されることとなった。</p>

<p>そこからさらに、「水や湯を浴びると病気になる」という迷信が広まり、ヨーロッパでは入浴の習慣が廃れてしまったのである。</p>

<p>17世紀のフランス国王で太陽王とも呼ばれたルイ14世などは、生涯に3回、あるいは1回しか入浴しなかったと伝えられている。これでは、体臭を抑えるために香水が必要とされたのも当然だろう。</p>

<p>一応、ルイ14世の名誉のためにつけ加えておくと、彼は不潔な状態を好んでいたわけではない。その証拠に、ルイ14世は日に3度も下着を替えていたという。</p>

<p>香水作りは、はじめイタリアで発展した。だが、1533年にメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスがフランス王家の第二王子で、のちのアンリ2世に嫁ぐ際、お抱えの調香師ルネ・ル・フロランタンをフランス宮廷に連れてきたことで、以後、フランスでも香水作りは盛んになっていった。</p>

<p>とくに、先に名前を挙げたルイ14世は大の香水好きとして名を馳せ、フランスの宮廷では香水が大流行した。</p>

<p>だがルイ14世の時代、宮廷で香水が人気となったのには、体臭を抑えるという以外の理由もあった。</p>

<p>1682年、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を建てるが、この城には極端にトイレが少なかった。</p>

<p>そこで、城を訪れた人々は便意や尿意を催すと、豪華な庭園で地面にそのまま用を足すほかなかった。</p>

<p>この時代に登場した婦人用の腰の部分が大きなドレス（バッスルスタイルドレス）は、じつは女性が尻まくりをせずに、その場でしゃがんで用を足すために考案されたものだ。</p>

<p>貴族たちのなかには、召使いに携帯用便器を持たせてヴェルサイユ宮殿を訪れる者もいた。だが、召使いたちは便器に溜まった汚物を宮殿の庭園に捨ててしまっていた。</p>

<p>その結果、ヴェルサイユ宮殿は耐え難い糞尿の匂いに包まれることとなり、それを誤魔化すためにフランスの宮廷では香水が大流行したのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>マリリン・モンローの名言</h2>

<p>こうした経緯がありながらも、しだいに香水は一般の人々にも広まっていき、18世紀に入ると、ヨーロッパの大都市では香水専門店も見られるようになっていった。そして、西洋文化の重要な一部となった。</p>

<p>そんな香水にまつわる伝説的な名言を、20世紀アメリカの女優マリリン・モンローが残している。</p>

<p>1952年、モンローは雑誌の取材で記者から「あなたは、寝るときなにを着ているのですか？」と尋ねられた。すると彼女は、「シャネルの５番だけ」と答えた。</p>

<p>ようするに、香水だけつけて裸で寝ているという意味だ。モンローらしい、色っぽくも機知に富んだ返答といえるだろう。</p>

<p>なお、「シャネルの5番」は、１９２１年にフランスのファション・デザイナーであるココ・シャネルが、自ブランドの商品として初めて発表した香水である。モンローの発言によって、「シャネルの5番」の売上は格段に上がったともいわれている。</p>

<p>ところで、モンローの発言にも見られるように、香水は基本的には直接肌につけて使うものだ。古い時代の香油も肌につけて使われた。こうした香りの楽しみ方は、世界中で普遍的なものである。</p>

<p>だが、日本では歴史的に香料を直に肌につける文化は生まれず、衣服に香を焚きしめたり、部屋に香の香りを漂わせたりといった間接的な楽しみ方をされてきた。これは、日本の香りの文化の特徴といえる。</p>

<p>＊　　　　　　＊　　　　　　＊</p>

<p>「香り」や「匂い」は映像や音と違い、記録に残しづらいものだ。しかし、それゆえ強烈に記憶に残ることがある。</p>

<p>20世紀フランスの作家マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』のなかに、主人公がマドレーヌを紅茶に浸した瞬間、その香りによって幼少期を思い出す場面がある。</p>

<p>そこから、特定の「香り」や「匂い」と結びついた記憶や感情が呼び起こされる現象を、心理学では「プルースト効果」と呼んでいる。</p>

<p>あなたにとって、もっとも思い出深い「香り」や「匂い」はなんだろうか――。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 31 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[奈落一騎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本人として知っておきたい！ 第一次世界大戦が勃発した真相  宇山卓栄</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12006</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012006</guid>
			<description><![CDATA[第一次世界大戦を引き起こした対立の根源とは？ なぜ対戦が勃発した？ 日本と世界の関わりの歴史を解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ヴィルヘルム2世" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_WilhelmIIcoin.jpg" width="1200" /></p>

<p>第一次世界大戦はヨーロッパで勃発したことから、日本人には遠くの国の出来事のようにも思える。しかし実際には、日本が第二次世界大戦に突入していく遠因ともなっていた。この大戦はなぜ起きたのか。世界で紛争が収まらないいまこそ、知っておきたい世界大戦勃発の背景をQ&amp;A形式で解説しよう。</p>

<p>【宇山卓栄（うやまたくえい／著述家）】<br />
昭和50年（1975）、大阪府生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、現在に至る。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説している。著書に『「民族」で読み解く世界史』『世界「民族」全史』など、近刊に共著の『日本人が知らない！世界史の原理』がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q そもそも対立の根源は何だったのか？</h2>

<p>19世紀後半、イギリスはその経済覇権を新興のアメリカやドイツに奪われはじめました。世界の工業生産のシェアにおいて、1880年以降、イギリスはアメリカに1位の座を奪われ、20世紀に入るとドイツにも抜かれていきます。</p>

<p>18世紀から19世紀にかけて、イギリスは産業革命で最も成功した国でしたが、その成功モデルが根強く残り、アメリカやドイツに、産業構造の転換で遅れを取ってしまったのです。</p>

<p>一方、アメリカやドイツでは、国家主導で大規模な工業設備投資が行なわれ、各産業分野に独占的な巨大企業が次々と生まれ、国家経済を力強く牽引していきました。特にドイツでは、1871年のドイツ帝国の成立後、宰相ビスマルクによる各種の産業成長戦略が大胆かつ斬新に打ち出され、高度な経済成長を遂げていきます。</p>

<p>ドイツの産業資本が急速に成長すると、より大きな利益を求め、資本は国外へ向かい、対外的な軋轢を生むようになります。</p>

<p>さらに、1888年に即位したドイツ皇帝のヴィルヘルム2世が、産業資本の勢力に押され、「世界政策」という対外膨張政策を推し進めます。</p>

<p>ドイツの政策は、イギリスとロシアを刺激。また、オーストリアもドイツに倣って強硬化し、ゲルマン人優位を主張するパン・ゲルマン主義を掲げ、バルカン半島へ進出、ロシアとの対立を招きました。</p>

<p>ロシアはドイツとオーストリアに激しい反感を抱き、フランスに接近。1891年、露仏同盟を結び、ドイツと敵対します。</p>

<p>これらをうけ、ドイツ・オーストリア陣営、ロシア・フランス陣営と大きな二つの陣営が現われました。この両陣営の対立が火種となり、第一次世界大戦へと繫がっていくのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q どのようにして、第一次世界大戦は勃発したのか？</h2>

<p>イギリスは19世紀、超大国として世界に君臨し、他国と同盟を結ばず、超然としていました。その状況は「光栄ある孤立」と評されます。</p>

<p>しかし、同世紀末、前述のようにイギリスの覇権に陰りが見えはじめると、もはや超然とした地位を保つことはできず、ドイツ・オーストリア陣営、ロシア・フランス陣営の二大陣営のどちらに付くか、重大な決断を迫られました。</p>

<p>そんなイギリスが「光栄ある孤立」を捨て、最初に組んだ相手は日本でした。1902年、日英同盟が締結されます。日本は1868年、明治維新を成し遂げ、近代化へ邁進していました。イギリスは極東アジアに進出するロシアの動きを封じ込めるため、日本を支援しようとしたのです。</p>

<p>ドイツのヴィルヘルム2世は、こうしたイギリスの動きを歓迎しました。ロシアを警戒するイギリスがドイツの陣営に入ることを期待していたからです。しかし、ヴィルヘルム2世の期待は裏切られることになります。</p>

<p>確かに、イギリスは当初、バルカン半島をめぐる利権闘争である東方問題などでロシアと激しく対立した経緯から、ドイツ支持に傾いていました。また、イギリスに次いで、アジア・アフリカに広大な植民地を有するフランスの脅威もあり、イギリスはドイツと組み、フランスを包囲して、その権益を奪うという構想も描いていました。</p>

<p>しかし、今やドイツの台頭が著しく、ロシアやフランスよりもドイツを脅威とする捉え方がイギリス国内で大勢を占めていました。また1905年、日露戦争でロシアが敗北すると、ロシアへの脅威が薄れ、イギリスは明らかにドイツを敵対視するようになります。</p>

<p>ドイツの対外拡大政策の推進は、イギリスの植民地権益を侵すもので、対立は避けられませんでした。</p>

<p>こうしてイギリスは、ロシア・フランス陣営に接近し、三国協商を完成させ、ドイツを包囲することになり、「イギリス、フランス、ロシア」陣営（のちの連合国）と「ドイツ、オーストリア」陣営（のちの同盟国）が激突へと至るのです。</p>

<p>一方、バルカン半島では、ロシア・セルビアの掲げるパン・スラブ主義と、ドイツ・オーストリアの掲げるパン・ゲルマン主義が激しく対立。こうした緊迫するバルカン情勢は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれます。</p>

<p>1914年、ボスニア州都サラエボで、セルビア人青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺しました（サラエボ事件）。これをきっかけに、オーストリアがセルビアに宣戦布告、セルビアの背後にいるロシア、オーストリアの背後にいるドイツも動きはじめ、いよいよ第一次世界大戦の幕開けとなるのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 30 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本人として知っておきたい！ 第一次世界大戦の終結とその後の影響  宇山卓栄</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12005</link>
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			<description><![CDATA[第一次世界大戦はどのようにして終結した？ 世界の歴史にどんな影響を及ぼした？ 日本と世界の関わりの歴史を解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="大西洋中心の世界地図" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_worldmap.jpg" width="1200" /></p>

<p>現在、紛争地域に世界中が注視している。長く続いた戦争はどのようにすれば終わるのだろうか。ここでは、第一次世界大戦の終結と、その後の影響、そして第一次世界大戦の歴史から日本人が学ぶべきことについて、Q&amp;A形式で解説しよう。</p>

<p>【宇山卓栄（うやまたくえい／著述家）】<br />
昭和50年（1975）、大阪府生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、現在に至る。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説している。著書に『「民族」で読み解く世界史』『世界「民族」全史』など、近刊に共著の『日本人が知らない！世界史の原理』がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q 戦争はどのようにして終結したのか？</h2>

<p>第一次世界大戦で、イギリスやフランスは、経済大国となっていたアメリカから巨額の戦費を借り入れました。またアメリカも、イギリスやフランスがドイツよりも優勢と見て、個人・法人、国家に至るまで、進んでイギリスの戦債を買い支えました。</p>

<p>当初、アメリカは経済的な支援を両国にしていたに過ぎず、中立を建前としていましたが、予想以上にアメリカ人による両国への戦債投資が進みました。</p>

<p>その最中の1917年、ロシアで革命が勃発し、ロシア帝国が崩壊。ロシアが混乱に陥り、ドイツに有利な状況となると、アメリカ人は動揺しました。もし、イギリス、フランスが敗北すれば、対米負債の支払いが困難になり、アメリカは大きな経済的ダメージを被ってしまいます。そこでウィルソン大統領は、ドイツの無制限潜水艦作戦に対抗することを口実に参戦するのです。</p>

<p>アメリカの参戦により、大きく戦局が動き、ドイツとオーストリアの敗北が決定。第一次世界大戦は、ロシア、オーストリア、ドイツの三帝国の崩壊によって終結しました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q 第一次世界大戦は、日本と世界の歴史にどんな影響を及ぼしたのか？</h2>

<p>日本は第一次世界大戦で中国の権益を確保し、アジア地域で大きな存在感を発揮しました。ただアメリカやイギリスなどのヨーロッパ列強にとって、日本という新興勢力は目障りとなります。</p>

<p>アメリカのハーディング大統領は1921年、ワシントン会議を開催し、アジア・太平洋地域の戦後秩序を取り決めます。このワシントン会議で、日本は孤立させられ、イギリス、アメリカと対立しはじめます。この孤立こそが、日本が太平洋戦争へと突入し、破滅する出発点となるのです。</p>

<p>また、戦場となったヨーロッパはその力を低下させ、戦場とならず、ヨーロッパに対する債権国となったアメリカが台頭します。</p>

<p>これらの国際情勢の変化とは別に、イギリスの外交が大きな禍根を残すこととなりました。イギリスは大戦中、戦局を有利なものにするために、三つの秘密条約を締結していました。これが、今日まで続く中東問題の原因とされるのです。</p>

<p>第一次世界大戦中、イギリスはドイツやその同盟国オスマン帝国と戦い、苦戦していました。戦争の資金繰りにも苦しみ、ユダヤ人財閥ロスチャイルドに、資金援助を要請。援助と引き換えに、パレスチナの地に、ユダヤ人の国を建国することを約束しました。</p>

<p>この「バルフォア宣言」では、パレスチナにおけるユダヤ人の「national homeナショナルホーム」の建設が言及されています。イギリスの言い分としては、「nation」や「state」とは言っておらず、「居住地」の建設を約束したに過ぎないとされます。ユダヤ人国家建設を約束したものではないというのです。しかも、パレスチナ先住民における権利を確保することが明記されています。</p>

<p>ただ、この言い分はムリがあるでしょう。「national home」の「national」は「国民の」や「国家の」という意味があり、単なる「居住地」を超えた主権性を帯びたものと捉えることができるからです。実際に、ユダヤ人らには、国家建設と捉えられたのです。</p>

<p>またバルフォア宣言に先立つ1915年、イギリスはオスマン帝国に対抗するため、オスマン帝国の支配下にあるアラブ人に接近。アラブ人に戦争協力と引き換えに、アラブ人の国家建設を約束したフサイン・マクマホン協定を締結します。</p>

<p>その一方で、イギリスは翌1916年、大戦後にオスマン帝国の領土を、フランスとともに分割支配することを約束したサイクス・ピコ協定も締結しました。</p>

<p>1915年のフサイン・マクマホン協定、1916年のサイクス・ピコ協定、1917年のバルフォア宣言の三つのイギリスの外交は、その内容に矛盾を抱えているとされ、「三枚舌外交」と呼ばれます。</p>

<p>アラブ人の独立を約束し、一方ではオスマン帝国を分割して手に入れる条約を結び、パレスチナにはユダヤ人国家を認めるなど、互いに両立不可能で、矛盾した内容の秘密条約とされるのです。</p>

<p>しかし、パレスチナに関して言えば、フサイン・マクマホン協定で約束されたアラブ国家の範囲に、同地が含まれるかどうかが問題となります。</p>

<p>一般的な概説書には、パレスチナが含まれると解説されるのですが、必ずしもそうとは言えません。シリアの地中海沿岸部、レバノンなどはフサイン・マクマホン協定でハッキリと含まれていないことが記されており、その続きで、南のパレスチナ地域も含まれていないともいえるのです。</p>

<p>となると、イギリスの言い分として、紅海東岸にアラブ人のためのヒジャーズ王国建国を支援するなど、アラブ人との約束を守りつつ、パレスチナにおいては、先住民における権利を守りながら、ユダヤ人の入植を認めていったのであり、「三枚舌外交」として批難されるべきものではない、ということになります。</p>

<p>また、オスマン帝国領のアラブ地域を英仏が分割したサイクス・ピコ協定では、パレスチナを「国際管理」と定めており、バルフォア宣言とは矛盾するとも言えません。実際に、パレスチナは第一次世界大戦後、イギリスの委任統治領下で、ユダヤ人移民に対して抑制的に運営されていました。</p>

<p>こうして見ると、パレスチナ紛争はイギリスの「三枚舌外交」が遠因であるものの、それ以外の要因もあると言えそうです。ただ、今日のパレスチナ紛争は、第一次世界大戦の国際紛争の拡がりの中で生じた対立であることは間違いありません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q 第一次世界大戦の歴史から、日本人が学ぶべきことは？</h2>

<p>第一次世界大戦は、ヨーロッパ南東部に位置するバルカン半島における対立からはじまりました。当時のヨーロッパ諸国のバルカン半島の利権をめぐる対立を形容して、「バルカンはヨーロッパの火薬庫」と言われました。実際、「火薬庫」に火が付いて、ヨーロッパやアジアに戦火が拡大し、大戦となったのです。</p>

<p>現在、極東において、日本、台湾、中国、北朝鮮、ロシアがせめぎ合う状況を、第一次世界大戦前のバルカン半島に喩え、「極東は世界の火薬庫」と表現されています。世界史的に見ても、これほどの対立と緊張をはらんだ危機的な国際情勢は、他にないと言っても過言ではありません。</p>

<p>日本は北朝鮮や中国という「民主主義ではない国」と隣接しています。北朝鮮は核兵器を保有し、中国は軍備を拡大し、日本にとって、大きな脅威となっています。日本を取り巻く現在の極東情勢は危機的な状況で、ひと度、何らかのバランスが崩れはじめると、軍事衝突が発生してもおかしくありません。</p>

<p>しかし、日本国内は一応、平和であり、その日々の平穏が、目の前に起こっている危機を見えなくさせています。現在、ウクライナ戦争や中東紛争が起こっています。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 30 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本人として知っておきたい！ 第一次世界大戦の経過と日本が参戦した理由  宇山卓栄</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12004</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012004</guid>
			<description><![CDATA[第一次世界大戦はどんな経緯をたどった？ 日本はなぜ参戦した？ 日本と世界の関わりの歴史を解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="井上馨" height="396" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/inouekaworu.jpg" width="640" /><br />
井上馨</p>

<p>1914年に勃発した第一次世界大戦は、主にヨーロッパが戦場となったことから、日本人には遠くの国の出来事のようにも思える。しかし、この大戦には日本も参加し、その後の歴史に大きな影響を及ぼしていた。世界で紛争が収まらないいまこそ、知っておきたい世界大戦と日本のかかわりをQ&amp;A形式で解説しよう。</p>

<p>【宇山卓栄（うやまたくえい／著述家）】<br />
昭和50年（1975）、大阪府生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、現在に至る。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説している。著書に『「民族」で読み解く世界史』『世界「民族」全史』など、近刊に共著の『日本人が知らない！世界史の原理』がある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q 第一次世界大戦は主にどのような経過をたどったのか？</h2>

<p>ドイツは、シュリーフェン・プランと呼ばれるロシア方面とフランス方面への両面戦争を展開しますが、予想以上に苦戦を強いられ、フランスとの西部戦線は膠着状態に陥ります。</p>

<p>アジアでは、日本が日英同盟の立場から、ドイツに宣戦布告し、中国及び太平洋のドイツ領を攻撃し、青島などを占領（後述）。</p>

<p>オスマン帝国は、ロシアやロシアが支援するバルカン諸国と対立していたことから、ドイツ・オーストリア側について参戦します。</p>

<p>イタリアは、ドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいましたが、両国には加担しませんでした。南チロルやトリエステといった「未回収のイタリア」をめぐり、オーストリアと対立していたからです。</p>

<p>イギリスは、イタリアにイギリス陣営（連合国側）に立って参戦するよう促します。その見返りとして、「未回収のイタリア」を割譲することを約束。結果、イタリアは1915年、三国同盟を離れ、連合国側に立って参戦しました。</p>

<p>1916年、ドイツは、フランス軍の守るヴェルダン要塞を攻撃（ヴェルダンの戦い）しますが、要塞を落とすことはできませんでした。</p>

<p>対する連合国は北フランスのソンムで、ドイツ軍に総攻撃をかけます（ソンムの戦い）が、勝敗は決まりませんでした。また、このソンムの戦いで、イギリス軍が初めて戦車を使用しています。</p>

<p>第一次世界大戦では、科学技術が応用され、戦車をはじめ、機関銃、飛行機や爆弾投下装置、潜水艦、毒ガスなどの新兵器、電報などの通信情報技術も使われました。</p>

<p>さらに、世界の多くの国々を巻き込みながら、軍人だけでなく、一般国民も戦争に動員され、参戦国が国力を挙げて戦う総力戦となります。</p>

<p>こうした中で、各国が終戦条件などの落とし所を見つけることができず、4年以上の長期に及ぶ戦争となったのです。</p>

<p>戦争に加え、「スペインかぜ」のような疫病も戦地のヨーロッパを中心に蔓延し、莫大な数の死傷者を出しました。主な参戦国の死者数は、ドイツが177万人、オーストリア＝ハンガリーが120万人、イギリスが91万人、フランスが136万人、アメリカが12万人などで、総計852万人を超えました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>Q 日本はなぜ参戦し、何をしていたのか？</h2>

<p>先述の通り、日本は当時、イギリスと日英同盟を締結していました。イギリスは第一次世界大戦がはじまると、日本に対し、アジア地域のイギリス商船をドイツ東洋艦隊の攻撃から守るように要請しました。大隈重信内閣はこれを承諾します。</p>

<p>しかし日本は、ヨーロッパの戦禍を奇貨として、アジアの支配権を強めようと考えました。維新の元勲・井上馨はこれを、「日本国運の発展に対する大正新時代の天佑（天の助け）」と表現しています。イギリスは日本の野心を危惧し、支援の要請を取り下げようとしましたが、日本は戦闘地域を限定することをイギリスに約束して、イギリスをひとまず安心させました。</p>

<p>ところが、日本はイギリス商船を守るという本来の目的を越えて、アジアにおけるドイツの支配領域を奪い取ろうとしていきます。まず1914年8月、ドイツに対し、中国海域からのドイツ艦隊の撤退と、ドイツが支配権を持っていた膠州湾租借地を中国に還付するために、日本に引き渡すことを勧告し、最後通牒を送り付けました。</p>

<p>しかし、ドイツがこれを黙殺したため、日本はドイツに宣戦布告。膠州湾を封鎖し、青島要塞を包囲します。ドイツ軍はすぐに降服し、青島を明け渡しました。日本は最後通牒で、「青島を中国に返還する」と言ったにもかかわらず、それを中国に還付せず、軍政を敷き、山東省全域を支配します。同時に、マーシャル、マリアナ、パラオ、カロリンのドイツ領太平洋諸島を占領しました。</p>

<p>1917年、第一次世界大戦の真っ最中、激戦がピークに達し、イギリスやフランスが身動きできない状態に陥ります。それを見計らった日本は両国に、中国山東省と太平洋のドイツ権益を日本が継承することを強引に認めさせました。日本はこれらの新しい支配領域をほとんど犠牲を払うことなく、易々と手に入れたのです。</p>

<p>一方、イギリスやフランスは苦戦を強いられ、ヨーロッパ戦線が膠着化していました。イギリスは余力のあった日本に対し、陸軍をヨーロッパに派遣するように要請しました。しかし、日本はこれに応じませんでした。</p>

<p>当時の外相の加藤高明は、「日本軍兵士は国民皆兵の徴兵制に基づき召集されており、国益に直接関与しない外征に参加させることはできない」と説明しました。</p>

<p>アジア地域で、イギリス商船を守るという名目で参戦した日本が、ヨーロッパ地域で苦戦しているイギリス本軍を見捨てたという事実は、イギリスやフランスを怒らせました。</p>

<p>日本はイギリスなどの連合国と良好な外交関係を築いていましたが、大戦後、ドイツの脅威が去ると、アジア・太平洋地域の邪魔者として、孤立させられていくのです。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/inouekaworu.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 30 Mar 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[宇山卓栄]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>古代ローマの浴場は「スーパー銭湯」ラテン語さんと訪ねるカラカッラ帝の光と闇  ラテン語さん（ラテン語研究者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13914</link>
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			<description><![CDATA[Xなどでラテン語のおもしろさを発信しているラテン語さんがローマを訪問。アルジェンターリ門からカラカッラ浴場を訪れます。二つの遺跡から見えてきたカラカッラ帝の人物像とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="アルジェンターリ門に掘られたレリーフ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo06.jpg" width="1200" /><br />
アルジェンターリ門に掘られたレリーフ（撮影：筆者）</p>

<p>ローマの街には、街角の碑文、教会の壁、噴水の銘文など、今も都市の中にラテン語が生き続けているーー高校2年生からラテン語の学習を始め、X（旧Twitter）などでラテン語のおもしろさを発信しているラテン語さん（東京古典学舎研究員）が、ローマを旅しました。バチカン市国を訪れたあと、アルジェンターリ門からカラカッラ浴場へ。レリーフの「不自然な空白」が語るものとは？ローマの浴場「テルマエ」の姿とは？遺跡からカラカッラ帝の人物像に迫ります。</p>

<p>※本稿は、『今に生きるラテン語を求めて　「永遠の都」ローマ滞在記』（ラテン語さん著）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>妻と義父、弟を「いなかったこと」に</h2>

<p>ローマの探検はまだ終わらない。サン・ピエトロ大聖堂からMUSEO della FORMA URBIS（フォルマ・ウルビス博物館）を訪ねたあと、チルコ・マッシモ（「大競技場」（ラテン語でCircus Maximus）という意味の遺跡）の横を散歩する。脇道に入って少し歩くと、見えてきたのがアルジェンターリ門（Arco degli Argentari）だ。アルジェンターリとは「両替商たち」という意味で、彼らと牛商人がこの門をセプティミウス・セウェールス帝、その妻ユーリア、息子であるカラカッラ（兄）とゲタ（弟）などにささげた。</p>

<p>この門に彫られたレリーフを見ると、門の左半分にあるものにも右半分にあるものにも、不自然な空白がある。左半分には現在カラカッラのレリーフしか確認できないが、完成当初はカラカッラの妻フルウィア・プラウティッラと彼女の父プーブリウス・フルウィウス・プラウティアーヌスの姿があり、右半分にはカラカッラの弟ゲタのレリーフがあった。</p>

<p>では、なぜ現在それが消されているのか？ そこにはカラカッラの凶暴さが関係している。カラカッラは妻を嫌悪しており、義父もろとも殺害した。加えて、自身の父セプティミウス・セウェールス帝の死後弟のゲタと共同で皇帝となるが、仲が悪い弟も暗殺させ、自分一人が皇帝になった。そして、妻と義父、弟ゲタがいなかったことにするため、レリーフから消させたのである。フォロ・ロマーノにあるセプティミウス・セウェールス帝の凱旋門に書かれた碑文からも、ゲタの名前が消されて別の言葉が刻み直された跡がある。</p>

<p>このように、ある人の記録などを抹消する行為をラテン語でdamnatio memoriae（記憶の断罪＝ダムナーティオー・メモリアエ）と言う。皇帝の権力の強大さをありありと感じる場所、それがアルジェンターリ門である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「銭湯の富士山」に通ずる心意気</h2>

<p>このあとは、そのカラカッラ帝が建造したカラカッラ浴場を見学する。アルジェンターリ門でカラカッラの権力を闇の部分を見たが、今度はその皇帝による市民へのサービスを見てみよう。ということで、アルジェンターリ門からタクシーで10分もしない場所にあるカラカッラ浴場に向かう。</p>

<p>高校世界史の授業で、ローマの浴場（テルマエ）として先生がカラカッラ浴場を紹介していたことを覚えており、浴場の遺跡に行くならここと決めていたのだ。バチカン美術館でこの浴場にある図書室の床のタイルを見た記憶も新しいうちに、車は入口付近に着いた。</p>

<p>敷地の中に入ると、その広さに驚いた。入口から伸びる通路は200ｍあり、突き当たりを左に曲がるとまた250ｍ通路が伸びている。当時の浴場はもっと広く、およそ幅330ｍ、奥行き330ｍほどであった。</p>

<p>カラカッラ浴場などの古代ローマの大浴場は、銭湯というよりもスーパー銭湯のようなものであった。温水の浴室（カルダーリウム）だけでなく、ぬるめのお湯に浸かれるテピダーリウム、水風呂があるフリーギダーリウム、水泳用のプール、サウナ室なども存在した。さらに図書室や格闘技の練習場などもあった。地下では奴隷たちが火を焚いて水を沸かしていた。この時に出た熱い空気を建物の床下に流し、床暖房としていた。</p>

<p>浴槽に使う水は、紀元前2世紀に作られたマルキア水道から分岐させてカラカッラ帝がこの浴場のために引いたアントーニーニアーナ水道から供給されていた。このような浴場が無料で市民に提供されていた、ということが驚きである。</p>

<p>現在は浴場の建物が全て残っているわけではないが、残っている部分を歩くだけでも建物の大きさは容易に想像できた。さらに、床面の幾何学模様や怪物に乗る愛の神などのモザイク画などもこの遺跡で見ることができる。</p>

<p>テルマエは装飾にもこだわっていた。この浴場の敷地から発掘された雄牛やヘーラクレースの彫刻、現在はバチカン美術館で展示されているアスリートたちのモザイク画からも、見た目の美しさも重視されていたことが分かる（日本の銭湯で、浴室に富士山を描くのと似たような心を感じた）。無料で使える施設でも、市民を楽しませようとするカラカッラ帝の心意気が感じ取れる。このような豪華な浴場を提供して、市民からの人気を勝ち取っていたのだろう。今日はバチカンの豪華さと、カラカッラ帝の光の面と闇の面を見た一日であった。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo06.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 27 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[ラテン語さん（ラテン語研究者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>豊臣秀長が築いた城とも関わる、大和郡山名産の金魚  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/14043</link>
						<guid isPermaLink="false">0000014043</guid>
			<description><![CDATA[豊臣秀長が居城を築き、城下町を整えた大和郡山。その名産は金魚だ。なぜこの地で金魚の養殖が盛んなのか。大和郡山ならではの工夫とは？現在に至るまでの金魚養殖の歴史をたどる。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="史跡郡山城跡" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260325yamatokooriyamajyo.jpg" width="1200" />写真：史跡郡山城跡〔写真提供：大和郡山市〕。桜の名所でもあって、花の時期に「大和郡山お城まつり」が行なわれる。令和8年は3月24日（火）から4月7日（火）の開催。29日（日）に時代行列などが実施されるほか、28日（土）には金魚品評会も開催</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>天下人となった豊臣秀吉のもと、弟の秀長が大和・紀伊・和泉の三国を治める居城を築き、城下町を整えた大和郡山。現在も秀長時代の天守石垣や、箱本十三町（はこもとじゅうさんちょう）といわれた城下町の面影が残る。今年は大河ドラマの主人公がこの二人であることから、市内に「豊臣兄弟！大和郡山 大河ドラマ館」を設けるなど、「秀長さんプロジェクト」が進められている。</p>

<p>この大和郡山市の名産としてよく知られるのが、金魚である。例年、夏のニュースで紹介される全国金魚すくい選手権大会を開催するなど、金魚関係で注目されるイベントや施設も市内に多く、話題に事欠かない。金魚の育成が地域に根付いた、その起源をたどると、郡山城の殿様との深い関係が見えてくる。金魚の生産の歴史と、大和郡山ならではのその展開を探ってみた。</p>

<p>【兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【（編者）歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>王侯貴族の愛玩魚から庶民の暮らしの近くに</h2>

<p>金魚のもととなった魚は、フナ（鮒）である。フナは色素変異によって、しばしば赤いフナが出現する。これをヒブナ（緋鮒）という。そのヒブナをさらに品種改良して赤い色を定着させるなどした魚が金魚である。金魚は遺伝的変異を起こしやすく、多様な体形・体色・模様のものが育成されるが、生物学的な種は同じなのだという。</p>

<p>いち早く飼育されるようになったのは中国で、6世紀以前のことと見られる。10世紀後半から養魚が進んで品種も増加。皇帝や皇族・貴族が愛玩する贅沢（ぜいたく）品であった。</p>

<p>江戸時代の寛延元年（1748）に初版が発刊された、泉州堺の人・安達喜之が著した金魚飼育案内書『金魚養玩草（そだてぐさ）』によると、我が国への金魚伝来は、室町時代の文亀2年（1502）、明国から堺にもたらされたという。</p>

<p>近世前期までは希少で高価な観賞魚であったが、この本が出版された江戸中期には養殖が進み、庶民にも金魚の飼育が広まり、金魚売りの業態も成立。ガラスを使った金魚鉢などの専用の凝った調度も作られるようになる。</p>

<p>浮世絵・日本画の題材としてもよく取り上げられた。特に幕末から開国のころには、金魚ブームといえる状況であったらしく、長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が泳ぐ様子に、来訪した外国人も感心している。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>新城主の柳澤氏とともに伝えられ、歴代藩主が養魚を奨励</h2>

<p><img alt="大和郡山名産の金魚「ワキン」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260325kingyo.jpg" width="1200" />写真：大和郡山名産の金魚「ワキン」。撮影時は、出荷のオフシーズンで少し大きく育ち、春に産卵して親になる金魚である</p>

<p>大和郡山に金魚が伝えられたのは享保9年（1724）、柳澤吉里（やなぎさわよしさと）が新城主として甲府から郡山に移封された際のこととされる。吉里とは、5代将軍徳川綱吉（つなよし）に側用人（そばようにん）として重用され、元禄期に大老格として幕政を主導した柳澤吉保（よしやす）の子である。以後、柳澤家が6代にわたって、明治の廃藩置県まで城主を務めることになる。</p>

<p>柳澤吉里に従って郡山に入った家臣に、横田又兵衛という者がいて、金魚を持ち来たったという。郡山入部後、藩士の間に金魚の飼育が広がり、当初は趣味的なものであったようだが、のちに収入を得る藩士の内職となり、安永2年（1773）に家督を継いだ3代藩主柳澤保光（やすみつ）が、地域産業として援助するところとなる。</p>

<p>大和郡山市、東京都江戸川区と並んで、「弥富（やとみ）金魚」の産地・愛知県弥富市が、3大金魚産地に数えられる。その弥富の金魚養殖の発端について次のような伝えがある。</p>

<p>幕末の文久年間（1861-1864）に、熱田に向かう郡山の金魚商人が、前ヶ須（まえがす・現在の弥富市）の宿場に滞在し、池を造って金魚を休ませた。地元で寺子屋を営む権十郎という者がこれを見て、ぜひにと金魚を購入し、飼育を始めた。のちに産卵や孵化（ふか）の方法なども郡山の商人から教わり、本格的な養殖が行なわれるようになったという。大和郡山の金魚販売の広がりがうかがえる話でもある。</p>

<p>明治を迎えて廃藩となると、大和郡山の旧藩士にとって金魚養殖は一層、重要な収入源となった。砲術家として幕末の戦いにも参加した藩士・小松春鄰（はるちか）は、廃藩後、金魚の養殖を事業とし、明治12年（1879）には錦鱗（きんりん）社を立ち上げ、郡山城の外堀や付近の村々に養魚池を広げて増産を図る。また、農家に飼育法を伝授し、副業として金魚の養殖を勧めた。</p>

<p>金魚の販路拡大にも、春鄰は取り組んだ。新聞広告などで郡山の金魚の知名度を高めるとともに、金魚運搬用に重ね桶（おけ）を導入して鉄道輸送を始め、北陸や東京へ進出したのも彼であった。</p>

<p>一方、明治20年（1887）、最後の郡山藩主であった柳澤保申（やすのぶ）は、旧藩士のために柳澤養魚研究場を設立して金魚養殖の発展を支援。跡を継いだ娘婿の柳澤保恵（やすとし）も、明治33年（1900）、郡山城跡に柳澤養魚場を設立し、品種改良や販売を促進した。6年間のヨーロッパ留学経験を持ち、第一生命保険初代社長や貴族院議員を務めた保恵は、日本の金魚を広く海外へ輸出して国益を上げたかったと思いを記している。明治37年（1904）には郡山城内で品評会を開催し、自身も金魚を出品。この金魚品評会は現在も100回を超えて継続している。</p>

<p>そうした人々の尽力をもとに、大和郡山の金魚生産量は増大し、昭和8年（1933）には年間2000万尾を超え、戦前の最盛期には全国の金魚の6割を生産するまでに至った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦後に量産が始まった小さな金魚</h2>

<p><img alt="養魚場で金魚を見せてくれる幸田さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260325youshokujyo.jpg" width="1200" />写真：養魚場で金魚を見せてくれる幸田さん。この水槽だけで約1万匹とか。この養魚場は産卵と孵化に使い、その後に溜（た）め池に移して育成している</p>

<p>「郡山城主だった柳澤氏には、金魚を持ってきて、地場産業としての基礎を築いていただいたということで、格別な崇敬があります」と語るのは、金魚養殖を始めて5代目という「幸田養魚場」代表の幸田正さん。「金魚の養殖を本業として、本格的に始めたのは祖父の代からで、戦後になります。養殖の規模が大きくなっていったのも戦後以降で、お祭りなどの催し物が増え、金魚すくい用などの需要が増えたことが要因です」。</p>

<p>太平洋戦争時に落ち込んだ金魚産業だったが、昭和30年代から大和郡山市内の金魚池が復活し始め、昭和43年（1968）ごろには戦前と同程度の生産量まで回復した。その復興を支えたのが、金魚すくいの需要で、もっとも原種に近いワキン（和金）、それも生まれて1年以内のコアカ（小赤）と呼ばれる小さい金魚への大量の注文を呼び起こし、幸田さんいわく、作れば作るだけ売れる時代となった。</p>

<p>現在も、大和郡山での金魚生産の中心は、そうした小さなワキンが占めている。その背景には、この地域ならではの養殖環境がある。</p>

<p>「リュウキンやランチュウといった観賞用の金魚の場合は、大きく育てながら形や色の良いものを選別していく手間が必要ですが、小さなワキンということでは、大きさをそろえる程度でそうした手間は不要ということはあります。ただし、育てる金魚が大量で、それが可能だったのは、大和郡山には金魚を育てることができる溜め池が数多くあったということがあります」。</p>

<p>大和郡山市が位置する奈良盆地は年間降雨量が少なく、古代から多くの農業用溜め池が設けられた。それが養魚池に利用されて金魚産業を支えてきた部分は大きい。特に戦後の大量生産は溜め池なしでは成り立たなかったと思われる。</p>

<p>溜め池の水づくりには、気を遣うと幸田さんはいう。まず、有機肥料を投入して、金魚の餌となる動物プランクトン「ミジンコ」を発生させる。そこに幼魚を入れると、やがてミジンコを食べ尽くす。そうするとミジンコが餌としていた植物プランクトンが増加して、水は緑色の「青水」へと変わっていく。この青水が必需なのだという。</p>

<p>金魚は、飼うスペース内の密集度によって大きさが変わる。出荷に適したコアカの大きさを維持するためには、池の大きさごとにそれなりの数を入れなければならない。しかし、数が多いと水中の酸素が不足しやすく、金魚が死んでしまう。そうさせないために、光合成で酸素を供給する植物プランクトンが水中に不可欠なのである。金魚が病気にもなりにくいともいう。</p>

<p>大きさがさまざまな溜め池にどれくらい幼魚を入れるか、また、池によっては青水になりにくいといったこともあり、そのための肥料を調整するなど、経験をもとに対応していると幸田さん。「それでも何らかの理由で金魚が減り、池に見に行ったときに大きくなってしまっていると、ああ、失敗だと思うこともあります」。</p>

<p>産卵と孵化においても、大和郡山ならではの工夫がある。金魚の産卵においては、金魚が卵を産み付ける「産卵藻」を必要とするが、大和郡山の養殖業者のほとんどは、周辺の山で産する羊歯（しだ）植物のヒカゲノカズラ（日陰蔓）を使用している。昭和30年代までは、柳の根を乾燥させたものを用いたといい、これが入手しにくくなったことから、ある養殖業者がヒカゲノカズラを産卵藻に使ったところ、採卵に成功。これが地域全体に広がったものである。</p>

<p>柳の根より、むしろヒカゲノカズラのほうが、柔らかくて金魚を傷つけず適しているといい、近年は人工の産卵用素材も登場しているが、利便性・経済性においてかなわない。ただ、近隣の山ではヒカゲノカズラを取り尽くし、幸田さんのところでは、山主と契約して採取してもらっている。</p>

<p>「金魚の産卵は、基本4月ですが、近年の温暖化によって早くなる傾向があります。そうなると具合が悪いこともあって、気温が安定していない時期に孵化すると、急に寒い日が来て稚魚が全滅してしまうこともあるのです。金魚の産卵は年に一度だけなので、そうなると一年が無駄になってしまいます」。苦労することでは、近年は鵜（う）などの鳥が増え、その食害も大きいという。そんななかでも、例年、幸田養魚場では200万匹から300万匹の金魚を出荷している。</p>

<p>「土のせいなのか、水が関係するのか、理由はわからないのですが、毎年、同じ池で金魚を育てると、だんだん育つ量が減っていったり、コイを飼っていた池を翌年に使わせてもらうと、大量に育ったりすることがあります。私が本格的に金魚の養殖に関わってから27年ほどになりますが、何度やってきても、これといった確立された養魚方法はないのです。なんでもその都度、自分の「勘」を頼りにやってきたところがありますね」。金魚という生き物を育むだけに、気候や環境とも向き合う仕事なのである。</p>

<p>「♪赤いべべ着た、かわいい金魚。おめめをさませば、ごちそうするぞ。♪赤い金魚は、あぶくを一つ。昼寝うとうと、夢からさめた」大正8年（1919）発表の童謡『金魚の昼寝』（作詞：鹿島鳴秋・作曲：弘田龍太郎）。金魚は、どこか郷愁を誘う存在でもある。金魚の出荷は6月から夏期がメイン。縁日で金魚すくいを見かけたら、久しぶりにやってみようか。</p>

<p><img alt="郡山城本丸跡にある柳澤神社" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260325yanagisawajinja.jpg" width="1200" /><br />
写真：郡山城本丸跡にある柳澤神社。柳澤家の祖、柳澤吉保を祭神とする。神社前が「お城まつり」での金魚品評会の会場にもなる。近年の大和郡山市では、観賞用の金魚の育成に取り組む人も増えているという</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260325yamatokooriyamajyo.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 26 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>ラテン語学習のきっかけは&quot;夢の国のホテル&quot;　バチカンで出会った「本物の地図」  ラテン語さん（ラテン語研究者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13913</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013913</guid>
			<description><![CDATA[ラテン語の魅力を発信しているラテン語さんがバチカン市国を訪問。サン・ピエトロ大聖堂からバチカン美術館へ、「トロイの木馬」で有名な像や、ラテン語さんのルーツとなった地図など、言語研究者の視点で記します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="サン・ピエトロ大聖堂" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo04.jpg" width="1200" />サン・ピエトロ大聖堂（撮影：筆者、以下同）</p>

<p>ローマの街には、街角の碑文、教会の壁、噴水の銘文など、今も都市の中にラテン語が生き続けているーー高校2年生からラテン語の学習を始め、X（旧Twitter）などでラテン語のおもしろさを発信している&quot;ラテン語さん&quot;。彼はどうしてラテン語を学ぶようになったのでしょうか。このたびローマを旅し、サン・ピエトロ大聖堂からバチカン美術館を訪問。「人生を決めた一枚」と出会います。</p>

<p>※本稿は、『今に生きるラテン語を求めて　「永遠の都」ローマ滞在記』（ラテン語さん著）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>エレベーターにもラテン語が</h2>

<p><img alt="サン・ピエトロ大聖堂" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo05.jpg" width="1200" />私の2週間強の滞在で行った国は、イタリアだけではなかった。バチカン市国も訪問したからである。ローマ市内にあるとはいえ、そこはイタリア共和国ではなく、世界最小の独立国である。</p>

<p>ホテルから朝早くに出発し、到着したのはサンタンジェロ橋広場（Piazza di Ponte SantʼAngelo）。ここから、朝のまだ暗い時間に美しくライトアップされたサンタンジェロ城を見ることができる。また、サンタンジェロ橋には10体の天使の彫刻があり、通る人がそれぞれの美しさに見とれて立ち止まりながら渡っている。</p>

<p>サンタンジェロ城からサン・ピエトロ広場まではコンチリアツィオーネ通りが通っており、2025年の聖年に合わせて歩行者専用になったので、快適にバチカンまで歩くことができた。車はというと、新たに建設された地下道を通っている。コンチリアツィオーネ通りをしばらく歩くと、サン・ピエトロ広場とサン・ピエトロ大聖堂が見えてきた。私の著書『世界はラテン語でできている』でサン・ピエトロ大聖堂をとりあげたり、高校時代に読んだ『天使と悪魔』にもこの広場が登場したので、感慨深い瞬間だった。</p>

<p>まずは、バチカン博物館を目指す。開館時間の午前8時のチケットを取っていたため、すでに長くなっている当日券購入列に並ばずに済んだ。入場列に並んでいたら、係員からチケットを見せるように言われ、提示すると「並ぶ列は隣です」と言われた。チケットには入場する列の番号が記されており、事前購入している人でも指定された列に並んで入場しなければならない。ちなみに、ここはもうイタリアではないが、パスポートを見せての出入国手続きなどは必要なかった。</p>

<p>荷物検査を済ませ、無事に中に入ることができた。巨大な美術館なので、なるべく身軽に移動したい。そこで、無料の荷物預かりサービスを利用した。ちなみに、この美術館のイタリア語名はMusei Vaticani、ラテン語名はMusea Vaticana と、どちらも複数形になっている。いくつもある美術館の集合体、それがバチカン美術館だ。入口付近にあるエレベーターには、</p>

<p>FRANCISCVS PONT MAX<br />
ANNO DOM MMXIX<br />
PONTIF VII<br />
教皇フランシスコが2019年、教皇職7 年目に（建造した）。</p>

<p>とラテン語で書かれていた。こんなところにもラテン語を彫るとは、さすがバチカンである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>トロイの木馬を引き入れることに反対したら...</h2>

<p>まず、ピオ・クレメンティーノ美術館を目指した。ここはギリシャ・ローマの彫刻を展示する美術館だ。ここに、有名なラーオコオーン像がある。</p>

<p>トロイアとギリシャが戦争をしていた際、ギリシャ軍はある計略を使った。トロイアの城壁を攻略して中に攻め入るにはどうすればいいか。そこで彼らは、中空の巨大な木馬を作製し、腹の中に兵士たちを詰め込んだ。その木馬を、トロイアに戦利品として与える。だまされたトロイアは、その木馬を中に入れてしまう。夜更けに兵士たちが中から出て、城門を開け、さらに多くの兵士をトロイアに入れる。トロイアは略奪されるがままになり、大変な損害を被った。</p>

<p>この話は西洋では広く知られており、正体を偽ってコンピュータに侵入してデータの消去や他のコンピュータへの攻撃を行うプログラムも「トロイの木馬」と名付けられた。</p>

<p>そして、このトロイの木馬の計略の話に、ラーオコオーンが関わっている。彼はトロイアの祭司であった。彼は木馬を城内に入れることに反対の立場を取っていたが、2頭の巨大なヘビが現れて彼と彼の息子2人を絞め殺してしまった。これをトロイア人は、ラーオコオーンが木馬を城壁の中に入れることに反対したために罰を受けたと解釈し木馬を引き入れることに決めてしまった。バチカン美術館にある彫刻は、ラーオコオーンと2人の息子にヘビが絡まり、父親が苦悶の表情を浮かべる生々しい様子を描いている。</p>

<p>他にも見た美術品は数多くあるが、詳細に書こうとすると一冊では足りなくなる。私がいちばん感動したのは「地図の間」に飾られている、ある地図である。その上には、タイトルらしきラテン語ITALIA ANTIQVA（古代イタリア）が見られた。これが、私が高校生の時にラテン語学習を始めたきっかけだからである。</p>

<p>とはいっても、当時ここに来たわけではない。ディズニーが大好きな私は、とにかく園内にあるものを調べるのが大好きだった。英語で書かれたポスターを見つけては写真を撮り、それに書かれた文章を、辞書を片手に訳していた。そして、東京ディズニーシー・ホテルミラコスタのロビー階にこのイタリア古代の地図の複製が飾られていた。その地図の左下にある説明書きを読もうとするが、英語ではないようだ。これはどうやらラテン語らしい。というわけで、私はラテン語を勉強しようと決心した。そのきっかけとなった地図の本物に、直接会うことができた。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo04.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 24 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[ラテン語さん（ラテン語研究者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>トレヴィの泉の碑文には何が書いてある？ラテン語さんと巡る、ローマ巡礼都市の記憶  ラテン語さん（ラテン語研究者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13912</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013912</guid>
			<description><![CDATA[Xなどでラテン語のおもしろさを発信しているラテン語さんがローマを訪問。トレヴィの泉から、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂へ向かいます。その道々でラテン語さんの目を引いた言葉とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="スペイン階段付近" height="721" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo02.jpg" width="1200" />スペイン階段付近（撮影：筆者、以下同）</p>

<p>ローマの街には、街角の碑文、教会の壁、噴水の銘文など、今も都市の中にラテン語が生き続けているーー高校2年生からラテン語の学習を始め、X（旧Twitter）などでラテン語のおもしろさを発信している&quot;ラテン語さん&quot;がローマを訪問。街に遺るラテン語からはどんな歴史が見えてくるでしょうか。トレヴィの泉から、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂へ向かう道々で、ラテン語さんの目をひいた言葉とは？</p>

<p>※本稿は、『今に生きるラテン語を求めて　「永遠の都」ローマ滞在記』（ラテン語さん著）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>フランス語が聞こえるスペイン階段上の教会</h2>

<p><img alt="スペイン階段付近にある聖人たちの彫刻" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo03.jpg" width="1200" />スペイン階段付近にある聖人たちの彫刻</p>

<p>ローマに来たからにはぜひ見学したかったトレヴィの泉に向かう。近くまで来たはいいが、とんでもない人の多さだった。水が出てくる建物の上部には、このようなラテン語が書かれている。</p>

<p>CLEMENS XII PONT MAX<br />
AQVAM VIRGINEM<br />
COPIA ET SALVBRITATE COMMENDATAM<br />
CVLTV MAGNIFICO ORNAVIT<br />
ANNO DOMINI MDCCXXXV PONTIF VI<br />
教皇クレメンス12世は1735年、教皇職6年目に、水量豊富で健康によいという点で推賞されていたウィルゴ水道を、素晴らしき装いで飾った。</p>

<p>ウィルゴ水道とは、紀元前19年にできた水道である。トレヴィの泉の近くのナザレーノ通りでは、この水道橋の遺構も確認できる。つまり、古代人がこの水道を引いていなかったら、終端に位置するトレヴィの泉も造られていなかった。</p>

<p>コインを投げるとローマに戻ってくることができる、という言い伝えがあるが、この人の多さで水に近づいてコインを投げようとする気が起きず、「どうせ私はまた戻ってくるだろう」と思い、投げずにその場を後にした。</p>

<p>続いて、スペイン階段に向かった。『ローマの休日』で見たあの階段を、一目見たかった。トレヴィの泉から歩いて9分と、割と近い場所にある。途中で、以前ローマで食事を共にした増永菜生さんにすすめられた「カフェ・グレコ」に行った。ローマに残る最古のカフェである。ゲーテも通ったこのカフェが創業したのは1760年。外観もインテリアも、大変歴史を感じる。歩き疲れていたので、やっと休むことができてほっとした。エスプレッソを飲み体力を回復させ、近くのスペイン階段に歩を進めた。</p>

<p>ここまで来たら、階段でジェラートを食べたくなるが、『ローマの休日』に出てきたのはジョリッティのもので、スペイン階段からは遠かった。というわけで、何も持たずに階段を上る。</p>

<p>ちなみに、この場所はスペイン大使館の近くにあるために「スペイン階段」と名付けられた。階段の上には、映画でも映されたトリニタ・デイ・モンティ教会がある。近くで見ると、壁に大きくラテン語が彫られていた。</p>

<p>S TRINITATI REGVM GALLI&AElig; MVNIFICENTIA<br />
ET PIOR ELEMOSYNIS ADIVTA MINIMOR<br />
SODALITAS STRVXIT AC D D ANNO D MDLXX<br />
フランスの諸王の惜しみなさと、信心深きものたちによる施しの援助を受け、ミニム会の会員たちが1570年に建造し、聖三位一体にささげた。</p>

<p>中に入ると、ちらほらとフランス語が聞こえてきた。ここはフランス王ルイ12世の後援によって建てられたもので、フランス人が多く訪れている。館内の注意書きの看板も、Veuillez respecter le silence MERCI（お静かにお願いします）と、フランス語で書かれていた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「ジルベスター」の由来になった教皇</h2>

<p>思いがけない発見の後は階段を下り、近くのバルベリーニ広場まで歩く。ここにあるトリトーネの噴水は、童話作家になる前のアンデルセンが『即興詩人』という作品の冒頭で言及している。</p>

<p>タクシーに乗って次に目指すは、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂だ。現在の建物は近代に改築されたものだが、この教会の創建は4世紀前半、シルウェステル1世の時代と大変古い。彼が亡くなった12月31日はカトリックにおいてシルウェステルの記念日とされ、彼の名前はドイツ語で大晦日を指すSilvesterの由来にもなっている。日本で大みそかに開催される「ジルベスターコンサート」の「ジルベスター」は、そのドイツ語が使われている。</p>

<p>車が大聖堂に近づいてくると、目印となるオベリスクがだんだんと近くなる。教会のそばで下車し、その外観をながめる。近くにある噴水にはIUBILAEUM MMXXV（聖年2025年）と書かれていた。今年刻まれたラテン語は、あと何年ここに残るのであろうか。</p>

<p>ちなみに、ラテラノ大聖堂の道路をはさんで向かい側には「聖なる階段」がある。イエスが十字架にかけられる前に上ったと伝えられる階段だ。磔刑の場所は現在のエルサレムにあるゴルゴタの丘だが、ローマに移築されたと伝えられているのである。</p>

<p>この階段を、参拝者が膝をついて一段一段上る。歩いて上る信者はいない。当然、進みがゆっくりになるので階段は参拝者で混雑している。観光客は、隣にある階段を歩いて上ることができる。こちらはかなり空いていた。階段を上った先には、教皇の礼拝堂があった。そこには、</p>

<p>NON EST IN TOTO SANCTIOR ORBE LOCVS<br />
全世界において、この地より神聖な場所はない。</p>

<p>と書かれていた。</p>

<p>教会の方に戻ると、ファサード上部に並ぶ聖人たちの彫刻が圧巻である。建物前面の下の方に目をやると、入口付近にこのようなラテン語が目に入った。</p>

<p>SACROS LATERAN ECCLES<br />
OMNIVM VRBIS ET ORBIS<br />
ECCLERIARVM MATER<br />
ET CAPVT<br />
きわめて神聖なラテラノ教会、ローマおよび世界の全ての教会の母であり長</p>

<p>カトリックにおけるこの教会の重要さが分かる碑文である。この教会も「聖なる扉」があり、多くの巡礼者がここを通っていた。</p>

<p>聖堂内に入ると、白を基調とするインテリアがあたたかい雰囲気を演出している。教会の祭壇に近づいていくと、チボリウム（ciborium）という天蓋が目に入った。14世紀にゴシック様式で建てられたものが、現在でも残っている。つまり、これは改築された現在の建物よりも古い。このように、改築前にもともとあったものもちらほら聖堂内に残っている。その後は身廊にある聖堂内の十二使徒の彫刻などを眺めていたら、夕方になってしまった。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo02.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 19 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[ラテン語さん（ラテン語研究者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「あつ森」のあの彫刻の本物も！ラテン語さんと訪ねるカピトリーノ美術館の至宝  ラテン語さん（ラテン語研究者）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13911</link>
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			<description><![CDATA[Xなどでラテン語の魅力を伝え続けているラテン語さんがローマを訪れました。ラテン語さんが「ぜひ本物を見てみたい」と熱望していた彫刻とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="カピトリーノ美術館" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo01.jpg" width="1200" />カピトリーノ美術館（撮影：筆者）</p>

<p>ローマの街には、街角の碑文、教会の壁、噴水の銘文など、今も都市の中にラテン語が生き続けているーー高校2年生からラテン語の学習を始め、X（旧Twitter）などでラテン語のおもしろさを発信しているラテン語さん（東京古典学舎研究員）が、ローマの街から感じた歴史とは？　その新著『今に生きるラテン語を求めて　「永遠の都」ローマ滞在記』では、カピトリーノ美術館を訪れた感慨を綴ります。</p>

<p>※本稿は、『今に生きるラテン語を求めて　「永遠の都」ローマ滞在記』（ラテン語さん著）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>カピトリーノ美術館で感じる古代ローマ</h2>

<p>この美術館の名前は、同館が位置するカピトーリーヌス丘に由来する。古代には、この丘にローマの最高神ユッピテル（ジュピター）の神殿があった。アメリカ合衆国議会議事堂がある丘、あるいはアメリカ合衆国の連邦議会そのものをCapitol Hill と言うが、それは現在議事堂がある丘をトマス・ジェファソンがカピトーリーヌス丘にちなんで名づけたことに由来する。</p>

<p>美術館の前には、ミケランジェロが設計したカンピドリオ広場（Piazza del Campidoglio）が広がり、広場の中心にはマールクス・アウレーリウス・アントーニーヌス帝の騎馬像がある。広場にあるものはレプリカで、オリジナルの騎馬像は館内にある。</p>

<p>館内に入ると、入口付近の中庭にてコーンスタンティーヌス帝の巨像の頭部がいきなり見えた。古代ローマに関する本で、写真でよく見るものだ。自分がローマに来たのだとあらためて気づかされる。</p>

<p>さらに、建物内にはユッピテルの神殿の土台も見ることができる。「&larr; Le fondazioni del Tempio di Giove」（&larr;ユッピテル神殿の土台）という案内板に沿って歩くと、レンガで作られた、建造物の大きな土台が現れた。近代に建てられた建物の中に、古代ローマがたしかに息づいていた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ローマの建国者を育てたオオカミ</h2>

<p>カピトリーノ美術館では、他にも古代ローマを感じられる場所がある。博物館の一棟「セナトーリオ宮」から入ることができるのが、紀元前78年に建てられた公文書館「タブラーリウム」だ。ここからはフォロ・ロマーノという遺跡を一望できる。古代に建てられた建物から古代遺跡を眺めるという、なんとも贅沢な体験ができた。</p>

<p>この博物館に来たからには、「カピトリーノの狼」の本物を見てみたい。2023年の『永遠の都ローマ展』で見たものは複製であり、本物はこの博物館に収蔵されている。この彫刻は、ローマの伝説上の建国者ロームルスとレムスを育てた狼を表現したものだと考えられている。</p>

<p>伝えられるところによれば、アルバ・ロンガの王ヌミトルは、弟であるアムーリウスに王位を簒奪されてしまう。その後、ヌミトルの娘であるレア・シルウィアが双子を生むと、将来自らの王位を脅かしかねない存在としてアムーリウスはこの双子をティベリス川に流すことを命じる。しかし、彼らは奇跡的に助かった。その後、ロームルスとレムスはオオカミに拾われ育てられ、成長した２人はアムーリウスを討ち、それまで幽閉されていた祖父ヌミトルも解放する。</p>

<p>カピトリーノの狼は、双子を育てた雌狼なのだ。この像が作られたのは紀元前5世紀と考えられており、狼の乳を飲む双子の赤子は15世紀以降に付け加えられたものだ。</p>

<p>実は、日本にもこの像のレプリカがある。1938年にイタリアから東京市に寄贈されたもので、日比谷公園で見ることができる。また、ゲーム『あつまれ どうぶつの森』に登場する「ぼせいあふれるちょうこく」のモデルにもなっているので、このゲームを通じて知った人もいるかもしれない。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260305Ratengo01.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 16 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[ラテン語さん（ラテン語研究者）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>『豊臣兄弟！』朝倉義景は暗君か？　鶴見辰吾が語る「信長への恐怖と軽蔑」ゆかりの地一乗谷へ  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13853</link>
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			<description><![CDATA[一乗谷で文化的な都市を築き、繁栄した朝倉氏。しかし 五代義景の時、信長によって滅ぼされます。義景は暗君だったのでしょうか。『豊臣兄弟！』で義景を演じる鶴見辰吾さんがゆかりの地・福井を訪ねます。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="一乗谷に再現された「朝倉館」に立つ朝倉義景役の鶴見辰吾さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo1.jpg" width="1200" />一乗谷に再現された「朝倉館」に立つ朝倉義景役の鶴見辰吾さん</p>

<p>戦国大名・朝倉義景は、一乗谷（いちじょうだに。現・福井県）を拠点に「北陸の小京都」を築き上げた人物として知られています。天正元年（1573）一乗谷はいくさによって灰燼に帰しましたが、遺跡からは、義景が北陸に写し取ろうとした美しき都の面影を強く感じることができます。2月中旬、大河ドラマ『豊臣兄弟！』で義景役を熱演する俳優の鶴見辰吾さんが、一乗谷を訪れました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦国時代の先進都市・一乗谷</h2>

<p><img alt="「私がこの時代に生きていたら一乗谷に住みたかったと思うほどの文化レベルの高さですね。当時の住民が1万人という規模感に驚きました」（鶴見さん）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo2.jpg" width="1200" /></p>

<p>「私がこの時代に生きていたら一乗谷に住みたかったと思うほどの文化レベルの高さですね。当時の住民が1万人という規模感に驚きました」（鶴見さん）</p>

<p>鶴見さんが最初に訪れたのは「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館」。当館は、戦国時代の没入感のある空間展示が特徴です。五代当主・朝倉義景が暮らした館（朝倉館）の一部を原寸大で再現しており、室内の意匠や庭園の眺めを当時の視線で体感できます。城下町の全貌を1/30スケールのジオラマでも見ることができます。船着き場である川湊（かわみなと）の遺構が、発掘された当時の石敷きのまま、露出展示されています。</p>

<p><img alt="川湊の遺構展示" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo3.jpg" width="800" />川湊の遺構展示</p>

<p>茶道具や将棋の駒、文房具など、重要文化財を含む170万点におよぶ一乗谷の出土品は、戦国時代のリアルな生活を体感できる重要文化財級の貴重な資料です。義景は単なる地方領主ではなく、傑出した教養人でした。応仁の乱後、朝倉家は戦乱から逃れた公家や僧侶を積極的に受け入れ、彼らがもたらす一流の文化を一乗谷に移植したのです。その結果、荒々しい戦国時代にあって、一乗谷では、都から訪れた客人をもてなす宴が催されました。一乗谷の繁栄ぶりは、もてなしを受けた客人たちが詠んだ歌によって今に伝えられています。</p>

<p>義景が拠点とした越前は、古代から日本海交易の要所であり、肥沃な平野を持つ非常に豊かな国でした。長らく大規模な戦火に巻き込まれなかったため、生活水準がとても高かったと考えられます。街道や河川を通じて国内外から多くの人や物資が往来し、戦国当時、1万ほどの人々が住んでいたと推定されており、道路、井戸、トイレなど生活を支えるインフラ基盤も整っていました。</p>

<p>義景は、一乗谷という独自の文化圏を築き上げた名門・朝倉家の当主であり、彼にとっての一乗谷は、先祖から受け継いだ財産であり、後世に守り継いでいくべきものでした。義景の理想は、力による天下統一よりも、文化の力による平和な理想郷の維持にあったのではないでしょうか。しかし、京都文化を重んじ、名門としての誇りをもつ義景は、新時代の覇者・織田信長との対比で&quot;甘い&quot;と見なされることもあります。なぜ、朝倉家は滅んでしまったのでしょうか。</p>

<p>義景は足利義昭を奉じて上洛する絶好の機会がありながら、越前の安定と一乗谷の繁栄を優先し、動こうとはしませんでした。家臣団との関係についても、朝倉家の軍事力はそれぞれの領地に根ざした国衆の集合体のため、家臣は土地を守ることを最優先し、長期遠征を強いることが困難であったとも考えられています。</p>

<p>一方、信長の土地に対する考え方は、義景と対照的に見えます。信長は清須、小牧山、岐阜、そして安土へと、戦略上の必要性に応じて次々と居城を移しています。また、楽市楽座の奨励に象徴されるように、土地を耕す農業だけでなく、モノを動かす商業も重視していました。</p>

<p>五代にわたって栄えてきた朝倉家からすれば、尾張・美濃を制し、急成長を見せる信長は、一種の成り上がり者にも見えたかもしれません。</p>

<p><img alt="福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館を訪れる鶴見辰吾さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo4.jpg" width="1200" /></p>

<p>「義景は信長に対して得体の知れない者がやってくる恐怖とともにある種の軽蔑のようなものがあったようにも思えますし、そのあたりも意識して演じました」（鶴見さん）</p>

<p>義景が格下と見下している間に、信長は急速に勢力を拡大し、最後には一気呵成に朝倉家を滅ぼしました。義景は、決して無能な暗君ではありませんでしたが、「太平の世の優れた経営者」ではあっても「激動の時代の革命児」にはなれなかったといえます。</p>

<p>名門朝倉家の当主として一乗谷を拠点に栄華を極めた朝倉義景は、信長に追われ、福井県大野市で自刃しました。雪に覆われた「朝倉義景墓所」は、哀しさを包み込むかのように、白く静まり返っていました。</p>

<p>一乗谷と義景墓所を訪ねた鶴見さんは「どうしても来たい場所だったので、当時の人たちのぬくもりのようなものを感じ取れて心が満たされました」と感無量の様子でした。</p>

<p><img alt="朝倉義景の墓所を訪れる鶴見辰吾さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo5.jpg" width="1200" /></p>

<p>「義景という武将は、信長のように領土を拡大するのではなく、理想郷である一乗谷を完成形に近づけたかったのではないかと私は思います。時代が合ってさえいれば、朝倉の文化は日本中に広まったでしょうね」（鶴見さん）</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260224Tsurumishingo1.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 16 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>地元産デラウェアにこだわる「河内ワイン」　工場見学や収穫体験...地域とつながり、世界と結ぶ  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13894</link>
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			<description><![CDATA[世界的にも注目される日本ワイン。なかでも大阪の「河内ワイン」は、古くから栽培されてきたデラウェアを活かして人気だ。工場見学や収穫体験など、さまざまな取り組みを行っているワイナリーをたずねた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="河内ワイン株式会社の工場内に展示されている、かつてワイン製造に使用された大桶" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260303kawachiwine1.jpg" width="1200" />写真：河内ワイン株式会社の工場内に展示されている、かつてワイン製造に使用された大桶（おけ）。初期のワイン醸造では、日本酒造りの道具やノウハウが用いられたという</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>およそこの半世紀、ワインが日本人の食生活に定着していくなかで、国産ワインへの注目も高まってきた。平成30年（2018）には、酒類行政を管轄する国税庁によって、国産の葡萄（ぶどう）を原料とし、日本国内で醸造されるワインが「日本ワイン」として定義され、国際的に認められる高品質、あるいは、日本の食に適した味わいの追求に拍車がかかっている。</p>

<p>そうしたなかで、国内各地のワインの地域ブランド化も進み、関西においては古くからの産地である大阪・河内地域のワインが、新たな展開を見せている。「河内ワイン」が育まれてきた背景と、そこから生まれた個性を探るとともに、羽曳野（はびきの）市に拠点を置くワイナリーにその現在をたずねた。</p>

<p>【兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【（編者）歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>黒大豆の酵母で醸造されたワイン</h2>

<p>平成28年（2016）、肥後熊本藩主・細川家伝来の美術品・歴史資料を所蔵公開する永青文庫から、ワインに関する興味深い古文書が発見された。豊前小倉城主時代の細川忠利が、家臣の上田太郎右衛門にワイン造りを命じたことを記す文書である。それによると、江戸時代前期の寛永4年（1627）から寛永7年（1630）の毎年、2樽（たる）ほどの葡萄酒を仕込ませて届けさせている。これが、国内最初のワイン製造の記録である。</p>

<p>その葡萄酒は「がらみ」と呼ばれた山葡萄を原料に、黒大豆の酵母を使って醸造したと、製法も示される。太郎右衛門の一族は、初期の南蛮貿易の拠点・平戸で西洋の知識と技術を取得したといい、医療にもあたっていた。太郎右衛門はそうした技量を見込まれ、忠利に抱えられた人物であった。</p>

<p>忠利は、この醸造の前後にも長崎で葡萄酒を買い付けるよう命じており、「甘きがよき候」と指示を添えたりもしている。近世期の葡萄酒は、薬酒と捉えられていて、病気がちだった忠利は、滋養のためにワインを常飲していたのであろう。</p>

<p>元禄10年（1697）に出版された、本草学の書『本朝食鑑（ほんちょうしょくかがみ）』に葡萄酒についての記載があり、製法について、山葡萄の汁を煮立てて冷ましたところに、日本酒と氷砂糖の粉末を加え、封をした甕（かめ）で醸成すると書かれている。江戸時代中期以降の国内で造られる葡萄酒とは、こうした葡萄果汁と酒を混合したリキュールのような混成酒を意味するようになり、本来の醸造によるワイン製造の記録は見られなくなる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>甲斐山梨から河内へ──近世・近代の葡萄栽培とワイン製造事情</h2>

<p><img alt="株式会社河内ワインのワインセラー" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260303kawachiwine2.jpg" width="1200" />写真：株式会社河内ワインのワインセラー。後述する、地元の小学生が収穫した葡萄で造ったワインなどを保管している</p>

<p>日本の山に古来、自生する山葡萄が葡萄酒製造の素材に使われたのも理由がある。実は、江戸時代まで栽培種の葡萄産地は限られており、生産量も多くはなかった。</p>

<p>国内での葡萄の栽培は、12世紀の終わりごろ、鎌倉時代初期に甲斐（かい・現在の山梨県）勝沼で始まった。このときから栽培されてきたのは、日本固有の「甲州」と呼ばれる品種で、山野に自生していた変わった蔓草（つるくさ）を育てたところ、葡萄が実って発見されたと伝わる。江戸時代に入ると栽培が甲府盆地に広がり、特産品として江戸に出荷された。また、山形や京都、そして河内へと移植されていく。</p>

<p>享和元年（1801）発刊の地誌『河内名所図会』に、南河内の中心的都市・富田林（現在の富田林市）が、葡萄の産地として紹介されている。農家の前栽に葡萄棚を設け、初秋の頃に鈴のごとくなった実を市に出したと書かれ、また、葡萄酒も名産と知られたと記す。富田林は酒造も盛んで、この葡萄酒も日本酒との混成酒であったとみられる。天保元年（1830年）頃から、堅下（かたしも）村（現在の柏原市）などの河内地域に栽培が広がり、幕末にかけて自宅の庭で育てる農家が増加していったという。</p>

<p>本格的なワイン製造の進展は、西欧文化の導入と殖産興業が図られた明治時代を迎えてから始まる。明治10年（1877）、葡萄栽培の先駆地・山梨県で行政が主導して葡萄酒醸造所が開設され、製造販売会社も創設された。こののち、北海道札幌、兵庫県播磨などでも葡萄園が設けられ、ワインの製造が試みられる。民間においてもワイン生産への希望を抱いて起業する人たちが現れた。</p>

<p>しかし、ワイン製造のために導入したヨーロッパ種の葡萄の木が、高温多湿の日本では育ちにくく、また、醸造技術も未熟で安定した品質で生産するのが難しかった。さらには、葡萄の木の大敵である葡萄根油虫（ぶどうねあぶらむし・フィロキセラ）の外来によって、葡萄畑が壊滅的ダメージを受けるなど、ワイン生産は困難を極め、事業の撤退が相次いだ。</p>

<p>なにより、まだ洋食が一般的でなかった明治時代において、本格的なワインは広く受け入れられるものではなかった。かろうじて糖分や香辛料などを添加した甘味葡萄酒が、滋養酒として支持を得て、ワイン製造を支えていくことになる。</p>

<p>明治11年（1878）、2年前に南河内の道明寺村（現在の藤井寺市）に開設された葡萄試験園で配布された甲州葡萄の苗木をもとに、堅下村の中野喜平が育成に成功。これを起点に、河内地域での葡萄園による本格的栽培が発達する。明治32年（1899）には、日本の気候でも栽培しやすいアメリカ種を導入。のちに地域の中心的品種となるデラウェア種の栽培も始まった。大正時代に入って間もなく、河内でも葡萄根油虫が発見されるが、耐性がある木を台木に椄ぎ木をするなどの対策も普及していて被害が抑えられている。</p>

<p>大正3年（1914）には、駒ヶ谷村（現在の羽曳野市）でもデラウェアを移植して葡萄栽培が始まる。以後、生駒・金剛山地間の西側にあたる一帯の土壌・気候が葡萄育成に適していたことがあり、栽培面積・収穫量ともに急増。昭和10年（1935）ごろから、河内を中心にした大阪府の葡萄生産高が全国一となる時期が続いた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>歴史あるワイナリーを拠点に、河内ワインのファンを育む</h2>

<p><img alt="「河内ワイン館」で展示紹介されている、かつて使われたボトルやパンフレット" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260303kawachiwine3.jpg" width="1200" /><br />
写真：「河内ワイン館」で展示紹介されている、かつて使われたボトルやパンフレット</p>

<p>葡萄栽培が繁栄するなか、河内でのワイン製造も図られる。そこには地域の事情があった。山麓にある河内の葡萄園は台風による被害を受けることが多く、傷ついて出荷できない葡萄が大量に発生することがしばしばであった。そうした葡萄を活用するために、政府はワインの製造を呼びかけ、醸造免許を発行したのである。堅下村では、大正3年（1914）に地域で最初の醸造所が創業され、3年後にはワインの出荷を開始した。</p>

<p>昭和9年（1934）、京阪神地域を襲った室戸台風は、河内地域の葡萄農家にも甚大な被害を与えた。政府は特例として被災した果実を利用できるよう、すべての葡萄農家に醸造免許を交付。その数は119軒に及んだ。</p>

<p>「そうはいっても、当時の葡萄農家の大半は小規模な家族経営で、醸造免許があってもワインを製造する設備はなく、製造方法も売り方も知らなかったのです。また、ワイン造りは継続することで成り立つ事業でもあって、来年はどうするかわからないということでは、始めることはできません。そんななかで、面白いじゃないか、やってみようという地元の人が何人かいて、その一人がうちの曽祖父の金銅徳一（こくどうとくいち）でした」。そう語るのは、曽祖父が起業した「金徳屋（こんとくや）洋酒醸造元」を前身として引き継ぐ、「株式会社河内ワイン」代表取締役社長の金銅重行（しげゆき）さんである。羽曳野市駒ヶ谷の本社で運営する「河内ワイン館」は、地域の観光スポットとしてよく知られている。</p>

<p>かつての河内ワインは、一升瓶に詰めた素朴なワインとして知られた。金徳屋洋酒醸造元では、創業以来、ワインだけでなく、ブランデー、梅酒なども製造販売。戦後は大手酒類メーカーの製造受託先として事業を拡大したという。</p>

<p>昭和53年（1978）には、河内産葡萄100パーセント使用の自社製造ブランド「河内ワイン」を販売開始。イベントなどにも参加して、地ワインの味と知名度を広げていく。平成8年（1996）には、社名も「河内ワイン」と変更して株式会社に。そして平成9年（1997）、重行さんの父である先代・金銅徳郎氏が「河内ワイン館」を完成させる。自社ワインを直売する、人が集う場を、という思いを込めた施設であった。しかし、不幸なことに徳郎氏はまもなく急逝。当時、重行さんは20歳の大学生であったという。</p>

<p>会社の経営を祖父と母に預けながら、大学を卒業後、酒類の卸会社で3年半勤務して修業したのち、重行さんは平成17年（2005）に、実家の河内ワイン社に入る。そして、15年前に社長となって以来、進めてきたのは、事業の大胆な刷新であった。ブランディングを一から見直し、それまでの販売取引先をすべて取りやめたことも。「河内ワインの古いイメージを変えたいということがありました。それは先代、先々代の思いでもあったと思います。『日本ワイン』が注目されていますが、その代表として河内ワインを期待に応えるものにしたいということでもあります」。</p>

<p>醸造にも関わる金銅社長は、自身が納得できる品質を追求してきた。ヨーロッパ系の葡萄品種も自社圃場（ほじょう）で栽培して製品の幅を広げる一方、地元名産の食用葡萄で、古くからワインの原料ともしてきたデラウェアにこだわる。「現在も栽培している半分以上はデラウェアです。ただし、そこから同じワインを造るのではなくて、甘口、辛口、スパークリングと製法を変えて異なるワインを製造しています。最近は皮ごと原料にしてオレンジワインも造りました」。</p>

<p>金銅社長が事業の基本としてきたのは、生産量が限られる中小規模のワイナリーであることを踏まえ、製品を大手小売店に卸すのではなく、ワイナリーにお客さんに来てもらい、ワインに親しんでもらうことでファンを増やすことであった。そのために力を入れてきたのが、工場見学の企画である。ワインセミナーにテイスティングやランチも組み合わせた団体対象のプランを予約制で受け付けている。「インバウンドの見学者も少なくありません。台湾の方が多く、香港、シンガポール、欧米の方もおられます。なかには、バイヤーとして来られる人もいて、海外の販路にもつながっています」。すでに製品の約15パーセントが輸出されているという。</p>

<p>ワイナリーを訪れて地域の人と文化に触れるという旅のスタイルが、ワイン生産国において1980年代から始まり、すでに定着している。国内の生産地でも地域活性化において着目され、近年、取り組みを進めるところが出てきた。金銅社長の進める事業もその流れに沿う。</p>

<p>河内ワイン社では、法人を対象に葡萄栽培と収穫体験の企画も実施している。育てた葡萄をオリジナルワインに仕上げ、購入してもらうというものである。収穫には家族で来訪する人たちが多いといい、300人ほどが参加。ほとんどがリピーターである。「こうした事業を通じて、葡萄作りやワイン製造への理解を深めてコミュニティを広げていければ」と金銅社長は思いを語る。</p>

<p>ユニークな企画として、地元小学校の6年生を対象に葡萄収穫の体験学習を実施し、収穫した葡萄をワインにして保管。子どもたちが20歳になったときに、初めてのお酒としてプレゼントしている。小学校の校章には葡萄が取り入れられているといい、地域から飛び立つ青年たちに、故郷の産物、歴史文化としてワインの存在を胸に刻んでもらうことを願う。</p>

<p>「この地のワイン造りをどうすれば広く知ってもらえるか。頭を絞ってそのことを考え、新たなことに挑んできました。父が言っていたことで印象に残っているのは、『商いは飽きさせたらあかん』という言葉です。私もその遺伝子を引き継いでいるのかなと思います」。創業して92年。100周年に向けて、金銅社長のチャレンジはまだまだ続きそうである。</p>

<p><img alt="河内ワイン社の製品ラインナップ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260303kawachiwine4.jpg" width="1200" />写真：河内ワイン社の製品ラインナップ。メインになる「金徳葡萄酒」シリーズのラベルには、ワイナリーの東にそびえる二上山が描かれ、各ワインのテイストに相応しい時間帯の風景になっている。シリーズを代表するデラウェアは、若々しく爽やかな味わいにデラウェアがほのかに香る。寿司などの和食にあうワインである。ほか、オーク樽で熟成したクオリティ重視の「KONTOKUYA」、年ごとに自由な発想で挑む「KIEI」などのシリーズがそろう</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260303kawachiwine1.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 05 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>渋沢栄一の孫が「紙幣を無価値」に？　税率90％、預金封鎖...戦後日本を救った壮絶な決断  幸田真音（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13857</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013857</guid>
			<description><![CDATA[戦後の日本は物資が枯渇し、モノの価格は高騰。国債は膨れ上がり、経済破綻寸前となっていた。それを救うため、渋沢栄一の孫であり、当時大蔵大臣を務めていた渋沢敬三がとった驚きの策とは。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="日本銀行" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/nihonginko.jpg" width="1200" /></p>

<p>渋沢栄一は日本資本主義の父と称される偉人だが、その孫である敬三も、実は後世に語り継がれるべき人物であった。破綻寸前だった戦後日本の経済を救うため、敬三が行なった驚くべき手法とは。<br />
渋沢敬三を主人公とする小説『金融緊急措置 渋沢敬三、終戦後の決断』を上梓した作家・幸田真音氏が、その偉業の一端を語る。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2026年3月号より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦後の日本が置かれた厳しい状況</h2>

<p>日本の財政は敗戦によって著しく硬直化し、破綻寸前となっていました。</p>

<p>まず、海外領土を返上し、国土は開戦前の約半分に。しかも国内は戦禍により焦土と化し、徴兵によって労働力が激減したうえ、あらゆる産業が軍事物資の生産に転換させられていたため、食料や日用品などの生産力を失い、物資の供給力は極限まで逼迫していました。</p>

<p>復員により労働人口が回復しても、雇用先がありません。人が増えれば需要も増加するのでさらに需給バランスは崩れ、モノの価格は高騰、インフレの亢進で通貨価値は大暴落。<br />
一方で、戦時中に発行された「戦時国債」が、1500億円にまで積み上がっていました。</p>

<p>GHQの占領政策の下、極端なインフレと戦いながら、超巨額の戦時国債をいかに処理するか。その難題に挑んだのが、日本資本主義の父といわれた渋沢栄一の嫡孫で、幣原喜重郎内閣の大蔵大臣を務めた渋沢敬三でした。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ＧＨＱをも驚愕させた「起死回生」の策</h2>

<p>敬三は、池田勇人ら大蔵省の精鋭と協議を重ね、「財産税で賄うしかない」という結論に辿り着きます。つまり貯金や有価証券、不動産など、国民のあらゆる財産への課税です。<br />
ただ敬三がこだわったのは「漏れなく公正に、かつ一度だけに」ということでした。</p>

<p>税率は、財産の多寡によって25％から最高は90％。持たざる者も4分の1、富裕層には9割もの税を課すのです。国民の苦渋を思えば、一度きりで終わらせなければなりません。いわゆる「戦争成金」など、戦争で生まれた格差もこれで是正できると考えました。</p>

<p>これを聞いたGHQは、驚愕します。「本当にそんなことができるのか」と。しかし、この策は実のところ、GHQの占領方針とも嚙み合うものでした。</p>

<p>GHQの狙いは、日本に二度と戦争を起こそうなどと思わせないこと。財閥は骨抜きにしたいが、国民の自立は望ましい。その意味では、「日本経済を立て直しつつ、富を有する者らは叩ける」財産税の徴収は、ある意味GHQの意向にも沿うものでした。</p>

<p>とはいえ、政策実現は困難を極めます。保有資産の把握は容易ではなく、隠れたタンス預金などの調査は不可能です。そこで行き着いたのが「新円切替」、すなわち通貨を一新して旧紙幣を使用不可にするわけです。紙屑になってしまうとなれば、全部出してきますよね。</p>

<p>ただし、新紙幣を刷るにも、戦争で印刷機も紙もインクも枯渇。全国各地への配布手段もない。そこで薄紙で小さな証紙を作り、それを旧紙幣に貼って、「新紙幣」としました。<br />
それでもインフレは抑えられず、やむなく預金封鎖に踏み切ります。全国民に一世帯あたり、月に「500円生活」を強いたのです。</p>

<p>富裕層を破産に導く財産税の徴収、それを実行するための新円切替に預金封鎖。国民には過酷極まりない政策で、敬三自身も私財を失うものですが、それでも敬三が断行したことで、日本は「沈没」を免れたのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「取るものは取るが、払うものは払う」</h2>

<p>これらを、敬三は当然ながら、GHQの許可を得て行ないました。もちろん、GHQの意を汲んでばかりいたわけではありません。</p>

<p>戦時中に政府が企業に発注していた事業についての支払いは、敗戦によって滞っていましたが、この軍需補償は守るとの信念を、敬三は堅持します。<br />
敗戦したから払わないというのでは、国が企業を騙したことになり、国の信用にかかわるから絶対に避けたいと。</p>

<p>GHQは断固支払いに反対しますが、敬三は「財産税の徴収と、必ず同時に処理すること」を条件に、これを認めさせています。</p>

<p>また、先述した「証紙を旧紙幣に貼る」というアイデアに対しても、GHQは当初、偽造のリスクがあるとして承認しませんでした。しかし、この案がノーなら蔵相を辞任するとまで言い切る敬三に、GHQ側が慌てて折れ、証紙案も採用されています。<br />
我欲に無縁な敬三は、決してGHQの「言いなり」ではなかったのです。</p>

<p>国民に究極の苦痛を強いる決断は、誰にでもできることではない。誰もやりたくないことでしょう。おそらく、「渋沢」の家に生まれた敬三でなければ不可能でした。祖父栄一が築いた日本経済の後処理をすべく、戦後のこの時期に、「渋沢敬三」が存在していたことは、まさに&quot;天の配剤&quot;だったのかもしれません。</p>

<p>この一連の「金融緊急措置」が一段落するのを待って、敬三の公職追放が行なわれました。それは、彼がこの危機を乗り切るのに不可欠な人物と、GHQでさえも認めていた証左だったように思えてなりません。</p>

<p>翻って、現在の日本。GDPの2.5倍にまで膨らんだ債務に、出口戦略はあるのでしょうか。誰がその決断をしてくれるのか──。<br />
歴史を経済の視点で見つめ直すことは、現代との相似形に学ぶという意義もあるのです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 04 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[幸田真音（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>西郷従道「切腹覚悟で軍艦を買え」　国家破滅を防いだ“ルール無視”の決断力  神野正史（元河合塾世界史講師／YouTube神野の世界史劇場「神野塾」主宰）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13835</link>
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			<description><![CDATA[戦艦三笠を購入しようにも資金が足りないーーそんなとき西郷隆盛の弟・西郷従道は、ルールを無視して思い切った行動に出る。歴史人物たちの行動から、臨機応変に決断することの大切さを説く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="戦艦三笠" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/mikasanew.jpg" width="1200" /></p>

<p>「きまり」は守るべきものであるものの、時にはルールを破る勇気も必要ーー。<br />
西郷隆盛の弟・西郷従道は、予算が足りず旗艦「三笠」を購入できそうにないと知るや、驚くべき行動に出ます。<br />
法や慣習を遵守することにこだわって国を滅ぼしかけた人々との対比を通じ、ここぞという時は臨機応変に決断すべき「真の覚悟」を問い直します。&nbsp;</p>

<p>※本稿は、神野正史著『最強の教訓！世界史　まさかの結末に学ぶ』（PHP文庫）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>名前を間違えられたが、「まあ、よか！」とそのままに</h2>

<p>「西郷（せご）どん」の愛称で知られる幕末の志士「西郷隆盛」はあまりにも有名ですが、本稿の主人公はその弟に当たる人物、西郷従道（じゅうどう）です。</p>

<p>兄弟には皆「隆」の字が付いていて、彼も本名は「隆道」だったのですが、明治に入って太政官（政府）に名前を登録する際、役人が聞き間違えて「従道」となってしまいました。<br />
すぐに間違いに気づいたものの、本人は「まあ、よか！」と気にも留めずそのまま「従道」と名乗ったという磊落（らいらく）な人物。</p>

<p>御一新したとはいえ、当時の国際情勢は厳しく、とくに神洲（日本のこと）防衛のための海軍は日本にとって重要な意味を持ちました。<br />
1885年の内閣発足に伴い、その初代海相となったのが西郷従道です。</p>

<p>彼は自分が目をかけていた山本権兵衛を自分の側近として置き、彼に実務を任せて自らは鷹揚に構えます。<br />
こうした西郷・山本コンビでなんとか「日清戦争」は乗り越えたものの、一難去ってまた一難、すぐに今度はロシアの脅威が迫ってきます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「三笠」がなくばロシア艦隊に勝てぬ</h2>

<p>これに備えるため、西郷海相は「海軍拡張計画」を実施。</p>

<p>── 現状の海軍力ではロシア海軍には到底かなわぬ！<br />
ここは大規模な海軍増強が必要不可欠。<br />
すでに建造中の戦艦2隻に加え、さらに戦艦4隻・巡洋艦6隻を建造する！</p>

<p>これを「六六艦隊」といいますが、あまりにも大規模な計画であったため、彼の任期中に完成させることあたわず、彼は海相の地位を山本権兵衛にバトンタッチして、事後は彼に任せることにします。</p>

<p>しかし、山本権兵衛が西郷の仕事を引き継いでほどなく問題が発生しました。<br />
「六六艦隊」の完成には旗艦「三笠」の調達が必須でしたが、その購入予算が尽きてしまったのです。<br />
山本は西郷に相談に行きます。</p>

<p>── 閣下。<br />
困いこちなりもした。（困ったことになりました。）<br />
「どげんした？」<br />
山本海相が事情を話すと、西郷は眉間にしわを寄せます。<br />
それはまずい。<br />
旗艦「三笠」がなくば「六六艦隊」の完成なく、「六六艦隊」なくばロシア艦隊（バルチック艦隊）に勝てぬ。<br />
バルチック艦隊に勝てねば日露戦争にも敗れ、日露戦争に敗れれば神洲は露助の植民地にされる。</p>

<p>「三笠だけは何（ない）としてん手に入れんにゃならん。」　<br />
── どげんしもんそ。（どういたしましょうか。）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>西郷従道、「まさか」の行動</h2>

<p>ひとしきり思案したあと、西郷は山本を見据えて口元を緩ませます。</p>

<p>「権兵衛よ。<br />
あい（あれ）があったじゃろ？　あいを使え。」<br />
── あいとは？<br />
「償金特別会計じゃ。」</p>

<p>「償金特別会計」というのは先の日清戦争で清朝から受け取った賠償金（下関条約で定められた賠償金2億両（テール）と遼東半島返還の償金3000万両で合計（当時の日本円で）3億5000万円ほど）のプールです。<br />
ここから議会の審議を経て然るべき予算へと振り分けられていました。</p>

<p>── いや、そのためにはまず議会に諮らねばならず...<br />
「馬鹿もん。<br />
議会が首縦に振っもんか。流用すんじゃ。」</p>

<p>── そげんこつしたら議会から追及されもんど。<br />
「そんときは腹ァ切ればよか。<br />
おいどんとおまんさあ、腹ァふたつで軍艦が買えっなら、安かもんじゃろが。」</p>

<p>こうして、2人の&quot;覚悟&quot;により「三笠」が手に入り、それが「日本海海戦」の勝利につながっていくことになりました。<br />
もし、西郷従道が「児島惟謙（これたか）」のようなガチガチの頑固頭であったならば、このとき日本はロシアに亡ぼされただけでなく、ロシア人の植民が進み、今ごろ日本列島に住んでいたのは日露混血民になっていたことでしょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>国家存亡の危機に理想論？</h2>

<p>突然登場した「児島惟謙」という人物について、少し敷衍しましょう。</p>

<p>じつは、遡ること日清戦争直前の1891年、当時露（ロシア）皇太子だったニコライ（のちのニコライ2世）が訪日したことがありました。<br />
当時はちょうどロシアが「シベリア大陸横断鉄道」着工を発表したばかりのころで日露関係に緊張が走っていたころ。</p>

<p>当時、日本はまだ産業革命すら起こしておらず、ロシアなど天地がひっくり返っても勝てない相手でしたから、なんとしても皇太子ニコライ殿下にはご機嫌うるわしう過ごしていただき、&quot;穏便に&quot;事を運びたい。<br />
そのため皇太子ニコライは各地で歓待を受け、下にも置かない扱いを受けて彼も上機謙だったのですが、滋賀県の大津を観光していたときに事件が起こります。</p>

<p>皇太子ニコライ一行を警備していた「津田三蔵」なる巡査がとつぜん帯刀していたサーベルで皇太子ニコライに斬りかかり、大怪我を負わせてしまったのでした。<br />
これがかの有名な「大津事件」です。</p>

<p>これには日本中が驚天動地。<br />
これを口実にロシアからどんな無理難題を突き付けられるかしれず、それがこじれれば開戦すら視野に入りかねない大事件です。<br />
今、開戦となったら100.0％、日本に勝ち目はありません。</p>

<p>政府中枢がうろたえたのも当然。<br />
伊藤博文・山縣有朋・大隈重信ら元勲を初め、首相松方正義・内相西郷従道・農相陸奥宗光・逓相後藤象二郎・外相榎本武揚現職閣僚も一斉に「津田三蔵」に死刑を求めます。<br />
これに断固反対したのが、当時司法のトップだった「児島惟謙」でした。</p>

<p>彼は「法治国家として法は順守されなければならない」「謀殺未遂は刑法292条により死刑にできない」と正論で応じます。<br />
しかし、政府としてはそんな建前・理想論・きれい事ごとなどどうでもいい、何が何でもロシアに溜飲を下げてもらわなければ国家の存亡に関わります。<br />
後藤象二郎など、「ただちに津田を拉致して射殺せよ！」と息巻いたほど。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「原理原則」を墨守する愚</h2>

<p>まあ、後藤の主張もチト感情的に過ぎますが、しかしこのときの日本は、<br />
「法を守って国家・民族を亡ぼす」か、<br />
「法を破って国家・民族の存続を図るか」の二者択一を迫られたわけですから後藤の心情も理解できます。</p>

<p>この二者択一なら、まごうことなく後者が正しいに決まっていますが、世の中にはこんな簡単な道理も理解できない人がじつは多い。<br />
古代ギリシアにおいて「悪法も法なり」と言って自ら毒杯を仰いで死んだソクラテスを賛美したり、戦後の日本で闇米を拒否して餓死した山口良忠を美化する方たちなどはその典型でしょう。</p>

<p>そもそも「法」というものは、人間が人間らしい秩序だった社会生活を円滑に送るために社会に注された&quot;潤滑油&quot;にすぎません。<br />
&quot;潤滑油（エンジンオイル）&quot;は使っているうちに真っ黒に劣化するし、たとえ新品でも不良油（オイル）で使い物にならないこともあります。</p>

<p>不良油（オイル）だったり劣化してきたら、誰しもエンジンが壊れないうちに新品の油（オイル）に交換するように、「悪法（不良オイル）だったり時代に合わなくなってきた（劣化オイル）ら、秩序（エンジン）が壊れないうちに法改正（オイル交換）して秩序（エンジン）を守る」のは当たり前のことです。</p>

<p>しかし、こんな当たり前のこともカチカチの頭で理解できず、日本を亡ぼそうとしたのが「児島惟謙」なのですが、後世、彼のことを「護法の神様」と讃える者が続出する惨状。<br />
法を守って国が亡びたのでは、本末転倒だということすら理解できない。</p>

<p>何事も根本・本質を忘れず、臨機応変に対応することが大切で、「原理原則」にこだわり、これを墨守することだけを考える者は愚者の烙印を押されます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>グルーシーの愚挙</h2>

<p>政治も外交も経済も軍事も、そして人生も同じ。<br />
ナポレオン時代の最後の元帥となったエマニュエル・グルーシーもそうでした。</p>

<p>ナポレオン最後の決戦となった「ワーテルローの戦」において、グルーシーはナポレオンから「プロイセン軍を追撃せよ」との命を受けていました。<br />
しかし、その任務中、ワーテルロー方面から砲声が聞こえてきます。</p>

<p>当時、軍には「砲声に赴（おもむ）け」という戦訓（マキシム）があり、「どこでどんな任務に就いていようが、砲声が聞こえてきたら、何を置いてもただちに砲声に向かって援軍に駆けつけろ」というものです。</p>

<p>確かにグルーシーはナポレオンから「プロイセン軍追撃」の命を受けていましたが、砲声が聞こえてきたならただちに駆けつけなければなりません。</p>

<p>諸将もグルーシーに訴えます。<br />
「閣下！こんなところで何を悠長に構えておられるのです？<br />
あの砲声が聞こえるでしょう？<br />
我々も直ちに出撃せねば！」</p>

<p>しかし、食事中だったグルーシーは落ち着いた様子で答えました。<br />
── 余は陛下からここを守るように仰せつかった。<br />
だからここを死守する。</p>

<p>ここでグルーシーがワーテルローに駆けつけていれば、ナポレオン軍の勝利だったと言われています。</p>

<p>「言われたことを言われたとおりにこなす」ことなど犬畜生でもできます。<br />
「状況・現状・現実に合わせて今何をなすべきかを考え、臨機応変に動く」ことは人間にしかできないことであり、我々は人としての矜持を持って生きたいものです。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 02 Mar 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[神野正史（元河合塾世界史講師／YouTube神野の世界史劇場「神野塾」主宰）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>おでんは最初「焼き物」だった！豆腐田楽からコンビニ、進化系フレンチまで　600年の歴史をたどる  萩原ゆみ（紀文食品広報室）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13860</link>
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			<description><![CDATA[寒い季節に恋しい「おでん」。どのようにして生まれ、いかに進化してきたのか。江戸っ子に親しまれた味から、多くの人に愛されている有名店まで、おでんの歴史を解説します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="おでん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260225oden.jpg" width="1200" /></p>

<p>冬の風物詩といえる「おでん」。それは、どのようにして生まれたのか。そして、どのように発展・進化してきたのか。それを味わうことは、日本を知ることにもなる!?<br />
紀文食品おでん研究班として『おでん学！』（祥伝社新書）も上梓した萩原ゆみ氏が、知られざるおでんの歴史を解説します。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2026年3月号から一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>おでんの誕生</h2>

<p>司馬遼太郎の『アメリカ素描』（1986年）を開くと、ニューヨークのソーホーを散歩する著者の写真とともに、アメリカを「おでん」に例えた言葉が目に入ります。</p>

<p>この中の「さまざまな人種が、オデンのようにそれぞれ固有の形と味を残したまま一ツ鍋の中に入っている」との一節は、多民族国家アメリカの包摂力と多様性を巧みに描き出しており、鍋の中でいろいろな種ものが個性を保ちながら調和するおでんのあり方を通じて、共存する風景を描写した視点は非常に印象的です。</p>

<p>池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズの一編「密告」（1974年）の冒頭には、次のように記されています。</p>

<p>「清水門外の火付盗賊改方・役宅からも程近い九段坂下に、（中略）売り物は燗酒に、いわゆるおでん......といっても、当時はまだ、いろいろな種を煮込んだおでんはあらわれていない。豆腐と蒟蒻を熱した大きな石の上で焼き、柚子味噌をつけて出す田楽。これが、おでんのはじまりだったのである」</p>

<p>おでんのルーツは、永享9年（1437）の『蔭涼軒日録』 が初見との説もあり、室町時代に豆腐に竹串を打って焼いた「田楽」です。その語源は田楽に「お」をつけて丁寧にし、「楽」を省略して「おでん」となったとされています。</p>

<p>田楽の種類は、ナスや里芋、魚、蒟蒻と多様に広がり、蒟蒻は湯がいて味噌を付ける調理法で発展しました。</p>

<p>江戸後期の風俗誌『守貞謾稿』には「上燗おでん 燗酒と蒟蒻の田楽を売る」と記されており、私たちが「おでんといえば熱燗」と思い浮かべる背景には、おでん売りの存在が大きいと言えるでしょう。</p>

<p>また、江戸末期の盗賊を題材にした歌舞伎『四千両小判梅葉』（初演1885年）にもおでん売りは登場し、「おでん燗酒、甘いと辛い」「味噌は乳熊（ちくま）にかぎるのう」といったセリフが出てきます。</p>

<p>なお、この乳熊の味噌は現代でも購入可能で、製造元のちくま味噌は、赤穂浪士が本懐を遂げた後、一行を店内に招き、甘酒粥を振舞って労をねぎらった老舗として知られています。また、勝海舟が威臨丸で渡米した時の脇差も、こちらの店が寄贈したものとされています。</p>

<p>では、現在のような煮込みおでんは、いつごろ登場したのでしょうか。</p>

<p>主に二つの説があって、一つは江戸後期説、もう一つは、松下幸子氏などによる、江戸期には煮込みおでんがなく明治期になってから、という説です。</p>

<p>『明治商売往来』に記されるおでん屋の項には、「子供のころ、『おでん、おでん』と流してきたのは（中略）味噌おでんだった。（中略）それが明治末期からであろうか、だんだんに味噌おでんが姿を消していって、いつの間にか、おでんといえば煮込み一遍倒になってしまった」とあり、池波正太郎も『むかしの味』（1984年）で、子供のころには煮込みと味噌の両方が売られていたと記しています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>庶民に愛され続けて...</h2>

<p>現存する最古のおでん店とされている「たこ梅」（大阪）は、弘化元年（1844）に創業しました。</p>

<p>明治20年（1887）には、東京・本郷の「呑喜」が煮売りから&quot;おでん革命&quot;を起こしました。汁気の少なかったおでんを、汁気タップリに改良し、大根を入れたり、油あげに具を入れる「袋」などを生み出し、近隣の東京帝国大学の学生に人気を博しました。</p>

<p>以降、上野の「多古久」、横浜の「野毛おでん」、浅草の「大多福」、銀座の「一平」など、おでん専門店が続々と開業し、おでんはさらなる発展を遂げました。</p>

<p>大正末期の東京では、銀座裏や神田、新宿といった盛り場に赤ちょうちんを掲げたおでん屋が軒を連ね、多くの庶民に親しまれていました。<br />
安価な練りものや豆腐、蒟蒻、大根などが主役となり、気軽に楽しめる料理としての地位を確立したのでしょう。このスタイルはまさに、庶民の懐事情に寄り添うものだったのです。</p>

<p>明治時代から昭和20年代後半までは、おでんは屋台、居酒屋、おでん専門店、さらには駄菓子屋などで供され、大人からは酒の肴として、子供にはおやつとして親しまれていました。しかし、家庭内でおでんが頻繁に食べられることは少なかったようです。</p>

<p>戦後になると、調理や営業のしやすさからおでん屋は再び活況を呈し、昭和の高度成長期には、スーパーやデパートでおでんの種が販売されるようになります。家庭でもおでんを楽しむことが一般化し、おでん種や汁の素、練りものがパックされた商品がその流れを後押ししました。</p>

<p>その後、昭和54年（1979）にはセブン-イレブンが販売を始め、誰でも手軽に温かいおでんを買えるようになったことで、さらに人気の料理となっていきます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>多様性のある料理に進化</h2>

<p>外食としての昭和のおでんは、合わせだしと醬油で煮込まれたおでんを専門店や屋台で楽しむのが一般的で、懐かしさを感じさせる味わいがありました。</p>

<p>しかし、平成・令和に入ると、おでんのスタイルは一変します。「エッジの効いた割烹風おでん」「進化系の種もの」「冷やしおでん」といった、新たなスタイルが次々と登場します。</p>

<p>これにより、おでんは単なる和食から、多様性のある料理へと進化を遂げました。<br />
「おでん屋たけし」や「さもん」といった鶏だしを用いる店が増え、さらには「牛だし」「はもだし」「貝のだし」といったおでん専門店も、続々とオープンしています。</p>

<p>また、大阪ではポルチーニ茸ソースを使った大根が名物のフレンチおでんを展開する「赤白」など、行列が絶えない人気店も生まれました。</p>

<p>平成の終わり頃から令和にかけては、おでんとワインとのペアリングを楽しむ高級店や、イタリアン風の店も登場。<br />
進化の最前線としては、日本橋の「平ちゃん」が、フレンチ料理のエッセンスをベースに、前菜からコースでおでんを楽しむ&quot;劇場型おでん&quot;として話題を集めました。</p>

<p>おでんが多様なスタイルで楽しめるようになったことで、その魅力はさらに広がりを見せています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>物語と歴史、文化を味わう</h2>

<p>おでんの魅力は多面性です。</p>

<p>地理的に見ると、本州を縦断するフォッサマグナを境に、種ものや調理法が異なります。練りものや昆布、鶏肉、クジラ肉、春菊など、地域ごとに特色が見られます。「普通」に見えるおでんの背後には、その土地の風土や歴史が詰まっているのです。</p>

<p>おでんはまた、鍋料理の影響を受けながら、独自に発展してきた料理とも推測できます。<br />
東日本では、石狩鍋、あんこう鍋、柳川鍋など、魚を主役にした鍋が多く見られ、味付けは醬油や味噌をベースにした濃厚なものが主流です。</p>

<p>力強い旨みが好まれているため、おでんにも魚肉の練りものが多く使用され、味付けは主に、かつお節を効かせただしに醬油で味付けをする手法がとられてきました。</p>

<p>一方、西日本では、湯豆腐、はりはり鍋、かも鍋など、昆布だしを生かしたすっきりとした味わいの鍋が主流で、醬油は香り付け程度に使用されることが多いです。</p>

<p>また、しゃぶしゃぶやすき焼きといった、肉類を主役にした鍋料理も関西が発祥とされる説もあり、春菊や水菜などの青菜が彩りを添えます。鍋と同様に、おでんにも牛すじなどの肉類、じゃがいも、葉物などが利用され、多様な味わいが楽しめます。</p>

<p>各エリアを見てみると、北海道・東北エリアは、専門店では、ふきなどの山菜やつぶ貝などが入るのが特徴です。青森では、煮込みおでんに生姜味噌だれを付けて味わうスタイルが人気です。</p>

<p>関東エリアでは、練りものとしては「はんぺん」「すじ」「つみれ」、さらには「ちくわぶ」などが代表的な種ものです。専門店では、昔ながらの茶飯との組み合わせを楽しめるところもあります。</p>

<p>中部エリアでは、黒はんぺんなどの種ものと真っ黒な汁が特徴的な静岡おでん、さらにみそ煮込みやみそ付けおでんが共存している愛知も興味深いです。昆布だしでカニ面（甲羅に身などを詰めたもの）やバイ貝が入る金沢おでんも有名です。</p>

<p>近畿エリアは、大阪では汁が透明の「関西風」と、昔ながらの「関東煮」が共存します。聖護院大根や海老芋が入った京おでん、生姜醬油を付ける「姫路おでん」も人気です。</p>

<p>中国・四国エリアでは、瀬戸内海側と日本海側で味付けや種もの、つけだれに違いがあります。多くのうどん店におでんコーナーが常設されている高松おでん、葉物が特徴の松江のおでんなどが有名です。</p>

<p>九州エリアでは、肉のコクのある味わいや豊富な野菜が魅力です。博多では「餃子巻」が名物、宮崎県都城では大豆もやしとキャベツが入ったおでんが特徴的で、沖縄では豚足や青菜を使ったおでんが見られます。　</p>

<p>おでんという料理には、実に不思議な魅力があります。家庭の食卓に並んでも自然に溶け込み、専門店のメニューに登場しても、堂々とした存在感を放つ柔軟さを持ち合わせた料理です。<br />
さらには、地域や文化、そして時代の変化に柔軟に対応し、進化し続けています。おでんを楽しむことは、単に料理を味わうだけではなく、その背後にある物語や歴史、そしてその土地の文化を感じることでもあります。<br />
それはまさに、&quot;日本を味わう&quot;ということになるのではないでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 27 Feb 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[萩原ゆみ（紀文食品広報室）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>『豊臣兄弟！』丹羽長秀役・池田鉄洋が訪ねる　盟友・柴田勝家を裏切った男の真実  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13755</link>
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			<description><![CDATA[お米のように必要不可欠な存在として織田信長に信頼された丹羽長秀。そのゆかりの地・福井へ『豊臣兄弟！』で丹羽長秀役を演じる池田鉄洋さんが訪ねました。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="丹羽長秀ゆかりの地・福井を旅する丹羽長秀役の池田鉄洋さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260212niwanagahide01.jpg" width="1200" />丹羽長秀役の池田鉄洋さん</p>

<p>戦国という激動の時代。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった「三英傑」の華々しい活躍は、歴史の教科書や小説、ドラマなどで幾度となく語り継がれてきました。</p>

<p>しかし、その巨大な歴史のうねりの背後には、その地域の発展や主君の危機を救うために命を懸けた「知られざる功労者」たちが数多く存在します。こうした名もなき英傑たちの足跡を訪ね歩く旅には、通常の史跡巡りとは一線を画す、奥深い魅力と知的な興奮が詰まっています。</p>

<p>北陸の冬が本気を見せた2月初旬。大河ドラマ『豊臣兄弟！』で丹羽長秀役を務める俳優の池田鉄洋（いけだてつひろ）さんが、長秀の最後の領地だった越前（現在の福井県）で、ゆかりの地を訪ね歩きました。その様子をおとどけしましょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>柴田勝家との決別</h2>

<p><img alt="信長家臣団のなかで剛毅な武将として名高い柴田勝家" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260212niwanagahide02.jpg" width="1200" />信長家臣団のなかで剛毅な武将として名高い柴田勝家</p>

<p>「米五郎左（こめごろうざ）」――。織田信長からそう評され、家中随一の器用さと安定感を誇った丹羽長秀。「米五郎左」という異名は、お米のようにいなければ困り、どんな場面でも役立つという彼の万能さと誠実さを象徴しています。</p>

<p>柴田勝家とともに「織田家臣団の双璧」と称された名将ですが、越前における彼の足跡は、勝家の強烈な個性の影に隠れがちです。しかし長秀が、乱世によって荒廃した北庄（きたのしょう。現在の福井市中心部）の復興と整備に尽くした功績は、極めて大きいといえます。</p>

<p>池田さんの旅の始まりは、JR福井駅からほど近い北庄城跡（きたのしょうじょうあと）。現在は柴田神社として整備されています。ここは、長秀にとって極めて複雑な思いが交錯する場所でしょう。</p>

<p>天正10年（1582）6月の本能寺の変によって、織田家臣団は転換期を迎えました。同年6月の緊迫した清須会議から天正11年（1583）4月の賤ケ岳の戦いへと進むなか、長秀は、勝家ではなく、羽柴秀吉に味方します。</p>

<p>賤ケ岳で柴田軍と対峙する羽柴陣営には、長秀の姿もありました。戦で敗れた勝家は北庄城に戻ったものの、羽柴軍に包囲されて最期を悟り、お市の方とともに自害することに――。</p>

<p>柴田神社の境内に立つ威風堂々たる勝家の像を見上げると、かつて共に信長の天下を夢見た二人の悲しい結末が胸に迫ります。</p>

<p><img alt="柴田神社の拝殿に手を合わせながら長秀の勝家への思いを想像する池田さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260212niwanagahide03.jpg" width="1200" />柴田神社の拝殿に手を合わせながら長秀の勝家への思いを想像する池田さん</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>福井の街並みに息づく長秀の功績</h2>

<p><img alt="丹羽長秀の墓" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260212niwanagahide04.jpg" width="900" /><br />
丹羽長秀の墓</p>

<p>勝家の滅亡後、長秀は恩賞として、勝家の旧領・越前を預かることになります。北庄に入った丹羽長秀の眼前に広がっていたのは、長年の戦乱と一向一揆によって疲弊しきった越前の大地でした。</p>

<p>かつての盟友である勝家の旧領を継承するという状況下で長秀が抱いた「思い」はどのようなものだったのでしょうか。</p>

<p>「滅ぼした友の地に入る複雑な思いを想像することはとても難しいのですが、ここに立ってみると当時の人たちにとっては、戦国の世の常という心境のような気がします」（池田さん）</p>

<p>織田家は、信長の家督相続時は尾張の一勢力にすぎませんでしたが、やがて版図拡大とともに家臣団も増え、その中で柴田勝家、丹羽長秀、そして一族の織田信忠らが中核を担いました。</p>

<p>長秀は合戦でも内政でも大事な役割を果たしており、そのキャリアは、現代の企業で言えば、常に現場と経営陣の間に立つ「総務部長」のような立ち位置だったのではないでしょうか。</p>

<p>信長は家臣団に求めるレベルが高く、筆頭家老だった佐久間信盛ですら、成果を残せていないとみるや追放するほどでした。</p>

<p>そんな信長のもとで、長秀は安土城築城という重大任務を任されましたが、巨大プロジェクトを遂行しつつ、柴田勝家や羽柴秀吉といった同僚と連携して天下統一事業を進めなければならない立場は、常に神経を削るものだったことでしょう。いったいどんな気持ちで、日々の任務にあたっていたのでしょうか。</p>

<p>「長秀は、信長からどんな無茶振りをされても、なんとか乗り切ってきた武将だと思います。時代は異なりますが、私自身、どこか境遇が似ているような気がして共感を覚えます。長秀の肖像画に似ているといわれたこともあります（笑）。長秀役をオファーいただいたときは、運命の巡り合わせだと思いました」（池田さん）</p>

<p>信長家臣団には、勝家、秀吉のほかにも明智光秀や滝川一益といった武将がいて、大河ドラマ『豊臣兄弟！』にも登場します。信長家臣団の雰囲気や長秀と勝家との関係について、池田さんはいったいどんなイメージを持っているのでしょうか。</p>

<p>「いわゆる一致団結型のチームとは違い、有能な武将たちがそれぞれに信長という天才武将に振り落されないように、くらいついていったのではないかと。長秀と勝家が仲良くやっていたとはとても思えないですし、馴れ合いでやっていたら、信長に蹴られたでしょう（笑）。共演の俳優さんたちとそういう話をよくしています」</p>

<p>そんな長秀の最期には、驚くべき逸話が残されています。体内にできた腫物を自ら抉り取り、秀吉に送り付けたというのです。これが事実であれば、長秀には、柴田勝家を破り、天下人へと着々と近づいている秀吉を戒めようとの考えがあったのかもしれません。</p>

<p>いずれにしても、北庄の復興に心血を注いだ長秀は、信長亡き後の世を安寧に導かねばならない、との思いも抱いていたことでしょう。</p>

<p>長秀が眠っている総光寺（そうこうじ）は福井市内の閑静な住宅街の一角にひっそりと佇んでいます。</p>

<p>信長の死後、激変する時代の中で、彼は苦渋の決断を迫られ続けて、最終的には秀吉の天下取りを助ける形となりましたが、その内面には常に「織田家への忠義」と「乱世の終焉」への願いが交錯していたと考えられます。</p>

<p>雪がちらつく総光寺の静けさは、そうした激動の人生を歩んだ長秀が、ようやく手に入れた安らぎそのもののように感じられます。</p>

<p>派手な武勇伝や悲劇的なエピソードでは勝家の陰に隠れてしまうかもしれませんが、戦火に包まれた越前を鎮め、人々が暮らす「都市」としての機能を再生させた長秀の功績は、今の福井の街並みの中に確実に息づいています。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 26 Feb 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「心の壁」を壊す技術　エンリケ航海王子が“海獣の迷信”を突破した「まさかの行動」  神野正史（元河合塾世界史講師／YouTube神野の世界史劇場「神野塾」主宰）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13830</link>
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			<description><![CDATA[中世末期、アジアへの航路を切り拓こうとしたポルトガルのエンリケ王子。迷信に怯える船乗りたちをいかにして動かしたのか。彼の行動から、心の壁を破り、限界を突破するためのヒントを探る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="迷信に怯える船乗りたちを動かすため、エンリケ王子がとった戦略とは？" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_oldmap.jpg" width="1200" /></p>

<p>「やりたいことはあるけれど、前に進めない」<br />
そんなときに立ちはだかっているのは、現実的な問題ではなく「自分には無理だ」という&quot;心の壁&quot;であることが多いものです。<br />
中世の船乗りたちは「南へ行けば海が沸騰し、海獣に襲われる」という迷信を信じ、新航路開拓へ進むことを拒みました。<br />
そんな壁を打ち破り、大航海時代の幕を開けたのがエンリケ航海王子です。<br />
彼が用いたのは、根性論ではない合理的な戦略。歴史を変えたエンリケ王子の「まさかの行動」から、自分の限界を突破するためのヒントを探ります。</p>

<p>※本稿は、神野正史著『最強の教訓！世界史　まさかの結末に学ぶ』（PHP文庫）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>頭の中でイメージできる人だけが夢を叶えられる</h2>

<p>物事はすべて&quot;頭の中ではっきりとイメージできるもの&quot;しか具現化することはありません。<br />
夢や願望も同じです。<br />
それをはっきりと頭の中でイメージできる人だけが夢を叶えることができます。<br />
しかし、多くの人が夢と自分との間に&quot;壁&quot;を作り、自分が勝手に心の中に作った&quot;壁&quot;を前に夢を諦めていきます。</p>

<p>じつは、成功者は皆この&quot;心の壁&quot;を作りません。<br />
だから成功します。<br />
本稿では、その点について深掘りしていくことにしましょう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>大航海時代へ</h2>

<p>中世末期の欧州ヨーロッパは、さまざまな問題を抱えていました。</p>

<p>彼らは伝統的に「混合農業（・二圃制（にほせい）・三圃制・ノーフォーク農法など）」を行っており、我々日本人より肉を多く食べますが、肉というものは穀物と違ってすぐに鮮度が落ち、クサミが出て不味くなってしまうのが難点です。</p>

<p>しかし、10世紀ごろから「東方（レヴァント）貿易」が盛んになり、アジアから「香辛料」（スパイス：食事に香りや辛味を与える調味料のことで、胡椒・丁字（クローブ）・肉桂（シナモン）・肉荳蔲（にくずく：ナツメグ）などがある）が輸入されるようになると、これを肉に振り掛ければ激ウマになることを知り、その入手に躍起になるようになりました。</p>

<p>しかし当時は、欧州ヨーロッパとアジアの間にイスラーム帝国（オスマン帝国やマムルク朝など）が立ちはだかり、彼らに高い関税を払わなければならないという問題に逢着します。</p>

<p>「然らば、イスラームを介さずにアジアと直接交易すればよいではないか！」<br />
しかし、いったいどうすれば...？</p>

<p>我々現代人は正確な地図を知っていますから、「アフリカ大陸を回り込めばよい」と思いますが、当時の欧州ヨーロッパ人が知っていたのは、アフリカ大陸の北部だけで、サハラ以南がどういう形をしているのかまったく知りません（のちに、H・スタンリーという19世紀の探検家が「暗黒大陸」と呼びました）。</p>

<p>――ならば、未知を既知とすればよい！<br />
こうして、欧州ヨーロッパは「大航海時代」という新しい時代に突入することになったのでした。</p>

<p>とはいえ、艦隊を揃えて大海原に乗り出し、新航路を開拓しようとすれば、目ン玉が飛び出るほどの運転資金が必要になります。<br />
まだ中世から抜けきっていない貧弱経済の欧州ヨーロッパの国々では、たとえ望んでもできない相談でしたが、当時、中世末期にあって唯一ポルトガルだけが近代国家「絶対主義体制」へとイチ抜けしていました。</p>

<p>――よし、我が国がどこよりも早くアジアへの直接航路を切り拓こう！<br />
こうして立ち上がった人物、彼こそが本稿の主人公・エンリケ航海王子(ナビゲータープリンス）です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>迷信が&ldquo;心の壁&rdquo;を作り出す</h2>

<p>エンリケ航海王子は時の葡（ポルトガル）国王ジョアン1世の王子（三男）でしたから、王室資金をバックに資金面では問題なかったのですが、計画は難航しました。<br />
どれほどカネを積んで募集をかけても水夫が集まらなかったためです。<br />
障害となったのは、当時はびこっていた迷信。</p>

<p>「水夫になってくれ？　冗談じゃねぇ！<br />
ボジャドル岬（当時、ヨーロッパ人が知っていたアフリカ最南端の岬）より南は海が沸騰してるって言うじゃねぇか！」</p>

<p>「南の海に行けば行くほど恐ろしい海獣が出るんだぞ！<br />
いくらカネ積まれても命にゃ変えられねぇ！」</p>

<p>「その先は海の果てが滝になってて真っ逆さまだ！<br />
クワバラ、クワバラ...」</p>

<p>このころの水夫といえば、海賊パイレーツ崩れや無法者アウトローなど怖いもの知らずの荒くれ者が多かったにもかかわらず、この怯えよう。<br />
迷信に対する恐怖がいかに絶大であったかが窺い知れます。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>エンリケ航海王子、「まさか」の行動（1）</h2>

<p>それでもエンリケ航海王子はなんとか水夫を集めて出航にこぎつけ、ボジャドル岬を突破させようとしたことがありました。<br />
ところが、船が南下するにつれ徐々に気温が上がってくる現実を前に水夫たちが動揺しはじめます。</p>

<p>「そら見たことか！<br />
やっぱりどんどん暑くなるではないか！<br />
これ以上南下すれば、海は沸騰し、海獣が襲い、地獄の門が現れるぞ！」</p>

<p>不安に駆られた水夫たちが「ただちに船を戻せ！」と暴動騒ぎを起こすため途中で帰還せざるを得ず、失敗を重ねることになりました。<br />
最新の航海術ナビゲーションを採り入れて技術的にはボジャドル岬を越えることはできるのに、「迷信」という&quot;心の壁&quot;に阻まれてどうしてもボジャドル岬が越えられません。</p>

<p>そこでエンリケ航海王子一計を案じます。<br />
まず、借金で首が回らない者・囚人・お尋ね者など、すでに人生後がない者たちに徳政（借金免除）や赦免（刑罰免除）に加え、莫大な報酬などをチラつかせて水夫に雇い入れます。</p>

<p>「この航海から逃げて祖国に戻ったところで俺たちに安住の地はない。<br />
だが成功すれば一発逆転、大金持ちだ！」<br />
韓信が井陘（せいけい）で採った「背水の陣」と同じ策です。<br />
しかし、それだけではまだ成功はおぼつかない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>エンリケ航海王子、「まさか」の行動（2）</h2>

<p>次に、とりあえず&quot;心の壁&quot;を破ることだけを考える。<br />
すなわち、「一気に最終目的（アフリカ南端）を目指す」のではなく、まずは目の前の目標（ボジャドル岬を少しだけ越える）を掲げる。</p>

<p>これにより目標到達のハードルが一気に下がり、達成感が生まれ、それによって&quot;心の壁&quot;にヒビが入る。<br />
こうなればシメたもの。</p>

<p>2回目はもう少し南、3回目はさらにもう少し南――と少しづつ目標を上げていくことであれほど頑強だった&quot;心の壁&quot;も、最初は小さなひびもやがて深い亀裂となり、さらに断裂となって剥落しはじめ、ついには倒壊することになります。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>&ldquo;心の壁&rdquo;を破ることに意義がある</h2>

<p>こうして、エンリケ航海王子が生涯を賭けて送り出すことができたのは、アフリカ最西端の「ヴェルデ岬」でした。<br />
ボジャドル岬を突破してヴェルデ岬に辿り着くまで、距離にしてわずか1300kmほどにすぎず、日本の本州の長さ（津軽海峡から関門海峡まで）くらいしかありませんから、航海としてはたいした距離ではありません。</p>

<p>しかし、重要なのは「距離」ではなく&quot;心の壁&quot;を打ち破った点にあります。<br />
歴史を紐解けば、新しい時代を切り拓いた者たちは皆、この&quot;心の壁&quot;を打ち破った人です。</p>

<p>エンリケ航海王子も、彼が成し遂げたことはボジャドル岬をわずかに南に下っただけかもしれませんが、しかしそのおかげで&quot;心の壁&quot;が破れて「大航海時代」が幕を開け、時代は中世から「近世」へと向かったのでした。</p>

<p>これは、歴史上の偉人だけの話でなく、私たち一市民においても同じです。<br />
ほとんどの人が夢や願望を手に入れることができないのは、自分が勝手に作ったこの&quot;心の壁&quot;を打ち破れないためです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>いきなり最終目標を達成することは求めない</h2>

<p>一足飛びに最終目的を完了させることを求めずに、とりあえず&quot;小さな目標（今できることのちょっと先）&quot;を達成させて&quot;一歩&quot;だけ歩みを進めさせる。　<br />
エンリケ航海王子の場合は、少しづつ少しづつ目的地を伸ばして、彼らに「できる」という達成感を与えました。</p>

<p>やってみもせず諦めるのではなく、とりあえずやってみる。<br />
「目標」があまりにも高すぎてとても手が届きそうにないなら、手が届くところまでやって、少しでも成果を出す。</p>

<p>たとえそれがどんなに小さな成果であったとしても、成果が出れば「もう少し頑張ってみよう！」という意欲が湧いてくるもの。<br />
そして、その積み重ねこそが大業を成します。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 25 Feb 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[神野正史（元河合塾世界史講師／YouTube神野の世界史劇場「神野塾」主宰）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>鎌倉幕府を滅ぼした「モンゴル帝国の貨幣経済」　宋銭の流入による社会の変動  出口治明（立命館アジア太平洋大学（APU）前学長・名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13640</link>
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			<description><![CDATA[モンゴル帝国のクビライは、官僚や軍人の処遇をめぐる政策として戦争と交易を推し進めた。その影響は日本にも及び、元寇と貨幣経済の浸透が鎌倉幕府の体制を揺るがしていく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/Qubilai_Qaan.jpg" width="1200" /></p>

<p>鎌倉幕府が北条氏を中心に体制を固めていた13世紀、大陸ではモンゴル帝国が急成長していた。その頂点に立ったのが、チンギス・カンの孫、クビライだ。</p>

<p>クビライは、中国全土を支配下に収めた後、征服によって生じた官僚や軍人をどう処遇するかという難題に直面する。その対応として進められた政策は、日本にも思わぬ影響を与えていく。本稿では、出口治明氏の著書『一気読み日本史』より、鎌倉幕府を滅亡させた真因について解説する。</p>

<p>※本稿は、出口治明著『一気読み日本史』（日経BP）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>モンゴル帝国のクビライが官僚と軍人の失業対策に着手</h2>

<p>鎌倉幕府の初代執権となった北条時政と2代目の北条義時の親子が力をつけていたころ、大陸では、日本はおろか世界を揺るがす大きな動きが起こっていました。モンゴル帝国の登場です。</p>

<p>1206年、モンゴルの部族長のテムジンが、クリルタイという部族集団の会議で、皇帝に推され、チンギス・カンとなりました。それからわずか20年あまりで、中国北部から今のウズベキスタンのあたりまで広がる大帝国を築きます。1227年にチンギス・カンが没した後、いろいろあった末に、中国周辺を支配することになったのが、その孫の一人のクビライでした。</p>

<p>クビライは、今の北京に大都を建設し、1271年、国号を大元ウルスと改めます。大都は内陸でありながら港があり、運河で外港の天津と結ばれていました。海上交通を強く意識してつくられた都でした。</p>

<p>そのころの中国は、南北に分かれていましたが、1276年、南宋の首都が無血開城され、モンゴル軍の手に落ちます。南宋は滅びました。</p>

<p>その後の処理にクビライの政治力が光ります。</p>

<p>南宋の官僚や軍人は残りましたが、放っておけば、反乱の火種となります。そこで、クビライは大出版事業を始め、南宋の官僚たちに仕事を与えます。しかし、反乱の火種としてより厄介なのが軍人で、こちらにも仕事を与えて、反乱を起こせないようにしなくてはなりません。そこで、周辺諸国と戦争を始めます。日本を攻めたのも、その一環と考えられます。</p>

<p>しかし、不思議なことに、戦争をしている間も、モンゴル帝国と日本の間の貿易量は、むしろ増えていたという話があります。</p>

<p>どういうことでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>クビライの「銀の大循環」政策で、日本にベンチャー起業家が登場</h2>

<p>クビライは「銀の大循環」という経済政策を実施しました。中国の大帝国には、昔から周辺諸国が朝貢に訪れます。朝貢に来た使節に、クビライは銀錠という銀の塊を与えました。銀は、当時の世界通貨です。銀錠をもらった人は、それをイスラム商人に貸して、利息を得ます。借りたイスラム商人はというと、お茶や絹、陶磁器など、中国の特産品を買いつけ、それを銀で決済します。結局のところ、銀は中国に還流するわけです。その銀で、中国の人々は税金を支払い、クビライがまた朝貢した人に銀錠を与える。これが、銀の大循環です。</p>

<p>その結果、銅でできていた宋銭が大量に余ります。それが周辺諸国に輸出されるようになりました。日本で最初に宋銭を輸入する大英断を下したのは平清盛でしたが、宋が滅んで、ますます大量に流入するようになりました。そして、日本でも貨幣経済が始まります。</p>

<p>当時の日本は、土地本位制でした。それは、キャッシュがなくても、経済が回るということです。</p>

<p>しかし、宋銭による貨幣経済が始まると、貨幣を使った商売で一旗揚げようという人たちが出てきます。ベンチャー起業家のような人たちが、金融業や製造業、流通業などを立ち上げます。金融業を営んだのが土倉、酒を製造したのが酒屋、流通業や倉庫業を手掛けたのが問丸です。こうした鎌倉時代の起業家たちは、悪党などと呼ばれました。ライブドア事件ではありませんが、ベンチャー起業家は、今も昔も怪しい目で見られがちです。</p>

<p>このような銀の大循環から始まる社会の変動が、やがて鎌倉幕府を滅ぼすこととなりました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>交易を求める使者をスパイと誤解して殺した？</h2>

<p>海上交通と経済政策を重視したモンゴル帝国は、日本に国書を届けにきます。「おい、つきあおうぜ」と。中国では鉄砲が普及しつつあった時代です。火薬の材料となる硫黄が日本にあったので、興味を持ったのでしょう。</p>

<p>当時の鎌倉幕府は、警察権と軍事権は持つものの、政治や外交は朝廷に任せるスタンスでした。しかし、朝廷にしてみれば、承久の乱で幕府にボコボコにされてから、まだ間もないころです。国防にも関わるので「幕府のご意見は？」と、伺いを立てます。幕府はといえば、御家人の支配にしか興味がなく、「そんなもん、ほっといたらええ」といった感じです。幕府にしてみれば、そもそも管轄が違うと、深く考えなかったのでしょう。</p>

<p>モンゴル帝国は、日本へ攻めこむまでに、実に6回も使節を派遣し、国書を届けようとしています。けれど、返事は一度ももらえませんでした。</p>

<p>その間に、朝鮮半島から、日本宛てに「モンゴルはやがて日本に攻めこむから、連帯して戦おう」という手紙が届きます。さすがに幕府も、まずい空気を感じたのか、御家人に輪番で西国を警護させる制度をつくります。そして1274年、いよいよモンゴル軍が襲来しました。文永の役です。このときは小手調べだったのでしょう。モンゴル軍は、わりとすぐに帰っていきましたが、幕府は今度こそ仰天して、防塁を沿岸に築きます。</p>

<p>最初の襲来の半年後、クビライは7回目の使節を送り、8回目の使節も送ります。これだけ使節を送ったということは、やはり交易がしたかったのだと思います。しかし、幕府は、使節の首を斬ります。おそらく「お前ら、攻めてきたばかりやないか！スパイやろ」ということでしょう。</p>

<p>それで1281年、モンゴル軍が、再度、襲来します。弘安の役です。このとき、モンゴル軍は暴風雨に見舞われました。しかし、それだけで撤退したわけではなく、暴風雨で混乱したところに日本軍の猛攻撃を受け、撤退したというのが、正しいようです。「神風」は、やはり神話でした。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>モンゴル軍の襲来は鎌倉幕府の力をむしろ強めた</h2>

<p>モンゴル軍の襲来で、鎌倉幕府が弱体化したと考えるのは間違いです。むしろ、これを機に、幕府の力は強まりました。</p>

<p>モンゴル軍の襲来は大きな危機で、幕府は、戦闘や防塁の構築に、御家人でない人たちまで動員しました。武士は武士でも、王家や有力貴族、寺社の荘園の武士たちで、非御家人とも呼びます。これらの武士たちを幕府が動員するのは、武家権門が、公家権門や寺家権門に挑戦することになります。ときの8代執権、北条時宗にとっては勇気の要る決断でした。</p>

<p>さらに寺社に対しては、異国降伏の祈祷も命じています。このような、いわば戒厳令をへて、幕府は、御家人の政権から、全国政権に成長します。武家権門が、ほかの2つの権門より抜きん出たわけです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>鎌倉幕府が衰退した一番の理由はマネー経済の襲来</h2>

<p>鎌倉幕府の力をむしろ強めました。しかし、鎌倉幕府は衰退に向かいます。なぜでしょうか。</p>

<p>いろんな理由がありますが、一番の理由はやっぱりモンゴル帝国にあったと思います。銀の大循環の余波です。モンゴル帝国から襲来したマネー経済（貨幣経済）が幕府の力を弱めました。</p>

<p>最初のモンゴル襲来から遡ること7年前の1267年、幕府が初めて、所領売買の禁止令を出しています。荘園公領制のこの時代、幕府は領地を保証することで、御家人を支配し、農民も支配していました。土地本位制です。<br />
ところが、御家人がついつい自分の土地を売ってしまうので、禁止令を出したわけです。この後、幕府は何度も、土地売買の禁止令を出します。</p>

<p>御家人が土地を売ってしまうのにも、いろいろな理由がありました。例えば、この時代の相続が分割相続だったのも理由の一つです。子どもが多いと相続のたびに土地が小さくなり、それが困窮を招きました。</p>

<p>しかし、一番の原因は、中国から宋銭がどんどん入ってきて、貨幣経済が始まったことだと思います。土地ではなく、貨幣ベースの世界を生きるベンチャー起業家のような人たちが登場してきて、悪党と呼ばれたのでしたね。新しく力をつけてきた、この人たちを、幕府はうまく統治できません。なぜなら、土地本位制だからです。</p>

<p>1297年、幕府は、永仁の徳政令を出します。要するに「これまでの土地の取引はチャラにするで」という宣言です。土地を売ったり、質に入れたりして、土地を失った御家人たちを救おうとしたのです。しかし、マネー経済に突き進む奔流は止められません。時代の奔流に抗うように、土地本位制にしがみついてしまったことが、鎌倉幕府滅亡の一番の原因だと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/QubilaiQaan.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 17 Feb 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[出口治明（立命館アジア太平洋大学（APU）前学長・名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>徳川家は戦国大名の「富」を恐れた？ 鎖国を200年貫いた江戸幕府の狙い  出口治明（立命館アジア太平洋大学（APU）前学長・名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13638</link>
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			<description><![CDATA[江戸幕府は当初、海外交易を統制しつつ利益を得る方針だった。では、なぜ日本は鎖国へと向かい、その体制が200年以上も続いたのか。島原天草一揆を起点に、幕府の本当の狙いを読み解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="徳川家康" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/pixta_tokugawaieyasu.jpg" width="1200" /></p>

<p>江戸幕府は、海外との交易を全面的に拒否していたわけではない。むしろ、徳川家康の基本方針は、「交易を統制しながら、交易の実利は積極的に得る」というものだった。</p>

<p>しかし17世紀に入ると、幕府は次第に交易を制限し、やがて鎖国体制へと向かっていく。では、なぜこの政策は200年以上も維持されたのだろうか。本稿では、出口治明氏の著書『一気読み日本史』より、解説する。</p>

<p>※本稿は、出口治明著『一気読み日本史』（日経BP）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>キリシタン大名の後釜が圧政を敷き、天草四郎が担がれる</h2>

<p>交易に対する徳川家康の方針は「統制しながら、実利は積極的に得る」でしたね。しかし、キリスト教の広がりに対する懸念から、江戸幕府は、次第に交易を制限するようになり、鎖国に至ります。</p>

<p>鎖国に向かう決定的な要因となったのが、1637年の島原天草一揆、いわゆる「島原の乱」です。かつて「乱」と呼ばれていたのが、最近では「一揆」になったのは、領主の過酷な政治に対する領民の抗議という、中世の土一揆に似た性質があるからです。信仰をめぐる争いだけではありません。</p>

<p>一揆の舞台となった島原は、もともとキリシタンの有馬晴信の領地でした。晴信は死罪になっていましたね。その後は、松倉重政と松倉勝家の親子が、大名になって治めていました。対岸の天草も、かつてはキリシタン大名の小西行長の領地でしたが、関ヶ原の戦いの後、寺沢広高と寺沢堅高の親子が領主となりました。</p>

<p>どちらもキリスト教の信者の多い地域で、禁教令が出された後も、表向きは改宗したように見せながら、粘り強く信仰を守る人たちが多くいました。そこにきて松倉氏と寺沢氏は、キリスト教を弾圧するばかりか、徴税の面でも、領民を相当に絞ったといわれています。その負担に加えて、天候不順も続き、ついに領民が武装蜂起したのが、1637年の秋でした。</p>

<p>4万人近くまで膨らんだ一揆勢を、実際に指導していたのは、キリシタン大名だった有馬晴信や小西行長のかつての家臣で、帰農していた元武士だったと見られています。そのリーダーに担がれたのが、当時17歳の天草四郎でした。四郎には「海上を歩いて渡った」など、たくさんの伝説が残っていて、カリスマ性を備えていたようです。</p>

<p>有馬晴信の城だった原城に立てこもった一揆勢を、幕府が総攻撃したのは、翌1638年2月。動員された幕府軍は12万人あまり、死傷者は1万2000人に上りました。これほどの戦いは、この後、明治維新までありません。</p>

<p>一揆が終わった後、松倉勝家は斬首になりました。江戸時代の藩主で、切腹ではなく斬首になったのは、この1件だけだと思います。寺沢堅高は自害しました。幕府にも、この一揆の原因が、わかっていたのでしょう。それと同時に、やはりキリスト教は恐ろしい、とも思ったはずです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>幕府はネーデルラントを選び、ポルトガルを見切った</h2>

<p>「鎖国」も「鎖国令」も後世の言葉です。鎖国という言葉は、17世紀末に長崎に滞在していたドイツ人医師ケンペルの書いた論文を翻訳してできました。鎖国令は、当時、個々に出された法令の総称です。</p>

<p>最近では、江戸時代の日本が「鎖国していなかった」と考える人もいます。長崎を窓口にネーデルラントと交流していたし、対馬、松前、薩摩を窓口に海外と交流していたという理由です。しかし、どの窓口もさほどの規模ではなく、のちに「開国した」ことに異論を唱える人はいません。だから、日本は鎖国していたと考えていいと思います。</p>

<p>鎖国令は5回にわたり出され、1639年の第5次鎖国令で、ポルトガル人を追放しました。さらに、ポルトガル人がいた長崎の出島に、ネーデルラント人とネーデルラント商館を移して、鎖国が完成します。ネーデルラント人が「ポルトガルが日本に供給していたものは、すべて私たちが供給できます」と断言したので、幕府は、ポルトガルを見切ったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>鎖国が続いたのは、大名が大儲けするのを幕府が恐れたから</h2>

<p>島原天草一揆が、幕府が鎖国に向かう決定的な要因となったことは間違いありません。しかし、第4次鎖国令は、島原天草一揆が起こる前年に出ています。とすると、キリシタンの取り締まりだけが、鎖国の目的だったのか、という疑問も浮かびます。何しろ、江戸時代の鎖国は200年以上も維持されたのです。それだけの理由で、これほど長く鎖国が続くでしょうか。</p>

<p>次のような考え方が有力です。</p>

<p>徳川家康は、太閤検地を引き継ぎ、全国の土地を石高という米の生産量で総覧していました。そして、大名たちのことも、石高でコントロールしていました。石高でいえば、徳川家は250万石で、のちに450万石に拡大します。それに対して、大名は、一番大きい加賀藩の前田家でも約100万石でした。この時代は「石高≒経済力≒軍事力」でしたから、徳川家の力は圧倒的です。</p>

<p>しかし、海外との交易が盛んになって、交易でどんどん儲ける大名が出てきたらどうでしょうか。米の生産量では経済力も軍事力も示せなくなり、徳川家の優位はあっというまに覆されます。</p>

<p>実際、東北の伊達政宗などは、日本国内で領地をこれ以上に増やすのは難しいから、海外と商売して大きくなろうと考えていました。政宗が家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣したのは、その布石でしょう。</p>

<p>現代の日本とシンガポールのようなものです。シンガポールの面積は東京23区よりやや大きいくらいで、人口は約600万人と、日本よりずっと小さな国です。しかし、1人当たりGDPは9万2932ドルあり、それに対して日本は3万3956ドル（2025年）。日本が3倍近くも差をつけられているシンガポールは、小国でも交易や金融で大儲けしているわけです。そういう逆転のシナリオを描く大名が当時いたとしても、不思議ではありません。</p>

<p>そこで幕府は、どう考えたかというと、「交易さえやらせなければ、徳川家がずっとトップやで」と。だから、幕府は鎖国を続けた、という考え方が、最近は有力になっています。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>銀の産出量が減った日本の鎖国を、世界は放置した</h2>

<p>そんな日本の鎖国政策を、ほかの国々は「まあ、ええわ」と放置しました。なぜかというと、「日本にはもう、大したもんはないで」と感じていたからでしょう。17世紀後半になると、日本の銀山の産出量は減っていました。19世紀になって、アメリカのペリーが開国を迫ったのは、中国と交易をするため、太平洋を渡るときの中継基地が必要になったからです。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 13 Feb 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[出口治明（立命館アジア太平洋大学（APU）前学長・名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>越前和紙の歴史がスゴイ！　越前鳥の子紙、ユネスコ無形文化遺産に   歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13733</link>
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			<description><![CDATA[日本古来の紙である「和紙」において、越前でつくられる「鳥の子紙」は最高峰とされ、令和７年（2025年）にはユネスコ無形文化遺産に登録された。越前和紙が評価され続ける歴史的背景を歴史街道編集部が紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="越前和紙" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208fukui1n_1.jpg" width="1200" /><br />
写真︰越前和紙（提供︰公益社団法人福井県観光連盟）</p>

<p>日本古来の紙である「和紙」。なかでも、越前でつくられる「鳥の子紙」は最高峰とされ、「紙の王」と称された。しかも越前鳥の子紙は、令和7年（2025）にユネスコ無形文化遺産に登録されている。古くから現代にいたるまで、越前和紙が高く評価され続けるのはなぜなのか。その理由を探るべく、編集部が福井県へと向かった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「紙の王」である鳥の子紙</h2>

<p><img alt="紙の文化博物館" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208fukui2n.jpg" width="1200" /><br />
写真：紙の文化博物館</p>

<p>和紙、というとどんなイメージがうかぶだろうか。書道用紙、日本画の紙、襖や障子などだろうか。意外に思われるかもしれないが、日本の紙幣は、越前和紙の製造技術を礎として開発がすすめられた。</p>

<p>その和紙は、植物を原料とし、日本古来の技法を駆使して生まれたものだ。</p>

<p>なかでも福井県越前市で漉かれる越前和紙は、1500年もの歴史を誇り、高く評価されてきた。</p>

<p>江戸時代に書かれた『日本山海名物図会』という日本各地の名産品を紹介した本には、「奉書 （厚手の楮〈こうぞ〉紙）余国よりも出れども越前に及ぶ物なし」とある。</p>

<p>また現在、ユネスコ無形文化遺産に「和紙：日本の手漉和紙技術」が登録されているが、令和7年（2025）には、「越前鳥の子紙」が追加登録された。</p>

<p>そんな越前和紙だが、登録された「越前鳥の子紙」は、普通の和紙とどう違うのだろうか。</p>

<p>「鳥の子紙という名前の由来は、その淡黄色の色合いが鳥の卵に似ていることから、とされます」</p>

<p>こう教えてくれたのは、越前市にある和紙文化の情報発信施設「紙の文化博物館」の担当者。</p>

<p>この博物館では、越前和紙の長い歴史や製造工程などを、実際の和紙に触れて学習することができる。博物館を訪ねたときは、ちょうど鳥の子紙の企画展示が行なわれていた。</p>

<p>鳥の子紙は主に「雁皮（がんぴ）」と呼ばれるジンチョウゲ科の植物を原料としているそうだ。</p>

<p>和紙の原料には同じくジンチョウゲ科の「三椏（みつまた）」やクワ科の「楮」といった種類があるが、この2種類の紙と雁皮を用いた鳥の子紙では、手触りが全く違う。同じ厚さで漉いたという紙を触ると、雁皮を原料とする紙は、すべらかで心地よく、光沢が美しい。</p>

<p>三椏はつやがあり印刷適性が高く、日本の紙幣はこれを用いている。楮はしっかりしていて、障子紙などに使用される。</p>

<p>先ほどの担当者曰く、</p>

<p>「越前産の鳥の子紙は『和漢三才図会』に、なめらかで書きやすく、耐久性があって、まさに紙の王だ、と記されているんです」</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>紙を祀る神社</h2>

<p><img alt="岡太神社・大瀧神社の下宮（写真提供︰栁瀨晴夫氏）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208fukui3n.jpg" width="1200" />岡太神社・大瀧神社の下宮（写真提供︰栁瀨晴夫氏）</p>

<p>「紙の王」とまで評される鳥の子紙だが、その製造技法を伝承してきた越前市岡本地区の五箇（不老 ・大滝・岩本・新在家・定友）は、「和紙の里」と称されており、こんな伝説が残っている。</p>

<p>――時は5世紀末、継体天皇がまだ若く、男大迹王（をほどのおおきみ）と呼ばれ、越（こし）の国（越前）を治めていた時代に遡る。この地を流れる岡太（おかもと）川の上流に、一人の美しい女性が現れた。そして村人に、「この地は山あいで、田畑で暮らしをたてるのは難しいだろう。しかし清らかな水と緑繁る山の木があるので、紙漉きを生業とするとよい」として、その技術を教えたという。</p>

<p>村人が女性に名を問うと、「岡太川の川上に住む者」と答えたので、のちにこの女性を「川上御前」として、社を建てて祀った――。</p>

<p>五箇地区には古い町並みが残っており、そうした伝承にふさわしい雰囲気がある。</p>

<p>史実で起源を辿ってみると、正倉院文書の中に「越前国大税帳」という、越前国が天平2年（730）に税収支を報告したものがある。これが越前産の和紙で現存する最古のものとされるが、今でも虫食い一つない。これだけでも、すでに越前で紙漉きの技術が発達していたことがわかる。</p>

<p>また、平安時代にはすでに越前が朝廷へ紙を上納していたことも、「延喜式」に記されている。いずれにせよ、越前は古くから、紙の産地として知られる土地だったのだ。</p>

<p>川上御前を「紙祖神」として祀る岡太神社は、紙の文化博物館から1キロメートルほどの近さというので、さっそく行ってみた。</p>

<p>巨大な杉が林立する中、厳かな雰囲気に包まれた社が見えてくる。鳥居には「岡太神社・大瀧（おおたき）神社」と神社名が2つ記されている。</p>

<p>もともと川上御前を祀った岡太神社が背後の大徳山（権現山）にあり、のち、麓に大瀧寺が造られた。江戸時代には神仏習合で、神社と寺が同じ敷地内にあることは普通だったが、明治の神仏分離令によって寺は大瀧神社と改称、現在、大徳山山頂の奥の院には岡太神社、大瀧神社、八幡社の三社が並び、麓の下宮には岡太神社・大瀧神社両社の祭神を祀る本殿・拝殿が置かれている。</p>

<p>毎年5月には、奥の院から神輿で神様が下宮へ神幸する祭礼も行なわれるという。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>歴史ある紙漉き</h2>

<p><img alt="写真：和紙の里に工場を構える「やなせ和紙」での、紙漉きの様子（写真提供︰公益社団法人福井県観光連盟）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208fukui5n.jpg" width="1200" /><br />
写真：和紙の里に工場を構える「やなせ和紙」での、紙漉きの様子（写真提供︰公益社団法人福井県観光連盟）</p>

<p>実際に、鳥の子紙はどのようにしてつくられるのだろうか。</p>

<p>越前鳥の子紙の技術継承に取り組んでおられる「越前生漉鳥の子紙保存会」の会長・栁瀨晴夫さんの工場を訪ね、ご教授いただいた。</p>

<p>天井の高い工場は、ひんやりとしていたが、どこか凜とした空気が漂っている。</p>

<p>栁瀨さんによると、</p>

<p>「この工場は、太平洋戦争中、紙幣用紙を漉いていた建物で、払い下げられて、戦後この場所に移築されたものだと聞いています」</p>

<p>当時、福井県には大蔵省印刷局抄紙（しょうし）工場が建てられ、百円札や千円札を漉いており、そうした名残が現存しているのだ。</p>

<p>ちなみに江戸時代、日本で初めて藩札をつくったのは福井藩とされており、また、明治時代になって太政官札が発行されたときも、越前和紙が使用されたという歴史がある。</p>

<p>現在、栁瀨さんの工場では、 栁瀨さんとご子息が中心になって、紙漉きに従事している。</p>

<p>「鳥の子紙は雁皮が材料ですが、これがなかなか難しい植物なんです。栽培に適さないので、日当たりのよい崖や斜面などに生えているものを山へ入って採るのですが、以前あった場所に今年はないなどということがあり、調達に苦労します。海外の雁皮も使っていますが、やはり日本のものには及びません」</p>

<p>栁瀨さんが語る。</p>

<p>和紙の製造工程を簡略に説明すると、まず植物の下処理から始まる。原木を熱処理して柔らかくし、皮を剥ぐ。皮を剥いだ黒皮部分をさらに除いた白皮が和紙の主原料となる。</p>

<p>剥いだ白皮を釜に入れ、煮熟（しゃじゅく）を行なう。三椏、楮は煮熟時、なめらかになるだけだが、雁皮はこの段階でぬめりと光沢が出ており、明らかな違いがある。</p>

<p><img alt="写真：左から楮、三椏、雁皮で漉かれた和紙（撮影︰編集部）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208fukui4n.JPG" width="1200" /><br />
写真：左から楮、三椏、雁皮で漉かれた和紙（撮影︰編集部）</p>

<p>この後、水洗いをして塵やごみを洗い流すが、どうしても残ってしまう小さな塵などを手作業で一つずつ丁寧に取り除く。次に白皮を叩いて繊維をほぐす、叩解（こうかい）を行なう。ほぐれた繊維に、黄蜀葵（トロロアオイ）という植物の根から抽出される粘液（ネリ。越前ではこう呼ぶ）を適量加えて、水と混ぜ、桁(けた)・簀（す）を用いて紙を漉く。これを圧搾し、水分を抜き、さらに乾燥させて完成となる。</p>

<p>小さな和紙は一人で漉けるが、襖サイズになると二人がかりでの紙漉きとなる。二人の呼吸が合わねばならず、それだけでも大変な作業であるが、平滑な和紙を漉くには、さらに熟練の手わざが必要だ。</p>

<p>そのうえ、あとから金箔などで装飾するためには、ほんの小さな塵もごみも許されず、なめらかで美しい無地の和紙に仕上げなければならない。</p>

<p>ためしに紙漉きをやらせていただいたが、かなり難しい。それでも栁瀨さんのご子息に、「引っ掛け」という、金型で和紙に模様をつける手法まで丁寧に教えていただき、ようやくできあがった。</p>

<p>漉いた紙を見ると、波打つようによれているところもあるが、自分で漉いたという満足感に満たされた。なにしろ、この和紙は世界に一枚だけのものだからだ。</p>

<p>＊　　　　＊　　　　＊</p>

<p>襖を使う住宅が少なくなり、和紙の需要は減りつつあるともいうが、一度でも鳥の子紙のなめらかさや作業工程を知ると、何か小さなものでも身近に置きたいと感じるだろう。</p>

<p>古代から現代まで、長い歴史の中で育まれた越前和紙。越前和紙の産地を訪れ、多種多様な和紙に触れてみてはどうだろうか。</p>

<p><img alt="写真：編集部の紙漉き体験" height="900" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208fukui6n.jpg" width="1200" /><br />
写真：編集部の紙漉き体験</p>

<p>※工場見学と紙漉き体験については、「やなせ和紙」のHPをご確認ください（https://washicco.jp）</p>

<p><img alt="福井県地図" height="844" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208fukui7n.jpg" width="1200" /></p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208fukui1n_1.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 11 Feb 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>中岡慎太郎の意外な素顔を求めて　幕末土佐の胎動を感じる地・高知県北川村   歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13732</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013732</guid>
			<description><![CDATA[高知県の北川村に関する歴史紀行文。幕末の志士、中岡慎太郎の故郷である北川村を訪ね、歴史街道編集部が中岡慎太郎に関する史跡を紹介しつつ、そこから見る慎太郎のもう一つの顔を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="中岡慎太郎（出典：国立国会図書館「近代日本人の肖像」）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi1n.jpg" width="1200" /><br />
写真：中岡慎太郎（出典：国立国会図書館「近代日本人の肖像」）</p>

<p>幕末の土佐は、高い志をもち、日本のために奔走した志士を多く輩出した。その一人である中岡慎太郎の故郷・北川村を編集部が訪ねると、彼を生み出した風土と、彼が故郷に残した知られざる&quot;もの&quot;が見えてくるのだった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>生誕の地で思いを馳せる</h2>

<p><img alt="中岡慎太郎館" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi3n.jpg" width="1200" /><br />
写真：中岡慎太郎館</p>

<p>幕末、坂本龍馬の盟友で、新たな国づくりに奔走した中岡慎太郎。</p>

<p>慎太郎が生まれ育った地では、彼の意外な素顔に触れられると聞き、高知県安芸郡北川村へと向かった。</p>

<p>最初に足を運んだのは、奈半利（なはり）駅よりバスで15分ほどの中岡慎太郎館。</p>

<p>館内1階では、慎太郎の生涯を、豊富な映像やパネルで追うことができる。30年の人生がドラマチックに再現されており、まるで慎太郎の姿を隣で見ているような気分になれる。</p>

<p>2階には、慎太郎や、ゆかりの人々の資料が展示されている。慎太郎の茶碗などの遺品類も見ることができ、慎太郎のことをより身近に感じられる。</p>

<p><img alt="中岡慎太郎館１階の展示。映像やパネルとともに 慎太郎の生涯に触れられる" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi4n.jpg" width="1200" /><br />
写真：中岡慎太郎館1階の展示。映像やパネルとともに慎太郎の生涯に触れられる</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>慎太郎の生涯</h2>

<p><img alt="中岡慎太郎館目の前の中岡慎太郎像" height="1600" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi5n.jpg" width="1200" /><br />
写真：中岡慎太郎館目の前の中岡慎太郎像</p>

<p>中岡慎太郎館の展示を見ていると、改めて、慎太郎が激動の時代を全力で駆け抜けたことを実感する。しかし、そもそも庄屋の家に生まれた彼が、藩を飛び出し、国事に奔走するようになったのはなぜなのだろうか。</p>

<p>中岡慎太郎館学芸員の豊田満広さんにお話をうかがった。</p>

<p>「慎太郎は、北川郷柏木の大庄屋の長男として天保9年（1838）に生まれました。</p>

<p>中岡家待望の男児だったこともあり、父親が慎太郎に自ら読み書きを教えるなど、両親の愛情と熱意が注がれました。そこには将来、庄屋を継ぎ、村を支える人物となってほしいという願いもあったことでしょう」</p>

<p>この頃、日本各所に外国船が頻繁に姿を現わすようになり、嘉永6年（1853）には浦賀にペリーが来航。時代が大きく動き出す。</p>

<p>ペリー来航の翌年、土佐藩では、藩校である田野学館（たのがっかん）が設けられ、慎太郎も入学している。</p>

<p>「田野学館では、土佐勤王党の盟主・武市半平太とも出会っています。ここでの学びや人々との新たな出会いが、慎太郎の視野を大きく広げたのではないでしょうか」</p>

<p>半平太の人柄に惹かれた慎太郎は、24歳の時に土佐勤王党に加盟し、その後、脱藩。薩長連合の実現や倒幕のための公家同士の協力体制を築こうと、東奔西走していく――。</p>

<p>しかし慶応3年（1867）11月15日、京都近江屋で、慎太郎は坂本龍馬とともに襲撃に遭って重傷を負い、その2日後に世を去る。</p>

<p>この歩みから、その生涯は国事に捧げられたようにも思える。だが実は、慎太郎は北川村にも、ある&quot;もの&quot;を残したという。</p>

<p>「父の病気をうけ、慎太郎は20歳で北川郷大庄屋見習いとなり、農民たちのために奮闘します。農民がお金に困らないよう、林業を奨励したことが資料に残されているのです。</p>

<p>この地域は、水が豊かで、温暖な気候に恵まれており、古くから良質な木々が育つ環境にありました。慎太郎も林業によって村を発展させようとしたのでしょう。彼は、伐採のあとには必ず植林をするよう呼び掛けていたようです。</p>

<p>そしてもう一つ、慎太郎にまつわる伝承として残っているのが、ゆず栽培を奨励したことです」</p>

<p>中岡慎太郎とゆず――意外な組み合わせのようにも思えるが、確かに北川村を訪ねた道中、多くのゆず畑を目にした。</p>

<p>「村には昔からゆずが自生していました。北川村の気候は、ゆずの栽培にも適しており、慎太郎は、ゆずが村の収入源となると考えたのでしょう。この話は昔から村の人々には広く知られた話で、今もなお語り継がれています」</p>

<p><img alt="北川村のゆず" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi2n.jpg" width="1200" /><br />
写真：北川村のゆず</p>

<p>豊田さんから慎太郎とゆずの関係を聞いたことで、ゆず料理が食べたくなってきた――。</p>

<p>中岡慎太郎館の目の前にある慎太郎食堂では、ゆずをはじめ北川村の食材をつかった料理が味わえるとのことで、舌鼓をうつ。特に手作りのゆずジュースは酸味と甘みのバランスが絶妙だ。</p>

<p><img alt="慎太郎食堂の「北川ランチセット」と北川村の手作りゆずジュース" height="726" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi6n.jpg" width="1200" /><br />
写真：慎太郎食堂の「北川ランチセット」と北川村の手作りゆずジュース</p>

<p>次に向かったのは、中岡慎太郎館から徒歩2分の中岡慎太郎生家。</p>

<p>慎太郎の死後、生家は売られ、その後、隣町に移築され、明治40年（1907）の台風で流出した。現在の建物は、関係者の証言や、郷土史家の考証にもとづき、昭和42年（1967）に忠実に復元されたものだ。</p>

<p>開放的な室内に、ありし日の慎太郎の暮らしが思い浮かぶ。</p>

<p><img alt="中岡慎太郎生家" height="900" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi7n.jpg" width="1200" /><br />
写真：中岡慎太郎生家</p>

<p>続いて足を運んだのは、幼少期に慎太郎が読み書きを習いに通っていた松林寺。こちらも、中岡慎太郎館から歩いてすぐ。12世紀末に建てられ、現在は寺門が残るのみだが、幼き日の慎太郎もこの門をくぐったにちがいない。</p>

<p>寺門をくぐって奥へと進むと、慎太郎の遺髪を埋葬した慎太郎遺髪墓地がある。国のために、そして北川村のために奔走した慎太郎の生涯に、しばし思いを馳せる。</p>

<p><img alt="松林寺寺門" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi8n.jpg" width="1200" /><br />
写真：松林寺寺門</p>

<p><img alt="写真右から２番目が慎太郎遺髪墓地。左隣は妻・兼の墓" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi9n.jpg" width="1200" /><br />
写真：右から2番目が慎太郎遺髪墓地。左隣は妻・兼の墓</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>高知市で足跡に触れる</h2>

<p><img alt="高知県立坂本龍馬記念館の展示室。" height="676" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi10n.jpg" width="1200" /><br />
写真：高知県立坂本龍馬記念館の展示室</p>

<p>高知県での歴史散歩というと、高知県立坂本龍馬記念館を思い浮かべる方も多いだろう。</p>

<p>実は坂本龍馬記念館にも、慎太郎をはじめ、幕末の志士ゆかりの展示がされているという。北川村を後にし、高知駅からバスで約35分、坂本龍馬記念館へと向かった。</p>

<p>坂本龍馬記念館では、慎太郎の盟友である龍馬の生涯を、映像、パネル、貴重資料などから追うことができる。</p>

<p>常設展示室には、慎太郎が親友にあてて書いた手紙の複製も展示されており、文面から誠実な人柄がうかがえる。スマートフォンで音声ガイドを聞きながら展示を見ることもでき、より一層、展示品から多くのことが伝わってくる。</p>

<p>坂本龍馬記念館の竹田綾さんによると、龍馬の真筆書簡は常時2点ずつ展示され、2ケ月おきに展示替えがあるとのこと。行くたびに、どんな真筆が見られるのだろうかと、胸が弾みそうだ。</p>

<p>本館地下2階には、龍馬と同じ時代を生きた約130人の写真が並ぶ「幕末写真館」のコーナーもあり、慎太郎の姿も目にできる。</p>

<p>体験型の展示も多くあるので、大人はもちろん、歴史を学び始めた子供も楽しめるだろう。</p>

<p><img alt="坂本龍馬記念館の「幕末写真館」のコーナー" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi11n.jpg" width="1200" /><br />
写真：坂本龍馬記念館の「幕末写真館」のコーナー</p>

<p><img alt="坂本龍馬記念館の近江屋を再現したコーナー" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi12n.jpg" width="1200" /><br />
写真：坂本龍馬記念館の近江屋を再現したコーナー</p>

<p>次に訪ねたのは、桂浜の坂本龍馬像。坂本龍馬記念館からは徒歩10分ほどだ。</p>

<p>龍馬像は、台座を含めると13.5メートルもある。通常は下から眺めるものだが、訪問した11月はちょうど、期間限定で龍馬像の横に約13メートルの特設展望台が設置されており、龍馬像を真横で見ることができた。</p>

<p>龍馬の精悍な顔立ちを間近で見られるだけでも感激だが、龍馬像と同じ目線で桂浜を望むことができ、広大な太平洋に志士たちの思いを重ね、胸が熱くなった。</p>

<p>特設展望台は、春と秋に設置されるそうなので、高知県の観光サイトを調べてから訪ねるといいだろう。</p>

<p><img alt="特設展望台から見た坂本龍馬像" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi13n.jpg" width="1200" /><br />
写真：特設展望台から見た坂本龍馬像</p>

<p>最後に向かったのは、高知駅から徒歩約25分の高知城。</p>

<p>日本で唯一、本丸の建築群が全て現存しており、江戸時代の姿を今に伝える極めて貴重な城郭だ。</p>

<p>天守からの眺めは絶景だが、幕末、土佐勤王党と複雑な関係にあった藩主・山内容堂は、この景色の中で何を思ったのだろうか。</p>

<p>高知城はたくさんの観光客でにぎわっているが、日本人はもちろん、外国の方の姿も多い。</p>

<p>幕末、慎太郎をはじめ、新たな国づくりを目指した志士たちを輩出した土佐の地は、150年以上の時を経た今、世界中の人々を魅了する地になっている――感慨深い思いを抱きながら、旅を終えたのだった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>コラム・慎太郎の志は受け継がれた！　森林鉄道からゆずロードへ</h2>

<p><img alt="堀ケ生橋" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi14n.jpg" width="1200" /><br />
写真：堀ケ生橋</p>

<p>幕末、中岡慎太郎が北川村で奨励した林業とゆず栽培。その息吹は彼亡き後、現代まで続いていた――。</p>

<p>高知県東部の中芸地域（北川村を含む五町村）は林業が盛んで、明治に入って山林が国有化されると、伐採木の運搬のため、魚梁瀬（やなせ）森林鉄道が敷かれた。</p>

<p>明治44年（1911）にトロッコ（トロリー）運搬が開始されると、その軌道は昭和17年（1942）にかけて続々と延伸され、やがて西日本最大級の森林鉄道となる。もとは木を運ぶのが目的だったが、唯一の交通機関として、住民の大切な足になった。</p>

<p>繁栄を誇った森林鉄道だが、昭和38年（1963）、水力発電用のダム建設に伴い、幕を下ろすこととなる。</p>

<p>その後、中芸地域では林業が衰えをみせるなかで、それに代わる新たな産業として、気候を生かしたゆず栽培に力が注がれるようになる。</p>

<p>そして現在、森林鉄道の軌道は、ゆず畑の風景が広がる「ゆずロード」へと生まれ変わっている。</p>

<p>実はこの森林鉄道跡、今でも道路として使用されている部分もあり、実際に通行したり、見学することができる。</p>

<p>今回は「日本遺産中芸ゆずと森林鉄道ガイド会」の清岡荘司さんと岩佐戸津さんの案内のもと、車で移動しながら、北川村にある3つの橋梁をめぐった。</p>

<p>まず、昭和16年（1941）に建造された堀ケ生（ほりがを）橋。川べりから橋を見上げてみると、その大きさに驚く。</p>

<p>次に向かったのは、昭和15年（1940）に造られた二股（ふたまた）橋。二連アーチの趣ある形状が、自然豊かな景観とマッチしていて旅情を掻き立てる。</p>

<p><img alt=" 二股橋" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi15n.jpg" width="1200" /><br />
写真：二股橋</p>

<p>最後に訪ねた小島（こしま）橋は昭和7年（1932）の建造で、赤色が印象的だ。橋長は約143メートルもあり、当時、これほどの長さの橋を築いた人々の想いが偲ばれる。また、橋を抜けた先には広大なゆず畑が広がっていて美しい。</p>

<p><img alt="小島橋" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi16n.jpg" width="1200" /><br />
写真：小島橋</p>

<p>これらの橋梁は、文化庁が認定する日本遺産の構成文化財である。この3つの橋以外にも、中芸地域には多数の文化遺産があり、「日本遺産中芸ゆずと森林鉄道ガイド会」の案内とともに回ることができる。ぜひ、体感してみてはいかがだろうか。</p>

<p>【ガイドに関するお問い合わせ先】</p>

<p>日本遺産中芸ゆずと森林鉄道ガイド会（電話︰0887-30-1865）</p>

<p><img alt="中岡慎太郎館周辺マップ" height="1009" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi17n.jpg" width="1200" /></p>

<p><img alt="" height="846" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi18n.jpg" width="1200" /></p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/20260208kouchi1n.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 10 Feb 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ関東には有力な戦国大名が育たなかった？ 原因となった「室町幕府の分断統治」  出口治明（立命館アジア太平洋大学（APU）前学長・名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13637</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013637</guid>
			<description><![CDATA[関東ではなぜ、戦国時代に織田信長や毛利元就のような有力な戦国大名が育たなかったのか。1493年の明応の政変と堀越公方滅亡を手がかりに、室町幕府の分断統治がもたらした関東特有の政治構造を解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="戦国武将" height="744" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityLI/kibagundan_pixtaLI.jpg" width="1200" /></p>

<p>1493年、京都では管領・細川政元が、将軍・足利義材をクーデターで追放する「明応の政変」が勃発。同じ年、泥沼の「享徳の乱」に揺れる関東でも、歴史の転換点が訪れる。伊豆を拠点としていた堀越公方を、のちの北条早雲が滅ぼした。</p>

<p>将軍（公方）級の権威が武力によって排除され、従来の政治秩序は各地で揺らぎ始める。こうして、実力がものを言う戦国時代が幕を開けた。</p>

<p>戦国時代というと、織田信長や武田信玄のような有力大名が各地に現れた時代という印象がある。しかし、その広がり方には地域差があり、とくに関東では、長く争乱が続いたにもかかわらず、地域を代表する戦国大名が育たなかった。それはなぜか。出口治明氏の著書『一気読み日本史』より、解説する。</p>

<p>※本稿は、出口治明著『一気読み日本史』（日経BP）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>下剋上を起こした細川政権も下剋上に遭う</h2>

<p>1493年、室町幕府の管領の細川政元が、将軍の首をすげかえるクーデタを起こしました。</p>

<p>足利家の将軍は形だけのものとなり、政治の実権は細川政元が握りました。事実上の「細川政権」の始まりです。ちなみに、ここからちょうど500年後の1993年、細川氏の末裔である、日本新党の細川護熙が自民党を下野させ、細川内閣が発足。戦後55年体制が終わります。面白い偶然ですね。</p>

<p>1549年、その細川政権も、家臣だった三好長慶に倒されます。長慶は、将軍の足利義輝を追放し、代わりの将軍を擁立しませんでした。</p>

<p>細川政権に代わった「三好政権」は、今の大阪府高槻市に位置する芥川城などを拠点に、畿内を支配しました。畿内とは、摂津（兵庫・大阪）と河内、和泉（いずれも大阪）、大和（奈良）、山城（京都）という5カ国の総称で、五畿内ともいいます。</p>

<p>三好政権は、1564年に長慶が死去すると、内紛が起き、勢いを失います。内紛の中心にいた一人は、三好政権を支えた優秀な官僚、松永久秀でした。</p>

<p>家臣が主君から権力を奪う事件が頻発して、いかにも下剋上の戦国時代です。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>どうして関東には有力な戦国大名が育たなかったのか</h2>

<p>戦国時代とは、全国で喧嘩をしていた荒れた時代ですが、荒れ方には地域差がありました。東のほうが荒れていました。</p>

<p>なぜかと考えると、室町幕府は日本を東西に分ける分断統治でした。東には、京都の将軍（公方）とは別に、鎌倉公方がいて、守護を任命したり、所領を安堵したりと、強い権限を持っていました。そんな鎌倉公方が、お目付け役の関東管領の上杉氏と大喧嘩を始めたのが、1454年の享徳の乱でした。30年近い内乱となり、鎌倉公方が古河公方と堀越公方に分かれたのでした。</p>

<p>つまり、関東にはもともと、鎌倉公方や関東管領という旧体制の権威がいたわけです。しかし、鎌倉公方は、あくまで地元の権威で、遠くの京都には、鎌倉公方と同等かそれ以上の権威である「京都の公方」がいました。足利将軍家という「京都の公方」は、関東管領というお目付け役などを置き、鎌倉公方の権威に介入してきます。そのため、関東の権威は不安定でした。</p>

<p>そんなところに、関東の外で成長した戦国大名が出てきます。例えば、越後（新潟）の長尾景虎（上杉謙信）や、甲斐（山梨）の武田信玄、それに堀越公方を追放した北条早雲の子孫である北条氏、さらに東海地方の雄である今川氏など。こうした大きな力の対立のなかで、関東の小領主たちは、あっちに味方したり、こっちに味方したり、分裂や連合を繰り返し、泥沼化した不安定な状況が続きました。</p>

<p>そのため、関東では有力な戦国大名が育ちませんでした。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>西日本の戦国大名はブロック別の勝ち抜き戦</h2>

<p>それに対して、西日本では、有力な戦国大名が育っていきました。そのプロセスも、ぐちゃぐちゃした東日本とは対照的で、比較的シンプル。ブロックごとの勝ち抜き戦といった感じです。まず、周防（山口）と北九州です。</p>

<p>この地域を押さえて、当初、大きな力を持っていたのは、大内義興でした。博多商人などと組んで、明との勘合貿易を幕府に代わって行っていました。しかし、その子どもの大内義隆は、重臣の陶隆房（のちに陶晴賢と改名）にクーデタを起こされ、自害します。後を継いだ大内義長は、陶晴賢の傀儡でした。下剋上です。</p>

<p>その後、隣国の安芸（広島）で、毛利氏が力をつけてきました。毛利氏は陶晴賢を自害に追いこむと勢いに乗り、大内義長も自害させました。名門・大内氏は滅びます。滅びるまでに、下剋上が2回あったわけですね。</p>

<p>さて、これで、周防の獲得者は、毛利氏となりました。</p>

<p>一方、北九州はというと、大内氏が滅びるやいなや、豊後（大分）の大友氏が、これ幸いと奪います。九州の南では、島津氏が勝ち残ります。</p>

<p>四国はというと、貴族の出身でありながら、大名化していた一条氏が土佐（高知）にいました。しかし、その下で力をつけた国人の長宗我部元親が、一条氏を傀儡化し、土佐全域を制圧して、やがて四国をほぼ統一します。国人とは、地元に昔からいる武士のおじさんでしたね。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityLI/kibagundan_pixtaLI(1).jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 10 Feb 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[出口治明（立命館アジア太平洋大学（APU）前学長・名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>豊臣秀吉・秀長とは異なる「戦国兄弟」　大友宗麟と織田信長の弟はなぜ非業の死を遂げたのか  橋場日月（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13632</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013632</guid>
			<description><![CDATA[戦国時代、兄弟はどのような関係だったのか。非情な決断により非業の死を遂げることとなった大友宗麟、織田信長の弟の例を紹介する]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="織田信長像" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_odanobunaga.jpg" width="1200" /></p>

<p>大河ドラマ『豊臣兄弟！』では、豊臣秀吉と秀長兄弟の活躍が描かれているが、戦国時代のほかの兄弟をみると、固い絆で結ばれる者たちもいれば、いがみ合い、埋めがたい溝を抱える者たちもいた。力の優劣が命運を左右する戦国時代において、武将たちが見せた「兄弟のかたち」とはどのようなものだったのか。悲劇の結末を迎えた二組の兄弟、大友宗麟とその弟・大内義長と、織田信長とその弟・信勝（信行）の例を、作家の橋場日月氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2022年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【大友宗麟・大内義長】「見捨てられても仕方がない」と達観して死んだ弟</h2>

<p>豊後の名門・大友宗麟の弟・義長は天文21年（1552）、中国地方の大々名・大内家の当主となった。前年の謀反で大内義隆を攻め滅ぼした陶晴賢が、義長を迎え入れたのだ。</p>

<p>この話があったとき、宗麟はためらったという。「晴賢の操り人形となるだけのこと。そのうえ頼る者もいない異郷で、弟は幸せになれるのか」というのだ。彼は弟を深く愛していたのだろう。</p>

<p>だが、当の義長は周防行きを熱望した。<br />
「この話を断れば臆したかと誹られるでしょう。それは口惜しい。命など惜しくはございませぬから、どうか周防に行かせて下され」<br />
たとえ傀儡でも、大名となれれば後悔はないというのだ。</p>

<p>宗麟もこれを聴き入れ、義長は関門海峡を渡って周防山口に入り、大内家当主となる。<br />
しかし弘治元年（1555）、毛利元就が厳島の戦いで晴賢を討ち取ると、義長の運命は暗転した。彼は実家の兄・宗麟に援助を求めたのだが、時すでに遅し。宗麟は博多の獲得を優先し、元就との間で大内家の基盤の分け取りの合意を交わしていたのだ。</p>

<p>弘治3年、毛利軍に攻められた義長は自刃して果てる。辞世の歌は「誘ふ（う）とて何か恨みん　時きては　嵐のほかに　花もこそ散れ」というものだった。</p>

<p>大内家当主にと誘われたことを後悔はしていない、時のめぐりあわせで嵐となってしまったために、自分を心配してくれた兄も、最後には大友家の発展を優先して自分を見捨てた。しかしそれで滅びるのも運命で仕方がない、と達観して死んでいったのだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【織田信長・信勝（信行）】粗暴な兄と折り目正しい弟。対照的な兄弟の末路</h2>

<p>織田信長とその弟・信勝（信行）については、父・信秀の葬儀で、信長が異様な風体と粗暴な行動を見せたのに対し、信勝は折り目正しい衣装で上品に振る舞うという対照性を見せたとある。</p>

<p>父の信秀もこの信勝を溺愛したらしく、那古野城を信長に与えたあとも、古渡城・末森城と信勝を本拠地にともなって住まい、自分が病に倒れると、信長とともに信勝にも尾張の治政に参加させている。</p>

<p>政令が二途から出れば配下は戸惑い、対立を呼ぶ。信長と反りが合わず、出仕を拒否していた宿老の林秀貞が末森城付きの柴田勝家らと示し合わせて信勝を織田家督に擁立しようと画策したのだ。</p>

<p>信勝が信長の直轄地である篠木三郷を横領する動きを見せ、弘治2年（1556）に「稲生の戦い」が起こると、信長は寡勢で信勝勢を破ったものの、母の土田御前の取り成しで信勝を許した。<br />
このあたり、信勝は甘やかされた過保護体質のまま育ってしまっていたのだろう。</p>

<p>弘治4年（＝永禄元年。1558）、信勝が反信長派の家臣たちばかりを重用し、再び謀反を企てていると柴田勝家が信長に密告。信長は覚悟を決めた。</p>

<p>仮病を言い立てて清洲城内に籠もると、勝家は見舞いに行くよう信勝に勧める。信勝は疑うことなく清洲城へ赴いたのだが、信長の家来たちによって殺されてしまったのである。信勝はこの頃、家老の勝家を無視して側近に優秀な侍を配置していたのだが、これは中央集権化を図っていたということで、兄・信長と同じ専制体制を志向したと言える。<br />
ある意味、似た者兄弟の悲劇ではなかっただろうか。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_odanobunaga.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 09 Feb 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[橋場日月（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>家康も恐れた「豊臣秀頼の賢さ」　秀吉が甥を切腹させ守った幼い後継者  出口治明（立命館アジア太平洋大学（APU）前学長・名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13633</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013633</guid>
			<description><![CDATA[豊臣秀吉がつまずいた後継者問題。甥・秀次の切腹、淀殿の子・秀頼の誕生、五大老・五奉行の体制とその崩壊を軸に、豊臣政権が徳川家康の台頭を許した歴史の流れを、『一気読み日本史』をもとに解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="豊臣秀頼" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/toyotomihideyori.jpg" width="1200" /><br />
豊臣秀頼像（大阪市、玉造稲荷神社）</p>

<p>大河ドラマ『豊臣兄弟！』でも注目を集めている、戦国の天下人・豊臣秀吉。しかし後年、豊臣政権は深刻な後継者問題を抱えることになる。側室・淀殿に秀頼が生まれたことで一変した秀吉の判断、甥・秀次の切腹、そして幼い後継者を守るために整えられた五大老・五奉行の体制――。だが、その仕組みは秀吉の死とともに揺らぎ、徳川家康の台頭を止めることはできなかった。出口治明氏の著書『一気読み日本史』より、その過程を紹介する。</p>

<p _ngcontent-ng-c3990181459="">※本稿は、出口治明著『一気読み日本史』（日経BP）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>側室に子どもが生まれて秀吉が自分の死後に備える</h2>

<p>豊臣政権は、後継者問題でつまずきました。</p>

<p>豊臣秀吉は朝鮮出兵の前年、1591年に、甥の豊臣秀次に関白を譲りました。豊臣氏の世襲による武家関白制を続ける、という宣言です。</p>

<p>ところが、その2年後に側室の淀殿が息子を産みます。すると、その2年後の1595年、秀吉は秀次を切腹させます。さらに、秀次の妻と側室、子どもまで殺しました。淀殿が産んだ豊臣秀頼に、後を継がせたかったからだといわれますが、本当のところは、どうだったか。秀吉はどこでどう怒り出すのかが、よくわからない人でしたね。</p>

<p>それにしても、幼い後継者の下で長く続いた政権は、歴史を見渡しても、ほとんどありません。そこで秀吉は、自分の死後に備えます。</p>

<p>秀次を切腹させた1595年、大名同士が許可なく結婚することを禁止するなど、大名の同盟を防ぐ手立てを講じました。</p>

<p>さらに1598年、幼い秀頼を補佐するための五大老・五奉行の仕組みをつくりました。五大老に任命されたのは徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の5人。五奉行は浅野長政、増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家の5人です。五大老・五奉行の仕組みを整えた直後、秀吉は死去します。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉が死んだ途端に約束を破ろうとした家康</h2>

<p>五大老・五奉行のなかで筆頭格は、徳川家康と前田利家です。</p>

<p>ところが、豊臣秀吉が亡くなった途端、筆頭格の家康が、有力な大名たちと姻戚関係を結ぼうとします。「秀吉様が禁じてたやろ」と、利家を中心に、ほかの大老や奉行たちは責めます。ここで家康はすぐに謝り、引き下がりました。</p>

<p>その直後、利家が亡くなります。すると、五奉行の一人の石田三成が、大坂から追い出されました。三成はなぜ、豊臣政権の本拠地から追い出されてしまったのでしょうか。</p>

<p>三成は、もともと秀吉の家臣でしたが、官僚として仕えてきた文治派でした。一方、秀吉の昔からの家臣には、武力をもって仕えてきた、加藤清正や福島正則などの武断派もいて、互いに反りが合いませんでした。それまでは、利家が重しになって、対立を抑えていましたが、その利家が亡くなった途端、武断派が三成を襲撃して、追い出したのでした。</p>

<p>利家の死去と三成の失脚で、家康は一頭地を抜く存在となりました。さらに家康は利家の後継ぎを失脚させます。浅野長政も蟄居を命じられ、五大老・五奉行の体制が崩れていきます。</p>

<p>家康は次に、上杉景勝に謀反の疑いをかけ、諸大名を動員して、会津征伐に出陣します。上杉氏はもともと越後（新潟）を本拠地としていましたが、秀吉の国替えで、このころには会津（福島）に移っていました。</p>

<p>ここで、三成が挙兵します。「家康は、秀吉様の亡き後、勝手ばかりしとるで」と。この知らせを、栃木の小山で聞いた家康は、すぐさま引き返し、岐阜の関ヶ原で、西側に布陣した三成らと向きあいます。天下分け目の関ヶ原の戦いです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>関ヶ原の戦いで経済力の勝負も決した</h2>

<p>1600年、関ヶ原の戦いで、徳川家康の東軍の主力部隊となったのは、豊臣秀吉のかつての家臣たちでした。すなわち、石田三成を追い出した「武断派」の加藤清正や福島正則などです。</p>

<p>同じ秀吉の家臣で「文治派」の三成が挙兵したのが西軍ですから、関ヶ原は、実のところ、豊臣の家臣同士の戦いでした。</p>

<p>この戦いは、結局、西軍の敗北に終わりました。石田三成は京都の六条河原で斬られます。</p>

<p>会津の上杉景勝が120万石の領地を30万石に減らされるなど、西軍側の大名たちは領地を没収されました。没収された領地を合計すると、石高にして600万石、全国の約1/3に上ったといいます。</p>

<p>これらの領地を、勝利した側の大名が分けあいます。</p>

<p>東日本の領地は、主に、徳川一門と、その重臣へ。</p>

<p>西日本の領地は、東軍の主力部隊となった、加藤清正や福島正則などへ。</p>

<p>この結果、東軍側は、経済力で西軍側を圧倒することになり、家康と秀頼の間の勝負もつきました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉の子どもが賢いことに驚いて、難くせをつけた家康</h2>

<p>関ヶ原の戦いから3年後の1603年、家康は、右大臣になると同時に、征夷大将軍に就任します。江戸幕府の誕生です。徳川家康はとうとう天下人になりました。</p>

<p>しかし、このとき、豊臣秀吉の子の豊臣秀頼も健在でした。秀頼は内大臣で、朝廷では、右大臣の家康に次ぐ高い地位にあります。</p>

<p>それから2年後の1605年、家康は子の徳川秀忠に将軍職を譲りました。徳川政権が続くことを、天下に示したわけです。</p>

<p>一方で、家康は、このとき、右大臣の座を豊臣秀頼に譲っています。将軍の秀忠は右大臣より格下の内大臣です。</p>

<p>この時点では、家康には、豊臣家を滅ぼすつもりはなかったのでしょう。秀頼が、父の秀吉の後を継いで関白になる可能性も十分あったと思います。</p>

<p>そんな家康の気が変わったのは、1611年、19歳になった秀頼と二条城で会見したときでしょう。「どうせお坊ちゃん育ちやろ」と侮っていた秀頼が結構、賢いことがわかったのです。当時は豊臣氏にシンパシーを感じる大名たちもいて、「これは潰しておかんとあかん」となった、と見る向きもあります。</p>

<p>家康は、豊臣家に難くせをつけます。豊臣家の氏寺である方広寺の鐘の銘文が「国家安康」となっているのが、けしからんというのです。「家康の名前を2つに割いて、呪っているんやないか」と。これをきっかけに1614年、大坂冬の陣が勃発します。翌1615年の大坂夏の陣で敗れた豊臣家は、滅びました。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 06 Feb 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[出口治明（立命館アジア太平洋大学（APU）前学長・名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>バブル崩壊、関税合戦、石油危機...激動の昭和から読み解く「日本経済復活のヒント」  岡田晃（経済評論家・大阪経済大学特命教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13621</link>
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			<description><![CDATA[バブル崩壊、世界大恐慌、石油危機など、激動の昭和経済を振り返り、令和の日本経済を復活するためのヒントを導き出す]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="昭和史から日本経済復活のヒントを読み解く" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_wheel.jpg" width="1200" /></p>

<p>「昭和」というと、どんなイメージがわくだろうか。「昭和レトロ」といったポジティブなイメージを持つ人もいれば、時代遅れとみられる事象を「昭和的な」と表現するなど、ネガティブに捉える人もいるだろう。</p>

<p>経済評論家の岡田晃氏は、最新刊『経済で読み解く昭和史』において、昭和のプラス面とマイナス面を教訓とすべきと指摘しつつ、「昭和経済の歴史には、令和の経済が元気を取り戻すためのヒントが詰まっている」と語る。昭和から導き出せる教訓とは何なのだろうか。</p>

<p>※本稿は、岡田晃著『経済で読み解く昭和史』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>今日の土台をつくった昭和</h2>

<p>1926年12月25日、大正天皇の崩御に伴い昭和天皇が即位、元号が「昭和」となった。それから100年。最近は昭和が話題になることが多くなっている。</p>

<p>年配者など昭和を知る世代は自分が若かった頃、あるいは日本が元気だった時代を懐かしむ一方、若い世代は「昭和レトロ」といったものを新鮮に感じるようだ。だがその反面、パワハラ、セクハラをはじめ、時代遅れとみられる事象が「昭和的」と否定的に表現されるケースも増えている。これらポジティブな面もネガティブな面もあわせて、昭和時代に形づくられた政治・経済・社会のあり方や価値観などの多くが土台となって、令和の日本が成り立っている。</p>

<p>だからこそ令和に生きる我々にとって、昭和から学ぶことは多い。昭和の経済成長ぶりとその背景など、さまざまな良さや知恵を再認識することで前向きな気持ちを持てるし、それらを受け継いで将来に活かすことができる。その一方で、昭和時代から今なお引きずっている各種ハラスメントや企業統治（コーポレートガバナンス）の欠如、ジェンダー格差などの問題点は、改革していくことが急務だ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦前の歴史に3つの教訓</h2>

<p>昭和は64年間（正味62年間と14日）続き、日本の歴代元号で最長だ。それだけに大きな変動が繰り返し起こった。昭和時代を経済面から概観すると、まず戦前は、金融恐慌（昭和2年）、世界大恐慌（昭和4年）による昭和恐慌という2つの経済危機とともに始まった。これが背景の一つとなって戦争への道を突き進み、悲惨な結果をもたらした。この歴史を繰り返してはならないのはいうまでもない。</p>

<p>それだけではない。拙著『経済で読み解く昭和史』で詳述したが、戦前の経済には3つの重要な教訓がある。</p>

<p>第一の教訓は、昭和初期の連続的な経済危機はバブル経済の崩壊でもあったことだ。大正時代にバブル経済を謳歌したものの、銀行の不良債権が膨らんでいたことが背景となっていたのである。しかも経済危機は政策の誤りによって一段と深刻化した。当時の政権は不況下にあるにもかかわらず、金解禁と財政緊縮にこだわり、デフレ不況が長期化したのだった。</p>

<p>この経過は、昭和末期から平成初期にかけてのバブル経済とその崩壊の背景や経過と実によく似ている。政策面でも、日本銀行（以下、日銀）が「バブルつぶし」のため株価暴落のさなかに大幅利上げを続け、その後のデフレ不況下でも財政緊縮や金融引き締めに動くなど、政府も日銀も政策の誤りを繰り返した。</p>

<p>第二は、昭和恐慌時に大蔵大臣となった高橋是清の経済政策によって、いったんは危機から脱し景気が回復していたことだ。その内容は、緊縮財政から積極財政への転換、金輸出の再禁止による金融緩和と円安などが柱で、今でいうリフレーション政策だった。だが、二・二六事件（昭和11年）で高橋は非業の死を遂げ、経済再建も頓挫する。これを機に日本は戦時経済体制、そして戦争へと突き進んでいったのであった。</p>

<p>第三は、世界大恐慌をきっかけに、米国が自国産業保護を大義名分として関税の大幅引き上げに踏み切り、欧州各国も報復のために関税引き上げに走ったことだ。激しい関税合戦で各国の対立が深まり、それが第二次世界大戦を引き起こす経済的背景の一つとなった。</p>

<p>同じ過ちを繰り返してはならない。最近の米国トランプ政権による関税政策が世界を揺るがしただけに、その思いを強くする。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>奇跡の復興から高度経済成長―戦後にも3つの教訓</h2>

<p>さて、昭和20年（1945）の敗戦で経済は壊滅状態となったうえに、食糧難とハイパーインフレが多くの国民を苦しめた。</p>

<p>だがそこから奇跡的な復興を成し遂げ、昭和30〜40年代に高度経済成長を実現する。三種の神器（白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫）や3C（カー＝自動車、クーラー、カラーテレビ）など耐久消費財の急速な普及で生活水準が向上し、昭和40年代前半には毎年10%を超える経済成長率が続いた。まさに日本が元気だった時代だ。</p>

<p>ところが、昭和48年に第一次石油危機が起きる。「狂乱物価」 という言葉が生まれ、実質経済成長率は戦後初めてマイナスとなり、高度経済成長は終わりを告げた。</p>

<p>だが、ここでやや意外な展開があった。石油危機勃発からわずか1カ月余り後、当時の田中角栄内閣がインフレを抑制するため総需要抑制策を閣議決定し、大型プロジェクト凍結を打ち出した。田中首相といえば日本列島改造論。その看板政策を棚上げにしたのだ。思い切った政策転換だった。</p>

<p>同時に、徹底した石油消費の節約を呼びかけた。さらに産業界全体に省エネ技術の開発や省エネ体質への転換が進み、日本は省エネ大国として世界から認められるようになる。</p>

<p>これらのきわめて迅速かつ徹底した対策の成果が表れ、実は日本は欧米より早くインフレ鎮静化と不況脱出を実現できたのである。</p>

<p>石油危機を乗り越えた日本経済は、昭和50年代後半以降に再び拡大軌道に乗っていく。この時期には、ハイテク技術の発展と普及が経済発展の新たな原動力となった。昭和60年からは急激な円高に見舞われるが、これも多くの企業が内需拡大と海外生産の拡大によって乗り越え、昭和の終わり頃にはバブル期を迎えた。</p>

<p>このような戦後経済の歴史からは、次の3つの教訓をくみとることができる。</p>

<p>第一は、何といっても当時の人たちが前向きなマインドと旺盛なバイタリティを発揮して、奇跡の復興と高度経済成長を実現する原動力となったことだ。バブル崩壊以後の日本は元気をなくした感があるが、今こそ前向きなマインドをとり戻したい。</p>

<p>第二は、「メイド・イン・ジャパン」 の実力だ。多くの日本企業は持ち前の技術力を磨き、高品質の製品を生み出して世界中から高く評価されるようになった。平成の経済低迷とともに、日本のモノづくりは衰退したなどといわれたが、そうした底力は決して失われたわけではない。例えば、日本の電子部品や半導体製造装置などは、世界のITを支える重要な存在となっており、 「メイド・イン・ジャパン」 への高評価は昭和時代のそれを上回るほどになっている。それも、昭和時代の礎があったからこそではないか。</p>

<p>第三は、政策の重要性だ。前述のように、石油危機では田中内閣の迅速な対応によって欧米より早く危機を脱し、省エネ体質を作り上げた。だが逆に田中首相の日本列島改造論は石油危機以前にインフレを招くという失敗も犯している。政府と日銀の政策は、成功と失敗の連続だったといえるほどだ。特にバブルをめぐる政策の失敗は、平成と令和の今にいたるまで、大きな傷跡を残す結果となった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>&nbsp;「賢者は歴史に学ぶ」―危機を乗り越えてきた昭和</h2>

<p>このように昭和は激動の連続だった。と同時に、何度も危機に直面したものの、乗り越え、新たな経済成長を遂げてきた―これが、昭和の歴史を特徴づける一つの側面である。</p>

<p>平成以降も、バブル崩壊、円高、金融危機、リーマン・ショック、そしてコロナ禍などを経験してきた。だが今それらを乗り越え、日本経済は長年の低迷から脱して、新たな成長軌道に乗ろうとする前向きな動きが広がっている。賃金はようやく上昇し始め、企業業績やGDP（国内総生産）など、過去最高を記録する経済指標が続出している。</p>

<p>インバウンドの増加に見られるように、世界中から日本への注目が集まっているのも、新たな希望だ。日本のモノづくり技術が見直されていることに加え、アニメ、文化、食、自然や歴史、さらには礼儀やマナーなどのあらゆる面で日本への評価が高まっている。それは、「日本ブーム」といえる現象だ。</p>

<p>だが世間では、依然として日本経済の将来について悲観論が多い。たしかに物価高や少子高齢化、人口減少など課題も多く、国際情勢も厳しい。<br />
ただ、そうした厳しさばかりに目を奪われるのではなく、前向きな動きに目を向けて &quot;過度な悲観論&quot; から脱却することが課題となっている。</p>

<p>昭和の歴史を知ることは、その糧になるはずだ。昭和の歴史から、多くの人が元気をもらって前向きなマインドが広がり、それが日本経済本格復活の力になり得ると確信している。だが念のため断っておくが、それは決して「夢よもう一度」などという次元ではない。昭和経済の歴史には、令和の経済が元気を取り戻すためのヒントが詰まっているのである。同時に、昭和の教訓（プラス面もマイナス面も）を令和にどう活かすべきか、昭和が積み残した課題をどう克服するかなどを考えることも重要だ。</p>

<p>「賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。筆者は日本経済新聞からテレビ東京を経て現在まで日本経済を見てきたが、今のように経済情勢の変動が激しい時こそ、歴史に学ぶことが重要との思いを一段と強くしている。</p>

<p>拙著『経済で読み解く昭和史』は、そのような趣旨から昭和の歴史を「経済」の視点で振り返る。拙著が、令和の日本経済の本格復活、さらに次の百年の未来に向けての一助となれば幸いである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 04 Feb 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岡田晃（経済評論家・大阪経済大学特命教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>朝ドラ『ばけばけ』小泉八雲・セツの関係性を深化させた「大磐石のアシスト」  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13673</link>
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			<description><![CDATA[朝ドラ『ばけばけ』のモデルとなった小泉八雲・セツの関係性を深めた親友・西田千太郎のアシストとは？ 鷹橋忍氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ラフカディオ・ハーン" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu2.jpg" width="1200" /><br />
Wikimedia Commons/Lafcadio Hearn in 1889</p>

<p>朝ドラ『ばけばけ』のヒロインのモデル・小泉セツとラフカディオ・ハーン（小泉八雲）は、明治24年（1891）6月、現在の小泉八雲旧居にて暮らすようになる。そんな二人の関係性をさらに深める出来事が起こる。それは、ハーンとその親友「大磐石」こと西田千太郎が旅行中のことで、裏には千太郎の見事なアシストがあった。</p>

<p>※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>語り部セツ</h2>

<p>ハーンの親友・西田千太郎の日記、明治24年（1891）6月22日と、7月28日の項では、セツをハーンの「妾」と称しており、この頃のセツは、ハーンの「内縁の妻」のような立場であったと見られている（高瀬彰典『小泉八雲の世界　ハーン文学と日本女性』）。セツとハーンの正式な結婚は、明治29年（1896）2月まで待たなければならない。</p>

<p>正式な結婚には至っていなくとも、家族と呼べるものを持たないハーンは、セツの多くの親族を扶養することを、喜んで引き受けた。</p>

<p>ハーンは100円の給料のうち15円を、セツの実母や養父母に渡したとされる。</p>

<p>それほどまでに、セツはハーンにとってかけがえのない存在となっていた。</p>

<p>セツとハーンは幸せな家庭生活を送っていくことになるが、二人の曾孫・小泉凡によれば、それは二人が、夫と妻という関係にくわえ、「語り部」と「再話者」という立場で支え合う関係が築かれていたからだという（小泉凡『怪談四代記　八雲のいたずら』）。</p>

<p>再話とは、もととなる話を独自の解釈や文飾で再構築する創作方法で、ハーンはこれを得意とした。名作『怪談』の「耳なし芳一」や「雪女」などが、それにあたる。</p>

<p>セツとハーンの長男・一雄によれば、セツは結婚した翌日から、ハーンに「お伽噺でも、怪談でも、伝説でも、何でもよろしい。面白い話をしてください」と頼まれたという（根岸磐井『出雲における小泉八雲　再改訂増補第10版』所収　小泉一雄「亡き母を語る　父八雲の協力者として」）。</p>

<p>セツがハーンに最初に語った物語は、「鳥取の布団」だった。鳥取出身のセツの最初の夫・前田為二から聴いた怪談である（『日本の面影』の中の「日本海に沿って」では、ハーンが宿の女中から聴いたことになっているが、セツが語ったとする説が有力とされる）。</p>

<p>幼い頃から物語が好きで、周囲の人々から物語を聴いてきたセツは、語り部としての才能に恵まれていた。</p>

<p>「鳥取の布団」は、鳥取のある宿屋で、夜中に「兄さん寒かろ」「お前寒かろ」と言って泣く布団の怪談で、セツの語りを聴いたハーンは、セツが作家活動の助手となり得ることに気付き、「あなたは私の手伝い出来る仁です」と、セツの手を握り、狂喜している。ハーンの喜びようは、セツを甚だしく驚かせるほどだった。</p>

<p>以後、セツはハーンの作家活動を支える語り部として、彼が喜びそうな話を探し出しては、それを伝えることに喜びを感じ、同時にこれは自分の使命であるという覚悟を持った。</p>

<p>セツは昔話をする際、最初に話の大筋を伝えた。ハーンは面白いと思うと、書き留めた。それから、詳しく、幾度も話させる。</p>

<p>セツが本を見ながら話そうとすると、ハーンは、「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければいけません」と言うので、話を自分の物にしてしまわなければいけなかった。</p>

<p>そのため、セツはとうとう夢にまで見るようになった。</p>

<p>怪談を語って聞かせる際には、明かりを暗くした部屋に、二人で閉じ籠もった。</p>

<p>ハーンはセツの怪談を、声を殺して、いかにも恐ろしそうに聴くので、語り部のセツも自然と熱が入ったようだ。</p>

<p>幽霊屋敷のような部屋で、ハーンはセツの話にインスピレーションを得ると、顔色が変わり、眼が鋭く恐ろしくなるという。</p>

<p>こうしてセツは語り部としても、ハーンの最期の日まで、寄り添い続けることになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ハーンとの旅</h2>

<p>明治24年（1891）7月26日、ハーンは親友の西田千太郎とともに、夏休みの旅行に出発し、出雲大社の西方にある杵築の稲佐の浜に滞在した。セツは、何らかの家庭の都合があったようで、同行していない。</p>

<p>この時、西田の目にはハーンは元気がなく、寂しそうに見えた。これはセツに会いたいのだろうと考えた西田は、ハーンに内緒で、セツに「来てくれ」という手紙を送った。</p>

<p>手紙を受け取ったセツは、2日後の7月28日に、ハーンと西田が宿泊する、老舗の一流旅館「いなばや」の別館である養神館を訪れている。だが、ハーンと西田は外出していた。</p>

<p>やがてハーンが戻り、階段を上がってくる。セツは階上から「アナタ」と呼びかけた。</p>

<p>セツが来ているとは夢にも思わなかったハーンは、セツの魂が抜け出てここに来たのかのように思え、「あの時のセツは女神だった」と一雄に語っている（小泉一雄「亡き母を語る　父八雲の協力者として」）。</p>

<p>いなばやはハーンの常宿で、滞在中、主にハーンの世話をしたのはいなばやの養女タニと女中の米井だった。</p>

<p>この時もタニが養神館に赴き、ハーンの世話をしていたが、ある日、タニは衝撃的な光景を目の当たりにしている。</p>

<p>セツが乗った人力車が到着すると、西田が、「ヘルンさんがどうするか、見ているといい」と言ったので、タニは物陰に隠れて、様子を窺った。</p>

<p>すると、ハーンは人力車に駆け寄り、セツを抱いて車から降ろしたのだった。その時、ハーンはセツに、なにやら可愛い言葉を囁いたようだったという。ハーンの行動は、当時の日本人にはとても考えられず、タニは晩年まで忘れられなかった（梶谷泰之『へるん先生生活記』）。</p>

<p>二人の睦まじい様子が、目に浮かぶようである。</p>

<p>杵築に滞在中、セツとハーンは西田とともに、出雲大社を訪れている。二人は、「出雲大社で結婚式を挙げた」とする説もあるので、この時、結婚のための参拝があった可能性もある（工藤美代子『神々の国　ラフカディオ・ハーンの生涯【日本編】』）。</p>

<p>いずれにせよ、セツを「ヘルン氏ノ妾」と称していた西田の日記は、以後、「セツ氏」と表記されるようになった。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu2.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 03 Feb 2026 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title> 豊臣兄弟とは対照的？　斎藤義龍の「弟殺害」と伊達政宗の「毒殺未遂」事件  橋場日月（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13628</link>
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			<description><![CDATA[戦国時代、たとえ兄弟であっても対立し、命を奪い合うことがあった。内訌によって兄弟が争うこととなった斎藤義龍と伊達政宗の例を、作家の橋場日月氏が解説する]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="伊達政宗" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/pixta_datemasamune2.jpg" width="1200" /></p>

<p>大河ドラマ『豊臣兄弟！』では、豊臣秀吉と秀長兄弟の活躍が描かれているが、戦国時代のほかの兄弟をみると、固い絆で結ばれる者たちもいれば、いがみ合い、埋めがたい溝を抱える者たちもいた。力の優劣が命運を左右する戦国時代において、武将たちが見せた「兄弟のかたち」とはどのようなものだったのか。内訌によって兄弟が争うこととなった斎藤義龍と伊達政宗の例を、作家の橋場日月氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2022年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【斎藤義龍・龍重・龍定・濃姫】父親の偏った期待が生んだ対立</h2>

<p>弘治2年（1556）4月20日、「美濃の蝮」の異名で知られる斎藤道三が長良川畔に陣を敷いた。それは、頭上の稲葉山城主・斎藤義龍に戦いを挑むためだ。義龍は道三の息子。ふたりはなぜ対決しなければならなくなったのだろうか。</p>

<p>天文23年（1554）に義龍へ美濃斎藤家の家督を譲っていた道三だが、その後は義龍を「耄者（ほれもの）」（呆け者）と罵倒していた。反道三派が義龍を支持し、道三はそれに押し切られる形で義龍を斎藤家当主にしたのだろう。これに対抗するように道三が期待したのが、三男の龍定だった。</p>

<p>道三は、この龍定に一色氏を名乗らせている。<br />
一色氏は足利氏に連なる名門で、かつての美濃守護・土岐氏よりも上位。道三は龍定に義龍を上回る権威をまとわせ、実権をふたたび奪還しようと考えたのだ。</p>

<p>これで龍定が慎重な性格だったら良かったのだが、彼とその兄・龍重（道三の次男、義龍のすぐ下の弟）の二人は「勝ちに乗って驕り、（義龍を）蔑如（べつじょ）に持て扱い」と、義龍をないがしろにする振る舞いを示したという。これではことが穏やかに収まる筈も無い。</p>

<p>ある日、義龍は龍定と龍重を城内下屋敷の居所に呼び寄せる。ひと月以上前から仮病を使って引き籠もっていた彼は、「もう長くは無い」として、遺言をしたいと弟たちに伝えさせたのだ。</p>

<p>控えの間に刀を置いたふたりは、奥の間に入ると義龍重臣・日根野弘就によって斬殺されたという。</p>

<p>これを知った道三は「仰天を致し、肝を消すこと限りなし」という有り様で、ようやく立ち直ると、息子との合戦を決意したのだ。</p>

<p>集まった兵は義龍勢が1万7500以上、道三勢は2700余り。「国中に領地ある者は、皆新九郎義龍方へ馳せ集まる」という状態だったのは、亡き龍定に人望が無かったことも影響していたのだろう。</p>

<p>「長良川の戦い」は義龍の圧勝に終わり、道三は首を打たれ、鼻を削がれて戦場の露と消えた。兄を見くびり、おのれの力を過信した弟は、父をも道連れにしたということになる。</p>

<p>ちなみに、この三兄弟と同じく、道三の子として帰蝶（濃姫）がいる。永禄10年（1567）に彼女の夫の織田信長が義龍の子・龍興を攻めて稲葉山城を奪い、美濃を併合した。その際、信長が義龍の未亡人所有の茶壺を取りあげようとしつこく催促すると「紛失して差し上げられない。なおも要求するなら自害します」と義龍の未亡人に抗議された。</p>

<p>帰蝶はこのとき、彼女に味方して「自分たち兄弟姉妹16人も自害する」などと信長にねじ込んだという。これを信じる限り、帰蝶としては父と、実の兄弟である龍重・龍定とを殺した兄・義龍を恨んではいなかったようだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【伊達政宗・小次郎】弟を擁立するため、政宗は母に殺されかけた？　</h2>

<p>「独眼竜」伊達政宗と、その弟・小次郎政道は同じ最上氏・義姫の子で、年子とされている。</p>

<p>天正18年（1590）、豊臣秀吉が関東へ兵を進めた折、伊達家内部は恭順と抵抗のどちらを取るかで紛糾していた。「奥羽の鬼姫」とあだ名される義姫は、秀吉の「私戦停止命令」を無視して会津の蘆名氏を滅ぼしてしまった政宗を秀吉は許さず、伊達家は改易されてしまうだろうと判断して、小次郎擁立を考えた。そして、秀吉に恭順するため小田原に赴こうとする政宗を毒入りの食事でもてなしたのだった（異説あり）。</p>

<p>政宗は毒を盛られたことに気付き、手早く解毒剤を飲んだために軽症で済んだ。翌日、小次郎は騒動の張本として誅殺されて、義姫は実家の山形城に遁れた、と伝えられている。</p>

<p>しかし、史実では義姫の出奔は4年後のことだ。政宗は家中内紛の原因として、秀吉につけこまれかねない小次郎という不安定要素を事前に処分し、その大義名分として「毒殺未遂事件」そのものを捏造したのではないだろうか。</p>

<p>もうひとつ言えば、小次郎がその後も生き延びていたとの説もある。その根拠とされるのは、東京都あきる野市内の大悲願寺に保管されている元和9年（1623）のものという政宗の書状だ。</p>

<p>それは、寺を訪れた際に見た庭の白萩が「一段見事」だったので分けて欲しい、という内容だ。親しげな調子で政宗が手紙を書いたあて先の同寺住職・秀雄は、「政宗の末弟」と同寺の「金色山過去帳」に記されており、この秀雄が小次郎だといわれているのだ。</p>

<p>これが本当だとすると、小次郎は殺害を装い、ひそかに武蔵国（現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部）へ逃がされたということになる。</p>

<p>それならば伊達家当主の座をめぐる兄弟の憎悪という暗い面は完全に消え、政宗は愛する弟を殺さず、かつ家中の統制を守る素晴らしい方法を考案し、実行したということになるだろう。そうあって欲しいものだ。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 02 Feb 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[橋場日月（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>京都府最大の梅の産地・城陽市　青谷梅林に香る「特産の梅・城州白」  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13674</link>
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			<description><![CDATA[京都府城陽市南部の丘陵にある青谷梅林。古くから梅の実の産地として知られるこの梅林の歴史を振り返る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="盛花時期の青谷梅林" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260128Kanedayukio01.jpg" width="1200" />写真：盛花時期の青谷梅林。生産梅林であるこの地の花は、主に白梅である〔写真提供：城陽市・公募入選作「梅香る」〕</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>京都と奈良を結ぶ幹道を奈良街道という。特に南山城地域を通る、古代からの道は山背（やましろ）古道とも呼ばれる。その街道沿いの城陽市は、京都・奈良の町からともに五里（約40キロメートル）の中間に位置することから「五里五里の里」とも称する。</p>

<p>その城陽市南部の丘陵に、青谷（あおだに）梅林がある。古くから梅の実の産地、そして観梅の地として知られ、このことから市の木として梅が指定されてもいる。毎年早春には「梅まつり」が催されて多くの人でにぎわうこの梅林の過去と現在を、地域の発展に尽くしてきた人々の事績とともに紹介したい。</p>

<p>【筆者：兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【編者：歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>古くに歌われた京都近郊、山城綴喜の梅花</h2>

<p><img alt="「梅まつり」の頃の青谷梅林" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260128Kanedayukio02.jpg" width="1200" /><br />
写真：「梅まつり」の頃の青谷梅林〔写真提供：城陽市・撮影：塩見芳隆「満開の梅」〕</p>

<p>「風かよふ綴喜（つづき）の里の梅が香を空にへだつる中垣（なかがき）ぞなき」。歌の詠者の宗良（むねよし／むねなが）親王は、後醍醐（ごだいご）天皇の皇子。南北朝時代に南朝の征夷（せいい）大将軍として奮戦を繰り広げた人だが、歌人としても知られる。この和歌は晩年の自選集『宗良親王千首』に収められるが、南北朝動乱以前の若き日の詠歌かもしれない。</p>

<p>旧綴喜郡青谷村を所在地とするとはいえ、青谷梅林がこの時代からあったわけではないが、当地の梅がすでに歌われる存在であったことを伝えるとともに、青谷の丘の広々とした春の空のもとで香る、現在の梅林の印象ともつながる初々しい歌である。</p>

<p>青谷梅林の起源については、明治42年（1909）に京都府農会が調査して刊行した『京都府園芸要覧』の「綴喜郡青谷村の梅」の項によると、江戸時代の安永年間（1772-1781）に山間の痩せ地に数十本の梅樹を栽植したことを始めとし、天保から安政年間（1830-1860）に増殖されたという。</p>

<p>詳しくは後述するが、明治33年（1900）に青谷梅林の観光振興を目的に『青谿（あおだに）絶賞』という図書が刊行されていて、そのなかで地元の言葉として、江戸時代末期、盛花の候の梅林は偉観を呈したといい、観梅のために淀藩主稲葉侯が来訪したことがあり、その装束と梅花が相競う様子が見事であったと伝えている。ちなみにその証言では、青谷梅林の植樹の始めは160年から170年前のことといい、安永年間より少し前に遡る。</p>

<p>このように近世に発展を見せた青谷の梅栽培であったが、その主立った需要は、実は食用ではなく、布の染色に用いる「烏梅（うばい）」としてであった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>梅林の繁栄と衰退、そして慕う人々による復興へ</h2>

<p><img alt="青谷梅林梅まつりにて。2026年の開催は2月28日から3月15日を予定。売店の営業は10時から15時。写真右：城陽市特産の梅「城州白（じょうしゅうはく）。肉厚で桃のような香りが特長〔写真提供：城陽市〕" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260128Kanedayukio03.jpg" width="1200" /><br />
写真左：青谷梅林梅まつりにて。2026年の開催は2月28日から3月15日を予定。売店の営業は10時から15時。写真右：城陽市特産の梅「城州白（じょうしゅうはく）。肉厚で桃のような香りが特長〔写真提供：城陽市〕</p>

<p>烏梅とは、未熟な梅の実を燻製（くんせい）にして乾燥させたもの。漢方の感冒薬・胃腸薬として用いられ、遣唐使によって早い時代に日本にもたらされたといい、現在も中国で処方されている。真っ黒なところから、カラスの「烏」の字があてられ、一説にその中国読み「ウ・メイ」が、日本での梅の読み「ウメ」の元になったともいわれている。</p>

<p>日本では「焼梅」「黒梅」とも呼ばれる烏梅だが、国内で広まったのは、医薬とは別の用途からであった。紅花染めにおいて媒染剤として使われたのである。紅花の赤い色素は布に定着しにくい性質があり、染色液に烏梅を加えることで、烏梅に多く含まれるクエン酸の働きによって布を染め上げる手法が採られた。その用途を踏まえてか、烏梅の製法も日本では異なり、完熟して落下した梅の実に煤（すす）をまぶして蒸し焼きにし、天日で乾燥させて製造される。</p>

<p>京・大坂の染物商をはじめとして烏梅の需要は大きく、高価で取引されたことから、田畑が設けにくい山間地で梅の栽培と烏梅の製造が図られた。著名な梅林である奈良県の月ヶ瀬梅林は、烏梅の量産を背景に造林されたものである。青谷でも盛んに烏梅が作られ、近世末期には旧青谷村を構成する3集落の一つの中村だけで、年間300石（俵で750俵）以上、生梅にして約4万貫（150トン）分が出荷されたという。</p>

<p>しかし、その烏梅の需要は、明治維新を迎えていきなり消滅する。海外から導入された安価な媒染剤・染料に取って代わられたからである。</p>

<p>青谷の梅林では、明治初期の有力な輸出品であった茶の畑への転換が進むことになる。しかし、一方で失われていく梅林を惜しむ地元の人たちがいた。彼らが着目したのが、観光資源としての梅林であった。</p>

<p>明治29年（1896）、現在のＪＲ奈良線の前身にあたる奈良鉄道が開通。これを機に明治31年（1898）に青谷保勝会が設立された。保勝会とは、史跡名勝の保存・保護を目的とし、観光に活用することで地域振興を図る団体で、明治時代に入って各地で設立された。</p>

<p>青谷保勝会の中心となったのは、青谷村の大地主で初代村長の大西常右衛門をはじめとする村の有力者たちで、彼らは2年前に山城農産株式会社を設立して、梅肉やのし梅などの製品の開発を進め、梅の果実での収益増と梅林の再生をめざす人たちでもあった。</p>

<p>保勝会発会式では、京都の文化人を招いて梅林を案内し、翌年には、鉄道割引券を付けた観梅会を開催。梅林内に茶店を設営するなど、観覧のための施設も整えた。2年後には、先に挙げた『青谿絶賞』を刊行する。文人の山中青谿（せいけい）による紀行文と漢詩に、山中の友人である画家の対竹による「青谷八勝図」を添えた青谷梅林の案内書である。淀藩主来訪など、文中に記した江戸時代の様子を聞き取った相手は、大西村長であった。</p>

<p>こうした地元有志の活動によって青谷梅林は、南山城地域の名所として広く知られていくことになる。また、明治37年（1904）に始まった日露戦争をきっかけに、梅干しの需要が高まり、茶畑になっていたところも梅林へと復し、生産梅林としても規模を拡大して現在の青谷梅林の基礎が築かれたのである。</p>

<p>大正15年（1926）からは、数多くなった観梅客のために、それまでの最寄り駅だった奈良線長池駅と玉水駅の間に、開花期の約50日にわたって営業する臨時駅の青谷梅林駅が開設された。これが昭和8年（1933）に常設駅、現在の山城青谷駅へと昇格することになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>引き継がれる、梅による地域振興への思い</h2>

<p><img alt="青谷梅林に隣接する中天満神社" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2026/2026A/260128Kanedayukio04.jpg" width="1200" /><br />
写真：青谷梅林に隣接する中天満神社。地域の鎮守社であり、地元の人たちによって整備され、梅まつりの際には会場にもなる。背後の森は黒土1号墳という横穴式石室を持つ楕円形墳。6世紀後半の地域首長の墳墓という</p>

<p>現在の城陽市では、青谷梅林を中心に50戸ほどの農家が、約20ヘクタールの畑で梅の栽培を行なっていて、京都府下で最大の梅の産地となっている。</p>

<p>「古い樹は50年近く経っているものもあるので、世代交代を踏まえて台木に接ぎ木をして苗木も育てています。桃栗3年、柿8年といい、梅は入っていませんが、しっかり実が取れるようになるには、7年・8年はかかりますね」と教えてくれるのは、生産農家の池野勝信（まさのぶ）さん。青谷梅林での梅栽培を受け継ぎ、73歳の現在も息子さんとともに梅林の維持・発展に取り組んでいる。梅林振興協議会の会長も務められてこられた。</p>

<p>池野さんたちが、梅林とともに明治時代から継承してきたものに、特産の梅品種「城州白」がある。「和歌山に南高梅があるように、梅産地ごとに代表する品種があり、青谷の場合は城州白がそれにあたり、古くから保護してきました」。「城州」とは山城国のことであり、まさに地域名を冠したご当地梅である。</p>

<p>大粒で香りがよい城州白を素材とし、それをアピールする製品も近年は多種作られている。青谷にはスイーツなどを扱う店舗があるほか、地元酒造会社では特徴を最大限に生かすために3年以上熟成させた梅酒を製造販売している。また、城陽市に本社を置き、京都を中心に展開する高級梅干し店でも、城州白の使用を前面に出した製品を販売している。池野さんの梅林で収穫した城州白も、それらの企業に出荷しているという。</p>

<p>池野さんのところでは自家でも梅干しを製造していて、地元の量販店に卸して販売してもらってもいる。そんな地元の梅製品が一堂に会して販売される機会が、毎年2月下旬から3月上旬ごろに開催される「青谷梅林梅まつり」である。昭和59年（1984）から続く観梅イベントで、約1万本の梅林の花と香りを目当てに、京阪神から多い年には延べ2万人が訪れる。</p>

<p>近年のコロナ禍、猛暑、そして鹿による食害などの問題があって、以前ほど盛大にはできなくなったと、梅まつり実行委員会のメンバーでもある池野さん。それでも「一般の多くの人と直接に触れ合えるこの祭りを、我々生産農家としては長く継続していきたい」と語る。その言葉には、明治時代に梅林による地域振興を図った人々の姿の反映を見るように思う。</p>

<p>「青谷の梅咲きたりとここかしこ人まち顔に鶯（うぐいす）の鳴く」。大和三門跡の一つ・圓照寺（えんしょうじ）の門跡でもあった伏見宮文秀（ぶんしゅう）女王が、明治23年（1089）に青谷を訪れた際の詠歌である。さえずる小鳥に春を告げられてゆく、梅林の散策が待ち遠しい。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 30 Jan 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>朝ドラ『ばけばけ』小泉セツはいつ八雲に恋したのか？ 真の愛に目覚めた意外な瞬間  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13671</link>
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			<description><![CDATA[連続テレビ小説『ばけばけ』のヒロインのモデルとなった小泉セツは、どのタイミングで小泉八雲を愛するようになったのか。鷹橋忍氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="小泉八雲と妻セツ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu1.jpg" width="1200" /><br />
Wikimedia Commons/The Modern Review. October 1913</p>

<p>連続テレビ小説『ばけばけ』では、ヒロインの松野トキとレフカダ・ヘブンの二人が出会ってから、距離を縮めていくまでがドラマチックに描き出される。では、そのモデルとなった小泉セツとラフカディオ・ハーン（小泉八雲）は、実際にどのようにして心を通わせていったのか。二人が、松江市北堀町の士族屋敷（現在の小泉八雲旧居）に居を移すまでの過程を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>セツとハーンの出会い</h2>

<p>セツとハーンが、いつ、どのように出会ったのかは明確ではない。しかし、出会いの時期は明治24年（1891）2月初旬、セツがハーンのもとで、住み込みで働くようになった頃だと考えられている（小泉八雲記念館『小泉セツ　ラフカディオ・ハーンの妻として生きて』）。</p>

<p>桑原羊次郎著『松江に於ける八雲の私生活』には、富田旅館の女将ツネから聞き取った、セツとハーンの出会いが記されている。</p>

<p>それによれば、ツネは西田千太郎から、「ハーンに、誰か士族の娘を奥様として世話してもらいたい」と頼まれた。ツネは色々とあたっていたが、富田旅館で働くお信の友人である小泉セツという士族の娘が良いと決まり、ツネ方からハーンに紹介した。</p>

<p>ところが当日、末次本町の宍道湖岸にあるハーンの住居を訪れたツネに対し、ハーンはセツの手足が華奢ではないため、「節子（セツ）は百姓の娘だ」「手足が太い」「おツネさんは自分を騙す」「士族でない」とツネを咎めたという。</p>

<p>当時、テンポラリーワイフ（かりそめの妻）と同棲する西洋人も多く、ツネの話は、セツを単なる住み込み女中ではなく、このテンポラリーワイフともなり得るような女性として紹介したとの意味合いを窺わせるものであった（長谷川洋二『八雲の妻小泉セツの生涯』）。</p>

<p>このツネの話は、松江ではかなり流布していたようである。</p>

<p>しかし、セツとハーンの長男・小泉一雄は、『父 小泉八雲』において、「父は通いでいいから、誰か自分専用のハウスキーパーが欲しかった」とし、「『あの女は良い家柄にしては手足が太く、しかも荒れているが、士族とは本当か？』と尋ねたのは事実かもしれない」と一部は認めつつも、「父は『宿で妾を世話しろ』だとか、『テンポラリーワイフを取り持て』などと要求する性格ではないと思う」と否定している。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>惹かれ合う二人</h2>

<p>ハーンにとってセツが特別な存在になるのに、そう多くの時間は必要としなかった。</p>

<p>ハーンは、すぐに知ることになる。</p>

<p>セツが間違いなく士族の娘であることを─―。</p>

<p>セツの手足が太くて荒れているのは、少女の頃より家族を養うため、一日中、機織りの仕事に従事していたからであることを─―。</p>

<p>夫に捨てられ、没落した実家や養家を守るため、洋妾と後ろ指を指されることを覚悟して、住み込み女中の仕事を引き受けたことを─―。</p>

<p>セツの壮絶な没落と困窮は、ハーン自身の過去と重なり、セツの哀れな姿に、最愛の母ローザの面影を見たと思われる。</p>

<p>苦難に立ち向かう毅然としたセツの姿勢にも、ハーンは心動かされただろう。日本人の美質を体現したかのようなセツは、ハーンにとって、ただの住み込み女中ではなくなり、「妻」と位置づけるようになる。</p>

<p>その証拠に、セツの養家・稲垣家の親戚である17歳の高木八百が、のちに女中として雇われた。八百の父親によれば、その時期は「節子夫人ご結婚間もない」2月頃だったという（長谷川洋二『八雲の妻小泉セツの生涯』）。</p>

<p>一方、セツはハーンにどのような感情を抱いたのだろうか。</p>

<p>後年、セツは長男・一雄に、ハーンにはじめて会った時の印象を語っている。それによれば、セツは、ハーンの目が悪いことは知っていたため、彼が独眼でも、特に驚かなかった。ただ、痛々しく感じたという。</p>

<p>ハーンの鼻は高くて形良く、女性的な細面で、顎は尖り、口元は小さい。唇は臙脂を塗ったかのように鮮赤で、セツはそれを羨ましく思っている。髪と眉は真っ黒で、口髭は褐色なのを、不思議に感じた。</p>

<p>切り立った形の広い額から、セツはハーンが賢い人であることをすぐに悟ったが、僅かな音も立てずに、つま先でヒョイヒョイと歩く姿には、少しばかり気味の悪さを感じたという（小泉一雄『父小泉八雲』）。</p>

<p>第一印象も悪くなかったようだが、やがて、セツはハーンを心から愛するようになる。</p>

<p>明治24年（1891）春の、まだ寒さが身にしみる頃の夕方、セツは軒端に立って、穴道湖の景色を眺めていると、すぐ下の渚で、四〜五人の子どもが子猫を水に沈めて、苛めているのに気付いた。</p>

<p>セツはその子猫を家に連れて帰り、ハーンに事情を説明した。すると、ハーンは「おお、かわいそうの子猫 むごい子供ですねー」と、びっしょりと濡れて震えている子猫を、自分の懐に入れて温めた。その光景を目の当たりにしたセツは、深く心を動かされている（小泉節子『思ひ出の記』）。</p>

<p>セツのハーンに対する真の愛は、この時にはじめて目覚めた。これほどにも情が深く、心根のやさしい人があるかと思い、ハーンに対して、何かいじらしく、涙ぐましいものさえも感じたというのである（萩原朔太郎「小泉八雲の家庭生活」）。</p>

<p>年齢の差や国籍、言葉の壁を越え、惹かれ合ったセツとハーンは、同年6月22日、松江市北堀町の士族屋敷（現在の小泉八雲旧居）に、女中の高木八百と子猫を連れて、居を移した。</p>

<p>セツの手記『思ひ出の記』で、「一家を持ちました」と語られるこの転居は、二人にとって、何かのけじめや区切りであったのかもしれない。セツとハーンの新しい生活がはじまった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ヘルン言葉</h2>

<p>明治24年（1891）セツ：23歳&nbsp;ハーン：41歳</p>

<p>セツとハーンの新居となったのは、代々、禄高百石の松江藩士であった根岸家の武家屋敷である。</p>

<p>松江城の内堀に面したこの屋敷の家賃は3円、もしくは3円50銭。室数は10、畳数は52畳とかなり広く、加えて、美しい日本庭園に囲まれていた。</p>

<p>ハーンはこの日本庭園が大変に気に入り、浴衣と庭下駄で散歩し、山鳩が鳴くとセツを呼び、その鳴き声を真似してみせたという。</p>

<p>セツは英語をまったく解せなかった。ハーンも日本語は片言しか話せず、読み書きも終生、あまりできなかった。</p>

<p>そんな二人は出会った当初、ハーンが辞書を手に片言の日本語で意思疎通を図っていた。だが、複雑な話になると、ハーンの友人・西田千太郎の助けを借りることが、しばしばあったようである。</p>

<p>やがて、二人は、「ヘルン言葉」を作り出し、コミュニケーションを取っていく。</p>

<p>ヘルン言葉とは、日本語の単語や慣用句から助詞（てにをは）を抜き、動詞・形容詞の活用はなく、語順は英語という、セツとハーン二人だけの秘密の言葉である。</p>

<p>たとえば、「パパサマあなた、親切、ママに。何ぼ喜ぶ、言う、難しい」といった感じの言葉で、二人の子どもたちですら、よく解せなかった。子どもたちは、「パパとママは、誰にもわからない不思議な言葉で、誰にもわからない神秘を話している」と、誇らしげに仲間の子どもに語ったという。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu1.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 30 Jan 2026 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>豊臣兄弟だけじゃない！毛利家と島津家、戦国時代を生き抜いた「兄弟の絆」  橋場日月（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13627</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013627</guid>
			<description><![CDATA[戦国時代の「兄弟」はどんな関係だったのか。「毛利両川」と呼ばれた毛利氏、「暗君なし」と言われた島津氏、強い絆で結ばれたふたつの家の兄弟関係を紹介する]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="島津義弘" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/shimazuyoshihiro.jpg" width="1200" /></p>

<p>大河ドラマ『豊臣兄弟！』では、豊臣秀吉と秀長兄弟の活躍が描かれているが、戦国時代のほかの兄弟をみると、固い絆で結ばれる者たちもいれば、いがみ合い、埋めがたい溝を抱える者たちもいた。力の優劣が命運を左右する戦国時代において、武将たちが見せた「兄弟のかたち」とはどのようなものだったのか。互いに支えあい、強い絆で結ばれた毛利家と島津家の例を、作家の橋場日月氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2022年6月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【毛利隆元・吉川元春・小早川隆景】他家へ養子に入り、本家を守り抜いた「両川」</h2>

<p>安芸国の弱小豪族から中国地方の覇者に成り上がった毛利元就には9人の男子（異説あり）があった。そのうち正室・妙玖が産んだ隆元・元春・隆景の3名は、兄弟のなかで年長でもあり、元就は期待をかけた。</p>

<p>長男の隆元を世子とし、三男の隆景を天文13年（1544）に小早川家の養子とすると、天文16年（1547）には次男の元春を吉川家へ養子として送り込む。以降、「毛利両川」と呼ばれる、吉川・小早川の両家が本家を支えるシステムができあがった。</p>

<p>弘治3年（1557）、元就は隆元・元春・隆景に「三子教訓状」をしたためた。のちに「三矢の教え」のエピソードの元ともなる書状だ。そこには、「毛利の家が廃れないよう精一杯心がけ、配慮することが大切だ、毛利の家が廃絶しないように三兄弟が結束せよ。元春が吉川家を、隆景が小早川家を継いだのはあくまでも当座のことで、本家の毛利を片時も忘れるな。当家の勢いが弱くなれば、人の心は変わるだろう」とあり、噛んで含めるように諭している。</p>

<p>当時、元春と隆景はそれぞれ養子先である吉川家・小早川家を発展させようと努め、本家の毛利をないがしろにする傾向があったらしい。元就はそれを危ぶんでいたようだ。兄弟は元就に誓紙を出し、毛利家を守る事を約した。</p>

<p>元春は「智勇兼備だが勇の方が勝っている」、隆景は「智が勇に勝る仁の武将」と評される名将で（『陰徳記』）、その後の合戦も常に協力して毛利家の覇業を助けたのだ。隆元が自分を「生まれつき才覚も無く徳も力も無い」と自虐するほど控えめな性格だったことも、弟たちに反発心を抱かせないポイントだったのかも知れない。</p>

<p>ところが永禄6年（1563）、毛利家に隆元の急逝という悲劇が訪れる。隆元の子・輝元が2年後に元服し、「三家（毛利・吉川・小早川）は常に合議制で物事を決します」と宣言すると、元春と隆景は後見役の元就とともに甥を補佐し、あるいは指導していくこととなる。</p>

<p>元亀2年（1571）に元就が没し、織田信長との対決を経て、天正10年（1582）の本能寺の変で信長が没しても、この関係は変わらなかった。</p>

<p>天正14年（1586）、元春は秀吉の九州平定に参加し、陣中で病死するが、残された隆景は「輝元と隆景の関係は良好で、日本一のことだ」と秀吉から賞賛されている（安国寺恵瓊書状）。</p>

<p>三兄弟最後のひとりとして、その後も引き続き毛利家を守り立てることに専心していた隆景の態度に揺るぎは無かった。</p>

<p>外様の大勢力である毛利家の団結を崩したい秀吉は、甥の秀秋を毛利家の養子に送り込むべく画策した。それに対し、隆景は秀秋を自分の養子とすることで秀吉の目論見を阻止し、大江広元以来の毛利家の&quot;純血&quot;を守った。輝元とともに豊臣五大老に連なり、毛利家の立場が強化されたことを見届けると、隆景は慶長2年（1597）に死去した。三兄弟の絆は毛利家を守り抜いたのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【島津義久・義弘・歳久・家久】「暗君なし」と言われた兄弟の結束</h2>

<p>薩摩の島津家には「島津に暗君なし」という言葉があるが、特に戦国時代、義久・義弘・歳久・家久の四兄弟は揃いも揃って優秀だった。</p>

<p>祖父の忠良は「義久は総大将の徳、義弘は武勇、歳久は知略、家久は戦略戦術に秀でている」と評したが、永禄9年に長兄の義久が当主になると、兄弟の結束はさらに強まって元亀元年にはついに薩摩を完全に統一する。</p>

<p>元亀3年（1572）、日向の伊東義祐・肥後の相良義陽との決戦「木崎原の戦い」では、義弘が3000対300という圧倒的に不利な兵力差の中で、敵を日向加久藤城に引き付け、伏兵や擬兵で相良軍を牽制。戦闘の疲労と折りからの暑さで、川で水浴びをするなどして弛みきっていた伊東軍に攻めかかった。</p>

<p>混乱する伊東軍に加久藤城の兵も突撃した。「九州の桶狭間合戦」とも呼ばれるこの戦いでは、総大将の伊東祐安（義祐のいとこ）も討ち死に。島津軍の圧倒的勝利となった。</p>

<p>天正6年、豊後の大友宗麟が相良義陽の懇請を受けて日向に出陣すると、義久以下四兄弟が揃って活躍、「耳川の戦い」として有名な歴史的大勝利を呼んだ。</p>

<p>義久はこの戦いで「5日の内に勝負をつける」と宣言したというから（フロイス『日本史』）、最初から短期決戦を志向し、それを実行してみせたのだ。</p>

<p>島津四兄弟は、日向、肥後の二方面から九州北部へ勢力を拡大していく。</p>

<p>天正12年（1584）、肥前を中心とする大勢力、龍造寺隆信との「沖田畷の戦い」と呼ばれる合戦に臨んだのは、四男の家久だった。</p>

<p>家久は伏兵を配置し、敵を深く引き込んで叩く「釣り野伏」戦法で10倍近い龍造寺軍を殲滅。隆信をも討ち取る大戦果を挙げ、九州全土における島津家の覇権を確立させる。</p>

<p>しかし、ここで四兄弟に逆風が吹いた。天正15年（1587）、豊臣秀吉の軍勢20万が九州に上陸したのだ。</p>

<p>島津軍は2万に過ぎず、各地で豊臣軍に圧倒され、みるみるうちに追い詰められた。四兄弟のうち、義久と義弘は秀吉に降伏したが、当初秀吉の力を認め、講和派だった歳久は「今この期に及んでそのまま降伏すれば、当方に不利となる」と徹底抗戦を主張した。彼は結局5年後に、兄・義久によって自害に追い込まれた。<br />
だが、それでも彼は「兄に敵意は無い」と遺言していたという。</p>

<p>また、末弟の家久は、最も早く豊臣軍に降伏していたが、直後に病で急死した。<br />
残された義久・義弘について、秀吉は義弘に大隅を与え、のちには事実上の島津家当主として扱う。だが、朝鮮出兵で「鬼島津」と呼ばれ、関ケ原の戦いで「島津の退き口」を演じた猛将・義弘は、最後まで義久をたて、島津家の団結は守られる。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 26 Jan 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[橋場日月（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>『ばけばけ』の小泉八雲だけじゃない！コンドル・ベルツ…日本を愛した御雇い外国人たち  安藤優一郎（歴史家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13546</link>
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			<description><![CDATA[明治期、日本にやってきた「御雇い外国人」。彼らの中には日本の文化に魅了され、研究を深めた者たちがいた。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="明治日本に来た「御雇い外国人」の中には日本文化に魅了された者がいた" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_japanLIG.jpg" width="1200" /></p>

<p>連続テレビ小説『ばけばけ』のモデルとなった小泉八雲と同じく、明治時代、日本に多くの外国人がやってきました。西洋の技術を日本に伝えるため、「御雇い外国人」としてやってきた彼らですが、日本の怪談にのめり込んだ八雲のように、日本の文化に魅了され、研究を深めた外国人も多かったようです。彼らは日本でどんな活動をし、いかなる功績を残したのでしょうか。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2021年12月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>明治国家の近代化路線において、大きな役割を果たした「御雇い外国人」だが、その嚆矢は幕末に求められる。<br />
欧米諸国の脅威を踏まえ、幕府や諸藩は軍事部門を中心に近代化に着手。明治維新後に顕著となる富国強兵路線の先駆けだったが、そこではオランダ、イギリス、フランスから招聘した外国人が手腕を発揮していた。</p>

<p>明治政府はこのスタイルをモデルとして、欧米人の技術者や学者を大勢招聘し、行政・法制・建築・科学など諸分野の指導に当たらせた。その数は計3000人前後にも達したという。近代化に対する政府の力の入れようが分かる数字だが、御雇い外国人への大いなる期待は高額な給料からも一目瞭然だ。政府のトップよりも高給取りの者さえ珍しくなかったからである。国籍でみると、その大半はイギリス・フランス・アメリカ・ドイツだった。<br />
以下、イギリス・フランス・ドイツから来た４人の御雇い外国人の事績を通して、日本の近代化に果たした各人の役割を明らかにしていく。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【コンドル】 日本の近代建築の礎を築く</h2>

<p>イギリス人の御雇い外国人として著名なのがコンドルで、「日本近代建築の父」などの異名を持つ建築家だ。</p>

<p>1852年にイギリスのロンドンで生まれたコンドルは、ロンドン大学などで建築学を学んだ後、ゴシック建築の権威であるバージェスの設計事務所に勤務する。<br />
明治9年（1876）に若手の登竜門とされたコンペで優勝して名を上げたが、その翌年、明治政府の招きに応じて来日する。</p>

<p>この年、日本では工部大学校（現東京大学工学部）が誕生していた。同校は、鉄道、鉱山、電信、造船、灯台など殖産興業を実現するための、官営事業を掌る工部省が創設した技術者養成機関だが、コンドルは同大学校で教鞭を取る一人となる。その教えを受けた建築家には、東京駅や日本銀行などを設計した辰野金吾、赤坂の迎賓館を設計した片山東熊（とうくま）などがいる。</p>

<p>コンドルは人材育成にあたる傍ら、工部省営繕局顧問として政府関係の施設の建築に携わった。その代表的な建築物と言えば、明治16年(1883)に完成し、日本の欧化政策のシンボルとなる洋館鹿鳴館だろう。</p>

<p>21年(1888)に工部省を辞めると、コンドルは設計事務所を開設し、多くの洋館の建設に関わった。三菱1・2・3号館やニコライ堂などはその象徴的な作品であり、ここに日本近代建築の父としての名が定着する。</p>

<p>西洋建築の技術を日本に根付かせていったコンドルは一方で、日本文化への造詣が非常に深かった。日本庭園や生け花の研究に勤しむ傍ら、日本画家の河鍋暁斎に師事し、「暁英（きょうえい）」の雅号で数多くの作品を残す。そんな日本文化への関心の高さと共感は、コンドルの建築にも大きな影響を与えたと評価されている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【ボアソナード】外交面でも尽力した法学者</h2>

<p>次は、フランスからの御雇い外国人であるボアソナードを取り上げる。「日本近代法の父」と称される法学者である。</p>

<p>1825年にフランスのパリ近郊で生まれたボアソナードは、パリ大学法学部で学び、卒業後に弁護士となる。グルノーブル大学やパリ大学で教鞭を取ったが、日本との縁は明治6年(1873)に訪れる。</p>

<p>当時、司法制度の調査研究にあたるため、井上毅ら司法省の官吏がフランスに滞在していたが、駐仏公使鮫島尚信の依頼でボアソナードが井上たちに憲法や刑法を講義することになった。これが縁となり、政府はボアソナードを招聘する。来日したボアソナードは法学教育にあたる一方、政府の顧問としても大いに手腕を発揮した。</p>

<p>法学教育では、司法省法学校(現東京大学法学部)のほか、東京法学校(現法政大学)や明治法律学校(現明治大学)など、草創期の私立法律学校で教壇に立った。その卒業生からは、司法の実務や法学教育で活躍する多数の法律家が輩出している。</p>

<p>政府の顧問については、司法省を中心に元老院、外務省、法制局などの政府各機関で諮問に応えた。特に、7年(1874)の台湾出兵や15年の壬午軍乱の際、清との間には緊張が走ったが、外交顧問として事態の収拾に尽力する。20年(1887)の井上馨外務大臣による条約改正の折には、外国人裁判官任用案に異議を唱えることで反対運動の口火を切る役回りを演じた。</p>

<p>さらに、刑法や民法などの法典整備にも携わったが、フランスの民法典の影響が強かった民法案は施行が延期されてしまう。日本の伝統的な国民生活の美風に背くとして非難が巻き起こり、事実上廃案となった。結局のところ、個人よりも家を重んじる内容に修正の上、民法は施行される。いわゆる民法典論争である。</p>

<p>しかし、法律の近代化においてボアソナードが果たした数々の実績は高く評価されており、政府も勲一等の授与をもってその功績を賞している。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【ベルツ】湯治に関する世界初の論文を発表</h2>

<p>最後はドイツからやって来た御雇い外国人を2人取り上げる。1人目は、日本の近代医学の牽引役となったベルツである。</p>

<p>1849年にドイツ南部のビーティッヒハイム・ビッシンゲン市で生まれたベルツは、医学を志す。テュービンゲン大学で基礎医学を学んだ後、ライプツィヒ大学に転学して内科を修めた。修了後は同大学病院の内科に入局したが、明治8年(1875)に肺を患って入院してきた、相良元貞（さがらもとさだ）という名の日本人留学生の治療を担当したことが奇縁となる。</p>

<p>ベルツの治療技術に感銘を受けた元貞は、日本にいた兄相良知安（ちあん）にその技量の高さを伝えた。政府で医学制度の改革を担当していた知安は、東京医学校(現東京大学医学部)の教員として招聘しようと考え、ベルツも要請を快諾する。翌9年にベルツは来日し、ここに26年間にわたる御雇い外国人としての歩みがはじまる。</p>

<p>生理学そして内科学を担当したベルツは日本人の医学生を熱心に指導する一方で、大隈重信や板垣退助など政府要人の診療にもあたった。明治天皇や皇太子時代の大正天皇の主治医も委嘱されている。</p>

<p>他の御雇い外国人と同じく、ベルツも日本文化にたいへん傾倒した。単に美術工芸品を収集するだけでなく、剣道や柔道といった日本古来の武道を嗜んでいる。さらには日本と日本人についての多数の論文と本も刊行したことで、日本通の外国人として広く認知されるようになる。</p>

<p>11年からは草津温泉に通い始め、温泉の効能についての研究に着手する。17年には日本の温泉治療(湯治)に関する世界初の論文を発表し、その効能を医学的見地から世界に発信した。これにより草津温泉は世界にその名が知られることになり、ベルツは今も草津の恩人として称えられている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【モッセ】地方自治制に大きな影響を与える</h2>

<p>　ドイツからの御雇い外国人の2人目は、モッセである。日本における、地方行政制度の創設に尽力した法律家だった。</p>

<p>1846年に現在のポーランドで生まれたモッセはベルリン大学で学び、ドイツの法学者グナイストの愛弟子となる。その後、ベルリン市の裁判所判事に就くが、在職中にドイツ日本公使館の顧問を委嘱されたことが、日本との縁のはじまりだ。</p>

<p>いわゆる明治14年の政変により、ライバルの大隈重信を失脚させて明治政府の主導権を握った伊藤博文は、君主権の強いドイツ流の憲法の制定を目指していた。同15年、憲法調査のためドイツに派遣された伊藤は、ヨーロッパ諸国の政治制度や立憲政治の運用に関して研究を進めたが、その際、グナイストやモッセから憲法や行政法の講義を受けている。</p>

<p>翌年に伊藤は帰国するが、19年(1886)にモッセは、内閣や内務省の法律顧問として招聘された。憲法制定について様々に助言し、22年(1889)公布の大日本帝国憲法制定に大きく貢献するが、モッセの功績はそれだけではない。</p>

<p>前年に地方自治制の根幹となる市制・町村制が公布されていたが、これは内務大臣、つまり政府の強い統制下に地方自治体を置くことを目指した行政システムの構築を意味した。市長が選挙ではなく政府から選任されたのはその象徴だが、この市制・町村制はモッセが内務大臣山県有朋の諮問に応えて起草したもので、ドイツの地方制度をモデルとしていた。日本の地方自治制に大きな影響を与える法制となった。</p>

<p>以上、御雇い外国人の事績をみてきたが、それぞれの立場で御雇い外国人が日本の近代化に大きな役割を果たしていたことが改めて確認できるだろう。彼らの力によって日本は近代化を急速に果たし、やがて欧米と肩を並べるほどの強国となるのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 15 Jan 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎（歴史家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>豊臣秀長の領地改革はなぜ成功した？既存勢力の抵抗を制した「政治力」  真山知幸（伝記作家、偉人研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13349</link>
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			<description><![CDATA[大和の地を与えられた豊臣秀長。寺社勢力の強い地域をどのように治めたのか。秀長の優れた政治力を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_Yamatokooriyamajyou.jpg" width="1200" />大和郡山城</p>

<p>2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟！』は、豊臣秀吉とその弟・秀長の物語だ。天正13（1585）年、総大将として四国征伐を成し遂げた秀長は、その功績により大和国を加増される。しかし大和は寺社勢力の強い地域で、統治は容易ではない。秀長はどのようにしてこの地を治めたのか。親しみやすい文体で定評のある伝記作家が解説する。</p>

<p>※本稿は、真山知幸著『戦国最高のNo.2　豊臣秀長の人生と絆』（日本能率協会マネジメントセンター）より一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>反抗的な勢力は毅然とした態度で処断</h2>

<p>大和大納言──。<br />
そんな豊臣秀長の呼び名は天正13（1585）年8月、秀吉より大和国を加増されて、のちの天正15（1587）年8月に権大納言の官職を授けられたことに由来している。</p>

<p>郡山城に入って大和・和泉・紀伊3カ国の大守となった秀長。その知行高について、藤堂高虎の一代記である『高山公実録』では次のように書かれている。</p>

<p>「秀長朝臣大和を益封せられ、食禄100万石、郡山を居城とし給ふ」</p>

<p>実際は80万石程度だったともいわれるので、やや誇張されている可能性はあるが、いずれにしても「よくぞここまで来たものだ」と、秀長は感慨深かったことだろう。<br />
だが、同時にこんな思いも胸に去来したに違いない。</p>

<p>「兄者もまた難しい任務を与えてくれたものだ...」</p>

<p>なにしろ、この大和の地は寺社勢力の強い地域だった。東大寺、興福寺、春日神社、多武峰寺...。当時の寺社は僧兵を組織して武力を持っていたことを思うと、統治は簡単ではない。</p>

<p>秀吉はこの難しい土地を是が非でも秀長に任せたいと、常々タイミングを図っていたようだ。もともと大和を治めていた興福寺衆徒の筒井順慶が死去して、幼少息子・定次が跡目を継ぐや、筒井家に伊賀への国替えを命じて、そこに秀長を送り込んだ格好となった。</p>

<p>といっても、秀吉は単に厄介な仕事を弟に押し付けたわけではない。<br />
大和は地理的に大坂に近く、軍事的にも政治的にも、極めて重要な意味を持つ。そんな重要拠点で寺社勢力に好き放題やられては、天下統一を果たすことなどできるはずもない。<br />
信用できて実力のある家臣でなければこの仕事は任せられない──。そんな思いから、秀長に白羽の矢が立てられたのである。</p>

<p>秀吉の意図は秀長に十分に伝わっていたようだ。秀長は寺社勢力の弱体化を図るべく、早速動き出す。大和に入国して早々に、寺社に対して「指出（さしだし）」による検地を行った。</p>

<p>検地といえば、秀吉が行った「太閤検地」がよく知られているが、それが徹底される以前に行われていたのが「指出」という方法で、つまりは自己申告だ。大名が実際に検地を行うのではなく、領内の家臣や寺社などに、それぞれの所領の面積や耕作者、年貢量を申告させるスタイルとなる。</p>

<p>『多聞院日記』を紐解くと、秀長が寺社勢力にじわじわとプレッシャーを与えていたことが、リアルに伝わってくる。</p>

<p>例えば、天正13（1585）年9月5日、「指出在々ノ米ノ員数可書出由申間、一日カゝリテ書出之」とある。検地（指出）を命じて、寺院が1日がかりで書き出すが、その内容を問題視したのだろう。<br />
9月25日の日記には「寺門領事又一万石可落之由由来」とあり、申告時の何らかの落度により興福寺から1万石もの所領を没収していることがわかる。</p>

<p>それだけではない。翌年に再度提出させると、昨年の検地と7250石も異なるとして、秀長は強く批判。領地のさらなる没収という、強硬手段に出た。<br />
こうして、相手にごまかされることなく、粘り強く追及を繰り返した結果、興福寺の領地は秀長が入国する以前と比べて、実に5分の1にまで減らされた。</p>

<p>残されている検地の資料は限られており、これ以上のことはわからないが、興福寺以外の寺院にも同じような措置をとったことと考えられる。兄・秀吉の意図をくみ取って、それをすぐに断行するあたりが、秀長らしい。</p>

<p>秀長が大和に入る前に、この地を治めていた筒井氏が伊賀に国替えになったことはすでに述べた。なかには、このときに一緒に伊賀に移らなかった国衆もいる。<br />
秀長は彼らを傘下に組み入れて自身の家臣にしつつ、反抗的な勢力には、毅然とした態度をとった。特に郡山城近くに根を張る十市郷の侍衆は強い勢力を持っていたため、所領を奪って追放という厳しい処分を断行した。</p>

<p>そうして寺社に協力する武力をはぎとりながら、秀長は統治の基盤をしっかりと築き上げた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>刀狩をいち早く実践して寺社を武装解除</h2>

<p>また、秀長は兄・秀吉の政策をいち早く実行する役割も担っていたようだ。天正16（1588）年、秀吉はこんなお触れを出した。</p>

<p>「百姓が刀、脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを禁じる。年貢を怠り、一揆を起こすものは罰する」<br />
「回収した刀は方広寺の大仏建立のための釘やかすがいにする。協力した百姓はあの世まで救われる」<br />
「農具だけ持って耕作に励めば、子々孫々まで無事に暮らせる」</p>

<p>要は「農民は農具で田畑だけ耕しとけ」ということである。</p>

<p>秀吉は自分自身が下剋上で、低い身分から這い上がってきた。農民の怖さは身をもって知っている。自分のような人間を今後出さないため、刀狩りによって農民に武器を持てなくさせたばかりか、武士とは身分が異なることを明確に示したのだ。</p>

<p>大胆な行動にばかりつい目を奪われがちだが、このお触れに至るまでに秀吉はステップを踏んでいる。<br />
紀州根来・雑賀の僧徒による武力抵抗に懲りた秀吉は、天正13（1585）年4月に高野山の武器をすべて没収。そして、『多聞院日記』によると、同年8月25日に、今度は秀長が多武峰寺から弓や槍、鉄砲、具足、兜、刀といった武具類の提出を命じている。</p>

<p>秀吉の構想を実現させるべく、どのように進めていくべきか、兄弟で話し合いながら一つずつやることを決めて、実行に移していったのだろう。<br />
まさに二人三脚の政権運営であり、秀長の実行力が秀吉の改革の推進力となった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「アメ」と「ムチ」を巧みに使いながらコントロール</h2>

<p>秀長が多武峰寺から奪ったのは武力だけではない。新たな政権に権威づけをすべく、郡山城の鎮守として、多武峰寺の大織冠尊像（藤原鎌足木像）を移そうと考えた。</p>

<p>6000石の寺領を与えるという条件で移転を持ちかけるが、多武峰寺からすれば、由緒ある土地から離れることは考えられないことだったのだろう。何度、秀長から命じられても、受け入れることはなかった。<br />
ならば、と秀長は強硬手段に出た。</p>

<p>天正15（1587）年11月、郡山城の西方丘陵地に郡山新多武峰の社殿を造営。翌年3月には、社寺奉行の前田玄以を通じて綸旨を発し、強引に移転させたといわれている。</p>

<p>秀長からすれば「寺社は政治力や軍事力を持たずに、政権の安穏を祈念すべきだ」という秀吉の考えに理解を示したうえで、それを忠実に実行したに過ぎなかったのだろう。</p>

<p>だが、『多聞院日記』によると、そうして寺社側を弾圧する一方で、秀長は寺社の造営や寄進もたびたび行っていた。<br />
また、郡山に新多武峰の新たな社殿を造ってそこに移させたのも、一説には寺社内で寺僧同士の対立が深刻化したため、秀長が解決に動いた結果ともいわれている。</p>

<p>何かとやっかいな当時の寺社勢力に対して、時には「アメとムチ」を使いながら、コントロールした秀長。巧みな調整力を生かして、兄の期待通りに大和国を統治した。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 13 Jan 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[真山知幸（伝記作家、偉人研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>『ばけばけ』の小泉八雲で注目！クラーク、フェノロサら御雇い外国人の知られざる素顔  安藤優一郎（歴史家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13545</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013545</guid>
			<description><![CDATA[明治期、日本にやってきた「御雇い外国人」。アメリカからやってきた彼らのあまり知られていない素顔とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="明治期に日本にやってきた御雇い外国人。彼らの意外な素顔とは" height="395" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityLI/pixta_clarkLI.jpg" width="640" /></p>

<p>連続テレビ小説『ばけばけ』のモデルとなった小泉八雲のように、明治時代、日本に多くの外国人がやってきました。特に明治初期には、政府によって多くの外国人、すなわち「お雇い外国人」が招かれ、西洋の知識が日本に持ち込まれています。</p>

<p>「Boys,be ambitious!」で知られるクラーク、大森貝塚を発見したモースなどが有名ですが、彼らの素顔は、我々の持つイメージとはすこし異なっていたようで...。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2021年12月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>明治国家の近代化路線において、「御雇い外国人」の果たした役割が非常に大きかったことは広く知られている。御雇い外国人とは、主に明治政府が西洋文明を日本に導入するため雇用した外国人を指すので、西洋人、つまり欧米人であった。</p>

<p>欧米から技術者や学者を大勢招聘し、行政・法制・建築・科学など諸分野の指導に当たらせた。その数は計3000人前後にも達したという。近代化に対する政府の力の入れようが分かる数字だが、御雇い外国人への大いなる期待は高額な給料からも一目瞭然だ。政府のトップよりも高給取りの者さえ珍しくなかったからである。国籍でみると、その大半はイギリス・フランス・アメリカ・ドイツだった。<br />
本稿では、その中から4人のアメリカ人を取り上げる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【クラーク】当初の目的は開拓者の育成だった</h2>

<p>御雇い外国人と言えば、『少年よ大志を抱け』（Boys,be ambitious!）のフレーズで有名な札幌農学校教頭のクラーク博士が代表格として挙げられるだろう。専門は化学、植物学、動物学だが、その代名詞となったフレーズゆえに、教育者としてのイメージが強い人物でもあった。</p>

<p>1826年にアメリカのマサチューセッツ州で生まれたクラークは、ウィンストン神学校、そしてアマースト大学で学び、ドイツのゲッティンゲン大学に留学した。帰国後、母校アマースト大学の教授に迎えられるが、同大学には日本との縁を結ぶことになる日本人が学んでいた。同志社大学の創立者となる新島襄である。</p>

<p>幕府が倒れた年（慶応3年）にあたる1867年9月に人学した新島は、クラークの授業も受講したようだが、同年8月に、クラークはマサチューセッツ農科大学の学長に就任している。</p>

<p>一方、蝦夷地改め北海道の開拓に力を入れる明治政府は、明治2年（1869）7月に開拓使を創設する。開拓使は単なる一地方機関ではなく、政府各省と同格とされたが、開拓使を取り仕切ったのは次官（後の長官）の薩摩藩士黒田清隆であった。</p>

<p>黒田は御雇い外国人の力を借りて開拓を進めようと人選を進めていたが、新島がクラーク招聘を駐米公使森有礼を介して説いた。その能力を認めた開拓使からの説得に応じたクラークは、明治9年（1876）7月に札幌農学校教頭への就任を承諾する。</p>

<p>同校の目的は開拓に必要な人材の育成にあった。よって、農業の教育はもちろんだが、クラークの方針に従って人格者たることを目指した人間教育が行なわれたため、いきおい教育者としてのイメージが強くなったと言えよう。</p>

<p>クラークが札幌にいたのは、わずか9か月に過ぎない。北海道開拓への貢献度はさほど大きくなかったかもしれないが、人間教育の面では多大な影響を与えた。クラークに学んだ学生には、国際連盟の事務局長となる新渡戸稲造や、日露戦争時の反戦活動で知られる内村鑑三などがおり、その影響は多分野に及んでいる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【モース】考古学者ではなく動物学者</h2>

<p>次に取り上げるのは、大森貝塚の発見者として著名な動物学者のモースである。</p>

<p>1838年にアメリカのメイン州で生まれたモースは、ハーバード大学で生物・地質学者のアガシーに師事し、貝類の研究に関心を持つ。そして明治10年（1877）6月に、日本近海に生息するシャミセンガイなどの腕足類を研究するため来日した。</p>

<p>横浜に上陸したモースは東京に向かおうと汽車に乗ったが、その途中の大森で、車窓から貝の殻が堆積した貝層を発見する。大森貝塚の発見である。貝塚とは昔のゴミ捨て場のことで、貝のほか動物の骨、土器・石器などが多数埋まっていた。</p>

<p>その後、政府の許可を得たモースは9月から12月にかけ、貝塚の発掘調査を開始する。日本最初の学術的発掘だった。同12年（1879）に、その発掘報告書;Shell Mounds of Omori;を出版し、日本にも石器時代が存在したことを立証する。貝塚から出土した土器に縄目の文様が付いていることにも注目したが、これを機に縄文土器の名称が生まれた。こうして、大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と呼ばれるに至る。</p>

<p>文部省の要請により、動物学専攻の東京大学教授に就任したモースは、動物標本などを採集するため、学生を連れ全国各地を訪れたが、やがて日本の陶磁器や美術品、さらには民具にまで関心を寄せるようになる。日本の庶民の暮らしや心根に魅了されたのだ。</p>

<p>モースが採集して持ち帰った日本の陶磁器や民具はモースコレクションと呼ばれ、全米最古の博物館といわれるピーボディ・エセックス博物館や、ボストン美術館に現在も所蔵されている。モースは日本美術品の紹介にも非常に熱心だった。</p>

<p>日本人と日本文化に魅了されたモースは、多くのアメリカ人に訪日を勧めたが、その一人が次に取り上げるフェノロサなのであった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【フェノロサ】専攻は哲学だが、日本画の復興に貢献</h2>

<p>モースの推薦で来日したフェノロサは、東京美術学校（現東京藝術大学）の設立に貢献した岡倉天心とのセットで取り上げられることが多い、御雇い外国人である。美術研究家としてイメージされるが、もともとは哲学を専攻した人物だった。</p>

<p>ペリー来航の年にあたる1853年に、アメリカのマサチューセッツ州で生まれたフェノロサは、ハーバード大学で哲学を学んだ。明治11年（1878）にモースの勧めで来日したが、その前年、ボストン美術館に新設された学校で絵画を学んだことが、日本での活動に大きな影響を与えることになる。</p>

<p>来日したフェノロサは東京大学で哲学や経済学などを教えた。その講義を受けた一人が岡倉天心だが、浮世絵や仏像など日本の古美術品に魅了されたフェノロサは、その収集、そして研究もはじめる。</p>

<p>ところが、当時の日本は文明開化の旗印のもと西洋化が強力に推進される余り、日本の伝統的文化が排斥される傾向が甚だしかった。由緒ある文化財が売り払われ、あるいは破壊された。廃仏毀釈の嵐も吹き荒れたことで、とりわけ仏像や仏画などは次々と破棄されていった。</p>

<p>この風潮を大いに嘆いたフェノロサは、日本の伝統的美術の復興を志す。京都や奈良で古美術の調査を開始するが、その時に助手を務めたのが教え子の天心だった。</p>

<p>調査だけでなく、同15年（1882）には日本画の復興を唱えた講演（「美術真説」）を行なった。17年（1884）には、日本画復興のため天心たちと鑑画会を設立し、狩野芳涯や橋本雅邦を世に出した。</p>

<p>さらにフェノロサは、天心による東京美術学校の開設にも協力する。開設後は美術史を講義し、後進の育成を目指した。帰国後はボストン美術館東洋部長に就任したが、その後も来日をし続け、日本画の復興に心血を注いだのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【ジェーンズ】教員として多くの教科を教えた退役軍人</h2>

<p>御雇い外国人は明治政府により招聘されることが多かったが、次に取り上げるジェーンズは、廃藩置県前に熊本藩が招聘した人物である。退役軍人からの転身という珍しい事例だ。</p>

<p>1838年にアメリカのオハイオ州で生まれたジェーンズは、1856年にウェストポイント陸軍士官学校に入り、卒業と同時に北軍士官として南北戦争に従軍する。大尉で退役すると、メリーランド州で農業に従事したが、明治4年（1871）8月に来日して熊本に向かう。9月には熊本洋学校の教員として教壇に立つ。</p>

<p>廃藩置県までの短期間となるが、欧米人の技術者や学者を廃藩置県の少し前に招聘して近代化を推進した藩は少なくない。熊本藩もその一つだ。次世代育成の観点から西洋の学問を教授する学校の建設を目指したが、それが熊本洋学校である。</p>

<p>設立を主導したのは、天下にその名が知られた横井小楠の甥にあたる横井太平たちだった。彼らの奔走により、ジェーンズが教師として招聘されることが決まるが、熊本到着前の4年7月に廃藩置県のため熊本藩は消滅し、熊本県に生まれ変わる。洋学校の設立事業は熊本県に引き継がれ、9月に開校となった。</p>

<p>洋学校は男女共学で身分に拘らず入学できたが、英語、数学、歴史、地理、化学、天文、地質、生物などの各教科をジェーンズが一人で教えた。それも英語での指導であった。さらに、グループ学習を取り入れていたことも画期的であり、欧米仕込みの最先端の教育システムが取られていたと評価できよう。ジャーナリストとして知られた徳富蘇峰も生徒の一人だった。</p>

<p>熊本洋学校では月謝、教材費、文具費、寮費に至るまで、すべて公費で賄われた。熊本県が洋学校の教育に、いかに期待していたかが分かる。</p>

<p>ジェーンズは洋学校で教える一方、自宅では聖書研究会を開催した。この研究会に参加した学生たちが後に結成したのが、日本のプロテスタントの源流の一つとされる「熊本バンド」だ。ジェーンズは西洋式の最先端の教育システムを導入しただけでなく、日本のキリスト教の歴史にも大きな足跡を残したのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 12 Jan 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎（歴史家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉も家康も大ウソつきだった！情報戦に長けた天下人の驚くべきハッタリ戦略とは？  真山知幸（伝記作家、偉人研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13348</link>
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			<description><![CDATA[豊臣秀吉と徳川家康、二人の天下人は驚くべきウソつきだった。情勢を優位に運ぶため、彼らがついたウソ、ハッタリの類を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="豊臣秀吉" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_hideyoshi2019G.jpg" width="1200" /></p>

<p>2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟！』は、豊臣秀吉とその弟・秀長の物語だ。大言壮語の兄・秀吉は、ハッタリを駆使しながら出世街道をかけ上っていく。そしてもう一人、平気でウソを並べ、情勢をコントロールしていく戦略上手が「狸親父」と呼ばれる徳川家康。彼らがついた驚くべきウソとはーー。親しみやすい文体で定評のある伝記作家が解説する。</p>

<p>※本稿は、真山知幸著『戦国最高のNo.2　豊臣秀長の人生と絆』（日本能率協会マネジメントセンター）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>信長は「本能寺の変」の襲撃を切り抜けた？</h2>

<p>柴田勝家のことなど眼中にない─。<br />
秀吉にはそれくらいの勢いがあったらしい。勝家との賤ヶ岳の戦いが始まって間もない天正11（1583）年4月12日、小早川隆景宛てに、こんな手紙を出している。</p>

<p>「播州より西のことは知らないが、東においては、津軽・合浦・外浜までも、われらの槍先に堪えられる者はいそうもない」<br />
あたかも関東の果てまで勢力を伸ばしているかのように書いている秀吉。この時点で、すでに全国制覇をにらんでいたことがわかる。</p>

<p>秀吉の戦略的な嘘は本能寺の変直後にも発揮された。信長が討たれてから3日後、秀吉は、摂津茨木城主の中川清秀に事態の顛末を聞かれて、次のような手紙を書いた。</p>

<p>「これからお伝えしようと思っていた時、そちらからご教示に預かり、満足に思っている。さて、ただ今京より下ってきた者が確かに言った。上様ならびに殿様、いずれもなんのお障りもなく明智光秀による襲撃から切り抜けなされた」</p>

<p>上様とは織田信長、殿様とはその息子で織田家の当主となっていた織田信忠のことだ。「何のお障りもなく」どころか、殺されているにもかかわらず、手紙にはおくびにも出していない。秀吉は平然とこんな嘘をつきながら、翌日から中国大返しを行うことになる。</p>

<p>嘘と言えば聞こえが悪いが、情報戦にほかならない。そして大言壮語を吐くのは、兄の得意分野だと弟の豊臣秀長はよく知っている。<br />
「自分にはできないことをやってのけるのが兄者だ」<br />
そんな思いがあったからこそ、振り回されても兄についていくことができたのだろう。<br />
だが、そんな兄と同じく戦略家で、腹の読めない敵が、兄弟の前に立ちはだかることとなった。「狸親父」とまで呼ばれた徳川家康である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「屋形としてあがめて慕う」と言いつつも...</h2>

<p>戦国の世において、秀吉が家康を相手にたった一度だけ正面衝突した戦い、それが天正12（1584）年の小牧・長久手の戦いだ。秀吉からすれば、あとは家康さえ叩いてしまえば、という思いが強かったことだろう。</p>

<p>なにしろ、賤ヶ岳の戦いでは勝家だけではなく、信長の三男である織田信孝も死に追いやっていた。勝家に荷担していた滝川一益も降伏し、もはや向かうところ敵なしである。<br />
そうなると残るは、織田信長の次男にあたる信雄、そして信長の同盟相手だった家康をどう排除するか。それが、秀吉にとって目下の課題だった。</p>

<p>「屋形としてあがめて慕う」</p>

<p>「屋形」とは当主のことで、秀吉が信雄について言ったとされる言葉である。<br />
信雄は尾張・伊勢・伊賀の三国を領有。信忠の遺児・三法師の後見役にもなり、実質的に織田家の家督を継いでいた。</p>

<p>だが、秀吉の勢いが増すにつれて、信雄はないがしろにされていく。秀吉は摂津の池田恒興・元助父子を美濃に移し、自身は大坂城の築城にも着手。信長の安土城を上回る規模の城を築き始め、天下人として振る舞い始める。</p>

<p>われこそが信長の後継者と言わんばかりに、諸大名に書状を出す秀吉に対して、信雄は面白くなかったらしく、家康へと接近していく。</p>

<p>そして、天正12（1584）年3月6日、信雄は家臣のなかでも、秀吉と内通していると思われる岡田重孝、浅井長時、津川義冬の三家老を誅殺。それに呼応して、家康は翌7日に浜松城を発ち、8日に岡崎城を出た。13日には清州城で信雄と協議すると、尾張の小牧山城に本陣を敷いている。</p>

<p>信雄の反抗に秀吉は「もってのほか腹立て」と『兼見卿記』には記されている。怒れる兄を見て、その性格を誰よりも知る秀長は、家康との戦になると確信したことだろう。</p>

<p>ところで秀長は、この家康と激突した小牧・長久手の戦いの最中に、これまで使ってきた実名の「長秀」から「秀長」へと名前を変更。以後は死ぬまで秀長と名乗り続けた。<br />
秀長はこの家康との戦いこそが、豊臣家の行方を決定づけると考えて、最後の改名を行ったのかもしれない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>大将を勝手に討ち取ったことにした家康</h2>

<p>家康は小牧山城に、秀吉は尾張の犬山城に、それぞれの本陣を敷いて戦は膠着状態が続いていたが、秀吉方についた池田恒興や森長可らが動く。手薄となった岡崎城を攻めて、家康勢を小牧山城から、おびき出そうとしたのだ。</p>

<p>だが、家康はこの作戦を察知する。「それなら兵をさしむけよう」（『三河物語』）と、4500の兵を先発させ、自らも織田信雄と9000の兵を率いて追撃。見事に秀吉方を討ち破っている。</p>

<p>家康はすぐさま家臣の平岩親吉と鳥居元忠に、こんな書状を送っている。</p>

<p>「今日9日の午の刻に、岩崎において合戦し、池田紀伊守（恒興）、森長可、堀秀政、長谷川秀一ら敵の大将を始めに1万人を討ち取った」</p>

<p>さらに「このまま上洛する」とまで書いているのだから、意気揚々とはまさにこのことだろう。しかし、この手紙の内容は、やや事実とは異なる。<br />
敵将の池田恒興・元助の親子、そして、森長可らを討ち取ったのはその通りだが、堀秀政や長谷川秀一らは無事である。</p>

<p>翌日の10日には、丹波氷上郡の土豪である赤井（蘆田）時直にも書状を出して、やはり戦果を書き綴っている。</p>

<p>「昨日9日に合戦に及んだところ、池田勝入（しょうにゅう、恒興）ら父子3人を始めに、森長可、堀秀政、長谷川秀一、三好孫七郎、そのほか、大将を10人あまりのほか、1万人ほど討ち取った」</p>

<p>またも討ち取られていない堀秀政、長谷川秀一の名が連ねられているうえに、今度は三好孫七郎の名まで加わっている。三好孫七郎は三好信吉の通称であり、のちの豊臣秀次である。秀吉の甥で、家康に撃破された別動隊では大将を務めた。壊滅的な大敗を喫しながらも、命からがら逃亡しており、討ち取られてはいない。</p>

<p>戦から1日経って情報が正確になるどころか、より大げさになっている家康の書状。これもまた、彼の戦勝ムードを高める方法の一つなのだろう。</p>

<p>秀吉に負けないほど「ハッタリ力」を発揮した家康だったが、のちに秀長は家康を奈良見物に案内するなど、仲を深めていく。兄の秀吉と同様に、自分と全く違うタイプだけに、意外と相性は良かったのかもしれない。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Sat, 10 Jan 2026 09:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[真山知幸（伝記作家、偉人研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>ビル・ゲイツは中退、マルクスは浪費三昧！？偉人たちの「20歳」が波乱万丈すぎる  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13541</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013541</guid>
			<description><![CDATA[世界の偉人たちはどんな20歳を過ごしたのか。すでに活躍していた人、不遇の時代を過ごしていた人、さまざまな20歳を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="世界の偉人たちは20歳の頃、どんな風に過ごしていたのか。意外な素顔を紹介する" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_oldmap.jpg" width="1200" /></p>

<p>成人の日、多くの自治体で20歳を迎える若者を祝福するイベントが催されます。成人年齢は2022年に18歳に引き下げられましたが、やはり「20歳」は人生の大きな区切りとして意識されているといえそうです。<br />
さて、世界の英雄や偉人、秀でた能力で名を残した人たちは、20歳の頃、何を考え、どんなことをしていたのでしょうか。</p>

<p>早くも大器の片鱗を覗かせる人がいる一方で、不遇で冴えない時代を過ごしていた人も...。それぞれの「20歳」を紹介します。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2020年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【ホレーショ・ネルソン】若くして軍艦の艦長に。イギリス救国の英雄</h2>

<p>ホレーショ・ネルソンは、イギリス最大の英雄といわれる海軍提督だ。<br />
ブリッグ艦バジャー号の海尉に昇進し、フリゲート艦ヒンチンブルック号の艦長となったのは、ネルソンがまだ20歳の頃であった。</p>

<p>ネルソン最大の栄光は「トラファルガーの戦い」である。イギリス海軍が敗れれば、ナポレオン軍の本土上陸を許してしまう。まさに、国家の命運を握る海戦に、イギリス側は47歳となっていたネルソン提督を送り込んだ。5時間の激闘のすえ、フランス・スペイン連合艦隊を撃破した。</p>

<p>しかし、ネルソンはイギリス国民と勝利を分かち合うことはできなかった。戦闘中に銃弾を受け、戦死してしまったからだ。</p>

<p>救国の英雄となったネルソンを称え、ロンドンのウェストミンスター広場は、「トラファルガー広場」と名付けられ、ネルソンの銅像が、今もイギリスを守るように立っている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【始皇帝】宰相・呂不韋を排斥へ。約2000年続く皇帝支配体制を作りあげる</h2>

<p>中国初の統一国家を作りあげた始皇帝は、名を政（正）という。</p>

<p>当時の中国は、「春秋戦国時代」と呼ばれる戦乱の世で、秦･魏･韓･趙･楚･燕･斉の7国が争いを繰り広げていた。<br />
始皇帝は、もともとは秦の王で、12歳で即位した。とはいっても、実権は相国（宰相）の呂不韋（りょふい）が握っていた。</p>

<p>紀元前239年、始皇帝が20歳の頃も呂不韋は健在で、さらに、呂不韋が後宮に送り込んだ偽の宦官、嫪（ろう）あいが勢力を誇っていた。この頃にはもう始皇帝は、呂不韋らの排斥を画策していたと思われる。</p>

<p>翌年、嫪あいが反乱を起こす（あるいは、反乱を計画しているとの密告を受ける）と、始皇帝はこれを鎮圧。さらに、嫪あいの背後にいた呂不韋を追放し、親政を開始したのである。</p>

<p>その後始皇帝は、魏･韓･趙･楚･燕･斉の6ヶ国を次々と滅ぼし、紀元前221年に中国を統一、約2000年も存続する皇帝支配体制を作りあげたのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【ビル・ゲイツ】ハーバード大学を中退し、友人とマイクロソフト社を創業</h2>

<p>マイクロソフト社の創設者の一人であるビル・ゲイツは、13歳のときからコンピュータのプログラム遊びをしていたという。</p>

<p>20歳のとき、ビルはハーバード大学を中退し、友人のポール・アレンとマイクロソフト社を創業した。</p>

<p>当時のコンピュータは高価で、ごく一部の人が使うものでしかなかった。しかし彼らの信念は、「パーソナルコンピュータは、いずれ全ての職場の机の上、および全ての家庭において有益な道具になる」というものだった。<br />
現在、彼らの信念は現実のものになった。20歳のビルが信じていたものは、間違っていなかったのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【葛飾北斎】プロとして活躍しながらも、自分らしい画風を模索</h2>

<p>葛飾北斎は、70年におよぶ長い絵師人生で、画風を次々と変転させながら、数多くの作品を残した。代表作『冨嶽三十六景』はあまりにも有名だ。</p>

<p>北斎は1778年に、役者絵の大家・勝川春章に入門し、翌年、19歳でプロデビューを果たしている。雅号は「勝川春朗」であった。</p>

<p>20歳の頃は、勝川派の絵師として、役者絵や美人画、黄表紙の挿絵などを描いて活躍していた。ただ、当時は師匠の様式をなぞった画風で、いわゆる北斎らしい絵ではなかった。<br />
天才浮世絵師と謳われる北斎だが、デビュー当時はまだ独自の画風を模索していた時代だった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【ユリウス・カエサル】身の危険を冒しても妻との離別を拒否</h2>

<p>ローマ最大の英雄といわれるユリウス・カエサルだが、20歳の頃はローマを追われ、亡命生活を送っていた。<br />
当時のローマは、民衆派と閥族派の2つの政治勢力の間で争いが起きていた。カエサルは民衆派のキンナの娘コルネリアを妻にしていたことなどにより、民衆派と見られていた。</p>

<p>やがて、閥族派のスッラが勝利し、独裁官に就任する。スッラはカエサルに、コルネリアとの離別を促したが、カエサルはこの命令を拒否。ローマを出て、属州アシアの総督の幕僚の一人となる。</p>

<p>スッラの命令を拒むことはその身の危険をはらんでいた。しかし断固としてはねのけたのである。<br />
ローマ最大の英雄は、発展途上である20歳の頃から、英雄の片鱗を覗かせていたようだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【司馬遷】父親に命じられた20歳の大旅行が、『史記』を不朽の名作に</h2>

<p>『史記』の著者として知られる司馬遷は、20歳の頃に、中国各地を漫遊する大旅行に出ている。この2〜3年にもおよぶ大旅行は、通史の編纂を夢見る父・司馬談の命によるものであった。</p>

<p>司馬談は紀元前110年、息子に通史の編纂を託して亡くなった。司馬遷は、父の意思を受け継いで、その仕事に着手する。</p>

<p>紀元前99年に、司馬遷の言論が当時の皇帝であった武帝の怒りに触れ、宮刑（去勢する刑罰）に処せられるという苦痛を受けることもあった。<br />
しかし、司馬遷はその屈辱に耐え、『史記』130巻を書き上げた。中国最初の通史の誕生である。</p>

<p>『史記』は、各地の地勢や風俗などの記述に、圧倒的な臨場感が溢れる不朽の名作だ。20歳の大旅行で、実際に舞台となる地を訪れなければ、これほどの名作にはならなかったのではないだろうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【ナポレオン・ボナパルト】革命に関心のなかった青年が、「革命の申し子」に</h2>

<p>1789年、ナポレオンが20歳を迎える年に、フランス革命が勃発した。</p>

<p>後に「革命の申し子」などと称されるが、当時は革命にさほど関心がなかった。ナポレオンにとって重要だったのは、フランスに統合された故国コルシカの独立であった。</p>

<p>ナポレオンは、フランス革命をコルシカの独立を取り戻すチャンスととらえ、革命を支援する。<br />
しかし、コルシカ独立運動の指導者パオリと衝突し、一家をあげてフランス亡命を余儀なくされた。</p>

<p>コルシカを追われたナポレオンは、その後軍才を発揮。反革命派に押さえられていたツーロン港の奪回や、パリ王党派が起こした「ヴァンデミエールの反乱」の鎮圧などで活躍。フランス皇帝への道を駆け上がっていったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【アン・サリヴァン】飲んだくれの父親、早くに母親と死別。不遇の少女時代から「奇跡の人」へ</h2>

<p>アン・サリヴァンは、3歳の時に患った病気により、幼少の頃は目がほとんど見えなかった。<br />
父親は飲んだくれで喧嘩っぱやく、子供たちに暴力を振るうこともあった。8歳で母親と死別したのちは施設で過ごした。</p>

<p>学校に入りたいと強く願ったサリヴァンは、14歳でパーキンス盲学校に入る。ここで手術を受けて視力を取り戻し、学校を首席で卒業した。</p>

<p>サリヴァンに奇跡の出会いが訪れたのは、20歳の時である。</p>

<p>聴覚・言語障害者の教育や慈善事業を行なっていたアレグザンダー・グレアム・ベル（電話の発明者として知られる）の紹介で、視覚と聴覚を失ったヘレン・ケラーの家庭教師に推薦されたのだ。</p>

<p>サリヴァンは、まともに会話をすることのできないヘレンをしつけ、言葉を教えこんだ。そんな彼女はやがて「The Miracle Worker」、「奇跡の人」と称されるようになったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【カール・マルクス】泥酔しては乱闘騒ぎ。父親を困らせた浪費癖</h2>

<p>カール・マルクスは、ドイツの経済学者・哲学者・革命家だ。盟友・エンゲルスとの共著『共産党宣言』の結びの言葉、「万国の労働者よ、団結せよ」は有名だ。</p>

<p>大学時代のマルクスは、かなりやんちゃな学生であった。17歳で入学したボン大学時代は浪費が激しく、学生組合の仲間たちと酒場に通いつめ、泥酔しては乱闘騒ぎを起こすという日々を送った。決闘で友人を傷つけ、監禁されたこともある。</p>

<p>父親は、環境を変える必要を感じ、ベルリン大学に転校させた。しかし、マルクスの浪費癖は収まらず、父親の送金はますます増えた。父親は「最も金持ちでも年500ターレルも使わないのに、700ターレルも自由に使う」とマルクスを批判した。</p>

<p>湯水のごとく送金をしてくれていた父親も、マルクスが20歳のときに亡くなった。それでも、金遣いは荒いままで、洋服の仕立代や本代の未払いを訴えられ、母親が尻ぬぐいをしたりしている。<br />
経済学者として知られるマルクスだが、この経済感覚は、死ぬまで20歳の頃と変わらぬままだったようだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【ココ・シャネル】歌手を目指すも落選ばかり。暇つぶしでデザインした帽子が大ヒット</h2>

<p>ココ・シャネルは、20歳の頃には針子として働くかたわら、騎兵隊将校で賑わうカフェで歌手をしていた。<br />
カフェでは、少女のような美貌で人気を博しており、資産家の将校・エティエンヌ・バルサンに出会ったのもその頃である。</p>

<p>ココは歌手としての成功を求め、幾度もオーディションを受けた。しかし、落選ばかりの日々が続き、歌手の道を断念したココは、バルサンの館で暮らしはじめた。</p>

<p>やがて、暇つぶしのようにデザインした帽子が、館に出入りする女性たちの注目を集めるようになった。そこで、バルサンの援助を取り付け、帽子のアトリエを開業した。デザイナー、ココ・シャネルの誕生である。<br />
20歳の出会いが、20世紀を代表するデザイナーを、ファッション界に導いたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【三島由紀夫】自殺を考えるほどの大失恋が、のちに名作を生む</h2>

<p>三島由紀夫は20歳のとき、手痛い失恋を経験している。相手は、友人の三谷信の妹・三谷邦子だ。</p>

<p>三島は、邦子側から結婚の意思を打診されていた。<br />
だが当時、三島はまだ学生の身であり、小説家として食べていける保証が何もなかった。ましてや、8月に終戦を迎えたばかりの食糧難の時代である。家族の負担も考え、三島は学生結婚に踏み切れなかった。</p>

<p>邦子が銀行員と婚約したことを知ったときのショックは大きく、翌年に結婚の知らせを受けると、三島は泥酔し、自殺をも視野に入れていたようである。</p>

<p>創作面にも影響を与えた。後に三島の代表作となる『仮面の告白』に登場する草野園子のモデルは、邦子であるという。20歳の失恋が、名作の誕生に一役買っているのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【トーマス・エジソン】需要がなく、不発に終わった初めての特許</h2>

<p>20歳の頃のエジソンは、電信技師として働きつつも、発明と特許取得の準備に勤しんでいた。<br />
だが、残念ながら、その努力は実らなかった。21歳のとき、初めて特許を取得した「投票記録機」は、需要がまったくなく、不発に終わったからだ。</p>

<p>エジソンはこの失敗に学び、以後の発明は需要が見込まれるものに絞った。そして、世に送り出した数々の発明品が花開き、押しも押されもせぬ発明王となった。</p>

<p>「その方法ではうまくいかないことがわかったのだから、失敗ではなく成功だ」というのは、エジソンのものとされる名言だ。学びを与えてくれた21歳の不発も、失敗ではなく成功だったといえるだろう。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 09 Jan 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>京の三大漬物の一つに数えられる「すぐき」その味わいに京都の生活文化の厚みを知る  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13511</link>
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			<description><![CDATA[京の三大漬物「すぐき」。その生産地は上賀茂周辺に限定されるという。その歴史と製法の特徴とは？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="京の伝統漬物「すぐき」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251222rekisui1.jpg" width="1200" /><br />
写真：京都の伝統漬物「すぐき」。根の部分は半月切りか銀杏（いちょう）切り、葉はみじん切りにして食することが多い。独特の酸味とうま味は、醤油との相性もよく、茶漬けに添える「香のもの」や酒の肴（さかな）として、愛好するファンが多い〔写真提供：民野摂子さん〕</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>長い歴史とともに暮らしのなかで育まれてきた京都の食文化。そのなかで、京料理とともに確固とした地位を確立してきたのが、京漬物である。ことに地域発祥の名産として知られ、土産物の定番ともなっているのが、京の三大漬物と称される「しば漬」「千枚漬」、そして「すぐき」である。</p>

<p>今回、取り上げる「すぐき」は、三大漬物のなかで最も謎が多い漬物といえるかもしれない。というのも、しば漬・千枚漬は、京都以外の地域でも製造されて全国で消費されているが、すぐきは現在も京都市内の上賀茂（かみがも）地域とその周辺でしか生産されておらず、流通量も限られた食品なのである。その事情を探ると、公家文化にもつながる、奥深い逸品であることがわかってきた。</p>

<p>【筆者：兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【編者：歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>京都という都市の暮らしが生んだ京野菜と京漬物</h2>

<p><img alt="京野菜の一つ「すぐき菜」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251222rekisui2.jpg" width="1200" /><br />
写真：京野菜の一つで、蕪（かぶら）の仲間である「すぐき菜」〔写真提供：民野摂子さん〕</p>

<p>内陸部に位置する京の都においては、かつて新鮮な海産物を得ることが難しく、日々の食生活において野菜の占める比重が大きかった。これを背景に品質がよい野菜の生産が図られて、京野菜という格別の野菜が生まれることになる。一方で、寺院の精進料理や茶道の懐石料理などを基礎とする京料理の成立に合わせて、京野菜を素材とする「香のもの」漬物が発達する。</p>

<p>京の町では、近郊農家が出向いてきて野菜を直売する「振り売り」が古くから見られ、なかには自家製の漬物を販売する人たちもいた。また、早くから専門の漬物屋も成立していたと考えられている。「ぶぶ漬け」という地域での呼び名も知られる茶漬けは、日常の朝食であって、副菜には季節ごとの野菜を使った多種多様な漬物が添えられてきた。そのように京都の暮らしとともに育まれてきたのが、京漬物なのであった。そして、そのなかで高級な漬物の一つとして位置づけられてきたのが、すぐきである。</p>

<p>すぐきは、漢字で表記すると「酸茎」と書く。蕪（かぶら）の一種である「すぐき菜」という京野菜を素材とし、根部分と葉を一緒に塩漬けして発酵させた漬物で、すぐき漬ともいうが、一般には単にすぐきと呼ばれることのほうが多い。その特徴は、乳酸発酵による酸味とうま味である。漢字表記もこれに由来すると見られ、古くは「すいくき」と呼んだという記録が残る。</p>

<p>実はこのすぐき。その昔は、庶民がおいそれとは口にすることができない食べ物であった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>限定された地域から、門外不出とされたすぐき造り</h2>

<p><img alt="「あじわい館」の京漬物を紹介するコーナー" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251222rekisui3.jpg" width="1200" /><br />
写真：「あじわい館」の京漬物を紹介するコーナーの「天秤（てんびん）押し」展示。実際に使われているものは、天秤の丸太がもっと長く、先のほうにコンクリートの重石（おもし）が付けられる</p>

<p>すぐき菜は変わった扱いをされる野菜である。漬物のすぐきの素材となるだけで、ほかに転用されることがほとんどない。しかも、漬物のすぐきは、すぐき菜を育てた農家自身が製造も行なっていて、一般的な漬物が野菜を仕入れた漬物業者によって加工されることと一線を画している。漬物の販売業者は、完成品のすぐきを農家から仕入れるのである。</p>

<p>そして、そのすぐき菜の栽培者にしてすぐきの製造者である農家は、京都市北区上賀茂とその周辺にのみ存在している。なぜ、それほどに生産地が限定されてきたのか。その謎の答えは、すぐき菜とすぐき生産の歴史にある。</p>

<p>すぐき菜は、江戸時代初期の慶長年間（1596-1614）に上賀茂神社の社家が屋敷内で育て始めたといい、400年を超える栽培歴があると考えられる。そのことに由来すると思われる「賀茂菜」「屋敷菜」の別名も伝わる。その種子は、猟に出た社家が賀茂河原で自生していた原種を持ち帰ったという説と、宮中からもらい受けたという説があり、定かではない。</p>

<p>栽培の当初からすぐき菜は、漬物のすぐきとして加工され、自家の食用とする以外に、公卿や女官、役所などへの毎年の贈答品として用いられた。その際、「堺重（さかいじゅう）」と呼ばれる、堺産の春慶塗の重箱に入れて届けられたという。</p>

<p>近世中期から後期、上賀茂神社の神職で文化人でもあった賀茂季鷹（かものすえたか）は、江戸の文人・大田南畝（おおたなんぽ）と交流があり、すぐきを進上したことへの南畝からの返礼の狂歌が伝わる。「都よりすいなおんなを給はりて吾妻男のさいにこそすれ」蜀山人（しょくさんじん・南畝の号）。「酸（す）いな御菜（おんな）」が「粋（すい）な女」に掛けられているところに、珍重されていたことが伝わってくる。</p>

<p>近世後期には、すぐき菜の栽培は社家から上賀茂の農家に広まる。しかし、地域の農家に残る文化元年（1804）の社家の口上書には、朱書きで「すぐきはたとえ一本といえども他村へ持出すことを禁ず」と記され、すぐき菜とすぐきの生産が、門外不出の規制のもとにあったことがわかる。当時の農家は、収穫したすぐき菜を上賀茂神社境内の御手洗川で洗ったといい、社家の管理下での製造であったのであろう。近世を通して、すぐきという漬物は、上賀茂神社のもとでのみ造られ、その寄贈だけでしか得られない、希少で価値ある食品であったのである。</p>

<p>そのすぐきが、一般に販売されるようになるのは、明治中期まで時代が下る。きっかけは明治26年（1893）、上賀茂地区の深泥池（みどろがいけ）周辺の農家を焼失させた大火であるという。その復興費捻出のために、地元農家がすぐきを売り出したのが、商品化の端緒とされる。</p>

<p>深泥池の農家は古くから野菜の振り売りに出ていた地域であり、それを担った「上賀茂女（かみがもめ）」で知られた。紺の着物に紺の三幅前掛けを腰にからげ、白い脚絆（きゃはん）・足袋（たび）という大原女や白川女に準ずる衣装で、すぐきを入れた堺重を頭に乗せ、「すーぐーき、いらんかえー」と呼びかけて売ったという。</p>

<p>明治36年（1903）、大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会には、深泥池の農家有志がすぐきをもって出展。第3等賞に入選し、すぐきの存在を世間に広く知らしめた。そうした販路拡大に懸ける農家の尽力と、明治末期から大正時代にかけての鉄道交通の発展によって、大阪・神戸、さらには名古屋・東京へと、すぐきは進出。高級料亭で供されるなど、京漬物の名品としての地位を獲得していくのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>古き伝統を支える、京都の人々の進取の精神</h2>

<p><img alt="京の食文化ミュージアム「あじわい館」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251222rekisui4.jpg" width="1200" /><br />
写真：京の食文化ミュージアム「あじわい館」。京都の食を支える中央卸売市場・京都市中央市場内の京都青果センタービル3階のフロアにある。展示や映像で京の食文化を紹介するほか、民野さんたち「食の語り部」による講演や料理教室なども開催している</p>

<p>すぐきの素材であるすぐき菜は、一般に8月下旬から9月上旬にかけて播種（はしゅ）し、11月下旬から12月中旬に青果を収穫する。種子はすべて、農家が代々自分たちで採取してきたものが使われている。かつては上賀茂と周辺でのみ作付されてきたが、宅地化が進むなかで、市内各地のほか、亀岡市や京丹波町といった市外の農家と契約するなどして栽培地を広げている。</p>

<p>すぐきを製造する農家は、規模の大小を含めて現在は70戸ほど。その農家に集められたすぐき菜は、皮をむき面取りして形を整え、大型の樽（たる）に塩とともに入れて一晩、荒漬けにしたのち、小分けして本漬けを行なう。</p>

<p>その本漬けの樽に掛ける重しには、「天秤押し」という方法が用いられる。長さ3メートルから4メートルの丸太棒の先に重石をくくり付け、梃子（てこ）の作用を使って圧力を掛けるのである。重石の約10倍、300キログラムほどの圧力になるという。ただし、30年ほど前に専用のプレス機が開発され、現在はそれを使用する農家も多い。この強い圧力を掛けての漬け込みを7日から10日間ほど続け、これを1次発酵とする。</p>

<p>すぐき製造の大きな特徴とされるのが、2次発酵を用いることである。本漬けの樽を、40度前後に加温した「室（むろ）」へと移し、ここで重石を載せて1週間ほど置き、乳酸発酵を促すのである。実は、この室での2次発酵が導入されたのは、大正時代初期のこと。歳暮や迎春などの需要に合わせて速成するために考案されたもので、深泥池の農家が炭火を使って加温発酵を最初に始めたといわれる。地元では深泥池大火の際に焼け残った漬け樽のなかで、すぐきの熟成が進んでいたことから思いついたと伝承されている。</p>

<p>室の導入が定着したことで、現在、早いものは11月下旬、主には12月から新物が流通するすぐきは、京都の冬を代表する食品となっている。もっとも、以前はすぐきを樽に漬け込んだまま長く貯蔵し、春から初夏に取り出して食した。この製造法を「時候（じこう）なれ」と呼び、乳酸発酵がより進むことで、酸味が強く、根も葉も鼈甲（べっこう）色のすぐきとなる。明治時代までは一般的であった、この時候なれのすぐきは、いまも一部の農家で製造されている。</p>

<p>「私は京都の出身ではないのですけれど、子どもの頃からすぐきを食べることがあって、当時からたいへん好きでした。時候なれのものも大好きです。すごいなと思うのは、すぐきを漬け込むのに塩以外の調味料を一切使わず、複雑な深い味が出てくることです。初めてそれを知ったときは、えぇっと思ったものです」と語るのは、管理栄養士で野菜ソムリエproの肩書を持つ民野摂子さん。</p>

<p>民野さんは、京の食文化ミュージアム「あじわい館」で「食の語り部」として活動されていて、京漬物にも詳しい。今回の記事は、民野さんの談話と、教えていただいた資料・京都市農業協同組合「京の食文化すぐき調査研究業務報告書（令和7年3月）」を参考にしたものである。</p>

<p>実は、すぐきは強い酸味から京都の人たちの間でも好き嫌いが分かれる食品だと、民野さんは教えてくれる。一方で、製造する農家ごとに味に個性があり、それにファンが付くという一面もあるらしい。すぐきは「通」の漬物ともいえるのかもしれない。</p>

<p>ちなみに、それを広く一般向きに漬物業者がアレンジした商品が、量販店でも見かけるパックになった「刻みすぐき」なのだという。調味料などを加えた製品で、本来のすぐきとは別物といわれることもあるが、トレンドのなかで受け入れられて販路を広げている。</p>

<p>平成5年（1993）、京都パストゥール研究所理事長で医学博士の岸田綱太郎氏が、すぐきから免疫機能を促す作用を持つ植物性乳酸菌の一種「ラブレ菌」を発見。この乳酸菌は生菌のまま腸に届くといい、継続的な摂取での整腸や抗ストレス作用が確認され、すぐきが健康食品として脚光を浴びることになった。</p>

<p>「後継者不足ですぐき農家も減少傾向にあるなか、新たな需要が生まれることで、支援につながれば」と、期待を語る民野さん。自身も需要喚起に向けて、すぐきをそのまま食べるだけではなく、「料理の具」兼「調味料」と位置づけて活用することを提案している。おすすめは、刻んで使ったチャーハンやパスタ・餃子。スライスして合わせたカプレーゼやアボガドとのミルフィーユも美味とか。</p>

<p>「すぐき製造での室の導入に見られるように、京都の食文化は、伝統をただ守るだけではなくて、進取の精神に裏打ちされた新たなアプローチを加えながら、今日に引き継いできたもの」と民野さんはいう。「すぐき農家の皆さんも、それぞれに工夫を重ね、うちのが一番だというプライドを持って生産されています。それはやはり、尊重していきたい文化だなと思います」。</p>

<p>寒くなり始める時期、上賀茂の農家にすぐきの天秤押しの樽が並ぶ。その風景は、京都の冬が来たことを告げる風物詩でもあると、民野さんは話す。すぐきの新物が出回る12月上旬、すぐき農家有志が上賀茂神社に「樽みこし」を担いで奉納する「すぐき道中」が催され、年末の「終（しま）い弘法」「終い天神」では、すぐきを売る出店が人を集める。上賀茂女を引き継いで、すぐきを振り売りする「賀茂のおばさん」も健在である。そこには、新年を心待ちにする町の気分も宿る。すぐきを求めて、年末年始の京都を歩いてみるのも季節の楽しみではなかろうか。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 08 Jan 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>天才たちの20歳　ニュートン、ブラームス、ラ・ファイエットの人生を変えた「運命の出会い」  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13540</link>
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			<description><![CDATA[偉人たちはどんな「20歳」を過ごしたのか。ニュートン、ブラームス、ラ・ファイエットの20歳を取り上げて紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="世界の偉人たちは20歳の頃、どんな時間を過ごしていたのか" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book_3.jpg" width="1200" /></p>

<p>成人の日、多くの自治体で20歳を迎える若者を祝福するイベントが催されます。成人年齢は2022年に18歳に引き下げられましたが、やはり「20歳」は人生の大きな区切りとして意識されているといえそうです。</p>

<p>さて、世界の英雄や偉人、秀でた能力で名を残した人たちは、20歳の時、何を考え、どんなことをしていたのでしょうか。物理学者のアイザック・ニュートンや作曲家のブラームス、フランスの軍人ラ・ファイエットは、人生を大転換させる運命の出会いがあったようです。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2020年2月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【ヨハネス・ブラームス】ブロンドの美青年が過ごした、シューマンとその美しき妻との日々</h2>

<p>『ハンガリー舞曲』などの作曲で知られるブラームスの人生を決定づけたのは、20歳のときに出会った、作曲家であり、音楽評論家でもあるロベルト・シューマンと、シューマンの妻・クララである。クララは見目麗しく、「天才少女」と謳われた名ピアニストであり、作曲家であった。</p>

<p>1853年9月30日、まだ無名であったブラームスは、知人の紹介で、デュッセルドルフのシューマン夫妻の家を訪ねた。ブラームスが20歳、シューマンが43歳、クララは34歳であった。</p>

<p>ブラームスの作品とピアノ演奏に対し、クララは「神から遣わされた天才の一人」と称賛し、シューマンは音楽雑誌に寄稿して絶賛した。その評論はドイツ全土で読まれ、大きな反響を巻き起こしたという。ブラームスにとってシューマンは、世に出る足掛かりを作ってくれた恩人なのだ。</p>

<p>こうして、ブラームスとシューマン夫妻のつきあいが始まったのだが、当時、クララの置かれていた環境は、けっけして恵まれたものではなかった。<br />
クララは流産を含めて10回も妊娠し、8人（ブラームスと出会ったときは7人）の子供を出産している。妊娠と母親業で大変なうえに、夫のシューマンは精神が不安定で、しかも悪化の傾向にあった。</p>

<p>くわえて、現代でこそ名高いシューマンだが、当時の年収は、クララの1回の演奏旅行での収益よりも少なかった。つまり、クララが家計を支えていたのだ。</p>

<p>多くの役割を背負い、壊れつつある夫を支えるクララの瞳に、20歳のブラームスの姿は、どのように映ったのか。<br />
若き日のブラームスは、「絵のように美しい」と称された、ブロンドの美青年であったという。</p>

<p>やがて、シューマンの精神状態はさらに危うくなっていく。ブラームスがシューマン宅を初めて訪れてから約5ケ月後、シューマンはライン川に飛び込み、自殺を図った。</p>

<p>幸い一命は取りとめたが、シューマンは自らの意志で、精神科医のいる療養所に入った。そのとき、クララは8番目の子供を妊娠中だった。ブラームスは、シューマン宅に滞在し、クララに寄り添ったという。</p>

<p>入院から2年と5ケ月が経った頃、シューマンは入院先で亡くなった。享年46であった。</p>

<p>シューマンの死後も、ブラームスとクララが結婚することはなかった。不倫説の残る2人であるが、その真偽は不明である。<br />
その後、ブラームスは独身を通したまま40年以上もクララと親しい交流を続け──クララが亡くなった約10ケ月後に、永遠の眠りに就いた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【ラ・ファイエット】フランスの名門貴族の青年は、なぜアメリカ独立戦争に参加したのか</h2>

<p>ラ・ファイエットは、フランスの軍人、政治家である。<br />
彼の一族は、何人も高名な軍人を輩出した名門貴族で、しかも裕福であった。ベルサイユ宮殿にも出入りでき、マリー・アントワネットに「ダンスが下手ね」と笑われたという。</p>

<p>ラ・ファイエットの運命を変えたのは、20歳の年に参戦したアメリカ独立戦争である。アメリカ東部沿岸にある13の植民地の人々が、イギリスの支配に反発し、独立を求めて立ち上がったのだ。</p>

<p>ラ・ファイエットは支援を求めるアメリカ人たちとパリで知り合い、「私もアメリカの自由と独立のために戦おう」と決意。国王の渡航禁止命令を振りきって自費で船を購入し、兵団を仕立てた。</p>

<p>1777年4月、20歳を目前にしたラ・ファイエットは、妻を残して渡米する。<br />
アメリカでは大歓迎を受け、アメリカ革命軍の総司令官にして、後に初代アメリカ大統領となるジョージ・ワシントンとの知遇を得た。</p>

<p>ラ・ファイエットは、アメリカ軍とともに各地を転戦して活躍。その勝敗を決定づけた1781年の「ヨークタウンの戦い」にも参加し、大勝を収めると、同年の暮れに帰国した。</p>

<p>やがて、フランスも革命へと突入していく。1789年、ラ・ファイエットは三部会招集を主張して貴族身分の代表となるが、いち早く平民の第三身分に合流し、アメリカの独立宣言に影響を受けた人権宣言案を提案した。</p>

<p>革命に流れが傾いてくると、パリ市民たちは「軍隊が出動し、パリを制圧するのでは？」とパニック状態に陥り、「国民衛兵隊」を結成してバスティーユ牢獄を襲撃した。ラ･ファイエットは、その翌日に市民に推される形で国民衛兵隊司令官に就任する。<br />
当時32歳。白馬に跨がる軍服姿は非常に凜々しく、人々はその勇姿に熱狂した。革命のヒーローと言っても、過言ではないだろう。</p>

<p>フランスでは、アメリカ（新大陸）、ヨーロッパ（旧大陸）の「両世界の英雄」と称えられた。</p>

<p>しかし、ヒーローだった時間は短かった。1791年、群衆への発砲を命じた「シャン･ド･マルスの虐殺事件」でその人気は失墜し、国民衛兵隊司令官を辞職した。それでも彼は、下院議員として反政府派に属すなど、政治的立場を変えながら、その後も理想を追い続けた。</p>

<p>ラ・ファイエットの波瀾万丈の人生は、1834年5月20日に幕が下ろされた。享年76。両世界の英雄の死に際して、フランスでは国葬が営まれ、アメリカでは、上下両院が30日間の喪を宣言し、哀悼の意を表した。<br />
ラ・ファイエットは晩年を迎えても、額に一本の皺もなく、若々しかったという。アメリカの自由のために海を渡った20歳の頃のように、理想を追い続けていたからなのかもしれない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>【アイザック・ニュートン】&ldquo;最下層&rdquo;にいた学生生活を変えた、ある講座の新設</h2>

<p>ニュートンにとって、大学の頃の思い出は、あまりいいものではなかったかもしれない。名門ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの学生ではあったものの、学生階級の最下層に位置する免費生であったからだ。</p>

<p>当時のトリニティ・カレッジには、私費で授業料を収める自費生、すこぶる裕福な特別自費生、奨学金が支給される給費研究生の他、召使いのような仕事をして、学費や生活費を賄う免費生と準免費生が存在した。</p>

<p>免費生と準免費生は、朝起こしたり、靴を磨いたり、荷物を運んだりと、他の学生や特別研究員に下僕のごとく仕えねばならなかった。大食堂では給仕を務め、残り物で食事をしたという。</p>

<p>この身分と、元来の内向的な性格のせいか、ニュートンは友人もおらず、いつも憂鬱な容貌（メランコリ・カウンテナンス）をしていたと伝わる。学問への情熱だけが、その頃の支えだったのかもしれない。</p>

<p>しかし、20歳になったニュートンに、大きな転機が訪れる。「ルーカス講座」と呼ばれる数学講座がカレッジに新設され、初代教授にアイザック・バローが就任したのだ。<br />
ニュートンより12歳年長のバローは、抜群のギリシャ語力を誇り、ラテン語やヘブライ語も操る古典学者であり、最も重要な神学者でもあり、高い評価を受ける数学者でもあった。</p>

<p>天才は天才がわかるというが、バローはニュートンの天賦の才を見抜いたようだ。研究に役立ちそうな論文を送ったり、ニュートンの論文が優れた数学者たちの間で回覧されるきっかけを作ったりと、惜しみなく支援した。後にニュートンが製作した反射望遠鏡を、大晦日に王立協会（イギリスの代表的学術団体）へ届けたのもバローである。</p>

<p>つまり、バローという、よき理解者であり、よき支援者との出会いが、天才物理学者・ニュートンを世に送り出したのである。</p>

<p>くわえてバローは、1669年10月に、ルーカス教授職をニュートンに譲っている。ニュートンは26歳の若さでルーカス教授となり、研究に没頭できる基盤を手に入れた。これによって研究は進み、44歳で出版した『プリンキピア』は近代科学の教科書となった。</p>

<p>晩年、ニュートンは「私は海辺で遊ぶ少年にすぎない。普通よりもなめらかな小石や、かわいい貝殻を見つけて気晴らしをしているものの、真理の大海はすべてが発見されぬまま、目の前に広がっている」と語ったという。</p>

<p>この言葉通りニュートンの学問への情熱は衰えず、84歳で亡くなる半月前まで王立協会の会合に出席している。<br />
最期の瞬間まで真理の大海を見つめ続けたニュートンは、憂鬱な容貌の免費生であった20歳の心を、終生持ち続けたのだ。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 07 Jan 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>豊臣秀長なくして「墨俣一夜城」は実現しなかった？秀吉の出世を支えた弟の戦略  真山知幸（伝記作家、偉人研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13346</link>
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			<description><![CDATA[豊臣秀吉が出世街道を歩み始めた頃、秀吉の弟・秀長はいかにして兄を補佐したのか。「墨俣一夜城」の築城、金ヶ崎の戦いなどを中心に解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="豊臣秀吉" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_hideyoshi2019G.jpg" width="1200" /></p>

<p>天下人となった豊臣秀吉だが、その偉業を成し遂げた背景には、弟・豊臣秀長の存在が不可欠であった。農民出の秀吉が出世街道を歩み出したエピソードとして知られる「墨俣一夜城」や「稲葉山城攻略」には秀長の活躍があったという。秀吉はいかにして道を切り拓いたのか。そして秀長はどのように兄を支えたのか。親しみやすい文体で定評のある伝記作家が解説する。</p>

<p>※本稿は、真山知幸著『戦国最高のNo.2　豊臣秀長の人生と絆』（日本能率協会マネジメントセンター）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>『武功夜話』で語られる秀長像</h2>

<p>「乱世にあって名を後世に伝えようと思っても、頼みとする者がいなくては心細い。どうか鋤を捨てて、わしに力を貸してほしい！」</p>

<p>弟の豊臣秀長を説得しようと、秀吉はそんな決めセリフを言ったらしい。<br />
このエピソードが載る『武功夜話』は誤りが多い史料なので、鵜呑みにすることはできないが、秀長が兄にいざなわれて、一大決心をしたことは確かだろう。</p>

<p>秀長は農民から侍となり、兄のそばで生きる道を選ぶこととなった。信長に仕える兄のもとで、秀長はどんなふうに武士としての下積み経験を積んだのか。それもよくわかっていないが、先の『武功夜話』には、秀長に関するいくつかの記述がある。創作の可能性も高いが、秀長が後世でどう見られていたか、という点では参考になるかもしれない。</p>

<p>『武功夜話』は愛知県の旧家・吉田家に伝わる家伝文書群『前野家文書』の一つ。もっともよく知られているのが「墨俣一夜城」の逸話だろう。</p>

<p>永禄9（1566）年、信長は美濃を攻略するために、敵地の墨俣に城を築くことを家臣たちに命じたが、美濃を支配する斎藤方の武士に妨害されて、老臣2人が失敗。それを見た秀吉が「おそれながら」と名乗り出て、墨俣城の築城を引き受けることとなった。<br />
秀吉は、斎藤方の攻撃から防御するチームと、築城するチームに分け、効率的な作業ルールを決めた。<br />
それを守らせたところ、たった一夜で城を築いてしまった...として語り草になっている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>静かなる情熱がピンチを打開</h2>

<p>この逸話は『甫庵太閤記』にて「信長の命で秀吉が築城した」という記述があり、その城が『絵本太閤記』では「黒俣城」として紹介されている。</p>

<p>さらに『武功夜話』では、秀吉がこのプロジェクトに成功した背景に、弟・秀長の活躍があったとしている。<br />
墨俣に城を築くには、尾張と美濃の国境を流れる木曽川沿いに勢力を持つ国衆「川並衆」の協力が必要となる。</p>

<p>「なんとか力を貸してもらえないだろうか」<br />
秀吉は事情を説明しながら、川並衆を率いる蜂須賀小六をそんなふうに説得した。</p>

<p>しかし、小六の屋敷に足しげく通っても、色よい返事はもらえなかった。敵地で身をさらして城を建てることのリスクを考えれば、やすやすと引き受けられないのは当然のことだ。<br />
なかなか首を縦に振らない小六に、口八丁の秀吉も万策が尽きてしまう。重苦しい雰囲気が流れるなかで、口を開いたのが、秀長だった。</p>

<p>「私ごとき者が申すのもおこがましい次第ですが、この度、兄上が墨俣での築城を引き受けた以上、もちろん、成功しなかったときは一命もないものと覚悟の上です」</p>

<p>このプロジェクトに命運がかかっていることを強調しながら、秀長は斎藤氏の居城である稲葉山城を何度か攻撃してきたことについて、小六らの尽力があったからこそとして、こう感謝を述べている。</p>

<p>「先年、稲葉山攻めの折りには舎兄のみがご褒賞をいただき面目をほどこしたが、我ら兄弟がさしたる働きをした訳ではなく、これらは諸兄の活躍のお陰であった。この度の大役を成功させるために、ぜひとも御両所の御助けをお願い申す」</p>

<p>そんな気持ちが込もった言葉に、小六の心は動かされたようだ。短くこう答えたという。<br />
「墨俣のことお引き受け申す」<br />
小六の協力を取り付けたことで、秀吉たちは短期間に墨俣城を築くことに成功。これ以後、小六は秀吉家臣団のなかで活躍する。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>稲葉山城攻略で武功を立てる</h2>

<p>どこまでが本当にあったことかどうかはわからない。そもそも、黒俣城の存在が疑問視されている。確かな史料に全く取り上げられていないからだ。仮に存在していたとしても、城というよりも、せいぜい砦くらいものだったのではないか。そんな見解もあるようだ。</p>

<p>そして「墨俣城伝説」の翌年、永禄10（1567）年8月に、秀長が武士として最初の武功を上げた、といわれている。</p>

<p>なんでも稲葉山城を攻める際に、まずは秀吉が二の丸へと攻め込んで米蔵に放火すると、それを合図に表で待っていた秀長が一気に城へと攻め上がって攻略したという。事実ならば、秀長は28歳で武功を立てたことになる。</p>

<p>だが、逸話のもととなっている『絵本太閤記』は、江戸時代に書かれたもので、信憑性が低い。「墨俣城伝説」と同様に、秀吉と秀長の名コンビぶりが、いかに後世で語り継がれたかということを示しているに過ぎない。</p>

<p>それでも、のちに秀長が秀吉の名補佐役として常によい働きをしたことを思えば、若き下積み時代に、その萌芽が見られたとしても不思議ではない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>決死の覚悟で殿を果たした「金ヶ崎の戦い」</h2>

<p>織田信長は永禄10（1567）年、「稲葉山城の戦い」で斎藤龍興を降伏させると、美濃を支配下に置く。<br />
秀吉が一夜で築いたという墨俣城がその拠点となった...というのは、本当のことかわからないが、秀吉が美濃攻略に貢献したことは確かだ。</p>

<p>斎藤龍興が内紛の対応に追われている隙をついて、秀吉は信長に命じられ、斎藤方の武将である美濃の坪内利定に近づき、味方に引き入れた。続いて同じく美濃の大沢基康を懐柔することにも成功。信長から働きぶりが認められることとなった。</p>

<p>坪内利定らに知行充行状が出されたときに、その添状には「木下藤吉郎秀吉」の名が記されている。このときには、領地を保証できるだけの立場に、すでになっていたということだ。</p>

<p>勢いに乗る信長は翌年、京（都）に上洛して室町幕府の後見人の地位を確立。2年後の永禄13（1570）年には、大軍を率いて、朝倉義景率いる朝倉家に攻め入っている。上洛を促しても一向に来ない義景に、信長が業を煮やしたのだ。</p>

<p>このときも、秀吉は信長の期待にしっかりと応えた。越前の敦賀で手筒山城を落とすと、続いて金ヶ崎城へ。城主の朝倉景恒を相手に、得意の交渉術で開城を促して成功している。着実に結果を残す秀吉。その活躍ぶりを間近で見ていた秀長は、さぞ頼もしく思ったことだろう。</p>

<p>だが、ここで思わぬ展開が待っていた。近江の浅井長政が、まさかの謀反を起こしたのである。</p>

<p>信長は妹のお市を長政に嫁がせていたため、裏切りが常の戦国時代とはいえ、予想できなかったらしい。浅井の裏切りによって、織田軍は退路を断たれてしまい、一転して窮地に陥った。</p>

<p>どうにか切り抜けなければと、京に逃げ帰ることになった信長。信長を無事に退却させるためには、最後尾で戦いながら逃げる「殿（しんがり）」が必要だ。</p>

<p>一体、誰が「殿」を務めるのか――。最も危険な任務であることは言うまでもないが、秀吉は志願してその役目を引き受けたという。</p>

<p>秀吉は最後尾で朝倉勢の攻撃をしのぎながら、無事に織田軍を退却させた。これは「藤吉郎の金ヶ崎退き」という、秀吉の功績として語り草になっている。そこでは、兄と命運をともにすると決めた弟の秀長もまた、死力を尽くしたと考えるのが自然だろう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀長は大敵と遭遇しても、顔色ひとつ変えることがない</h2>

<p>殿軍の奮戦によって危機から脱した信長は、秀吉に褒美として黄金30枚を与えている。その後、岐阜にいったん戻って兵を整えたのち、浅井氏に報復するため、大軍を率いて浅井長政の居城・小谷城近くへと攻め込んだ。</p>

<p>徳川家康の軍と合流した信長は、浅井・朝倉軍を撃破。小谷城まで一気に落とすのは難しいと判断すると、小谷城の南方拠点である横山城を奪い、そこに秀吉を置いて、にらみを利かせた。</p>

<p>そして天正元（1573）年の織田軍による小谷城攻めの際、秀吉は弟の秀長を一番手とする8000の兵を率いて城に攻め上がり、長政を自害に追い込んだといわれている。</p>

<p>浅井長政らが滅亡すると、秀吉はいったん小谷城に入ったのち、交通が便利な琵琶湖湖岸の「今浜」を「長浜」と改名して築城。秀吉はこの長浜城で「一国一城の主」となった。</p>

<p>信長の期待に秀吉が応えたように、秀長も兄の秀吉の期待に十分に応えたからだろう。このときに、長浜城に新たな拠点を置く秀吉から秀長に、伊香郡に一定の所領が与えられた、と見られている。金ヶ崎の戦いで信長を生還させ、自分たちも生きて逃げ切ったことで、秀吉と秀長の将来は大きく開けたといえそうだ。</p>

<p>『武功夜話』はその真実性はともかく、後世が歴史人物をどんなふうにみていたかがわかる...そのように書いたが、戦場での秀長については、こんな評価をしている。</p>

<p>「小一郎様（秀長のこと）は大敵と遭遇しても、顔色ひとつ変えることのない胆力の御仁であった」</p>

<p>そんな胆力が「藤吉郎の金ヶ崎退き」でも発揮されたのは想像に難くない。</p>
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						<pubDate>Wed, 07 Jan 2026 06:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[真山知幸（伝記作家、偉人研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉を天下人にした弟・豊臣秀長　正反対の兄弟はなぜ仲違いしなかったのか  真山知幸（伝記作家、偉人研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13344</link>
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			<description><![CDATA[豊臣秀吉とその弟・秀長の出自とは。そして彼らの性格は？謎に包まれた幼少期の姿を探る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="「太平記拾遺-四-大和大納言秀長」（部分、東京都立中央図書館蔵）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/toyotomihidenaga.jpg" width="1200" />「太平記拾遺 四 大和大納言秀長」（部分、東京都立中央図書館蔵）</p>

<p>天下人となった豊臣秀吉だが、その偉業を成し遂げた背景には、弟・豊臣秀長の存在が不可欠であった。思うがまま自由奔放に生きた秀吉と、マジメで協調性のある弟・秀長。はたして彼らはどんな幼少期を過ごしたのか。そして、ふたりが強い信頼関係で結ばれた理由とは。親しみやすい文体で定評のある伝記作家が解説する。</p>

<p>※本稿は、真山知幸著『戦国最高のNo.2　豊臣秀長の人生と絆』（日本能率協会マネジメントセンター）より一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>型破りな兄・秀吉の弟として貧しい家に生まれる</h2>

<p>「我ら弟の小一郎め同然に心安く存じ候」</p>

<p>わが弟の小一郎と同じように心から信頼している─。<br />
天正6（1578）年7月23日、織田信長のもとで豊臣秀吉が、播磨攻略を進めているときに書いた手紙の一節だ。</p>

<p>手紙を出した相手は小寺孝高。のちの黒田孝高つまり、黒田官兵衛である。<br />
黒田官兵衛といえば、豊臣秀吉を天下統一へと導いた天才軍師として知られる。毛利攻めに協力していた官兵衛に対して、秀吉が改めて「心から信頼しているぞ」とメッセージを送ったわけだが、このときに引き合いに出された「小一郎」こそが、秀吉の弟・豊臣秀長である。</p>

<p>いかに秀長が秀吉に信頼されていたかが伝わってくるが、秀吉が弟の存在に触れたのは、この書状が初めてのこと。それまでの秀長の足取りについては、わかっていないことが多い。</p>

<p>豊臣秀長は天文9（1540）年、あるいは、天文10（1541）年に生まれたとされている。<br />
幕末に編纂された『系図纂要』をもとにすれば天文9（1540）年が生年となるが、奈良興福寺の塔頭・多聞院の僧が書き継いだ『多聞院日記』によれば天文10（1541）年に秀長は生まれたことになる。<br />
のちに秀長が重い病に伏せたときに、平癒を祈って天正18（1590）年10月に都状が出されている。そこに「秀長五十一」とあることから、数えで51歳だとすれば、天文9（1540）年が生年となる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>秀吉は継父に愛されずに育った？</h2>

<p>秀長は兄の秀吉と同じく、のちに「大政所」と呼ばれることになる「なか（俗名）」を、母として生まれた。だが、父親についてははっきりしていない。<br />
秀吉と同じく木下弥右衛門の子か、それとも弥右衛門の死後になかが再婚したとされる竹阿弥（筑阿弥）の子か。</p>

<p>江戸時代の儒医・江村専斎の随筆『老人雑話』によると、天正11（1583）年の「賤ヶ岳の戦い」で、失態をおかした弟・秀長を、こう面罵したという。</p>

<p>「御身とわれは、種違ったり！」</p>

<p>ここから秀長の父は秀吉とは異なり、竹阿弥だったとする見方も強い。<br />
もしそうであれば、母・なかの再婚相手である竹阿弥が、実子である秀長をかわいがり、秀吉は居心地の悪さを感じていたとしてもおかしくない。<br />
現に秀長が物心をついた頃には、3歳年上の兄・秀吉は実家に寄りつかなくなっていた。一体、秀吉は何をしていたのだろうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>根気がなく、すぐに投げ出してしまう秀吉</h2>

<p>豊臣秀吉は天文6（1537）年、尾張国愛知郡中村郷で、木下弥右衛門の長男として生まれた。<br />
若い頃は「木下藤吉郎」と名乗ったが、ここではのちの名である「秀吉」で話を進めていこう。</p>

<p>17世紀後半に成立した土屋知貞の『太閤素生記』によると、秀吉の父・弥右衛門は織田軍の鉄砲足軽だったが、戦場で負傷して百姓をしていたという。<br />
だが、ポルトガル人によって鉄砲が伝来したのは天文12（1543）年で、その年に、弥右衛門が死亡していることを考えると、計算が合わない。鉄砲足軽ではなく、ただの足軽だったのかもしれない。</p>

<p>その一方で、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『甫庵太閤記』や、ルイス・フロイスの『日本史』などでは、秀吉は貧しい百姓の子だったとされている。</p>

<p>秀長ほどではないにせよ、秀吉も幼少期の足取りがつかみにくい。「秀吉」という名前が文献に記されるのは、28歳以降のこと。それまでの秀吉の半生は、さまざまな説が入り乱れており、実像が定かではない。<br />
28歳までは、あくまでも比較的信憑性の高そうな話をまとめることになるが、秀吉の人生を先に進めよう。</p>

<p>秀吉が父・弥右衛門を亡くしたのは、7歳のときだったという。同年に母のなかは竹阿弥と再婚したらしい。</p>

<p>幼い秀吉は光明寺へと修行に出されるが、いたずらがひどくて追い出されたという。そこからは半ば放浪生活となり、いくつかの職業を転々とする。だが、どれも長続きしなかった。<br />
そんな息子を見かねた母は、15歳頃の秀吉に銭1貫目を渡して「これで身を立てなさい」と家から追い出したといわれている。</p>

<p>弟の秀長は、このとき12歳。日々農作業を手伝っているなかで、突然帰ってきてはまた出ていく兄・秀吉の背中をどんな気持ちで見つめていたのだろうか。</p>

<p>その後、秀吉は木綿針を売りながらなんとか生計を立てて、駿府の今川義元のもとを目指す。<br />
とりあえず力のある戦国大名に自分を売り込もうと考えたのだ。<br />
そして、今川義元の家臣である松下之綱に仕えたとされている。</p>

<p>だが、やっぱりここでも長続きはせずに、故郷へ帰っている。どうもすぐに投げ出してしまうところが秀吉にはあったようだが、このときは先輩や同僚からのいじめがあったとされている。馴染めない職場に早々と見切りをつけた決断は、その後の秀吉の人生をふまえれば正解だろう。</p>

<p>再び故郷でぶらぶらする秀吉。<br />
『太閤素生記』の記述によると、そんなときに、地元の友人のツテで、織田信長に仕えることになった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>距離感があるからこそ違いを受け止められる</h2>

<p>秀吉が「信長のもとで仕える」という選択をとったことで、秀長の人生も大きく変わることになる。もちろん、本人はそんな未来を想像すらしなかっただろう。</p>

<p>大言壮語を吐いて出ていっては、しばらくして戻ってきて、また野心を抱えて出ていく。<br />
汗水たらして家業を手伝っていたであろう秀長からすれば、そんな兄に反発を覚えてもおかしくはない。だが、そもそも一緒に暮らしていないから、そんな気持ちにすらならなかったのが、実情だろう。</p>

<p>思うがまま自由奔放に生きて大人たちをも振り回す兄、マジメで協調性のある弟─。<br />
そんな兄弟の違いは、織田信長と弟の信行にも見られた。</p>

<p>幼少期においては、荒々しい信長と比較しては、品行方正な信行のほうを周囲は褒めたともいわれている。その結果、織田家の家督を継いだのち、信長は信行を死に至らしめている。</p>

<p>貧しい生まれの秀吉と、織田家の嫡男として生まれた信長では家柄がまるで異なり、事情も全く異なる。だが、幼少期からともにする兄弟が、周囲から何かと比較されるのは今も昔も同じ。距離が近すぎるがゆえに確執が起きやすいことを思うと、秀吉と秀長のような距離感は、必ずしもマイナスだったともいえなさそうだ。</p>

<p>秀吉と秀長の関係はイメージとしては、兄弟というよりも、たまに合う親戚。例えば、従兄弟との関係に近かったのではないか。</p>

<p>思い浮かぶのは、幕末から明治・大正・昭和を駆け抜けた渋沢栄一と、従兄弟の尾高長七郎の関係だ。渋沢は先んじて江戸に出て、尊王攘夷活動に励む長七郎のことを尊敬し、その土産話を聞いては刺激を受けて、自分も尊王攘夷活動に傾倒することになる。</p>

<p>秀長もまた、行き詰まるとたまにふらっと帰ってくる兄の秀吉に対して、悪感情よりも好奇心が先だったことだろう。話半分に聞いても、秀長からしてみれば、兄の冒険譚は刺激的だったに違いない。</p>

<p>それでいて、あくまでも兄弟がゆえに、渋沢が従兄弟の長七郎に抱いたようなリスペクトには至らず、「俺も！」とまではならなかった。兄の行動にどこか呆れながらも「自分とは生き方が違う人だ」と距離感を持って、冷静に愉快な兄の存在を捉えられたのではないだろうか。</p>

<p>兄弟でありながら、幼少期をともに「過ごさなかった」、秀吉と秀長。そのことが、のちに2人を強固に結び付けることになる。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/toyotomihidenaga.jpg" />
						
						<pubDate>Sun, 04 Jan 2026 09:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[真山知幸（伝記作家、偉人研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>朝ドラ『ばけばけ』 小泉八雲は妻・セツに英語を話してほしくなかった？その真意  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13455</link>
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			<description><![CDATA[朝ドラ『ばけばけ』のモデル小泉セツ。父の死と夫の出奔を経て、のちに小泉八雲と出会うまでの苦難の人生をたどる。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="小泉八雲と妻セツ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu1.jpg" width="1200" /><br />
Wikimedia Commons/The Modern Review. October 1913</p>

<p>NHK連続テレビ小説『ばけばけ』において、主人公の松野トキとレフカダ・ヘブンは、言葉の壁を越えて、徐々に心を通わせていく。そのモデルである小泉セツとラフカディオ・ハーン（小泉八雲）は、「ヘルン言葉」なるものでコミュニケーションをとっていたという。はたして、どんな言葉だったのだろうか？『小泉セツと夫・八雲』の著者・鷹橋忍氏が紹介する。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>セツだけが理解できた言葉</h2>

<p>NHK連続テレビ小説『ばけばけ』の主人公・松野トキと、トミー・バストウが演じるレフカダ・ヘブンのモデルである、小泉セツとラフカディオ・ハーン（小泉八雲）夫妻の間にも、ドラマと同じように言葉の壁が存在した。</p>

<p>だが、いつしかセツとハーンは独特の言葉を生み出し、意思の疎通を図っていくようになる。二人だけの共通語「ヘルン言葉」である。</p>

<p>ヘルン言葉とは、ハーンが覚えた日本語の単語や慣用句を、助詞（てにをは）なし、動詞と形容詞は活用なし、文章の語順は基本的に英語式という特殊な言葉に発展させたものである（小泉八雲記念館『小泉セツ　ラフカディオ・ハーンの妻として生きて』）。</p>

<p>セツはその言葉を忠実に真似て、ハーンと会話するようになった。小泉家では、それを「ヘルン言葉」と呼んだ。</p>

<p>セツとハーンの次男・稲垣巌によれば、ヘルン言葉で「テンキコトバナイ」は、「天気が申し分なくいい」。</p>

<p>「イハホ、タダアソブ　トアソブ。ナンボ　ワルキ、デス。スコシトキ　ベンキョ　シマセウ　ヨ」は、「巌は、遊んでばかりだから悪い。これから少しの間、勉強する方がいい」という意味だそうだ。</p>

<p>こういった感じであるから、ヘルン言葉を完全に理解できるのはセツだけだったといわれる。</p>

<p>稲垣巌によれば、母・セツに次いで、兄の小泉一雄（セツとハーンの長男）がなかなか上手だったが、巌自身ができたのは、父・ハーンが亡くなる1、2年前頃から、言われる言葉を聴き分ける事のみであったという（以上、稲垣巌「父八雲を語る」〈「桃山」第34号所収〉）</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ハーンがセツに英語を覚えてほしくなかった理由</h2>

<p>稲垣巌「父八雲を語る」によれば、ハーンは、日常の談話の出来る程度の日本語と、片仮名、平仮名、ほんの少数の漢字の知識で満足しており、日本の書物の読書力は全くなかったという。</p>

<p>一方で、セツはハーンと出会って約2年後の明治26年（1893）1月頃から、ハーンによる英語のレッスンを受けている。</p>

<p>残されたセツの「英語覚え書き帳」には、「ワタリ　水」、「トロンク　かばん」、「エテエズ　そうです」のように、聴き取った発音やその意味が日本語で記されている。</p>

<p>その中に、ハーンが口にしたのを書き取ったと思われる「ユオ、アーラ、デー、スエテーシタ、レトル、オメン、エン、デー、ホーラ、ワラーダ」という一文がある。</p>

<p>セツはこの一文に意味を添えていないが、これは、「You are the sweetest little woman in the whole world（あなたは全世界で一番スウィートなかわいい女性です）」と思われる（長谷川洋二『八雲の妻　小泉セツの生涯』）。</p>

<p>レッスンにより、二人の絆は深まったと思われるが、セツは英語を習得できたのだろうか。</p>

<p>セツとハーンの長男・小泉一雄によれば、父・ハーンは母・セツに英会話を教えようと試みたものの、習得はとうてい無理だと悟って、諦めたという（小泉一雄『父小泉八雲』）。</p>

<p>また、ハーンは英語を覚えなかったギリシャ人の母・ローザのイメージを大切にし、セツが英語に堪能になることを望まなかった。</p>

<p>セツが流暢な英語を話し、アメリカ人女性のようになることを嫌い、英語は日本女性の美徳を損なうと考え、ハーンはセツに英語を教えなかったという（以上、高瀬彰典『小泉八雲の世界―ハーン文学と日本女性―』）。</p>

<p>小泉一雄によれば、ハーンは一雄には、朝夕の2回、英語の授業を行なった。</p>

<p>だが、セツには「教えてください」と頼まれているのにもかかわらず、少しも教えなかった。</p>

<p>一雄に教えているところを、セツが立ち聞きして覚えようしても、「あなたには他にあなたの仕事があります」と立ち退かせた。</p>

<p>ハーンは、「あなたが英語が達者になれば、つい言わぬでもよいことを西洋人に話したりなどして、ろくなことはない」と、セツには自然に聞き覚えた2、3の単語以外は、英語を教えようとしなかったという（小泉一雄『父「八雲」を憶う』）。</p>

<p>いずれにせよ、セツは英語を取得することはできず、二人はヘルン言葉で語り合った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>萩原朔太郎は二人を何と評したか</h2>

<p>ヘルン言葉について、セツとハーンの子どもたちは、「パパとママは、誰にもわからない不思議な言葉で、誰にもわからない神秘を話している」と仲間に語ったという。</p>

<p>詩人の萩原朔太郎は、「人生でいちばん楽しい瞬間は、だれにも解らない二人だけの言葉で、だれにも解らない二人だけの秘密や楽しみを、愛人同士で語り合っている時である」というゲーテの言葉を引用した後、「すべての恋する人々は、自分等以外に全く人影のない離れ小島の無人島で、心行くまで二人だけの生活をし、二人だけのだけの会話をしたいと願うのである。そしてヘルン夫妻の生活が、正にそうした通りの理想であった」と述べている（萩原朔太郎「小泉八雲の家庭生活」（『萩原朔太郎全集』第8巻所収）。</p>

<p>二人にしかわからないヘルン言葉で語り合うセツとハーンは、間違いなく幸せな夫妻だったのだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu1.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 19 Dec 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>ナポレオンが“奴隷貿易を復活させた”理由　経済政策の裏にあった現実  福井憲彦（学習院大学名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13270</link>
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			<description><![CDATA[工業化政策も大陸封鎖令も思うように機能しない――その果てに、ナポレオンは植民地で奴隷制・奴隷貿易を復活させた。彼がこの決断に踏み切った背景を解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ナポレオンの戴冠式" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251114Fukuinorihiko04.jpg" width="1200" /></p>

<p>ナポレオン政権の時代、フランスは長引く戦争と財政難に直面していた。中央集権化の推進や工業化政策、大陸封鎖令といった経済改革が試みられたものの、期待した効果は得られず、国家は新たな収入源を求めざるを得なくなる。こうした状況の中で、ナポレオンは植民地における奴隷制・奴隷貿易の復活という重大な政策転換を決断する。本稿では、この背景とナポレオンの経済戦略についてを書籍『教養としての「フランス史」の読み方』より解説する。</p>

<p>※本稿は、福井憲彦著『教養としての「フランス史」の読み方』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>中央集権化と金融改革の推進</h2>

<p>戦争を続けるナポレオン政権にとって、経済政策は急務でした。</p>

<p>そこでナポレオンは政権を握るとすぐに、中央集権的な統治システムの構築を行います。中央集権化は王政末期にも、革命期にもやろうとしてやりきれなかった国家的課題でした。ナポレオンは非常に強力な軍事権力を手にしたことで、統領の時代からそれを上から断行していきます。</p>

<p>ナポレオンが目指したのは、全国からすべての情報を自分のもとに集め、すべて自分が判断を下し、その判断通りに地方が動くことでした。</p>

<p>そのために彼は県知事を任命制にし、自分の息のかかった人物を県知事として全国に配置することで、自らの意向を国の隅々にまで行き届かせるようにしたのです。</p>

<p>こうした地方政策と同時に、ナポレオンは中央官庁のシステム整備も行います。地方には信用できる人材を配したのに対し、中央ではかなりの高額な給与体系を組んでいくことで、安定した中央集権的官僚機構の構築を目指しました。</p>

<p>彼の統治期間は統領時代を含めても約14年という短いものなので、こうしたシステムがどこまで機能したかは、研究者の中でも議論が分かれるところなのですが、目指す中央集権の方向性が彼によって明確になったことは事実です。</p>

<p>フランスの政治史を専門とする研究者の中には、フランス革命とは、王政末期から始まる中央集権的なシステム形成に夾雑物として入ってきたものとする人もいるのですが、私はフランス革命も、統一的な法体系に基づく中央集権化を目指してはいたのだと考えています。</p>

<p>目指してはいたのだけれど、頻発する内戦や外国との戦いに対処するのが精一杯で、こうした戦時体制下では、整備している余裕が時間的にも体力的にもなかった、というのが実態だったのではないかと思っています。</p>

<p>地域ごとにばらばらな動きをしていて、王権にも革命政府にもコントロールできなかったものを、ナポレオンが推進していけたのは、やはりその背景に強い軍事力を持っていたからでしょう。</p>

<p>ですから彼の行った中央集権化は、彼が新たに構築したというより、むしろ旧体制下で部分的に動きはじめたものをさらに加速させたもの、と言えるでしょう。実際、高級官僚の多くは、旧体制の時代から、その職にずっとついていた人たちだったと言われています。</p>

<p>メンバーが大きく入れ替わっていないということは、彼ら官僚にとって重要なのはイデオロギーではなかったということです。</p>

<p>そう考えると、ナポレオンが給与を上げることで中央官僚のコントロールを目指したことも納得がいきます。もらえるものがきちんとしていれば、彼ら官僚たちはイデオロギーに関係なく、国家システムを合理的に動かすための仕事をした、ということなのだと思います。</p>

<p>中央集権化が進んだことで、以前より安定した税収が見こめるようになったものの、戦争を続けることを考えれば、とてもではありませんが足りません。</p>

<p>そこで1800年2月、ナポレオンはフランス銀行を設立します。宿敵イギリスでは、すでに17世紀末にイングランド銀行が設立され、18世紀には戦費調達のために発行する国債を銀行が裏打ちするという、高い信用に基づくシステムが機能していました。</p>

<p>フランス銀行を設立しても信用体系ができるにはある程度の時間が必要なので、すぐに大きな変化があるわけではありませんが、将来のナポレオン帝国を視野に入れていた彼は、この時点ではまだ民間企業のかたちですが、銀行をつくることを優先したのだと思います。</p>

<p>ナポレオンがこのとき設立したフランス銀行がイングランド銀行のような位置を占めるのは、19世紀半ばになってからですが、このとき設立していなければ、フランスの経済的発展はさらに遅れたかもしれません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>工業化政策の限界</h2>

<p>ナポレオンは、経済発展のために、工業化の推進にも力を注いでいます。</p>

<p>ここでも参考にしたのは、工業化が先行するイギリスでした。イギリス経済に対抗するため、彼は技術革新への援助や、道路や運河などのインフラ整備、金融面での優遇など国家保護というかたちでの関与を積極的に行っています。</p>

<p>さらに帝政期に入った1806年には、イギリスとの通商を禁じ、その商品を大陸に入れないよう「大陸封鎖令」を出し、それに周辺諸国も従わせることで、フランスで興隆しつつあった綿織物産業などを保護しようとしています。</p>

<p>しかし、この大陸封鎖令は、ナポレオンが目論んだようにはうまくいきませんでした。</p>

<p>一つは、工業化を推進しようとしたものの、現場ではまだ旧来の仕組みが根強く存続していたため、短期間では期待していたほどには伸びなかったこと、また大陸諸国にフランス製品を輸送する交通インフラが不十分だったこともあります。</p>

<p>さらに、この大陸封鎖令は、イギリスと取引をしていたフランス商人やほかの大陸各地の人々に打撃を与えるという、思わぬ副作用をもたらすことにもなってしまいました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>利益のために奴隷制を復活させたナポレオン</h2>

<p>このように新しい経済政策が思うような利益を生み出してくれない中、目を向けたのが植民地経済で、その利益のための奴隷制・奴隷貿易の復活でした。</p>

<p>基本的人権を掲げたフランス革命によって、革命下のフランスでは基本的に海外領土でも奴隷制・奴隷貿易は禁止されました。</p>

<p>ナポレオンは、その禁止されていた奴隷制・奴隷貿易を植民地に限ってのことですが、公式に認め復活させたのです。</p>

<p>ナポレオンに、これが人権に反するような行為であるという意識がなかったのかと言えば、それはわかりません。</p>

<p>しかし、フランスの経済を改善するために、あるいは自分の野望を実現させるために必要であれば、そうしたことも辞さない、というのがナポレオンのやり方だったということです。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 08 Dec 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[福井憲彦（学習院大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>なぜ26歳の将校が英雄になれた？ ナポレオン台頭の鍵はイメージ戦略にあった  福井憲彦（学習院大学名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13269</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013269</guid>
			<description><![CDATA[白馬のアルプス越え、ペスト患者への素手の接触――その多くは“演出”だった。噓をつかずに英雄像をつくり上げたナポレオンのイメージ戦略を読み解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="シリアのヤッファで、ペストに苦しむフランス軍兵士たちを見舞って激励するナポレオンの美徳と勇気を演出している。アントワーヌ・ジャン・グロ画。ルーヴル美術館蔵。Antoine-Jean Gros / Wikimedia Commons" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251114Fukuinorihiko03.jpg" width="1200" /><br />
シリアのヤッファで、ペストに苦しむフランス軍兵士たちを見舞って激励するナポレオンの美徳と勇気を演出している。アントワーヌ・ジャン・グロ画。ルーヴル美術館蔵。Antoine-Jean Gros / Wikimedia Commons</p>

<p>1790年代のフランスでは、王党派の反動と民衆運動の再燃、対外戦争の長期化が重なり、政治は混乱を極めていた。そんな中、ひとりの若い軍人が頭角を現す。ナポレオン・ボナパルトである。彼は戦場での勝利だけでなく、巧妙な&quot;見せ方&quot;によって国民の支持をつかみ、英雄へと押し上げられていった。本稿では、そのイメージ戦略の実像を書籍『教養としての「フランス史」の読み方』より解説する。</p>

<p>※本稿は、福井憲彦著『教養としての「フランス史」の読み方』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>混乱する国内情勢</h2>

<p>総裁政府で中心になったのは、ポール・バラスに代表されるテルミドール派と言われる人たちでした。</p>

<p>しかし、政治的立場として比較的穏健な彼らが権力の座についたことで、それまで粛清を恐れて表立ったことを避けていた王党派が各地で革命派を襲撃したり（「白色テロ」と言われます）、パリでは武装蜂起したりします。</p>

<p>この王党派による武装蜂起の鎮圧に、砲兵隊を率いて功をあげ、じきに26歳の若さで国内軍司令官に抜擢されたのが、ナポレオン・ボナパルトでした。</p>

<p>総裁政府になって活動を再開したのは、王党派だけではありませんでした。</p>

<p>民衆運動も、かなり勢力を縮小してはいたものの、この時期に息を吹き返しています。さらに、革命政府を潰そうとする近隣君主国との戦争も、いまだ続いていました。</p>

<p>こうした状況の中、総裁政府の政治は、そのときどきの趨勢に左右され、安定しませんでした。</p>

<p>ナポレオンは当初、どちらかというとロベスピエール派に近い考えを持っていたのではないかと言われていますが、実際のところはよくわかりません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>イメージ戦略に長けたナポレオンの台頭</h2>

<p><img alt="「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」。ダヴィッド画。イメージアップの絵だった。 Jacques-Louis David / Wikimedia Commons" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251114Fukuinorihiko02.jpg" width="1200" /><br />
「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」。ダヴィッド画。イメージアップの絵だった。<br />
Jacques-Louis David / Wikimedia Commons</p>

<p>バラスに目をかけられたナポレオンは、1796年にはまだ最高司令官ではありませんが、遠征軍の司令官としてイタリアに向かいます。</p>

<p>このイタリア遠征でナポレオンは、大勝とまではいかないものの、敵軍を制圧し、勝利をおさめます。</p>

<p>総裁政府の政治が安定しない中、ナポレオン軍のイタリア戦線での勝利は、民衆に非常に大きなインパクトを与えることになります。</p>

<p>というのも、ナポレオンは非常にイメージ戦略に長けた人で、イタリア遠征を自らのブランディングに利用し、見事に成功させています。彼はイタリアから状況報告を短報のようなかたちでパリに送っているのですが、自分にとって好ましい報告しか送っていないのです。</p>

<p>いい報告しか届かないので、当然パリではナポレオンがまるで神がかったような指揮で連戦連勝を飾っているような印象を受けます。イタリア遠征でナポレオンは確かに各地で勝利をおさめてはいるのですが、実際にはフランスの圧勝と言えるほどのものではありませんでした。</p>

<p>しかし、いい報告しか聞かされていないパリの人々は、勝手に大勝利だと思いこみ、1797年12月にナポレオンがパリに凱旋したときには、フランスの英雄として熱狂的に迎え入れたのです。</p>

<p>彼のイメージ戦略で注目すべきは、彼が決して噓はついていない、ということです。イタリアからの戦況報告も、いいことしか伝えていないだけで、勝利を捏造したわけではありません。</p>

<p>こうした「見せ方のうまさ」は、彼が権力の座に上り詰めていくうえで非常に大きな働きをしました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ダヴィッドの『ナポレオンのアルプス越え』が生んだ虚像</h2>

<p>たとえば、ナポレオンと言ったときに多くの人がイメージするのは、白馬にまたがってアルプス越えをするナポレオンの姿でしょう。ダヴィッドが描いたものですが、あれもイタリア遠征の報告と同じで、彼が二回目の遠征でアルプスを越えたのは事実ですが、そのときの真実の姿を描いたものではありません。</p>

<p>この絵に描かれたナポレオンが着ている軍服も馬も、実際の彼の持ち物を参考に描かれましたが、ナポレオンが実際にアルプス越えをしたときにまたがっていたのは、馬ではなくラバでした。</p>

<p>また、ナポレオン自身の姿も、これは画家であるダヴィッドが忖度したことなのかもしれませんが、実物よりはるかに格好よく描かれています。背景にも演出効果が見てとれます。黒い雲が立ちこめる空、険しく切り立った山肌、そして足下の岩には「HANNIBAL／ハンニバル」「KAROLVSMAGNVSIMP／シャルルマーニュ」といった英雄の名とともに「BONAPARTE／ボナパルト」の文字が刻まれているのです。</p>

<p>ほかにも、ナポレオンのイメージを高めた絵画に、アントワーヌ・ジャン・グロの描いた「ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン」があります。</p>

<p>これはエジプトからシリアへ遠征したときのエピソードですが、ヤッファで軍病院として使われていたモスクに集められていたフランス軍のペスト患者を、ナポレオンが見舞っている様子が描かれています。その絵の中のナポレオンは、上半身裸のペスト患者の腫瘍部分に、手袋を外し、素手で触れているのです。</p>

<p>さらにご丁寧に、ナポレオンの傍らに立つ医師は、ナポレオンのその行為を押しとどめようとし、近くの将校は自らの鼻を手でふさいでいるのです。</p>

<p>これも、実に上手な演出です。もちろん、この絵もどこまで真実なのかは、実に怪しいものです。おそらく軍病院に入ったことは事実でも、患者に直接触れるようなことはしていないのではないでしょうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>演説の言葉を武器に人心をつかむ才能</h2>

<p>また彼は、演説や言葉の使い方にも長けていました。</p>

<p>有名な話ですが、エジプト遠征に行った際、ピラミッドの戦いを前にした演説で、「4000年の歴史が諸君を見守っている」という言葉で兵士たちを鼓舞しています。</p>

<p>もちろん、こうした台詞も、今と違って実際の映像などが残っているわけではないので、どこまで真実かわかりません。</p>

<p>絵画にしても演説にしても、そうしたものをうまく利用して自分のイメージを、強く、格好よく、しかも国民の先頭に立って困難な状況の中、国のために戦う軍人として売りこんでいるのです。</p>

<p>演出が功を奏したということは、裏を返せば、人々が何を望んでいたかをナポレオンはよくわかっていた、ということでもあります。</p>

<p>総裁政府は政治理念がふらふらと定まらないし、周辺諸国はフランスへの軍事介入の手をゆるめていません。都市部でも農村部でも王党派の策動や民衆運動が続発しています。王政末期からすでに十年以上混乱が続く中で、人々はやはり安定を求めていたのだと思います。そして、そういう人々にナポレオンは、「この人に任せれば」という希望を演出したと言えるのです。</p>

<p>演出はするけれど、噓はつかない。リーダーシップはとるけれど、自分に逆らう者を潰すような過激なことはしない。こうしたナポレオンの民衆に対する態度は、彼が皇帝に上り詰めた後も基本的には変わりませんでした。</p>

<p>たとえば、ナポレオンは農民から高い人気を博すのですが、それは彼がジャコバン派の独裁時代に農民が無償で得た土地を、返還させるようなことをしなかったからです。</p>

<p>また、ナポレオンはカトリックを公認しなおす、ということもしています。農村は教会と強く結びついていたので、これも農民たちの支持を勝ち得る要因の一つとなっています。</p>

<p>つまりナポレオンは、自分の実力を演出によって何倍にもしてみせることで、民衆の人気と信頼を勝ちとり、のしあがっていく基盤にしたと言えるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251114Fukuinorihiko03.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 03 Dec 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[福井憲彦（学習院大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>小泉八雲と、八雲の「日本人中第一の友」西田千太郎の交流  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13341</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013341</guid>
			<description><![CDATA[小泉八雲の友だった、西田千太郎とは一体どんな人物だったのか？ 作家・鷹橋忍氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ラフカディオ・ハーン" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu2.jpg" width="1200" /><br />
Wikimedia Commons/Lafcadio Hearn in 1889</p>

<p>朝ドラ『ばけばけ』で、吉沢亮さんの好演で注目されている錦織友一。<br />
そのモデルは西田千太郎とされるが、史実における小泉八雲と西田の関係はどのようなものだったのか。『小泉セツと夫・八雲』の著書がある鷹橋忍氏がひもとく。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「大磐石」と称される人物との出会い</h2>

<p>東京で島根県知事と、島根県尋常中学校および、師範学校の英語教師となる契約を結んだラフカディオ・ハーンが、赴任先である島根県松江に到着したのは、明治23年（1890）8月30日のことである。</p>

<p>その日、ハーンは松江を流れる大橋川の船着場に対岸に位置する富田旅館で、県庁職員の出迎えを受けた。</p>

<p>この時ハーンは、最も信頼する友人となる人物と出会っている。島根県尋常中学校教頭の西田千太郎である。</p>

<p>当時、ハーンは40歳、西田千太郎は27歳だった。</p>

<p>西田千太郎は文久2年（1862）9月18日、島根県松江市雑賀町で、松江藩足軽・西田平兵衛の長男として生まれた（池野誠『小泉八雲と松江　異色の文人に関する一論考』）。</p>

<p>西田千太郎は学生時代、成績が際立って優秀なうえ雄弁で、将来を嘱望されていた。</p>

<p>明治9年（1876）9月に入学した教育伝習校変則中学科（明治10年に松江中学として独立。明治19年に島根県尋常中学校に改称）では、ずっと首席の座にあり、「大盤石」と称されたという（池野誠『小泉八雲と松江　異色の文人に関する一論考』）。</p>

<p>明治13年（1880）には、同校（松江中学）の授業助手に任命されている。</p>

<p>明治17年（1884）には安食クラという女性と結婚するも、東京での遊学を決意する。翌明治18年（1885）8月には退職し、上京した。</p>

<p>東京ではアメリカ人のガーディナー、ストーラル、イギリス人モリノーらから英語を、地学と哲学は独習し、有賀長雄に心理学、イギリス人のデニングに論理学を学んだ。</p>

<p>明治19年（1886）5月には、心理学、論理学、経済学、教育学の文部省中等学校教員の検定試験に合格。免状を受けている。</p>

<p>正教諭となった西田千太郎は、兵庫県立姫路中学校、香川県の済々学館などで奉職した。</p>

<p>その後、強く請われて、明治21年（1888）8月31日付で、母校・島根県尋常中学校の教諭として帰任。堪能である英語の他、歴史、地文、生理、植物、経済など、ほぼ全教科を教えている。</p>

<p>博識で、誠実な人柄の西田千太郎は、校長を上回るほどの声望があったといわれる。</p>

<p>だが、大学を出ていないため、校長の座を手にすることはなかったという（国際文化編『国際関係研究10（1）』所収　萩原順子「小泉八雲と西田千太郎――｢神々の国｣との邂逅――」）。</p>

<p>ハーンと出会った時も、西田千太郎は「教頭」だった。</p>

<p>ハーンの随筆「英語教師の日記から」（『小泉八雲作品集』所収）によれば、ハーンが学校に初出勤した際に、校内を案内し、同僚教員と引き合わせたのは、西田千太郎だった。</p>

<p>さらに西田千太郎は授業時間や教材などについても説明し、必要な物も机の上に揃えておいてくれた。</p>

<p>ハーンは、「西田氏は親切この上なく、何事にも至れり尽せり」だったと称している。それでも、西田千太郎は顔を合わせると、「不届きで」などと謝罪したという。</p>

<p>ハーンと小泉セツの長男・小泉一雄の随筆『父小泉八雲』によれば、西田千太郎は日常の様々な事柄について優れた通訳を行なっただけでなく、日本の人情や風俗なども、ハーンが心の奥底から納得できるように、懇切丁寧な説明をした。</p>

<p>小泉一雄は、西田千太郎は父・ハーンが「最も信頼した、日本人中第一の友」だったと記している。</p>

<p>ハーンは西田千太郎を、「利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆言ってくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です」と称し（小泉節子『思ひ出の記』）、心から信頼した。</p>

<p>二人は、お互いの家庭を頻繁に訪問し合ったり、出雲大社を参拝するなど、ともに松江内外の各地を訪れたりと、公私にわたって深く親交を重ねている。</p>

<p>公私にわたってハーンの日本での生活を支えた西田千太郎だが、彼の体調は思わしくなかった。もともと体が丈夫でないうえに、若くして結核を患っていたのだ。</p>

<p>ハーンの着任第1回となる講演では、喀血を止血剤や注射で防ぎながら、通訳を務めたという（梶谷泰之『へるん先生生活記』）。</p>

<p>ハーンと西田千太郎との親交は、ハーンとその妻・小泉セツが、松江から熊本に、熊本から神戸、東京へと居を移しても続いた。</p>

<p>しかし、西田千太郎は明治30年（1897）3月15日、両親、妻、4人の子どもを残して、病のため、亡くなっている。34歳の若さであった。</p>

<p>だが、西田千太郎の死後も、ハーンは彼を忘れることはなかった。</p>

<p>小泉節子『思ひ出の記』によれば、ハーンはセツに、「今日途中で、西田さんの後姿見ました。私の車急がせました。あの人、西田さんそっくりでした」と話したことがあった。</p>

<p>また、ハーンは明治37年（1904）に早稲田大学講師として招聘されているが、その時、学監の高田早苗が西田千太郎にどこか感じが似ていると、たいそう喜んだという。</p>

<p>ドラマ『ばけばけ』のレフカダ・ヘブンと錦織友一のように、ハーンと西田千太郎の間にも、出会った当初は戸惑いや行き違いが生じたかもしれないが、2人は間違いなく、かけがえのない友となったのだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu2.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 02 Dec 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本酒の伝統的容器「菰樽」 生産地の尼崎に訪ねて知る成立事情  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13327</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013327</guid>
			<description><![CDATA[日本酒の伝統的容器「菰樽」はどのように生まれたのか。近世の上方から江戸への酒輸送の歴史とともに紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="韓国での日本酒のPRイベント会場において、ディスプレイに使われた各地の日本酒メーカーの菰樽〔以下を含めてこの記事の写真提供：株式会社岸本吉二商店〕" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251125Rekishikaido01.jpg" width="1200" />写真：韓国での日本酒のPRイベント会場において、ディスプレイに使われた各地の日本酒メーカーの菰樽〔以下を含めてこの記事の写真提供：株式会社岸本吉二商店〕</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>舞台の真ん中に菰樽（こもだる）を据え、その封である鏡板を木槌で叩き割る「鏡開き」。それは、祝宴の始まりを告げる印象的な場面である。また、酒造メーカーごとに趣向を凝らした飾り樽が、奉納された神社の境内に積み上げられた光景もよく親しまれている。</p>

<p>とはいえ、酒樽に菰を巻いて菰樽に仕上げる技術が、兵庫県尼崎市の一地域に所在する、わずかな事業者によって引き継がれていることを知る人は多くはないだろう。菰樽の誕生と関わりが深い、近世の上方から江戸への酒輸送の歴史とともに、その背景と現在を紹介したい。&nbsp;</p>

<p>【筆者：兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31 年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9 年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【編者：歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991 年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>酒造の量産と発展を生んだ桶と樽</h2>

<p><img alt="専用の織機を使って菰を織る。10年ほど前までは、この写真のように農家の内職だったが、現在は岸本吉二商店内で製造している" height="800" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251125Rekishikaido02.jpg" width="1200" />写真：専用の織機を使って菰を織る。10年ほど前までは、この写真のように農家の内職だったが、現在は岸本吉二商店内で製造している</p>

<p>木製容器の種別として、樽は「結物（ゆいもの）」とされる。幾つもの短冊状の板を並べて側板とし、竹や金属の箍（たが）で締めて結った構造により、そう呼ばれる。古代から先行して存在した、一材をくり抜いた「刳物（くりもの）」や、一枚の板を曲げて側板とする「曲物（まげもの）」よりのちに成立した木工技術であり、平安時代後期以来の日宋の交易によってもたらされた品を手本に、鎌倉時代から結物の桶（おけ）や樽が国内で生産されるようになった。</p>

<p>特に室町時代後期以降、商品経済の発達とともに大きく頑丈な容器が求められ、桶や樽といえば結物が一般的となる。明応3年（1494）に成立したとされる絵巻物『三十二番職人歌合（うたあわせ）』には結桶師（ゆいおけし）が取り上げられ、のちの世と変わらない製造作業の姿が描かれてもいる。</p>

<p>なかでも、その桶と樽を発展の楚としたのが酒造業であった。古代より醸造と輸送に用いていた甕（かめ）に替えて、量産を可能とする大型の桶と、軽く輸送しやすい樽を導入することで、生産と販路を拡大していく。そして、菰樽もこの酒輸送の現場から誕生するのであった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>江戸へと運ばれた「下り酒」の揺りかご</h2>

<p><img alt="樽に菰を巻く職人を「荷師（にし）」と呼ぶ。慣れた荷師なら一樽を仕上げるのに10分ほど。ただし、慣れない人なら1時間かけてもできないことも" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251125Rekishikaido03.jpg" width="1200" />写真：樽に菰を巻く職人を「荷師（にし）」と呼ぶ。慣れた荷師なら一樽を仕上げるのに10分ほど。ただし、慣れない人なら1時間かけてもできないことも</p>

<p>戦国時代の16世紀中頃、当時「諸白（もろはく）」と呼ばれた清酒が、奈良の寺院で最初に造られる。江戸時代に入ると、その製法を引き継いで、摂津国（現在の兵庫県・大阪府）猪名川流域の伊丹・池田を皮切りに上方での清酒の量産が始まる。一方、急速に発展して人口が増加する江戸では酒の需要が高まり、これに応えて上方からの酒の出荷が図られることになる。</p>

<p>伊丹では当所、酒を入れた樽を馬に積み、陸路で江戸に輸送したと伝えるが、大量輸送の手段として上方の酒造業者が着目したのが、廻船（かいせん）であった。</p>

<p>元和5年（1619）、大坂から江戸へ、船による最初の生活物資輸送が行なわれ、寛永元年（1624）より大坂に廻船問屋が複数並び建つ。その運航船を菱垣（ひがき）廻船と呼んだ。江戸への積荷のなかには当初から酒があったが、杉樽に詰められ、揺られて運ばれるうちに、杉材の香りが移ってまろやかな酒となり、これが江戸の人々の間で人気を博すことになる。いわゆる上方からの「下り酒」である。</p>

<p>下り酒人気を受けて、寛文年間（1661-1672）には、酒造業者の支援のもと、酒樽を主な荷とする船が現れる。酒造業者が独自の廻船を仕立てるようになったことには、ほかにも理由があった。通常の菱垣廻船は、多様な商品をあわせて積むために、出航までに日数を要することが多く、生ものである酒を扱う業者にとって難があった。また、かさ高く荷を満載することで船の安定性が悪くなり、海難の危険が高まる。その海難の際に破棄される上積荷物に対する補償を、荷主の酒造業者も応分に負担するという定めもあり、彼らには理不尽なものと映った。</p>

<p>元禄7年（1694）、江戸と大坂それぞれに荷主仲間が結成され、一切の貨物は専属の菱垣廻船に積載し、手続きは菱垣廻船問屋に一任することを取り決めたが、運用に不満を抱く酒造業者は、享保15年（1730）にそこから脱退。酒造業者専門の廻船問屋を結成し、酒樽の運搬に適した専用船による輸送を開始する。これを樽廻船という。</p>

<p>酒樽を下荷に据えた樽廻船は、船が安定して迅速であった。樽廻船問屋は、余裕がある上荷に酒以外の物資も積載するようになり、運賃も安く設定したことから、他業者からも支持を得て、のちには菱垣廻船を圧倒していくことになる。</p>

<p>樽廻船問屋は、淀川河口の伝法（でんぽう）に加えて西宮に拠点を置いた。これを期に勃興するのが、近隣の地、灘の酒造である。享保年間（1716-1736）から頭角を表し、諸国の米豊作を受けて幕府が宝暦4年 (1754）・文化3年 (1806)に酒造を奨励する令を発したことをはずみに、増産を進めた。江戸時代後期の文政4年(1833)、上方から江戸へと積み出された酒が四斗樽（しとだる）で113万6千樽に及んだこの年、灘からの酒樽はそのうちのおよそ60パーセントを占めるまでになった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>地元の農家で織られてきた菰をもとに</h2>

<p><img alt="菰に文字を印すための菰樽印。古くは焼き印が使われた。菰に銘柄を装飾的に印刷するようになったのは大正時代からである" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251125Rekishikaido04.jpg" width="1200" />写真：菰に文字を印すための菰樽印。古くは焼き印が使われた。菰に銘柄を装飾的に印刷するようになったのは大正時代からである</p>

<p>菰樽とは、四斗樽を稲藁（いねわら）で包んだ上から菰で巻き、稲縄で縛ったものである。稲藁と菰は、船に積載した際、波に揺られた樽がほかの樽などと衝突して破損するのを避けるためのクッション材であり、実用性から生まれたものであった。江戸時代中期、樽廻船が成立したころから用いられるようになったという。</p>

<p>「当社は、私の曽祖父の岸本吉二が始めた商店を起点としていますが、その吉二の先代から、地元の農家が農閑期に作った、酒樽用の菰や縄を買い入れて酒造業者に納めるという商いをしていました」。尼崎市塚口本町で菰樽の製造を引き継ぐ、株式会社岸本吉二商店の代表取締役の岸本敏裕さんが、明治33年（1900）という創業時のことを語る。</p>

<p>岸本吉二商店は、現在の国内で菰樽を生産する最大手であり、ほかに製造する事業所は2社のみといい、うちの1社は尼崎市の同地域にあって、この地域だけで、全国に流通する菰樽の70パーセントを製造するという。その背景には、尼崎が江戸時代から、菰樽に用いられる菰と縄の産地だったことがある。</p>

<p>以前に吉野杉をこの連載で取り上げた際、上方の酒造業用の樽に用いる杉材の多大な需要が、吉野林業の繁栄を支えたことを述べた。菰樽用の菰や縄もまた、膨大な量がこの地で作られたことが想像できる。</p>

<p>尼崎市に残る古文書によると、尼崎城下に巻き菰と縄の仲買を営む荒物屋仲間が、文化15年（1818）から天保12年（1841）と、嘉永4年（1851）から明治2年（1869）の間に存在し、文政7年（1824）には17軒、嘉永4年には5軒を数えた。主に灘の酒造業者を得意先とし、なかには三河（現在の愛知県）への納入の記録もあり、巻き菰の特産地的な位置づけを得ていたようである。</p>

<p>明治以降も事業を続けた仲買人もあり、岸本吉二商店はその一人から声を掛けられて事業を始めたと聞く、と代表取締役の岸本さんはいう。</p>

<p>明治以降、樽廻船は洋式帆船や蒸気船にとって代わられ、さらに鉄道へと、酒の輸送手段は遷り変わっていく。また、明治10年代から日本酒の容器としてガラス瓶が使われはじめ、大正時代には一升瓶入りが販売量の半数を超えた。それでもめざましい国内の人口増加によって、戦前まで樽酒の流通は維持され、尼崎の農家にとって菰縄作りは大きな副収入であったという。</p>

<p>もっとも、時代の変化のなかで、もとは酒造メーカーで行なっていた、銘柄などを印した「印菰（しるしこも）」の制作、さらには樽に菰を巻いて菰樽を仕上げることも、地元の菰縄仲買事業者が請け負うようになり、菰樽の製造を専業とする事業者が成立したのである。</p>

<p>しかし、戦後になると、20社ほどあった尼崎の菰樽事業者も減じていくことになる。「尼崎市内に田んぼがなくなって久しくなりました。ほかの地域の農家でも稲をコンバインで刈り取るようになり、今では稲藁の入手も難しい。神戸市北区や三木市内の農家にお願いして、秋に昔ながらの方法で稲刈りをさせてもらい、稲藁を確保しています。そして、それを自社で菰にしたり、関係先で機械を使って縄を作ったりしています」と岸本さん。ただし、数多くは作れず、現在は稲藁製を特注とし、ポリプロピレン製の菰や縄を使うのが基本になっている。</p>

<p>「先日、明治神宮に行ったのですが、来られている人の7割ほどが外国の方でした。境内には各蔵元が奉納された菰樽を積み上げて飾ってあり、そこがフォトスポットになっていて、外国の人たちが皆、その前で写真を撮っている。どれだけ撮るのだろうと感心して見ていました。その飾り樽の8割ほどは当社の製品でしたね」。昔の実用品も、「和」の意匠を伝える工芸品的なものへと、いつしか世の見方も変わってきたのである。</p>

<p>岸本吉二商店では、1.8リットルや300ミリリットルの小さな菰樽も製造していて、それを使った酒造各社の製品が海外の人のお土産として人気なのだという。自分でお酒を入れて使える小型の鏡割り用菰樽「ミニ鏡開きセット」など、ユニークな製品の開発にも取り組み、自社のショッピングサイトで販売している。</p>

<p>もうすぐ新年。祝いの場で菰樽を見ることも多くなりそうである。かつて波に揺られていた、その過去の姿にも思いをはせてほしい。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251125Rekishikaido01.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 27 Nov 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>儒教はなぜ“昔こそ理想”と説くのか？ 西洋思想とは真逆の中国的世界観  岡本隆司（早稲田大学教授、京都府立大学名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13281</link>
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			<description><![CDATA[儒教は、進歩ではなく&quot;昔への復古&quot;を善とする。孔子の思想が生まれた背景、西洋思想と真逆の価値観、改革が忌避された理由まで、中国史を動かした儒教の核心を解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="中国山東省　孔廟の大成殿" height="396" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_koshibyo.jpg" width="640" /></p>

<p>私たちは「未来に理想がある」と考え、進歩や改善を良いものとして捉えがちだ。しかしこれは西洋思想に根ざした価値観であり、中国の儒教はまったく異なる発想をもっている。儒教は「理想は過去にあり、人間は時が経つほど堕落する」と見るため、めざす方向は&quot;古き理想への回帰&quot;となる。</p>

<p>本稿では、孔子や孟子が形づくった儒教の価値観が、中国社会にどのような影響を与えてきたのかを、『教養としての「中国史」の読み方』より解説する。</p>

<p>※本稿は、岡本隆司著『教養としての「中国史」の読み方』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>儒教の理想社会は昔にある</h2>

<p>われわれは、めざすべき「理想」は未来にあると思っています。そして、「理想」に向かって日々進歩向上していくことが善だという意識をもっています。</p>

<p>しかし、こうした考え方が、実は「西洋的」だということは自覚していません。</p>

<p>たゆまぬ努力によって理想に向かって近づいていく。つまり、「進歩向上」が善だという意識は、実はとてもキリスト教的な、西洋的な考え方なのです。</p>

<p>儒教的な考え方は、まったく違います。</p>

<p>理想を掲げるのではなく、いまある現実を受け入れて、その中で自分たちがより良く生きるためにはどうすればよいのか、と考えるのが儒教だからです。</p>

<p>正確にいえば、儒教にもあるべき姿、理想像はあります。あるのですが、それは「大昔」の聖人が体現したとされる姿で、それから見ると人間というのは、どんどん堕落してきて、いまがある。だから、なんとか努力して堕落を食い止めましょう、というのが儒教の考え方なのです。</p>

<p>そのため、儒教には「進歩」という考え方はありません。</p>

<p>すべてにおいて「昔のほうがよい」のです。</p>

<p>ですから孔子の儒教を受け継いだ孟子は「性善説」を説いています。性善説というのは、「人間は本来、善なるものとして生まれる」という思想です。</p>

<p>要するに、人間は、生まれてきたときがもっとも善で、それが時間の経過とともにだんだんと堕落していく、というわけです。</p>

<p>こうした前提のもと、孟子はいかにしてその堕落を食い止めるのか、ということを説いたのです。</p>

<p>儒教における価値観は、このように西洋のそれとは発想が根本的に異なります。目の前の現実をよくしていこうというのは同じでも、めざすベクトルが違うのです。西洋が下から上へ向かって進んでいくことで現実をよくしようと考えるのに対し、中国の儒教は、上から下に落ちていくのを食い止めることでよくしよう、という方向の考え方なのです。</p>

<p>西洋思想が「進歩・前進」に希望を見いだすのは、その基礎にキリスト教があるからだと思います。キリスト教には「原罪」、つまり、すべての人は生まれながらに罪人であるという「性悪説」とでもいうべき思考があります。</p>

<p>また現世は苦難の連続であり、来世にこそ天国があると信じますから、未来ほど希望があって明るいわけです。「進歩」とか「進化」というのは、典型的な西洋的・キリスト教的思考なのです。</p>

<p>では、儒教を最初にとなえた孔子は、なぜ「過去のほうがいまよりすぐれていた」という思想をもつに至ったのでしょう。</p>

<p>孔子がこのような思想に至ったのは、やはりかれの生きた「時代」というものが強く影響していたと思われます。孔子が生きた前6世紀ごろの中国は、混迷の時代です。乱れた世の中で、孔子は昔の書物を集め読み、その結果、現在を「堕落した世界」と見なしたのでしょう。だからこそ、「かつてすばらしい時代があったんだ」ということを希望として人々に伝えようとしたのだと思います。</p>

<p>そういう意味では、孔子というのは理想社会をつくった人ではなく、過去にあった理想社会の復興をめざして、後世にその「理想」を伝えようとした人だといえます。</p>

<p>儒教の教典ともいうべき「経」は、孔子がオリジナルで書いたものではなく、当時まだ残っていた古い時代の記録を孔子が編纂しなおしたものとされています。</p>

<p>これを孔子は、「述べて作らず」といっています。いままでのものを伸ばしていくだけで、新たなものを作らない、ということです。</p>

<p>ですから儒教では、新しいものを作るとか、昔あったものを変えるというのは、孔子の考え方に背く「悪」であると考えます。新しいものによいものはないのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>改善ではなく「復古」</h2>

<p>西洋の思想に染まっている日本人は、「改革」と聞くと、無意識のうちに「改正」「改良」や「改善」をイメージし、改革したほうがよくなると考えます。しかし、儒教では「改革」は「改悪」にほかなりません。</p>

<p>儒教では、変えることは「悪」なのです。よりよくするとは昔に戻すことなので、われわれの考える「改善」は、改革とはいわずに必ず「復古」という言葉を用います。</p>

<p>たとえば、北宋時代の政治家・王安石（1021〜86）が行った改革を、歴史の授業で「王安石の新法」という言葉で習いますが、王安石自身は経典の『周礼』を根拠にして、「新しいこと」をするとは、ひと言もいっていません。</p>

<p>中国では、漢語に儒教の価値観が染み込んでいるので、何かをよりよく変えようと思ったら、「昔に返ります」といわなければ、人々に受け入れてもらえないからです。</p>

<p>ですから実施にあたっては必ず、昔にこういう事例があった、ということを探し出しますし、文書をつくるときにも必ず、権威ある経典からその事例を引用し、これは「復古」なのだと示さなければならないのです。</p>

<p>いかに堕落を食い止めるかというだけで、進歩の側面を描こうとしないので、中国の歴史はくりかえしに見えることが多いのです。</p>

<p>でも、それを「進歩が存在しない」「停滞している」と蔑むのは、西洋の思想に毒されたわれわれの傲慢です。かれらはもともと進歩などに関心がないし、まためざしてもいないのです。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_koshibyo.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 27 Nov 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岡本隆司（早稲田大学教授、京都府立大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>西洋化を受け入れた日本、拒んだ中国　近代化を分けた思想の違い  岡本隆司（早稲田大学教授、京都府立大学名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13290</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013290</guid>
			<description><![CDATA[日本は「和魂洋才」、中国は「中体西用」。同じ儒教文化圏でも近代化の形がなぜ大きく分かれたのか。洋務運動や朱子学の思想構造から、その理由を読み解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="中国" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_Chinaflag.jpg" width="1200" /></p>

<p>日本と中国は、西洋文明への向き合い方がまったく異なっていた。</p>

<p>19世紀の清朝では、アロー戦争後に「洋務」と呼ばれる取り組みが進む。もとは西洋との貿易事務「夷務」を言い換えた言葉で、自前の義勇軍を近代兵器で武装させる軍備近代化を進めた。一方で、国家体制そのものの改革にはほとんど踏み込めなかった。</p>

<p>対して日本は「和魂洋才」の名のもと、西洋の制度や技術を大胆に取り入れつつ、日本的な精神を守る姿勢を貫いた。本稿では、この2つの思想が日中の近代化をどう分けたのかを、書籍『教養としての「中国史」の読み方』より解説する。</p>

<p>※本稿は、岡本隆司著『教養としての「中国史」の読み方』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日本は「和魂洋才」、中国は「中体西用」</h2>

<p>中国における「洋務」の最大の特徴は、「地方の裁量で行われた」ということです。そのため取り入れられたのは主に武器で、政治システムの近代化といった全体の体制に関わるものは何も取り入れられていないのです。</p>

<p>よく日本はいち早く近代化を成し遂げたのに、なぜ中国はできなかったのか、といわれますが、中国の場合は国家として取り組まなかった、正しくは、国家として取り組むことができなかったからだといえるでしょう。</p>

<p>このことは、日中それぞれが西洋文明を受け入れるときに用いられたスローガンに如実に表れています。</p>

<p>日本でいわれたのは、「和魂洋才」。</p>

<p>この言葉が意味するのは、大和魂をもったまま装いや言動を西洋に変えるということですから、イメージとしてはシルクハットをかぶって燕尾服を着たサムライ、といったところでしょう。身なりや行動は西洋風にしても、その人の魂は日本人のままであるということです。</p>

<p>これに対し、中国でいわれたのは「中体西用」という言葉でした。</p>

<p>「体」は本体、「用」は枝葉末節、あるいは手段と訳されることが多いのですが、この言葉の意味を理解するには、朱子学について思い出していただく必要があります。</p>

<p>朱子学は理気二元論といわれますが、すべてのものを分けて考えます。</p>

<p>「理気」のほかにも、「道器」「知行」「士庶」など相反する意味をもつ対の言葉が数多く用いられ、「体用」もその一つです。</p>

<p>「体用」の「体」は、身体ではなく本体や根幹を意味し、「用」は手段や行動、表現などを意味しています。</p>

<p>問題は、朱子学におけるこうした対の言葉は、一つのものがもつ二つの側面を編み出したものではなく、別々のものの相対関係を表しているということです。</p>

<p>つまり、先に「和魂洋才」のイメージを一人の人物で示しましたが、「中体西用」は一人の人物では表せないものなのです。</p>

<p>イメージで表すなら、「エリートである士が、庶民に西洋の道具を使わせている」情景になります。人も別ですし、その服装もちがいます。</p>

<p>中体西用では、「中」と「西」、それぞれを担っているのは別々の人物だということです。清朝政府やエリートは「中体」を貫くけれど、庶民は「西用」してもいいぞ、というのが、「中体西用」の意味するものなのです。</p>

<p>地方・現場がその裁量において「西洋の技術や道具を用いる」のはいいのですが、朝廷・中央は「中体」でなければならず、相反する「西」を受け入れることは許されません。</p>

<p>ですから、「官民乖離」も「中体西用」も根底にあるのは同じ、士と庶の分離なのです。</p>

<p>ただ、この問題で誤解してほしくないのは、いち早く西洋化したからといって、それが必ずしも先進・後進を意味するものではない、ということです。</p>

<p>もし、西洋化こそが先進的で文明的だと考えているとしたら、それは西洋文明の価値観に染まっていることを意味します。西洋と東洋では地理的な条件も違うし、そこで培われた思想も価値観もまったく異なるのです。</p>

<p>歴史を見るうえで大切なのは、他者と比べて優劣をつけ、毀誉褒貶に走ることではなく、それぞれの異同を知り、その由来を理解することです。</p>

<p>たとえばモンゴル帝国では、政治・経済をそれぞれ多元的な主体が担ったため、全体を完全に一つにまとめることはできませんでした。そのため、全体を一律に規制する法制も完成していません。その結果、厳密な意味で官民一体となった「法の支配」が、機能しない社会にならざるをえなかったのです。</p>

<p>これは清にかぎらず、同じ「ポスト・モンゴル」であるオスマン帝国やムガル帝国でも、共通して見られる構造です。</p>

<p>念のためにいっておくと、こうした「法の支配」の有無は、その人々が暮らす自然環境と、それにもとづく歴史的結果であって、断じて本質的な優劣の問題ではありません。政治的なイデオロギーや主張ならともかく、学問的には現代世界のスタンダードから善悪を評価すべき問題ではないのです。</p>

<p>われわれ日本人はつい、近代化できたことがよいことであって、これこそが先進的なのだと考えてしまいがちですが、それは単に、日本がたどってきた歴史の到達点にすぎないということを知っておくべきです。</p>

<p>中国には中国がたどってきたスタイルがあり、それはたまたま西洋に合わせることができないものだったのです。</p>

<p>日本と中国は違うのです。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_Chinaflag.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 25 Nov 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岡本隆司（早稲田大学教授、京都府立大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「中国こそ文明の中心」思想の源流とは？ 中華と外夷の境界線  岡本隆司（早稲田大学教授、京都府立大学名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13274</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013274</guid>
			<description><![CDATA[中国はなぜ自らを「中華」、周辺を「外夷」と呼んだのか──その背景には漢字の意味体系や儒教の価値観があった。数千年続く中国独自の世界観の成り立ちを解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="中華思想" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_keirin.jpg" width="1200" /></p>

<p>中国は長い歴史の中で、自分たちの世界を「中華」、周囲を「外夷」と大別してきた。これは、単なる自国中心主義ではなく、漢字がもつ意味体系や、孔子の教えに基づく儒教思想が社会の根幹を形づくってきたことに深く関わっている。この世界観は、なぜ生まれ、どのように受け継がれてきたのか。本稿では、書籍『教養としての「中国史」の読み方』より、その成り立ちを読み解いていく。</p>

<p>※本稿は、岡本隆司著『教養としての「中国史」の読み方』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>世界は「中華」と「外夷」に二分される</h2>

<p>どこの国も自国を中心に物事を考えます。</p>

<p>日本の世界地図は日本が真ん中に位置していますが、ヨーロッパの地図では日本は東の端に位置しています。まさに極東です。でも日本人は当然、日本を中心に考えます。</p>

<p>現代においてもそうなのですから、古代世界において、自分たちのいる場所を世界の中心だと考えるのは、不思議なことでも珍しいことでもありません。</p>

<p>では、どこでも見られがちな、こうした自国中心主義が中国では、なぜ「中華思想」と呼ばれるほど強烈な思想にまで発達し、現代まで継続してきたのでしょう。</p>

<p>この問いに対する明確な答えはありません。ただ私見を述べるなら、かれらの用いる言語、なかでも「漢字」というものがもつ規制力が強く影響しているのではないか、と考えています。「中華」という言葉には、「中央／真ん中／文明的」といった意味があります。</p>

<p>このようにいうと、多くの日本人は、そうした意味をもつ言葉を自らの国名に使う中国に対し、尊大なイメージを抱くようですが、かれらには、自分たちのいる場所を表現する言葉が、「中国」「中原」「中華」といったものしかなかったのです。</p>

<p>おそらく春秋戦国時代の諸侯たちは、それぞれ自分たちの国こそが「中華」だと思っていたことでしょう。</p>

<p>それが近隣の諸侯たちと競い合う中で、徐々に明らかに優劣がつくようになり、最終的にトップに上りつめた者が「天子」として諸侯たちの上に立つという政治体系が確立されていったのです。</p>

<p>こうして「天子」を中心とした政治体系が構築され、その体系に組み込まれた範囲が同化・均質化していくことで「中華」と認識される範囲が広がっていきました。</p>

<p>もともとは「中心」という意味でしかなかった「中国」や「中華」といった言葉が、「もっとも良い場所」「すぐれた文明の中心」という意味に拡大されていったのは、自分たちの体系に属さない異質な者たちを、「華」の対極に位置する「夷」と見なしたことと関わっています。</p>

<p>言語的に、「華」が「中（センター）」と同一であることから、対極の「夷」は「外」と結びつき、「中華（文明人）」と「外夷（野蛮人）」という対立構造を生み出すことになります。</p>

<p>こうして生まれた「中華」「外夷」という言葉を使う中で、中国の人々は、自分たちは文明的ですぐれているという意識をもつようになっていったと考えられます。</p>

<p><img alt="華夷意識の模式図" height="864" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251114Okamototakashi01.jpg" width="1200" /></p>

<p>こうした意識を、模式的に図に表したのが、上記の図です。</p>

<p>同心円の中心にある「中央」は、「天子」のいる場所です。</p>

<p>中国史の始まりの時期において、中央の場所が具体的にどこにあたるのかというと、現在の地名では河南省、洛陽市のあたりでしょう。そこは、中国最古の王朝といわれる「夏」や「殷」などの都が置かれた場所です。そして、その周囲に広がる「中華」は、天子を支える諸侯たちです。</p>

<p>中華をとり囲む「朝貢」とあるゾーンは、中華の直接的な政治体系の外に位置するけれど、天子の徳を慕い、貢ぎ物を捧げ、そのかわりに天子の教化と庇護を受ける国々のことです。それなりに関係は密なわけです。</p>

<p>その「朝貢」の、さらに外側に位置するのが「外夷」です。</p>

<p>さらにこの図は、中心を頂点とした円錐として立体的にとらえることで、階層構成を表すこともできます。つまり、円錐の頂点（＝同心円の中心）に位置する天子がもっとも高貴な存在であり、円の外側に行くにしたがい階層も低くなるということです。</p>

<p>この図では便宜上、各層が同じ幅に描かれていますが、実際には等間隔だったわけでもなければ、層がきっぱりと均等に分かれていたわけでもありません。円の中心に近いほど「中華度」が高く、遠ざかるほど低くなるのですが、実際の変化はまだらなグラデーション状に広がっていました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>儒教が上下の秩序を決めた</h2>

<p>そして、この四重の同心円は、大きく「中華」と「外夷」に二分されるのですが、その境界線は中華と朝貢の間ではなく、朝貢と外夷の間に存在します。なぜなら、世界を「中華」と「外夷」に大別する中国の世界観の根底にあるのは、「儒教」の価値観だからです。</p>

<p>儒教とは、中国で誕生した東アジア最古の体系化された思想です。</p>

<p>儒教では「仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌・貞」などの徳目を重視しますが、その中で中華思想と深く関わっているのは「礼」です。</p>

<p>「礼」とは「礼儀」のことです。日本でも礼儀は身近な徳目なので、あまり意識していないかもしれませんが、実は「礼儀」というのは、上下関係をベースとした作法なのです。</p>

<p>お辞儀にしても、挨拶にしても、その基本は、相手を敬い、自分はへりくだることです。つまり、そこにある関係は、常に上下を意識したもので、対等の関係ではありえないのです。</p>

<p>では、儒教の人間関係は、何を基準に上下が決まるのでしょうか。</p>

<p>儒教でもっとも敬われるのは、「仁」という徳をそなえた人です。</p>

<p>先に儒教が重視する徳を紹介しましたが、「仁」は徳の中でも特別で、ほかの徳すべてを兼ね備えた、いわばパーフェクトな徳なのです。</p>

<p>すべての徳を身につけた人は、いいかえれば、儒教に精通し、その教義を実践している人になります。</p>

<p>中国では、こうした考えは人間関係だけでなく、国と国との関係にもあてはめられました。つまり、「華」という言葉で表された文明の高さは、とりもなおさず、いかに儒教を身につけ実践しているかで決まる、ということです。</p>

<p>天子が諸侯の頂点に位置するのも、ほかの諸侯より天子の徳が高いからだというのが、実際はともかく、中国の論理です。</p>

<p>こうした論理がわかると、なぜ世界が中華と外夷の二つに大別されるのか、「朝貢」と「外夷」の決定的な違いは何か、ということが理解できるようになります。</p>

<p>朝貢は、中華の政治体系には属さないけれど、天子の徳を慕って、貢ぎ物をもって頭を下げに行くことで敬意を表します。そのため上下関係が明確になり、礼に適っていることになります。つまり、中華に「礼」を尽くしているわけです。</p>

<p>これに対し外夷は、徳の高い天子に対し、敬意を払った言動をしないので、礼に適わない「失礼な」集団だということになります。</p>

<p>現代でも、礼儀作法を知らないと、白い眼で見られたり、批判されたりします。</p>

<p>「夷」が野蛮人と見なされた（あくまでも中国の儒教的価値観に則ったものですが）のは、朝貢という「礼」を失したことで、最低限の礼儀作法すら知らない未開の野蛮人、と断じられたからなのです。</p>

<p>現在の中国は国民国家を自称しているので、自分たちと価値観が違うからといって、すぐに相手を蔑むようなことはしません。それでも中国外交が「上から目線」や「横柄」と評されるのは、やはり自分たちと価値観を異にする相手、なかでも自分たちに礼を尽くさない相手を「外夷＝野蛮人」だとみる感覚が残っているからなのだと思います。</p>

<p>それもある意味、仕方のないことだといえます。</p>

<p>中国の人々が「国民国家（nation）」や「国際関係」といった観念を知ったのは、つい最近、19世紀の後半になってからのことだからです。かれらはそれまで何千年間も、「中国の論理」の中で生きてきたのです。</p>

<p>そして何よりも、「文字（漢字）」と、それに裏打ちされた意味づけが強く働いています。人は言葉を用いて思考します。そのためかれらは、漢字がもつ意味から逃れて物事を考えることができないのです。</p>

<p>中国語には「漢字にかわる文字がない」。まさにそのことが、世界を自分たちの仲間である文明的な「中華」と、それ以外の野蛮人「外夷」に大別することにつながっているのだと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 21 Nov 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岡本隆司（早稲田大学教授、京都府立大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>大滝と紅葉の名勝・箕面山　銘菓「もみじの天ぷら」に映す山岳信仰  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13163</link>
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			<description><![CDATA[古くから修験道をはじめとした山岳信仰の修行の場であった大阪府北摂の箕面市。その歴史を探訪する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="瑞雲橋" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251023Rekishikaido01.jpg" width="1200" /><br />
写真：箕面滝道に架かる瀧安寺（りゅうあんじ）の瑞雲橋（ずいうんきょう）。右手の建物は、役行者（えんのぎょうじゃ）の御影を収める鳳凰閣（ほうおうかく）。平成30年（2018）の台風によって大破したが、令和3年（2021）に再建された</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず! 「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>大阪府北摂の箕面市。その市街地に接する身近な地でありながら、箕面山は、大滝と渓流、そして、新緑から紅葉と季節ごとの彩りに染まるもみじの森が美しい、自然豊かな行楽の地である。大阪府営の箕面公園、明治の森箕面国定公園としても知られる。また、古くから修験道をはじめとした山岳信仰の修行の場とされ、数々の古刹がその歴史を伝えている。</p>

<p>その大滝へと向かう「滝道（たきみち）」沿い、立ち並ぶ土産物店の店頭で目をひくのが、大きな鉄鍋で揚げられている「もみじの天ぷら」である。もみじの葉をその形のまま、甘い小麦の衣をまとわせて揚げた油菓子で、ほかの地域で見かけることはまずない。この珍しい銘菓を製造して100年という老舗に、地域との関わりを尋ねた。</p>

<p>【筆者：兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31 年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9 年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【編者：歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991 年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>大阪北摂の発展とともに、変遷してきた箕面公園</h2>

<p><img alt="紅葉の季節の箕面大滝" height="1199" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251023Rekishikaido02.jpg" width="1200" /><br />
写真：紅葉の季節の箕面大滝。滝の落差は33メートル。流れ落ちる姿が、穀物を入れて殻などを振り落とす農具「箕（み）」の面に見えることから、この名があり、地域名の起源ともなった〔写真提供：箕面市〕</p>

<p>平安時代後期から和歌に詠まれるなど、古くより知られた景勝地の箕面山・箕面滝だが、近代公園として地域が開発されるのも早かった。まずはその明治時代以降の歴史をたどってみたい。</p>

<p>明治6年（1876）の、公園設置の法制化をうたった太政官布告第16号を受け、大阪府は候補地として住吉などともに箕面山を上申。明治31年（1898）に至って、箕面山の大滝と滝道の一帯が、府営箕面公園となる。明治43年（1910）には、現在の阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の宝塚線と箕面支線が開通し、公園の玄関口として箕面駅が設けられて一気に利便性が高まった。</p>

<p>さらに箕面有馬電気軌道は、旅客誘致を目的に箕面駅開設に合わせて、駅の山手に面積およそ3万坪という当時国内最大規模の動物園を開業。海外からゾウ・ライオン・トラなどを集めるとともに、まだ珍しかった噴水や観覧車を園内に可動させ、舞楽堂でおとぎ芝居を上演するなどした。</p>

<p>翌年には、駅に隣接して公会堂やカフェもオープンし、駅周辺と動物園を会場に「箕面山林こども博覧会」を開催。円形軌道の児童電車や滑り台などの大型遊具、ゾウの曲芸が人気を集め、動物園内では、ラクダやロバに乗っての周遊も楽しめたという。</p>

<p>箕面動物園は大正5年（1916）に閉園するが、以後、箕面駅周辺は住宅地としての開発が図られ、宝塚に移築された公会堂は少女歌劇の会場として活用されている。</p>

<p>一方、箕面公園は、阪神間の都市化と人口増加が進展するなか、自然環境と歴史的景観に親しめる郊外の地として注目され、都市住民の憩いの場となっていく。大正13年（1924）には、そうした動向に応えて公園内の大整備がなされ、登山回遊路や休憩所・広場が新設されている。</p>

<p>昭和29年（1954）、箕面公園一帯が名勝箕面山として文化財保護法による指定を受け、あわせて天然記念物箕面山サル生息地に指定された。昭和42年（1967）には、箕面公園と周辺の山々が明治の森箕面国定公園に指定。</p>

<p>「明治の森」とは、明治百年を記念した自然公園の整備事業で、東京都の高尾山を中心とする高尾国定公園とともに対象となり、二つの公園は東海自然歩道によって結ばれている。平成2年（1990）、日本の滝百選に箕面滝が選ばれてもいる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>修験道の創始者を呼び寄せた、神仏が宿る大滝</h2>

<p>江戸時代の寛政10年（1798）刊行の地誌にして観光案内書『摂津名所図会』は、箕面山内の景観と紹介に多数の頁を割く。</p>

<p>一節に「秋の末は三千の樹々錦繡（きんしゅう）の如く...、京師（けいし）浪速（なにわ）の騒人、霜葉（そうよう）を踏んで競い来る」とあり、当時すでに紅葉の名所として知られ、多くの人が訪れたことがわかる。そして、同書に掲載された伝承からは、行楽地だけでない、信仰の地としての箕面の山の姿が見えてくる。</p>

<p>白雉年間（650～654）の昔、大和葛城で修行していた修験道の祖・役行者は、北西の彼方に霊光を見た。それに向かって三鈷（さんこ）を投げると、はるか雲中を飛ぶ。そのあとを追って役行者がたどり着いたのが、箕面の滝であった。忽然（こつぜん）と出現した老翁の導きのままに、水源の洞窟で修行に入ると、龍樹菩薩（りゅうじゅぼさつ）が現れて告げる。「行者を待つこと久しかった。この滝地はわが浄土である。弁財天の法を求め、ここに尊像を安置すべし」と。菩薩より数々の秘法を授かった役行者は、霊木をもって弁財天を刻み、社にまつったという。</p>

<p>その弁財天を本尊として今に伝えるのが、現在の滝道沿いにある瀧安寺（りゅうあんじ）である。先の伝承の出典も、同寺に伝わる『箕面寺秘密縁起』と見られる。この寺院は、かつて修行の場として大滝の近くに懸造（かけづくり）の堂宇を構えていたが、文禄5年（1596年）に近畿地方を襲った伏見大地震によって荒廃。江戸時代初期に後水尾天皇の勅命を受けて、霊山の入口といえる現在地に再興された。</p>

<p>弁財天は水の神であり、大滝の化身でもあろう。修験道をはじめとした山岳信仰は、恵みをもたらす水源の山への原始の信仰を起源とするともいう。箕面の滝の上に竜穴があり、旱天（かんてん）のときに村民がここに祈ると必ず雨が降る。そんな記述も『摂津名所図会』にある。</p>

<p>修行を続けた役行者は、箕面山の北側にある天上ヶ岳で入滅したと伝え、標高499メートルの山頂は瀧安寺の奥の院とされ、昇天所の碑と霊廟（れいびょう）がある。</p>

<p>箕面山には、山岳信仰を元とする寺院がほかにも所在する。役行者が大滝で修行中、山が鳴動して光明より老翁の姿で現れたという大聖歓喜天をまつる聖天宮西江寺。奈良時代に摂津国守の子、善仲・善算の兄弟が草庵を置き、彼らに師事した桓武天皇の異母兄・開成（かいじょう）皇子がひらいた道場、弥勒寺（みろくじ）を前身とする、西国三十三所観音霊場第23番札所の勝尾寺（かつおうじ）である。</p>

<p>「聖（ひじり）の住所はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山......南は熊野の那智とかや」。平安時代にはやった都の歌謡では、修行者たちが集う聖地の筆頭に数え上げられている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>天然の霊力を封じた、色づくもみじのおもてなし</h2>

<p><img alt="店頭でもみじの天ぷらを揚げる「桃太郎」の御主人、奥野さん" height="803" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251023Rekishikaido03.jpg" width="1200" /><br />
写真：店頭でもみじの天ぷらを揚げる「桃太郎」の御主人、奥野さん。秋の繁忙期には、一日に千枚ほども製造するとか</p>

<p>深山を修行の場としただけに役行者ゆかりの地は、紅葉の名所として知られるところが多い。箕面山もその一つだが、興味深いのは、名物のもみじの天ぷらの由来にも、行者との付会が語られることである。役行者が箕面山で修行していた際、滝に映える紅葉の美しさを称え、その葉を灯明に用いていた菜種油で揚げて、訪れた修行者に振る舞ったのが、もみじの天ぷらの始まりという。﻿</p>

<p>そんな話を教えてくれたのは、滝道沿いの店舗「桃太郎」で、もみじの天ぷらを製造販売している御主人・奥野輝夫さんである。店頭には、あわせて扱っている招き猫や梟（ふくろう）などの縁起物の置物や、オリジナルのピンバッチやキーホルダーなどの箕面公園のお土産もたくさん陳列されていてにぎやかである。</p>

<p>「このお店はもともと、明治34年（1901）に開業した峠の茶屋でした。当初は団子などの和菓子を手作りして売っていましたが、100年ほど前、昭和に入る前後のころに、当店の先代が土産物として最初にもみじの天ぷらの製造販売を始めたと、地元の案内でも紹介していただいています」。</p>

<p>製法について尋ねると、もみじの天ぷらには手間暇がかかっていることを教えられた。素材のもみじの葉は、一行寺楓（いちぎょうじかえで）のものを限定して使用。葉が薄く、秋の紅葉時に赤くならず、鮮やかな黄色に染まるという特徴がある。「桃太郎」では自前の畑で栽培している楓を使っていて、黄色くなった葉を収穫して用いているが、青葉だと灰汁が強く、ほかの種類の赤い葉では綺麗な色に仕上がらず、食感もよくないという。</p>

<p>収穫した葉は水洗いしたのちに塩漬けし、1年間寝かせて灰汁（あく）を抜く。そして、揚げる前に塩抜きをして脱水し、水で溶いた小麦粉に砂糖・白胡麻（ごま）を加えた衣をつけ、中温の菜種油で約20分、ゆっくりときつね色になるまで揚げる。店頭で実演しているが、実は揚げたてのものは提供していない。2、3日おいて十分に油を切ったのちに袋詰めして販売し、パリポリとした食感と胡麻の風味が身上である。</p>

<p>「葉が薄く柔らかいので、上手く衣をつけて油に入れないと折れてしまい、きれいな葉の形に揚がりません。慣れないと難しいところです。観光の人出が多い紅葉の時期は、製造が追いつかないほどなのですが、ちょうど新しい葉の収穫時期でもあって、早朝に採りに行くことになるのでたいへんです」</p>

<p>近年、箕面を訪れる海外の人も増えていて、そちらの評判も聞いてみた。「コロナ禍以後は、特に欧米の方が多くなりました。彼らにとっては、木の葉を食べるというのは奇異なことらしくて、以前は恐る恐るという感じでしたが、最近はSNSなどで調べて来られる人も多いようで、箕面に来たら食べてみようということで購入される方が多いのですよ」</p>

<p>そんな野趣も感じさせる、もみじの天ぷらだが、山岳修行とは、山の自然から心身に霊力を得るものともいわれる。そうとすると、この天然由来の調理品もまさにその手段ともいえ、先の役行者創始説も所以（ゆえん）がないともいいがたいのであった。</p>

<p>瀧安寺ではもみじが色づき始める11月7日に、境内の大護摩道場で「採燈大護摩供（さいとうおおごまく）」が催行される。毎年4月15日・7月7日とあわせて3回実施される行事で、参拝者の願いを書き添えた護摩木をたきあげて不動明王に祈り届ける。燃え上がる炎と煙が渦巻くなか、法螺貝（ほらがい）の音が響き渡り、箕面山が修行のパワースポットであったことを改めて感じさせられる。</p>

<p>先立って、山伏姿の行者たちが箕面駅前に集結し、滝道を瀧安寺まで練り歩く「山伏大行列」も行なわれ、こちらも見ものである。もみじの天ぷらをかみしめながらの見物も一興であろうか。</p>

<p><img alt="瀧安寺の本堂の弁天堂" height="800" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/251023Rekishikaido04.jpg" width="1200" /><br />
写真：瀧安寺の本堂の弁天堂。寺院境内随所に鳥居が立ち、仏と神を一体としてきた修験道の在り方を伝えている</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 30 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>大奥経費70％削減を断行した松平定信　超緊縮財政は成功したのか?  岡田晃（経済評論家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13057</link>
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			<description><![CDATA[大河ドラマ『べらぼう』に登場する松平定信。42％の歳出削減、大奥経費70％カット、蔦屋重三郎への処罰など厳しい政策を実施。その妥当性を経済評論家・岡田晃氏が検証する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="勝林寺にある田沼意次の墓" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/pixta_tanumaokitsugu.jpg" width="1200" /><br />
勝林寺にある田沼意次の墓（東京都豊島区）</p>

<p>大河ドラマ『べらぼう』に登場する松平定信は、大奥や江戸市中にも倹約を求めていく。実際、彼の政策はどのようなものだったのか。そしてその政策に妥当性はあったのか？ 経済評論家の岡田晃氏が概説する。</p>

<p>※本稿は、岡田晃著『徳川幕府の経済政策――その光と影』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>田沼意次への追加処分と田沼色の一掃</h2>

<p>天明7年(1787)6月、定信は老中に就任した。時に30歳。新将軍の家斉はまだ15歳であり、定信は事実上の政権トップの座に就いた。</p>

<p>定信がまず行ったのが、意次への追加処分と田沼色の一掃だった。</p>

<p>定信の老中就任の時点では、意次は老中免職と減封になったとは言え、3万7000石の大名の身分にとどまっていた。定信はそれを許さなかった。同年10月、意次に相良城を没収のうえ隠居・謹慎を命じ、さらには没収した相良城の建物から石垣の1つ1つに至るまですべてを破却させた。江戸時代に大名改易は数多くあったが、ここまで城を徹底的に破却したのは例がない。田沼の痕跡そのものを消し去ろうとしていたように見える。</p>

<p>政策面では、田沼時代の政策を転換するとともに、賄賂の禁止、質素倹約の徹底と統制強化、農村復興などを次々と打ち出していった。その主なものを見ていこう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>倹約の大号令、42％歳出削減の超緊縮予算</h2>

<p>まず、質素倹約の徹底を柱とする超緊縮政策だ。</p>

<p>当時の幕府財政の状況を見ると、吉宗時代末期に180万石の最高を記録した年貢収納高はその後は漸減傾向となっていたが、それでも安永年間(ほぼ1770年代)には150万石余りで推移していた。ところが天明の大飢饉の第1波となった天明3年(1783)に129万石に急減した。その後やや持ち直したものの、次のピークとなった天明6年にはさらに108万石まで落ち込んでいる(大野瑞男『江戸幕府財政史論』)。</p>

<p>天明7年に老中に就任した定信は、幕府財政の深刻さを知って愕然とする。その時の様子について、定信は自伝『宇下人言』で次のように書いている。</p>

<p>「勘定奉行に財政状況を尋ねると、凶作と将軍・家治逝去のため入用が多く、100万両の不足が見込まれると言う。老中1同みな初めて聞いて驚くばかりだった」(筆者が現代語訳)。</p>

<p>この時、幕府の金蔵には81万両しか残っていなかったという。明和7年(1770)には300万両もあったものが、年々減少していたのだ。</p>

<p>そこで定信は、向こう3年間の厳格な倹約を命じる大号令を発した。倹約令は吉宗時代や田沼時代にも発令されているが、定信のそれはより厳しい内容だった。倹約令の翌天明8年(1788)、歳出(金での支出分)を前年の240万両から140万両へと、42％も削減する予算を策定。実際の歳出は予算より19万両余りオーバーしたものの、それでも34％の大幅削減に成功している(飯島千秋『江戸幕府財政の研究』)。</p>

<p>特に大奥の経費を大幅削減した。かつて吉宗が大奥にメスを入れたが、その後は規模が拡大し生活も派手になり経費が膨れ上がっていた。そのため同年の予算では、大奥経費を吉宗時代の享保15年(1730)から70％削減するという大ナタを振るった(同書)。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>奢侈を禁止、消費抑制と統制強化</h2>

<p>倹約令は幕府の歳出削減にとどまらず、一般庶民の衣食住にわたっても厳しく定め、広く世の中全体の奢侈を抑えることを狙いとしていた。ここに、定信政治の1つの特徴が表れている。</p>

<p>定信は自著『物価論』の中で「生活全般が奢侈となったことにより、物をつくらない町人が増えたり、生活必需品の消費が増えたり、商人が利益の計算に聡く、利益をえるためにあらゆる知恵や手段を用いる悪い風潮を生み出しており、すべての物価騰貴をもたらした根源は奢侈である」としている(高澤憲治『松平定信』)。</p>

<p>ここには「そのような風潮をつくったのは田沼意次」との批判が込められているのだが、奢侈的な消費を抑えるため、華美な箔類の団扇や紙煙草入れの製造を禁止するなど事細かに統制令を頻発し、大きな雛人形や銀製キセルを販売した商人を処罰もしている。</p>

<p>風俗や娯楽への取り締まりも強化した。中でも象徴的なのが、浮世絵の版元・蔦屋重三郎の処罰だ。田沼時代には自由な雰囲気が広がる中で浮世絵や洒落本、狂歌などが流行し、重三郎はヒット作品を次々にプロデュースして巨万の富を築いていた。定信は、山東京伝が出版した洒落本が風俗を乱したとして摘発、本を出版した重三郎に財産の半分没収という厳しい処罰を下した(だが重三郎はそれにもめげず、その後も喜多川歌麿や東洲斎写楽などを世に送り出している)。</p>

<p>高澤氏によると、定信は「倹約令や風俗統制令を発令すると江戸の景気が悪化し、それにより帰村者が増えれば、江戸において奉公人の給金が下がり、農村では就農する者が増え、手余り地(耕作が放棄された土地＝筆者注)が復興して生産量が増える。その結果、生産と消費の釣り合いが取れて物価が安定する」と予想していたという(前掲書＝引用の1部省略)。</p>

<p>実際、江戸の景気は定信の予想通り悪化した。だが農村は狙い通りにはならなかった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>米の備蓄と増産で農村復興めざす─「米本位制」への回帰</h2>

<p>農村の復興対策としては、旧里帰農令が有名だ。当時は飢饉や年貢の取り立てから逃れるため多くの農民が江戸に出て来ていたが、そのうち帰農を望む者に旅費や農具代などを与えて帰農を促すという内容だ。</p>

<p>定信のシナリオそのものだ。同令は寛政2年(1790)、同3年、同5年の3回にわたって発令されている。だが効果は上がらなかった。もともと江戸に出てきた人たちは農村での生活が行き詰まって出てきたのであって、荒廃した村に帰っても生活再建の見通しなど立たない。結局、同制度で帰農した者は、わずか4人だったという。</p>

<p>一方、荒廃した農地の再開発を促進するため、公金貸し付けを大規模に実施した。幕府直轄領の代官が公金を預かって近隣(大名領を含む)の富裕農民に貸し付け、その利子で農村の再開発などを行い復興を図った。</p>

<p>飢饉への備えとしては、幕府直轄領で村ごとに郷蔵を設置して米や穀類を貯蔵させ、大名には1万石に50石の割合で米の貯蔵を命じた。米は、より保存のきく籾で蓄えさせた(囲籾)。</p>

<p>農村人口の回復にも力を入れた。間引きを禁止するとともに、児童手当を支給した。当初は、2人目の子どもに1両とし、後に2両に増額している。現在の少子化対策の先駆けのようなものだ。</p>

<p>このほかさまざまな負担軽減策も実施している。いずれも農村の復興が直接の目的だが根底には「米が国家の基本」という定信の思想があった。飢饉への備えという観点からだけでなく「物価騰貴が起きるのも米の生産が足りないからであり、米の生産を増やすことが農村復興の基本だ」と考えた。農本主義、「米本位制」への回帰である。</p>

<p>定信が発した倹約令には、定信の考え方がよくわかる文面がある。</p>

<p>「百姓は、粗末な服を着て、髪は藁で束ねることが古来の風儀だ。ところが近年いつとなく奢りに長じ、身分の程を忘れ、不相応な品を着用する者もいる。髪は油元結(髪油をつけて束ねること)を用いるなどしている。(中略)百姓が余業の商い(本業である農業以外の商売)をすることや、村々に髪結い床(髪結いを行う店)があることなどは不埒である。今後は奢りがましきことを改め、質素にして農業に励むように」(現代語訳は筆者)</p>

<p>ここに記されているように、定信は、贅沢禁止とともに、農家は米づくりに専念すべきだとの考えを持っていた。そのため、酒造制限令や商品作物栽培の制限、農業の合い間に商業に携わることの禁止などを打ち出した。</p>

<p>酒造は大量の米を使用するため、幕府は江戸初期から1定の酒造制限を実施していたが、田沼時代には「勝手造り令」によって、代官所や奉行所に届け出すれば新規に酒の醸造ができるようになっていた。だが天明の大飢饉によって米を確保する必要性から、酒の生産量を3分の1に制限していた。</p>

<p>定信は飢饉が収束しても、これを継続させた。定信は「酒は嗜好品であり、物価安定が必要な日用品とは違う」と考えていた。酒造制限は、奢侈制限の1環でもあったわけだ。</p>

<p>商品作物の栽培も制限した。菜種や綿は生活必需品の原料(菜種は油、綿は木綿の着物)として栽培を認めたものの、煙草、藍、桑など幅広い作物を制限の対象とした。</p>

<p>だが商品作物の栽培はすでに広く普及しており、地域によっては特産品や重要な収入源として育っている。定信の目にはそれも田沼時代の悪しき商業主義として否定すべきものと映ったのだろうが、明らかに時代に逆行するものだった。</p>

<p>定信は寛政の改革を進めるにあたり、祖父である吉宗の享保の改革を手本にしたと言われている。だがこれらの農業政策を見ると、家康の時代まで戻そうとしていたとさえ言える。いわば、&quot;先祖返り&quot;だ。しかし200年も前の状態に戻すことなどできるはずもなかった。</p>

<p>定信の農業政策には前述のように飢饉への備えや児童手当など、個別に見れば評価すべきものも多い。しかし天明の大飢饉であらわになったように、すでに「米本位制」そのものが矛盾を抱え限界に達していたのだ。</p>

<p>物価上昇についても、定信は商人の買い占めが原因として取り締まったが、より根本的には生活水準の向上によってさまざまな商品への需要が増大するという大きな流れがあった。したがって全体的に供給を構造的に増やすような政策が必要だったのだ。つまり、時代の流れに対応して「米本位制」から脱却して新たな経済体制に移行していくことが必要だったのだが、定信は逆のことをやってしまったのである。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Sun, 26 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岡田晃（経済評論家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>朝ドラ『ばけばけ』 レフカダ・ヘブンの名前には意味がある？ 小泉八雲の生い立ち  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13162</link>
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			<description><![CDATA[朝ドラ『ばけばけ』のレフカダ・ヘブンは、ラフカディオ・ハーンがモデル。その名の由来に秘められた“さすらいの運命”をたどる。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ラフカディオ・ハーン" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu3.jpg" width="1200" /><br />
原典：http://www.trussel.com/f_hearn.htm</p>

<p>連続テレビ小説『ばけばけ』の主人公・松野トキは、松江にやってきた英語教師、レフカダ・ヘブンと出会うこととなる。そのモデルは、あのラフカディオ・ハーン、つまり小泉八雲である。だが、そのハーンも、松野トキのモデル・小泉セツ同様に、苦難の前半生を歩んでいた。</p>

<p>ここではまず、ハーンの暗雲垂れ込める生い立ちを紹介しよう。そこからは、レフカダ・ヘブンの名前に込められたものも見えてくるかもしれない。</p>

<p>※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「さすらい人」の運命</h2>

<p>ラフカディオ・ハーンは、1850年（嘉永3）6月27日に生まれた。日本にペリーがはじめて来航する3年前である。生誕地は、ギリシャの西方海上にあるイオニア諸島の一つ、レフカダ島。古代ギリシャの女流詩人・サッフォーが身を投げたなど、ハーンの生誕地にふさわしく多くの伝説が残る島である。</p>

<p>父は、アイルランド出身で、イギリス陸軍の軍医補チャールズ・ブッシュ・ハーン（1819〜1866）だ。</p>

<p>ギリシャは1832年（天保3）から独立を認められていたが、イオニア諸島は当時イギリスの保護下にあり（田部隆次『小泉八雲　ラフカディオ・ヘルン』）、イギリス軍が駐在していた。</p>

<p>だが、ハーンが生まれた時、父・チャールズは本国に召還されており、誕生に立ち会っていない。ハーンがはじめて父と対面するのは、1853年（嘉永6）、3歳の時である。</p>

<p>ギリシャ人の母、ローザ・アントニウ・カシマチ（1823〜1882）は、イオニア諸島最南端のキシラ島（チェリゴ）の、名門の家に生まれた。ハーンは、チャールズとローザ夫妻の次男である。</p>

<p>当時、アイルランドはイギリスに併合されており、アイルランド人の父をもつハーンの国籍は、イギリスである。</p>

<p>ハーンは、生誕の島「レフカダ島」にちなみ、パトリキオス・レフカディオス（英語読み：パトリック・ラフカディオ／以後、英語読みで表記）と命名された。「パトリキオス」は、アイルランドの守護聖人「パトリック」のギリシャ語読みである。</p>

<p>パトリック・ラフカディオ・ハーンが彼の名となるが、レフカダは古代ギリシャ語で「彷徨」という意味を持ち、ハーンの由来はラテン語のErrare（漂泊）だという（芦原伸『へるん先生の汽車旅行　小泉八雲と不思議の国・日本』）。</p>

<p>その後のハーンが辿る果てしなき流浪の日々を、運命づけるような名であった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>誰からも祝福されなかった両親の結婚</h2>

<p>ハーンの父・チャールズの家は、イギリスから渡ってきた「アングロ・アイリッシュ」と称される上層階級に属していた。人口のほとんどがカトリックであるアイルランドにおいて、アングロ・アイリッシュはプロテスタントを信仰している。</p>

<p>父・チャールズはウェーヴのかかった黒っぽい髪と、丸い大きな瞳、彫刻を施したかのような美しい鼻をした美男だった。</p>

<p>一方、母・ローザは、ギリシャ正教の熱心な信者で、ふっくらした丸い顔に黒い瞳が煌めく、際だった美貌の持ち主だったという（以上、Ｏ・Ｗ・フロスト著、西村六郎訳『若き日のラフカディオ・ハーン』）。</p>

<p>美男美女の二人が出会い、恋に落ちたのは、チャールズが1848年（嘉永元）4月に赴任した、キシラ島だったとされる。</p>

<p>だが、二人の結婚は、ローザの家族をはじめ、周囲の人々に猛反対された。イギリスへの敵愾心も、その理由の一つだったといわれる。</p>

<p>一説に、チャールズはローザの兄弟に闇討ちされ、半死の状態に陥り、ローザの介抱により、一命をとりとめたとされる。</p>

<p>これは作り話とみられているが（田部隆次『小泉八雲　ラフカディオ・ヘルン』）、ハーンは、両親のドラマティックな恋物語を信じていたのかもしれない。</p>

<p>後年ハーンは、「私の両親の結婚については奇談がある」と手紙に綴ったという。</p>

<p>翌1849年（嘉永2）6月、チャールズはレフカダ島のイギリス軍基地に転属となり、ローザを伴って赴任した。 同年7月には長男ジョージ・ロバートが誕生し、11月にはギリシャ教会で結婚式を挙げている。</p>

<p>だが、チャールズの上官はローザとの結婚に反対だった。チャールズもこの結婚に不安を覚えていたのか、イギリス陸軍省に結婚報告書をすぐに提出せずに、2年もの間、留保している。</p>

<p>ハーンの両親の結婚は、誰からも祝福されなかったのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Sat, 25 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>朝ドラ『ばけばけ』のモデル・小泉セツ　初めての結婚と実家の没落  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13161</link>
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			<description><![CDATA[朝ドラ『ばけばけ』のモデル小泉セツ。父の死と夫の出奔を経て、のちに小泉八雲と出会うまでの苦難の人生をたどる。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="小泉八雲と妻セツ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu1.jpg" width="1200" /><br />
Wikimedia Commons/The Modern Review. October 1913</p>

<p>願っていた結婚を果たしたものの、実の父が亡くなり、そして夫がまさかの出奔&hellip;&hellip;。連続テレビ小説『ばけばけ』の主人公・松野トキは、次々と悲劇に襲われる。あまりにも劇的な展開だが、トキのモデルの小泉セツも、まさに同じような体験をしていた。セツがたどった苦難の道のりとは――。</p>

<p>※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>絶望する婿養子と、実家の倒産</h2>

<p>明治19年（1886）、セツが18歳の年に、稲垣家の立て直しを図り、鳥取藩士であった前田小十郎の次男・前田為二が婿養子として迎えられ、セツと結婚した（入り婿婚）。</p>

<p>前田家は稲垣家と同じように困窮した士族で、為二は28歳だった。</p>

<p>物語好きのセツは、為二にも物語をせがんでいる。為二から聴いた「鳥取の布団」の話を、セツはハーンに語っている。</p>

<p>セツは浄瑠璃が好きな為二から勧められ、近松門左衛門の作品をたくさん読んだり、また当時、流行っていた月琴という弦楽器の演奏を教わったりしていたようだ。セツは為二との結婚を、喜んでいたのかもしれない。</p>

<p>しかし、為二は、すぐに稲垣家に絶望することになる。稲垣家の窮状を知らずに、婿養子となったのだろう。</p>

<p>稲垣家は財産がないだけでなく、事業の失敗による負債まで抱えていた。それにもかかわらず、セツの養父・金十郎は善良だが働く気力がなく、働き手はセツと、セツの養母・トミの女二人のみ。</p>

<p>くわえて、セツの養祖父・万右衛門は口煩く、気位だけは高かった。</p>

<p>為二の勤め先は、県庁とも機業会社ともいわれるが、いずれにせよ、それほど高くはないであろう月給で、妻のセツをはじめ、妻の養父母・養祖父までも養うことを期待されれば、嫌気が差すのも無理はなかった。</p>

<p>同じ頃、セツの実家である小泉家も、次から次へと不幸に見舞われている。</p>

<p>まず、当初は順調だったセツの実父・小泉湊の織物会社が倒産した。小泉家は、かつては配下の者が暮らしていた長屋に居を移さねばならなかった。やがて、そこも追われ、セツが為二と結婚した明治19年の7月には、縁者の家に、一家で身を寄せている。同年の1月には、湊の次男・小泉武松が19歳で早世していた。</p>

<p>さらに小泉家の不幸は続く。湊がリウマチを患って、病に伏した。機織りの仕事を続けていたセツだが、その合間をぬって、実父の看病に勤しんだ。実母・チエが看病を苦手としていたため、セツは先の長くない実父から、幾度も感謝の言葉をかけられている。</p>

<p>湊の長男・氏太郎は、長男としての責任を顧みることなく、同年に町屋に住む娘と駆け落ちし、行方知れずとなった。こうして一年のうちに、小泉家は長男と次男を失ってしまったのである。</p>

<p>セツより二つ年下の三男・藤三郎は、長男、次男に代わって一家を支えるどころか、野山で小鳥を捕まえ、飼育することに夢中で、まったく働く気がなかった。</p>

<p>藤三郎の行状が腹に据えかねたのか、湊は重い病の床にあったにもかかわらず、ある朝、藤三郎の襟首を摑み、「親不孝者め、腐った根性を打ち据えやる」と、憑かれたように鞭を振るった。</p>

<p>駆けつけた家の者によって連れ戻された湊だが、病状は悪化し、明治20年（1887）5月、51歳でこの世を去った。セツ、19歳の年のことである。湊の采配で何とか持ちこたえていた小泉家だが、その死を境に、どん底へと突き落とされていく。</p>

<p>しかし、この年、セツが失ったのは、実父だけではなかった。セツの夫・為二が出奔するのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>夫の出奔</h2>

<p>明治20年（1887）、セツが19歳の年、セツの夫・為二が出奔した。貧窮する稲垣家に耐えきれなかったのだろう。実父と夫を失い、セツは窮地に陥った。</p>

<p>やがて、セツは為二が大阪にいるとの噂を耳にする。セツは使いの者を送り、帰って来るように頼んだが、聞き入れられなかった。諦めきれないセツは、何とか旅費を工面し、自ら大阪まで迎えに行っている。</p>

<p>為二に会うと、セツは「帰って来てほしい」と懇願したが、為二は冷酷な言葉を浴びせるだけだった。</p>

<p>この時セツは、橋の上から投身しようとまで、思い詰めた。だが、家族の顔が浮かび、思いとどまったという。松江に戻ったセツは、養家の稲垣家にくわえ、実家の小泉家も支えていく。あまりにも重い荷を背負ったセツであった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ハーンとの出会い</h2>

<p>セツの長男・小泉一雄の『父小泉八雲』によれば、セツと為二との離婚届けが正式に受理されたのは、明治23年（1890）1月で、事実上の離婚はそれより一両年前、稲垣家から為二の籍が完全に除かれたのは、明治34年（1901）9月だという。</p>

<p>離婚届けが受理されたことにより、セツは戸籍上、実家の小泉家に復籍した。</p>

<p>だが、セツが稲垣家を去ったのではなく、養父母たちと共に生活をしながら、実母チエや姉弟も、稲垣家に寄寓するという状況だったとみられている（高瀬彰典『小泉八雲の世界　ハーン文学と日本女性』）。</p>

<p>明治23年から明治24年（1891）にかけて、松江は大寒波に見舞われた。セツは貧困に喘ぐとともに、粗末な家で寒さに震えていた。</p>

<p>このまま家族もろとも凍死するのを防ぐため、セツはある決意を固める。外国人教師の住み込み女中の仕事を、引き受けることにしたのだ。</p>

<p>当時、外国人の住み込み女中となれば、「洋妾（ラシャメン）」、つまり外国人の愛人との非難を浴びる恐れがあった。だが、セツは家族を養うために、どんな汚名も被る覚悟を持っていた。</p>

<p>セツが住み込み女中となる外国人教師の名は、ラフカディオ・ハーン、のちの小泉八雲であった。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu1.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 24 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「第34期の三羽烏」服部卓四郎の知られざる前半生　日露戦争に憧れた少年が辻政信と出会うまで  岩井秀一郎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13059</link>
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			<description><![CDATA[太平洋戦争の作戦参謀・服部卓四郎はどう育ったのか。秩父宮や西田税と机を並べた士官学校時代、そして辻政信との運命的な出会い。帝国陸軍の中枢となった男の前半生を岩井秀一郎氏が解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="山形県鶴岡市の由良海岸と白山島" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_yamagatatsuruokashi.jpg" width="1200" /><br />
山形県鶴岡市の由良海岸と白山島</p>

<p>太平洋戦争における帝国陸軍の問題は様々に指摘されているが、歴史研究者の岩井秀一郎氏は、その著書『敗北の作戦参謀』で、「服部卓四郎」を典型とした「作戦参謀」という存在の重要性を指摘している。その服部はどのような経歴の人物なのか。その前半生をたどる。</p>

<p>※本稿は、岩井秀一郎著『敗北の作戦参謀』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「第34期の三羽烏」</h2>

<p>服部卓四郎は明治34(1901)年1月2日、山形県鶴岡市に生まれた。父は元庄内藩士の服部正徳で、卓四郎はその名の如く4男である。卓四郎の生まれた年は20世紀最初の年でもあり、彼は文字通り「新しい時代」、それも世紀の幕開けとほぼ同時に生を受けたことになる。</p>

<p>数年後、日本の存亡をかけてロシア帝国との戦争の火蓋が切って落とされるが、この時服部はまだ4歳(数え年、以下同じ)であり、事の重大性を理解するのは当然不可能だったと思われる。</p>

<p>しかし、この戦争が幼少の服部に与えた影響は決して小さいものではなかった。大東亜戦争後の回想で服部は、「毎日のように『日露戦争実記』という写真入りの雑誌を繙いては軍人に憧れた」というから、軍人になるきっかけの1つでもあったのである。</p>

<p>それでも、小学校時代には書が得意だったことから、「大きくなったら書家になろうかなどと考えたことがあった」と述べているように、絶対的と言えるほど人生を左右されたわけでもなかった。</p>

<p>また5歳から碁を打つことも覚え、父の代わりに打ちにいく腕前にもなった。父からは「中学に進学したいならば今日限り碁を止めよ」と迫られると、「もう一切碁を止めるから、中学に入れて下さい」と答え、ここでようやく中学を卒業して陸軍幼年学校に入る道が開かれたのである。服部が書家の道、または棋士になることを選んでいたのであれば、日本の歴史はどうなったのであろうか。</p>

<p>服部は荘内中学校を卒業すると大正4(1915)年9月、仙幼(仙台陸軍地方幼年学校)へと入学する。戦後編纂された仙幼の学校史には服部は第19期生の筆頭として名を挙げられ、その経歴を述べて「かれは戦将にあらずして謀将であり、しかも戦場の謀将ではなく、高等統帥部の作戦家ともいうべき智将」と評している。服部が「高等統帥部の作戦家」だったのは事実であるが、その立場が的確だったのかどうかは後述する。</p>

<p>仙幼を出た服部は大正7年9月、今度は東京の中央幼年学校へと進み、同9年10月には第34期生として陸軍士官学校に入校する。ここでは、後に日中戦争(支那事変)の早期終結に奔走する堀場一雄、戦後防衛庁で戦史編纂に尽力する西浦進と机を並べ、「第34期の三羽烏」と称された。</p>

<p>この3人の結びつきは特別なものがあったようだ。3人は陸軍の中でも違う道を歩きながら、戦後相寄って活動を共にする。その中で、最初に世を去ったのは堀場一雄であるが(昭和28年10月)、その堀場への弔辞の中で、服部は次のように述べている。</p>

<p>君と西浦と服部とを、人は評して、合わせて1人前だと云います。私は全くその通りであると思います。しかも誇りを以って。</p>

<p>その服部も堀場の死から10年と経たないうちに逝くが、そこで葬儀委員長を務めたのが3人の中で最後に残された西浦進だった。西浦は40数年間の付き合いがある服部の死を悼み、「いま大きな心の支柱を失い、孤影残る人生を歩む寂しさを泌々と感じている」と記している。3人がいかに強固な絆で結ばれていたかがうかがえよう。</p>

<p>中でも、服部と西浦はそれぞれ統帥(参謀本部)と軍政(陸軍省)の中枢で大東亜戦争に関わり、戦争遂行にも影響を与えたといえる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>異質な同期生</h2>

<p>さらに同期で重要な人物といえば、秩父宮雍仁親王がいる。言わずと知れた昭和天皇の弟であり、後々歴史の重要な転換点(二・二六事件、日中戦争など)でも名前が出る人物だ。秩父宮とは中央幼年学校時代から同窓であったが、仙台から東京へ赴く際、教官から「お前たちのような田舎者が、殿下とご一緒の区隊に入ったら、それこそ大変だぞ」と「なかば冗談のように」脅されたという。皇族、それも後に昭和天皇となる人のすぐ下の弟となれば、場合によっては皇位につく可能性もある。教官の言葉も、大袈裟ではなかったであろう。</p>

<p>秩父宮はその後参謀本部などにも勤務し、戦時中は東條内閣の末期に東條英機の政治手法を問い糺すということもしている(昭和19年5月)。戦後になって50歳を少し超えたばかりで亡くなった(昭和28年)。</p>

<p>秩父宮の死後編まれた伝記には、服部も1文を寄せている。服部によれば秩父宮は「平民的」で特別扱いを嫌ったという。</p>

<p>皇族だからという、特別待遇は特に御嫌いで、演習等でも、背のうを負われ、銃を担いで終始、一緒に行動された。</p>

<p>庶民的で、自ら泥に塗れることも厭わない秩父宮の人気は高かったようだ。</p>

<p>秩父宮と関連してもう1人、重要な人物が服部と机を並べていた。</p>

<p>彼の名は、西田税。後の二・二六事件でクーデターの裏側にいた人物として刑場の露と消える人物である。西田は当時すでに国家革新運動に関与しており、庶民的な秩父宮に期待をかけていた。1時期などは、秩父宮を「大化の改新」で蘇我氏を倒した中大兄皇子に、自分を中臣鎌足に擬していたという。</p>

<p>この2人は服部の同期生の中でも異質といえるだろう。</p>

<p>秩父宮とはともかく、服部と西田の接点はそれほど多くない。しかし、1方は帝国陸軍の花形ともいえる作戦課の参謀として大東亜戦争に関与し、1方は「体制の変革」を求めてついには処刑される、という真反対の人生を辿った2人に加え、天皇に最も近い皇族の1人が同時期に士官学校にいたというのは、時代の巡り合わせのようなものを感じさせる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>運命の邂逅</h2>

<p>大正11(1922)年7月、服部は士官学校を卒業する。10月には歩兵少尉に任官し、第37連隊付となる。</p>

<p>元号が変わって昭和2(1927)年の12月になると、陸軍大学校へと入学する。陸大は将来軍を担うエリート養成コースであり、服部の後の経歴から考えても、敗戦さえなければ参謀総長や陸軍大臣となる可能性もあったといっていいだろう。</p>

<p>昭和5年に陸大を卒業した服部は連隊に戻って中隊長を務め、参謀本部付を経験した後に参謀本部第1部第1課の編制班に入った。ここで、服部と職場を共にしたのが辻政信であった。明治35(1902)年10月生まれ、士官学校は服部の2期下である辻は、当時(昭和7年)陸大卒業間もない頃であったが、第1次上海事変に参加し、受傷している。</p>

<p>辻は後年もしょっちゅう前線に出て数カ国の銃弾をその身に受けたが、その最初がこの上海事変だった。彼は野戦病院に入院したが脱走し、逃げるのではなくよりによって戦闘に参加し、病院長の怒りを買っている。</p>

<p>そして服部と辻は、この時期すでにお互いを認め合う関係になったようだ。これより少し後のことになるが、昭和12(1937)年、すでに日中戦争が勃発していた頃のことだ。当時、早期和平を目指していた石原莞爾は強硬派の武藤章らとの対立により関東軍に転出しており、辻もまた関東軍にいた。</p>

<p>服部は、同じく関東軍で少佐だった片倉衷に対し、「石原閣下関東軍に転出して」から参謀本部は中心を失っている、そこで「此の際辻君を是非当部第2課に転出せしめ度」、つまり石原を失った代わりとして、辻を呼び戻したいと訴えているのである。</p>

<p>服部の辻への評価はかなり高く、「目下の陣容を以てしては心細く此の際私共としては是非辻君を呼び度次第に御座候」とまで述べている。服部と辻が第1部でどのような点をもって意気投合したのかはわからないが、以後この2人は切っても切れない縁で結ばれることになる。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_yamagatatsuruokashi.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 23 Oct 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岩井秀一郎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>戦後史から消えた作戦参謀・服部卓四郎　辻政信より重要だった男  岩井秀一郎</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13058</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013058</guid>
			<description><![CDATA[太平洋戦争で2度も参謀本部作戦課長を務めた服部卓四郎。辻政信の陰に隠れて語られることの少ない人物だが、帝国陸軍の本質を体現していた。歴史研究者・岩井秀一郎氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sea.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争における帝国陸軍の問題は様々に指摘されているが、歴史研究者の岩井秀一郎氏は、その著書『敗北の作戦参謀』で、「服部卓四郎」を典型とした「作戦参謀」という存在の重要性を指摘している。そもそも、服部とは何者だったのか。岩井氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、岩井秀一郎著『敗北の作戦参謀』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「その男」はいなかった</h2>

<p>昭和25(1950)年8月、警察予備隊が設置された。</p>

<p>大東亜(太平洋)戦争に敗北し、陸海軍が解体されてから約5年、ようやく日本に再び「国防」の基礎となる実力組織が設置されたのである。予備隊はその後保安隊を経て、現在の自衛隊となる。</p>

<p>警察予備隊からは、当初旧軍人は排除されていた。当時の情勢から言えばこれは致し方ないだろう。部隊幹部の採用に際して時の首相吉田茂は旧軍人の採用を誰でも思いつく「最も手っ取り早い方法」としつつ、時代的に「これは差し障りの多いこと」としてこの方法を除外している。</p>

<p>しかし、旧軍人が排除されていたのも最初だけで、後には多くの元将校らが自衛隊へと参加している。陸上自衛隊で言えば、トップにあたる幕僚長に杉山茂、杉田一次の2人の元大佐、幹部学校長に同じく元大佐の井本熊男など、旧軍の佐官級が数多く入隊している。</p>

<p>自衛隊初期の旧軍人らの一部は、「服部グループ」と言われるグループの出身メンバーであり、戦後日本を支配したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)とも浅からぬ繋がりをもっていた。</p>

<p>グループの名前となっている「服部」とは、旧陸軍で大佐の地位にあり、大東亜戦争中は2度に渡って参謀本部第1(作戦)部第2(作戦)課長を務めた、服部卓四郎その人のことをさす。統帥、すなわち作戦に関わる事柄を司る参謀本部の中にあって、作戦課はその名の通り中心的な部署であった。</p>

<p>だが、グループのメンバーが数多く自衛隊入りしたにもかかわらず、服部その人はとうとう入隊しなかった。「敗北した戦争」において作戦立案の中枢にいた服部が戦後の国防を担う自衛隊に入ることは、あまりにも抵抗が大きかったのであろう。</p>

<p>それでも、服部の存在は日本再軍備と無関係ではなかった。警察予備隊創設に関わったアメリカ軍事顧問団のフランク・コワルスキー大佐によると、GHQ情報局のウィロビー少将は服部を強く支持し、予備隊の指揮を服部に任せるつもりで「全力をつくしてその実現に努めた」という。</p>

<p>ウィロビーは強烈な反共産主義者で、ダグラス・マッカーサーの信頼も篤かった。それでも、服部の予備隊(自衛隊)入りは叶わなかったのである。</p>

<p>服部はその後も自衛隊というよりは「日本軍」の再生、すなわち憲法を改正して「軍隊」をもてるようにするために言論活動を行ったが、とうとう彼自身は戦後の「国防」には直接関係はしなかった。</p>

<p>そして昭和35(1960)年4月30日、日米安全保障条約改定についての騒動(安保闘争)が激しくなってゆく中、59歳で死去した。服部が夢見た憲法の改正は、未だなされていない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>帝国陸軍の中枢</h2>

<p>既述したように、服部卓四郎は大東亜戦争中2度も作戦課長を務めた。</p>

<p>最初は昭和16(1941)年7月から翌年12月まで、次は18年10月から20年2月まで。この期間中、服部の上司にあたる作戦部長は田中新一、綾部橘樹、真田穣一郎、宮崎周一と代わっていったことからも、1度の中断を経て作戦課長の任を負い続けた服部の経歴がいかに異例のものかがよくわかる。</p>

<p>服部は、大東亜戦争の始めから終わりに近い段階まで、参謀本部の中枢にいたのである。</p>

<p>服部はこれ以前にも、関東軍(満洲に置かれた日本の出先軍)の作戦主任参謀だったことがある(昭和14年3月〜9月)。関東軍はもともと関東州や南満洲鉄道(満鉄)の沿線守備を任務として設置されたが、やがてその規模は大きくなり、満洲事変をはじめとして様々な場面で歴史を動かしてきた。</p>

<p>服部が関東軍にいた時期、ノモンハン戦争(事件)が起き、服部は辻政信と共に軍を主導した。この戦いは従来言われているように「関東軍の惨敗」ではなかったにせよ、ソビエト軍相手に苦戦を強いられ、多大な損害を出して終わった。</p>

<p>戦いが終わった後は関東軍首脳部の責任が問われ、司令官の植田謙吉大将、参謀長の磯谷廉介中将は予備役に編入された。しかし、作戦参謀としてこの戦いを主導した服部や辻は単なる左遷で終わり、服部に至ってはまもなく参謀本部の作戦主任参謀として中央にやってくることになる。</p>

<p>参謀本部の中でも、直接「作戦」に関与する第1部―第2課のラインは特別なものがあった。自らも作戦課の参謀であった高山信武(終戦時大佐)は、作戦課のことを「あの戦いの中枢的存在」「開戦の原動力」と述べている。</p>

<p>であるならば、その作戦課のトップを大東亜戦争中のほとんどの期間に渡って務めた服部卓四郎の存在は、大東亜戦争、ひいては戦争に向かう昭和陸軍の中で相当大きなウェイトを占めるといっていいだろう。</p>

<p>にもかかわらず、服部を直接対象にした論考や評伝は多くはない。反対に、服部と共にノモンハン戦争や大東亜戦争で「強硬派」の代表格と見られた辻政信は、膨大と言っていいほど言及されている。</p>

<p>辻はその強烈な個性によって帝国陸軍で異彩を放っていた。終戦直後に僧侶に変装して姿を隠し、連合軍の追及を逃れた。その後は自身の見聞を記した著書を出版してベストセラーを連発し、政治家にもなった。最後は東南アジアへと潜伏したまま消息を絶つまで派手な話題に事欠かなかった。</p>

<p>対して、辻と常にコンビを組んでいたように見える服部には、そのような話題は少ない。突出して個性的だった辻の方が世間的には目立ち、その派手さに埋没してしまったことも服部への言及が少ない理由の1つかもしれない。</p>

<p>しかし、辻は作戦課において大きな存在感を発揮したが、大東亜戦争ではビルマ攻略戦で活躍したりガダルカナル島の攻防で現地へ赴いたり、服部ほど「中央」で全般の作戦に携わってはいなかった。辻政信は常に戦場に赴き、良くも悪くも硝煙の匂いから遠ざかることはなかったといえよう。</p>

<p>こうした事情を考えると、帝国陸軍の「本質」を体現しているのは、辻よりもむしろ服部だったといってよい。</p>

<p>大東亜戦争初戦の快進撃も、中盤の苦戦も、後半の悲惨な敗北も、服部は陸軍の中枢で体験した。功も罪もあるが、戦争の結果が膨大な犠牲の末の敗北だということを考慮すれば、罪科がより大きく注目されるのは当然だろう。</p>

<p>服部は、なぜ陸軍の「花形中の花形」である作戦課を主導し続けたのか。しかもそれは祖国の興亡を賭けた、失敗の許されぬ大戦争であった。その中で彼は1度その任を解かれ―つまりは失敗し―ながらも再び戻ってきた。エリート揃いの陸軍中央において、なぜ「服部卓四郎」でなければならなかったのか。そこに、陸軍の病巣が潜んでいるのではないだろうか。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 20 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岩井秀一郎]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>『ばけばけ』北川景子さん演じる女性のモデル？ 驚愕の初婚事件  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13103</link>
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			<description><![CDATA[NHK連続テレビ小説『ばけばけ』で注目されている、小泉セツの実母・小泉チエの驚くべき過去とは？ 作家・鷹橋忍氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="小泉八雲と妻セツ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu1.jpg" width="1200" /><br />
Wikimedia Commons/The Modern Review. October 1913</p>

<p>連続テレビ小説『ばけばけ』では、主人公の松野トキの縁戚で、なにかと彼女を気にかけてくれる雨清水家が存在感を発揮している。特に北川景子さん演じる雨清水タエは、凛とした姿で注目されている。そして、そのタエのモデルと思われる女性、つまり小泉セツの実母・小泉チエには、驚愕すべき過去があった――。</p>

<p>※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>小泉セツの実母・チエの壮絶な過去</h2>

<p>セツの実母で、塩見増右衛門（しおみますえもん）の一人娘であるチエもまた、数奇な運命に弄ばれている。</p>

<p>チエは、「御家中随一の御器量」と称された美貌の持ち主だった。夫・小泉湊（みなと）よりもすらりと背が高く、その姿は鳥居清長の錦絵美人にたとえられている。天保8年（1837）3月21日に生まれ、15歳でセツの父・小泉湊と結婚し、30歳の時にセツを出産している。</p>

<p>だが、チエのはじめての夫は、小泉湊ではなかった。チエは満13歳になる少し前に、ほぼ同格の家柄である武士の家に嫁いでいる。</p>

<p>婚礼は、盛大に行なわれた。チエが悲劇に見舞われるのは、その晩のことである。</p>

<p>花嫁となったチエは、寝所で花婿の訪れを待っていたが、夜が深まっても、花婿が姿を見せることはなかった。</p>

<p>やがて庭先から、ただならぬ物音が響いてきた。すると、チエは護身の合口（懐刀）の袋緒を解き、雪洞をさげた侍女を一人従えて姑の居間に向かい、廊下から姑に、「母上様、御寝なりましたか? 夜中お騒がせ申し相済みませぬが、旦那様にはいまだに御床入りなく、しかも、ただ今、お庭前にて、ただならぬ物音が致しました」と落ち着いた声で告げている。</p>

<p>「はて、面妖な」と家中の者たちが呼び起こされ、手燭や提灯を手に庭へ下りた。</p>

<p>すると、そこには凄惨な光景が広がり、血の臭いが漂っていた。腹を一文字にかき切ったうえに、右頸筋（首筋）を斬った男が雪見燈籠に突っ伏し、首をほぼ斬り落とされた状態の女が松の根元に倒れ、二人とも息絶えていたのだ。</p>

<p>男は花婿。女は花婿の愛妾だった。</p>

<p>身分違いの結婚など、許されない時代である。花婿は婚礼の当日まで、愛妾を家に置いていたが、その夜を最後に親許へ帰すことが決まっていた。愛妾には、故郷に許嫁がいたという（工藤美代子『神々の国　ラフカディオ・ハーンの生涯【日本編】』）。</p>

<p>ところが、花婿は愛妾を手放すのを、惜しんだ。花婿は愛妾の首に刀を振りおろし、自らも腹を切り、無理心中を図ったのだった。</p>

<p>翌日に集まった親戚一同の多くは、家名を汚した花婿を罵った。葬式の真似事すらする必要なしとされ、遺体も「表門から出すことは憚りならぬ」と、不浄門から運び出された。まるで、捨てるかのような弔い方だったという。</p>

<p>花婿の心中事件後、チエはすぐに里に引き取られている。</p>

<p>死後も非難を浴びる花婿とは対照的に、僅か13歳の若き身で、取り乱すことなく、凜と健気に振る舞ったチエを褒め称えない者はいなかった。「嫁に欲しい」という申し込みが殺到し、親が決めかねて、本人に尋ねたところ、チエは小泉家を選んだ。</p>

<p>そうして、心中事件から一年余を経た嘉永4年（1851）の晩秋、チエは小泉湊のもとに嫁ぎ、のちにセツが誕生する。だが、セツはこの小泉湊・チエ夫妻に育てられることはなかった。</p>

<p>セツは誕生7日目を祝う「お七夜」を終えた次の晩、すなわち生まれて8日目に、乳母とともに遠縁にあたる稲垣家に赴き、稲垣金十郎（1841〜1900）・トミ（1843〜1912）夫妻の養女となったからだ。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu1.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 17 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>小泉八雲の妻セツの生家を探る　武士の家柄と忠臣の血を引く父と祖父の物語  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13016</link>
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			<description><![CDATA[ＮＨＫ連続テレビ小説『ばけばけ』主人公のモデル、小泉八雲の妻・セツの実父の人物像と、小泉家の家柄を紹介する]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ラフカディオ・ハーン" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu3.jpg" width="1200" /><br />
原典　http://www.trussel.com/f_hearn.htm</p>

<p>連続テレビ小説『ばけばけ』で、主人公・松野トキは、本当は雨清水家の子だと明かされる。</p>

<p>そのモデルとなった小泉セツも、生まれた家から養女に出された身だった。ここでは、小泉セツの実父の人物像と、小泉家の家柄を紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>セツの誕生と時代背景</h2>

<p>ＮＨＫ連続テレビ小説『ばけばけ』の主人公・松野トキのモデルである小泉セツは、松江藩の上級士族・小泉弥右衛門湊（やえもんみなと）とその妻・チエの次女として、慶応4年（1868）2月4日、松江城下の島根県松江市南田町で生まれた。</p>

<p>生まれた日が節分だったため、セツと名付けられている。セツは「節子」という名を好み、後年、「節子」と名乗ったり、書いたりしているが、戸籍名はセツである。古来の習慣により、当時はかなり高貴な生まれの女子を除き、名前に「子」を付けない傾向が強かった。</p>

<p>セツが生を享けたのは、激動の時代だった。<br />
前年の慶応3年（1867）12月には王政復古の大号令が発せられ、新政府が成立するも、セツが誕生する1カ月前の慶応4年正月3日には、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争の幕が開いた。同年の9月8日には、明治に改元されている。</p>

<p>セツの長男・小泉一雄の随筆『父小泉八雲』によれば、小泉湊とチエは、セツを含めて11人の子宝に恵まれた。セツは上から数えても下から数えても6番目だったというが、無事に育ったのは、長男とされる氏太郎、長女のスエ、次男の武松、次女のセツ、三男の藤三郎、四男の千代之助の6人だけだった。</p>

<p>セツが生まれた小泉家は、三百石取りの由緒ある家柄だ。松江藩に代々仕え、組士50人を統率する番頭（ばんがしら）を担っていた。セツの父・小泉湊も、慶応4年7月から、番頭を務めている。</p>

<p>松江藩には約1000人の士分の侍がいたが、小泉家はそのなかでも、「上士」と呼ばれる最上位の家柄で、周囲の尊敬を集めていた。</p>

<p>セツの父・小泉湊は、天保7年（1836）12月27日に生まれた。セツの誕生時、湊は31歳で、その前年の慶応3年（1867）に家督を相続したばかりだった。<br />
湊は小柄だが、痩せて引き締まった体軀の持ち主で、「活躍家で進取的気質のハイカラ」だったという（小泉一雄『父小泉八雲』）。</p>

<p>湊は青年時代から武芸に長けており、藩の軍隊の小隊長を務めていた。セツの手記「幼少の頃の思い出」（小泉節子『思ひ出の記』所収）によれば、湊の号令は素晴らしかったらしい。湊の号令で軍隊がピリッと引き締まり、わざわざ号令を聞きにくる人も多かったという。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>母方の祖父は、講談や劇の主人公のモデルとなった忠臣</h2>

<p>小泉家は由緒ある家柄だが、セツの母・チエの実家のほうが格上だった。</p>

<p>チエの父は、松江藩の名家老と謳われた塩見増右衛門（しおみますえもん）である。松江城二の丸御殿のすぐ前に狐や狸が棲み、化けていたずらをしたという噂が伝わるほどの広大な敷地に、屋敷を構えていた。禄高は千四百石、召使いを30人近く抱えていたという。</p>

<p>チエの父、セツにとって母方の祖父にあたる塩見増右衛門は、「出羽守やんちゃ殿様」と称された、出雲松平家九代目の松江藩主・松平出羽守斉貴（なりたけ。1815〜1863）を、死を以て諫めたことで知られる。</p>

<p>松平斉貴は将軍家の一門であり、弘化3年（1846）の孝明天皇の即位に際しては、将軍の名代を務めている。ペリー来航以前の時代において、西洋の砲術や医学などを取り入れ、数多の鷹場を設けるなど多くの文化事業を発展させた英主であるが、贅沢と放蕩が度を超えていた。</p>

<p>当時の諸大名と同じく、松平斉貴も参勤交代の制により一年ごとに江戸詰めしていたが、品川にある松江藩の下屋敷に五階建ての屋敷を造営し、望遠鏡、渡来時計、その他オランダ物などを集め、日々、酒盛りを繰り返している。</p>

<p>もともと好きだった相撲と鷹狩りに加え、祭り囃子の一種である馬鹿囃子に凝り出し、赤坂の上屋敷に馬鹿囃子の名手を集めて演奏させ、山王祭では、邸内に山車を通した。酒、女、乱暴についてのひどい話も残っているという。</p>

<p>嘉永4年（1851）はお国入りの年であるにもかかわらず、幕府には病気と偽り、江戸で、酒色に溺れる日々を送った。<br />
斉貴の放蕩は、藩の財政を疲弊させていく。また、藩主が江戸にずっといるため、出雲の政治も乱れ、謀反を企む者も現われた。</p>

<p>江戸家老として赤坂の藩邸に入っていたセツの祖父・塩見増右衛門は、事態を憂い、諫言を2度も行なっている。だが、斉貴が聞く耳を持たなかったため、増右衛門は陰腹を切り、その上に白木綿を強く巻き付けて、同年11月2日、3度目の諫言に踏み切った。</p>

<p>最後となる諫言を終えた増右衛門が退出した時、斉貴は増右衛門の顔色が尋常でないことに気付き、急ぎ近侍に増右衛門を呼び戻すよう命じた。近侍は家老の詰所に駆けつけ、「御家老様、御家老様」と幾度も呼びかけたが、返事はない。</p>

<p>近侍が堅く閉まった襖を開けて中を見ると、増右衛門はすでに息絶えていた。まさに命と引き換えに、主君を諫めたのである。<br />
辞世の句は、<br />
君のため　思ふ心は　一筋に　はや消えて行く　赤坂の露<br />
だった（長谷川洋二『八雲の妻　小泉セツの生涯』）。<br />
やんちゃ殿様と称された斉貴も、さすがに目が覚めた。翌年早々に、国元に戻っている。</p>

<p>増右衛門の長男・小兵衛は松江にいたが、斉貴を恨み、出迎えもしないだろうと、誰もが懸念していた。ところが小兵衛は、定まりである松江城下外れの津田の松原ではなく、国境の安来まで数里も遠出し、心から喜んで、「よくこそ御帰国」と出迎えたという。</p>

<p>「増右衛門の諫死、伜小兵衛の忠誠なる出迎え等奇特の至りとあつて、それ迄は千石の禄高がこの時四百石加増となつた由」と、小泉一雄は『父小泉八雲』に記している。</p>

<p>セツの手記「オヂイ様のはなし」（小泉節子『思ひ出の記』所収）によれば、この増右衛門の話は江戸の町々にも知れ渡り、「線香山」という題で講談となり、「三本杉家老鏡」という劇にもなっている。</p>

<p>セツは子どもの頃、友人の家に行くと、そこの老人から、よく祖父・増右衛門の話を聴かされた。「あなたのお祖父様は忠義なえらい方でございました」<br />
と称えられると、自分が褒められたように誇りに感じたという。</p>

<p>祖父の話を繰り返し聴いて育ったセツは、祖父を誇りに思い続けた。セツの長男・一雄は明治32〜33年（1899〜1900）の秋、セツに連れられて赤坂の寺を訪れ、増右衛門の墓を探している。</p>

<p>住職とともに探し回り、ようやく墓を見つけた後に、本堂で小泉家の定紋（三本杉）がついた金色の位牌を探し当てると、「これはお前の偉い曾祖父様だ、よく拝みなさい」と、セツは涙を流しながら一雄に告げ、拝ませたという（小泉一雄『父小泉八雲』）。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Fri, 17 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本はなぜ植民地支配を免れたのか？ 古代ローマとの共通点から考えられること  本村凌二（東京大学名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13019</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013019</guid>
			<description><![CDATA[日本はなぜこれまで植民地化されることがなかったのか？ 東京大学名誉教授の本村凌二氏が、古代ローマとの共通点から考察する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="コロッセオ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_map.jpg" width="1200" /></p>

<p>ローマはなぜ大帝国となり、日本はなぜ植民地化を免れたのか――。東京大学名誉教授の本村凌二氏は、一見無関係に思える二つの歴史の問いには、共通する答えがあると語ります。書籍『教養としての「世界史」の読み方』より解説します。</p>

<p>※本稿は、本村凌二著『教養としての「世界史」の読み方』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2 id="t025">「名誉心」が国家を支えた──「武士道」と「父祖の遺風」</h2>

<p>古代地中海世界に1000以上あった都市国家の中で、なぜローマだけが大帝国になり得たのか。19世紀後半、欧米列強が植民地化を進めるアジアで、なぜ日本だけが植民地支配を免れ独立を保つことができたのか。</p>

<p>まったく異なる時代の、まったく異なる問いのようですが、私はこの2つの問いには共通する答えがあるように思います。</p>

<p>それは、ローマでは「父祖の遺風」、日本では「武士道」という、精神の柱とでも言うべきものがあったからではないか、というものです。</p>

<p>新渡戸稲造（1862〜1933）の著書『武士道』は、もともと英文で欧米人向けに書かれたものでした。きっかけは、日本では宗教教育は行われていないという新渡戸の発言に驚いた欧米人に「宗教がなくて、どうして道徳が授けられるのか」と質問され、答えに窮したことでした。</p>

<p>自分の中の善悪や正邪の観念を育んできたものは何なのか。そう自問自答した新渡戸が見いだしたのが武士道だったのです。</p>

<p>ですから新渡戸の語る武士道は、切腹や特攻精神に直結するように荒々しいものではなく、「礼節をわきまえ、惻隠の情を失わず、私心をすてる」といった武人の心構えとでも言うべき柔和なものです。対外的には柔和ですが、これは自分を律するためのものなので、厳しい自戒を要します。</p>

<p>武士道は、しばしばヨーロッパ中世の騎士道との類似が指摘されますが、ローマには騎士道以上に武士道に通じるものがありました。それこそローマ人が「父祖の遺風／mos maiorum（モス・マイオルム）」と呼んでいるものです。</p>

<p>「父祖の遺風」とは、簡単に言えば先祖の名誉ということです。つまり、先祖の立派な行いを名誉として重んじると同時に、自らもその名誉に恥じないよう生きなければならない、という強い思いです。</p>

<p>そして、こうした思いが揺らがないように、ローマではことあるごとに先祖の威徳が偲ばれ、父祖の遺風が磨き上げられました。</p>

<p>ローマの大弁舌家キケロは、「ローマの国は古来の習慣と人によって成り立つ」と断じていますが、それはこうした父祖の遺風を磨き上げる行為が、ローマにおける世の掟であるばかりか、知恵でもあり技術でもあり、人々の生き方そのものになっていたということです。</p>

<p>そのため、ローマ人にとって戦争は、もちろん勝つことが目的ではあるのですが、結果としての勝利が重要なのではなく、そこで名誉を得ることが重要でした。</p>

<p>これはローマのインペリアリズム（帝国主義）を語る上で、とても重要なポイントです。</p>

<p>つまり、単に領土を拡大するだけではなく、ローマの、特に元老院貴族たちの中のトップレベルの連中が、自分がいかに人よりも優れた存在であるかということを、その戦いの過程で人々に知らしめることが重要だったのです。</p>

<p>そして、そのためには武勲を挙げることが最も効果的でした。だからこそ、彼らは勝利を獲得するために、もっと露骨に言えば、自分が武勲を挙げるために大変な努力をしました。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>再チャレンジを認める気風</h2>

<p>そんなのどこの国でも基本的には同じじゃないか、と思われるかもしれませんが、大きな違いが一つありました。それは、「名誉」に対する考え方です。<br />
<br />
たとえば、古代ギリシアもまた名誉を重んじる国でしたが、ギリシアでは敗戦将軍は祖国の土を踏むことが許されませんでした。生きて帰れば、よくて追放、悪ければ処刑されてしまうからです。<br />
<br />
ところが、ローマの場合は戻ることができました。しかも立派に戦った結果の敗けであれば、それなりに温かく迎えてもらえました。<br />
<br />
ギリシア人は敗戦という結果を不名誉と断じますが、ローマでは立派に戦った結果なら、生きて帰ってきたという時点で、すでに本人は充分な恥辱を受けていると考え、責めないということです。<br />
<br />
これは決定的な差です。<br />
<br />
そして、この差がどのような結果につながるかというと、ギリシアの敗戦将軍は死ぬまで戦うか、負けて生き延びた場合は他国に逃げてしまいますが、ローマの敗戦将軍は、味わった恥辱を跳ね返すために次の戦いで大変な努力をするようになるのです。<br />
<br />
ローマ人たちも、そこに期待をかけ、敗戦将軍には進んで名誉回復のチャンスを与えました。<br />
<br />
実際、カエサル（前100〜前44）もそうですが、ローマの有名な将軍の多くは敗戦を経験し、その屈辱を次の勝利につなげた人がとても多いのです。<br />
<br />
これは名誉に対する考え方が根本的に違うからこそできたことです。どんな屈辱であっても、それ以上の名誉を獲得することで、屈辱は覆すことができる、そう思えたからローマ人は執念深く物事を遂行することができ、だからこそ大帝国になり得たと言えるからです。<br />
<br />
日本にも名誉挽回、汚名返上という言葉があるように、再チャレンジを認める気風があるように思います。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_map.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 15 Oct 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[本村凌二（東京大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>特別レポート.第2回蘭学サミット・蘭医学サロン「笠原良策 丸かじり・福井が生んだ医の巨人」   歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13092</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013092</guid>
			<description><![CDATA[今年8月3日に開催された「第2回蘭学サミット・蘭医学サロン」の特別レポート。映画監督・小泉堯史氏や作家・海堂尊氏、研究者らが集まり、福井藩の町医者・笠原良策の功績や人物像について語らった。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="トークセッションの様子。左から小泉堯史さん、 柳沢芙美子さん、海堂尊さん" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20251008RANGAKU2.jpg" width="1200" /></p>

<p>写真：トークセッションの様子。左から小泉堯史さん、 柳沢芙美子さん、海堂尊さん</p>

<p>今年8月3日に、福井県県民ホールにて開催された「第2回蘭学サミット・蘭医学サロン」。映画監督や作家、研究者などさまざまな分野で活躍する人々が集まり、福井藩の町医者・笠原良策（かさはらりょうさく）の功績や人物像について語らった。大盛況を博した本イベントの一端を、誌面で紹介しよう。</p>

<h2>&nbsp;</h2>

<h2>何度でも観てほしい映画</h2>

<p>近年、「蘭学」に注目が集まっている。日本が国交を制限していた江戸時代に、国外の情報を積極的に取り入れていた蘭学者たちの知識が、近代化に大きな影響を及ぼしたからだ。</p>

<p>福井県が主催する「蘭学サミット」は、そうした蘭学者や蘭学ゆかりの人物を顕彰するというもの。</p>

<p>昨年開催の第1回では、『解体新書』の著者である杉田玄白を取り上げ、イベントは大いに盛り上がった。</p>

<p>第2回となる今回は、「蘭医学サロン」と共催となり、福井藩の種痘事業を担った笠原良策をテーマに、さまざまな視点から語られた。</p>

<p>前半の第1部では、笠原良策を主人公とする映画『雪の花　─ともに在りて─』が上映され、監督・小泉堯史さんと、笠原良策の研究をしている福井県文書館元副館長の柳沢芙美子さん、作家の海堂尊さんによるトークセッションが行なわれた。</p>

<p>黒澤明監督に師事し、その黒澤イズムを受け継ぐ小泉さんは、「映画の裏側を自ら明かすことはあまりせずに、あくまで映画を視聴した受け取り手の皆さんに解釈を委ねたい」としつつ、映画をつくるときの原動力については、「&ldquo;こういう人に出会いたい&rdquo;と思う人物を映画にする」と秘めた想いを語る。</p>

<p>海堂さんは、この作品を「美しい映画」と評価。柳沢さんは、「一度目は職業柄、分析的に見てしまうが、二度三度と重ねるごとに、見えなかったものが現われ、感動の形が変わっていく」とのこと。その言葉に、海堂さんは「ぜひ皆さん、ＤＶＤを買って何度でも観てください！」と観客に宣伝し、会場は笑いに包まれた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>笠原良策を深掘りする</h2>

<p><img alt="シンポジウムより。左から阿部真由美さん、海堂さん、山村修さん、長野栄俊さん、角鹿尚計さん " height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20251007Rangaku1.jpg" width="1200" /></p>

<p>写真︰シンポジウムより。左から阿部真由美さん、海堂さん、山村修さん、長野栄俊さん、角鹿尚計さん</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>休憩をはさみ、第2部が始まると、初めに海堂さんが、「蘭医学サロン」ができた経緯を語り始める。</p>

<p>海堂さんが蘭学について調べたきっかけは、蘭方医・緒方洪庵と佐藤泰然が主人公の小説『蘭医繚乱 洪庵と泰然』の執筆だったという。</p>

<p>「取材した研究者の話はとても面白いのに、物語にはその5パーセントも入れられない。それでは勿体ない。蘭学がいかに面白く、素晴らしい先人がいるのか、知ってほしくて、蘭医学サロンを起ち上げたんです」と熱弁した。</p>

<p>続いて、福井県文書館主任の長野栄俊さんが登壇し、「笠原良策の生き方　─藩医と町医・村医の狭間で─」と題して講演。一次史料を読み解きつつ、藩医と町医・村医の身分の違いや、良策と父の関係について解説し、良策がなぜ種痘事業を担うことができたのか、その背景に迫った。</p>

<p>次に、福井大学医学部地域医療推進講座教授の山村修さんが、「笠原良策の医学力　チーム種痘を作り上げた苦難の航跡」というテーマで講じる。医学的観点から、種痘の技術面や、痘苗を入手しても植え継がなければならない種痘事業の難しさについて発表した。</p>

<p>講演後は、「笠原良策、徹底解剖 ─福井藩という環境から医学的業績まで」というテーマでシンポジウムへ。海堂さん、阿部真由美アナウンサーが進行役をつとめ、山村さん、長野さんに、福井県立大学客員教授の角鹿尚計さんも加わり、賑やかなトークが展開された。</p>

<p>最初に、笠原良策と親交が厚かった橘曙覧（たちばなのあけみ）について、研究者の角鹿さんが解説。曙覧と良策は同じ師から国学を学んでおり、「良策は曙覧に和歌を添削してもらう代わりに、治療費を求めないというような仲。そういう互いの得意分野を活かした交流をしていた」と二人の関係性を明かした。</p>

<p>続いて、笠原良策が建てた仮除痘館（かりじょとうかん）がどこにあったのか、という話題へ。</p>

<p>「明治14年（1881）の古地図には、九十九橋（つくもばし）付近に『笠原』の名前が見え、ここが仮除痘館だったのかというと、柳沢先生や長野先生曰く、違うそうで&hellip;&hellip;」と山村さん。</p>

<p>それを受けて、「この地区は福井藩が管理していた武士の居住地なので、町人が住めるところではないんです」と長野さん。さらに、良策の手紙によると、浜町にあった仮の診療所は火事で焼けてしまい、御茶園というところに居候していたという。</p>

<p>数々の資料を読み解いた結果、仮除痘館があった場所については、徐々に見えつつあるそうだ。研究者ならではの推察に、観客も興味深く耳を傾け、シンポジウムは終演。</p>

<p>最後に、第3回蘭医学サロンの開催地である津山洋学資料館の館長・小島徹さんが登壇。「来年はぜひ津山にお越しください」と挨拶して締めくくった。</p>

<p>映画から最新研究まで、おいしさ満載のイベントとなった第2回蘭学サミット・蘭医学サロン。主題のごとく、観客は笠原良策を「丸かじり」できたのではないだろうか。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20251007Rangaku1.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 15 Oct 2025 09:45:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>インパール作戦はなぜ失敗したのか　牟田口廉也が犯した致命的ミス  大木毅</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13049</link>
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			<description><![CDATA[悪名高きインパール作戦はなぜ失敗したのか。戦略的苦境を作戦で覆そうとした無理、牟田口廉也の独断、英軍スリムの巧妙な策。昭和陸軍の病弊を現代史家・大木毅氏が解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="インパール作戦の失策の原因とは" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sogen.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中の日本陸軍というと、失策を重ねたイメージが強い。しかし、南方攻略作戦のように成功を収めたものもある。一方で、インパール作戦のように悪名高いものもあるのも事実だ。2つの作戦の明暗を分けたものは何だったのか。ここでは、インパール作戦について解説しよう。</p>

<p>※本稿は、大木毅著『太平洋戦争』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>戦略的に防衛困難なビルマ</h2>

<p>昭和19年(1944)、ビルマの日本軍は苦境にあった。昭和17年には、およそ4か月で連合軍を駆逐し、およそ60万平方キロメートルにおよぶ広大な地域を占領した日本軍であったが、いまや、そのビルマの地を保持しかねていたのである。</p>

<p>前年、昭和18年(1943)に新編され、同地域を担当することになったビルマ方面軍(河辺正三中将)が置かれていた状況は、つぎの通りである。</p>

<p>ビルマ西部、インパールからアラカン山脈にかけての正面では、イギリス軍ならびにインド軍と対峙。</p>

<p>ビルマ北部、レド方面では、米・中国国民政府の連合軍相手に戦線を保持。</p>

<p>ビルマ北東、中国雲南省と国境を接する正面では、米式装備の中国国民政府軍に対している。</p>

<p>これらに加え、有名な英軍ウィンゲート空挺部隊の空からの進攻と、ベンガル湾からの上陸作戦の脅威もあった。</p>

<p>とどのつまり、タイと接する東部国境方面以外は、すべて敵に囲まれているといっても過言ではない。当時の日本軍にしてみれば、ビルマは敵中に突出した陣地といった様相を呈していたのだ。</p>

<p>だが、いかに防衛困難とはいえ、政戦略上の影響を考えれば、ビルマを放棄するわけにはいかなかった。</p>

<p>ビルマ撤退は、大日本帝国の退勢を全世界に知らしめることになってしまう。また、ビルマを押さえていてこそ、同地を経由する連合軍の中国援助を妨害し得るという大きなメリットがあるのに、手放してしまえば、この大動脈が開いてしまうのである。</p>

<p>戦略的には防衛はきわめて困難。さりとて、自らビルマを去ることもできない。</p>

<p>このジレンマを解決すべく、禁断の方策が頭をもたげた。インドに侵攻し、英印(イギリス・インド)軍のビルマ作戦の策源地を先んじて奪ってしまおうというのだ。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>攻勢防御か、インド侵攻か</h2>

<p>実は、レド方面に攻勢を実施し、インドに侵攻するとともに、援蔣(中国支援)ルートを遮断するとの構想は、ビルマ占領直後よりくすぶっていた。昭和18年3月、第15軍司令官に補せられた牟田口廉也中将も、当初は補給の困難があると判断していたものの、やがて攻勢を主唱するようになる。</p>

<p>連合軍の航空優勢がしだいに高まり、ビルマ各正面で攻撃に出てくる可能性が大きくなる一方であるから、ビルマ方面軍主力を拘束されるレド攻勢は不可である。こうした判断のもと、牟田口は、いわゆる「攻勢防御」、インパール方面の英印軍策源地を奪取し、敵が攻撃に出るためのスプリングボードをなくすことによって、味方の防御態勢を安んじる作戦の実施を強く求めはじめたのである。</p>

<p>すでに触れたように、当時のビルマは、放置しておけば、どの正面も維持不可能になりかねない状況にあったから、限定攻勢で態勢を安定させるという議論には説得力があった。</p>

<p>ゆえに、牟田口の第15軍司令部が立案・上申したインパール攻勢計画「ウ号作戦」は、さまざまな異論や慎重論に遭ったものの、上部組織のビルマ方面軍、南方軍を経て、ついに東京の大本営陸軍部も認可した。昭和19年1月には、「ウ号作戦」実行命令が下達される。</p>

<p>このように、インパール作戦は、発案の段階から問題をはらんでいたといえる。</p>

<p>一般に戦争は、先述したごとく、上の階層から順に、「戦略」「作戦」「戦術」の3次元から成るといわれ、上位次元の失敗を下位次元の成功で回復することはきわめて困難だとされる。たとえば、作戦次元で決定的な過ちを犯していれば、いくら戦術次元、すなわち戦闘で将兵が奮戦しても、勝敗を覆すことはできない。</p>

<p>ところが、インパール作戦には、最初から、戦略的な苦境を作戦次元の離れわざによって逆転させようとする無理が内包されていたのである。</p>

<p>加えて、作戦目的にもぶれがあった。上部組織である大本営、南方軍、ビルマ方面軍が、インパール作戦は英印軍の攻勢を封じるための行動であると釘を刺していたにもかかわらず、実施部隊の第15軍を指揮する牟田口には、敢えて攻勢防御の域を超えて、インド侵攻を実施する企図があったと思われるのだ。</p>

<p>自分は日中戦争の発火点となった盧溝橋で、現場の連隊長を務めていた、いわば、戦争をはじめた責任があるのだから、なんとしても、この手で決着をつけたいと、牟田口は公言していた。</p>

<p>もし日本軍がインドに侵攻すれば、たちまち独立の機運が高まり、同国は連合国の陣営から離脱する。そうなれば、イギリス、ひいては連合国の戦争継続は不可能になろう。だからこそ、自分がインド侵攻をやらなければならないというのが、牟田口の論理だった。</p>

<p>実際、インパール作戦中、牟田口は、攻勢防御よりも、インド領内へのいっそうの進撃を狙ったと思われる指示を多々出している。</p>

<p>インパール作戦には、補給や航空戦力が劣勢であることの軽視、投機性など、多数の批判が向けられている。しかし、それら以外にも、この作戦には、戦略次元の事象を作戦次元で回復しようという危うさ、上級組織と実施部隊における目的の乖離といった、原則的なレベルで戦理にそむいた欠陥が含まれていたのである。</p>

<h2>英印軍の巧妙な作戦</h2>

<p>昭和19年3月8日、インパール作戦は発動され──よく知られているように、惨憺たる失敗に終わった。第15軍は、インド解放どころか、インパールの占領にも失敗し、数万の死傷者を出して、敗退したのだ。</p>

<p>しかも、その退却行は、補給がなされぬなか、悪天候と困難な地形を押してのものとなったから、「白骨街道」と形容されるような悲惨なありさまをみせた。さらに、第15軍の指揮下にあった3個師団の長すべてが更迭されるという、日本陸軍史上前代未聞の不祥事まで生じたのである。</p>

<p>戦略次元の前提に問題を有する作戦が、実行にあたって、その欠陥をむきだしにしたわけだが、意外なことに、第15軍は当初快調な進撃を示している。このような補給困難な地域で大規模な攻勢がただちに行なわれるはずがないという英印軍の油断を突き、準備未成のところを奇襲したかたちになったためである。</p>

<p>もっとも、だからといって、日本軍の作戦が当を得ていたとは評価できない。というのは、英印軍を指揮するイギリス第14軍司令官ウィリアム・スリム中将は、日本軍を引き寄せて叩くとの方針で、戦略・作戦を立てていたからだ。</p>

<p>昭和19年初頭、日本軍の集結状況をみて、近く攻勢があると確信したスリムは、重大な方針転換を決意した。より敵の策源地に近いチンドウィン川東岸を固守するのではなく、決戦場を後方のインパール平地に選定し、敢えて日本軍の前進を許すことにしたのである。</p>

<p>この進撃路は、アラカンの巍々たる山々を踏破しなければならない。その山越えによって、日本軍将兵は疲弊し、インパール平地に到達するころには補給線も延びきる。</p>

<p>そこに、孫子の「佚を以て労を待つ」という言葉のままに、間近となった策源地から充分な補給と補充を受けた英印軍が攻撃にかかる。しかも、インパール平地に入れば、道路事情も良好になるから、英印軍の機甲戦力の優位を活用することも期待できた。</p>

<p>このスリムの策を打ち破るには、「ウ号作戦」の初期段階、つまり英印軍がインパール平地に退却する前に、これを捕捉・撃滅しなければならなかったのだが、おおむね徒歩で移動するほかない日本軍には、とても無理なことであった。英印軍が航空優勢を生かして、退却途上の拠点に適宜、増援と補給を行なったとあっては、なおさらである。</p>

<p>かくて、牟田口の第15軍は、英印軍主力を撃破できぬまま、延びきった態勢でインパールに取りつき、さりとて、その攻略もならぬままに潰滅していった。いわば、牟田口は、スリムの掌の上で踊らされたのだ。</p>

<p>インパール作戦は、牟田口をはじめとする日本軍高級指揮官たちの愚かさによる第15軍の自滅のように描かれることが多いし、そうした解釈も間違いではない。</p>

<p>けれども、作戦に競り負けたという側面も無視できないであろう。戦略的な問題を作戦次元で解決しようと無理を重ね、作戦次元でも破局をもたらす。インパール作戦において、日本陸軍は、その最低の部分を暴露したのである。</p>

<p>＊　　　　　＊　　　　　＊</p>

<p>日本陸軍は、南方攻略作戦において、戦理にもとづいて、水ぎわだった戦いぶりをみせた。いわば、普遍的な用兵思想によって、成功を収めたのだ。</p>

<p>一方、インパール攻勢では、戦理にそむいた作戦を敢えて強行し、惨敗した。さらに、その過程で、作戦偏重ゆえの補給・情報の軽視、無責任の体系といったことまでも露呈したのである。</p>

<p>したがって、かかる明暗のうち、後者のほうが、昭和陸軍の病弊をあきらかにするには適切であり、より詳細な分析に価すると思われる。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sogen.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 14 Oct 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[大木毅]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>『べらぼう』で出版統制をした松平定信、その後は「真逆のこと」をしていた！  安藤優一郎（歴史家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13056</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013056</guid>
			<description><![CDATA[大河ドラマ『べらぼう』で描かれる松平定信の出版統制。しかし老中退任後、定信は文化事業に邁進し、かつて統制した山東京伝らを起用。その知られざる二面性を歴史家・安藤優一郎氏が解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="松平定信" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/matsudairasadanobu.jpg" width="1200" /></p>

<p>大河ドラマ『べらぼう』では、松平定信が厳しく出版統制をするさまが描かれる。ところが、老中退任後、定信は真逆ともいえる顔を見せはじめる。文化事業に邁進し、しかもその過程では、かつて統制した文化人をも起用していたのである。歴史家の安藤優一郎氏が、松平定信の知られざる一面を紹介する。</p>

<p>※本稿は、安藤優一郎著『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>老中退任後の定信の意外な顔</h2>

<p>松平定信は寛政改革を批判する出版物に対して、断固たる姿勢を取った。政治批判はいうに及ばず、風紀を乱すとみなした出版物についても容赦しなかった。</p>

<p>寛政5年(1793)7月に定信が老中を退任した後も、幕府の政策基調は変わらなかった。定信が抜擢した老中や実務を執った役人たちはそのままで、改革政治の方針も踏襲されたからだ。そのため、彼らは「寛政の遺老」と位置付けられることが多い。</p>

<p>定信が幕府トップの座を退いた時はまだ36歳で、人生の半分を生きただけに過ぎなかった。一方、その後半生はほとんど知られていない。寛政改革のイメージがあまりに強かったことが理由だが、後年、意外な顔を見せている。実は、定信が江戸の文化面に果たした役割は実に大きく、文化事業を展開することで、後世に貴重な遺産を残す。</p>

<p>もともと、定信は文化にたいへん理解のある人物であった。青年期に『よしの冊子』の編者である水野為長から和歌を、幕府御用絵師の木挽町狩野家第6代目・狩野栄川院からは絵画を学んだ。その後、絵師を動員して数多くの作品を描かせており、白河藩の御用絵師として、江戸後期の画家として著名な谷文晃や亜欧堂田善も抱えていた。</p>

<p>文晃と田善は白河藩の公務として画筆をふるったが、定信は他藩の御用絵師にも仕事を依頼している。『江戸一目図屛風』などの作品で知られる鍬形蕙斎は、その1人だ。重三郎の出版物の挿絵を担当したこともある、北尾政美その人である。京伝とは同門にあたった。</p>

<p>当初は浮世絵師として活動していた蕙斎に、人生の転機が訪れたのは寛政6年(1794)、美作津山藩松平家に絵師として召し抱えられた時である。これを機に蕙斎と名を改めた。同9年(1797)には祖母の実家の鍬形姓を名乗ったことで、ここに鍬形蕙斎が誕生する。津山藩に出仕後、蕙斎は木挽町狩野家第7代目・狩野養川院に入門している。</p>

<p>享和3年(1803)に、蕙斎は『東都繁昌図巻』(千葉市美術館蔵 1巻本)を製作した。飛鳥山の花見、日本橋魚河岸の盛況、両国橋の夕涼みという、江戸の春から夏にかけての景観、その賑わいぶりを活写した作品だ。漢文の詞書を添えたのは定信の側近4名である。巻首には定信の蔵書印もあり、定信の依頼を受けて製作・納品された作品と推定されている。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>定信の文化事業に動員された京伝たち</h2>

<p>文化3年(1806)には、蕙斎は定信の依頼を再び受け、今度は『近世職人尽絵詞』(東京国立博物館蔵 3巻本)を製作した。大工、屋根葺職人、畳職など、数10種類に及ぶ職人の風俗のほか、庶民生活の様子も描かれた作品であった。それぞれの図には、描かれた職人に関する故事来歴などが綴られた詞書も添えられ、江戸の職人の実像を知る上での貴重な歴史史料となっている。</p>

<p>上中下の3巻から構成される『近世職人尽絵詞』の、「絵」を担当したのは蕙斎だが、「詞」は別の人物だった。上巻は四方赤良、中巻は朋誠堂喜三二、下巻は山東京伝が担当している。いずれも、寛政改革では要注意人物とされた者たちである。</p>

<p>四方赤良こと大田南畝は身の危険を感じ、狂歌を詠むことを1時止めた。喜三二は幕府の忌諱に触れることを恐れた藩命に従い、筆を折った。京伝は洒落本が出版取締令に抵触し、手鎖50日の処罰を受け、洒落本は絶版となった。</p>

<p>出版統制が強化されるなか、執筆活動の中止、あるいは修正を余儀なくされた3人だが、この時期定信は幕府の役職には就いておらず、無役の大名に過ぎない。幕府トップの立場からすると、3人の活動は危険視せざるを得ないが、幕政にタッチしていない無役の身としては、別に要注意人物ではなかった。</p>

<p>むしろ、彼らの文才を文化事業に活用したいと考え、『近世職人尽絵詞』の詞書を担当させた。それだけ、定信は3人の才能を評価していたが、3人がどういう気持ちで定信のオファーを承諾したのか、たいへん興味深いところである。蕙斎にしても、春町の死の原因となった『鸚鵡返文武二道』の挿絵を、北尾政美時代に担当したことがあった。</p>

<p>定信が蕙斎に製作させたのは、『東都繁昌図巻』や『近世職人尽絵詞』だけではない。吉原の遊女の1日を12の時に分けて描いた『吉原十二時絵詞』も、定信が蕙斎に依頼した作品だった。「絵」は蕙斎だが、「詞」は京伝の担当である。吉原をテーマとした本であることから、吉原の事情に通じた京伝に白羽の矢が立ったのは明らかだった。</p>

<p>そもそも、幕府トップの立場ならば、吉原の遊女をテーマとする作品など発注できなかったはずだ。風俗を乱すとして取り締まりを強化するところだが、幕政にタッチしていない今の立場ならば、そんな縛りはない。</p>

<p>『吉原十二時絵詞』からは、政治家としては吉原に厳しい姿勢を取ったものの、文化人としては好意的な顔が見えてくる。そんなスタンスの使い分けは、京伝たちを『近世職人尽絵詞』の製作スタッフに加えたことからも確認できよう。</p>

<p>重三郎も驚くような定信のプロデュース力であったが、この時、重三郎は既に泉下の人となっていたのである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/matsudairasadanobu.jpg" />
						
						<pubDate>Sun, 12 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎（歴史家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>失策ばかりではなかった日本陸軍　昭和天皇も評価した南方攻略作戦  大木毅</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13046</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013046</guid>
			<description><![CDATA[太平洋戦争で失策を重ねたイメージの日本陸軍。しかし昭和天皇や外国軍事筋も評価する南方攻略作戦があった。合理的戦略と巧緻な作戦の実態を現代史家・大木毅氏が解説。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="昭和天皇も評価した南方攻略作戦" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sea.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争中の日本陸軍というと、失策を重ねたイメージが強い。しかし現代史家の大木毅氏は「勝てぬ戦争に踏み切った根本的なミスはあるにせよ、明治建軍以来、日清・日露の両大戦、満洲事変や日中戦争等の実戦を経て練り上げられてきた軍隊の作戦が、ことごとく破綻していたということはあり得ない」と論じる。 そこで、日本陸軍を理解する一助として、南方攻略作戦とインパール作戦を取り上げるが、ここでは南方攻略作戦から解説しよう。</p>

<p>※本稿は、大木毅著『太平洋戦争』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>日本陸軍を理解するための一助として</h2>

<p>太平洋戦争における日本陸軍の戦績は、必ずしも芳しいものばかりではない。あるいは南溟の孤島に幾千幾万もの部隊を玉砕させ、あるいは前線将兵を補給途絶のまま密林に放置し、あるいは満洲の曠野で敵の繰り出す大機甲兵団になすがままに翻弄された。</p>

<p>かかるありさまを知る後世のわれわれとしては、日本陸軍の作戦を評価するなどナンセンスであり、その対米作戦なるものも、かつて司馬遼太郎が慨嘆したごとく、太平洋の島々に兵隊をばらまいて置き捨てにしただけのことではなかったか、と疑いたくもなる。</p>

<p>しかしながら、勝てぬ戦争に踏み切った根本的なミスはあるにせよ、明治建軍以来、日清・日露の両大戦、満洲事変や日中戦争等の実戦を経て練り上げられてきた軍隊の作戦が、ことごとく破綻していたということはあり得ない。</p>

<p>事実、日本陸軍が太平洋戦争中に大陸や島嶼防衛で示した作戦には、自衛隊の専門家のみならず、今日の外国の軍事筋にも評価されているものがある。</p>

<p>だが、その一方で、悪名高きインパール作戦のように、日本陸軍の堕落のきわみとでもいうべき惨状を呈した戦例が存在するのも、否定できないところだ。</p>

<p>ここでは、陸軍作戦の明暗として、南方攻略作戦とインパール作戦を取り上げ、戦略と作戦の関連から考察を加え、日本陸軍を理解する一助としたい。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>太平洋戦争の戦略</h2>

<p>本論に入る前に、まず「戦略」「作戦」「戦術」のそれぞれについて解説し、概念の混乱を避けることにしよう。</p>

<p>古来、戦争を遂行するにあたっての思考枠組みとしては、戦争に勝つ策を定める「戦略」(外交同盟政策や軍備の策定なども含む)と、戦闘を有利に進めるわざとしての「戦術」しかなかった。「戦略=strategy」の語源が「将帥のみちびき」、「戦術=tactics」のそれが「配置」であると記せば、そのニュアンスがわかりやすくなるかと思う。</p>

<p>ところが、近代になって、国民軍、一般兵役制(国民皆兵制度)による巨大な軍隊が出現し、戦争は時間的・空間的に拡大する。</p>

<p>それとともに、「戦略」と「戦術」の二分法では、戦争を理解する、もしくは実行する上で充分ではなく、その中間の次元に「作戦」という概念を置くのが適当であると考えられるようになった。つまり、戦争に勝つための「戦略」を、戦場で実行する方策として「作戦」を立案・配置する。さらに、その「作戦」を現場で成功させるために「戦術」を用いるのである。</p>

<p>では、日本陸軍、というよりも、大日本帝国が太平洋戦争にのぞんだ際の戦略はどのようなものであったろうか。</p>

<p>ここに、昭和16年(1941)11月15日の第69回大本営(戦時、あるいは事変において、陸軍参謀本部・海軍軍令部が動員されて結成する統帥機構。それぞれ「大本営陸軍部」「大本営海軍部」となる)政府連絡会議において決定された、「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」なる文書がある。「蘭」はオランダ、「蔣」は蔣介石、国民政府統治下の中国を指す。</p>

<p>すなわち、日本が第2次世界大戦に参戦するにあたり、いかなる戦争目標を追求し、どのようなかたちで戦争終結をみちびこうとしたかを示す重要文書だ。もっとも、この「腹案」には、多分に総花的な、政府と陸海軍の妥協の産物という性格があるのだが、一応は太平洋戦争における日本の戦略を謳ったものであるとみてよい。その冒頭の「方針」より引用しよう(以下、引用にあたっては、旧字旧かなを新字新かなに直し、適宜句読点を追加、ルビを補う。また漢字をひらがなにした箇所もある)。</p>

<p>「速に極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置により蔣政権の屈服を促進し、独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む」。</p>

<p>実現可能であるかどうかは措くとして、この1文に明示されているように、中国とイギリスに打撃を与え、アメリカが戦争継続をあきらめるようにするというのが、日本の戦略であった。</p>

<p>ならば、この戦略が要求した方策はいかなるものであったか。続く「要領」には、こう記されている。</p>

<p>「帝国は迅速なる武力戦を遂行し、東亜及西南太平洋に於ける米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に重要資源地域並主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う」。</p>

<p>すなわち、日本の戦略は、南方資源地帯を攻略し、同地域とその域内の交通を確保、強固な防御態勢を固める作戦を陸海軍に要求したのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>昭和天皇も評価した作戦</h2>

<p>かかる戦略のもと、大本営陸軍部は、南方攻略作戦を練り上げた。当時、東アジアおよび西太平洋で連合軍の主たる拠点となっていたのは、イギリスの植民地であるマレー半島とその要衝であるシンガポール、アメリカの植民地フィリピン、オランダの植民地蘭印(蘭領東インド、ほぼ現在のインドネシア)であった。これらの地域に対し、それぞれ、第25軍(山下奉文中将)、第14軍(本間雅晴中将)、第16軍(今村均中将)を差し向けるのだ。</p>

<p>ただし、地上戦力でいえば、攻撃側の日本軍が圧倒的に優勢だったわけではない。日本陸軍としては、中国で長大な戦線を維持し、また、ソ連を睨んで満洲国に関東軍を貼り付けておく必要があり、国運を賭した大作戦、南方攻略といえども、11個師団相当の兵力しか割り当てられなかったのである。</p>

<p>当時の師団総数は51個であったから、全力投入とは程遠いことがわかる。これに対して、当該戦域にあった連合軍の師団数は約10個。兵力だけをみれば、連合軍も遜色はなかった。</p>

<p>しかしながら、日本海軍が米太平洋艦隊と英東洋艦隊を撃破し、海上の優勢を確保したこともあって、陸軍は先制の利を十二分に活用することができた。</p>

<p>まず、第25軍と第14軍がマレーとフィリピンの攻略を開始、明けて昭和17年(1942)には、第16軍が蘭印占領にかかる。ついで、タイに武力進駐した第15軍(飯田祥二郎中将)が、ビルマ(現ミャンマー)攻略の機をうかがった。</p>

<p>これらの作戦の詳細については、第2章に譲るが、マレー作戦とフィリピン作戦の同時進行による連合軍の協同の封止、時間的・空間的に作戦を段階づけることによる兵力の節約(たとえば、第14軍は、フィリピン攻略の目途が立った時点で、第48師団を抽出し、蘭印に向かう第16軍に渡すことになっていた)など、南方攻略は、複数の作戦を組み合わせた精緻な構成を有していたのである。</p>

<p>加えて、マレー作戦における戦車部隊の1点突破・後方急襲、蘭印攻略の際の空挺作戦など、戦術的にも注目すべき点は多々あった。非合理的で精神主義偏重と批判されることが多い昭和の日本陸軍であるけれども、少なくとも南方攻略に関しては、それなりに論理的な戦略にもとづき、巧妙な作戦を実行していたのだ。</p>

<p>昭和17年2月16日、木戸幸一内大臣の拝謁を受けた昭和天皇は、「次々に赫々たる戦果の挙がるについても、木戸には度々云う様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思う」との感想を洩らしている。</p>

<p>いくつかの瑕瑾は指摘できるとしても、筆者も、この昭和天皇の評価に否やはない。合理的な戦略に従い、健全かつ巧緻な作戦が練られ、実行された結果が、眼をみはるばかりの勝利に結実したのである。</p>

<p>しかし──この、ほとんどパーフェクトゲームといってよい作戦をやってのけた日本陸軍が、わずか2年後には、世界戦史上めったにないといってよいほどの惨戦をしでかすことになる。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 09 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[大木毅]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「恵まれた環境に文明は生じない」日本で高度な文明が生まれなかった背景  本村凌二（東京大学名誉教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13015</link>
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			<description><![CDATA[なぜ古代の日本では高度な文明が生まれなかったのか？ その原因は「文明発祥に必須な条件」が欠けていたからだと東京大学名誉教授の本村凌二氏は指摘する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="四代文明" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_earthball.jpg" width="1200" /></p>

<p>なぜ日本では四大文明のような高度な文明が誕生しなかったのか――。本稿では、その背景を比較し、日本に欠けていた「ある一つの条件」について、書籍『教養としての「世界史」の読み方』より解説します。</p>

<p>※本稿は、本村凌二著『教養としての「世界史」の読み方』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2 id="t011">文明発祥に必須な条件とは?</h2>

<p>何をもって文明と言うのか、いわゆる文明の定義には、いろいろな意見があると思いますが、よく言われるものの一つに「文字の発明と使用」があります。</p>

<p>四大文明でも、メソポタミアでは楔形文字、古代エジプトではヒエログリフ、インダス文明ではインダス文字、そして黄河文明では漢字のもととなった甲骨文字が、それぞれ発明・使用されています。</p>

<p>でも日本は、大陸から漢字が伝来するまで文字を持たなかったためか、太古の歴史区分に土器の名称が用いられているためか、日本人は文明の発祥と聞くと土器の使用を思い出します。</p>

<p>もし文明と土器がそれほど密接に結びついているのなら、世界最古の土器が出土したところが世界最古の文明が生まれた場所だということになります。</p>

<p>では、その世界最古の土器が出土した場所とはどこなのか。</p>

<p>実は日本が、その一つなのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>--------------------------<br />
現在、世界最古と考えられる土器の一つが、青森県大平山元（おおだいやまもと）遺跡の縄文土器だ。放射性炭素年代から推定すると、約1万6千年前。これらのことから、多くの研究者は、遅くとも1万5千年前には、日本列島で土器が使われていたと考えている。<br />
<br />
ところが、他地域の最古の土器をみると、南アジア、西アジア、アフリカが約9千年前、ヨーロッパが約8500年前──。学校で習ったいわゆる「四大文明」の故地と比較しても、日本は飛び抜けて古い。<br />
<br />
（2009年10月3日『朝日新聞DIGITAL』<br />
「日本の土器、世界最古なの?」〈宮代栄一〉）<br />
--------------------------</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>四大文明より古い時代から日本では土器が使用されていました。しかし、四大文明以前の日本に、それに匹敵するような高度な文明は生まれていません。</p>

<p>なぜ、日本では高度な文明が生まれなかったのでしょう。</p>

<p>それは、文明の発祥に必要不可欠なある条件が日本にはなかったからです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「乾燥化」が文明を生んだ</h2>

<p>文明発祥に必須なもの、それは「乾燥化」です。</p>

<p>事実、四大文明など文明が発祥したとき、世界では大規模な乾燥化が進んでいました。</p>

<p>これはとても重要なことなのですが、あまり指摘されていません。だから、なぜ前5000年から前2000年にかけて各地で文明が発生したのか、という問いにはっきりと答えられないのです。</p>

<p>実際、社会人向けに書かれた世界史の教科書『もういちど読む山川世界史』（「世界の歴史」編集委員会編・山川出版社）には、なぜ文明がこの時期に生まれたのかについては、ほとんど書かれていません。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>--------------------------<br />
文明の諸中心<br />
<br />
前3000〜前2700年ころ、農耕文化は、ティグリス川・ユーフラテス川流域に多くの都市国家をうみだし、ナイル川流域でも前3000年ころ統一国家がうまれた。このオリエントの文明は東西に伝わり、西方ではエーゲ文明の発生をうながし、東方インドでも前2300年ころインダス川流域に青銅器をもつ都市国家が成立した。<br />
<br />
また、中国大陸北部の黄河流域の黄土地帯でも、前5千年紀（前5000〜前4001）に磨製石斧と彩文土器（彩陶）を特色とする農耕文化がおこった。<br />
--------------------------</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>なぜ明記されていないのかわかりませんが、現在、学者のあいだでは、文明の発祥に乾燥化が深く関わっていることは、ほぼ認知されています。</p>

<p>事実、前5000年頃から、アフリカの北部から中東、ゴビ砂漠を通って、中国に至るラインで、乾燥化が始まっています。</p>

<p>アフリカ北部に広がる広大なサハラ砂漠は、地球環境の変化に伴い、何度も湿潤と乾燥を繰り返してきた地域です。現在は広大な砂漠ですが、現在にいたる砂漠化が始まったのは前5000年頃と考えられています。それ以前のサハラは緑に覆われていたことから「グリーンサハラ」と言われています。</p>

<p>サハラに今も残るタッシリ・ナジェールの洞窟壁画を見ると、当時、湿潤な気候風土の中で人々が生活していた様子をうかがい知ることができます。今でこそ、あんな砂漠でどうやって生活していたのかと思いますが、当時は水も動植物も豊かなグリーンサハラの時代だったのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>こうしてアフリカや中東の乾燥化が進んでいったことで、そこに住んでいた人々が水を求め、大きな川や水の畔に集まっていきました。それがアフリカの場合はナイル川の畔であり、中東の場合はティグリス・ユーフラテス川の畔であり、インドの場合はインダス川の畔であり、中国では黄河や揚子江といった大きな川の畔だったのです。</p>

<p>いろいろな水の畔に人が集まってくるわけですが、その中でも特に立地条件のいいところに人は集中していきます。その条件のいい場所というのが、ティグリス・ユーフラテス川の畔やナイル川の畔だったということです。</p>

<p>乾燥化と、それに伴う人々の水辺への集中が、なぜ文明発祥につながるのかというと、少ない水資源をどのようにして活用するか、ということに知恵を絞るからです。</p>

<p>つまり、環境的に恵まれなくなったから文明が生まれた、と言っても過言ではないのです。</p>

<p>まず、人の生存に欠かすことのできない「水」が非常に大きなファクターとなり、人口が一カ所に集中することで、それまで小さな村ぐらいでしかなかった集落が都市的な規模になる。その結果、水争いを防ぐための水活用システムが生まれ、そうしたことを記録する必要から文字が生まれたのです。</p>

<p>実際、古代の記録は、取引記録など実務的なものが多く見られます。文字は必要だから生まれてきたのですから、なぜ必要になったのか、ということを追究するには、何が記録されているのかを見るのが一番です。</p>

<p>どの地域でも、どの時代でも、歴史を知るための共通項は、「なぜ」を追究していくところにあるのだと思います。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>なぜ文明が生まれたのか。</p>

<p>なぜ文明は都市と結びついているのか。</p>

<p>なぜ都市は生まれたのか。</p>

<p>なぜ人々は一カ所に集まったのか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>こうして「なぜ」を追究していったとき、文明発祥に至る一連の流れの大本にあるのは、「乾燥化」だということです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2 id="t012">恵まれた環境に文明は生じない</h2>

<p>乾燥化が文明発祥の大本にあったということがわかれば、なぜいち早く土器を生み出した日本が、なかなか「文明」と言える段階に至らなかったのかが見えてきます。</p>

<p>それは、日本では乾燥化が起きなかったからです。</p>

<p>大きな文明が生まれたところというのは、大河があるものの、その周りは乾燥化が進んでいます。</p>

<p>しかし、日本は島国であるにもかかわらず、水がとても豊かです。</p>

<p>自然環境に恵まれ、乾燥化が起こらなかった日本では、人口の集中も起きず、少人数の集落で安定した社会が長く営まれていたと考えられます。実際、縄文時代は一万年もの長きにわたっています。</p>

<p>日本がなかなか「文明」という段階に至らなかったのは、水が豊かすぎて水活用システムをつくる必要がなかったから、そして、人口の集中が起きなかったからだと考えられます。</p>

<p>稲作が伝わったときも、日本では灌漑にさほど苦労しませんでした。何しろ、そこら辺を流れている川から、ちょっと水を引っ張れば、それで済んでしまうのです。</p>

<p>今でもそうですが、日本の悩みは、むしろ水が豊かすぎることです。水が豊かだということは、それだけ湿度が高いということでもあります。湿度が高すぎる環境は、物が腐りやすくなったり、カビが繁殖しやすくなったりと、実はとても厄介なものなのです。</p>

<p>ですから古代の日本では、収穫した作物を保存するために、高床式の倉庫をつくるなど湿気対策にさまざまな工夫がなされました。作物の保存だけではありません。奈良時代の宝物庫として知られる正倉院は、校倉造と呼ばれる特殊な形式の建物ですが、これも宝物を湿気から守るための工夫だったと言われています。</p>

<p>日本は水に恵まれていたがゆえに、なかなか「文明」に至りませんでした。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 08 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[本村凌二（東京大学名誉教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>朝ドラ『ばけばけ』主人公のルーツ　小泉セツを育てた稲垣家の知られざる物語  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13014</link>
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			<description><![CDATA[ＮＨＫ連続テレビ小説『ばけばけ』主人公のモデル、小泉八雲の妻・セツを育てた稲垣家の家柄と、養父母・養祖父について紹介する]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ラフカディオ・ハーン" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu2.jpg" width="1200" /><br />
Wikimedia Commons/Lafcadio Hearn in 1889</p>

<p>連続テレビ小説『ばけばけ』の主人公のモデルとなった小泉セツは、生まれた時に、小泉家から稲垣家へと養女に出され、稲垣家で育つこととなる。稲垣家の家柄と、セツを育てた養父母・養祖父について紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>生後間もなく稲垣家の養女に</h2>

<p>セツは生まれる前から、稲垣金十郎（きんじゅうろう）・トミ夫妻の養女となることが、決められていた。</p>

<p>子宝に恵まれていた小泉湊・チエ夫妻と違い、稲垣金十郎・トミ夫妻は子どもを一人も授かっていなかった。そのため、稲垣家と小泉家の間では、次に小泉家に子どもが生まれた時は男女を問わず、稲垣家の養子にもらい受けるという約束が交わされていたのだ。</p>

<p>セツを養女に迎えた時、金十郎は26歳、トミは24歳で、稲垣家の戸主は金十郎の父である49歳の稲垣万右衛門（まんえもん）保仙（ほせん。1819〜1898）だった。</p>

<p>小泉家が上士の家柄であるのに対し、稲垣家はそれより一段下がる並士の家柄である。稲垣家は元祖の稲垣藤助（とうすけ）が、延宝元年（1673）に二代目松江藩主・松平綱隆に仕えてから、六代目にあたる万右衛門（セツの養祖父）まで、番頭の指揮下にある組士をおおよそ務めていた。</p>

<p>家禄は、三代目から百石が与えられた。これは士分の侍のなかでも、平均的なものである。<br />
稲垣家は、城下町の西北にあたる内中原町（うちなかばらちょう）に屋敷を構えていた。小泉家の屋敷とは、松江城を挟んで、反対側に位置する。</p>

<p>稲垣家の人々は格式の高い家で生まれたセツを、敬愛の意を込めて、「おジョ（お嬢の略）」と呼び、大切に慈しんで育てた。<br />
セツもまた、養父母・養祖父を深く愛した。</p>

<p>「幼少の頃の思い出」によれば、セツは「もらい子」であることを、三歳くらいから知っていた。セツにとって、自分がもらい子であると思うことは、最も嫌な不快極まることだった。</p>

<p>養い育ててくれた養父母・養祖父は、実父母とは比べものにならないほど大切な存在で、それは今も変わらないと、セツはのちに「幼少の頃の思い出」に記している。</p>

<p>そうした境遇で育ったセツは幼い頃から物語を聴くのが大好きで、大人を見つけては、「お話ししてごしない」とせがんだという。そうして聴いた数え切れないほどの説話を、二人目の夫となるラフカディオ・ハーンに語り聴かせることになるのだが、それはまだまだ先の話である。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>養父母・養祖父......稲垣家の人々</h2>

<p>セツの養父となった稲垣金十郎は、「稍（「やや」の意か） 覇気に乏しい善良な人」だった。大の甘党で、王政復古の大号令の前、京都警備の任に就いていたが、緊迫する情勢のなか、配下の者に命じ、毎日のように、烏丸通に好物の菓子を買いに行かせたという（長谷川洋二『八雲の妻　小泉セツの生涯』）。</p>

<p>養母となったトミは、北堀町（きたほりちょう）に居を構えていた、家禄百石の原忠兵衛（ちゅうべえ）の娘であるが、幼い頃、杵築（きずき。島根県出雲市大社町）の高浜家の養女に迎えられ、成人した。</p>

<p>高浜家は代々、出雲大社の上官（高級神官）を務め、「釜の上官」と称され、大社の祭礼や儀式において、重要な役割を果たしてきた。</p>

<p>ゆえにトミは、出雲神話をはじめ、多くの説話をセツに語り聴かせることができた。ラフカディオ・ハーン（小泉八雲）の、「魂について」（『知られぬ日本の面影』所収）、「阿弥陀寺の比丘尼（びくに）」（『心』所収）などは、セツがトミから聴いた話を、ハーンに話して創られた作品である。</p>

<p>トミは学こそなかったが、大変に器用な女性だった。後年、東京の家で、セツの夫であるラフカディオ・ハーンの好物であるステーキを、見よう見真似で調理したところ、ハーンの親友の横浜グランドホテルの社長ミッチェル・マクドナルドに、「うちのホテルのシェフが焼いたものよりおいしい」と感嘆されるほどだったという（小泉凡『怪談四代記　八雲のいたずら』）。</p>

<p>セツの養祖父・万右衛門は、昔ながらの生粋の武士で、幕末に砲術方の任に就いていた。<br />
安政2年（1855）には隠岐の砲台にて異国船見回りを務め、文久3年（1863）、十四代将軍・徳川家茂が上洛して、孝明天皇の賀茂神社への行幸に随行した際には、京都の二条城や御所の警備を担った。</p>

<p>やがて、砲術方頭取に任じられ、元治元年（1864）8月、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国連合艦隊による下関砲撃にともない、神門郡の海岸（出雲国西岸）の西洋式砲台へ送り込まれている（以上、長谷川洋二『八雲の妻　小泉セツの生涯』）。</p>

<p>万右衛門は、セツが3歳の時に隠居した。だが、時代が変わっても、武士の気位を捨てきれず、それは長じてセツに悲劇をもたらす一因となる。<br />
なお、万右衛門の姉・ツタは、トミが養女となった高浜家に嫁している。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu2.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 06 Oct 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>小泉セツはどんな人物？ 朝ドラ『ばけばけ』主人公モデルの波瀾万丈な生涯  鷹橋忍（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13013</link>
						<guid isPermaLink="false">0000013013</guid>
			<description><![CDATA[ＮＨＫ連続テレビ小説『ばけばけ』主人公のモデル、小泉八雲の妻・セツについて、最低限知っておきたい歩みを紹介する]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="小泉八雲と妻セツ" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250924Takahashishinobu1.jpg" width="1200" /><br />
Wikimedia Commons/The Modern Review. October 1913</p>

<p>2025年9月29日から放送が始まるＮＨＫ連続テレビ小説『ばけばけ』。その主人公のモデルは、小泉八雲の妻・セツである。</p>

<p>一般にはあまり知られていない人物だが、その生涯は波瀾万丈で、また彼女の存在は、八雲の創作活動に必要不可欠だった。ここでは、最低限知っておきたいセツの歩みを紹介しよう。</p>

<p>※本稿は、鷹橋忍著『小泉セツと夫・八雲』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>貧困にあえいだ前半生</h2>

<p>2025年度後期のＮＨＫ連続テレビ小説『ばけばけ』は、小泉八雲の妻・セツをモデルとした物語である。<br />
小泉八雲が、『怪談』などを著した文豪であることは周知の通りであるが、その妻となると、あまり知られていないのではないだろうか。</p>

<p>小泉セツは、松江の没落士族の娘である。<br />
セツは江戸時代末期の慶応四年（1868）2月4日に、松江藩士・小泉湊（みなと）とその妻チエの次女として、島根県松江市南田町で生まれた。生まれた日が節分だったため、「セツ」と名付けられる。</p>

<p>縁戚の稲垣家との間に、次に小泉家に子どもが生まれたら稲垣家の養子とするという約束が交わされていたことから、セツは生まれて間もなく、稲垣金十郎（きんじゅうろう）・トミ夫妻の養女に迎えられ、大切に、大切に育てられた。</p>

<p>しかし、明治維新の混乱の中、稲垣家はいわゆる「士族の商法」で失敗し、零落していく。勉強好きで成績もよかったにもかかわらず、セツは小学校の上等教科への進学を諦めざるを得なくなった。</p>

<p>それでも、物語を聴くのが大好きで、セツは大人を見つけては、何かお話をしてほしいとせがんだ。これにより、自然に語り部としての素養が身についていき、未来の夫を狂喜させ、夫婦の絆を深めることになる。</p>

<p>小学校下等教科を卒業した後は、機織（はたお）りの工場で働き、稲垣家を支えたが、困窮は解消されなかった。</p>

<p>セツが18歳の時、鳥取の士族・前田為二（ためじ）を婿養子として迎えた。ところが、経済的理由などから、為二は出奔してしまい、セツのもとに帰ってくることはなかった。</p>

<p>この頃から、実家である小泉家も困窮する。<br />
稲垣家と小泉家の両家を経済的に支えなければならなくなったセツは、貧困に喘ぐことになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ラフカディオ・ハーンとの運命の出会い</h2>

<p>セツが、のちに小泉八雲となるラフカディオ・ハーン（松江では「ヘルン」と呼ばれる）と奇跡的に出会ったのは、明治24年（1891）だと考えられている。</p>

<p>ハーンは前年の明治23年（1890）8月末に、島根県尋常中学校・師範学校の英語講師として、松江に赴任している。<br />
翌年1月、あまりの松江の寒さに、ハーンは病に倒れてしまう。</p>

<p>すると、ハーンの世話をする人が必要だと思ったのか、当初、ハーンが滞在していた富田旅館の女中と、勤務先の西田千太郎（せんたろう）教頭の仲介で、セツが世話係として、住み込みで働くことになる。セツにとっては、家族を飢えさせないため、「洋妾（ラシャメン）」、つまり西洋人の妾（めかけ）と後ろ指を指されることを覚悟の上での決断だった。</p>

<p>ハーンも、セツと同じく極貧と結婚生活の破綻を経験していた。辛い経験をしてきたセツとハーンは、いつしか惹かれ合い、夫婦として生きていくことになる。</p>

<p>セツが前夫の為二から聞いた「鳥取の布団」という悲話を語ったことがきっかけで、ハーンはセツに語り部としての才能を見出し、大感激する。セツは、意外にも、リテラリー・アシスタント（文学面での助手）としての役割を果たしていくことになる。</p>

<p>セツがいなければ、『怪談』や『骨董』などのハーンの世界的に有名な作品も、生まれなかったかもしれない。</p>

<p>その後、明治29年（1896）2月、ハーンはセツと正式に入夫婚姻をし、日本国籍を取得。小泉八雲が誕生した。<br />
セツと八雲は、4人の子どもに恵まれた。</p>

<p>明治37年（1904）、新宿西大久保の家で、ハーンに先立たれてからは、セツは未亡人として、約27年もの間、茶道や謡曲を楽しみ、比較的、豊かに暮らした。</p>

<p>昭和7年（1932）2月18日、セツは夫と暮らした家で、子や孫たちに見守られつつ、64歳で、人生の幕を下ろした。</p>

<p>二人が出会ってからは、セツもハーンも、幸せな人生だったと言っていいのではないだろうか。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 01 Oct 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[鷹橋忍（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>高野山宿坊の味「胡麻豆腐」　その製法に秘められた信仰と歴史  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/13031</link>
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			<description><![CDATA[一般の量販店などで売られているものとは、見た目も味わいも違う高野山の胡麻豆腐。その理由を追うと、高野山ならではの背景が見えてくる。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="壇上伽藍（だんじょうがらん）に立つ根本大塔" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250930Rekishi1.jpg" width="1200" /><br />
写真：高野山の中心、壇上伽藍（だんじょうがらん）に立つ根本大塔（こんぽんだいとう）。真言密教の象徴的建築で、内部は、本尊の胎蔵大日如来を中心に、金剛界四仏如来像、十六大菩薩（ぼさつ）が描かれた柱などが配された立体の曼陀羅（まんだら）となっている</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>世界遺産にも登録される、弘法大師・空海が開いた真言密教の聖地、高野山金剛峯寺。和歌山県高野町の中央を占める、山上の仏教都市でもあり、近年は、ほかでは見ることができない、静寂なたたずまいを求めて、ヨーロッパ地域をはじめとした海外の人たちも数多く訪れる。</p>

<p>この町の宿坊などで、精進料理の一品として常に供される特産品が、胡麻（ごま）豆腐である。ただし、高野山の胡麻豆腐は、一般の量販店などで売られているものとは、見た目も味わいもかなり違う。その理由を地域の名店に尋ねると、まさに高野山ならでは背景があり、この地に根付いてきた信仰文化への人々の尊崇が込められていることを教えられた。</p>

<p>【筆者：兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31 年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9 年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【編者：歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991 年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>胡麻──小さな粒に、古く、遠くから運ばれてきた歴史を秘めて</h2>

<p>世界中の料理で広く活用されている胡麻は、非常に古くから人類とともにあった食材でもある。原産地はアフリカのサバンナ地域とみられ、乾燥した土地を好み、旱魃（かんばつ）にも強く、現在もサバンナに野生種が自生している。</p>

<p>自然のままでそれなりに生育することから、人による栽培も早く、紀元前14世紀にはエジプト・インド地域で始まっていたといわれる。紀元前3世紀の古代エジプトのパピルス文書には、胡麻を体に良いものと認め、薬用に使っていたことが、象形文字で記されてもいる。</p>

<p>日本においても、紀元前12世紀ごろの埼玉県内の縄文時代後期遺跡から、胡麻が蕎麦（そば）・小豆（あずき）などと一緒に出土している。その伝播（でんぱ）の詳細は不明だが、このころから稲作とともに穀物栽培の農耕技術が、大陸より流入し始めたと考えられている。</p>

<p>文書への記録も古く、『正倉院文書』に残る天平6年（734）から同11年（739）の納税記録に、尾張国（愛知県西部）、伊豆国（静岡県伊豆半島）、淡路国（兵庫県淡路島）、豊後国（大分県）から「胡麻子」「胡麻油」の納付が記され、奈良時代にはすでに国内各地の畑で胡麻が生産されていたことがわかる。</p>

<p>なお、「胡麻」という表記名称は、紀元前2世紀後期から中国で使われたもので、「西方（胡）から来た麻の実に似た小さな実」という意味である。</p>

<p>奈良時代には、実を圧して油を採り、調理や灯りの燃料として主に用いたが、平安時代の制度細則集『延喜式』には、薬用や菓子での利用が記されている。</p>

<p>興味深いのは、新嘗祭（にいなめさい）をはじめとした神事の供物として、米・麦・大豆とともに胡麻が挙げられていることで、神に感謝すべき格別な作物の一つとされていた。</p>

<p><img alt="莢に収まった状態の胡麻の実（上）。ミャンマーの胡麻畑とそこで実る胡麻（下）" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250930Rekishi2.jpg" width="1200" /><br />
写真：莢（さや）に収まった状態の胡麻の実（上）。ミャンマーの胡麻畑とそこで実る胡麻（下）。日本とは違って、畝などを作らず、平地に種をばらまいて育てている〔写真提供：株式会社角濱（かどはま）総本舗〕</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>修行僧たちが求めた、貴重な栄養源</h2>

<p>胡麻と高野山との関わりとして、胡麻を日本にもたらしたのは、唐から帰国した空海であるという伝承があり、ここから修行僧の精進食に取り入れられたとされる。前述のとおり、空海の誕生以前から胡麻の国内栽培は始まっていたが、遣唐使が練り胡麻の製法を伝えたという説もあり、あながち否定はできない。</p>

<p>ただし、精進料理が国内で本格的に発展するのは、鎌倉時代初期に南宋から禅宗が導入されて以来のことで、食事を作ることも修行の一つとして重要視されたことに始まる。胡麻豆腐が日本で作られるようになった時期などは不明だが、擂鉢（すりばち）もこのときに伝来したといい、禅の教えとともに製法が伝わったと考えるのは、妥当と思える。</p>

<p>精進料理は、仏教の戒めに則して、殺生や煩悩を生むことを避けるために、動物性の食材や、大蒜（にんにく）・韮（にら）などの刺激的な食材を用いず、野菜を主として調理した料理である。<br />
近年は、ベジタリアンやヴィーガンと呼ばれる海外の菜食主義の人たちから注目されてもいる。</p>

<p>しかし、野菜中心の献立では、ミネラルやビタミンはとれるとはいえ、健康を維持するために不可欠な五大栄養素である、たんぱく質をとれる食材が少ない。よってそれを満たすことができる、大豆や大豆を原料とした豆腐が多用される。胡麻豆腐もまた、同じ必要から生まれた料理といえる。</p>

<p>そんな胡麻豆腐のこと、高野山との関わりについて、胡麻豆腐の名店・株式会社角濱総本舗の代表取締役である、角濱功治さんにお話を聞いた。現在は角濱ごまとうふ総本舗本店のほか、創作胡麻豆腐料理などを提供する飲食部2店を高野山内で経営されている。</p>

<p>「子どもたちを対象に胡麻豆腐教室という催しをすることあるのですが、そこで、スプーンで胡麻の粒をすくって食べたら、一杯で何粒ぐらいになるかと尋ねたりします。おそらく100粒くらいでしょうか。ご飯にふりかけて食べるときも、それくらいの量かもしれません。それで二杯もスプーンで口に入れたら、口の中が胡麻で一杯になってしまいます。ところが、胡麻豆腐一個、うち場合は70グラムですが、それに使う胡麻の量を粒でいうと、だいたい4500粒から5000粒ぐらいになります。胡麻豆腐は、いかに胡麻の栄養をとるかということで、昔のお坊さんが考案したものだということが、そこから実感できます」</p>

<p>その同本舗で製造している胡麻豆腐だが、一般的にイメージする茶色いものとは違って、色が白い。理由を尋ねてみた。</p>

<p>「胡麻豆腐は、胡麻をすり潰して作った練り胡麻を、葛（くず）粉を使って固めた料理ですが、実は、永平寺式と高野山式の二系統の作り方があって、見た目や味わいが違います」。</p>

<p>角濱さんによれば、永平寺式は、胡麻をあぶって、いり胡麻にしたのち、皮ごとすり潰して使用する。焙煎（ばいせん）したことで香りが強く、皮を取り除かないことで、製品の色は茶色や灰色になる。現在、一般に流通する胡麻豆腐もこちらに近いものが多そうである。</p>

<p>一方、高野山では、風味にくせがない白胡麻を素材に、生のまま、少し水を加えて攪拌（かくはん）させる。すると摩擦熱で蒸されたような状態になって外皮がむけ、その皮をこして取り除いたものを丁寧にすり潰し、葛を加えて煮たてたのちに固めるという。</p>

<p>生の胡麻の芯部のみを使用した高野山の胡麻豆腐は、白く、まったりとした食感である。ただし、胡麻の香りは控えめで、舌の上でとけるうちに立ちあがり、滋味となる。</p>

<p>「胡麻の香りが強い永平寺の胡麻豆腐には、味噌（みそ）を添えますが、うちの胡麻豆腐だと、味噌の味しかしなくなると思います。高野山の胡麻豆腐は、山葵醤油（わさびじょうゆ）でいただくのが基本です。和歌山が醤油の発祥地だったということもありますが、醤油が当地の胡麻豆腐に合うのです」。</p>

<p>白い胡麻豆腐が好まれたのも、理由が考えられると角濱さんは推察する。現在の宿坊などで提供される精進料理は、多様な器に盛り付けられるが、もともと高野山で僧が使う食器は、赤か黒の漆塗りの器のみであった。特に赤いものは位の高い僧しか使えず、基本は黒い器だったことから、その器に映えるとして、白い胡麻豆腐が好まれたのではないかという。</p>

<p><img alt="角濱ごまとうふ総本舗で販売されている生胡麻豆腐" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250930Rekishi3.jpg" width="1200" /><br />
写真：角濱ごまとうふ総本舗で販売されている生胡麻豆腐。一見、普通の豆腐のよう</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>今、この時代に伝える、高野山で大切にされてきたこと</h2>

<p>角濱さんに創業の経緯を尋ねると、そこに高野山ならではの事情があったことを知らされた。</p>

<p>「当店が高野山で胡麻豆腐の製造を始めたのは、私の曽祖父の時代、昭和の初期のことです。もとは明治の終わりのころから、曽祖父は、高野山の麓で作った野菜や大豆などを、山内の寺院に納めることを生業としていました。こうしたことを『雑事登（ぞうじのぼり）』といい、昭和40年代くらいまで行なわれていました」</p>

<p>高野山内には「禁忌十則」という禁止事項があり、そのなかの一つに「禁植有利竹木」という定めがある。「商売につながる植物を植えることを禁じる」という意味で、これによって、地元では「三忌（さんき）」ともいい、野菜・果樹・花の育成が山内では許可されていない。現在も、個人宅の家庭菜園はともかく、山内には畑といえるような畑はないという。</p>

<p>「高野山では、仏様に花ではなく高野槙（まき）をお供えしますが、それはこうした事情があってのことです。雑事登もその『山』のルールを背景にしたもので、おそらく古い時代には、麓に荘園があり、そこから食物などを運んだのでしょう」。</p>

<p>そうした仏教の戒めを基本としてきた修行の地・高野山であるが、明治の廃仏毀釈（きしゃく）の影響で統廃合されるなど、寺院が減少して山内に空き地ができ、そこに初めて在家の人が入ってくるようになる。角濱さんの曽祖父もその一人であった。</p>

<p>昭和時代に入り、南海電鉄高野線が開通。山上に登るためのケーブルカーも設置され、観光客が増加する。多忙になった宿坊などからの要請を受けて、在家の人たちが胡麻豆腐製造の委託を受けるようになる。</p>

<p>このときに角濱さんの曽祖父も胡麻豆腐店を開業し、現在の会社の起点となった。また、これ以来、高野山の土産物として胡麻豆腐が定着していくことにもなる。</p>

<p>昭和40年（1965）には、2代目の祖父が、高温加熱殺菌処理を施した胡麻豆腐を開発し、特許を取得。レトルトパックにした製品は、品質保持期間を飛躍的に延ばし、遠隔地へ届けることを可能にし、百貨店への卸売など、販路を拡大させた。</p>

<p>そして、功治さんの代になってのち、平成28年（2016）に飲食部門をスタートさせて、多様な創作胡麻豆腐料理などを発信している。</p>

<p>また、日本で流通する胡麻のほとんどが輸入物であるという現状を踏まえて、安心して使える胡麻を確保するために、5年前、主要生産国であるミャンマーに自ら入って村人と交渉し、原料の胡麻の無農薬栽培を実現した。</p>

<p>「飲食のお店を始めた動機として、製造販売だけではお客さんの顔が見えないという心残りがありました。そして、目の前でお客さんの顔を見て、いろいろな声を聞くことができるようになると、安全な食を責任を持って提供しなければという思いが一層、強くなったのです」と語る。</p>

<p>「曽祖父から4代目の私まで、1次産業から2次、3次産業へと変わってきたことになります。そうしたなかで、新しい取り組みも続けてきました。それは高野山で暮らしてきた者として、この地で大切にされてきたこと、自然で安心できて健康につながるもの、昔からの価値あるものを、高野山に思い入れを抱いて訪れる人たちに応えて届けたいという願いがあってのことでした。変えたくないものを変えないために、自分たちが変わっていく、そんな思いでやってきたのです」。</p>

<p>最後に角濱さんに、おすすめの胡麻豆腐の食べ方を聞いてみた。「高野山の胡麻豆腐は、香りが控えめなことで、デザートをはじめ、さまざまな料理に活用できます。私はキムチ鍋や麻婆豆腐にするのが、好きですね。熱を加えるとトロトロになってとても美味しい。といっても、精進料理ではないので、お店ではお出ししてはいませんけれど」と笑う。</p>

<p>飲食部大門店では、替わって冬季限定で自店製造の豆乳を使った鍋を提供している。寒くなる時期の高野山上で、これもまた、体を温めてくれそうである。</p>

<p><img alt="高野山奥の院の参道" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250930Rekishi4.jpg" width="1200" /><br />
写真：高野山奥の院の参道。奥の院最深部の御廟では、今も弘法大師が生身のまま、禅定に入るといい、朝と昼に2回の御膳「生身供（しょうじんぐ）」が運ばれる。角濱ごまとうふ総本舗の製品はその生身供にも用いられている</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 01 Oct 2025 07:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>西園寺家で読み解く『太平記』の時代　関東申次を務めた貴族の実像  羽生飛鳥（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12933</link>
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			<description><![CDATA[西園寺家を軸に『太平記』で描かれた時代を、作家の羽生飛鳥氏が読み解く。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="太平記" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250908Hanyuasuka.jpg" width="1200" /><br />
写真：Waseda University Library</p>

<p>鎌倉末期から南北朝時代は、天皇や武士を中心に描かれることが多いが、より深く理解するためには、公家の視点も欠かせない。西園寺家――承久の乱以降、朝廷で重要な役割を担うようになった、この一族を軸に、『太平記』で描かれた時代を読み解いていくと......。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2025年9月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>2つの役割を担う</h2>

<p>鎌倉時代、幕府と朝廷との交渉役である関東申次（かんとうもうしつぎ）を務めて権勢を誇った、西園寺家という貴族がいた。</p>

<p>西園寺家の起源は、藤原北家閑院流の庶流の1つだ。流祖公季（きんすえ）以来、名前に「公」、または「実」をつけるのが通例となっている。藤原氏の流れからすれば嫡流とはほど遠いため、さほど権勢はなかった。</p>

<p>変化が訪れるのは、公季の子孫、西園寺公経（きんつね）の代で起きた承久の乱（承久3年〈1221〉）だ。後鳥羽上皇の倒幕計画に端を発したこの戦いの際、公経は朝廷側に属していたが、源頼朝の姪を妻に迎え、外孫の藤原頼経は鎌倉幕府4代将軍という、親幕派の貴族だった。</p>

<p>親幕派とは、簡単に言えば「無理して朝廷が権力を取り戻すのではなく、鎌倉幕府と仲良く共存する形で朝廷を守り立てていこう」という、現実的な考えを持つ派閥だ。</p>

<p>公経はその代表格だったので、後鳥羽上皇の倒幕計画に反対して怒りを買い、御所の厩に幽閉されてしまった。だが、その前に倒幕の情報を自分の家司に託して鎌倉へ知らせた。</p>

<p>これが鎌倉幕府の勝利の一因ともなり、北条義時は、「我が子孫7代まで西園寺殿を憑み進らすべき由」と言い残し、西園寺家は北条家と代々同盟関係となる。</p>

<p>公経の嫡男実氏（さねうじ）が5代執権北条時頼から関東申次に任命されて、西園寺嫡流が世襲していくことになるのは、寛元4年（1246）だ。これは、幕府では執権政治が、朝廷では両統迭立と、『太平記』の時代に起こる、鎌倉幕府崩壊と南北朝成立へと繫がる伏線ができた時期でもある。</p>

<p>当時の西園寺家はそのような未来はつゆ知らず、関東申次として、幕府と朝廷の交渉役、両統迭立で2つに分かれた皇統の調停役という、2つの役割を担うことになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>関東申次として</h2>

<p>幕府との交渉役になることで武士と親しくなり、皇統の調停役として娘を入内させていったので、幕府の存在と、天皇の外戚という立場が、西園寺家の権力基盤となった。</p>

<p>西園寺家嫡流が世襲する関東申次の平時の重要な任務は、朝廷の皇位継承問題を鎌倉幕府へ打診する際の交渉役を務めることだった。非常時の重要な任務としては、元寇の時、幕府から元の国書を受け取り、朝廷の意思を聞いて再び幕府へ伝えている。</p>

<p>このように西園寺家は、鎌倉時代全体を通し、関東申次として、つまりは交渉役として、朝廷と幕府が円滑に物事を進めるための重要な役割を、地味だがしっかりとこなしていた。</p>

<p>だが、日本史の教科書ではその活躍を省略しているため、現在に至るまで、西園寺家の歴代関東申次らの知名度は無きに等しい。</p>

<p>そもそも、初代関東申次の西園寺公経からして知名度が低い。だが、彼を手軽に知る方法がある。百人一首の本を読めばよいのだ。実は、百人一首の歌人の一人である入道前太政大臣は、公経である。</p>

<p>もう1人、手軽に知る方法がある関東申次は、公経の曽孫の西園寺実兼（さねかね）だ。先述した元寇の時の関東申次を務めた彼は、鎌倉時代の宮廷女流日記文学『とはずがたり』に、作者の恋人の1人、「雪の曙」として登場する。</p>

<p>ところで、この実兼の曽孫にあたるのが、『太平記』で後醍醐天皇暗殺を企てた公卿として、歴代関東申次の中では知名度がある西園寺公宗（きんむね）だ。</p>

<p>後醍醐天皇の倒幕によって、権力基盤の1つである鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政によって先祖代々知行国だった伊予国を没収されるなど、西園寺家は冷遇されることになる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>暗殺計画の真相</h2>

<p>従来、公宗が昔の栄光を取り戻すべく後醍醐天皇暗殺を計画したと考えられていたが、近年の研究では、彼が後醍醐天皇暗殺を企てた経緯は、もう少し複雑だったとされている。</p>

<p>先述したように、西園寺家の権力基盤は2つある。1つは幕府で、もう1つは天皇家の外戚という立場だ。つまり、鎌倉幕府が滅亡しても、まだ西園寺家には外戚という基盤が残されていた。</p>

<p>当時、後醍醐天皇が属する大覚寺統と、光厳院が属する持明院統の融和策として、他方の内親王を后妃に迎え、生まれた男児を次期天皇に即位させることが決まっていた。</p>

<p>公宗は、後醍醐天皇の中宮として入内した、光厳院の姉にあたる珣子内親王の中宮大夫に任命されている。珣子内親王の生母広義門院は、公宗の叔母の西園寺寧子であり、2人はいとこ同士にあたるからだ。</p>

<p>よって、彼女が男児を産めば、後醍醐天皇の血と持明院統の血と西園寺家の血の3つを引く未来の天皇が誕生し、両統迭立は解消、西園寺家も天皇の外戚として再興する道が開かれていたことになる。</p>

<p>だが、あいにく誕生したのは女児だった。</p>

<p>時同じくして公宗は、先祖代々同盟を結んでいた北条家の生き残りである14代執権北条高時の弟泰家を西園寺家で保護し、武力を確保できていた。泰家は、高時の遺児で甥の時行とも繫がっていた。</p>

<p>さらに、後醍醐天皇の建武の新政は不評で、政権が次第に不安定になりつつあった。</p>

<p>政権交代に必要な武力もあるし、外戚として天皇を確保できるし、後醍醐天皇側は内輪揉めを始めているので付け入る隙がある。すなわち、冷遇されただけでなく、西園寺家再興の条件がそろってしまったから、後醍醐天皇の暗殺計画を立てたというわけだ。</p>

<p>この計画はしかし、公宗の弟の公重（きんしげ）が後醍醐天皇へ密告したことで失敗に終わる。</p>

<p>公宗は、平治の乱（平治元年12月〈1160年1月〉）以来、実におよそ180年ぶりに処刑された現役の公卿となった。</p>

<p>しかし、彼が起こした後醍醐天皇暗殺計画に連動し、北条時行が、中先代の乱を起こす。</p>

<p>この乱を鎮圧するために足利尊氏が鎌倉へ出陣したことで、尊氏陣営で後醍醐天皇の建武政権から独立する機運が高まり、室町幕府設立のきっかけとなった。</p>

<p>公宗の立てた後醍醐天皇暗殺計画は、彼自身の死という苦い敗北に満ちた結末となったが、皮肉にも新たな時代への扉を開けるきっかけにもなっていたのだ。</p>

<p>なお、公重が密告の功績で西園寺家当主となるが、公宗の死後に息子の実俊（さねとし）が誕生したことで、熾烈な家督争いが発生。最終的に実俊が当主となり、西園寺家は継続することになる。</p>

<p>この実俊以降も西園寺家は、関東申次から武家執奏（ぶけしっそう）に名称が改まった、幕府との交渉役も世襲していく。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>歴史を支えた西園寺家</h2>

<p>その後、3代将軍足利義満の代で幕府と朝廷の交渉の仕組みが変わり、長きに亘る西園寺家の役目は終わった。だが、家そのものはその後も命脈を保っていく。</p>

<p>このように、西園寺家に注目して『太平記』の時代を見ると、朝廷と鎌倉幕府の交渉役として歴史を支えていたことや、意図せず新たな時代のきっかけを作っていたことがわかる。</p>

<p>さらに西園寺家に注目していくと、『太平記』の時代の女性達の活躍も見えてくる。</p>

<p>まず、伏見天皇中宮の永福門院西園寺鏱子は、歌人として活躍。当時、男性がするものだった歌合せの主催者や判者（審判）を自らやることで、鎌倉時代後期の和歌文化の隆盛に貢献した。</p>

<p>次に、後伏見天皇女御の広義門院西園寺寧子は、政治的に活躍した。</p>

<p>観応3年／正平7年（1352）に、北朝の三上皇と春宮という、皇位継承者も皇位指名権のある治天の君も、南朝軍によって軒並み吉野へ誘拐される事件が起きた。</p>

<p>足利尊氏の正当性を保証している北朝天皇家がなくなるのは、一大事だ。だが、三種の神器もなければ、前天皇の譲位の意思も表明されていない。その時、尊氏側が担ぎ出したのが、上皇らの母親である広義門院だった。</p>

<p>彼女を治天の君にして、天皇の指名をさせた上で、群臣の推挙を得たという体裁を整え、彼女の孫にあたる後光厳天皇を即位させたのだ。</p>

<p>担ぎ出されたお飾りかと思いきや、広義門院は亡くなるまでの4年間、北朝の皇位継承や人事などの政務にしっかり取り組んでいる。</p>

<p>彼女らは西園寺家の娘達だが、西園寺家の嫁にも活躍した女性がいる。</p>

<p>公宗の妻で実俊の母である日野名子だ。彼女は、宮廷女流日記文学の掉尾を飾る『竹むきが記』を執筆。これは現在、鎌倉時代後期の朝廷の様子など、『太平記』の時代に生きた貴族女性がどのような生活を送っていたのかを知るための、貴重な史料となっている。</p>

<p>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br />
西園寺家で『太平記』の時代を読み解くと、武士だけでなく貴族や女性の活躍もわかり、よりいっそうこの時代を楽しめる。</p>

<p>【羽生飛鳥（はにゅう・あすか）】<br />
作家。昭和57年（1982）、神奈川県生まれ。上智大学卒業。<br />
平成30年（2018）、「屍実盛」で第十五回ミステリーズ！新人賞を受賞。令和3年（2021）、同作を収録した連作短編集『蝶として死す』でデビュー。著書に『「吾妻鏡」にみる ここがヘンだよ！ 鎌倉武士』の他、近著に西園寺公宗の妻・日野名子を主人公とした長編小説『女人太平記』がある。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Mon, 29 Sep 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[羽生飛鳥（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>『べらぼう』で注目の田沼意次　悪役とされた男の最期とは？  安藤優一郎（歴史家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12945</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012945</guid>
			<description><![CDATA[歴史家の安藤優一郎氏が、田沼意次の知られざる最期を紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="田沼意次" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_tanumaokitsugu.jpg" width="1200" /></p>

<p>大河ドラマ『べらぼう』では、渡辺謙さん演じる田沼意次が注目され、田沼の政治も知られるようになった。そんな田沼だが、政敵・松平定信が登場し、失脚した後はどのような運命をたどったのだろうか。歴史家の安藤優一郎氏が、知られざる最期を紹介する。</p>

<p>※本稿は、安藤優一郎著『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>失意の死</h2>

<p>田沼意次にとり、自分を敵視する政敵が老中に起用されたことは大きかった。天明6年（1786）閏10月に2万石の没収と謹慎を命じられたが、謹慎は同年12月に解除済みだった。これ以上の処罰はないと思っていただろう。だが、松平定信が、意次の政治を批判する御三家や治済をバックに幕政のトップに立ったことで、さらなる処罰が避けられなくなる。</p>

<p>天明7年10月2日、意次の甥の田沼意致と大目付の松浦信程が、意次の名代として登城。老中在職中の不正を理由として、2万7千石の没収、隠居、蟄居謹慎が意次に申し渡された。前回の処罰ではその理由がはっきり示されていなかったが、今回は在職中の不正が理由と明示された。幕府は意次の政治に対し、はっきりNOを突き付けたのである。</p>

<p>一代にして、600石の旗本から5万7千石の大名に成り上がった意次は、再度の減封によって1万石となってしまう。大名としての身上は保ったものの、家督相続が許された孫の意明（意知の長男）は相良領を取り上げられ、陸奥信夫郡と越後頸城郡で改めて1万石を与えられた。</p>

<p>意次が築城を許された相良城は破却される。意次の象徴でもあった相良城の取り壊しとは、まさに田沼時代の終わりを視覚化する出来事であった。</p>

<p>隠居の上、蟄居謹慎を命じられた意次は下屋敷に移った。翌8年（1788）に入ると、松平康福や水野忠友など、田沼派だった老中も辞職に追い込まれる。大老の井伊直幸は前年9月に辞職していた。</p>

<p>幕府のトップに立った定信からすると、江戸の打ちこわしで噴出した人々の不満を鎮静化させ、田沼時代に代わる新時代の到来を世間に認識させることは、焦眉の課題だった。さもないと、今度は自分が世間の批判の矢面に立たされ、意次のように失脚に追い込まれるかもしれない。</p>

<p>そのためには、意次の政治がいかに悪政であったかをアピールしなければならなかった。つまり、バッシングすることで人々の不満を意次に向け、自分への期待度を高めようと目論んだのだ。</p>

<p>天明7年10月の2度目の処罰とは、世論の誘導を狙ったものだった。要するに、意次には悪役でいてもらう必要があった。</p>

<p>天明8年7月24日、意次は失意のうちに70歳でこの世を去る。名実ともに田沼時代は終焉を迎えるのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【執筆者】<br />
安藤優一郎（歴史家）<br />
昭和40年（1965）、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。同大学院 文学研究科博士後期課程満期退学（文学博士）。江戸をテーマとする執筆、講演活動を展開。 おもな著書に、『明治維新　隠された真実』『教科書には載っていない 維新直後の日本』など、近著に『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』がある。</p>
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						<pubDate>Sun, 21 Sep 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎（歴史家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「向羽黒山城ものがたり」を動画で！戦国武将たちの知られざるドラマ3選  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12960</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012960</guid>
			<description><![CDATA[作家・天津佳之氏が手がけた「向羽黒山城ものがたり」それともととした動画コンテンツ配信のお知らせ]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="向羽黒山城" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2024/2024A/240226aizu08.jpg" width="1200" /></p>

<p>向羽黒山城からの眺望</p>

<p>作家・天津佳之氏が手がけ、「WEB歴史街道」で全3回の特別読み切り連作小説として配信された「向羽黒山城ものがたり」。</p>

<p>福島県の会津美里町にある日本最大級の山城・向羽黒山城を舞台に、蘆名盛氏、伊達政宗、蒲生氏郷、直江兼続、前田慶次郎といった名だたる武将たちが登場する作品です。</p>

<p>今回、その「向羽黒山城ものがたり」をもととした動画が一挙3本公開されました。</p>

<p>小説をこれから読むという方も、すでに読んだという方も、ぜひ、お楽しみください。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>第1回、蘆名盛氏と若き日の天海が登場！</h2>

<p>第1回は、向羽黒山城の築城をめぐる物語。あらたな国づくりを目指す会津の戦国大名・蘆名盛氏は城づくりに悩んだ末に&hellip;‥。</p>

<p></p>

<p>小説は、こちらからどうぞ。</p>

<p>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12534</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>第2回、伊達政宗と蒲生氏郷の忍者が激突！</h2>

<p>第2回は、会津の新領主・蒲生氏郷と対立する伊達政宗が、向羽黒山城に忍びを派遣し&hellip;&hellip;。</p>

<p></p>

<p>小説は、こちら</p>

<p>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12738</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>第3回、直江兼続と前田慶次郎が合戦！？</h2>

<p>第3回は、会津の大名・上杉景勝を支える直江兼続のもとに、天下の傾奇者・前田慶次郎が姿を現わし、予想外の展開に&hellip;&hellip;。</p>

<p></p>

<p>小説は、こちらから。ぜひ、お見逃しなく！</p>

<p>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12878</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 16 Sep 2025 19:40:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>田沼意次の失脚、松平定信の台頭...そして寛政改革へ　『べらぼう』の時代背景  安藤優一郎（歴史家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12944</link>
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			<description><![CDATA[田沼意次が失脚し、江戸で米騒動が起こり、そして...複雑な時代背景を、歴史家の安藤優一郎氏が整理する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="松平定信" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/b/rk201701/matsudairasadanobu.jpg" width="1200" />松平定信・白河楽翁像（南湖神社 福島県白河市）</p>

<p>大河ドラマ『べらぼう』では、将軍・家治の死後、政治情勢がめまぐるしく変わる。田沼意次が失脚し、江戸で米騒動が起こり、そして...複雑な時代背景を、歴史家の安藤優一郎氏が整理する。</p>

<p>※本稿は、安藤優一郎著『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>処罰された田沼意次</h2>

<p>将軍が交代すると、側近団は入れ替わるのが常であった。異例にも、意次は家重・家治と2代続けて将軍の側近を務めた。これは、家重の指示に家治が従ったからこそ可能になったことである。意次は側用人を事実上兼任する老中として、2人の将軍を後ろ盾にすることができた。意次の権力の源泉にもなっていた。</p>

<p>そのため、意次の最大の後ろ盾だった家治が死去すれば、意次は権力の源泉を失う。そこを突かれて辞職に追い込まれた形であった。同じ8月27日に、意次と姻戚関係にあった、将軍側近の筆頭格である御側御用取次の稲葉正明が罷免される。田沼派ということで粛清されたのだろう。</p>

<p>意次が老中から辞職勧告を受けた理由だが、御用金政策の撤回に象徴されるように、幕政を混乱させたことへの政治責任を取らされたとみるのが自然である。田沼政権という枠組みで考えれば、同僚の老中たちも連帯責任を問われるのは必至だったが、意次一人に責任を取らせることで、その責任から逃れようとしたわけだ。まさに、トカゲのしっぽ切りであった。</p>

<p>家治が健在ならば、老中たちも意次に辞職を迫ることはできなかっただろう。だが、家治が病に倒れ、さらに意次が推薦した医師の投薬で病状が悪化したことを好機到来として、政治責任を取らせ、自分たちに累が及ばないよう目論んだのである。</p>

<p>意次が辞職すると、同僚の老中による、あからさまな手のひら返しがはじまる。<br />
意次の四男・意正を養子に迎えることで老中にまで引き上げられた水野忠友は、それから10日も経たない9月5日に養子縁組を解消、意正を田沼家に返した。娘を意知に嫁がせた松平康福は、意次との交際を断つと幕府に届け出た。</p>

<p>一連の縁切りとは、意次との姻戚関係を続けていては自分の立場が危ういという、政治的思惑によるものだった。それまで自分にすり寄っていた者たちが、老中辞職を機に潮が引くように去っていくのをみて、意次は何を思ったであろうか。</p>

<p>ただし、この段階では病気を理由に老中を辞職しただけである。何らかの落ち度を理由に辞職したのではなく、処罰されたわけでもなかった。しかし、それだけでは政治責任をとったことにはならないという意見に押され、幕府は意次を処罰せざるを得なくなる。</p>

<p>同天明6年閏10月5日、幕府は意次に対し、在職中に加増された2万石を没収し、さらに謹慎を命じた。神田橋の上屋敷と大坂の蔵屋敷も没収された。</p>

<p>意次が処罰された日には、勘定奉行の松本秀持が罷免される。意次の意を受けて、新たな財源作りや新規事業の推進役となっていた松本も処罰されたことは、田沼主導の幕政に誤りがあったと、幕府が認めたことを意味した。責任の所在を明らかにした処罰であり、以後、意次に引き立てられた者たちへの処罰が続く。</p>

<p>こうした処罰の裏には、これから述べていくような、徳川一門による強い申し入れがあった。意次は名実ともに失脚したが、以後幕府内では激しい権力闘争が勃発する。半年以上にも及ぶ政争がはじまるのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>意次失脚後の激しい政争</h2>

<p>田沼意次が去った後の幕府の布陣は、大老が井伊直幸、老中が松平康福・牧野貞長・水野忠友、そして家斉付きの西丸老中から老中に転任してきた鳥居忠意らであった。康福と忠友が意次と姻戚関係にあったことは、先に述べた。</p>

<p>直幸にしても、若年寄を務める分家の井伊直朗が、意次の四女を妻としたことで大老職に就けた経緯があり、田沼派とみなされていた。意次としては、譜代筆頭の井伊家を大老職に就けることで、田沼政権の権力基盤を固めたい意図があった。</p>

<p>家治の死を受け、世子の家斉が将軍の座に就く政治日程が組まれる。だが、家斉はまだ14歳であり、家治の遺言として、徳川一門の御三家と御三卿に後事が託されていた。将軍継嗣を出す資格のある御三家と御三卿は、幕政に関与しないのが原則ではあるものの、家斉が若年ということで特別に幕政に参与することになる。</p>

<p>9月6日、大老の直幸は尾張藩主・徳川宗睦、紀州藩主・徳川治貞、水戸藩主・徳川治保に、翌7日には、家斉の実父で一橋家当主・治済と、家治の弟で清水家当主・重好に、家治の遺言を伝えた。当時、御三卿のうち田安家は当主不在の状態であったため、一橋家と清水家が幕政参与を命じられたが、御三卿では一橋家のみが実際幕政に参与している。</p>

<p>幕府としては、徳川一門を幕政に参与させることで難局を乗り切りたい意図があった。一方、幕政への発言権を得た御三家と治済は、次期将軍・家斉の教育方法や老中人事などを提案したが、その際、意次の政治を強く批判した。</p>

<p>下々の難義を厭わずに政策を推し進めたことを問題視し、御役御免だけでは天下に示しがつかないと申し入れたのだ。意次の命取りとなった御用金政策を念頭に置き、その政治責任を改めて取らせるよう求める。<br />
この申し入れを受け、幕府は意次を処罰したのである。</p>

<p>治済にとって意次は、家斉を世子の座に就けてくれた恩人だったはずだ。だが、御三家とともに幕府にプレッシャーを掛け、意次の追い落としに加担する。これを機に、家斉の時代における意次の影響力を排除してしまいたかったのだろう。</p>

<p>治済は御三家とともに意次を失脚させると、ある譜代大名を老中に送りこもうと画策する。その人物こそ、寛政改革の代名詞となる白河藩主の松平定信だった。蔦屋重三郎の運命を大きく変える人物でもあった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>徳川一門による松平定信の擁立運動</h2>

<p>宝暦8年（1758）12月27日、定信は、田安家初代当主・宗武の七男として生まれた。吉宗の孫にあたる定信は将軍の座に就くことも夢ではなかったが、安永3年（1774）3月に人生の転機が訪れる。譜代大名で白河藩主・松平定邦の養子に迎えられたのである。その裏には、徳川一門から養子を迎えることで、白河藩（11万石）の家格を上昇させたいという定邦の目論見があった。</p>

<p>ところが同年9月に、実家田安家の当主だった兄の治察が死去する。治察には跡継ぎがおらず、田安家では定信を白河藩から戻そうとするも、幕府、つまり田沼政権はこれを認めなかった。田安家は当主不在となり、将軍継嗣レースから脱落する。</p>

<p>その後、嫡男・家基の急逝を受けて、家治は治済の長男・家斉を養子に迎えることを決める。養子選定に関わったのは意次であった。天明元年に家斉は江戸城西丸御殿に入り、正式に将軍継嗣となる。家治、定信、治済はいずれも吉宗の孫にあたり、いとこどうしの関係だった。</p>

<p>実家の田安家に戻れなかった定信は、天明三年に松平家の家督を継ぐ。26歳の時である。折しも、天明の大飢饉により米価が高騰した。東北各地では餓死者が続出するが、定信が藩主を務める白河藩では餓死者を1人も出さなかったため、名君としての評判を得る。</p>

<p>その後、定信は幕政への参画を志すが、意次には激しい敵意を抱いていた。自分にとっては敵とも思う盗賊同然の存在で、殺意まで抱いたと吐露したぐらいだ。その裏には、田安家に戻って当主となっていれば、将軍継嗣候補として11代将軍の座も夢ではなかったという思いがあったのだろう。定信にしてみれば、その夢を砕いたのは意次なのである。</p>

<p>将軍の座に就くことを諦めて白河藩主となった定信は、意次の失脚を受け、従兄の治済と手を組む形で老中の座を目指した。治済は御三家をして、定信の老中起用案を申し入れさせるも、擁立運動は難航する。</p>

<p>御三家が定信を老中に推挙したのは天明6年12月15日のことであったが、翌7年2月28日に幕閣から拒否される。幕政に参与させたとはいえ、老中人事にまで介入してくることは拒んだのである。そして御三家にあてつけるかのように、3月7日には寺社奉行・阿部正倫を老中に昇格させた。御三家と治済による定信擁立運動は頓挫する。</p>

<p>だが、5月に入ると、事態を一変させる大事件が起きる。それによって、潰えたかに思われた定信の老中就任も見えてくるのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>江戸の米騒動が引き起こした政変　</h2>

<p>定信の老中起用をめぐって、御三家・治済と幕府の間で政争が展開された頃、江戸では天明6年7月以来の米価高騰が続いていた。翌7年に入っても事態は好転せず、5月には米価がさらに高騰した。江戸には再び不穏な空気が満ちはじめる。</p>

<p>米騒動の危機を感じた幕府は、米を市中に売り出すよう米問屋に督促した。だが、買い占めや売り惜しみによって米価を釣り上げる行為は止まなかった。幕府は再び城詰米を江戸に送らせる準備にも取り掛かったが、これは間に合わなかった。</p>

<p>米問屋などが買い占めや売り惜しみに走ったことで米価高騰に拍車がかかり、飢えに苦しむ町人が続出したのは江戸だけではなかった。大坂などの都市も事情は同じだった。結局のところ、幕府は事態打開の方策を立てられず、町人たちの恨みが爆発するのは時間の問題となる。</p>

<p>5月12日、大坂で米問屋などの居宅や蔵が壊された。その数は200軒近くにも及んだ。大坂での米騒動を皮切りに、全国各地の都市で米問屋などが打ちこわしに遭う。いわゆる、天明の打ちこわしである。</p>

<p>20日には江戸でも、米価を釣り上げた米問屋などの居宅や蔵がこわされる事件が赤坂で起きた。以後、その波は山の手地域から街道沿いに、さらに江戸一円・宿場町・江戸郊外の在方へと広がっていった。1000軒前後が打ちこわされたと推定されている。</p>

<p>広範囲に米騒動が展開したことで、江戸の治安を預かる町奉行所は、手をこまぬくばかりで何ら対応できなかった。そのため、数日間、江戸は無政府状態に陥る。自然と鎮静化するのを待つしかなかった。</p>

<p>これに衝撃を受けた幕府は、遅ればせながら必死の対応を取る。23日、御救金の支給を開始すると江戸の町に通達した。翌24日には御救米の支給も開始した。</p>

<p>その効果だったのかは定かではないが、ようやく事態は鎮静化に向かう。というよりも、窮民による打ちこわしを恐れて、米の買い占めや売り惜しみに走った者たちが買い占めを止めたり、米の販売を再開したことが大きかったのだろう。</p>

<p>江戸の米騒動は思わぬ政治的効果をもたらす。3月以来頓挫していた定信の擁立運動が、一気に進展したのである。</p>

<p>前月の4月15日に将軍の座に就いたばかりの家斉は、打ちこわしにより市中が騒然としている状況を耳にした。よって、御側御用取次を務める横田準松に真偽を確かめたが、平穏無事と横田は答えるばかりだった。横田は、将軍の側近として幕府に大きな影響力を持つ実力者で、かつての意次のようなポジションにあった。</p>

<p>ところが、一時は無政府状態となった江戸の異変を、家斉は御庭番からの報告で知る。<br />
御庭番は御側御用取次の指示に従い、老中をはじめ幕府役人の風聞、あるいは世間の噂をその虚実に拘わらず、「風聞書」として報告することを命じられていた。その際には、将軍についての噂を報告する場合もあった。そんな探索御用は江戸にとどまらず遠国にも及んだ。風聞書は御側御用取次を介して将軍に提出されることになっていた（深井雅海『江戸城御庭番─徳川将軍の耳と目』）。</p>

<p>将軍は御庭番を使って独自に情報を収集し、幕政に反映させた。これには老中たちを牽制する効果もあったが、当時御側御用取次は四名いた。その一人で、治済とつながる小笠原信喜が江戸の打ちこわしを伝える風聞書を家斉に提出したとされる。</p>

<p>真実を伝えなかったことに家斉は激怒し、5月29日に横田を罷免する。その前日には、意次の甥・意致も御側御用取次の職を病を理由に免ぜられた。</p>

<p>横田は、定信の老中起用に強硬に反対していた。幕府も横田の意見を後ろ盾とする形で御三家からの申し入れを拒否したが、横田の罷免により風向きが変わる。一転、定信の老中起用を受け入れた。そもそも、家斉の父・治済が強く望んだ人事であるから、その意向にも配慮する必要があった。</p>

<p>6月19日、定信は念願の老中に起用され、その首座を務めることになる。まさに政変だった。7月6日には勝手掛を兼務し、幕府の財政を握る。後には将軍補佐役も兼ね、その権力基盤は著しく強化される。</p>

<p>この年、30歳になったばかりの定信は、祖父・吉宗の享保改革に倣い、寛政改革を断行する。結果として、江戸の打ちこわし、そして家斉に提出された御庭番の報告が、寛政改革を導いたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【執筆者】<br />
安藤優一郎（歴史家）<br />
昭和40年（1965）、千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。同大学院 文学研究科博士後期課程満期退学（文学博士）。江戸をテーマとする執筆、講演活動を展開。 おもな著書に、『明治維新　隠された真実』『教科書には載っていない 維新直後の日本』など、近著に『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』がある。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Sun, 14 Sep 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎（歴史家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>日本近現代史の研究者が語る　スパイミステリー『ジョーカー・ゲーム』の愉しみ方  手嶋泰伸（龍谷大学文学部准教授）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12903</link>
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			<description><![CDATA[日本近現代史を専門とする龍谷大学文学部准教授の手嶋泰伸さんに、『ジョーカー・ゲーム』の魅力ついて語って貰った。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="私の一冊" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book_2.jpg" width="1200" /></p>

<p>『ジョーカー・ゲーム』は、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞に輝く究極のスパイミステリーである。『歴史街道』8月号では、日本近現代史を専門とする龍谷大学文学部准教授の手嶋泰伸さんに、その魅力ついて語って貰った。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2025年8月号「私の一冊」より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>昭和史&times;ミステリー</h2>

<p><img alt="ジョーカーゲーム" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/9784043829064.jpg" width="1200" /></p>

<p>ミステリー・ファンとしてではなく、日本近現代史の研究者として唸らされた。</p>

<p>『ジョーカー・ゲーム』は、昭和12年（1937）に日本陸軍内に秘密裡に設立されたスパイ養成学校のスパイたちが繰り広げる、ミステリー連作短編小説集の第1巻とでも言うべきものだ。収録作品の多くで、当時の社会や人々の感覚が、真相に迫るための鍵となっている。</p>

<p>例えば、表題作である「ジョーカー・ゲーム」では、ある陸軍中尉が養成学校のスパイたちとともに、スパイ容疑のある人物が隠した日本陸軍の暗号書のマイクロ・フィルムを探すが、なかなか見つからない。そこには、当時の軍人ならではの盲点が存在していたのである。</p>

<p>イギリスに派遣されながらも拘束されたスパイの脱出劇である「ロビンソン」では、外務省対陸軍という官僚機構間の対立が、上海派遣憲兵隊内部の阿片流出事件を扱う「魔都」では、上海という特殊な地域と、そこで活動する軍人の内面が、それぞれ物語の重要な要素となっている。</p>

<p>当時の時代背景や、軍人たちの常識、思考や行動のあり方が、日本近現代史の研究者として首肯できるものであり、それらが、真相の核として見事に組み込まれている。歴史愛好家だからこそ、より楽しめるミステリーである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_book_2.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 08 Sep 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[手嶋泰伸（龍谷大学文学部准教授）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>現代と重なる江戸の経済変動　田沼改革はどう位置づけられるか？  岡田晃（経済評論家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12885</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012885</guid>
			<description><![CDATA[現代と重なる江戸時代の経済変動。徳川長期政権を支えた経済発展について、経済評論家の岡田晃氏が概説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="田沼改革" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/aoinogomon.jpg" width="1200" /></p>

<p>大河ドラマ『べらぼう』によって、江戸時代の経済状況が注目されている。特にドラマでは田沼意次が改革に尽力することから、停滞した社会のようにも見えるかもしれない。しかし経済評論家の岡田晃氏は、江戸時代は高度経済成長の時代もあり、その経済変動には、現代日本と重なる部分も多いという。江戸時代の経済変動を、岡田氏が概説する。</p>

<p>※本稿は、岡田晃著『徳川幕府の経済政策――その光と影』（PHP研究所）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>徳川長期政権を支えた経済発展</h2>

<p>今から420年前の慶長8年（1603）、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられた。これを以て江戸幕府が開かれ、江戸時代が始まったとされている。</p>

<p>家康はすでに慶長5年の関ヶ原の戦いで勝利し、実質的に天下を手中に収めていたが、征夷大将軍となったことで名実ともに武家のトップに立った。</p>

<p>こうして家康がつくった江戸時代はその後、260年余りにわたって続くことになる。その間、大坂冬の陣・夏の陣と島原の乱はあったものの、それを除けば戦乱は完全になくなった。日本で明確な記録が残る6世紀頃から以降の歴史で、これほど長期間にわたって戦争や内乱がなかった時代は他にない。世界を見渡しても類を見ない平和な時代だったのである。</p>

<p>ただ現代の我々が描く江戸時代のイメージは、必ずしも肯定的なものばかりではない。容赦ない大名取り潰し、厳しい身分制や年貢の取り立てなどが思い浮かぶ。また江戸時代の世相を表す「天下泰平」という言葉は、裏を返せば「平和ボケ」あるいは「停滞した社会」などのニュアンスを含んでいる。</p>

<p>特に鎖国の影響もあって、欧米に比べ発展が遅れたことは否定できない。このことは幕末の黒船来航によって明らかとなり、幕府崩壊に向かう転機となったことは周知のとおりだ。</p>

<p>筆者はそうした側面があったことは十分に認めつつも、江戸時代には我々のイメージ以上の経済発展があったことに注目している。260年余りに及ぶ徳川長期政権が実現したのも、この経済発展があったからこそなのである。</p>

<p>ただそれは一本調子ではなかった。成長と後退、好景気と不況、そして政策の成功と失敗を繰り返しながら、江戸時代中期以降は経済が停滞していった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>江戸時代前期は&quot;高度経済成長の時代&quot;</h2>

<p>ここで江戸時代の経済発展の足取りを概観してみよう。</p>

<p>まず江戸時代前期、慶長年間の1600年頃から元禄年間の1700年頃までの約100年間は、近代以前では最も経済が成長した時代と見られる。戦乱の世が終わり社会が安定したことで、経済発展の条件が整ったのである。</p>

<p>経済成長と言っても、もちろん現代の経済成長とは比べ物にならないが、当時の日本は世界主要国の中では、7つの海を制覇し躍進したイギリスに次ぐ成長率だったという推計もある。そこで、江戸時代前期をあえて&quot;高度経済成長の時代&quot;と呼ぶことにしたい。</p>

<p>経済成長の主な柱は、以下の5つだ。</p>

<p>第1の柱は、江戸の都市づくりだ。慶長8年（1603）に幕府を開いた家康は、全国の諸大名に工事を割り当てて江戸城の大規模な増改築に着手するとともに、海岸部を埋め立て、ここに新たな市街地を形成した。江戸は急速に人口を増やし日本最大の都市として発展していく。</p>

<p>第2の柱は、各大名による城づくりと城下町の整備だ。家康が関ヶ原の戦い以降、大名の改易（取り潰し）と転封を行った結果、各大名は新しい領地で城を築き、城下町を建設していった。全国的に建設ブームだったと言ってよいだろう。昭和40年代に日本列島改造ブームがあったが、「江戸時代版・日本列島改造」といったところだ。</p>

<p>第3の柱は、交通網の発達と経済活動の広域化だ。参勤交代や物流の増加に対応して街道整備が進み、宿場町や港町、門前町が発展した。大坂などから江戸への物資や商品が船で運ばれるようになり、海運も発達した。</p>

<p>戦国時代までは領主や豪族の勢力圏内に経済活動の範囲がとどまるケースが多かったが、天下が統一されたことで経済活動が広域化していくことになる。</p>

<p>第4は、新田開発ラッシュと米の増産だ。平和な時代となり農民は農作業に専念できるようになった。江戸や地方都市の発展によって食料需要が増加し、全国各地で新田開発が活発に行われた。</p>

<p>江戸時代研究の大家、大石慎三郎・学習院大学名誉教授（故人）によると、1700年頃の全国の耕地面積は1600年頃の2倍近くに達していたという。江戸時代の前期は「大開墾時代」とも「大開拓時代」とも呼ばれるほどだ。</p>

<p>その結果、農業生産が増加した。周知のように、江戸時代は米を中心とする農業が経済を支える最大の基盤だ。農業生産の増加がまた経済発展を促進した。</p>

<p>第5の柱は、幕府財政の確立と貨幣経済の発展、つまり財政政策と金融政策だ。農業生産の増加は幕府直轄地からの年貢収入の増加につながり、幕府財政を潤した。全国の主要鉱山も直轄地とし、金や銀の採掘による収益も幕府財政を支え、金貨・銀貨発行の&quot;原資&quot;ともなった。幕府の金融政策は貨幣経済の発展を促し、江戸後期には貨幣改鋳が財政危機乗り切りの切り札となる。</p>

<p>以上の5つの柱による経済発展は人口増加をもたらした。近年の研究によると、1600年に約1700万人だった全国人口は、1721年には約3100万人になったという。こうした人口増加がさらなる経済発展につながった。</p>

<p>戦国末期から江戸時代前期は、多くの商人が創業するベンチャーの時代でもあった。経済発展と消費市場拡大という新しい変化をいち早くつかみビジネスチャンスを広げたのだ。それらの中から住友、鴻池、三井などの豪商が生まれ、そのほかにも竹中工務店、松坂屋（現・Ｊフロントリテイリング）、キッコーマンなど、現代まで事業を継続し大企業となっている例も少なくない。</p>

<p>このように、平和体制への移行を背景に&quot;高度経済成長&quot;を遂げた江戸前期の時代は、太平洋戦争後に平和国家となった日本が昭和20年代以降に戦後復興と高度経済成長を遂げた昭和の歴史と重なって見えてくる。</p>

<p>そして昭和末期から平成初期にかけてバブルの時代を迎えたように、江戸の経済発展は元禄時代（1688～1704）にピークを迎えた。いわゆる元禄バブルである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>元禄バブルの崩壊、経済は長期低迷へ</h2>

<p>だが高度成長もそこまでだった。幕府財政は悪化し始め、経済全体も急速に悪化していった。バブル崩壊である。</p>

<p>5代将軍・綱吉の後を継いだ6代・家宣の側近、新井白石は、元禄時代に貨幣改鋳を行った荻原重秀を憎み、緊縮策をとった。そのためバブル崩壊に拍車をかけ、デフレに陥った。これが、江戸中期から後期まで経済が停滞していく始まりとなる。</p>

<p>これに対応すべく幕府は何度か改革に取り組んだ。まず動いたのが、享保元年（1716）に8代将軍となった吉宗だ。</p>

<p>江戸城内の質素倹約からスタートしたが、その一環として大奥に勤める女性のうちから美人をリストアップさせ辞めさせた話は有名だ。大奥という「聖域」もリストラの対象にしたわけで、前例や格式にとらわれずに改革に取り組んだ。</p>

<p>この「享保の改革」は当初は、歳出削減や年貢率の引き上げ、つまり増税など緊縮策が中心だったが、新田開発の奨励、甘藷（サツマイモ）栽培、殖産興業に役立つ洋書（漢訳書）の輸入緩和など、規制緩和や経済活性化にも力を入れた。</p>

<p>さらに、貨幣の供給量を増やすため、金の含有率を下げる改鋳を行った（元文の改鋳、1736）。新井白石以来のデフレ政策からインフレ政策に転換したのである。リフレ政策の元祖と言える。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>田沼意次の構造改革、頓挫の後、デフレに</h2>

<p>この吉宗の改革を引き継ぎ発展させたのが、田沼意次だった。</p>

<p>意次は特産物の生産拡大や鉱山開発などの殖産興業、株仲間の公認拡大などで、発達する商品経済に対応しようとした。海産物の輸出拡大や蝦夷地開発調査などにも動いた。従来の米偏重の経済構造を変えて経済活性化を図ろうとしていたのである。</p>

<p>今風に言えば、構造改革と成長戦略だ。</p>

<p>田沼意次は賄賂政治家と言われ「悪役」のイメージが強いが、このような開明的な経済政策はもっと評価されてしかるべきだと思う。だが天明の大飢饉（1782～88）が起き、その批判もあって意次は天明6年（1786）に失脚、構造改革は頓挫する。</p>

<p>意次の後に老中首座に就いた松平定信は田沼政治を全面的に否定し「寛政の改革」に着手した。だがその内容は、緊縮政策と「米本位制」への回帰、統制の強化が中心で、時代の変化に逆行するものだった。そのため幕府財政は一時的に黒字を回復したものの、国内経済は再びデフレに陥り不況が続くこととなる。</p>

<p>結局、定信も6年後に失脚。その後の文化・文政時代（1804～30）には老中・水野忠成が貨幣の改鋳を行い（文政の改鋳、1819）、貨幣の流通量を大幅に増加させた。デフレからインフレへと転換させるリフレ政策である。</p>

<p>これによりデフレ不況から脱し、景気は回復していった。経済の安定とともに、浮世絵や川柳、歌舞伎など、化政文化と呼ばれる町人文化が隆盛をきわめたのもこの時代の特徴だ。</p>

<p>こうした中で、今度は水野忠邦が老中となり、「天保の改革」に乗り出す。だがこれもまた、統制強化と緊縮政策が中心だった。</p>

<p>これら「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」は「江戸の三大改革」と言われるが、経済発展の観点から言えば、寛政の改革と天保の改革は明らかに失敗だった。</p>

<p>むしろ、田沼政治こそ改革と呼ぶにふさわしいと言えるが、当時の幕府、あるいは世論はそれをつぶしてしまった。結局、江戸後期は幕府の力が次第に弱まり、やがて黒船来航を経て幕府崩壊に至ったのだった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>江戸時代に令和の日本経済復活のヒントあり</h2>

<p>このような元禄以後の経済変動の軌跡＝経済低迷トレンドと数度のデフレは、平成バブル崩壊後の経済低迷とデフレの長期化に重なって見える。</p>

<p>また吉宗の享保の改革や田沼政治は、平成の小泉構造改革やアベノミクスになぞらえることができるだろうか。しかしそれらも、江戸時代と同じように道半ばで終わっている。</p>

<p>このまま現在の日本経済が江戸時代の「幕府崩壊」と同じような道をたどることがあってはならないのは、言うまでもない。幕府の経済政策の失敗は、今日への教訓ともなっている。令和の日本経済復活のためには何が必要か─江戸時代にはそのヒントが詰まっている。</p>

<p>その一方で、幕府首脳や大名、サムライたち、商人や農民、学者など、多くの人たちが危機や苦難に立ち向かい乗り越えていったことも事実である。そうした力が、やがて幕末の動乱を経て、明治の近代化を成し遂げる原動力となったことにも目を向けたい。彼らがどのようにしてピンチをチャンスに変えたかを知れば、我々も元気になれるはずだ。</p>

<p>筆者は、日本経済新聞とテレビ東京時代、そして現在に至るまで日本経済や世界経済を取材し報道・解説する仕事を続けているが、経済の変動が激しく先行きが読みにくい今こそ、歴史に学ぶことが重要だとつくづく実感している。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【岡田晃（おかだ・あきら）】<br />
1947年、大阪市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、日本経済新聞社に入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。米国現地法人の社長、理事・解説委員長を歴任、経済番組のキャスター等を務めた。2006年にテレビ東京退職、大阪経済大学客員教授に就任。2022年より同大学特別招聘教授。経済評論家。著書に『明治日本の産業革命遺産』（集英社）などがある。</p>
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						<pubDate>Sun, 07 Sep 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[岡田晃（経済評論家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>直江兼続と傾奇者が日本最大級の山城で...向羽黒山城ものがたり3  天津佳之（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12878</link>
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			<description><![CDATA[日本最大級の山城・向羽黒山城を舞台に、作家・天津佳之氏が手がける連作小説。第3回は直江兼続と前田慶次郎が向羽黒山城で再会し、模擬合戦をする物語。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="向羽黒山城" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2024/2024A/240226aizu01.jpg" width="1200" />写真：向羽黒山城</p>

<p>東北屈指の名城で、蘆名盛氏、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝といった名将らがかかわった向羽黒山城は、知られざるドラマに満ちた城でもあります。</p>

<p>この向羽黒山城を軸に、作家・天津佳之氏が手がける特別読み切り連作小説「向羽黒山城ものがたり」。第３回は、徳川家康による会津征伐前夜の向羽黒山城が舞台となります。</p>

<p>会津の大名・上杉景勝を支える直江兼続のもとに、傾奇者として名を轟かせる前田慶次郎がやってきて、向羽黒山城でひと戦（いくさ）することに......。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>会津征伐――直江兼続と前田慶次郎</h2>

<p>『六韜（りくとう）』に曰く、「凡（およ）そ兵の道は一に過ぎたる莫（な）し。一は道に階（よ）り、神に幾（ちか）し」という。一意専心して他に惑わず、以（もっ）て自在であればこそ、変化不測の神妙に近づける、との謂（い）いである。</p>

<p>まさに、上杉家中のためにあるような言葉だと、直江山城守兼続は思う。家中をそう変えたのは、いまは亡き先代の謙信公であり、それが故に、上杉の武名は天下に轟くほどに高まったと言えた。</p>

<p>主のことながら、当代の景勝はその影法師に徹していると、兼続は思う。最早この世にはいないはずの謙信の影を求める者たちの、理想の器。そうなることを、景勝自身が望んでいたのはまちがいない。だからこそ景勝は、内府・徳川家康のやり方に否を唱えた。</p>

<p>「人道、災無ければ、先（ま）ず謀（はか）るべからず」。これもまた、『六韜』の教えである。豊臣の政が人民に災いとなっているわけではないにもかかわらず、兵を謀るのは天道にもとる。このうえ、まるで天下人のように上杉を下に扱うというならば、是非もなかった。</p>

<p>最早、戦は避け得ない。避ける向きの者は、家中から召し放っている。その者たちの言い分も含んだうえで、景勝は立っている。</p>

<p>『良い城だな、与六（よろく）』</p>

<p>過日、目の前の巨大な山城を睨み据えながら、景勝は言った。いま、同じところに立つ兼続もまた、わずかに新緑を纏（まと）った威容を見上げた。</p>

<p>高さは100間（約180メートル）を優に超え、3つの連山を丸ごと縄張りとした巨城である。下から望めば、三層の曲輪に、厳重な防柵と並べ立てられた旗の類が末広がりに連なるさまは、小札（こざね）に綾糸で縅(おど)した錣(しころ)のようである。そうして見れば、山頂に向かう城道は筋金のように、櫓(やぐら)や実城(みじょう)は立物（たてもの）にも似ており、全体を眺めれば筋兜(すじかぶと)のように見えないこともない。</p>

<p>向羽黒山城。会津に覇を唱えた大名・蘆名盛氏が築城したという堅城である。以来30年余り、蘆名、伊達、蒲生と、この会津を治めた者たちは、すべからくこの城を&quot;詰め城&quot;として頼みにしてきた。その意味では、大将首を守る兜という兼続の連想は、あながち遠くもなかった。</p>

<p>とはいえ、その首をただ黙って獲らせるわけにはいかなかった。この城が堅牢であるからこそ、いま必要なのは自ら討って出るための矛（ほこ）であった。</p>

<p>『あの者は来るのか』</p>

<p>景勝の思いもまた、同じである。この主従の考えることに、寸分のちがいもない。いま、上杉の矛としてふたりが求める男。だが、決して誰の思い通りにもならない男であることを、彼らはよく知っていた。その男が、果たして遠く会津まで来てくれるものかどうか。</p>

<p>（来てくれるんだろうね。頼むよ）</p>

<p>祈るように思いながらも、改築が進む城を見上げていた。</p>

<p>「何とも雄大な城ではないか。それに見ろよ、昔ながらの雅な縄張りだな。品がある」</p>

<p>想念に埋没していた兼続は、不意の大声に思わず身をすくめると、声のほうを振り返った。</p>

<p>目に飛び込んできたのは、色も鮮やかな虎皮の陣羽織に、銀糸でかたどった髑髏(どくろ)の紋所。朱革の袴を膝下で絞り、黒革の脛巾(はばき)を括ったさまは、何とも珍妙である。だが、それをこの男が纏うと、何故だかすっきりとして風流な装いに見えるのだから不思議だった。</p>

<p>「よお。山城」</p>

<p>軽く手を上げて呼び掛けてきた男は、相も変わらぬ屈託のない笑顔を兼続に向けた。ちなみに山城とは、兼続の名乗りである山城守のことである。</p>

<p>「遅かったじゃないか。慶次郎」</p>

<p>内心の安堵を面(おもて)に出さず、兼続は憎まれ口で返した。その言葉に慶次郎――前田慶次郎利益(とします)は、すまなげに頭を搔くと、</p>

<p>「何、肉が付きすぎた内府殿よりはましだ」</p>

<p>そう言って、にやりと笑った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>慶長3年（1598）8月、天下人・豊臣秀吉が死去。豊臣家中が後継者の秀頼を守（も）り立てて政権の維持を図るなか、つぎなる天下人として台頭してきたのが、内府・徳川家康であった。</p>

<p>家康は秀吉が定めた法度を公然と破り、各地の大名家と姻戚を結んで誼(よしみ)を通じはじめた。そのうえで、豊臣家中の権勢争いに乗じて政敵の石田三成を中央から排除し、実質的な政権の領袖となったのである。</p>

<p>これに先立つ同年3月、上杉景勝は秀吉の命により、蒲生家のお家騒動である「蒲生騒動」の後を受け、越後から会津へ転封したばかりだった。新たな領国経営に取り組みはじめた矢先の秀吉の死、そして上方での政争を彼方に聞きながらも、景勝と兼続の主従は実直に会津の治政と向き合った。</p>

<p>ふたりからしてみれば、上方の騒動などは政権内の、いわば身内同士の争いである。家康の露骨な動きには眉をひそめたものの、そんなことにいちいち口を出しても仕方がない、というのが上杉家中の在り方だった。</p>

<p>同時に兼続は、秀吉という屋台骨が失われたいま、遺された政治機構だけで天下を支え切れないことも見通していた。秀吉のように、誰にとっても分かりやすく、しかも諸大名の重石となる天下人が居なければ、日の本は再び戦の巷（ちまた）となりかねなかった。その意味で、自ら天下の重石となろうとする家康の意図は理解できたし、再び世が乱れるというならば、その災いの芽を刈り取ろうという気概さえ、景勝と兼続にはあった。</p>

<p>だが家康は、ふたりが思うよりもさらに現実的だった。己の天下を乱し得る者をまとめて排除し、同時に自身が天下人であることを示すための大戦（おおいくさ）を求めたのである。そのための生贄として選ばれたのが、五大老の一角である加賀前田家だった。</p>

<p>慶長4年（1599）、家康は自身の暗殺を企んだとして、浅野長政ら政権の奉行たちを処罰し、それに関与した廉（かど）で前田家の征伐に動いたのである。秀吉の親友として、その覇業を支えた前田利家はすでに亡く、後継者の利長に家康と渡り合うほどの器量はない。生母の芳春院が自ら徳川の人質となって事態を収めなければ、加賀征伐は現実のものとなっていただろう。</p>

<p>そして、前田家に矛先をかわされた家康が標的としたのが、会津上杉家だった。理由は何でも良かったのだろうが、家康が殊更に問題にしたのは城である。当初、景勝は己の居城を、蘆名以来の会津の中心地である若松の鶴ヶ城とした。しかし、若松の町は山が近く手狭だったため、大川（阿賀川）沿いの神指原（こうざしはら）に新たな居城を築城することにしたのだが、これを叛意の証であるとの讒言（ざんげん）があったのである。</p>

<p>家康は、豊臣政権の相談役であった禅僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)を交渉役として、景勝に罪を問うた。慶長5年（1600）4月のことである。無論、これは誘いの手だった。上杉征伐を理由に兵を整え、上方を留守にする。それによって豊臣政権内の反家康派に兵を挙げさせ、合戦によって彼らを一網打尽にする策である。</p>

<p>誰しもが、つぎの天下人は家康だと暗に認めているし、景勝も兼続もそれは同じである。しかも、国替えしたばかりの上杉家中に、諸大名を従えた徳川の大軍に抗し得る兵力を確保できないのも当然だった。</p>

<p>そこまで分かっていて、景勝と兼続は家康の挑戦を受けた。上杉家の面目のためではない、世に義のあることを示すためである。それを明確に示したのが、後世に名高い「直江状」であろう。</p>

<p>景勝に代わって書いたこの書状において、兼続は&quot;景勝に異心がないことは明白であり、讒言した者の言い分を確かめることもせず、我らに逆心があるというのであれば、最早是非もない&quot;と言い切っている。そのうえ、いざ戦となれば勝つのは容易（たやす）いが、故なく戦を起こして悪人と呼ばれるのは末代までの恥となるため、上杉から手を出すことはない、と家康のやり方を痛快なまでに皮肉ってさえいた。</p>

<p>この兼続の反駁（はんばく）は、すぐさま上方に広まり評判となった。その心映え見事なるを褒めそやす者もいれば、無謀で無礼な物言いだと憤る者もいた。そして、戦の匂いを嗅ぎつけて、最後の徒花（あだばな）を咲かせようという者も。血気を余らせた牢人たちが各地から集まり、会津は早くも戦の前の剣呑（けんのん）さに包まれていた。</p>

<p>「にしても、でかい城だな。どのくらいあるんだ」</p>

<p>ただ、同じように戦を求めていながら、その手の物騒さとは無縁なのが慶次郎だった。いまも兼続の横で向羽黒山城を見上げ、子どものように目を輝かせている。</p>

<p>とうに還暦もすぎたというのに、顔の造作からして落ち着きとは無縁の男だった。歳の割に皺（しわ）の少ない面、好奇心丸出しの大きな目。太い眉に獅子鼻、よく動く口もとはいつも何かを楽しんでいるようである。中肉中背ながら、よく見れば胸板厚く腕も太く、特に首から肩、背中に掛けての肉が山のように盛り上がっている。それが珍奇な装いに身を包むと、じつによい男ぶりに見えるのである。</p>

<p>「それに高い。山々に頼らず己ひとつで立っておる」</p>

<p>城とはこうでなくては、などと高らかに笑う姿はどこか剽（ひょう）げてさえ見え、とても名にし負う&quot;いくさ人&quot;とも思えない。</p>

<p>前田慶次郎利益。亡き前田利家の義理の甥である。義理の、というのは、利家の兄・利久が滝川益氏(ますうじ)の妾にひと目惚れし、すでに身ごもっていた慶次郎ごと前田家に迎え入れたからだった。それゆえ慶次郎は、当時織田信長の麾下にあった前田と滝川双方の軍陣に入り浸り、戦のやり方を存分に学んだらしい。本能寺の変以前から、その武勇は有名であった。</p>

<p>やがて天正18年（1590）ごろになると、慶次郎は利家と反りが合わずに前田家を出奔。牢人ながらも京に屋敷を持ち、里村紹巴（じょうは）や古田織部など、上方の雅人（がじん）や大名たちと連歌に興じて親しく交わるなど、優雅に暮らしたという。</p>

<p>何より慶次郎の名を天下に轟かせたのは、その傾奇ぶりである。亡き天下人・豊臣秀吉の前で猿舞を披露して見せたというのだから、その生きざまは徹底していた。秀吉が猿に似ていたのは周知のことだが、それを露骨に揶揄した慶次郎も流石（さすが）、許した秀吉も大したものだと、上方では一時その話題で持ちきりになったほどである。</p>

<p>兼続と慶次郎が知己になったのも、上方でのことである。連歌の交流のなかで上杉の京屋敷に出入りするようになり、そこで兼続にぞっこん惚れ込んだ、とは慶次郎本人の弁だが、ふたりの交流はすでに18年に及び、莫逆（ばくぎゃく）の友と言っていいほどとなっていた。</p>

<p>だからこそ、兼続は慶次郎に知らせることなく会津に向かったし、慶次郎は会津まで下ってきた。</p>

<p>「おい。聞いているのか、山城」</p>

<p>「山は13町四方、高さは105間ほどだ。山を3つも覆いながら、城下以外に隙がない堅城よ。さすがは蘆名の大殿が築いた城よな」</p>

<p>「なるほど。こいつはいい死に場所じゃあないか。なあ、お主ら」</p>

<p>すらすらと答える兼続に笑い掛けると、慶次郎は伴ってきた一行を振り返った。慶次郎とともに前田家を出た野崎知通（のざきともみち）こそ士分の格好だが、残りの3人は、朱革の羽織に派手な染めの小袖を着た異様な風体である。何でも朝鮮の陣のとき、海を渡った慶次郎と馬が合ったとかで、そのまま近習として日の本に渡ってきた男たちだという。</p>

<p>そして、彼らが牽（ひ）く巨馬。黒鹿毛よりもさらに濃い、ほとんど漆黒に近い毛並みの馬こそ、慶次郎の愛馬・松風（まつかぜ）である。この松風もまた、もともと野生馬でありながら慶次郎にほだされた悍馬（かんば）で、余人には決して懐かない。</p>

<p>（まったく、この男はどこへ行っても人たらしだな）</p>

<p>事ほど左様に、慶次郎は誰にでも何にでも好かれたし、彼自身が何に対しても分け隔てがなかった。兼続もまた例外ではなく、20ほども歳が離れているにもかかわらず、完全に同等の友である。下手に敬語で話そうものなら、心から怪訝な顔をして、風邪でも引いたか、などと聞かれるのが落ちだった。</p>

<p>「措（お）け。ここで死ぬときは、殿も同じなのだぞ」</p>

<p>「詰め城というわけか。いいな、戦のし甲斐がある」</p>

<p>心底から戦が待ち遠しいと言わんばかりの慶次郎の笑みに、兼続は肩をすくめるしかない。それが頼もしさと嬉しさの裏返しであることを、兼続も自覚していた。</p>

<p>「慶次郎、お主の出番はもっと前だ」</p>

<p>「もちろんよ。どうせ内府殿は余計なものを引き摺って、陸奥に参るのにも時が掛かるだろうからな。こちらから打って出る隙はいくらでもある」</p>

<p>「その隙のあいだに、できるだけの備えをせねばならぬ。お主にも手伝ってもらうぞ」</p>

<p>「ああ。その分、酒を弾めよ」</p>

<p>言って呵々（かか）と笑う慶次郎に、兼続は呆れるしかなかった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>慶次郎の言う通り、家康は会津征伐に向けて念入りな根回しを進めた。無論、会津のつぎに待つ、天下人を決める戦に向けた準備である。そのうえで、家康が会津征伐の陣触れを関東以北の諸大名に下したのは、6月に入ってからのことだった。直江状が上方に届いたのが5月初旬だったことを思えば、およそひと月もの時間を掛けたことになる。実際に家康が大坂を出陣したのは、6月16日だった。</p>

<p>一方の景勝は、与えられた時を存分に活かした。神指の新城普請を一旦止めると、その資材を使って領内の要害を改築し、より強固な防衛網を敷いた。なかでも向羽黒山城は最後に依る詰め城として、兼続が自ら普請を指揮して増強を施している。</p>

<p>元来の向羽黒山城は、永禄11年（1568）に築かれた古い山城である。しかし、32年のあいだに、歴代の領主たちによってたびたび手を入れられ、石積石垣や各所の虎口（こぐち）など、時代ごとの最新の技術が取り入れられていた。</p>

<p>そのなかで、兼続が重視したのは竪堀（たてぼり）だった。広大な縄張りを持つ向羽黒山城だからこそ、攻め手の展開を制限する大小無数の竪堀こそが防御の要である。兼続はこれらの竪堀群に、上杉家が得意とする畝状（うねじょう）竪堀の工夫を加えた。</p>

<p>防備を固めると同時に、景勝は徳川軍に確実に勝つ算段をめぐらせた。家康の興味は明らかに天下分け目の大戦にあり、会津征伐はその呼び水に過ぎない。それが、景勝を激怒させていた。</p>

<p>「我ら上杉を当て馬にしようというのか」</p>

<p>謙信公以来の武名を馳せ、誇り高い上杉の当主として、それが我慢ならなかった。要するに、家康は上杉を舐めたのである。そんな恥辱を許す上杉ではないと、家康に知らしめねばならない。それが景勝と兼続の思いだった。</p>

<p>「喧嘩は意地を通してこそよ。さすがは景勝公だ」</p>

<p>手を叩いて褒めそやす慶次郎を、景勝は新たに会津に集った牢人衆をまとめた「組外衆（くみそとしゅう）」の筆頭として召し抱えた。この組外衆、豊臣政権が築いた泰平に飽き飽きとした各地の牢人が押し掛け助っ人として集まったものであり、上杉の名のもとで己の武勇を存分に振るいたいという剛の者ばかりだった。それだけに統制が難しい連中だったが、</p>

<p>「お主が最も曲者（くせもの）だからな。何とかしろ」</p>

<p>兼続は事も無げに言い、慶次郎に差配を丸投げした。それよりも、いまは徳川軍を邀撃（ようげき）するための備えが先決だった。</p>

<p>『六韜』の豹（ひょう）の巻に曰く、「敵衆（おお）くして強きを震寇（しんこう）と謂う。以て出でて戦うに利あり、以て守るべからず」という。相手が強固かつ大軍であればこそ、内に籠もっていては勝ち目などないことは自明だった。守る戦でなく、家康を討つ戦でなければならない。そのための決戦の地を、景勝は白河の革籠原（かわごはら）と定め、入念に備えた。</p>

<p>「景勝以下、上杉家中は尽（ことごと）くここを枕に討死するばかりである」</p>

<p>景勝はそう宣言したが、兼続としては次善の策も用意するのは当然だった。それが会津であり、向羽黒山城であった。すでに、おおよその改修は済ませたが、もとが古い山城である。広大な縄張りも併せて、実際の防備が如何ほどのものか、兼続にも未知数である。</p>

<p>「殿。組外衆にございますが」</p>

<p>鶴ヶ城の自室で思案していた兼続だったが、不意の声に思わず眉をしかめた。戸を開けて入ってきたのは、上泉主水泰綱（かみいずみもんどやすつな）。新陰流兵法を創始した&quot;剣聖&quot;上泉伊勢守信綱の孫であり、いまは兼続子飼いの「与板衆（よいたしゅう）」のひとりとして、組外衆の取次を命じた男である。祖父から受け継いだ剣術の達者で、その武名が牢人たちの抑えになろうかと期待した兼続だったが、生真面目な性格が災いし、牢人たちに面倒事を押し付けられること頻（しき）りだった。</p>

<p>「殿に注進したきことがあると、押し掛けて参ってございます」</p>

<p>すでに泰綱は言い慣れてしまった調子で告げ、</p>

<p>「また前田殿か」</p>

<p>兼続も皆まで聞かずに腰を上げている。</p>

<p>組外衆をまかされた慶次郎だったが、相変わらずの気ままさで牢人たちをあしらい、その不平不満が泰綱と兼続のもとに持ち込まれることになった。</p>

<p>今回も、じつに下らないことではあった。牢人たちが槍玉に挙げたのは慶次郎の武具、皆朱（かいしゅ）の槍と総朱塗の鎧である。皆朱の槍とは、柄を朱一色に塗り上げた大槍で、家中第一の武辺を示すものである。慶次郎は前田家にいたときに皆朱の槍を許されて以来、つねにこれを戦場に伴ってきたが、</p>

<p>「いま、上杉家中に加わったばかりの前田殿に、いったい何の功があって皆朱の槍を許されるのか」</p>

<p>牢人たちから、そんな抗議が上がったのである。総朱塗の鎧もまた、よほどの功名を上げた者でなければ許されぬ装い。自尊心の塊のような牢人たちからすれば、還暦過ぎの爺が年甲斐もなく、という思いもあったろう。</p>

<p>「このうえは、前田殿との決闘で白黒つけるのだと、殿に許しをいただきたいと申す者もおる始末で」</p>

<p>「まったく......あの男は、どこにでも騒ぎを持ち込むのだな」</p>

<p>実際のところ、慶次郎は老いてなお剛健そのものではある。数年前には、慶長の朝鮮への出兵に参戦して武功を上げ、嘘か真か、かの国では猛虎を狩ってその皮で例の陣羽織を仕立てたという。とはいえ、それを牢人たちに納得させねば、組外衆はただの烏合の衆となり、上杉の足手まといにならざるを得ない。</p>

<p>この問題は、上杉家中を取り締まる者として、また慶次郎の友として、兼続自身が解決しなければならないことだった。</p>

<p>「前田殿は何と言っているのだ」</p>

<p>「異を唱えた者すべてに、皆朱の槍を渡せと」</p>

<p>返ってきた答えに、兼続は思わず肚のなかで唸った。</p>

<p>全員に皆朱の槍を渡すとなれば勢い、つぎの戦で誰が本当の武功第一かを争うことになる。戦場での不要な手柄争いなど、迂闊な死に直結する。そのうえ、己の武功を証明しようと思えば、その働きを互いに間近で見せつける他ない。特に、慶次郎とは離れられない。つまるところ、慶次郎はこの策で、己とともに動く屈強の配下を得ることになる。</p>

<p>見事な策だが、それでは牢人たちの憤懣は溜まる一方である。何か手を打たなければ牢人たちが暴発する可能性もあった。</p>

<p>「前田殿、牢人たち、上杉家中、三方が丸く収まる手はないか」</p>

<p>兼続が口に出すと、泰綱は露骨に顔をしかめた。</p>

<p>「殿と前田殿のご友誼は存じておりますが、前田殿に筆頭を下りていただく他ございませぬ。あたら喧嘩を売ってまわるような傾奇者では、此度（こたび）の戦でお役に立つとは思えませぬ」</p>

<p>実直そのものの泰綱が、そんな風に感情を表に出すことは珍しく、兼続は意外の思いで彼の顔を見返した。</p>

<p>「そなたも、前田殿に不満があるようだな」</p>

<p>兼続の問いに、泰綱は答えずにかぶりを振るばかりだった。</p>

<p>剣術の家に生まれ、ひたすらその道を研鑽してきた泰綱にとって、慶次郎の振る舞いはよほど増上慢に見えることだろう。確かにそういう面があるのは事実である。だが、景勝と兼続が上杉の矛として慶次郎を求めたのには、それを越えた理由があった。だからこそ牢人たち、そして泰綱の納得は必要である。</p>

<p>兼続はしばらく思案すると、ふと気がついたように手を打った。</p>

<p>「あの城を試しとしよう」</p>

<p>そう言うと兼続は、早速にも泰綱に組外衆を集めさせると、</p>

<p>「皆朱の槍は意見を述べた者、皆に渡すこととする。これは前田殿の計らいである」</p>

<p>出し抜けにそう宣言した。拍子抜けした顔、驚きの顔、憤懣をたぎらせたままの顔、慶次郎を睨みつける顔、それぞれの思いを見定めながら、兼続は言葉を継いだ。</p>

<p>「しかし、皆朱の槍は本来、家中にひと振り。故に方々には、&quot;我こそが家中一の槍である&quot;と証を立てていただかねばならぬ」</p>

<p>これには、慶次郎が意外そうに兼続を見遣（みや）った。手柄争いという、あたら死につながることを兼続が勧めるとは思わなかったのであろう。いつも振り回される側の兼続には、その顔を引き出せただけでも溜飲が下がる思いだった。</p>

<p>「とは申せ、戦にその争いを持ち込むのでは本末転倒である。そこで、だ」</p>

<p>兼続は芝居掛かった調子で、一同をぐるりと見渡した。</p>

<p>「組外衆に、向羽黒山城を攻めてもらう」</p>

<p>「何ですと！」</p>

<p>誰よりもまず驚きの声を上げたのは、泰綱であった。</p>

<p>「無論、試しよ。城兵には我が麾下の一軍を入れ、手前が指揮を執る。そこで各々方の腕を見せてもらいたい」</p>

<p>これが、兼続が考えた策だった。実戦での手柄争いができぬなら、模擬戦でそれに代える。牢人のうち、一軍を率いた経験を持つ者は少なく、必然、古強者（ふるつわもの）の慶次郎が主導することになろう。そのうえで、彼が指揮と武勇の双方を証明してくれれば、泰綱も含めて組外衆は自然とまとまるはずである。</p>

<p>加えて、兼続にとっては向羽黒山城の改修が確実に機能するか、そもそも城の防備に穴はないかを確かめることにもなる。そのうえ、麾下の兵たちの訓練もできるという、一石二鳥の策である。</p>

<p>騒然とする組外衆のなかにあって、慶次郎は目を瞬かせて兼続を見つめた。しかし、その狙いに気づいたのであろう、</p>

<p>「はっはっはっ！　山城殿も悪戯（いたずら）がお好きと見える。付き合（お）うてやろうではないか、我らで難攻不落の向羽黒山城、落としてみせようぞ！」</p>

<p>仰（の）け反（ぞ）るように大笑すると、拳を振り上げて威勢を上げた。つられるように声を上げる牢人たちを前に、兼続の意識は早くも城へと翔んでいた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>兼続は己の案を景勝に奏して許しを得ると、早速にも与板衆の兵1000を向羽黒山城に入れた。一方の組外衆の兵も、およそ1000。通常、城攻めには守勢の3倍の兵力が必要と言われるが、数は互角である。</p>

<p>「考えたもんだな。俺の策に乗っかって、城の試しまでやるとは」</p>

<p>麓から山体を覆う縄張りを見上げる兼続に、慶次郎の声が掛かる。その声音にある楽しむ色を聞き分け、兼続はわずかに口角を上げると、</p>

<p>「お主の悪戯に応えたまでだ。それに、あのままでは槍に文句をつけた者たちが、あたら死ぬことになったかもしれぬ」</p>

<p>そう返した。兼続が纏う戦装束は、金小札(きんこざね)に浅葱糸縅(あさぎいとおどし)の具足に白の陣羽織。脇に控える泰綱が抱えた兜には、白銀作りの「愛」の字に瑞雲の前立て、かつて上杉謙信から与えられた代物である。手にした軍配を弄（もてあそ）びながら笑う兼続に、慶次郎もにやりと笑った。</p>

<p>「下らん言い掛かりをつけた罰さ。まあ、あいつらは命拾いしたな」</p>

<p>慶次郎の言い方は恬淡（てんたん）としてこだわるところがなく、自分の策で己や味方が死地に踏み込むことを気にした風もない。生き死にに特段の価値を置かないのは武人の習いだが、ここまで徹底している男を、兼続は慶次郎の他に知らなかった。</p>

<p>この日の慶次郎の出で立ちは、例の総朱塗の具足。草摺の下に黒革の袴を履き、足元は黒の足甲を付け、全身が朱と黒の装いである。肩口には山吹色に黒を差した魚鱗の袖を配し、それが虎皮の陣羽織とよく合っていて、こんなところにも慶次郎一流の美学を感じる兼続である。</p>

<p>伴の野崎知通が抱えた黒塗りの兜は、南蛮笠を模しているらしく、尖った鉢につばまでついた珍妙な形。これに皆朱の槍を携えた鎧姿が、敵の目を引くのは当然だった。それでも、己の美学に徹して命を埒外（らちがい）に置きながら、50年来戦場で生き残ってきたのが、慶次郎という男の在り方である。</p>

<p>「失礼ながら」</p>

<p>ふと、硬い声がふたりのあいだに挟まった。声の主はと兼続が見れば、脇に控えた泰綱である。</p>

<p>「その出で立ちで、前田殿は如何に戦われるのか」</p>

<p>「無論、一騎駆けよ」</p>

<p>「筆頭がそのように迂闊に振る舞われて、戦が成り立つとお思いか」</p>

<p>泰綱の声は、ほとんど問い詰める調子である。</p>

<p>「上泉殿、思いちがいをされておるようだが、わしは頭になったつもりなどない」</p>

<p>「慶次郎、その辺にしておけ」</p>

<p>泰綱の気配に危ういものを感じ、思わず兼続は慶次郎を制止した。が、むしろ止まらなかったのは泰綱だった。</p>

<p>「己の責を放り投げて勝手気ままに振る舞うなど、上杉の軍法では許されませぬぞっ」</p>

<p>「わしは天の法に従っておるまでよ。人が思うままに生きてこそ、現（うつ）し世が華やぐというものよ」</p>

<p>ああ言えばこう言う、慶次郎の悪い癖に兼続は思わず額を押さえた。その刹那、泰綱が不意に兜を慶次郎に投げ寄越した。思わず受け取ろうと手を伸ばした隙に、泰綱の凄まじい抜き打ちが襲い掛かった。</p>

<p>「主水っ！」</p>

<p>声が響くより早く、泰綱の刀は止まっていた。</p>

<p>「見事な業前（わざまえ）ですな。それも新陰流の手にござるか」</p>

<p>慶次郎はのんびりと口を開きながら、左手で兜を受け取り、右手で半ばまで腰の刀を抜いて泰綱の胴打ちを阻んでいた。それを兼続が確かめる間もなく、泰綱の刀は鞘にもどっている。</p>

<p>「だが、主のものを粗末に扱うのは感心しないな。気をつけられよ」</p>

<p>もっとも、そんな凄まじい剣撃を向けられた慶次郎のほうは、あっさりとしたものだった。涼しい顔で兜を泰綱に渡すと、野崎が牽いてきた愛馬・松風の背に跨（またが）り、</p>

<p>「やはり戦はいい。上泉殿のような男と戦えるのだからな」</p>

<p>そう嘯（うそぶ）くと、組外衆の陣へと去っていく。</p>

<p>「仕方のない奴だ」</p>

<p>見送る兼続が言ったのは、慶次郎と泰綱、双方に対してである。</p>

<p>「申し訳ございませぬ。しかし、前田殿は悪戯が過ぎまする。あれでは、組外衆はまとまりませぬ」</p>

<p>「そなたは、そうであろうな」</p>

<p>兼続は、わずかに笑みを含んで返した。泰綱の憤懣は、上杉の行く末を案じてのことだからだ。いざ徳川が動き出せば、兵力は7、8万を超える。一方、上杉はどれだけ振り絞っても兵3万がせいぜいであろう。そのうえに、烏合の衆を抱えたまま負けるようでは、景勝と兼続の恥となる。そんな泰綱の考えが、兼続には手に取るように分かった。</p>

<p>そして何より、泰綱は上泉の嫡流として、武の道に対してもあまりにも誠実だった。武辺を弄ぶような慶次郎の振る舞いが、心に引っかかるだろうことは想像に難くない。</p>

<p>（まあ、槍を交えれば分かることもあろう）</p>

<p>兼続はそう判断して城に入ると、早速にも兵に指図して防備を固めた。三の曲輪の兵400の指揮は上泉主水泰綱、守りの中枢たる二の曲輪には兵500を腹心の溝口左馬助勝路（さまのすけかつはる）にまかせ、兼続自身は城の最高地点である実城で模擬戦のようすを見聞する構えである。</p>

<p>城の防御を確かめる意味もあり、正面からの力攻めをするよう組外衆には指示している。武器は先を丸めた木槍と木矢を使い、討たれたか否かは各自の判断にまかせるが、甲冑に覆われていない生身を打たれたら死と判定するよう申し合わせた。模擬戦で門を傷つけては本末転倒と、各門扉は閂を掛けずに閉じたのみで、周囲の城兵が手薄となれば開けても良いこととしたが、この取り決めはほとんど意味を成さないであろうと、兼続は考えている。</p>

<p>城攻めでは防御側が圧倒的に有利であり、攻め手の組外衆が早々に全滅することは目に見えていた。故に、ある程度勝負の趨勢が見えた際には一旦仕切り直しとし、防衛線を後方に下げてから再開することとした。この手順で、三の曲輪から実城までの主立った防御機構を確かめるのである。</p>

<p>実城の前に置いた床几に腰を据え、兼続は城の構えを眺めやる。その麓で気勢を上げる組外衆がかすかに見え、</p>

<p>「さて、お手並み拝見と行こうか」</p>

<p>そうつぶやいて近習に太鼓を叩かせる。模擬戦のはじまりを告げる太い音が、6月の蒼天に高く響き渡った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>組外衆は城の北、若松方面とつながる北大手口から攻め掛かった。北曲輪へと雪崩を打って攻めかかる牢人たちだったが、早速の竪堀に隊列を引き延ばされたうえに、その姿は周囲に配された平場から丸見えである。</p>

<p>「放て！」</p>

<p>泰綱の号令一下、城兵たちの弓が一斉に鳴った。放たれた木矢は土塁と防柵を越え、組外衆の頭上に降り注ぐ。彼らの行く手には、かつては蘆名盛氏が暮らしたという城主屋敷があるが、その周囲には横堀が深く掘られ、組外衆の行く手を阻んだ。そのうえ、薄くなった隊伍の脇を衝くように馬出しから城兵が襲い掛かったのだから、武辺自慢の牢人たちと言えど耐えるのが精いっぱいだった。</p>

<p>そうして見れば、縦横にめぐらされた空堀も、それらによって複雑に屈曲した城道も、計算の上で取りまわされているのは一目瞭然である。攻め手はただ進軍するだけで丸裸にされ、城兵に隙を曝（さら）すことにならざるを得ない。そうなるように入念に平場が配置されているのは自明で、牢人たちには矢をしのぐ死角さえなく、多くの者が木矢を受けて倒れていった。</p>

<p>ただでさえ急な斜面には高く土塁が盛られ、這（は）ってでも乗り越えるのは難しかった。仮に這い登れたとしても、防柵から突き出される槍衾（やりぶすま）に貫かれるばかりであろう。</p>

<p>先鋒は、とみれば、三の曲輪と接続する虎口に攻め掛かっている。が、虎口はそれこそ防御の要であり、もちろん容易に抜けるはずもない。むしろ誘い込まれた体で、組外衆はその数を減らすばかりだった。</p>

<p>もし、これが本当の籠城であったなら、三の曲輪に敵軍を釘付けにしたうえで、西側の搦手口（からめてぐち）から別働隊を繰り出し、後背を衝くことも容易である。さらに言えば、隣の羽黒山に配した曲輪から横矢を掛けることもでき、時に応じて守りを自在にする縄張りの巧みさは、とても30余年前に築かれたと思えないほどだった。</p>

<p>「......城づくりの名手だな、蘆名盛氏という方は」</p>

<p>まだ三の曲輪の一部を試したに過ぎないというのに、兼続はほとほと感心してつぶやく。</p>

<p>土塁に防柵、空堀、平場、虎口。この城は、どこを取っても攻め手にとっての死地だった。しかも、深く攻め入れば攻め入るほどに攻め手に危難をもたらす。それは、いかな大軍で押し寄せようと変わらない。むしろ、大軍であるほど攻めにくさが増す仕組みだった。</p>

<p>しかも、城兵がより多ければ、手は自在に変化していく。さすがの兼続も、自分ならどう攻めるか考えあぐねた。攻めたくない、とさえ思えた。</p>

<p>――手柄争いどころの騒ぎではないな。</p>

<p>慶次郎をはじめ、皆朱の槍衆がどこで戦っているか分からないが、これでは互いの腕を試す暇さえないであろう。実際、三の曲輪の虎口での戦いも小康状態になりつつあり、一旦仕切り直すべく兼続は腰を上げ、合図を送ろうとした。</p>

<p>が、そのとき。彼方からの大きな喊声が、兼続の耳を震わせた。</p>

<p>何事かと視線をめぐらし、兼続は我が目を疑った。三の曲輪に入る虎口が、いつの間にか突破されているのである。それどころか、勢いを取り戻した組外衆の一団は三の曲輪を破り、二の曲輪に襲い掛かっていた。油断していたか、それとも牢人たちの迅速な進軍に追いつけなかったものか。組外衆は手薄になっていた囲みを食いちぎり、二の曲輪の門に殺到した。</p>

<p>「何が起こった！」</p>

<p>思わず喚（わめ）いた兼続だったが、物見櫓からは不明瞭な答えしか返ってこない。慌てて使番を遣（や）ろうとしたときには、すでに組外衆が二の曲輪に雪崩を打って攻め寄せる有り様だった。</p>

<p>「備えよっ、すぐにこちらに来るぞ！」</p>

<p>二の曲輪から実城のあいだには、独立した一東曲輪と一北曲輪があるが、2カ所の防備が間に合わないと判断した兼続は、実城直下の平場に兵を集中させた。周囲には縦横に空堀をめぐらせて攻め手の勢いを殺し、さらに天然の大岩を残した岩場と防柵を利用したこの要害ならば、組外衆も容易には突破できないはずである。</p>

<p>早くも牢人たちの喧騒が迫るなかで、兼続は後手に回らざるを得ない己を自覚した。</p>

<p>「直江様っ、これはどういうことか！」</p>

<p>そうこうするうち、実城で防備を固める兼続のもとに駆け込んできたのは、二の曲輪をまかせた溝口左馬助だった。その武骨な顔は、困惑と怒りで歪んでいる。</p>

<p>「溝口、いったい何が」</p>

<p>「前田殿にござる！」</p>

<p>左馬助が叫んだ、ちょうどその時だった。勁烈（けいれつ）な雄叫（おたけ）びとともに実城を守る兵たちを蹴散らして、一騎の赤黒い騎馬が一の曲輪に躍り込んだ。手にした朱色の木槍を旋風のように振り回しながら、当たるを幸いに城兵たちを薙ぎ倒し、一気に兼続へと殺到した。</p>

<p>兼続が身構える間もなかった。気が付けば、木槍の丸い先端を突きつけられている。その後ろを見れば、この一騎が突破した防御のほころびに乗じ、後続の牢人たちが曲輪の内へと攻め込んでいた</p>

<p>「俺の勝ちだな、山城」</p>

<p>木槍の向こうから、巨馬にまたがった慶次郎が見下ろしていた。</p>

<p>「何が勝ちなものかっ。お主ら、生死の申し合わせを破っておったではないか！」</p>

<p>激怒する左馬助の言い分で、兼続にもおおよその事情は呑み込めた。確かに、兼続もおかしいとは思っていたのだ。木矢や木槍で打たれたはずの者たちが、申し合わせを反故（ほご）にして攻め手に加わりつづけたのである。そうでなければ、あれほどに組外衆の攻めが継続するはずがなかった。</p>

<p>「慶次郎、先に言ったはずだな」</p>

<p>「何を言うか、山城。武人が木矢で打たれた程度で死ぬのか。おいっ、どうなんだ、言ってみろ」</p>

<p>慶次郎の言い草はほとんど恫喝（どうかつ）であったし、屁理屈に過ぎなかった。確かに木矢に当たった程度で死ぬ者などいない。それはそうだが、そんなことを言い出せば、模擬戦などできたものではない。</p>

<p>「だいたい、城を守るのに門をまともに閉じぬなど、不行き届きではないか」</p>

<p>「死んだはずの者が蘇るほうが、よほど不法だろうっ」</p>

<p>左馬助の怒りはもっともだったが、このままでは与板衆と組外衆のあいだで戦がはじまり兼ねない。だが、兼続は成り行きにまかせるかのように、ふたりの言い合いを聞くのみだった。</p>

<p>「お待ちあれ、溝口殿」</p>

<p>そこへ、新たな声が届いた。</p>

<p>「おお、上泉殿。お手前からも言うてくだされ。これ以上前田殿に勝手されては、試しにならぬ」</p>

<p>やってきたのは、三の曲輪をまかされていた上泉泰綱だった。具足の胴はひしゃげ、顔から落馬でもしたのか、半面は泥に汚れている。それでも、兵法者らしい鋭い眼光で慶次郎を見上げ、そして兼続を見た。</p>

<p>「前田殿はここまで、確かに討たれてはおりませぬ」</p>

<p>「な、何を申されるか。これほどの乱戦で、いったいどうやって」</p>

<p>「三の曲輪からここまで、すべて見聞いたした。前田殿は真っ先に三の曲輪に攻め掛かり、手前を打ち倒すと組外衆を励まして、一気に攻め上られた。真、見事な一騎駆けにござった」</p>

<p>泰綱の言い振りに、兼続もまた頷いた。兼続は、この無法な友が突撃するさまを、何度も目にしていた。凄まじい速度で疾駆する松風を自在に操り、大柄の槍を軽々と振り回しながら一散に敵陣へと飛び込んでいくさまは、男であれば誰もが血を湧き立たせずにはおられないほど見事だった。</p>

<p>そして、その速さゆえに敵の弓は狙いを外し、松風の巨体と大槍が真っ先に敵を打ち倒す。そんなだから、この模擬戦において慶次郎が手傷を負わなかったのも事実であろう。あれほど慶次郎を嫌っていた泰綱が、素直にそれを認めたくなるほどに、慶次郎の一騎駆けには何とも言えない華があった。</p>

<p>見れば、皆朱の槍をめぐって険悪だった牢人たちも慶次郎の後ろに集まり、互いの健闘を称え合い、慶次郎と松風を頼もしげに見上げている。その姿に、兼続は己の策が成ったことを確信した。あとは、仕上げをするだけだった。</p>

<p>「おい、慶次郎。お前が派手に暴れ回っては、城の試しにならぬ」</p>

<p>兼続が呆れて言うと、慶次郎はわらべのように口をとがらせて、</p>

<p>「何を言う。戦場にどんな武辺の者がおるか分からんだろう」</p>

<p>またも屁理屈をこねた。だが、それも兼続は馴れっこである。</p>

<p>「徳川方に、お主ほどの強者がおるか。おらぬだろう」</p>

<p>「それもそうか。では、我らの負けだな」</p>

<p>事も無げに言う兼続に、慶次郎もあっさりとそう返して、がはがはと大きく笑った。その屈託のなさに左馬助も毒気を抜かれたのだろう、肩を落としつつも表情を緩めている。</p>

<p>「それにしても、良い城だ」</p>

<p>出し抜けに、慶次郎が言った。</p>

<p>「門が閉ざされていれば、攻めようもなかったな。そのうえ、これほど固いというのに、城下には人の暮らしもある。蘆名盛氏という御仁、よほどひねくれておったのだろう」</p>

<p>それは兼続にとっても実感だった。</p>

<p>（いや、もしかすれば）</p>

<p>先ほど、この城の堅牢さに攻める気を失った自身を、兼続は思い出す。そう敵に思わせることが、向羽黒山城の最大の防御だったのではないか。「上戦（じょうせん）は与（とも）に戦う無し」。戦わずして勝つことこそ、あらゆる兵法書が目指す最上の勝利であることは、疑いようもない。そして、そんな堅城だからこそ、蘆名盛氏は城に商工の町を置いたのではないか。</p>

<p>『六韜』において、太公望（たいこうぼう）はこうも言っている。「天に常形有り、民に常形有り。天下と其の生を共にすれば、天下静かなり」。天に法則があるのと同じように、民の暮らしにも法則がある。人の暮らしを天道のように敬い、それを間近に置いて国を思うてこそ、泰平に治まる――。いにしえの聖賢も描いた理想を、盛氏はこの城で実現しようとしたのではないか。</p>

<p>「......神指も、このような城にしたいものだな」</p>

<p>かつて会津を治めた男に思いを馳せながら、兼続は、慶次郎以下の組外衆、そして左馬助と泰綱以下の城兵に労（ねぎら）いの声を掛けて、険しい城を下っていった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>その後の7月17日、石田三成をはじめとした豊臣恩顧の大名たちが、家康の留守に乗じて上方で挙兵。下野国小山まで進んでいた家康は、この報を耳にして会津征伐を中止し、反転して三成たちの征伐に向かうことを決断する。これが、天下分け目の大戦「関ヶ原の戦い」の端緒となった。世はまさに、家康の意図のとおりに動いていったのである。</p>

<p>矛先をかわされた形となった景勝と兼続は、かねてから徳川方として振る舞う最上義光、己の旧領を狙う伊達政宗を敵と定め、後顧の憂いを断つべく出羽へと攻め入った。北の関ヶ原と呼ばれる「慶長出羽合戦」の始まりである。</p>

<p>この戦のなかで、慶次郎以下の組外衆はすさまじい戦ぶりを見せた。なかでも、長谷堂城からの撤退戦では、兼続の近習と組外衆合わせて3000の兵で殿軍を担い、2万にもおよぶ最上軍の追撃をしのぎ切って、上杉全軍を無事帰還させたという。</p>

<p>9月15日、関ヶ原で三成らが敗北。西軍方に与（くみ）した諸大名がことごとく処罰を受けるなかで、上杉はしぶとく抵抗をつづけていた。が、それもいよいよ限界となった10月末、ようやく景勝と兼続は徳川との講和を決断し、本庄繁長（ほんじょうしげなが）と千坂景親（ちさかかげちか）を使者として上方に送った。半年以上の交渉を重ねた、慶長6年（1601）7月、景勝と兼続は上洛し、家康に謝罪することとなった。</p>

<p>上方での宿所は伏見の上杉屋敷だったが、ふたりは入洛するとすぐに伏見城に登った。和平の仲介を買って出た結城秀康や西笑承兌らと面談し、その厚情に謝すためである。</p>

<p>「失礼ながら、そちらは直江山城守殿にございますか」</p>

<p>秀康らに挨拶を終え、城を出ようとした兼続に、そんな風に声を掛ける者があった。見れば、仕立ての良い素絹（そけん）に五条袈裟（ごじょうげさ）を掛けた老僧が、柔和な笑みを浮かべて佇んでいる。</p>

<p>「左様ですが、御坊（ごぼう）は」</p>

<p>「武蔵国喜多院（きたいん）の住持、天海と申します」</p>

<p>その名は、兼続も耳に挟んだことがあった。関東の天台宗門をまとめる名僧であり、小田原征伐後、関東に地盤を築く家康に助言してその帰依を得たという。</p>

<p>「御坊が。お噂はかねがね、聞き及んでおります」</p>

<p>天海は若くして天台、法相（ほっそう）、禅など諸宗を修め、関東はおろか畿内の名刹を訪ねて修行に明け暮れ、その伝手（つて）でさまざまな宗門に顔が利くと聞く。あるいは、いよいよ天下人となった家康のため、上方の宗門との折衝を担っているのではないか。そう想像した兼続だったが、そんな天海が己に声を掛けてきた理由が不明だった。</p>

<p>その不審が顔に出ていたのだろう、天海は眼尻を下げると、</p>

<p>「じつは、拙僧は会津の生まれなのでございます。かれこれ故郷を離れて10年、縁なく帰郷することも叶わぬ身の故、かの地のお話が伺えればと」</p>

<p>そう言って、丁寧に頭を下げた。</p>

<p>「左様にございますか。会津のどちらで」</p>

<p>「大沼にございます」</p>

<p>「大沼と申せば、向羽黒山に大きなる城がございますな」</p>

<p>兼続が言った、瞬間だった。天海はわずかに驚いたように目を見開くと、満面に笑みを浮かべた。そこに見えるのは懐旧の情と、わずかなはにかみだった。</p>

<p>「嗚呼......あの城は、まだ残っておりましたか」</p>

<p>まるで、長年音沙汰がなかった友の無事を聞いたかのように、天海は嘆息して言った。</p>

<p>「はい。城下の町もよく栄えておりますれば、新たな城の手本にしようと考えたほどにございます」</p>

<p>「町も、民も、息災なのですね。それは、それは何より」</p>

<p>最早、天海の声は潤み、震えてさえいた。老僧がそれほどの想いを懸ける理由が分からず、兼続は困惑するほかない。</p>

<p>「天海殿は、よほどあの城に縁がござるのですな」</p>

<p>「もちろん。じつは、向羽黒山の城を蘆名の大殿がお建てになる際、少しくご意見を申し上げたのです。大殿はそれを大変喜ばれ、まだ若輩の拙僧に何くれとなくお気遣いを賜りました」</p>

<p>蘆名の大殿、盛氏のことを話す天海の声音は敬慕に満ちて、聞く兼続も思わず胸を締め付けられた。だが、それにも増して尋ねたいことがあった。</p>

<p>「御坊は、向羽黒山の城に如何なる策を与えましたか」</p>

<p>過日、あの城に見た願いが正しかったかどうか。兼続はそれが知りたかった。問いに、天海は一瞬で笑みを収めた。深い色を宿した目を兼続に注ぎ、</p>

<p>「一円、と」</p>

<p>そう答えた。</p>

<p>仏道にいう&quot;一&quot;とは、すべてであり、自在である。兼続は、それに似た言葉を知っていた。</p>

<p>「一は道に階り、神に幾し......ですな」</p>

<p>謙信から受け取り、なお兼続の心に一本の軸としてある言葉である。『六韜』が語る兵法は、単なる戦術ではない。道に通じ、国に、そして天に通じる法である。その極意こそが&quot;一&quot;であり、神妙自在を以て乱を鎮め、天下を泰平に導くのだと。</p>

<p>兼続の返答に、天海は今度こそ相好（そうごう）を崩して、深く頷いた。そして、兼続と天海は手近な部屋に腰を落ち着けると、会津の思い出話に花を咲かせたのだった。</p>

<p>翌8月、景勝と兼続のふたりは、大坂城にて家康と対面し、正式に謝罪した。家康はそれを受け容れたうえ、上杉家を取り潰しにせず、会津120万石から米沢30万石への減封との沙汰を下した。そこに天海からの執り成しがあったかどうかは、定かではない。</p>

<p>向羽黒山城は、上杉の米沢転封に伴って廃城とされた。築城から33年、一度として本当の戦場になることはなかった。防柵や屋形などの建物は破却され、その後に再興されることもなく、やがて縄張りも時の流れに飲まれ、自然に覆われるばかりとなった。</p>

<p>ただ、蘆名盛氏が興した城下町は、蒲生氏郷が育てた人々の暮らしは、変わらずそこに残った。その人々によって城が再発見されるのは、ゆうに400年後のことである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【「向羽黒山城特設サイト」はこちら!】<br />
https://www.mukaihaguro-yabou.jp/</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【天津佳之（あまつ・よしゆき）】</p>

<p>昭和54年（1979）、静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。</p>

<p>書店員、編集プロダクションのライターを経て、業界新聞記者。令和2年（2020）、足利尊氏と楠木正成を、理想を同じくする同門として捉えた『利生の人 尊氏と正成』で日経小説大賞を受賞して作家デビュー（文庫化にあたり、『尊氏と正成 ともに見た夢』と改題）。著書に『和らぎの国 小説・推古天皇』『あるじなしとて』『菊の剣』がある。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2024/2024A/240226aizu01.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 05 Sep 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[天津佳之（作家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>ポツダム宣言は米国の核使用を正当化する口実だったのか？ 天皇制存置条項削除の意味  千々和泰明（防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12786</link>
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			<description><![CDATA[米国がポツダム宣言から天皇制存置条項を削除した意味とは? 防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長の千々和泰明氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="トルーマン内閣会議" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250825chidiwayasuaki06.jpg" width="1200" />ホワイトハウスで開かれたトルーマン内閣会議の様子。右から4人目がハリー・トルーマン大統領、その左隣がジェームズ・バーンズ国務長官（写真：米国国立公文書館所蔵、1945年8月10日、Wikimedia Commons)</p>

<p>ポツダム宣言は、日本を降伏させるための声明として知られているが、米国の核兵器使用を正当化する口実だったとする見方もある。果たしてそれは本当なのだろうか? 戦争終結論を研究する千々和泰明氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、千々和泰明著『誰が日本を降伏させたか　原爆投下、ソ連参戦、そして聖断』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「核使用の口実」は本当か</h2>

<p>核外交説は、米国には対ソ外交上の必要性から、日本の降伏問題とは関係なく、積極的に核を使用したい動機があったとする。</p>

<p>だがそうだとすると、米国が核使用の前に、ポツダム宣言を発出して日本に降伏を促したこととつじつまが合わなくなるのではないか。</p>

<p>そこで、「ポツダム宣言は核使用の口実だった」という解釈が出てくる。あくまで日本が拒否してくれることを前提に発したものにすぎず、真の目的は核使用の正当化にあった、というのだ。</p>

<p>その重要な傍証として挙げられるのが、ポツダム宣言の草案から「天皇制存置条項」が削除された、という問題である。</p>

<p>じつはポツダム宣言の草案には、重要な部分で最終的な成案とは違うところがあった。それが天皇制存置条項である。</p>

<p>戦争終結に際し日本側がもっとも重視したのは、「国体護持」だった。「国体」とは、今ではほとんど使われることのない日本語だが、「天皇を中心とする日本の国の在り方」といったくらいの意味である。と言っても何とも曖昧だが、具体的には天皇制存置を指す、と言い換えることができるだろう。</p>

<p>なぜ天皇制存置が問題になるかと言えば、連合国側の一部では、日本軍国主義の元凶は天皇制にあると信じられており、昭和天皇の処罰や天皇制の廃止が主張されていたからである。1945年6月末の米世論調査では、日本降伏後に天皇をどう取り扱うかについて、「処刑すべき」と答えた割合が約33％を占め、「裁判、終身禁固または流刑」を求める意見も約37％に達していた。「天皇制存置を認めてもよい」とする声は、たった7％ほどしかなかった。</p>

<p>日本軍は「天皇陛下のご命令により」と言って軍事行動を起こすし、死ぬときは「天皇陛下万歳!」と叫ぶ。これらは外国から文字どおりそのまま受け止められて、「侵略戦争を命じているのは天皇だ」ということになった。</p>

<p>米国政府内でも、「皇位が過去に戦闘的愛国主義者や産業拡張主義者によって利用されたように将来も利用されるのなら、新たな戦争が起き、将来再び命が失われることになる」との意見があった（U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States〈FRUS〉）。</p>

<p>天皇制存置を支持する立場のジョセフ・グルー国務次官に対しても、「もし皇帝〔天皇〕が、日本が戦争を生み出す能力において重要でないのなら、なぜ日本の軍部は皇帝〔天皇〕の存置に固執するのか理解できない」「現在の日本を支配している人間が君主制が死活的だと考えるのには何か理由があるはずだ」といった反論がなされた（FRUS）。だから戦争終結の条件として、天皇制存置が絡んでくることになった。</p>

<p>しかし日本側としては、天皇の処罰や天皇制の廃止は絶対に受け入れられない。そこで米側の一部では、日本に天皇制存置を保証することで、降伏を促すことができる、との考えがあった。こうした考えをとったのは、グルー国務次官やヘンリー・スティムソン陸軍長官たちである。</p>

<p>そこでスティムソンらの意向を反映して、ポツダム宣言の草案には、占領によって樹立される日本の新政府が、「二度と侵略の野心を抱かないと世界を完全に納得させられるのであれば、現王朝の下における立憲君主制を含みうるものとする」とする条項が入っていた。</p>

<p>だが、天皇制存置条項はジェームズ・バーンズ国務長官の反対を受け、ハリー・トルーマン大統領もバーンズの意見に同調した。その結果、ポツダム宣言の草案にあった天皇制存置条項は7月23日に中国・重慶（国民政府）の蔣介石総統へ同意を得るため送付された時点で削除されることになった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>歴史を結果から逆算する誤り</h2>

<p>「トルーマン大統領とバーンズ国務長官の真の目的は、日本に対する核使用とその正当化にあった。ポツダム宣言は核使用を正当化するための口実であり、そのなかではじめから日本が受諾できない条件を突きつけておく必要があった。だから天皇制存置条項は削除されたのだ」。こう主張するのが、言わば口実説である。</p>

<p>たしかにやがて日本に対して核が使用されたとき、それに先立って連合国がポツダム宣言を発出しており、日本が早期に受諾しなかった事実は、核使用の正当化の根拠となった。</p>

<p>だが少し考えてみると、口実説のおかしさに気がつくはずである。ポツダム宣言には「日本国民の自由意思」による天皇制存置を認めていると解釈できる余地が残っていた。</p>

<p>もしトルーマンやバーンズの「当て」が外れて、天皇制存置条項なしのポツダム宣言であっても日本によって即時受諾されてしまった場合、日本に対する核使用という「真の目的」は果たせなくなるが、そのリスクをトルーマンたちがどう考えていたのか、という重大な疑問が残るからである。</p>

<p>天正10年（1582年）に起こった本能寺の変の黒幕は豊臣秀吉だった、という説がある。織田信長に対する明智光秀によるこのクーデターが、秀吉の天下という結果につながったからである。</p>

<p>だがそうした結果が生じたのは、光秀のクーデターが成功したからにほかならない。もし失敗すれば、生き残った信長は光秀側を殲滅すると同時に、その背後関係を徹底的に洗い、やがて秀吉にたどり着くはずだ。そのことを想像しただけで、秀吉は背筋が凍っただろう。しかも秀吉自らが直接反乱軍の指揮をとるのではなく、その成否は遠方にいる他人に委ねなければならないのである。そのような大きすぎるリスクを進んで負わなければならない理由はどこにもない。</p>

<p>ポツダム宣言の草案から天皇制存置条項が削除されたことをもって、同宣言が核使用の口実だったとするのは、歴史を結果から逆算して説明しようとする誤りを犯してはいないだろうか。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>天皇制存置条項の効果</h2>

<p>トルーマン大統領とバーンズ国務長官が天皇制存置条項に反対したのは、これによって日本に早期降伏を促すのではなく、逆に戦争を長引かせることになりかねない、と懸念したからだった。</p>

<p>なぜかと言えば、日本側が弱みにつけ込んでくる可能性が考えられるからである。</p>

<p>天皇制存置条項は、日本から見るとこういうことになる。「自分たちも戦争で深刻な状況に置かれているが、米軍も疲弊している。だから米側は天皇制存置の保証まで条件を緩和してきた。ここで折れずに戦い続ければ、占領や武装解除、戦犯処罰についても、よりよい条件を引き出せるようになるかもしれない」。</p>

<p>実際に日本側では、ポツダム宣言発出後の8月3日に開かれた閣議で、鈴木貫太郎首相が次のように発言している。「そういうこと〔ポツダム宣言〕を敵側がいうということは、向う側に最早戦を止めねばならない実情が出来たのである。〔中略〕そういう時期こそ此方はしっかりと構えて居れば、向こうが先にへこたれるから、そういう宣言をラジオ放送したからといって何も戦争を中止する必要はない」（石黒忠篤『農政落葉籠』）。</p>

<p>さらにバーンズは、天皇制存置条項まで含めてあげたのに、日本が対日宣言受諾を拒否した場合のことも懸念した。その場合、トルーマン政権の面目が丸つぶれになる。天皇制存置条項が早期戦争終結につながるという主張と、逆効果になるという主張。トルーマンは、逆効果になるという主張のほうに説得された。</p>

<p>ここで問題になるのが、もしポツダム宣言に天皇制存置条項が含まれていた場合、日本は早期に受諾したかどうかという点である。</p>

<p>可能性はあった、とする見方もたしかにありえる。その場合、日本に対する核使用は回避されていたことになる。</p>

<p>ただ、ポツダム宣言が発出された時点で日本は、ソ連の仲介による戦争終結の可能性にすがっていた。</p>

<p>そのことを考慮すると、実際に発出されたものとの違いが天皇制存置条項の有無だけだったとすれば、早期受諾の決定打になったとはまで言えないのではないだろうか。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250825chidiwayasuaki06.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 04 Sep 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[千々和泰明（防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>秀吉にも愛された日本最古の温泉「有馬」　地域に根付く山椒の味わい  兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12894</link>
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			<description><![CDATA[日本三古湯、日本三名泉の一つとして称えられてきた温泉の地「有馬」に、山椒をもって世界に打って出ようというプロジェクトを追う]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="有馬温泉郷" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250828Rekishikaidou1.jpg" width="1200" /><br />
写真：六甲有馬ロープウェーから望む有馬温泉郷。六甲山地北側の紅葉谷を中心に、有名旅館やホテルが点在している</p>

<p>あのまちでしか出会えない、あの逸品。そこには、知られざる物語があるはず！「歴史・文化の宝庫」である関西で、日本の歴史と文化を体感できるルート「歴史街道」をめぐり、その魅力を探求するシリーズ「歴史街道まちめぐり わがまち逸品」。</p>

<p>日本三古湯、さらに日本三名泉の一つとして称えられてきた温泉の地、兵庫県神戸市有馬。六甲山の山峡にひらかれた関西の奥座敷として、今日も国内外から多く観光客を迎え入れる。この地の名産品としては、古くから知られた有馬筆や有馬籠、さらには温泉にちなむ炭酸煎餅など数多いが、山椒（さんしょう）を使った佃煮（つくだに）も地域の食品として知られ、温泉街の土産物として人気の逸品である。</p>

<p>興味深いのは、山椒を用いた料理を「有馬煮」や「有馬焼」と呼ぶことが、広く定着していることである。有馬の地名が山椒を意味する、その背景を地元に尋ねゆくと、山椒をもって世界に打って出ようというプロジェクトが進行していることを知らされた。</p>

<p>【筆者：兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）】<br />
昭和31 年（1956）、兵庫県尼崎市生まれ。大阪市在住。歴史街道推進協議会の一般会員組織「歴史街道倶楽部」の季刊会報誌『歴史の旅人』に、編集者・ライターとして平成9 年（1997）より携わる。著書に『歴史街道ウォーキング1』『同2』（ともにウェッジ刊）。</p>

<p>【編者：歴史街道推進協議会】<br />
「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体感し実感する旅筋「歴史街道」をつくり、内外に発信していくための団体として1991 年に発足。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>神代に始まる日本第一の神霊泉</h2>

<p>有馬の温泉街を見下ろす愛宕山（あたごやま）に、温泉の守護神である湯泉（とうせん）神社が鎮座する。平安時代の官社一覧『延喜式神名帳』にも、大社として数えられる古社である。</p>

<p>その縁起に温泉発見の伝承がある。はるか昔、大已貴命（おおなむちのみこと）と少彦名命（すくなひこなのみこと）の二柱の神が有馬を訪れたとき、傷ついた三羽のカラスが水たまりで浴しているのを見た。数日後、ふたたびカラスを見ると、傷が癒えている。水たまりと思ったのは温泉であったという。</p>

<p>『日本書紀』に、舒明（じょめい）天皇が舒明3年（631）の9月から12月、孝徳天皇が大化3年（647）の10月から大晦日（おおみそか）まで、行幸して大臣らと滞在したとあり、有馬の湯は飛鳥時代にすでに知られるところであった。ただ、一般の湯治の場として有馬の湯を開いたのは、奈良時代の高僧・行基であるといい、それにまつわる次のような開創伝説が残る。</p>

<p>行基が伊丹の昆陽寺（こやでら）にいたとき、六甲の山中に有馬という温泉があることを知った。病気やけがによく効く温泉だが、荒れ果てて道が閉ざされているという。行基は、その道を切りひらき、傷病に苦しむ人々を温泉で救おうと決心して旅立つ。</p>

<p>山に分け入って進むと、うめき声が聞こえた。見ると、全身をかさぶたと膿（うみ）で覆われた男が力尽きようとしていた。有馬の湯に向かう途中で行き倒れたようだ。行基が食事を与えるなど介抱していると、男は身体の膿に蛆（うじ）がわいているのを舌でなめ取ってほしいと懇願する。</p>

<p>男が苦しむのを見て、行基がそのとおりにすると、突然に男の体が黄金に輝きはじめ、薬師如来へと姿を変えた。如来は行基の慈悲を褒め、衆生を助けるようにと告げて虚空に消えた。有馬温泉を探しあて、道を開拓した行基は、薬師如来像を刻んで堂を建てた。これが現在の温泉街にある温泉寺の起源という。江戸時代にまとめられた絵巻『有馬温泉寺縁起』に描かれた物語である。</p>

<p>これらの伝承がいわんとするのは、有馬温泉は神仏が与えた霊泉であるということであろう。温泉街の高台にある寺社を訪ねると、有馬が湯の恵みと結ばれた信仰の町であったことが感じ取れる。</p>

<p><img alt="極楽寺" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250828Rekishikaidou2.jpg" width="1200" /><br />
写真：温泉寺に隣接して建つ極楽寺。阪神・淡路大震災からの復興の際に、境内から豊臣秀吉が設けた「湯山御殿」の遺構が発掘され、「神戸市立太閤の湯殿館」として公開されている</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>歴史の人物に愛され、幾度もの復興を果す</h2>

<p>平安時代に入ると、有馬は皇族をはじめとした要人や文人の慰安の地となる。清少納言が『枕草子』のなかで、名湯として有馬の名を挙げたのもこの時代である。しかし、平安後期の承徳元年（1097）、有馬を洪水が襲い、人家を押し流し、温泉は壊滅。以後、長きにわたって有馬の地は放棄されることになる。</p>

<p>平安時代末期、一人の僧が、その荒廃した有馬に入る。名は仁西（にんさい）といい、吉野の寺の住僧であったが、熊野権現を参詣した際に夢告を受け、有馬温泉の再興を託されたという。</p>

<p>仁西は、権現が指示したとおりに蜘蛛（くも）の糸をたどり、さらに途中で出会った老人に山上へと導かれ、投げた木の葉が落ちたところが霊地であると教えられる。その場所を探ると、泉源があり、里人とともに周囲を整え、温泉の復興を果たす。建久2年（1191）のことと伝える。</p>

<p>中世の有馬は、動乱から離れて泰平を維持したとみられ、室町幕府3代将軍・足利義満や本願寺中興の祖・蓮如も湯治で逗留している。五山の禅僧たちも有馬温泉を好んで湯治行について記したが、その一つ、瑞渓周鳳（ずいけいしゅうほう）の『温泉行記』には、有馬温泉に「湯治養生表目」という指南書が掲げられていたことが書かれている。</p>

<p>近世以降、温泉には効能や利用の注意を示した「湯文（ゆぶみ）」が掲げられるのが常となり、現在も法で定められた掲示に引き継がれているが、その先駆といえよう。</p>

<p>戦国時代に入ると、有馬の町にも戦火が及ぶ。そこから有馬温泉を整備し、発展に向かわせたのが、豊臣秀吉であった。天下人となってのち、秀吉がこの地に滞在すること9度。正室の北政所（きたのまんどころ）の別邸も設けられた。</p>

<p>しかし、文禄5年（1596）、慶長伏見地震によって有馬も被災、さらに温泉の湯温が急上昇して熱湯となる異変が発生する。これに対して秀吉は、翌年より大坂築城の人力と技術を投入。こうして再生された泉源は、昭和戦後に神戸市が再整備するまで機能し続けた。</p>

<p>ただ、秀吉が自身のために築かせた「湯山御殿」は、慶長3年（1598）に秀吉が没したことで、利用されることはなかったという。地元では地域の三恩人として、行基、仁西とともに秀吉も格別の存在として遇されている。</p>

<p>江戸時代に入ると、有馬は幕府直轄地となる。秀吉が再建させた元湯のもと、年々拡大する庶民の旅行ブームを受けて宿や店舗が建ち並び、「有馬千軒」と称される繁栄へと向かうのである。</p>

<p><img alt="金の湯の足湯" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250828Rekishikaidou3.jpg" width="1200" /><br />
写真：有馬温泉街にある外湯「金の湯」の軒に設けられた足湯で、町歩きの疲れを癒す。有馬温泉には含鉄塩化物泉の赤湯「金泉」と、炭酸水素塩泉・放射能泉の透明な「銀泉」の二種の湯が湧いていて、金泉の「金の湯」とは別に、銀泉の外湯「銀の湯」もある。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>有馬の人々に季節を告げた六甲の山椒</h2>

<p>特定の食材を用いた日本料理の呼び名に、その食材ゆかりの地域名が付けられる例は少なくない。例えば、小倉煮の「小倉」とは、小豆を食材に取り入れた料理を意味し、品質のよい大納言小豆を周辺で産した京都の小倉山に由来するという。</p>

<p>「有馬」が山椒を用いた料理に冠されるになったのは、明治期に醤油で煮た佃煮「有馬山椒」が土産物として人気があったからという説が有力だが、すでに鎌倉時代から有馬の山椒は香りがよいと知られ、室町時代には湯治客に松茸（まつたけ）と炊いて供されたともいう。</p>

<p>有馬温泉街には、永禄2年（1559）創業という山椒・松茸が名物の佃煮の老舗もあり、実はもっと早くから山椒の代名詞として、有馬の地名が使われていたのかもしれない。</p>

<p>そんな有馬と山椒のかかわりについて、有馬温泉観光協会の会長・金井啓修さんにお話を聞いた。金井さんは、鎌倉時代初期の藤原定家の日記『名月記』に記された湯屋を引き継ぐ、老舗旅館の主であり、この地の山椒に関するプロジェクトの中心メンバーでもある。</p>

<p>「以前は、ゴールデンウィークのころ、六甲の山中に入って、山椒の花を採ってくる地元の人が多くありました。それを大豆と炊くのが、家庭の季節の献立だったのです。顔なじみのお店に行くと、そんな小鉢を出してくれたりする。そういうローカルフードでした」。</p>

<p>有馬では、山椒を採りに行く人それぞれに、秘密にする野生の山椒の木があり、親から子へと所在が伝えられるものでもあったとか。そうした地域文化を背景に、独特の山椒の味わいも根付いた。</p>

<p>山椒は一般に、若芽・雄木の花・雌木の実を食するが、有馬では樹皮も食用とするのである。山椒の木の皮を針のように細く小さく刻み、醤油・酒・みりんなどで煮詰めた佃煮「辛皮（からか）」がそれである。ほんの2.3片を口に入れるだけで舌がしびれ、酒がいくらでも進むという、ほかに例がない珍味である。</p>

<p>そのように山椒と暮らしの結びつきが深い有馬であったが、時代の流れか、近年は山椒を採りに山に入る人も少なくなり、また、商品の素材とするには、収穫量が少ないため、地元で販売される佃煮などにも、他産地の朝倉山椒などが使われているという。</p>

<p>有馬名産の山椒が地域から消えていく。そのことに危機感を持った金井さんは、行動を起こす。</p>

<p>「ちょうど定年退職された地元の方で、祖父の代から山に山椒を採りに行っていたという人がいて、一緒に連れて行ってもらえないかと声を掛けたところ、賛同していただき、また、兵庫県の農業振興の職員さんにも同行してもらうことになりました」。こうして始まったのが、有馬山椒復活プロジェクトである。</p>

<p>三代にわたって花や実を採取してきた、少なくとも樹齢100年ほどのその山椒の木は、六甲山へと向かう道のなかでも険しい、有馬三山の稜線をたどる湯槽谷（ゆぶねだに）の道から外れた山中にあった。</p>

<p>「いわゆるガレ場といわれる石が堆積した斜面に生えていて、根が弱くて踏み固められた地面を嫌い、日当たりと水はけがよいところを好む、山椒の木に適した場所でした。そうした場所が多いのも、六甲山が山椒の自生地である理由なのでしょう」と、金井さんは解説する。</p>

<p>そして、その山椒の木からマッチ棒ほどの穂木（ほぎ）を採取したのが、16年前のことであった。のちに稲荷山にあった別の山椒の木から採った穂木とともに、県の農業技術センターで台木に接ぎ木をし、成長したらそこからさらに穂木を採って接ぎ木をすることを繰り返して、野生を元にした母木を増やしてきた。</p>

<p>その過程で佐賀大学が、ほかの国内産地の山椒とともに遺伝子や実の成分を調べたところ、稲荷山系が在来のものに近い一方、湯槽谷系は独特の品種で、有馬原産の固有種といえることがわかった。その特徴は、朝倉山椒などにはほとんど含まれていない匂い成分を含むことで、より柑橘系の香りが強いという。</p>

<p>これに注目して、金井さんたちのプロジェクトは、湯槽谷系の山椒を中心に母木の量産と栽培を進め、現在は神戸市北区大沢（おおぞ）町の農家、大沢有馬山椒部会の手によって約500本が育てられ、花山椒と実山椒の収穫が行なわれるまでになっている。</p>

<p>「ようやく年間に100キロほどの実が収穫できるようになりました。ただ、山椒の実を粉にするには真空乾燥を用いるのですが、乾燥させると100キロの実が15キロほどになります。本格的な需要に対しては、またまだ少ない収穫量ではあるのですが、これまでの冷凍保存しているストックとあわせて、今年くらいから出荷が可能かと思っているところです」。</p>

<p>今後、地域の産品を知的財産として保護する、農林水産省の地理的表示「GI」の取得を進めたいと金井さんはいう。</p>

<p>また、海外へのアプローチとして、イタリアに本部を置く世界的食品協会であるスローフード・インターナショナルとも交渉を進め、すでに平成29年（2017）に有馬山椒の「アルカ（味の箱船）」への登録を終えている。</p>

<p>アルカとは、地域固有の農水産物や伝統食を守るための制度で「食の世界遺産」ともいわれる。また、将来的には、同協会の「プレシディオ（食の砦）」の認定をめざす。アルカの食品の生産が経済的に成り立つよう、スローフード協会が援助の対象とするもので、その意義を金井さんは語る。</p>

<p>「世界の著名シェフに有馬山椒をPRできることになります。世界にその希少価値をアピールするとともに、産地である有馬という地への関心を広げることができればと願っています」。</p>

<p>小粒でぴりりと辛い山椒の英名は、ジャパニーズ・ペッパー。日本を代表する香辛料として、有馬の山椒が世界の舌をしびれさせる日は近いか。</p>

<p><img alt="有馬温泉街" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250828Rekishikaidou4.jpg" width="1200" /><br />
写真：有馬温泉街。坂道にさまざまな土産物店が立ち並び、随所に泉源施設も見ることができる。近年はインバウンドの観光客の姿も多い</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250828Rekishikaidou1.jpg" />
						
						<pubDate>Wed, 03 Sep 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[兼田由紀夫（フリー編集者・ライター）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>吉田松陰と久坂玄瑞、二人が義兄弟になった意外な背景とその後   安藤優一郎（歴史家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12812</link>
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			<description><![CDATA[歴史家の安藤優一郎氏が、吉田松陰と久坂玄瑞という義兄弟の出会いを解説しつつ、二人のその後をひもとく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="吉田松陰 久坂玄瑞兄弟" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/bigwave.jpg" width="1200" /></p>

<p>幕末の長州藩の志士として活躍した久坂玄瑞は、吉田松陰と出会い、彼の義弟となることで、運命を大きく変えていく。そもそも、二人は如何にして出会い、なぜ、松陰は久坂玄瑞を義弟に迎えたのか。そして、その後の二人の関係とは......。</p>

<p>歴史家の安藤優一郎氏が、吉田松陰と久坂玄瑞という義兄弟の出会いを解説しつつ、二人のその後をひもとく。</p>

<p>※本稿は、安藤優一郎著『日本史のなかの兄弟たち』（中央公論新社）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>松陰の妹を妻に迎えた玄瑞</h2>

<p>天保11年（1840）、玄瑞は長州藩医久坂良迪（りょうてき）の三男として生まれた。本来ならば他家へ養子に出るか、部屋住みのまま一生を終えるしかなかったが、嘉永7年（1854）に長兄の玄機(げんき)、そして父が死去したことで、はからずも久坂家の家督を継ぐ。既に次兄は夭折していた。この時、玄瑞は15歳であった。</p>

<p>家督を継いだ後は藩医となるべく医学修行に励むも、安政3年（1856）3月に藩の許可を得て九州に向かう。ちょうど、松陰が松下村塾をはじめた頃にあたる。この時点では、同じ家中ながら松陰と面識はなかった。</p>

<p>長崎をはじめとする九州への遊歴を通じて、玄瑞は攘夷の志に目覚める。武力をもって日本に開国を迫ったアメリカの強引な外交手法に憤る志士との交流は、玄瑞を医師から攘夷の志士へと転生させた。</p>

<p>九州遊歴中、熊本で奇遇が待っていた。松陰の友人で熊本藩士の宮部鼎蔵(ていぞう)に面識を得て、松陰のもとを訪ねるよう熱心に勧められたのである。萩に戻った玄瑞は、早速松陰に書状を送った。アメリカの横暴を激しく批判し、折しも通商条約の締結を幕府に迫っていたアメリカの駐日総領事ハリスを斬るべきと主張した。</p>

<p>鎌倉時代、中国大陸の元が日本を2度にわたって侵攻してきたことがあった。文永の役、弘安の役で知られる蒙古襲来だ。2度目の襲来を前に、元は日本に使者を送ってきたが、時の執権北条時宗はこれを斬り、再び侵攻してきた元の大軍を撃退した。この前例に倣うことを唱える。</p>

<p>しかし、松陰は玄瑞の議論を一蹴した。アメリカ使節を斬るなら、ペリーの初来航時に実行すべきだった。もはや遅い。威勢が良いだけの浮ついた議論ではなく、地に足の着いた実践を求める返書をしたためる。</p>

<p>憤慨した玄瑞はアメリカ使節を斬るべきという主張を繰り返す書状を送ったが、アメリカとの間に和親条約を締結してしまった後、使節を斬ることは国際的な信義を失う行為であると松陰は説く。その一方で、お手並みを拝見したいとアメリカ使節を斬るようけしかけた。論破された上、実践まで求められた玄瑞は窮してしまう。</p>

<p>松陰が玄瑞に厳しく接したのは、大きな期待の裏返しであった。やがて、玄瑞も自分の主張が空理空論だったことを悟る。</p>

<p>こうして、玄瑞は松陰の門下生となった。松陰は10歳年下にあたる玄瑞の才を愛し、藩内で一番の人物とまで公言する。</p>

<p>翌4年12月5日には妹の文を娶らせた。以後、玄瑞は松陰の実家杉家に同居する。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>幕府に処刑された松陰</h2>

<p>翌5年1月19日、藩から江戸での遊学を許可された玄瑞は国元を発つ。当時、ハリスに通商条約の締結を迫られた幕府は調印を決意していたが、この問題をめぐり国論が二分化されつつあった。幕府は条約調印に勅許を得ることで国論の統一を目指す。</p>

<p>玄瑞は江戸遊学の機会を利用して憂国の士と広く交流し、尊王攘夷の志士として行動することを決意しただろう。それは、松陰も望むところであった。</p>

<p>江戸に向かう途中、玄瑞は京都に立ち寄る。ちょうど、老中首座の堀田正睦が朝廷から通商条約の勅許を得るため在京中だった。玄瑞は京都で情報収集にあたり、萩の松陰のもとに報告書を送っている。その後、江戸に向かった。</p>

<p>玄瑞が到着した頃、江戸では政変が起きる。勅許を得られなかった堀田が失脚し、彦根藩主の井伊直弼が大老として幕政の実権を握った。同年6月19日には、勅許を得ないまま日米通商条約の調印に踏み切る。</p>

<p>そのため、勅許を得ずに調印したことへの批判が噴出する。直弼は水戸前藩主徳川斉昭に永蟄居を命じるなど反対派を厳罰に処した。いわゆる安政の大獄のはじまりである。これに反発する尊王攘夷の志士たちは直弼の暗殺をはかった。</p>

<p>この動きに刺激を受けた松陰は、京都で安政の大獄の指揮を執る老中間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画を立てる。門下生にも賛同を求めたが、玄瑞たちが自重するよう強く求めたため、松陰は激怒し、絶交を宣言している。</p>

<p>一方、長州藩はその過激な言動を危険視した。12月26日、松陰を野山獄に再び投獄する。</p>

<p>翌6年4月20日、幕府は松陰の身柄を江戸に送るよう長州藩に命じてきた。安政の大獄に伴う吟味に掛けられることになったからである。その頃には玄瑞との師弟関係は修復されていたものの、江戸に護送される松陰が再び萩に戻ることはなかった。</p>

<p>6月25日、松陰を護送した駕籠が江戸の長州藩上屋敷に到着する。7月9日に松陰は幕府の評定所に呼び出されたが、間部襲撃計画を自白し、そんな計画など全く知らなかった担当の奉行たちを驚愕させる。長州藩邸に戻ることは許されず、そのまま小伝馬町(こでんまちょう)の牢屋敷に護送されて吟味続行となった。</p>

<p>間部襲撃計画を重く見た幕府は松陰を極刑に処すことを決める。10月27日、松陰は評定所で死罪を申し渡され、小伝馬町牢屋敷の刑場で首を打たれた。30歳の若さだった。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/bigwave.jpg" />
						
						<pubDate>Tue, 02 Sep 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎（歴史家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>原爆投下はソ連に対する威嚇のためだったのか？ ポツダム会談の開催時期から読む真相  千々和泰明（防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12785</link>
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			<description><![CDATA[米国はソ連に対して核外交を行ったのか? 防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長の千々和泰明氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="原爆投下直後の広島" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250825chidiwayasuaki05.jpg" width="1200" /><br />
原爆投下直後の広島（写真：米国国立公文書館）</p>

<p>米国が日本への原爆投下を決定した背景には、戦後の国際秩序を見据えたソ連への外交的圧力があった、という見方がある。本稿ではこの「核外交説」の真相について、戦争終結論を研究する千々和泰明氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、千々和泰明著『誰が日本を降伏させたか　原爆投下、ソ連参戦、そして聖断』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ポツダム会談の開催時期は核外交で決められた?</h2>

<p>米国は核兵器を使用しなくても日本が降伏すると分かっていながら、戦後を見据えてソ連に対する外交的な威嚇のために核を使ったのか（核外交説）。それともそれは、日本との戦争を早期に終結させることによって、そうでなかった場合に生じたであろう犠牲を回避するためだったのか（コスト最小化説）。</p>

<p>結論から言うと、今日まで、「核外交」という目的を裏づける決定的な証拠は出てきていないのが実情である。</p>

<p>結局これが核外交説の最大の弱点であり、一部の論者による通説（コスト最小化説）へのチャレンジではあっても、正統主義の地位を奪取できない理由である。</p>

<p>核外交説の立場をとる代表的な論者は歴史家のガー・アルペロヴィッツであるが、アルペロヴィッツの研究に対しては、史料の強引な解釈や不正確な引用などの問題が指摘されている。このあたりの問題はロバート・マドックスが網羅的にまとめているので詳しくはそちらに譲るとして、ここではアルペロヴィッツに対する筆者なりの反論を一つ提示しておきたい。</p>

<p>それはポツダム会談の開催時期についての解釈をめぐる問題である。</p>

<p>核外交論者のアルペロヴィッツは、ポツダム会談は本来であればもっと早く開催することができたのに、ハリー・トルーマン大統領は意図的に開催を遅らせた、なぜなら核開発が成功するのを待っていたからだ、と主張する。さもないと核が完成するより前に戦争が終わってしまう可能性が懸念された、というわけだ。そしてこのことを、自説を裏づける重要な傍証と位置づけている。</p>

<p>ポツダム会談に先立つ5月15日付のヘンリー・スティムソン陸軍長官の日記を見ると、来たる連合国首脳会談では「Ｓ─１の秘密が決定的な意味をもつだろう」とスティムソンが考えていたことが分かる。「Ｓ─１」とは、核のことである。「核分裂の研究に関連する政策について大統領に助言する」委員会の別名である科学研究開発局第一課、すなわち&quot;Section 1&quot;に由来する。</p>

<p>スティムソンは、首脳会談の時点で「この兵器をわれわれがにぎっているのかどうかがはっきりしない」ことについて、対ソ「外交上」の観点で「恐ろしいことだ」としている。このようにスティムソンは核と対ソ外交を結びつけ、ポツダム会談までに核が完成しているのが望ましいことだと考えていた。</p>

<p>トルーマン大統領もスティムソンと同じ立場だった。トルーマンは、ポツダム会談の目的について議論した6月18日の軍部首脳との対日戦略会議について、「そのとき〔ポツダム会談〕までにまた次の二つのことがはっきりしてくるだろうと思われた。第一はソ連の参戦、第二は原爆の効果であった。われわれは原爆の方は7月半ばに、第1回テストができることを知っていた」と回想している。</p>

<p>そこでアルペロヴィッツは、「端的に言えば、トルーマンは新兵器についての確証が得られるまでスターリンとの会談を延期することに決めたのである」と主張する。米国がポツダム会談の開催時期を決めるうえで、7月中旬以降に核が出来上がる可能性についてある程度考慮されたのは確かなようである。ドイツの戦後処理をはじめヨーロッパ問題などをめぐって海千山千の独裁者ヨシフ・スターリンと渡り合うためには、核の存在が助けになるはずだった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>米国がポツダム会談の開催時期を決める基準</h2>

<p>しかし、ポツダム会談の開催時期が核開発の進捗と関連づけられていた事実が、核外交説を補強することになるかは疑問が残る。</p>

<p>そもそもスティムソンが核と対ソ外交を結びつけていたのは、その後6月6日にトルーマンと協議しているように、米国が核開発に成功すればソ連に対しその秘密共有をエサにヨーロッパ問題で譲歩を引き出すことができるかもしれない、という意味であり、日本への核使用を通じた対ソ威嚇、ということまで明確に述べていたわけではなかった。</p>

<p>何より、結局トルーマンはアルペロヴィッツが言うような核開発成功の「確証」がないまま、ポツダムに出発しているのだ。</p>

<p>もしトルーマンが、核の存在を対ソ核外交上の不可欠の前提と見なしていたならば、首脳会談の開催は核実験が成功したあとにしようとしたのではないだろうか。だがそうはしなかった。核実験の成功をいつまでもダラダラと待っていれば、そのまま8月に予定されているソ連参戦を迎えてしまう。</p>

<p>6月18日の対日戦略会議で議論されたように、米国にとってポツダム会談は、日本問題に関する限り、ソ連からの支援をできるだけ取りつけ、対日降伏勧告を発表するための場だった。米国はソ連に参戦を念押しするため、同月28日にソ連側に、ポツダムで対日作戦について協議したい旨を伝えた。</p>

<p>米国がポツダム会談の開催時期を決める基準にしたのは、ソ連参戦であって、核実験の成功ではない。だからトルーマンは、まだ核開発が途上の段階であっても、ポツダムに旅立った。</p>

<p>トルーマンやスティムソンからすると、できればポツダム会談中に核実験成功が間に合ってほしい、といったくらいの感覚だっただろう。要するに、ポツダム会談の開催時期が7月中旬になったのは核外交のためだったとする主張は説得力を欠いていると考えざるをえない。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250825chidiwayasuaki05.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 01 Sep 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[千々和泰明（防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>大河『豊臣兄弟！』で注目　秀長の死が映す“豊臣家の運命”  安藤優一郎（歴史家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12811</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012811</guid>
			<description><![CDATA[歴史家の安藤優一郎氏が、秀長死後の豊臣政権の動向を解説しつつ、秀長の死から見える歴史の真実をひもとく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="豊臣秀吉 秀長兄弟" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_Osakajyou.jpg" width="1200" /></p>

<p>2026年度の大河ドラマ『豊臣兄弟！』で注目されている豊臣秀長。兄・秀吉を支えた名脇役として知られているが、彼の存在の大きさは、彼の死後の豊臣政権を見ると、より一層、鮮明になる。</p>

<p>歴史家の安藤優一郎氏が、秀長死後の豊臣政権の動向を解説しつつ、秀長の死から見える歴史の真実をひもとく。</p>

<p>※本稿は、安藤優一郎著『日本史のなかの兄弟たち』（中央公論新社）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>唐入りの開始と秀頼の誕生</h2>

<p>天正18年（1590）に秀吉は天下統一を実現するが、その眼は既に国外に向けられていた。3年前の同15年に九州を平定すると、東アジア諸国との外交を開始する。明に通交、それ以外の朝鮮をはじめとする諸国には入貢を求めた。</p>

<p>しかし、明が通交の要求に応じなかったため、秀吉は「唐入り」という名の中国大陸への出兵を視野に入れる。同18年11月には明侵攻への道案内を朝鮮に命じるも、その拒絶に遭ったため、朝鮮出兵のレールが敷かれることになった。</p>

<p>翌19年（1591）正月、かねてより病の床に伏していた秀長が死去した。秀長が唐入り、及び朝鮮出兵計画をどのように考えていたかは分からないが、頼りになる肉親で唯一無二の補佐役を失ったことは秀吉の行く末に暗い影を落とす。</p>

<p>同年8月には、淀殿との間に儲けた嫡男鶴松がわずか3歳で夭逝する。秀長に続けて、跡継ぎの鶴松まで失ったことで、豊臣政権は存続の危機に立たされた。</p>

<p>同12月、秀吉は甥秀次に家督と関白職を譲り、政権の維持をはかる。なお、秀長の跡を継いだのは養子に迎えていた甥の秀保(ひでやす。秀次の弟）だった。</p>

<p>秀吉が豊臣政権の実権を握ることに変わりはないものの、国内は秀次に任せ、自身は朝鮮出兵に専念する体制を取ったのである。鶴松を失った同じ8月、来年3月に朝鮮へ出兵すると表明していた。</p>

<p>当初、秀吉はみずから渡海し、唐入りの指揮を執るつもりだった。10月より、その前線基地である肥前名護屋城の築城がはじまる。</p>

<p>朝鮮出兵では、関東や東北平定に動員されなかった西国の諸大名が渡海した。文禄元年（1592）4月、渡海した日本軍は朝鮮半島に上陸し、文禄の役がはじまる。</p>

<p>上陸後の日本軍は快進撃を続ける。一時は朝鮮全土を制圧する勢いを示したが、戦況はやがて悪化する。戦線が拡大して兵糧などの補給が不充分となった上、朝鮮の激しい抵抗に遭ったからだ。明も朝鮮に援兵を送ってきたため、戦線は膠着状態となる。</p>

<p>渡海した日本軍の間に厭戦気分が広がるのは避けられなかった。現地では講和を模索する動きが起き、休戦状態に入る。翌2年6月、秀吉は明の使節を名護屋城に迎え、講和に関する要求を示した。</p>

<p>秀吉は名護屋城で朝鮮出兵の指揮を執り、明との交渉も行っていたが、状況が一変したため大坂城に戻る。同年8月3日に跡継ぎの秀頼が誕生したのである。</p>

<p>実子に跡を譲ることをあきらめていた秀吉は、秀頼の誕生に狂喜する。だが、跡継ぎの誕生は豊臣政権瓦解のスピードを皮肉にも早めてしまう。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>豊臣政権の終わりのはじまり　秀次事件　</h2>

<p>秀吉は秀頼が生まれたことで、秀次に豊臣家や関白職を譲ったことを後悔しはじめる。そんな秀吉の思いは秀次にも伝わり、二人の関係は悪化する。豊臣政権は二派に分かれ、権力闘争が展開された。</p>

<p>ついに、秀吉は秀次とその一族を粛清することを決意する。文禄4年（1595）のことであった。</p>

<p>この年の4月16日、秀次の弟で秀長の跡を継いだ郡山城主の秀保が病死する。秀保には跡継ぎがいなかったため、そのまま改易となったが、7月8日には秀吉から謀反の疑いを掛けられた秀次が関白職を剝奪され、高野山にのぼる。</p>

<p>同15日、秀次は秀吉の命により切腹し、その首級が京都の三条河原で晒された。8月2日には、秀次の正室、側室、子供たち、そして侍女30余名が三条河原に引き出され、同じく処刑された。</p>

<p>秀次には弟が二人いた。秀保に先立ち、その兄秀勝も朝鮮出征中の文禄元年9月に陣没していた。秀勝にも跡継ぎがいなかった。正室北政所の兄木下家定に子はいたが、秀次一族の処刑により、秀吉の実の兄弟の子供で秀頼を脅かす者はいなくなる。</p>

<p>秀次とその一族の粛清に連座して処罰された諸大名も少なくない。秀吉が自分の家臣団から秀次付として配属させた者が多かった。</p>

<p>秀吉には父祖の代から家臣だった者はいなかったため、秀長をはじめ親族を厚遇するとともに、小姓たちを大名に抜擢して家臣団の強化をはかったが、他大名に比べると、その結束は弱かった。それに加えて世に言う秀次事件のため家臣団に大きな亀裂が走ったことは、豊臣政権が分裂・崩壊の道を辿る大きな要因となる。</p>

<p>秀吉もただ手をこまねいていたのではない。秀次切腹直後の文禄4年（1595）7月20日、秀頼への忠誠を誓う起請文を諸大名に提出させた。8月3日には、家康はじめ6名の有力大名の連署で、「御掟」と「御掟追加」を布告させ、秀吉の定めた掟に従うよう命じる。これは家康たちを政権に取り込んだことを意味した。後の五大老である。一方、政権内で実務を執っていたのは秀吉の側近から台頭した石田三成たち五奉行だった。</p>

<p>秀吉は五大老・五奉行制によって豊臣政権の立て直しをはかり、跡継ぎの秀頼の地位を安泰なものにしようとした。自分亡き後を見据えた布陣であったものの、その願いが叶わなかったことは後の歴史が証明している。</p>

<p>秀次事件の後、長期化していた明との講和交渉が決裂する。慶長2年（1597）2月、秀吉は再び大軍を朝鮮に送り込み、慶長の役がはじまった。</p>

<p>だが、渡海した日本軍が苦戦を強いられるなか、翌3年8月18日に秀吉は死去する。政権崩壊は時間の問題となった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>歴史の流れを一変させた秀長の死</h2>

<p>秀次事件という秀吉の後継者をめぐる御家騒動、そして朝鮮出兵の失敗は豊臣政権瓦解のスピードを早めた。秀吉が暴走した結果にほかならないが、補佐役の不在が事態の悪化に拍車を掛けたことは否めない。</p>

<p>秀長が存命ならば、鶴松夭逝後は再び有力な後継者となっただろう。秀頼誕生後は秀吉の期待を背負い、その後見役を務めたに違いない。</p>

<p>朝鮮出兵については、秀長が存命でも制止することは難しかった。その生前から、唐入りの構想は進行していたからである。</p>

<p>だが、当初渡海するつもりだった秀吉は、家康と前田利家の諌止により延期している。その後、戦況が悪化したため渡海しないまま終わった。秀長も秀吉の渡海を諌止したことは容易に想像できる。</p>

<p>秀吉と諸大名の間を取り持っていた秀長は、文禄の役で諸大名が疲弊したことは重く受け止めたはずだ。これ以上の負担は豊臣政権への反発に繋がると危惧し、再出兵を断念させようと動いたのではないか。</p>

<p>天下統一までの秀吉・秀長兄弟の関係性を踏まえれば、豊臣政権の命取りとなった秀次事件は起きず、朝鮮出兵のうち慶長の役は防げたかもしれない。</p>

<p>軍事面や政治面で秀吉を支えた秀長を失ったことは、豊臣政権にとって計り知れない痛手であった。秀吉の暴走は補佐役としての秀長の存在がそれだけ大きかったことをまさに示しており、秀長の死は豊臣政権の命運を決める。自壊の道をひた走った。</p>

<p>秀長死後の豊臣政権の顛末とは、弟が補佐役として兄を支えた関係が天下統一の大きな理由だったことを皮肉にも証明したのである。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/UtilityREKI/pixta_Osakajyou.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 29 Aug 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎（歴史家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>米国が描いた「日本を無条件降伏させる」シナリオ　ソ連の対日参戦という選択肢  千々和泰明（防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12784</link>
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			<description><![CDATA[米国は、日本との戦争をどのように終結させようとしていたのか?　当時構想されていた3つのシナリオについて、防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長の千々和泰明氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ヤルタ会談" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250825chidiwayasuaki01.jpg" width="1200" /><br />
1945年2月に行なわれたヤルタ会談。左からウィンストン・チャーチル英首相、フランクリン・ローズヴェルト米大統領、ソ連最高指導者ヨシフ・スターリン（写真：米国国立公文書館）</p>

<p>米国は、日本との戦争をどのように終結させようとしていたのか?　当時構想されていた3つのシナリオについて、防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長の千々和泰明氏が解説する。</p>

<p>※本稿は、千々和泰明著『誰が日本を降伏させたか　原爆投下、ソ連参戦、そして聖断』（PHP新書）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>無条件降伏政策を押しつける</h2>

<p>そもそも米国は、日本との戦争をどのように終結させようとしていたのだろうか。</p>

<p>米国がこだわったのは、日本が「無条件降伏」を受け入れるかたちでの戦争終結だった。1943年1月、フランクリン・ローズヴェルト大統領とウィンストン・チャーチル英首相は、フランス領モロッコのカサブランカで連合国首脳会談を行なった。そして会談終了後の24日にローズヴェルトは記者会見を開き、ドイツや日本などの枢軸国に対して「無条件降伏を求める」との方針を表明した。</p>

<p>アドルフ・ヒトラーが率いるナチス・ドイツは、世界征服や、ユダヤ人絶滅、ソ連への「人種戦争」などを試みた。そのような危険極まりないナチス・ドイツに対してローズヴェルトは、無条件降伏を押しつけることが「数世代にわたる世界平和への信ずべき理由のある保証」になると語った。</p>

<p>またローズヴェルトは、1918年になされた第一次世界大戦の終結は失敗だったと見なしていた。第一次世界大戦でドイツを徹底的に叩きのめしておけば、第二次世界大戦は防げたはずだと考えたのである。</p>

<p>これに対し米国政府の一部や他の連合国のあいだには、ただ「無条件降伏」を求めるだけでは曖昧だし、枢軸国側が抵抗を強めることになるとの懸念もあった。だがローズヴェルトは、一度無条件降伏を勝ち取っておき、あとで問題が起これば柔軟に対処すればいいだけだから、無条件降伏の内容を詰める必要はないとの考えだった。</p>

<p>カサブランカ会談より約1年前の1941年12月7日（ハワイ時間）に、日本は真珠湾を奇襲攻撃した。日本軍国主義の脅威はナチズムと同列に扱われ、日本に対しても無条件降伏政策が適用されることになった。</p>

<p>ローズヴェルトは、ドイツの無条件降伏直前に死去し、ハリー・トルーマンが大統領職を継承した。あわせてトルーマンは、日本に対する無条件降伏政策も受け継いだ。</p>

<p>たしかに、米国も日本との戦争を早期に終わらせようとしていた。しかし、単に少しでも早く戦争が終わればいい、というわけではなかった。米国が求めていたのは、あくまで自分たちが掲げる条件が満たされること、すなわち日本軍国主義の脅威を根絶するために無条件降伏させることを前提としたうえでの、早期戦争終結だった。逆に言うと、日本が無条件降伏をしない限り、戦争を続けるということである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>ソ連の対日参戦というオプション</h2>

<p>それでは、日本に無条件降伏を受け入れさせるためにはどうすればよいか。</p>

<p>第一に、米軍による日本本土侵攻である。1945年6月18日、トルーマンと軍部首脳は対日戦略会議を開き、この場で日本本土侵攻作戦が決定された。日本本土侵攻は二段階で行なわれることになり、第一段階である南九州上陸作戦（オリンピック作戦）を11月1日に、第二段階の関東平野上陸作戦（コロネット作戦）は翌1946年3月1日に開始することが予定された。これらはあわせて「ダウンフォール」作戦と名づけられた。ダウンフォールとは、「殲滅」を意味する。</p>

<p>しかし、日本本土侵攻には大きなデメリットがあった。言うまでもなく、米軍の犠牲の増大である。対日戦略会議に先立つ6月15日に米軍の最高参謀機関である統合参謀本部がとりまとめた報告書によれば、日本本土侵攻を実施した場合、米軍の戦死者数は約4万人にも上ると予想されていた。</p>

<p>そこで米国は、できるだけ自分たちの犠牲を回避しながら、日本を無条件降伏させる方法を模索していた。それが第二の、ソ連の対日参戦というオプションだった。太平洋方面から米国が、そして大陸方面からはソ連が攻め入り、日本を挟み撃ちにするということである。ドイツを東西から挟撃して倒したのと同じやり方である。</p>

<p>ソ連の対日参戦については、この年の2月11日にすでに連合国のあいだで秘密裏に約束されていた。当時のソ連領クリミア半島のヤルタに、ローズヴェルト、チャーチル、そしてソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンが参集し、来たるドイツ降伏を見据えて開催した連合国首脳会談の場でのことである。その内容は、ソ連はドイツ降伏の2〜3カ月後に対日参戦し、その見返りとして、日本領千島列島はソ連に引き渡す、とするものだった。いわゆる「ヤルタ密約」である。</p>

<p>実際にソ連はこのヤルタ密約にもとづき、ドイツ降伏からほぼちょうど3カ月後に当たる8月9日に対日参戦する。</p>

<p>たしかにソ連は、連合国の一員として米国などとともにドイツと戦った。だが一方で、日本とは1941年4月13日に日ソ中立条約を結び、お互いに中立関係にあったはずだ。日ソ中立条約は1946年4月まで有効だったから、ソ連の対日参戦は明らかに国際法違反である。</p>

<p>またそもそも米国は、第二次世界大戦を戦う理念として1941年8月14日に「大西洋憲章」を定め、そのなかで「領土不拡大の原則」を掲げていたはずである。たしかに連合国は、1943年11月27日の「カイロ宣言」で、日本が「暴力及貪欲に依り」略取した地域から日本を駆逐するとしていた。</p>

<p>しかし千島列島は1875年に明治政府とロシア帝国が結んだ樺太・千島交換条約によって平和的に日本の領土となったところだから、はじめからカイロ宣言の対象となるはずがない。米国がソ連に対日参戦の見返りとして千島列島を「引き渡す」と約束することは、自らが掲げた領土不拡大の原則を汚す行為だった。そしてこのことが、今日まで続く北方領土問題につながっていく。</p>

<p>ともかく、米国とソ連はヤルタでソ連の対日参戦に関する密約を交わした。</p>

<p>ただし、ソ連が参戦することで、戦後の東アジアでソ連の影響力が増大することは容易に想定できる。米国とソ連の協力関係も次第に揺らいでいくことになるから、米国としては戦後東アジアにおけるソ連の影響力増大はできれば避けたい事態だった。</p>

<p>こうしたなか第三のオプションとして考えられたのが、当時米国が極秘裏に開発中だった核の使用だった。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Thu, 28 Aug 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[千々和泰明（防衛省防衛研究所国際紛争史研究室長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>武田信玄の父・信虎追放の成功の裏にあった、弟・信繁の献身  安藤優一郎（歴史家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12810</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012810</guid>
			<description><![CDATA[歴史家の安藤優一郎氏が、武田信玄が父・信虎を追放するに至った背景を解説しつつ、信繁の果たした役割をひもとく。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="武田信玄 信繁兄弟" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_ShinanogawaNagaoka.jpg" width="1200" /></p>

<p>武田信玄は父・信虎から疎まれ、廃嫡の危機にあったが、クーデターを起こして、父を追放する。<br />
だが、その成功の裏には、弟・信繁の動向が大きく左右していた。</p>

<p>歴史家の安藤優一郎氏が、信玄がクーデターを起こすに至った背景を解説しつつ、信繁の果たした役割をひもとく。</p>

<p>※本稿は、安藤優一郎著『日本史のなかの兄弟たち』（中央公論新社）より、内容を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>信玄の家族と甲斐国</h2>

<p>大永元年（1521）、信玄は甲斐の戦国大名武田信虎の長男として生まれた。母は甲斐の有力領主大井信達の娘で、大井夫人と呼ばれる。</p>

<p>信玄には同じく大井夫人を母とする2歳年上の姉がいた。姉は駿河の戦国大名今川義元に嫁ぎ、嫡男氏真のほか、信玄の嫡男義信に嫁ぐことになる娘を義元との間に儲ける。同母弟には4歳年下の信繁や、その下の信廉がいた。</p>

<p>信虎は側室との間にも多くの子女を儲ける。息子は甲斐の有力領主の養子とし、娘は嫁がせることで領国支配の布石とした。</p>

<p>信玄が生まれた武田氏は清和源氏の流れを汲む名門であり、鎌倉時代に甲斐の守護に任じられる。室町時代に入っても守護を務め続けたことで、守護大名として君臨した。</p>

<p>ところが、戦国時代に入る前からその勢いが衰えたため、甲斐は国内が混乱する。武田氏内部の抗争もその状況に拍車を掛けた。</p>

<p>永正4年（1507）に家督を継いだ信虎は国内統一を果たすため、合戦に明け暮れた。武田氏内部の反対派を倒す一方、敵対する領主を滅ぼし、あるいは屈伏させることで、国内統一に成功する。妻の実家大井氏にしても元々敵対関係にあり、和睦した際、その娘を妻に迎えて家臣団に組み込んだ経緯があった。</p>

<p>国内統一により戦国大名への転身に成功した信虎は、同16年（1519）に躑躅ヶ崎(つつじがさき)に館を移す。現在武田神社が鎮座する辺りに、館は置かれた。これを機に同所を甲府と命名する。</p>

<p>次いで、信虎は他国への侵攻をはかった。そのターゲットに選んだのが群雄割拠の状態だった隣国信濃であり、まずは甲斐とも接する諏訪郡に狙いを定める。享禄元年（1528）より諏訪郡への侵攻を開始したが、同4年（1531）には同郡を支配する諏訪氏が逆に甲斐に侵攻し、武田勢と激しく戦火を交えた。</p>

<p>両者の戦いは決着が付かず、天文4年（1535）に和睦する。その結果、信虎の娘で信玄には異母妹にあたる禰々姫が諏訪頼重に嫁ぐことになった。</p>

<p>同10年（1541）5月、信虎は頼重や信濃埴科(はにしな)郡などを領する村上義清と結んで、信濃小県(ちいさがた)郡に勢力を持つ滋野一族と同郡の海野平で戦い、勝利した。これにより、武田氏の勢威は諏訪郡から小県郡にまで及ぶ。だが、信虎の勢いもここまでだった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>父信虎の追放劇と家督継承</h2>

<p>信玄は嫡男として家督を継ぐことが約束された立場であったものの、父信虎とは不仲だった。その理由は分からないが、信玄の事績などが収録された『甲陽軍鑑』には、信虎が信玄を廃嫡して寵愛する信繁に家督を継がせようと考えた話まで載っている。</p>

<p>しかし、当の信虎は家臣たちの反発を買っていた。度重なる合戦に動員されたことで疲弊し、その不満が充満していたのだ。当時は凶作や災害による飢饉で領民たちも疲弊し、国内は不穏な状況下にあった。</p>

<p>この状況を危険視した重臣たちは信虎を引きずり下ろし、信玄を当主の座に就けようと画策する。当主交代により国内の危機を乗り切ろうとした。折しも、海野平での戦いから帰国したばかりの信虎が娘婿の今川義元のもとに出向くことになった。</p>

<p>これを好機として、翌6月に信虎の追放が実行される。信玄は義元に連絡し、信虎が甲斐に戻れないよう処置してしまう。この後、信虎は甲斐に戻れないまま一生を終える。</p>

<p>当主追放という大事件にもかかわらず、甲斐では信玄に反旗を翻す動きは起きなかった。信玄を擁した重臣たちによるクーデターは成功を収める。家臣団に擁立されて家督を継いだ信玄は21歳、信虎は48歳であった。</p>

<p>無血クーデターとなったのも、信虎への不満が家臣団全体を覆っていたからにほかならないが、それだけではない。信虎の寵愛を受けて、家督継承者に擬せられていた信繁が信玄の意思に従ったことも大きかっただろう。</p>

<p>仮に信繁が信玄の行動に反発すれば家臣団の分裂は避けられず、無血クーデターというわけにはいかない。信繁が信玄の行動を支持したことで家中も分裂せず、表向き平和裡に当主交代となる。</p>

<p>家督を継いだ信玄は信虎と同じく、諏訪郡を虎視眈々と狙った。天文11年（1542）より出兵を繰り返して諏訪頼重を自害に追い込み、版図に組み込む。そして、諏訪郡を拠点に信濃侵攻を本格化させ、家督相続から10年ほどで信濃の大半を版図に収めた。</p>

<p>武田一門を代表して信玄を支えた信繁は信濃平定戦でも活躍する。信濃での合戦のほとんどに参戦したという。</p>

<p>だが、信濃をめぐる戦いは終わらなかった。信玄に領土を奪われた領主たちが越後の戦国大名長尾景虎（後の上杉謙信）を頼ったからである。こうして、川中島の戦いに象徴される信玄と謙信の戦いが信濃ではじまった。</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utilityG/pixta_ShinanogawaNagaoka.jpg" />
						
						<pubDate>Mon, 25 Aug 2025 11:50:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[安藤優一郎（歴史家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>古戦場、城跡...織田信長を苦しめた地・石川県白山市をめぐる  歴史街道編集部</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12804</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012804</guid>
			<description><![CDATA[石川県の白山市には、手取川古戦場、鳥越城、二曲城など、織田信長に屈することなく、戦い続けた人々の足跡が数多く残っている。歴史街道編集部が現地をめぐり、紹介する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="手取川" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi01.jpg" width="1200" /></p>

<p>手取川</p>

<p>手取川、鳥越（とりごえ）城、二曲（ふとげ）城&hellip;。石川県の白山（はくさん）市には、織田信長に屈することなく、戦い続けた人々の足跡が数多く残っている。編集部が現地をたどると、緑豊かなこの地に根付く伝統も見えてきた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>出土品から見えてくる激戦</h2>

<p>白山市には、織田信長に抗った人々の面影を偲ばせる場所が、今も数多く残されているという。</p>

<p>そこで、白山市史編さん室の小阪大（こざかゆたか）さんに案内していただきながら、現地をめぐってみた。</p>

<p>最初に訪れたのは、上杉・織田手取川の戦の碑で、小舞子（こまいこ）駅から徒歩10分ほど。碑の近くからは、手取川の流れを見渡すことができる。</p>

<p>小阪さんによると、織田軍は現在の白山市水島町のあたりに、上杉軍は出城（でじろ）城、現在の出城城址公園のあたりに陣を張ったという。</p>

<p>出城城址公園は、松任（まっとう）駅から徒歩15分ほど。閑静な住宅街の中にあるが、かつて上杉謙信が織田軍との戦いに備えて軍略を練っていたと思うと、胸が高鳴る。</p>

<p><img alt="出城城址公園" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi02.jpg" width="1200" /></p>

<p>出城城址公園</p>

<p>続いて向かったのは信長に抵抗した人々が投降し騙し討ちにあったという松任城跡の松任城址公園で、松任駅からは徒歩2分。</p>

<p>城址の近くにある白山市立博物館では、松任城跡から発掘され、当時のものとみられる茶碗や皿、鎧の一部である小札（こざね）などが展示されている。中でも、備蓄用とみられる穀物は、火災ですべて炭化しており、この地で壮絶な戦いが繰り広げられたことがうかがえた。</p>

<p><img alt="松任城址公園" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi03.jpg" width="900" /></p>

<p>松任城址公園</p>

<p><img alt="白山市立博物館に展示されている、松任城の出土品" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi04.jpg" width="1200" /></p>

<p>白山市立博物館に展示されている、松任城の出土品</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>白山に根付いた信仰</h2>

<p>小阪さんによると、白山麓で一向宗が広まった理由の一つに、もともと白山への信仰が根付いていた地域であることが挙げられるという。そこで、白山信仰の総本宮（そうほんぐう）で、加賀一ノ宮でもある白山比咩（しらやまひめ）神社へと向かう。</p>

<p>神社は、鶴来（つるぎ）駅からバス経由で10分ほどの地に鎮座している。</p>

<p>外拝殿に向かう道中には滝が流れており、水音に心が洗われる。禰宜（ねぎ）の田中天善さんによると、白山からの伏流水が涌くこの神社では、水は「万物を育み、清める」ものとして大切に扱われてきたという。</p>

<p>境内には宝物館もあり、白山信仰にまつわる品や加賀藩主前田家ゆかりの品などが展示されている。</p>

<p>学芸員の伊藤克江さんによると、一向一揆の影響で神社にも兵火が及んだものの、正親町天皇の綸旨を受け、加賀藩祖・前田利家によって再興。以降も、神社は加賀の人々から崇敬されてきたそうだ。</p>

<p><img alt="白山比咩神社" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi05.jpg" width="900" /></p>

<p>白山比咩神社</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>一向一揆最後の砦</h2>

<p>次に向かったのは、鶴来駅からバス経由で45分ほどの鳥越一向一揆歴史館だ。</p>

<p>鳥越城跡と二曲城跡のガイダンス施設であり、鳥越城跡の出土品や、一向一揆の歴史に関するパネルなどが展示されている。一揆の経緯をまとめた映像も上映されており、理解を深めることができる。</p>

<p><img alt="鳥越一向一揆歴史館" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi06.jpg" width="1200" /></p>

<p>鳥越一向一揆歴史館</p>

<p><img alt="" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi07.jpg" width="1200" /></p>

<p>歴史館では、鳥越城跡からの 様々な出土品を見ることができる</p>

<p>歴史館の隣には、道の駅一向一揆の里食彩館せせらぎがある。鳥越産そば粉を使用したそばを食べられるとのことで、コシのあるそばでお腹を満たしてから、歴史館から徒歩7分の二曲城跡へと向かう。</p>

<p><img alt="食彩館せせらぎの「鳥越御膳」" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi08.jpg" width="1200" /></p>

<p>食彩館せせらぎの「鳥越御膳」</p>

<p>二曲城は加賀一向一揆最後の砦として、鳥越城とともに、国の史跡に指定されている。</p>

<p>城の入口には涌水が流れており、「水が豊かな白山麓山内は多くの作物が採れ、歴代の治世者にとっても、押さえておきたい地だったことでしょう」と小阪さん。</p>

<p><img alt="二曲城跡入口" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi09.jpg" width="1200" /></p>

<p>二曲城跡入口</p>

<p>最後に、二曲城から歩いて25分ほどの、鳥越城跡へと向かう。鳥越城は入口まで道が舗装されており、車で訪れることもできる。</p>

<p>石垣や復元された本丸門をみると、激しい戦いが起きた頃の城の姿が想起される。</p>

<p><img alt="鳥越城本丸跡" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi10.jpg" width="1200" /></p>

<p>鳥越城本丸跡</p>

<p>本丸跡は標高312メートルのところにあり、眼下を見渡せる。加賀の門徒の人々も、この景色を目にしながら戦い続けたのだと思うと、ひと時ながら、戦国時代に身を置いた気持ちになった。</p>

<p>一向一揆にまつわる史跡を、このようにひとまとまりで見られる地域は白山市以外ないだろう――そんな思いをいだきながら、旅を終えたのであった。</p>

<p><img alt="白山市周辺一向一揆関連マップ" height="1200" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi11.jpg" width="1100" /></p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshitabi01.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 15 Aug 2025 07:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[歴史街道編集部]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>マリアナ沖海戦での敗因となった 「アウトレンジ戦法」の真相とは？  戸高一成（呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12789</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012789</guid>
			<description><![CDATA[マリアナ沖海戦での大敗は何が原因だったのか? 戸高一成氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="1944年6月19日、戦闘の初期段階で日本軍の爆弾が、米空母バンカーヒルのすぐ横で爆発した" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250807todakakazunari03.jpg" width="1200" /><br />
1944年6月19日、戦闘の初期段階で日本軍の爆弾が、米空母バンカーヒルのすぐ横で爆発した（Naval History and Heritage Command, Washington, DC）</p>

<p>マリアナ沖海戦で日本海軍が大敗した原因は何だったのか。呉市海事歴史科学館（大和ミュージアム）の戸高一成館長は、その要因の一つとして、機動部隊の「生みの親」ともいえる小沢治三郎が実行した「アウトレンジ戦法」を挙げる。書籍『日本海軍 失敗の本質』より解説する。</p>

<p>※本稿は、戸高一成著『日本海軍 失敗の本質』（PHP新書）を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>機動部隊の「生みの親」</h2>

<p>小沢治三郎は、航空に関して先見の明があった。もとをたどれば、小沢は水雷長や水雷戦隊参謀などを歴任した「水雷のプロ」である。そんな彼が、航空関係者から学び、自分なりの航空戦術を考え、海軍大臣に進言したのは昭和15年（1940）6月のことである。それは、航空機を主要な決戦部隊に位置づけ、航空母艦の集中運用を図るというものであった。</p>

<p>小沢の構想した「将来あるべき機動部隊の姿」は、昭和16年（1941）につくられた第一航空艦隊そのものといっても過言ではない。その意味で、小沢は機動部隊の「生みの親」といえる。これを機に、小沢は日本の航空戦術の専門家と見なされ、以降、「小沢を機動部隊の指揮官に」と期待する声は様々な形で出た。特に昭和17年（1942）のミッドウェー海戦の敗北後からソロモン海戦の頃まで、小沢を機動部隊長官に推す声は多い。</p>

<p>しかし、小沢が第一機動艦隊司令長官に就任するのは、太平洋戦争が始まってから2年余りが過ぎ、戦局が悪化していた昭和19年（1944）3月である。</p>

<p>なぜ、遅かったのか。その原因は、年功序列優先の人事制度にある。日本海軍では、指揮下に自分より先任（上位）の人間がいてはいけないとされたので、小沢を長官にすると、彼より先任の将官を更迭しなければならない。この硬直した人事制度により、機動部隊指揮官の就任が遅れたのだ。</p>

<p>もっとも、就任当時の第一機動艦隊は真珠湾やミッドウェーのときを上まわる数の空母を有し、陸上航空部隊も使うことができたので航空機の数も多い。また、若い搭乗員の練度は低いものの、ハワイ、ミッドウェー、ソロモン海戦を生き残ったベテランがまだおり、航空隊も十分に機能していた。</p>

<p>戦況は芳しくないが、戦力の規模でいえば、日本海軍の歴史上、最も有力な機動部隊だった。うまく使えばきちんと戦えるだけの戦力を揃えたのだから、決戦に耐え得る態勢であったといえるだろう。そのため、マリアナ沖海戦に臨む第一機動艦隊に対して、「決戦を挑めば勝機はある」と海軍の上から下までが信じ、「これで一気に挽回できる」と、期待を抱いていたのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「アウトレンジを軍令部はよく理解していなかった」</h2>

<p>昭和18年9月、東條英機首相はマリアナ諸島を「絶対国防圏」とした。特に、サイパン島が重要であった。ここをアメリカに取られると、航空機による本土攻撃が可能になってしまう。その意味で、マリアナを失うことは、日本本土を取られることに等しかった。</p>

<p>実際アメリカも、日本をダイレクトに攻撃できる足場としてサイパン島を狙っていた。したがって、日米双方が「決戦」という認識をもって戦ったのが、マリアナ沖海戦である。日本の海軍史上最大規模の機動部隊を預かる小沢治三郎としては、アメリカ軍を押し返し、当時の言葉でいえば「不敗体制」にもっていこう、と考えていたはずだ。</p>

<p>昭和19年6月、第一機動艦隊がマリアナ海域へ進出したアメリカ軍と交戦した。このとき、日本の軍令部並びに連合艦隊から出た作戦命令は、「航空攻撃は、敵母艦の航空攻撃圏外より、大兵力をもって昼間先制攻撃を行なうを重視する」である。</p>

<p>「敵母艦の航空攻撃圏外より」とは、アウトレンジ戦法を指示している。これは、「敵の兵器の射程外から攻撃することで、自分は被害を受けずに敵を叩く」というものだ。理屈の上では有利に見えるが、実際はあまり効果的ではない。</p>

<p>「兵器は60パーセント程度の能力を使え」といわれる。射程距離の長い戦艦大和の大砲を敵の弾の届かないところで撃ったとき、距離的には届くかもしれないが、まず当たらないのだ。遠くまで飛ばすことと、命中することは、意味が違うのである。しかも、航空攻撃の場合は、砲撃とは性質が異なる。航空機の搭乗員は長距離を飛び続け、心身ともに疲労した状態で戦い、その後、疲れ果てて帰ってこなければならない。「航空攻撃は敵母艦の航空攻撃圏外より」という命令は、航空機に乗る人間のことを考えていないのだ。</p>

<p>日本海軍には、戦闘を兵器の数字でしか考えない傾向があり、航空機の機数と能力値を見て、1000キロメートル先を攻撃して帰ってこられる航続力があれば、1000キロ先を攻撃する計画を立てたりする。</p>

<p>アウトレンジ戦法は、搭乗員のストレスや疲労という「人間の要素」を見落として立てた作戦であり、それでは成立しないことはいうまでもない。空母部隊にとっては攻撃する航空部隊が戦力であり、母艦が生き残ったとしても攻撃手段である航空機が失われたら意味がない。大事にすべきは、航空部隊そのものである。</p>

<p>このアウトレンジ戦法は小沢が唱えたとされるが、気になるのは、小沢の下で働いたことがある軍事史学者の野村実氏が、戦後、「小沢のアウトレンジを軍令部はよく理解していなかった」と書き残していることだ。</p>

<p>それは、小沢と連合艦隊や軍令部との間に、溝があったことをうかがわせる。射程4万メートルの九三式魚雷の破壊力は、戦艦の主砲弾に匹敵、あるいはそれ以上と考えられた。この魚雷が登場したとき、水雷のプロである小沢は、九三式魚雷を使って先制攻撃をかけ、敵を攪乱する戦術を考えたようだ。</p>

<p>つまり、小沢にとっての「アウトレンジ」とは、先に敵を発見して部分攻撃するというものであり、本格的な戦いは全勢力を揃えた接近戦を想定していたのではないか。</p>

<p>一方、軍令部や連合艦隊は「アウトレンジ」を文字通り「全力をもって、敵の射程外から攻撃する」と捉えた。野村氏の記述がこの違いを暗示しているとすれば、小沢と連合艦隊軍令部の間で、アウトレンジの考え方が整合されないまま、作戦が始まってしまったと考えられる。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>マリアナ沖海戦の敗因</h2>

<p><img alt="日本軍の攻撃に向かう艦上攻撃機TBFアベンジャーとSB2Cヘルダイバー" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250807todakakazunari02.jpg" width="1200" /><br />
日本軍の攻撃に向かう艦上攻撃機TBFアベンジャーとSB2Cヘルダイバー（National Archives,Naval History and Heritage Command, Washington, DC）</p>

<p>小沢が第一機動艦隊司令長官に就任したのは、マリアナ沖海戦の3カ月前である。アウトレンジの採用に際して、作戦を練る時間が足りないままで実施に踏み切ったのであれば、それは敗因の一つといえるだろう。</p>

<p>また、作戦命令の「大兵力をもって昼間先制攻撃を行なう」という部分もおかしい。白昼堂々、大編隊を組んだら、敵に発見されやすくなるのは明らかだ。</p>

<p>パイロットが十分に揃っているアメリカは、前哨戦でも偵察機を飛ばし続け、常に空に飛行機がいる状態をつくっていた。さらに艦隊のレーダーと無線通信などを活用し、濃密な防空システムを完成させていた。これによって防空戦闘機を有効にコントロールし、長距離を飛行してきた日本軍機を苦もなく撃墜したのである。</p>

<p>アメリカ軍はその一方的な展開を、「七面鳥狩り（ターキーシュート）」と呼んだ。モールス信号を主に使っていた日本軍に対し、アメリカ軍が、即座に意志が通じる電話機を自由に使えたことは大きな差を生んだ。モールス信号であっても、時間的な余裕があれば、「何度の方向に何機の編隊が来る」という連絡はできる。だが、即応性という点では電話には及ばない。</p>

<p>アメリカの技術は日本の想像を超えていたわけだが、少なくとも日本は、アメリカがレーダーを有効活用していたことを知っていた。当然、早い段階で日本の攻撃隊が発見されることは、十分考え得ることである。</p>

<p>大編隊での攻撃を計画した作戦担当者は、マリアナ沖海戦敗北の最大の責任者というべきだろう。水雷の本質は夜戦であり、水雷出身の小沢が、昼間の大編隊攻撃を考えるとは思えない。だが現実には、第一機動艦隊は白昼堂々、大編隊で攻撃を仕掛け、約四百機を落とされ、大敗北を喫した。</p>

<p>しかしながら、それをもって小沢が無能だったとは、一概にはいえないだろう。</p>

<p>日本海軍には、ミッドウェー海戦ですべての空母を失ったことへのトラウマがあり、空母1隻が沈んでも容易に補充できないため、「空母を惜しむ」という意識があった。事実、当時の日本には、作戦で消耗した兵力、航空機を直ちに補充できる力はなかった。このような現実を受け、忸怩たる思いはあったものの、小沢は味方の消耗を恐れて、アウトレンジ作戦を採用したのかもしれない。</p>

<p>日本の指揮官は皆「兵力を失えば補充がない」というプレッシャーを抱いており、指揮官だけの責任とはいえない背景があるのだ。</p>

<p>惜しむらくは、小沢が上から来た命令通りに作戦を実行したことだ。厳密にいうと、連合艦隊の命令は、あくまで「この戦法で敵を撃破するのがよい」という願望混じりのコンセプトであり、命令ではないのだ。細かい戦術指揮は現場の長官が権限をもつ。</p>

<p>敵機動部隊を撃破することが目的であり、これを達成するためには自分の作戦を混ぜても問題ないのである。そのために、長官の部下に参謀がいるのだが、小沢は、悩みながらも連合艦隊の命令を忠実に受け止めたのだろう。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250807todakakazunari03.jpg" />
						
						<pubDate>Fri, 15 Aug 2025 07:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[戸高一成（呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>信長を苦しめた地・石川県白山市、徹底抗戦した一向宗門徒たち   小阪 大（白山市史編さん室）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12803</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012803</guid>
			<description><![CDATA[石川県の白山市は、織田信長に徹底抗戦した人々の歴史を有する。白山市で展開された激戦の様相を、白山市史編さん室の小阪大（こざかゆたか）さんが解説する。  ]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="鳥越（とりごえ）城跡から眼下を見渡す" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshi01.jpg" width="1200" /></p>

<p>鳥越（とりごえ）城跡から眼下を見渡す</p>

<p>圧倒的な力で四隣をねじ伏せたイメージのある織田信長。 しかしそんな天下人に対して、徹底抗戦を挑んだ者たちもいた――。 その舞台となったのは、現在の石川県白山（はくさん）市。ここでどのような 戦いが繰り広げられたのか。出土品から見えてくる戦いの様相とは。 白山市史編さん室の小阪大（こざかゆたか）さんが語る。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>なぜ加賀の地で門徒たちが力を持ったのか</h2>

<p>織田信長に徹底抗戦した勢力というと、大坂の本願寺を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし、石川県の白山市の地でも、粘り強く戦い続けた人々がいました。</p>

<p>それについて語るうえで、まず蓮如について触れておきましょう。応仁の乱（1467〜77）が起きた時代は、天候不順や飢饉もあって、多くの人が苦しみました。そんな時代にあって、人々の心の支えとなったのが、浄土真宗本願寺の8代法主・蓮如の教えでした。</p>

<p>蓮如は、誰にでも分かるように阿弥陀如来の教えを説き、全ての人は平等に極楽往生することができるとし、多くの門徒をえて、北陸の地でも布教を始めます。</p>

<p>応仁の乱は、北陸の加賀にも影響を及ぼしていました。西軍に加賀の守護大名・富樫幸千代（とがしこうちよ）が、東軍にその兄・政親（まさちか）が加わり、血族争いが生じていたのです。</p>

<p>この争いで、本願寺の門徒衆が存在感を発揮することとなります。政親方となった門徒衆は、幸千代を加賀から追放。政親を勝利へと導いたのです。</p>

<p>これによって門徒たちはその力を世に知らしめますが、政親から疎まれるようになります。一方の門徒たちも、悪政を敷きはじめた政親に抵抗していきます。</p>

<p>そして長享2年（1488）、門徒たちは政親を自害に追い詰めます。その後、政親の大叔父を守護に擁立するものの、実権は門徒たちが握ることとなりました。</p>

<p>そうした状況を、蓮如の10番目の息子・実悟（じつご）は、「百姓ノ持タル国」と記しています。ここでの「百姓」は、農民だけでなく、地侍や僧なども指す言葉ですが、それからおよそ100年にわたって、門徒たちは加賀の地で力を持つこととなるのです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>激戦が繰り広げられた鳥越城</h2>

<p>そうした加賀の門徒と信長との戦いのきっかけが訪れたのは、元亀元年（1570）のことでした。</p>

<p>この年、本願寺と信長の戦いである石山合戦が勃発。本願寺11代法主・顕如（けんにょ）は、全国の門徒に対して、信長と戦うよう呼びかけます。</p>

<p>これに呼応して、加賀の白山麓（はくさんろく）と称される白山周辺域でも、山内惣庄（やまのうちそうしょう。白山麓の本願寺門徒組織）の拠点となる鳥越城が築かれました。</p>

<p>築城者は、鈴木出羽守といって、本願寺が山内惣庄の棟梁として派遣した人物とされます。</p>

<p>この白山地域では、天正5年（1577）に、上杉謙信軍が織田信長軍を撃破した手取川の戦いが勃発しています。上杉謙信は一向一揆を味方にして戦いを有利にすすめます。</p>

<p>ところが天正8年（1580）閏3月、顕如が信長と和睦。鳥越城・二曲（ふとげ）城がある能美（のみ）・江沼郡が織田の領地となります。顕如は、鈴木出羽守と山内惣庄に、織田軍に抵抗しないよう手紙に記しています。</p>

<p>しかし顕如の息子・教如（きょうにょ）は、信長に降伏せず、戦い続ける道を選択。鈴木出羽守と山内惣庄もそれに従い、信長に抵抗し続けるのです。</p>

<p>同年6月、柴田勝家率いる織田軍が山内へと侵攻し、加賀の門徒たちはそれを迎撃。事態を知った顕如は、鈴木出羽守と山内惣庄に戦いをやめるよう再び伝えます。</p>

<p>鈴木出羽守を含む山内惣庄と一向一揆は、織田軍との和議を選び、松任（まっとう）の地へ投降したところ、騙し討ちにあい鈴木出羽守を含む19人の首が安土城下に晒されました（『信長公記』）。</p>

<p>平成18年（2006）に行なわれた松任城の発掘調査では、この頃のものと思われる遺構や甲冑の一部などが発見されており、彼らが命を落とした際、松任城は焼失したとみられています。</p>

<p>とはいえ、戦いは終わったわけではありません。鈴木出羽守を失いながらも、山内惣庄は鳥越城と二曲城を奪還すべく再挙。天正9年（1581）2月のことで、『信長公記』には、上杉景勝と門徒衆が手をあわせて二曲城を奪い返したと記されています。</p>

<p>これは私の見立てですが、加賀への進出を目指していた景勝から、山内惣庄は武器の援助をされていたのではないでしょうか。</p>

<p>この反乱を聞きつけ、織田軍の佐久間盛政が白山麓に攻め入り、最終的に乱を鎮圧。山内惣庄は終焉を迎えるのです。</p>

<p><img alt="鳥越一向一揆歴史館に展示されている、鳥越城跡の出土品の鉄砲玉" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshi02.jpg" width="1200" /></p>

<p>鳥越一向一揆歴史館に展示されている、鳥越城跡の出土品の鉄砲玉（写真提供：白山市）</p>

<p>山内惣庄の拠点だった鳥越城跡からは、戦いで使用されたと思われる、100点以上の鉄砲玉が出土しています。鉄砲の玉は、通常は鉛（なまり）製ですが、銅製が多く、玉を鋳（い）る際の道具や滓（かす）が発見されています。出土品の中には熱で溶けた銅銭や仏具があり、これらを鋳て玉にした可能性もあります。</p>

<p>加賀の一向一揆はよく知られていますが、その経過をたどっていくと、鳥越城と二曲城で最後まで激しい戦いが展開されていたことと、山内惣庄の知られざる奮闘があったことが浮かび上がってくるのです。</p>

<p><img alt="二曲城跡入口の加賀一向一揆・山ノ内門徒衆鎮魂の碑 " height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshi03.jpg" width="1200" /></p>

<p>二曲城跡入口の加賀一向一揆・山ノ内門徒衆鎮魂の碑</p>
]]></content:encoded>
												<enclosure url="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/20250812hakusanshi01.jpg" />
						
						<pubDate>Thu, 14 Aug 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[小阪 大（白山市史編さん室）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>太平洋戦争で展開された和平工作　その“失敗の本質”  平塚柾緒（戦史研究家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12746</link>
						<guid isPermaLink="false">0000012746</guid>
			<description><![CDATA[太平洋戦争末期、和平工作はどのように行われていたのか、戦史研究科の平塚柾緒さんに解説頂く]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="和平工作" height="743" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/utility/pixta_sea.jpg" width="1200" /></p>

<p>太平洋戦争においては、和平への動きがなかったわけではない。 近衛上奏文、ダレス工作......。それらはどのように行なわれ、 そしてなぜ、失敗に終わったのか。 戦場の裏側で展開されていた、もう一つの戦いとは──。</p>

<p>※本稿は、『歴史街道』2020年9月号より、内容を一部抜粋・編集したものです</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>近衛上奏とヨハンセングループ</h2>

<p>昭和20年（1945）に入り、米軍は日本から奪取したサイパン、テニアンなどのマリアナ諸島を前進基地に、長距離爆撃機B29による日本本土空襲を本格化させてきた。事ここにいたり、日本の敗色は一般国民の目にも明らかになりつつあった。</p>

<p>軌を一にして米英などに対する日本側の和平工作が活発化したのも、この頃からだった。それら和平工作の中で知られているものに、「ダレス工作」「バッゲ工作」「ソ連仲介工作」などがある。</p>

<p>しかし結論を先に記せば、これら民間人や海外駐在武官などをも交えた和平工作は、すべて実を結ばなかった。</p>

<p>理由はいくつもあるが、そのひとつは工作時期が小磯国昭内閣から鈴木貫太郎内閣にかけての政権移行期に重なってしまったこと。もうひとつは、最後の最後までソ連を仲介者にして米英と和を結ぶのが、日本政府の方針だったことなどが挙げられる。</p>

<p>このソ連を和平の仲介者にしようとしていた日本政府の動きに、楔を打ち込むかのような&quot;事件&quot;も起きていた。世に言う「近衛上奏文」である。</p>

<p>昭和20年1月16日、昭和天皇は木戸幸一内大臣に、重臣から時局に対する意見を聞くことを求めた。その結果、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東条英機の重臣7名が、2月7日から26日の間に順次拝謁して上奏することになった。</p>

<p>近衛文麿の上奏は3番目で、2月14日に行なわれた。<br />
「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」（『終戦史録』外務省編纂）で始まる近衛の上奏は、1時間以上に及んだ。</p>

<p>上奏の大半は、「国体の護持の建前より最も憂ふべきは敗戦よりも敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命」であると説き、日本の少壮軍人やいわゆる新官僚による革新運動を操っているのは、実は左翼共産主義者であると断定した。</p>

<p>そして戦況の悪化と共に昨今起きている軍部、官僚をはじめとする各界にわたる混乱状態は、共産革命にいたる好条件の成長過程であり、今後ますます急進展するであろうと言い、これを断ち切るには戦争を終結する以外にないと進言した。</p>

<p>「戦局の前途に付き何等か一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば勝利の見込なき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存じ、随て国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結を講ずべきものなりと確信仕り候」（前出と同じ）</p>

<p>このとき近衛が「軍部」と言っているのは陸軍のことだが、その帝国陸軍に共産主義が浸透しているという上奏は、周囲を驚かせた。</p>

<p>いや、驚きはまだ続く。4月15日、近衛と親交の厚い元駐英大使の吉田茂　（のちの首相）を筆頭に、近衛秘書の殖田俊吉、ジャーナリストの岩淵辰雄らが東部憲兵隊に逮捕されたのだ。憲兵たちが「ヨハンセングループ」と呼んでいた、親英米派の和平グループである。</p>

<p>ちなみにヨハンセンとは、「よしだはんせん（吉田反戦）」の略で、憲兵たちの隠語であった。容疑は近衛上奏文の内容を流布し、陸軍が「赤化」していると中傷したとする造言蜚語罪だった。</p>

<p>この吉田らを逮捕した東部憲兵隊司令官・大谷敬二郎大佐の『昭和憲兵史』や、同人の手記「近衛上奏と吉田茂の逮捕」（『日本週報』昭和34年10月20日臨時増刊号）などによれば、上奏文を認めた近衛は、吉田を大磯の別邸に訪ねて読んでもらい、上奏前日の2月13日にも、東京・麴町の吉田本邸で上奏文を再度チェックしてもらっている。</p>

<p>大磯でのチェックの際に、吉田は上奏文の内容を細かにメモしていた。これを入手した憲兵隊は、待っていましたとばかりに吉田らを造言蜚語罪で逮捕したのである。大磯の吉田別邸で働いていた若い書記生は、実は憲兵隊が密かに送り込んでいたスパイで、この書記生が吉田がメモした上奏の内容文を盗写し、憲兵隊に渡していたのだった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>スイスでスタートした和平工作</h2>

<p>近衛上奏と吉田らの逮捕で首都・東京が大揺れしていたとき、遥かヨーロッパでも日本の降伏、米英との和平工作を巡って、いくつものグループが独自に奔走していた。冒頭に記した「ダレス工作」「バッゲ工作」などのメンバーたちである。</p>

<p>当時、スイス最大の都市チューリッヒに、大の親日家でフリードリッヒ・ハックというドイツ人がいた。</p>

<p>ハンブルク大学を卒業した経済学博士で、満鉄顧問に迎えられたあと、第一次世界大戦当時はドイツの租借地・青島にいて、日本軍の捕虜となった。日本で3年近い捕虜生活を送り、1920年に帰国、ヒトラーのナチス政権では極東顧問として活躍していた。日独防共協定のきっかけを作ったのも、ハックだったといわれている。</p>

<p>しかし、ナチスの世界制覇思想に批判的になったハックは、ある日「男色」の罪名で逮捕され、投獄されてしまった。</p>

<p>それを駐独海軍武官の小島秀雄少将らがナチス政権に働きかけ、ハックを釈放させて密かに日本に送り、さらにスイスに亡命させて日本海軍の購買エージェントの職を与えた。昭和13年（1938）の春、ハック51歳のときだった。</p>

<p>時は過ぎ、昭和16年（1941）12月8日、日本は米英との戦争に突入した。その一週間後の12月16日、駐ドイツ大使館付海軍武官補佐官・藤村義一中佐（のち義朗と改名）は、知人となっていたハックから1通の手紙をもらった。</p>

<p>手紙には、日本が米英を相手にしても勝てるはずはない、しかし、こうなった以上は、米英との話し合いの道を作っておかなければならない。もし私の意見に賛成なら、自分はその道を開くよう努力するがどうだろうか、という内容だった。</p>

<p>藤村中佐は「アメリカのしかるべき人たちと接触する道があるなら、ただちに行動に移ってほしい」と返書し、その後はチューリッヒやジュネーブに足を運んでハックとの接触を続けた。</p>

<p>昭和20年2月、藤村中佐は駐スイス公使館付海軍武官室に転任した。そこでハックと再会した藤村は、「自分のスイス駐在の目的は和平工作を具体化させることだ」と打ち明け、上司の海軍武官・西原市郎大佐とともに協力を依頼した。ハックは喜び、「準備はもうできている」と、初めて「ダレス機関」の実態を話した。</p>

<p>ダレス機関というのは通称で、正式には第二次世界大戦勃発後、大統領命令で米政府がヨーロッパに設置した戦略情報機関OSS（Office of Strategic Services）のことをいい、アレン・ダレスがその総局長の地位にあった。</p>

<p>のちに設立される中央情報局CIA（Central Intelligence Agency）は、このOSSを母体に組織された機関で、アレン・ダレスは五代目長官に就任している。</p>

<p>また、のちのアイゼンハワー政権の国務長官を務める実兄のジョン・フォスター・ダレスは、当時ルーズベルト大統領の政治外交顧問をしており、兄弟は大統領の信任が厚かった。</p>

<p>ハックとOSSの仲介をしていたのは、アメリカの「ナショナル・シティー・バンク」チューリッヒ駐在員のホワイトという男と、ハックの大学の同期生で、ダレスの秘書であるドイツ人フォン・ゲフェルニッツという男だった。</p>

<p>この二人を通じて、ハックと西原大佐らがOSSのメンバーのジョイス（戦後、トルコ大使になった外交官）とポール・Ｃ・ブルンの2人に初めて会ったのは、昭和20年4月25日のことだった。</p>

<p>そして2回目は2日後の27日で、このときはハック、西原、藤村の他に津山重美 （大阪商船欧州 駐在員）と笠信太郎 （朝日新聞特派員）も同席した。</p>

<p>そこで日本側はダレス側に、「日米の直接の和平に関し最善の努力をしたいが、米側の御意見を知らされたい」旨のメッセージを渡した。</p>

<p>5月3日、OSS側からハックを通して返答があった。米国務省から、「日米直接和平の交渉を、ダレス機関を通じて始めてさしつかえない」という訓令が来たという。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>東京に打たれた暗号電第一号</h2>

<p>ダレス機関からの返答を手にした駐スイスの西原海軍武官は、5月8日の午後、和平交渉に関する第一報を東京に暗号電した。</p>

<p>発信相手は米内光政海軍大臣と豊田副武軍令部総長で、直接、海相、総長に届くよう「至急、親展、作戦緊急電」とした。</p>

<p>電信の内容は、これまでのOSSとの接触を概括し、ダレス氏は日本が和平を望むならば、「これをワシントン政府に伝達し、その達成に尽力しよう」と言明したと記し、ダレスの経歴も添えた。</p>

<p>この日、ベルリンではドイツが連合国に無条件降伏をし、日本をとりまく情勢はますます危機的様相を呈してきた。</p>

<p>スイス公使館付海軍武官からの報告電はその後も続き、朝日新聞特派員の笠信太郎記者も、かつて朝日新聞の副社長だった下村宏情報局総裁宛に、個人名義で「1日も早い和平工作を行なうべきである」と打電した。</p>

<p>5月21日、保科善四郎海軍省軍務局長名で待望の返書が届いた。<br />
「貴武官のダレス氏との交渉要旨はよく分ったが、どうも日本の陸海軍を離間しようとする敵側の謀略のように思える節があるから、充分に注意せられたい」</p>

<p>スイス公使館の海軍武官室で返書を開いた一同は、その内容のトンチンカンぶりに啞然とした。こんな返書をダレス側に伝えるわけにはいかない。</p>

<p>西原大佐たちは、ダレス側には「東京からの返電はまだ来ない」と言って、東京にはドイツ降伏後のソ連の出方などの報告も兼ねて、和平工作実施要請の暗号電を打ち続けた。だが、6月20日に米内光政海相名で武官宛に届いた返書は、工作の終了を意味していた。</p>

<p>「貴意は知った。一件書類は外務大臣に移したから、貴官は所在公使等と緊密に提携し善処されたし」</p>

<p>書類を外務省に回したということは、海軍は手を引くということだ。こうして秘密裏に進められていた「ダレス工作」は、6月20日に外務省から駐スイスの加瀬俊一公使にも連絡され、半ば公になってしまった。</p>

<p>スイスの日本側はダレス機関に、「当事者以外には秘密」との約束が守れなくなったことを伝え、以後の工作に終止符を打った。</p>

<p>いや、西原武官らの申し出の前に、すでにOSSは、外務省が加瀬公使に打った暗号電報を即日解読しており、この話はダメだと判断していた。ダレスたちOSSは、日本の外務省には全く信を置いていなかったからである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>東京に無視された陸軍のダレス工作</h2>

<p>当時、スイスのダレス機関は西原・藤村ら日本の海軍グループとは別に、陸軍のグループとも和平工作を進めていた。</p>

<p>この陸軍グループをダレス機関に斡旋したのは、スイスのバーゼルにあった国際決済銀行の幹部ペール・ヤコブソンという人物である。</p>

<p>日本側は前駐独大使館付武官で、終戦時はスイス公使館付陸軍武官になっていた岡本清福中将を中心に、加瀬俊一公使、在バーゼルの国際決済銀行の北村孝治郎理事、同じく国際決済銀行の吉村侃為替部長らである。</p>

<p>この「岡本・ダレス工作」は、西原大佐ら海軍側工作の頓挫の穴埋めをするかのように、1945年6月ごろから8月にかけて行なわれていた。</p>

<p>最初に行動を起こしたのは、在欧日本人の間では平和論者として知られていた吉村である。外務省編纂の『終戦史録』に収録されている加瀬・北村・吉村による「1945年6月ないし8月アレン・ダレスとの非公式、間接和平連絡の顚末」（昭和26年7月12日）によれば、ドイツが降伏する直前の1945年5月、チューリッヒに岡本を訪ねてこう働きかけたという。</p>

<p>「もう和平の手を打たねば駄目だ、丁度国際決済銀行で同僚として働いている同行経済顧問のペル・ジェイコブソン（ペール・ヤコブソン）とは気が合って別懇だし、ジェの妻君の叔父なる人は、当時英国海軍軍令部次長（戦後総督になった）で又在バーゼル米総領事館員とも懇意であり、米英側に打診するには格好の仲介者と思われる。この筋を通じ当たってみてはどうか......」</p>

<p>すると岡本は、「自分は軍人だ、加瀬がやるべきだ」と言った。そこで吉村は「それならば加瀬とベルリン時代以来懇意な北村から加瀬に話してもらう外ない」と言ったため、岡本は北村に面会を求め、それまでのいきさつを話して加瀬の説得を促した。北村の説得に加瀬は熟慮の末、「お国のためだ、肚芸で行こう」と答えたという。</p>

<p>こうして陣容を整えた日本側は、6月中頃、ヤコブソンをバーゼルの吉村宅に招いて、ダレスを通じての対米和平工作を依頼した。その時の日本側の要望は、「無条件降伏という言葉は修正すること、陛下御安泰、憲法不変、満洲国際管理、朝鮮、台湾は日本領土として残る」（『終戦史録』）というものだった。</p>

<p>ダレス工作を引き受けたヤコブソンはただちに行動を起こし、ヴィースバーデンのダレス邸に泊まるなどして日本の意向を伝えた。工作は概ね成功し、ダレスはワシントンとも連絡し、日本側への回答を口にしたとも言われている。</p>

<p>前出『終戦史録』の収録文によれば、ヴィースバーデンから帰ったヤコブソンは、北村、吉村にダレスに会った結果を伝えたという。</p>

<p>「その要旨は次の如きものであった。米は天皇を安泰にしたいが反対する向き（ソ連、仏、支と解された）があるので明文に書く訳にはいかぬ、アンダースタンディングとする。憲法は変更する。領土問題はノー・コメント。ソ連参戦前に交渉に入りたいというのであった」</p>

<p>ヤコブソンの報告は、即座に岡本中将と加瀬公使にも報告され、加瀬公使はポツダム宣言が出される10日ほど前の7月16日に、東京の東郷外相宛に大至急電で報告した。ポツダム宣言が出された7月26日以後は、連日のように関連電を打ったが、外相からは「できるだけ情報を寄こせ」と言ってきただけだった。</p>

<p>岡本中将も、「参謀本部へ相当打電したが梨の礫であったらしい」（『終戦史録』）という。そして1945年8月15日、日本敗戦の報をチューリッヒで聞いた岡本中将は自決した。</p>

<p>しかし、これら在欧日本人たちがダレス機関を通じて内示した日本降伏の希望条件は、「米国の対日和平処理に非常に参考になったことは事実のようである」（『終戦史録』）と結んでいる。</p>

<p>このほか米英に対する和平工作には、スウェーデン王室を通じる「バッゲ工作」や「小野寺工作」と呼ばれる和平工作もあったが、結果は「ダレス工作」と同じで、最後は日本政府や軍中央に無視され、奔走した関係者たちの&quot;泡沫の夢&quot;と消えていった。</p>

<p>その背景にあったのは、当時の日本政府の目がソ連に向いていたことである。昭和20年5月11、12、14日の3日間にわたって行なわれた最高戦争指導会議構成員会議で、軍部と政府は次の3点を目標に、ソ連との話し合いを開始することを決定していた。</p>

<p>一、ソ連を対日参戦せしめないこと。<br />
二、ソ連をなるべく好意的態度に誘致すること。<br />
三、和平に導くこと。</p>

<p>そして6月3日には、ソ連との話し合いのスタートともいえる、広田弘毅元首相とマリク・駐日ソ連大使との会談が箱根で開始されている。</p>

<p>さらに6月9日には内大臣の木戸幸一は、ソ連を仲介とする独自の和平試案を起草し、外務、陸軍、海軍に説明すると同時に天皇にも言上していた。</p>

<p>試案のポイントは天皇の親書を携えた特使をソ連に送り、対米英との仲介を依頼する。和平の最低条件は、国体の護持と皇室の安泰にあるというものであった。</p>

<p>このタイプされた木戸の試案を天皇は熱心に読んだあと、「ひとつ、やってみよ」という意味のことを言ったという。このとき木戸が考えていた特使は、なんと元首相の&quot;反共主義者&quot;近衛文麿だった。</p>

<p>しかし、歴史が証明しているように、このときスターリン首相率いるソビエト連邦は、米英など連合国に対日参戦を確約し、その準備に邁進している真っ最中だったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【平塚柾緒（ひらつか・まさお）】<br />
昭和12年（1937）、茨城県出身。取材・執筆グループ 「太平洋戦争研究会」を主宰し、数多くの従軍経験者への取材を続けてきた。 『八月十五日の真実　大日本帝国が崩壊した運命の日』 『新装版 米軍が記録した日本空襲』『玉砕の島 ペリリュー』など著書多数。</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Wed, 13 Aug 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[平塚柾緒（戦史研究家）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>インド洋作戦での完勝が生んだ慢心　日本海軍はなぜその後敗北へ向かったのか？  戸高一成（呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12788</link>
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			<description><![CDATA[インド洋作戦で完勝を収めた日本海軍は、なぜその後ミッドウェー海戦で大敗したのか? 戸高一成氏が解説する。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="ハーミス" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2025/2025A/250807todakakazunari01.jpg" width="1200" /><br />
セイロン島沖で日本海軍機の激しい爆撃を受け、沈没する航空母艦ハーミスの航空写真</p>

<p>太平洋戦争開戦とともに、日本軍は東南アジアや太平洋各地で一連の攻略作戦を展開した。英国東洋艦隊の行動を封じるべくインド洋作戦を敢行し、完勝を収める。しかし、その勝利のせいか、艦隊全体には大きな慢心が広がっていったという。呉市海事歴史科学館（大和ミュージアム）館長の戸高一成氏の書籍『日本海軍 失敗の本質』より解説する。</p>

<p>※本稿は、戸高一成著『日本海軍 失敗の本質』（PHP新書）を一部抜粋・編集したものです。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>米国との決戦に備えるためのインド洋作戦</h2>

<p>真珠湾攻撃以降、日本軍は第一段作戦（南方作戦）のほとんどを、順調に成功させた。</p>

<p>第一段作戦の目的は、南方地域の重要拠点を攻略して英米勢力を一掃し、資源地帯を確保することだった。</p>

<p>陸軍は東南アジアのマレー、ジャワを攻略し、昭和17年（1942）3月8日、ビルマの首都ラングーンの占領に成功した。</p>

<p>一方で海軍は、英国東洋艦隊を撃破することによって、イギリスとインドの連携を断ち、日独伊の連携を図るために動く。</p>

<p>昭和16年（1941）12月のマレー沖海戦で、英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズや巡洋戦艦レパルスを撃沈。翌年2月にはオーストラリアのダーウィンを空襲、3月にはジャワ海掃討戦を成功させた。</p>

<p>そして、第一段作戦は最終段階を迎える。</p>

<p>来るべき米国との決戦に備えるためには、英国艦隊の脅威をインド洋方面から排除する必要があった。米軍との戦いにあたって、西方から東南アジアへ英軍が進出するのを防ぐ必要があったからだ。</p>

<p>そのために実行されたのが、インド洋作戦であった。</p>

<p>この作戦は、インド洋の英国東洋艦隊の主要艦船と、セイロン島にある二大基地、商港コロンボと軍港トリンコマリーを破壊することを目的としていた。</p>

<p>もしも英国艦隊が出動してこない場合は、セイロン島攻略などを行なうことで、誘き出そうとも考えていた。</p>

<p>作戦には、第一航空艦隊の空母を中心とした兵力と、南遣（なんけん）艦隊とが投入された。この作戦中、昭和17年4月5日から9日にかけて起こったのが、セイロン沖海戦である。</p>

<p>東洋の制海権確保に力を入れていた英国東洋艦隊には、最新鋭の戦艦が投入されていた。しかも航空母艦3、戦艦5、巡洋艦7、駆逐艦16、潜水艦7という大兵力である。</p>

<p>対する南雲忠一中将率いる機動部隊の戦力は、航空母艦こそ5隻と英軍を上まわるものの、戦艦4、巡洋艦3、駆逐艦9であった。</p>

<p>数値的には、英国が日本を上回っていた。</p>

<p>また、航空戦力という点でいえば、日本軍は零戦などの新鋭機を有しているものの、陸上基地の航空兵力を加えれば、数的には互角の勢力だった。</p>

<p>しかし結果は、日本軍の完勝だったのである。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>行なわれなかった艦隊同士の正面衝突</h2>

<p>当初、英国東洋艦隊司令長官サマヴィル中将以下、艦隊指導部は、暗号解読により、日本艦隊が4月1日にセイロン島を攻撃するという情報を摑んでいた。</p>

<p>実際、南雲機動部隊は3月21日にセレベス島スターリング湾を発し、4月1日にセイロン島の攻撃を予定していた。</p>

<p>英軍は3月31日に艦艇を洋上で集結させ、万全の態勢で日本艦隊の出現を待っていた。ところが、予定の日になっても日本軍を見つけることができなかった。</p>

<p>それもそのはず、3月に南鳥島への空襲があり、その対応に追われて、セイロン島への攻撃予定が4月5日に変更されていたのだ。</p>

<p>この日本軍の計画変更によって、両艦隊の正面衝突は行なわれなかった。</p>

<p>依然として日本艦隊を見つけられず、燃料を消費するばかりの英国艦隊は、2日に作戦を中止。艦隊主力をモルディブ最南端にあるアッドゥ環礁へと待避させる。4月5日、南雲機動部隊はコロンボを空襲したが、当然ながら英国艦隊の姿はない。敵機およそ50機撃墜のほか、駆逐艦1隻、仮装巡洋艦1隻などを沈めるも、主だった戦果は見られなかった。機動部隊は、第二次攻撃を余儀なくされた。</p>

<p>そこで南雲中将は、敵水上部隊の出現に備えて雷装（魚雷を装備）待機していた艦上攻撃隊に、爆装（爆弾を装備）への転換を命じる。しかしその最中、索敵機から敵巡洋艦2隻を発見したとの報告を受け、急遽、爆装から雷装への再転換を指示した。</p>

<p>各空母の艦内が混乱しつつある中、別の索敵機より敵駆逐艦2隻を発見との報告が入り、駆逐艦なら艦上爆撃機のみで十分と、南雲は準備ができていた艦爆機を出撃させた。</p>

<p>しかしインド洋に現れたのは、重巡洋艦のドーセットシャーとコーンウォールであった。慌てた南雲は艦攻および艦爆の追加出撃を命じたが、予想に反して、艦爆機の攻撃によって2隻とも沈没させることに成功した。</p>

<p>開戦直後のマレー沖海戦で、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが撃沈されたと聞き、チャーチル英首相は泣いたというが、セイロン沖海戦でコーンウォールとドーセットシャーが撃沈されたときには、「地中海でのイタリア空軍との戦いでは、全くなかったことだ」と慨嘆したという。その後は両軍ともに艦隊を見つけることができず、南雲機動部隊はトリンコマリーの攻撃に移る。</p>

<p>4月9日、攻撃隊が飛行場と港湾施設を破壊した直後、索敵機より、敵空母1隻と駆逐艦3隻を発見との報が入った。直ちに第二次攻撃隊が発艦、敵空母ハーミスを捕捉する。</p>

<p>艦爆と零戦で編制された攻撃隊は、ハーミスに対して急降下爆撃を加える。80パーセントを超える命中率で、敵空母と駆逐艦1隻を撃沈させた。</p>

<p>海軍の戦いで、英国がこれほどの完敗を喫した歴史はなかった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>艦隊全体を覆っていた「慢心」</h2>

<p>開戦直後のこの南方作戦によって、長きにわたり、英国東洋艦隊をインド洋で行動させなかったことを考えれば、インド洋作戦は成果があったと評価できる。しかし、日本海軍の「虎の子」である航空戦力の、ほとんどすべてを出動させるほどの重要性があったかどうかについては、やや疑問を感じる。</p>

<p>ここまで連戦連勝とはいえ、戦いごとにベテランパイロットを失っており、そうした現実に対する認識は司令部にはなかった。むしろ将来の決戦に備え、この時期は機動部隊のベテラン搭乗員を教官、教員にあてて、内地でパイロットの大量養成を進めるべきであったかもしれない。そして何よりも、本海戦は機動部隊運用の経験値を高めた一方で、いくつもの課題を残してもいる。</p>

<p>まず、真珠湾攻撃以来、どのような敵でも鎧袖一触（がいしゅういっしょく）と、意気揚々としていた南雲機動部隊において、セイロン沖海戦後はさらに大きな慢心が艦隊全体を覆ったことを指摘しておきたい。とりわけ、爆弾だけでは大型軍艦を撃沈できないと考えられていた中で、爆装の急降下爆撃隊で、あっさりと巡洋艦、航空母艦を撃沈したことは、「無敵意識」をいやが上にも高めたであろう。</p>

<p>また、空母ハーミス攻撃の直後、南雲機動部隊は、英軍の陸上基地航空機の奇襲を受けることがあった。これは陸から十分な距離を置かない海域で行動したためだったが、この貴重な教訓となるはずの「失敗」を、日本海軍は十分に生かしていない。攻撃力に目を奪われ、弱点の精査を怠ったのだ。</p>

<p>そして、さらに重要なことがある。</p>

<p>太平洋戦争の分岐点といえるミッドウェー海戦で日本軍は大敗するわけだが、その敗因ともいえる失敗と同様のことを、このセイロン沖海戦で経験していたのだ。</p>

<p>コロンボ空襲の際、二度目の攻撃の要請を受けた司令部は、その後、索敵機からもたらされた異なる情報に右往左往し、艦上攻撃機の雷装と爆装の兵装転換で混乱している。</p>

<p>このときは結果的に、艦爆だけで重巡を撃沈することができたため、大事に至らなかった。しかし後のミッドウェー海戦でも同じことが起こっているのだ。その結果、日本軍は4隻もの空母を失い、壊滅的な敗北を招いた。</p>

<p>現地の指揮官の報告を鵜呑みにしたことは、司令部の作戦推進に対する確固たる意識が弱かったことを示している。</p>

<p>日本海軍は、一瞬の戦機で勝敗が左右される航空戦の危険性を、セイロン沖海戦で深刻に受け止めるべきであった。貴重な経験を得ながら、それを活かすことができなかったのだ。勝利の中でも、冷静に教訓を見つけることが、次の失敗を防ぐ道であることを、これほど感じさせる海戦はないかもしれない。</p>

<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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						<pubDate>Tue, 12 Aug 2025 17:00:00 +0900</pubDate>
			<dc:creator><![CDATA[戸高一成（呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長）]]></dc:creator>			
		</item>
				<item>
			<title>「日本最大級の山城」で伊達と蒲生の忍びが…向羽黒山城ものがたり２  天津佳之（作家）</title>
			<link>https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12738</link>
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			<description><![CDATA[日本最大級の山城・向羽黒山城を題材に、作家・天津佳之が手がける連作小説。第2回は奥州仕置き後が舞台。蒲生氏郷と対立する伊達政宗が、向羽黒山城に忍びを派遣。そこで忍びは強敵と戦い、驚愕の事実を知る。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img alt="日本最大級の山城・向羽黒山城" height="741" src="https://rekishikaido.php.co.jp/userfiles/images/2024/2024A/240226aizu01.jpg" width="1200" /></p>

<p>写真：向羽黒山城</p>

<p>東北屈指の名城で、蘆名盛氏、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝といった名将らがかかわった向羽黒山城は、知られざるドラマに満ちた城でもあります。</p>

<p>この向羽黒山城を軸に、作家・天津佳之氏が手がける特別読み切り連作小説「向羽黒山城ものがたり」。第２回は、豊臣秀吉による奥州仕置き後の向羽黒山城が舞台となります。</p>

<p>会津に封じられた蒲生氏郷と対立する伊達政宗が、向羽黒山城に忍びを派遣。そこで忍びは、恐るべき相手と戦うこととなり、さらに驚愕の事実を知ることに&hellip;&hellip;。</p>

<p>&nbsp;</p>

<h2>「黒脛巾――伊達政宗と蒲生氏郷」</h2>

<p>夜闇のなかに、ぼんやりと雪の白が浮かぶ。一面の積雪は、松明(たいまつ)の灯りに照らされて、ほんのりと朱に染まっていた。</p>

<p>それをかき分けるように城道を進む吉六(きちろく)は、いい加減うんざりしはじめていた。雪など、彼の故郷である近江国日野では、真冬に数日降るかどうか。積もりはするが、これほどの量ではないし、歩く妨げになるほどでもなかった。</p>

<p>会津は、雪深い土地である。霜月(しもつき)の末ともなれば、山はもちろん、開けた平野までもたっぷりと降る雪に埋まる。</p>

<p>（降りすぎじゃ）</p>

<p>内心で愚痴りながら、吉六は手槍を杖代わりに、松明を掲げて夜に目を凝らす。</p>

<p>会津の南、向羽黒山城。三重の曲輪と2000とも言われる屋形を備えた、奥州一の堅城である。密に張り巡らされた土塁と防柵が山肌を覆い、雪に覆われたさまは、さながら山が白糸縅（しろいとおどし)の鎧を纏ったようでさえあった。</p>

<p>そのなかにあって、東の尾根は山本来の地形が多く残る。すぐ下には暴れ川として名高い大川（阿賀川）が迫るだけでなく、峻険な断崖が高く切り立っており、天然の要害となっているからである。その先の曲輪には、築城以前から鎮座する弁天社（べんてんしゃ）があり、城の鎮守として大切に祀られていた。</p>

<p>吉六の役目は、この社（やしろ）と二の曲輪を結ぶ城道の見回りである。普段、こんなところまで夜廻りをすることはないが、最近は城の防備がやけに厳しく、吉六もまた、寒さに震えながらたった独りで、松明を頼りに歩きまわる羽目になっていた。</p>

<p>本来は、二人一組でする役目だった。が、今宵の相棒は懸想(けそう)した女が急に色よい返事をしたとかで、吉六に口裏を合わせるよう言い含めて出掛けていった。底から冷える寒さもあって、吉六は心細さを抱き締めるように身を縮め、弁天曲輪に入っていく。</p>

<p>青銅の鳥居と、礎石の上に鎮まる社。周囲には申し訳程度に木立が残されているが、それは夜に溶け込んで細々とした影を滲ませているだけだった。</p>

<p>そこで、吉六は気づいた。</p>

<p>（雪が落ちておる）</p>

<p>常(つね)であれば、社の周りは木立が風雪を受け止めるために、積もりかたが浅い。今宵のように風がないときは余計で、地面の土が覗いていることさえある。しかし、いまはそこに新たな雪が点々と落ちていた。</p>

<p>いや、よく見ればその雪も、他所(よそ)から持ってきたものをばら撒いたようで馴染んでいない。</p>

<p>――まるで、つい先ほど、誰かが雪についた足跡を隠したように。</p>

<p>「だっ、誰かいるのかっ」</p>

<p>貼り付いた喉（のど）から誰何(すいか)の声を絞り出し、吉六は松明を掲げた。周囲を照らそうとしたが、炎の輝きは視界を塗り潰し、かえって影を濃くするばかりである。</p>

<p>そのとき、社の裏から何か落ちる音がした。</p>

<p>雪か。山の獣か、寝惚けた鳥か。</p>

<p>あるいは、人か。</p>

<p>恐怖と緊張のあまり、胃の腑が喉元まで迫り上がってくるような感覚に苛(さいな)まれながら、吉六は振り返り槍先を向ける。自身が生唾を飲む音が、耳に大きく響いた。</p>

<p>（人を呼ぼう）</p>

<p>吉六の忍耐はすぐさま尽きた。勘ちがいで城を騒がせることになったとしても、この恐怖と緊張が耐え難かった。</p>

<p>吉六は、音のした方を凝視したまま、松明を振って物見に合図を送ろうと腕を伸ばした。するとそのまま松明は、夜から伸びた手がするりと受け取っていった。</p>

<p>「え？」</p>

<p>疑問の声は、雪に転がり落ちることもない。喉元に鋭い何かが滑り込む感覚を覚えながら、吉六の意識は唐突に絶たれた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>「すまぬが、これも務めゆえな」</p>

<p>力の抜けた城番の身を縛り上げ、社の軒下に押し込みながら、安藤兵衛(あんどうひょうえ)はつぶやいた。</p>

<p>殺しはしていない。薬で眠らせただけである。</p>

<p>血を見るのは苦手だった。できれば無駄な争いもなく、斬り合いもなく事が済めば、それに越したことはない。だが、今回の務めはそうもいかないだろうとも予感していた。</p>

<p>兵衛は、伊達家に仕える忍びである。正確には、かつてそうだった。もともとは&quot;八宗兼学（はっしゅうけんがく）の山&quot;として知られる出羽三山の修験者(しゅげんじゃ)であり、山岳修行のみならず、祝詞（のりと）や仏典をはじめとして神道、仏教、道教、陰陽道までも修めた男である。経典を&quot;喰らう&quot;と言われるほどの厳しい修行のうちに、険しい山々を自在に駆け巡る行法(ぎょうほう)と体術を体得。それを見込まれて、伊達家に招かれた身であった。</p>

<p>獣道(けものみち)や岩場、木の幹、崖、川のようすを瞬間的に把握し、山野を素早く走り抜け、ときに千尋(せんじん)の谷さえ心を乱さず飛び渡ることで心身を鍛え上げる。この行法を、兵衛は「雲心歩法(うんしんほほう)」と名付けた。一見不安定に見えながらも、山肌を雲がすり抜けるが如き、軽やかな身体の運びを喩(たと)えたものである。そしてその術は、崖を防塁に、岩場を防柵に、木の幹を櫓(やぐら)に見立てれば、そのまま敵陣への潜入術となった。</p>

<p>さらに、兵衛は修験者として奥州各地の霊場を渡り歩き、集落に自然に溶け込む術も心得ていた。修験者としての修行は、図らずも兵衛を、敵地潜入の達人としていたのである。</p>

<p>伊達家は、新たな忍び組を組織するなかで、兵衛の評判を聞きつけたらしい。わざわざ家中に招き、その術を忍びたちに伝授させた。その意味では、伊達の忍び組は兵衛の弟子といって差し支えない。</p>

<p>その兵衛も、すでに齢(よわい)50を過ぎた。肉体の限界を感じ、伊達家を辞して再び出羽の霊場に戻ったのが3年前のことである。そんな彼が、難攻不落を謳われる向羽黒山城に潜ることになったのは、かつての主、伊達の若き当主である政宗に命じられたからだった。</p>

<p>『あの城に忍び込んでもらうぞ。得意だろう、兵衛』</p>

<p>虜(とりこ)にした男を軒下の束柱に結びつける兵衛の脳裏に、過日、そう命じられた記憶が蘇った。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>虎を思わせるぎょろりとした隻眼(せきがん)に剣呑(けんのん)な色を載せ、平伏する兵衛を見下ろすのは、伊達藤次郎(とうじろう)政宗。齢18で家督を継いで以来、奥州に覇を唱えんとする昇り龍である。一時は、北は胆沢(いさわ)から南は白河までを支配下に収め、正に北の雄といっても過言ではなかった。</p>

<p>しかし、彼が24となった天正18年（1590）、その覇業は足踏みを余儀なくされている。</p>

<p>「猿に使われる小才子(こざいし)が、余計なことをしてくれたものよ」</p>

<p>猿、そして小才子。恨みがましく政宗が揶揄（やゆ）したのは、天下人である関白・豊臣秀吉と、その臣下の蒲生氏郷である。</p>

<p>豊臣政権の小田原征伐につづく奥州仕置により、伊達家は私戦を禁じた惣無事令（そうぶじれい)違反を問われ、会津をはじめ多くの領地を失った。そのうえ、召し上げられた会津以下の所領は、そっくり蒲生氏郷に与えられている。</p>

<p>氏郷は、あの織田信長の寵愛を受けた才子として知られ、豊臣政権でも重用される俊英である。このたびも、仕置に不平を抱く奥州諸大名の目付役として、会津をまかされたのだった。</p>

<p>そういう経緯があったから、政宗と氏郷は、伊達の旧領を巡って事あるごとに対立した。すでに士分でない兵衛でさえ、反目するふたりの噂を耳にするほどである。そして、両者による小競り合いがつづく最中の冬10月に起きたのが、北の旧領である大崎(おおさき)葛西(かさい)での大一揆だった。新たな領主である木村吉清(よしきよ)・清久(きよひさ)親子の悪政に憤った領民たちによる、旧主の大崎氏と葛西氏を領主にもどすことを願っての叛乱であった。</p>

<p>それを陰で糸を引いたのは、もちろん政宗であった。</p>

<p>「そもそもは小才子の政(まつりごと)が拙（つたな）いゆえ、民がもとにもどしてほしいと願ったのだ。それをあやつめが、わしの不手際に仕立て上げようとしておる」</p>

<p>政宗は、大崎と葛西の領民の願いを聞き、表向きは一揆鎮圧に乗り出しながらも積極的には攻めず、むしろ穏便に事を収めようと、一揆方と交渉をはじめたという。</p>

<p>だが、そのやり取りを、叛逆の扇動である、と氏郷に密告する者が現れた。</p>

<p>「曽根四郎助(そねしろうすけ)、お主とは旧知であったな。奴が一揆方とわしが交わした書状を持って、あの小才子に告げ口したのよ」</p>

<p>四郎助は政宗の祐筆（ゆうひつ）であり、兵衛にとっては古くからの畏友（いゆう）であった。兵衛が伊達家に仕えたのも、四郎助の口添えがあったからである。それが、いまは裏切り者として主家に仇なす者となった。</p>

<p>「小才子めは、曽根と書状を以て猿に訴え、わしを追い落とすつもりだ。それは何としても阻まねばならん」</p>

<p>つまりは、政宗の策動の証拠と証人を、氏郷のもとから奪い取れ、ということだった。でなくば、伊達家が秀吉に取り潰されてしまってもおかしくはない。</p>

<p>「この老いぼれには、務めが重すぎまする。ほかに若く優れた者がおりましょう」</p>

<p>そこではじめて、兵衛は政宗に言葉を返した。</p>

<p>旧友絡みとはいえ、何故それほど重要な役を、一線を退いた自分にまかせるのか。疑問に答える代わりに、政宗が示したのは大きな瓶(かめ)だった。味噌の匂いがするそのなかに埋められていたのは、兵衛が術を伝えた弟子のひとりであった。四肢を切断され、味噌瓶に詰められながら、政宗のところに届けられたときには、まだ息があったという。</p>

<p>「せめてもの情けよ。わしが息の根を止めてやった」</p>

<p>その凄惨なさまを前に、仇を取れ、と政宗は言わなかった。弟子の亡骸(なきがら)を黙ったまま見つめる兵衛を、見下ろすばかりである。</p>

<p>修験者である兵衛が、目の前の亡骸に心を乱すことはなかった。だが、それでも、思うことはある。</p>

<p>「&hellip;&hellip;猶予は、いかほどごさいましょうか」</p>

<p>乾いた声で、兵衛が問うた。</p>

<p>「月の内、といったところか」</p>

<p>氏郷は、伊達の叛意の証拠を固めるために、自領で最も安全な場所、音に聞こえた向羽黒山城に四郎助を匿（かくま）っているという。より詳しい証言をまとめ、いずれ証人と証拠を上方に送るにちがいなかった。</p>

<p>このとき、霜月の20日。早ければ師走(しわす)にも、証人は秀吉の政庁である聚楽第(じゅらくだい)に送られるであろう。それより前に、伊達の旧領内で対処しなければならなかった。</p>

<p>向羽黒山城は堅牢なれど、一時は伊達のものとなり、政宗自身が詰め城として手を加え、城下には息の掛かった者も残っている。もちろん、氏郷も手を入れているだろうが、それにも限界があろう。むしろ、堅牢を誇るからこそ、城兵の油断も誘えるというものである。</p>

<p>「頼んだぞ。兵衛」</p>

<p>「御意」</p>

<p>兵衛に否やはなかった。ただ、四郎助の生真面目な面影がちらついた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>兵衛は城を見上げ、物見櫓の位置を確かめてから松明の灯りを消した。すでに夜に慣れた目に、炎の残像が明滅する。そこに城の絵図を重ね、兵衛はこれから向かう先、山頂の一の曲輪にある実城(みじよう)までの道筋を描いた。</p>

<p>道中の城番は、あらかじめ策を以て間引いてある。この弁天曲輪の城番の相方が女のもとへ走ったのも、兵衛が城下の伊達の旧民に裏で手をまわした結果だった。『孫子』の「用間（ようかん）篇」にいう因間（いんかん）、民をそれと自覚なく間諜とする術である。</p>

<p>「これが最後の務めだ」</p>

<p>いちいち声を出すのは、兵衛の癖だった。そうして、我が身の備えを確かめる。</p>

<p>ゆとりの少ない鈍色(にびいろ)の装束に、黒革の脛巾(はばき)。腰に括(くく)り付けているのは、鉤縄(かぎなわ)と小さな道具箱。箱のなかに詰められているのは薬針(くすりばり)――先ほど城番を眠らせた代物である。後ろ腰に差した山刀(やまがたな)の留め革を確かめると、首に巻いた襟巻（えりま）きを引き上げて鼻から下を隠す。</p>

<p>「よし。行くか」</p>

<p>言うと同時に、兵衛は雪を蹴って走り出した。</p>

<p>行く手には城道を囲う防柵、だが兵衛は足を緩めずに駆け寄ると、勢いのまま柵に足を掛けて跳ねた。するりと飛び上がった兵衛の身体は、柵を横につなぐ渡し木の上に収まる。そして、そこで止まることなく渡し木を足場に疾走した。</p>

<p>その速さは、平らかな地面を走るのと然（さ）して変わらない。そのうえ、兵衛は足もとを確かめてさえいない。足には足の感ずるものがあり、その赴くにまかせるのみである。柵の尖端を避けて半身のまま、躊躇（ためら）いなく二の曲輪へと音もなくひた走る。</p>

<p>防柵を走り抜けながら、兵衛は鉤縄を腕に巻き、わずかな腕の振りのみで鉤を投げた。夜空に一直線に伸びたそれが屋形の宇立(うだつ)に掛かるや否や、兵衛の身体が宙に舞う。踏み切りと、鉤縄を引いた反動を使った跳躍は、まるで夜に翔ぶ鷺(さぎ)のように軽い。</p>

<p>音もなく屋形の屋根に着地した兵衛の足は、さらに加速した。密集した屋根の甍(いらか)も、彼にとっては開けた野と変わらない。立ち並ぶ屋形の上を飛び渡りながら、積もる雪さえ落とすことなく、曲輪のなかを翔んだ。</p>

<p>目指すは、山の斜面に深く抜かれた空堀(からぼり)、一の曲輪まで伸びた竪堀（たてぼり）である。本来は攻め寄せた敵軍の動きを制限するものだが、潜入者にとっては身を隠しやすく、城兵にとっても死角になりやすい。一気に二の曲輪を抜け、兵衛は屋根から防柵へ、そして竪堀に向かって跳んだ。</p>

<p>「っ!?」</p>

<p>跳躍した、瞬間だった。耳に届いたのは、鋭いものが空を裂く高い音。兵衛は反射的に身体を捻（ひね）り、音を振り返った。</p>

<p>飛び来(きた)るは、闇に紛れた黒色の刃。苦無(くない)だと認識するや、腰の山刀をわずかに引き出してそれを受ける。重い衝撃に体勢を崩しながらも、兵衛は空堀の深い積雪のなかに飛び込んだ。</p>

<p>埋まった雪から身体を起こし、兵衛は周囲を探った。竪堀は深く、広い。傾斜は上に行くほど急となるが、忍びが立ち回るには十分だった。幸い、いまだ追手は侵入者発見の声を上げておらず、まだ猶予はある。兵衛はすぐさま堀から出ようとしたが、意外なことに、追手もまた空堀に飛び降りて来ていた。</p>

<p>「奥州の忍びは、雪のあしらいが上手いんやな」</p>

<p>低い声で妙な称賛を口にする追手に、兵衛は訝（いぶか）るように目を細めた。一見して猟師に見えるような、毛皮と藁蓑(わらみの)をかぶった出で立ち。小手も脛巾も毛皮に縄巻きで固めているが、身のこなしが決して山の者のそれではなかった。</p>

<p>「伊達の忍びやな」</p>

<p>確認とともに、男は腰を落として身構える。声を上げて城兵を呼ぶこともなく、ここで手を交えるつもりのようだった。</p>

<p>「わしは甲賀衆、日野の平子九郎(ひらこくろう)という。奥州に来て以来、手柄を立てる機会も無(の)ぅてな。お前さんの首をもらいたいとこや」</p>

<p>甲賀衆と言えば、天下に名を知られた忍び衆である。近江甲賀に根を張り、同地の旧主・六角氏に仕えた者どもだった。蒲生家はもともと六角氏の重臣であり、甲賀にほど近い日野の領主だったことを思えば、子飼いの忍びが居て当然ではあった。</p>

<p>それにしても、わざわざ名乗りを上げて己の事情まで話すとは、何とも忍びらしくない男である。それが、兵衛の胸にわずかな共感を呼んだ。</p>

<p>「で、その首の持ち主は何者や」</p>

<p>「出羽の兵衛。黒脛巾(くろはばき)の兵衛と申す」</p>

<p>それは、雲心歩法のために作った黒革の脛巾に由来する呼び名である。名乗りながら、兵衛は腰の山刀の留め革を外し、柄に左手を掛ける。両者の間は、およそ八歩。忍び同士の立ち会いなど、滅多にあるものではない。それを強（し）いて求めるとは、余程の無聊(ぶりよう)をかこっていたのか、あるいは血に取り憑(つ)かれているか。</p>

<p>いずれにしろ、避け得ない。兵衛は覚悟を決め、呼気を整える。襟巻き越しに漏れた息が、わずかに白み、夜に流れた。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>先に動いたのは平子だった。</p>

<p>まったく予備動作もなく腕が閃（ひらめ）いたかと思えば、すでに兵衛の眼前に飛苦無（とびくない）がある。それを兵衛が一寸の差で避けたときには、平子は一足に跳んでいた。</p>

<p>「疾(し)っ！」</p>

<p>無手(むて)。いや、鉤爪(かぎづめ)。両の革小手のなかに仕込んでいたそれが、闇を裂いて兵衛の顔に肉迫する。身を引くのが一瞬でも遅れれば、顔の皮を剥がれたであろう一撃を後ろに倒れるように避け、兵衛は足で雪を蹴り上げた。</p>

<p>視界が白く染まるなか、猛然と鉤爪が突き込まれる。が、それを兵衛は鉤縄の尖端で絡め取り、止めた。</p>

<p>「小癪(こしやく)！」</p>

<p>平子は抑えた怒声を上げ、力まかせに縄を引く。瞬間、兵衛の身体が高く宙を舞った。縄を足に掛け、平子が引く力を利用して飛び上がったのである。宙で身体を返しながら、兵衛はこちらを見上げる平子の顔を見た。</p>

<p>（ひと筋縄ではいかんか）</p>

<p>兵衛は空中で素早く縄を手繰(たぐ)り、跳躍の軌道を変えると鋭角に切り込んでいく。瞬転のうちに腰の山刀を抜き放つと、そのまますり抜けるように平子と切り結んだ。</p>

<p>盛大に舞い上がる粉雪のなか、交錯した刃と爪から火花が散った。その残光を振り払うように両者は同時に身体を旋回、そこから伸びた高い蹴りが交差し、闇のなかに乾いた音を発した。互いに弾けるように距離を取り、兵衛は外された鉤縄を一気に引きもどす。</p>

<p>「変わった術やな。面白い」</p>

<p>言って、平子はにんまりと笑った。そのこめかみには、うっすらとした紅い線が浮かんでいる。兵衛の山刀が掠（かす）めた痕(あと)である。一方の兵衛はと見れば、左の肩口が切り裂かれ、覗いた肌には3本の裂傷が開いていた。</p>

<p>「知らせずにいてよいのか」</p>

<p>痛みに乱れる呼吸を整えながら、兵衛は尋ねた。</p>

<p>「そうしてもよいが、久々の手柄首やしな」</p>

<p>「蒲生の殿様は、忍びを使わぬのか」</p>

<p>平子の言動を鑑（かんが）みれば、そういうことになる。</p>

<p>「いや。だが、裏表のない方や。必要ならば使う、不要なら使わん」</p>

<p>返した平子の声には、どこか哀愁がある。</p>

<p>「他所(よそ)に流れぬのか」</p>

<p>「まさか。わしらは日野以来、好きで殿について来とるんやで」</p>

<p>だからこそ、誉（ほま）れを見せたい。そんな言外の思いを滲ませつつも、平子の目にある殺意は変わらない。</p>

<p>「それゆえ伊達の小僧には感謝しとる。我らの出番ができたからなっ！」</p>

<p>　獰猛（どうもう）な叫びとともに、平子が動いた。腕のひと振りで三つの苦無を投げ放ちながら、自らも雪に潜るほど低い姿勢で間合いを詰めに掛かる。応じた兵衛も苦無を掻い潜るように体を捌（さば）き、先んじて平子の間合いに踏み込む。</p>

<p>いや、踏み込もうとした。一瞬の違和感が足に這い上り、兵衛は中途半端に動きを止めざるを得ない。自然、彼の意識は足もとに向いた。</p>

<p>（撒菱〈まきびし〉&hellip;&hellip;！）</p>

<p>雪に埋まったそれが、平子によって撒かれたのは疑いようもない。そして、その罠にまんまと掛かった己を兵衛は自覚した。</p>

<p>遅れて投げ放たれていたであろう苦無が、眼前に迫る。平子から一瞬だけ逸れた意識の間隙、それを衝いた刃が迫るさまが、兵衛にはやけにゆっくりと感じられた。</p>

<p>山刀を振るい、苦無を叩き落として視線を前にもどす。そこに、平子の姿はない。苦無、撒菱、そしてふたたび苦無。三重の目眩（めくら）ましだと思う間もなかった。</p>

<p>ほとんど無意識に、兵衛は身体を右に投げ出した。間髪を入れず、その首があったところを鉤爪が薙（な）ぐ。死角から確信とともに繰り出した一撃を躱（かわ）され、平子が驚愕に目を見開くのさえ、兵衛には見えていた。</p>

<p>「何だと!?」</p>

<p>咄嗟（とっさ）だった。倒れながら鉤縄を放ってその爪を捉え、兵衛は己と諸共に平子を引き倒す。散々にかき乱された雪が舞い散るなか、先に身体を起こしたのは平子だった。倒れたままの兵衛を踏みつけるように押さえ、鉤爪を振り上げた。</p>

<p>「獲ったり！」</p>

<p>確信に満ちた声を上げた平子だったが、不意にその動きが止まった。兵衛の身体を踏みつけた足の甲に、細長い何かが突き立てられている。それが針だと理解する間もなく、ほとんど一瞬で彼の意識は闇のなかに落ちていた。</p>

<p>力を失った平子の身体を転がし、雪の下から這い出すように兵衛は身体を起こした。倒れ込んだ拍子に刺さった撒菱を肩から抜き、大きく息をつく。</p>

<p>「すまんが、まだ死にたくはないでな」</p>

<p>兵衛は言って、平子の足から薬針を抜くと腰の道具箱にもどした。含ませたのは、出羽山中の月の輪熊さえ一瞬で眠らせるほどの、強力な眠り薬である。先に城番を眠らせたのもこの針で、人に使えば半日は意識を取り戻すことはないという代物だった。</p>

<p>針と薬もまた、兵衛が修験者として山や霊場を渡るうちに習い覚えたものである。山に籠もるうえで傷や病、さらに野の獣への備えは欠かせず、修験者の多くは必然、山で採れる本草(ほんぞう)に詳しい。兵衛は独自の工夫を重ね、薬や毒を扱う術を得ていた。</p>

<p>「しかし、甲賀衆か」</p>

<p>肩口の傷に金瘡薬(きんそうやく)を塗り、端切れを固く結んで止血を施すと、兵衛はようやくその名の重さを噛み締めた。平子の言葉が真(まこと)ならば、この向羽黒山城には、手柄に飢えた甲賀忍びがまだ潜んでいることになる。</p>

<p>すでに騒ぎを起こしたあとである。忍びでなくとも、侵入者に気づく者がいるとも限らなかった。兵衛は山刀を鞘に収め、鉤縄を巻き取ると、平子の身体に雪を掛けて隠す。そして、竪堀を翔ぶようにして駆け抜けていった。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>「おい、城に潜り込んだ奴がおるらしいぞ」</p>

<p>「なんじゃと。伊達の者か」</p>

<p>「分からん。いまは甲賀衆が探しておるそうじゃ」</p>

<p>一の曲輪にまで登った兵衛が身を潜めたのは、物見櫓の屋根の上である。屋根板一枚隔てて城兵が騒いでいるのを聞きながら、伏せたまま口もとを覆う襟巻きを下げ、細く長く息をついた。</p>

<p>空堀での立ち合いからここまでに、すでにふたりの城番と甲賀忍びをひとり、片付けていた。無論、兵衛とて無傷ではない。顔と腹とに新たな傷を増やしている。その止血を終えて、彼は眼下に広がる縄張りを眺めた。</p>

<p>――つくづく、覇道の城ではない。</p>

<p>この城に潜り込んだときから、兵衛はそう感じていた。かつての南奥州の覇者、蘆名盛氏(あしなもりうじ)が詰め城として築いた奥州一の堅城。そう言われながら、向羽黒山の城は忍びの付け入る隙が多い。その最たるものが、賑（にぎ）やかにすぎる城下だった。</p>

<p>兵衛の主である政宗は、会津を獲ったとき、この城を改修したと聞く。が、図面を見る限り、石垣や虎口(こぐち)を新たに設け、防備をより固めることに終始した。あるいは政宗は、弱みになる城下町を、普請後に移転させようとしていたのかもしれない。</p>

<p>しかし、現在の城下を見れば、氏郷の施政はむしろ町を富ませることに重きを置いている。潜入の仕込みのため、数日を城下で過ごした兵衛でさえ、それを実感していた。</p>

<p>伊達の旧民たちによれば、氏郷は旧領の近江から商人や職人を呼び寄せて、茶道具をはじめさまざまな物産を振興した。氏郷自身が、天下人の茶人と謳われる千利休の高弟であり、その美意識に基づいた茶器の数々は、遠く上方でも売れるものとなっているという。</p>

<p>何より驚くのは、利得第一の商人の類いですら氏郷を慕い、郷里での商売をおいて奥州会津まで来ていることである。</p>

<p>「裏表のない方、か」</p>

<p>主をそう評した、平子の言葉が浮かんだ。</p>

<p>もっとも、そんな感慨と目の前の務めは別である。兵衛は凍えた夜の空気を吸い込むと、襟巻きに口もとを埋めて立ち上がり、一の曲輪の最奥にある実城を振り返った。そこに天守にあたる楼閣はなく、簡素な二層建ての屋形があるのみである。</p>

<p>屋形の瓦屋根に向けて鉤縄を放ち、兵衛は跳ぶ。そのまま一層目の屋根に軟らかく着地すると、明かり取りの虫籠窓から、中を窺った。広く仄暗（ほのぐら）い板間に、背を向けた人影がある。侵入者ありの報に浮き足立ったようすもなく、蝋燭（ろうそく）ひとつを置いて端座していた。</p>

<p>（四郎助、か）</p>

<p>音もなく窓を外すと、兵衛はするりと室内に潜り込む。かすかな揺れさえなく板間に降りたとき、彼は目の前の男が四郎助とは別人であることに気づいた。直垂(ひたたれ)をまとい、脇に差料(さしりょう)の刀を置いた姿は、どこかすっきりと端正なものである。</p>

<p>と、刀を取りながら男は立ち上がり、振り返って兵衛を見た。その顔立ちは30半ばながら、どこか若者の爽やかさを残している。眉も髭も形よく整えられ、まっすぐな眼差しを彩っていた。</p>

<p>「余が、蒲生少将(しょうしょう)氏郷である」</p>

<p>張りのある涼やかな名乗りに、兵衛は内心で驚く。氏郷は葛西大崎の一揆鎮圧と、政宗の動きを抑えるために、前線である大崎名生(みょう)城にいるはずである。それがなぜ、50里（約200キロメートル）以上も離れた会津にいるのか。疑問が首をもたげたが、兵衛はそれに心を波立たせることなく、山刀に手を掛けて氏郷の出方を窺った。</p>

<p>「伊達の者と見受けるが、曽根四郎助に用か」</p>

<p>声や佇（たたず）まいそのままの、まっすぐな物言い。明らかな曲者(くせもの)である兵衛に、わざわざ声を掛けたのを見れば、なるほど、裏表のない人物だと納得せざるを得ない。</p>

<p>逆に言えば、そこまで分かっていて、兵衛に声を掛けた理由が不明だった。</p>

<p>「少将様にはご無礼を仕りまする。確かに、手前は四郎助にも用がございます」</p>

<p>「取り戻すか、それとも殺すのか」</p>

<p>「少将様次第、と申し上げるほかございませぬ」</p>

<p>「余は関白殿下に事を知らせるのみ。それをどう判じられるかは、殿下次第だ」</p>

<p>何とも潔い返答だった。政宗の非を述べ処罰を望むのではなく、あくまで裁定を秀吉に委（ゆだ）ねるということである。</p>

<p>「しかしながら、願わくは伊達殿に責を取ってもらいたい。でなくば、民の犠牲が浮かばれぬ」</p>

<p>だが、つぎに氏郷の口から出た声音は、先ほどの潔さに反し、思いの外に苛烈であった。</p>

<p>「そなたら伊達の者が、この一揆をどう捉えておるかは知らぬ。だが、非道を為（な）したは伊達殿よ。それは必ず、殿下に申し上げねばならぬ」</p>

<p>そのための証が四郎助であり、一揆勢とやり取りした政宗の書状である。秀麗な顔を怒りで紅潮させて言い募る氏郷に、兵衛は困惑する。</p>

<p>「葛西大崎の民草は、木村殿らの政拙きを嫌い、一揆に及んだと」</p>

<p>「確かに、木村親子のやり方はまずかった。これも我が目が行き届かなかったゆえ。詮無きことなれど、そこは幾重にも詫びたかった」</p>

<p>一揆の起こりに話が及んだ途端、氏郷の顔が悔悟に固くなる。少なくとも、兵衛にはそう見えた。</p>

<p>「だが、そこに付け込んだのは伊達殿よ。木村の不手際をもとに民の不安を煽り、旧主である大崎義隆殿がために一揆を起こせ、とな」</p>

<p>「それは」</p>

<p>「大崎殿の旧領安堵の旨、すでに余と浅野弾正(だんじょう)殿が関白殿下に願い出ておる」</p>

<p>兵衛の反駁(はんばく)の先を奪い、氏郷はそう告げた。浅野弾正長吉(ながよし)は秀吉の信任篤い側近であり、氏郷とともに奥州仕置を指揮する能吏（のうり）でもある。</p>

<p>「大崎殿ご自身も、上洛して申し開きをなされる。まもなく、民の願いは叶うのだ」</p>

<p>「&hellip;&hellip;では、これは我が主の勇み足である、と」</p>

<p>「勇み足で済ませてよいと思うかっ、無辜(むこ)の民を戦(いくさ)に引き込んだのだぞ！」</p>

<p>あまりにもまっすぐな義憤。その怒声に、兵衛は思わず背筋を張った。同時に、分かったことがある。何故、政宗があれほど氏郷を厭（いと）い、&quot;小才子&quot;などと子どもじみた陰口を叩いたのか。</p>

<p>要するに、氏郷が立派すぎるのである。正しいことを正しいと臆さず口にし、心根から己を律して、一切の私怨を挟まず公正に振る舞う。そのうえで、人としての道に照らして非道に憤る。素養の良さ、真っ当さがそのまま顕れているような涼やかな人格である。</p>

<p>一方の政宗は、幼いころから姻戚間の争い、骨肉の争いさえ味わってきた。純粋なままでは生き残れず、虚勢を張り、自ら手を汚しもした。そうやって形振(なりふ)り構わず己の意志を通してきたからこそ、奥州一の大名に上り詰めたのである。</p>

<p>そんな政宗にとって、氏郷の出来の良さは、鼻について仕方がないのだろう。それが、自分が身を削って手に入れた領地を、横から掠め取った相手なら猶更（なおさら）である。</p>

<p>しかし、だからといって、無関係な民の命をすり潰していい理由にはならなかった。</p>

<p>「次第は伝えた。あとは、そなたにまかせよう」</p>

<p>そう言った氏郷の澄んだ眼差しに、兵衛は身動きの取れない己を自覚する。</p>

<p>これが生粋の忍びであれば、悩むことなどなかっただろう。主命は主命、それを達するためにあらゆる手を尽くすのが忍びである。だが、兵衛はちがった。</p>

<p>――やはり、忍びにはなりきれぬ。</p>

<p>すでに、実城の周りを無数の殺気が取り囲んでいた。それが甲賀衆のものであることは疑いようもない。そして、目の前の氏郷すら、驚くほどに隙が無かった。進退窮（きわ）まったいま、兵衛にできるのは、得物（えもの）を捨てて降ることのみだった。</p>

<p>だが、それでもまだ、心に引っかかるものがある。</p>

<p>「&hellip;&hellip;命と申されるなら何故、伊達の忍びに、あのような無体な仕打ちをなされましたか」</p>

<p>弟子の悲惨な骸（むくろ）。それがよぎった。</p>

<p>「伊達には、影働きの者を五体満足のまま、生かして帰してはならぬ法度(はっと)でもあるのか」</p>

<p>返ってきた答えの意味に、兵衛は一瞬だけ気づけなかった。つまり、氏郷は伊達の忍びを捕らえはしても、手を下さずに放免した、ということである。見れば、氏郷は怪訝(けげん)な顔をしてこちらを見返していた。本当に心当たりがないことは、その表情からも明らかだった。</p>

<p>（そうか。やはり、そうだったか）</p>

<p>先ほどから、あの凄惨な亡骸のようすと、目の前の男の爽やかさがどうしても結びつかなかった。むしろ、己の野心のために民を煽動して戦を起こさせ、その命を使い潰すような酷薄さのほうが、余程近かった。</p>

<p>無事に戻った己の忍びを前に、氏郷に情けを掛けられておめおめ生きて帰ったとさえ、政宗は憤ったにちがいなかった。そして、苛立ちのままに忍びを殺し、亡骸をなぶってまで兵衛を煽ろうとしたのだ。</p>

<p>かつて、兵衛が伊達に仕え、己の術を伝えてもいいと思ったのは、政宗にどこかあっけらかんとした明るさを感じたからである。独善的で露骨な野心でさえ、しょうがないなと思わせる、悪童のような明るさ。いまの政宗に、それを感じることはできなかった。</p>

<p>自身が苦労して切り取った領地を理不尽に奪われた屈辱は、兵衛も気の毒とは思う。だが、その屈辱を晴らそうとするあまりに、政宗は彼自身の大切な部分を忘れている。そう思えてならなかった。</p>

<p>すでに事を起こしてしまった以上、政宗は己の非道の罰を受けるべきであろう。だが、その罰が、政宗の性根をさらに歪（ゆが）めてしまうのではないか。その歪みのまま、奥州に暴威を振りまくのではないか。そうなれば、この一揆で犠牲になった民も、忍びも、何より政宗自身が浮かばれぬ。</p>

<p>道を学ぶ修験者として、兵衛はむしろそれが惜しかった。</p>

<p>（ならば、わしがするべきことは）</p>

<p>兵衛は、ようやく山刀の柄から手を放すと、その場に跪(ひざまず)いた。腰の鞘を外し、鉤縄も道具箱も置いて、害意のないことを氏郷に示す。</p>

<p>「影働きの身なれど、少将様のお志に感服仕(つかまつ)りました。この命は、少将様にお預けしたく存じまするが、ひとつだけ願いがございます」</p>

<p>「許す。申してみよ」</p>

<p>「その前に、四郎助に会わせていただきたく」</p>

<p>言って兵衛は、氏郷の顔を見据えた。氏郷もまた、兵衛の真意を量るように目を細めて見返す。そして頷（うなず）くと、ふたつ手を叩いた。上階から物音がしたかと思えば、梯子（はしご）から姿を現したのは、曽根四郎助であった。その懐かしい姿に、思わず兵衛は安堵の息を漏らす。</p>

<p>「兵衛、すまぬ」</p>

<p>先に口を開いたのは、四郎助だった。</p>

<p>「詫（わ）びはいい。それよりも、例の証文はあるか」</p>

<p>性急に返す兵衛に戸惑いながらも、四郎助は懐（ふところ）から一通の書状を取り出した。受け取った兵衛はそれを開くと、末に書かれた政宗の花押(かおう)を確かめる。己が諱(いみな)と、羽を休める鶺鴒(せきれい)を図案化した、流麗なものである。</p>

<p>兵衛はそれをじっと見つめ、やがて氏郷を振り返った。</p>

<p>「少将様。ひとつ、我が主に届けていただきたきものがございます」</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>その後、氏郷からの報告と証人を受け取った秀吉は、すぐさま石田三成を奥州に派遣し、事態を収束させることにした。明くる天正19年（1591）正月に奥州に入った三成は、早速調査に乗り出すとともに、政宗に上洛命令を伝えると、氏郷を伴って帰京。遅れて如月(きさらぎ)に政宗も上京し、秀吉の前で申し開きを行った。</p>

<p>争点になったのは、一揆勢を煽動したという書状が果たして本物かどうか、という点であった。これに対して政宗は、</p>

<p>「わたくしは平生、書状の真偽を疑われぬよう、花押の鶺鴒の目に針で穴を開けてございます。なにとぞ、その花押をお確かめいただきたい」</p>

<p>そう要求した。確かめてみればなるほど、件の書状に穴はなく、秀吉は政宗の言い分を認め、改めて一揆の平定を命じたという。</p>

<p>「兵衛に借りができたな」</p>

<p>そう独り言(ご)ちて、聚楽第から退出する政宗の懐には、鶺鴒の絵に包まれた薬針があった。無論、兵衛から送られてきたものである。</p>

<p>件の書状は、確かに政宗が一揆勢に送ったものだったし、鶺鴒の目に穴も開けていたのである。それが、秀吉のもとに届いたときには、穴が塞がっていた。祐筆として政宗の筆跡をよく知る四郎助に新たな書状を書かせたものか、それとも、経典の扱いに長（た）けた兵衛が穴を塞いだか、真相は分からない。ただ、それを仕込んだのが黒脛巾の兵衛であることは疑いようもなかった。</p>

<p>「流れの修験者がひとり、姿を消しただけのことよ。追わずにおいてやる」</p>

<p>政宗は5月にも本拠の米沢に帰還すると、すぐさま一揆鎮圧に動いた。その攻め手が苛烈なものになったのは、己の策謀が実らなかった苛立ちがあったろうことは、想像に難くない。一揆勢も激しく抵抗し、葛西大崎の大一揆が収束するのは、同年7月のことになる。</p>

<p>秀吉は表面上こそ寛大に処したが、その実は政宗を許してはいなかったらしい。事の始末として、伊達の本貫地を含む6郡44万石を取り上げて氏郷に与えると、代わりに一揆で荒廃した葛西大崎30万石を政宗に押し付けた。伊達家は、大幅な所領減と転封に伴う混乱で、大きく力を失うこととなった。</p>

<p>一方の氏郷は、奥州91万石を治める大大名となった。彼は蘆名家以来の会津の中心であった黒川城を、天守を有する絢爛（けんらん）な城郭へと改築。城の名を「鶴ヶ城（つるがじょう）」、地名を「若松」と改めて、奥州第一の町へと育てたのだった。</p>

<p>氏郷は、向羽黒山城を変わらずに詰め城として使いつづけるとともに、城下の発展に力を注いだ。なかでも窯物(かまもの)は、鶴ヶ城の屋根瓦焼きをきっかけに大いに発展。後世に、会津本郷焼(ほんごうやき)の名で伝わっていくことになる。</p>

<p>氏郷の治世のもとで、会津は穏やかな時を過ごし、向羽黒山城が戦場となることはなかった。唯一、城を騒がせた黒脛巾の忍びがいたというが、その行方は杳(よう)として知れない。</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【「向羽黒山城特設サイト」はこちら!】<br />
https://www.mukaihaguro-yabou.jp/</p>

<p>&nbsp;</p>

<p>【天津佳之（あまつ・よしゆき）】</p>

<p>昭和54年（1979）、静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。</p>

<p>書店員、編集プロダクションのライターを経て、業界新聞記者。令和2年（2020）、足利尊氏と楠木正成を、理想を同じくする同門として捉えた『利生の人 尊氏と正成』で日経小説大賞を受賞して作家デビュー（文庫化にあたり、『尊氏と正成 ともに見た夢』と改題）。著書に『和らぎの国 小説・推古天皇』『あるじなしとて』『菊の剣』がある。</p>
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						<pubDate>Wed, 06 Aug 2025 12:00:00 +0900</pubDate>
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